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『平家物語』桜梅中将維盛の出家。変わらぬ姿を今一度

こんにちは。


屋島から脱け出し、高野山へたどり着いた維盛。

顔見知りの滝口入道の先達で奥の院を巡り、


維盛、滝口入道に憧れてうっとりしつつ、夜を明かします。

明朝。

東禅院の智覚上人という聖をお呼びして、かねてよりの望み通り、出家へ。



屋島を抜けるときに同行したのは、与三兵衛重景と石童丸と、舎人の武里。


「維盛こそ人知れぬ思ひを身に添へながら、道狭う遁れ難き身なればいかにも成るといふとも、この比は世にある人こそ多けれ。
我いかにも成りなん後、急ぎ都へ上つて各が身をも助け、且つは妻子をも育み、且つは維盛が後世をも弔へかし」と宣へば、二人の者共涙に咽び臥して暫しはとかうの御返事にも及ばず。


与三兵衛重景と石童丸を呼んで、維盛は、
「僕はもう逃れられない運命なの。でも、お前達は結婚して、妻子を養って、僕の後世を弔ってね」と。

重景と石童丸はびいびい泣き伏しました。


そこの二人。泣き伏して下さい。


この重景。幼名を『松王』といいました。



生後50日の祝いの日。重景を抱いた父が維盛の父・重盛の前に出ると重盛は、
「この家は『小松』というから、お祝いに『松』をやろう」と付けてくれた名前なのです。

松王(重景)が2歳の時。

父・与三左衛門景康は重盛の供をしていた平治の乱の時、討死。

松王(重景)が5歳の時。母も他界。

身寄りがない松王(重景)を、重盛は「あれは我が命に替はりたる者の子なれば」と手元で育てます。



重盛の実子・維盛が9歳で元服した日の夜。

重盛は、同い年の松王(重景)も元服させます。

「私の名前の重盛のうち、『盛』は平家の字なので五代(維盛)に付ける。お前には『重』の字をやろう」と言い、松王は重景となりました。

そして、臨終の時。重景を呼び出して、重盛は告げます。


「あな無慙。汝は重盛を父が形見と思ひ、重盛は汝を景康が形見と思ひてこそ過ぐしつれ。
今度の除目に靱負尉に成して、父景康を呼びしやうに召さばやとこそ思し召しつるに、空しうなるこそ悲しけれ。相構へて少将殿の御心に違ひ参らすな」



「ああ残念だ。お前は私を父・景康の形見と思い、私はお前を景康の形見と思って生きてきた。
今回の除目で靱負尉(※ゆぎへのじょう。御所を警護する衛門府の役人)に就かせ、お前の父・景康を呼んでいたように呼びたいと思っていたのに、それができないのが悲しい。決して維盛の心に背くことはするなよ」


こう言われた重景ですから、誠心誠意、維盛に仕えていたのでしょう。

ところが肝心の維盛から「じゃ、ばいばい」と言われたに等しい重景は、

「僕の事を『殿を見限って逃げる者』と思っていたなんて。そのお心が残念で情けなくてっ」と告白。



世の情勢を見れば、栄えていくのは源氏ばかり。
このまま生きていたとしても・・・とは平家に連なる者ならば誰しも思うこと。


「君の神にも仏にも成らせ給ひなん後、楽しみ栄え候ふとも、千年の齢を経るべきか。
たとひ万年を保つとも、終には終り無かるべきかは。これに過ぎたる善知識何事か候ふべき」とて手づから髻切つて、泣く泣く滝口入道に剃らせける。


「殿が神にでも仏にでもおなりになった後に、我が身だけが栄えても、千年も生きることは出来ません。
たとえ万年を生きたとしても、いつか終わりの時は来ます。
今以上に出家に良い機会はあるでしょうか、いや、ありませんっ」と、


自ら髻を切り。


泣く泣く滝口入道に剃らせました。


石童丸もこれを見て本結際より髪を切る。
これも八つより付き参らせて重景にも劣らず不便にし給ひしかば、同じう滝口入道にぞ剃られける。


石童丸もこれを見て、本結の際から髪を切りました。
彼も八歳のときから仕え、重景にも劣らずかわいがられていたので、同じく時頼入道に剃ってもらいました。




さあ、お供の二人が髻をばっさり切って、滝口入道にじょりじょりしてもらうのを見て、維盛はいかに?

僕も一緒に!ですよねー!?


・・・ちょっと、あなた。


これらがかやうに先立ちて成るを見給ふにつけても、いとど心細うぞなられける。
「変はらぬ姿を今一度恋しき者共にも見もし見えて後、かくならば思ふ事あらじ。」と宣ひけるこそせめての事なれ。


・・・んんんん?

彼らがこのように先立って僧形になるのを見て、維盛はとても心細くなりました。
「今の姿をもう一度恋しい者たちに見てもらってからなら、思い残すことはないのだが」と言うのが精一杯でした。



こらー!!


滝口入道、他2名、心の中では総突っ込みだったことでしょう。


さてしもあるべき事ならねば

「流転三界中恩愛不能断棄恩入無為真実報恩者」

と三反唱へ給ひてつひに剃り下ろし給ひてけり。

三位中将と与三兵衛は同年にて今年は二十七歳なり。石童丸は十八にぞ成りける。


しかしそうしてばかりもいられないので

「流転三界中恩愛不能断棄恩入無為真実報恩者(三界の中に流転し、恩愛は断つを能わず、恩を棄てて無為に入るは、真実恩に報ゆる者なり)」

と三遍唱えると、ついに髪を剃り下ろしました。

維盛殿と重景は同い年で今年は二十七歳。石童丸は十八歳でした。




ぜーぜー。


参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)
※平家物語巻十『維盛出家』



いつも応援いただきありがとうございます。お待たせしました。やっと維盛くんの出家です。桜梅の中将と呼ばれていた事が嘘のような、ヘタレくんな維盛。従う人達も大変ですねー。でも、憎めない子です。さぁ、頭もスッキリしたところで、次はいよいよ熊野へ旅立ちます。ええ。ヘタレてますけど。
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丹波猿楽の面影。式内社狭宮神社の舞堂と玉乗りこまちゃん

こんにちは。


京都府南丹市日吉。


丹波猿楽の「梅若座」旧菩提寺。


梅若座一門は、丹波一帯に広がっていたため、お社に伝わる祭礼の舞等に猿楽の影響が残ります。

京都府南丹市から西に移動し、兵庫県へ。


兵庫県丹波市山南町和田の狭宮神社。

【由緒・祭神】

創立年代不詳。延喜式内社。
往古、和田村下河原に鎮座。

天正13年(1585)、社殿を再建。
江戸時代、柏原藩主織田平季、今の宮山に遷座し奉る。

元禄13年(1700)、白川神祇伯王より八幡宮を勧請し、相殿に祀り、狹宮八幡宮と称す。

薬草の里山南町和田に鎮座する古社で、既に平安時代には国から幣帛を頂く延喜式内社に列格し、古来より通称「さみやさん」で親しまれています。

主祭神に若沙那売命、相殿神に八幡大神を奉斎。

若沙那売命は稲(いね即ちいのちの根)を司っておられ、早乙女の様にお若くて清らかな少女神様で、八幡神と共に、健康長寿を始め五穀豊穣・厄除・交通安全・心願成就の守護神として広く崇敬されています。 (兵庫県神社庁HPより引用)


八幡宮のお約束、鳩ぽっぽー。


車は鳥居をくぐって、駐車場へ。ほんと?ほんと?っと何度も降りて確認。


確認しつつ、撮影。


階段。げー。


(クリックで拡大)


狭宮神社、拝殿と本殿遠景。


はい、何でしょう。


あら、上手♪


自然石のままの台座に乗った狛犬さん、私には珍しくて。


とても丁寧に彫られた狛犬さんです。


はいはい。


いやぁん。まんまるのお手々がたまりません。


後ろ髪も尻尾も、ぴょん、としたお耳も、かわいいなー。


やぶ蚊、襲う、私。うおおおお。


本殿。


なんかおる。


食うなー。

で。

境内には、


(クリックで拡大)ここは中井権次一統の作品ではないようです。

丹波猿楽の舞堂が再建されているようで。

どこ?


どっち。


本殿の向かい側にありました。

神様に奉納するので、この向きは納得。


縦三間×横四間。

能舞台の三間四方に比べると横に長く。「舞堂」、なるほど。

検索してみたら、ここの舞台での能の上演記録がありました。
地域に密着したお社と舞台って、いいなぁ。



以上、甘えん坊な狛犬さんのいる狭宮神社でした。


ちなみに、能舞台ってどんなものなのか、ご参考までに。


これは、京都府亀岡市の生身天満宮の能舞台。


能舞台は三間四方が基本。

右奥の小さな戸は「切戸」。地謡や後見が出入りします。




三間四方の舞壺と、橋掛かり。

狭宮神社の舞堂をもう一度見ると


左奥の切れ目が橋掛かり、右奥は階段の先の板の取り外しが出来、切戸になっているのがわかります。

あとは、鏡板に松があれば・・・。


こちらは彦根藩の正式な舞台。(舞壺の四隅の柱と柱の間が三間四方。)

どこの舞台でも、演能しているところを見たいなぁ。


狭宮神社
《住所》兵庫県丹波市山南町和田138

参考サイト
兵庫県神社庁HP
http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6308207.html


いつも応援いただきありがとうございます。狭宮神社は明るい境内で、とても気持ち良いお社でした。本殿周囲は、広い境内に比べてぎゅぎゅっと凝縮され、狭い 濃厚な空間です。玉乗りこまちゃんに会えてとっても嬉しかったです♪
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観世流の名家「梅若家」旧跡。京都府南丹市。

こんにちは。

今日は、能のおうちのお話。



観世流の名家に、梅若家、というおうちがあります。


京都府南丹市日吉町殿田の曹源寺。丹波猿楽の梅若家の旧菩提寺。


梅若家は織田信長や徳川家康に仕えた日吉の領主であり、また、日吉を本拠に丹波猿楽の梅若座を構え、観世流に合流して観世流梅若家となった能楽の名家です。


当代の梅若玄祥先生は、今、絶対に舞台を見てほしい素晴らしい先生です。

その梅若家の旧跡のある南丹市を訪ねました。



橘諸兄の子孫の梅若家ですが、当初は山城国梅津村(京都市右京区梅津)にあり、10世「従五位下梅津兵庫頭友時」より梅津氏を名乗りました。

「梅若」の名乗りは後の事。


目の前の殿田川に架かる橋には、能のレリーフ。

若い女性の姿ですが、装束を片方脱いでいるのは「狂女」を表します。
流れる水を指しているので、能「蝉丸」の、蝉丸の姉の逆髪(さかがみ)かな?


見た通りの、じいさま。

漁翁の姿です。この髪型が、尉髪。


毎回、せっせと結うのです。


梅若家37世(梅津友時より数えて28世)の「梅若太夫波多景久」が、16歳の折に「芦刈」を御土御門天皇の御前で奉じた折に「若齢にしてその技に通ず」と右少弁藤原俊名を介し「若」の字を賜り、一門も梅津から「梅若」に改姓。



「梅若」の姓となった頃は、既に丹波国大志麻(綾部市大志麻)に本拠を移し、綾部から和知・周山・美山・殿田など丹波地域に一門が広く居住していた梅津(梅若)家。

丹波猿楽「梅若」座となった後。

上林(現在の美山町宮脇)に居住していた広長(「若」を賜った景久の子か孫かは不明)は美声で「妙音大夫」と呼ばれていました。

彼が信長より500石を与えられた土地「世木庄」が、現在、曹源寺がある場所。


ところで。中世丹波地域は、言わずと知れた山城密集地域。


曹源寺の背後の山には殿田城があります。屋根が見えるのが曹源寺。


安土で家康を饗応した際の能楽お披露目では、梅若家は共に舞台に立った幸若大夫と比べて不出来である!っと叱られました(『信長公記』)。

とにかく、舞い謡いしてるばかりでは立ち行かぬのが戦国時代。

本能寺の変。


(高野山奥の院。豊臣家墓所)


(高野山奥の院。明智光秀墓所)

梅若家の家久(もしくは広長)は、丹波攻略によりこの地域を手中に治めた光秀方に付いて山崎の合戦を戦いますが、負傷し、ご他界。
亡骸は曹源寺に葬られます。

光秀が秀吉に敗れた後、光秀に付いたため、梅若家は一時没落。


梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)が細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕え、世木庄の上稗生(現在の日吉町生畑上稗生)に百石を賜り、梅若中興の祖となりました。


(舞鶴市田辺城のゆうさいくん)

そんな激動の中世を生きた梅若家。


(曹源寺から見た梅若家屋敷跡方面)

今も南丹市日吉町殿田には屋敷跡と墓所が残ります。



この上に


「丹波猿楽梅若家屋敷跡」の旧墓所。

梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)以後、梅若家は代々上稗生を領していましたが、維新後は東京に移住しました。



明治20年、梅若実(55世梅若六郎)が、梅若の始祖「梅津兵庫頭友時」の千年祭を行ない、梅若屋敷跡の旧墓所に「従五位下梅津兵庫頭橘友時碑」を建立。



昭和50年10月には「丹波猿楽梅若家旧墓所」の碑を55世梅若六郎が建立しています。



とにかく舞台が素晴らしい梅若玄祥先生ですが、とても面白い方で、
漫画「ガラスの仮面」の劇中劇『紅天女』を能にしたり、様々な舞台に挑戦しておいでです。


テレビであれ、公演であれ、どんな形でもいいので、ぜひ一度。



いつも応援いただきありがとうございます。自慢ひとつ。学生時代に、能楽堂の虫干しのお手伝いをしていたら、梅若玄祥先生がケーキを差し入れてくれましたの~(≧∇≦)ウハウハ♪優しい先生なのですー。
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唱歌「青葉の笛」と能「敦盛」。高野山奥の院の敦盛五輪塔

こんにちは。


平維盛は一ノ谷の合戦前後に屋島辺りから脱け出し、高野山の滝口入道を訊ねました。

一ノ谷合戦では、多くの平家の公達が討死しています。


唱歌「青葉の笛」(大和田建樹作詞、作曲・田村虎蔵)をご存じですか?

一の谷の 軍(いくさ)破れ  討たれし平家の 公達あわれ 暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛

更くる夜半に 門(かど)を敲き わが師に託せし 言の葉あわれ 今わの際まで 持ちし箙に 残れるは「花や今宵」の歌



二番は、平忠度。


「更くる夜半に 門(かど)を敲き わが師に託せし 言の葉あわれ」

都落ちの直前、歌の師・藤原俊成に自らの和歌を託します。


決意を胸に秘め戦に臨んだものの、一ノ谷にて岡部六弥太忠澄により討死。


「今わの際まで 持ちし箙に 残れるは『花や今宵』の歌」


「行き暮れて木の下影を宿とせば 花や今宵の主ならまし」


一番は、だぁれー?

「青葉の笛」といえば?

はい、平敦盛ですね。

謡曲「敦盛」では、都落ちから敦盛の討死までの描写があります。


「然るに平家。世を取って二十余年。
 まことに一昔の。過ぐるは夢の中なれや。」




「籠鳥(ろうちょう)の雲を恋ひ。帰雁(きがん)列(つら)を乱るなる。
 空定めなき旅衣。日も重なりて年月の。
 立ち帰る春の頃。この一ノ谷に籠りて。しばしはここに須磨の浦。」




「シテ『後ろの山風吹き落ちて』

 野も冴え返る海際に。船の夜となく昼となき。
 千鳥の声も我が袖も。波に萎(しお)るる磯枕。
 海士の苫屋(とまや)に共寝して。須磨人にのみ磯馴松の。
 立つるや夕煙 柴と云ふもの折り敷きて。
 思ひを須磨の山里の。かかる所に住まひして。
 須磨人になり果つる一門の果てぞ悲しき。」




やがて合戦が始まり一門の武将が相次いで討死する中、敦盛は、沖へ逃げる平家一門の船に乗り遅れ、馬で追いかけます。



一ノ谷合戦の有り様を敦盛は舞います。「キリ」の部分です。

 「シテ『せん方波に駒を控へ。呆れ果てたる。有様なり。かかりける處に。』

 後ろより。熊谷の次郎直実。のがさじと。追っかけたり敦盛も。
 馬引き返し。波の打物抜いて。
 二打三打(ふたうちみうち)は打つぞと見えしが馬の上にて。
 引っ組んで。波打ち際に。落ち重なって。」


平家一門の船に向かって馬を泳がせていた敦盛を、熊谷次郎直実が追いかけます。

仕方なく敦盛は応戦。



馬上で組み合うも、波打ち際に落馬。熊谷次郎直実に組み伏せられた敦盛。


恐らくこんな感じが、


能の表現は、こう。


出家した熊谷次郎直実(蓮生法師)が敦盛の菩提を弔っている目の前に、現れた敦盛の幽霊が、能「敦盛」の主役(シテ)。

よって、敦盛の幽霊は憎き敵の熊谷次郎直実に向かって牙を剥きます。


「終いに(ついに)。討たれて失せし身の。
 因果は廻り逢ひたり敵はこれぞと討たんとするに。」




「仇をば恩にて。法事の念仏して弔はるれば。
 終には共に。生まるべき同じ蓮(はちす)の蓮生法師。
 敵にてはなかりけり跡弔ひて。賜び給へ跡弔ひて賜び給へ。」

 
仇の熊谷次郎直実を討とうと迫りますが、あ、そうだ、今は僕の為に念仏を唱えてくれてるんだった…と気づき、跡を弔って下さいなと言い残して姿を消します。

能「敦盛」、おしまい。



高野山奥の院で、ぽけーっとしている維盛ですが。

数年後。この奥の院に、供養塔が建てられます。

維盛の?・・・ではありません。


左が敦盛、右が直実。

これは、敦盛を討った後に出家した熊谷次郎直実が、敦盛の菩提を弔うために建てた五輪塔。

・・・何も隣同士にせんでも。嫌、じゃない?敦盛、嫌じゃない?


敦盛の首を取った直実。

彼には敦盛と同じ程の年齢の息子の小次郎直家がいました。

奇しくもこの日の未明。

敵の矢に傷ついた直家の「父よ、この矢を抜いてたべ」との願いを耳にしながらも、敵中の事だ、と、直家の傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入したのでした。

その時の親心の切なさを思い起こし、暫し躊躇したものの、心を鬼にして首を掻き斬ったのです。

直実。世の無常を感じ、出家。
当時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」の名を与えられ、専心念仏の行者となりました。

そして、敦盛の7回忌に当たる1190/建久元年。

敦盛の追福の法要を思い立ち、法然上人の指示により高野山に登り、父祖の菩提寺であった熊谷寺(当時は智識院)に寄寓。


敦盛の位牌および石塔を建立し、懇ろに敦盛の菩提を祈ったのでした。


・・・さて。肝心の維盛。

朝になって東禅院の智覚上人という聖をお呼びして、かねてよりの望み通り、出家しま~~~。


せん。

出家した姿になる前に、今の姿を一目、家族に見せたいと駄々をこねております。

この子、ほんとに大丈夫かしら。


いけいけ、滝口入道!


すみません。つづく。


参考文献
観世流大成版『敦盛』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。高野山奥の院で、必死に探した敦盛と直実の五輪塔。やっと、日の目を見ました。しかしなぜ隣同士なんでしょうねぇ。敦盛、お気の毒です。高野山は源平問わず繋がりがありますが、高野山霊宝館では、清盛の血を混ぜて描いたと伝わる「清盛の血曼荼羅」も展示されています。でっかいですよー。
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平家に居場所なし。維盛の苦悩と高野山で男前二人旅

こんにちは。


高野山の滝口入道を訪ねて来たのは


平維盛。その姿は、

潮風に黒み、尽きせぬ物思ひに痩せ衰へて、その人とは見え給はねども、なほ世の人には勝れ給へり。

男前は痩せ衰えても一般人よりは、美しいらしい。



さて。平家一門の中で唯一家族を都へ残し、都落ちした維盛。



この時、幼い子供達がすがり付いて別れを惜しんだ為に、維盛と弟達一団は安徳天皇や一門から遅れました。

この時、維盛達の軍勢は1000騎。

残り少ない平家軍には貴重な数です。


当然、宗盛おじさんに叱られました。

都落ちし、西国へ向かい、平家一門と行動を共に・・・


したものの、心ここにあらず。合戦どころではありません。


滝口入道に維盛は語ります。

「さればとよ都をば人並々に出でて西国へ落ち下りたりしかども、故郷に留め置し恋しき者共が、面影の身にひしと立ち添ひて忘るる隙もなかりしかば、その物思ふ心云はぬに著くや見えけん、大臣殿も二位殿も『この人は池大納言のやうに二心あり』など思ひ隔て給ふ間、いとど心も留まらず憧れ出でたんなり。」



背景として、維盛達の父・重盛は、清盛の嫡男ながら既に他界。
有力な後ろ楯のない維盛には、平家一門を率いるに至らず、重盛の弟の宗盛が台頭していました。

また、維盛自身の母と義父が平家の敵方となったこともあり、肩身が狭い立場になります。

また、周りの環境を除いても、維盛自身が源氏との合戦で悉く敗退した総大将でもあり、一門の中で居心地が良くない事は確かです。

そんな中で、都へ残した家族を思い、上の空の維盛。

宗盛や知盛達、清盛の妻の二位尼時子は、「維盛も、池大納言頼盛のように頼朝に通じているのではないか」と疑ったのです。


どっちもどっちです。

この状況に耐えられず屋島を脱け出し、高野山へたどり着いた維盛。


「これにて出家して、火の中水の底へも入りなばやとは思へども、熊野へ参らんと思ふ宿願あり」と宣へば、滝口入道申しけるは「夢幻の世の中はとてもかくても候ひなんず。ただ長き世の闇こそ心憂かるべう候へ」とぞ申しける。


「ここで出家して、火の中・水の底へも入ってしまおうかと思うが、熊野に詣でたい思う宿願がある」という維盛。



滝口入道は「夢幻の現世などどうでもよろしい。ただ長い世の闇こそ、心憂いものとなるでしょう」と言い、維盛を先達して、堂塔を巡礼し奥の院へ進みます。


維盛、しっかりー!


高野山は帝城を去つて二百里郷里を離れて無人声清嵐梢を鳴らし夕日の影閑かなり。
八葉の峰八つの谷まことに心も澄みぬべし。花の色は林霧の底に綻び、鈴の音は尾上の雲に響けり。瓦に松生ひ垣に苔生して星霜久しく覚えたり。


都から二百里離れた高野山は、風が梢を鳴らす音、鈴の音だけが聞こえる静寂の世界。

瓦には松が生え、垣は苔むして、歳月の長さを感じさせる光景でした。


維盛、奥の院を堪能。

維盛が身のいつとなく雪山の鳥の鳴くらんやうに「今日よ明日よ、と思ふものを」とて涙ぐみ給ふぞ哀れなる



御入定は承和二年三月二十一日の寅の一点の事なれば、過ぎにし方は三百余歳、行末もなほ五十六億七千万歳の後慈尊の出世三会の暁を待たせ給ふらんこそ久しけれ。

「平家物語」の時点で、弘法大師の入滅から三百余年。
弥勒菩薩が現れ、出世三会の説法が行われるまであと五十六億七千万年。



来るのか来ないのかというと、来ない、のではなかろうか。



この夜は滝口入道の庵へ帰って、いろいろな話をしました。

維盛の滝口入道評価。

更けゆくままに聖が行儀を見給へば、至極甚深の床の上には真理の玉を磨くらんと見えて、後夜晨朝の鐘の声には生死の眠りを覚ますらんとも覚えたり。遁れぬべくはかくてもあらまほしうや思はれけん。

極めて深遠な中で真理を追い求めているようで、夜明け前と早朝の鐘の音で迷いの夢を覚ますのだろうと思われる滝口入道の姿。

維盛は「この境遇から逃れて滝口くんみたいになりたい」と思ったのでした。

大丈夫か、維盛・・・(T_T)


参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)
※平家物語巻十『高野巻』

いつも応援いただきありがとうございます。平家一門内での居心地の悪さに加え、維盛は源氏と戦う中で、平家の将来にも悲観的になったかもしれません。都へ残した子供達のこともあり、維盛の心の中でなにかが、ぷちん、と壊れてしまったのでしょうか。ロミオ滝口入道、これからいい仕事します。
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世俗の姿は男前。滝口入道と桜梅の中将。『平家物語』in高野山

こんにちは。


横笛との恋心を捨てて、出家した斎藤時頼こと滝口入道。


横笛から逃げるように高野山へ入ります。

そこへ。


ぴんぽーん。っと、訪ねて来たのは、


間違えました。

こっち↓


・・・誰?

斎藤時頼は、平重盛に仕えておりました。

重盛といえば・・・「桜梅の中将」平維盛のとーちゃんです。


そう。訪ねて来たのは、平維盛なのでした。


滝口入道を頼り高野山へ来た維盛。

何という変貌ぶりでしょう。いったい彼に何があったのか。


家族を都へ残し、平家一門と共に都落ちしたはず。

その平家一門は、一の谷の合戦で源氏に敗退し、屋島等へ移動したところ。


平忠度、敦盛達も討死。

実は維盛。


都へ残してきた愛しい者達。


子供達の事がとにかく頭から離れません。


身は屋島にありながら、心は都へトリップした状態。

『あるにかひなき我が身かな』(生きる甲斐もない我が身だなぁ)な日々。

ついに、寿永3年3月15日の暁。

こっそりと屋島の館を脱走します。


同行するのは、三名。
与三兵衛重景、童子の石童丸、舎人の武里(舟の操舵の心得あり)。


阿波国結城の浦から出航。


和歌、吹上、衣通姫の神と現れ給へる玉津島の明神、日前国懸の御前を過ぎて紀伊の湊にこそ着き給へ。
これより山伝ひに都へ上り、恋しき者共を今一度見もし見えばやとは思はれけれども。
本三位中将殿、生捕にせられて大路を渡され、京鎌倉恥を曝し給ふだにも口惜しきに、この身さへ囚はれて父の屍に血をあやさん事も心憂し。とて千度心は進めども、心に心をからかひて高野の御山に参り給ふ。



紀伊の港から都へ上り、恋しい者達に今一度会えるものなら会いたいと思ったけれど。



叔父の本三位中将重衡は、生け捕りにされて大路を引き回され、京・鎌倉に恥を晒されました。

この事だけでも悔しいのに、維盛まで囚われて、亡き父・重盛の名を辱めるような真似はできません。

心は千度も都へと向かったけれど、葛藤を繰り返した挙げ句、高野山へたどり着いたのでした。

この時の維盛の姿は。

潮風に黒み、尽きせぬ物思ひに痩せ衰へて、その人とは見え給はねども、なほ世の人には勝れ給へり

・・・大変だったのね、維盛。

こうして高野山へ来た維盛は、面識のあった滝口入道を訪ねたのです。
(前述。滝口入道こと斎藤時頼は、平重盛に仕えていた)

維盛の滝口入道評。



三位中将それに尋ね逢ひて見給ふに、都にありし時は、布衣に立烏帽子衣文をかい繕ひ、鬢を撫で、華やかなりし男なり。
出家の後は今日初めて見給ふに、未だ三十にも成らざるが、老僧姿に痩せ黒みて、濃墨染に同じ袈裟香の煙に染み薫り、賢しげに思ひ入りたる道心者羨ましうや思はれけん。



都にいた時は布衣に立烏帽子、衣をきちんと装って鬢を整え、華やかな男でした。
今日初めて会った出家後の姿は、まだ三十歳にならないのに、老僧のように痩せ黒ずんで、濃墨染に同じ色の袈裟をまとい、香の煙に染み薫り、深く仏道を歩んだ者となっているのです。

維盛はこれを、羨ましいなぁーっと思ったのでした。



大丈夫か、維盛・・・(T_T)



参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)
※平家物語巻十『横笛』

いつも応援いただきありがとうございます。ロミオ滝口入道は、やはり男前だったようですね。出家しなければ浮いた話がわんさかと出たことでしょうねー。その滝口入道の前に現れた、ヨレヨレの維盛。源氏との合戦での連敗、家族を残して都落ち。維盛、いいとこなしです。ううう。
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立花宗茂帰依の高野山大円院に滝口入道と横笛の悲恋物語。

こんにちは。

高野山の宿坊寺院に、大圓院(大円院)、があります。

もとは多聞院と称し、開創は聖宝理源大師(延喜年間901~923)。

豊前豊後の守護職大友能直が帰依し、師檀の契りを結びます。
その孫・立花道雪(宗茂の義父)も傾信が深く、宗茂も天正年間に高野山に来た折りにここを訪ね、宣雄阿闍梨と意気投合し、帰依。

1592(文禄元)年。
義父の道雪・実父の紹運の霊牌と宝塔を建立して、多聞院と師檀の契りを結びます。



宗茂は、関ヶ原において西軍の武将として大津攻めでいけいけどんどん、西軍の敗北を知り急遽戻った柳川で鍋島相手に手加減なく戦い、加藤清正の説得に応じ開城。

数年の浪人貧乏時代を経て、御書院番頭等に誠意を込めてお仕えし、幾星霜を経て旧領の柳川に復活。


そんな宗茂が帰依した多聞院は。


大檀主立花宗茂の法号「大圓院殿松隠宗茂大居士」から大圓院という寺名に改めました。


「柳川城主前飛弾太守従四位源宗茂公」
「奉為大圓院殿松隠宗茂大居士成三菩提也」
「嗣子左近将監従四位下源忠茂朝臣 建立」(忠茂は宗茂の養子・二代目柳川藩主)


さて。この大圓院。

第8世住職に、阿浄、という僧がいます。或は、滝口入道。


元の名は斎藤時頼。

平重盛の侍であった彼は、清盛の西八条殿での花見の宴で建礼門院の女官の横笛の舞姿を見初め、恋文を送るように。


しかし、父・三条斎藤左衛門茂頼が「将来は平家一門に入る名門のお前が、横笛ごときとお付き合いするのは、だめー」と、反対。


主の平重盛の信頼に背いて恋に溺れそうだわっと、これを機に嵯峨の往生院で出家。


極端な人である。

一方、梯子をいきなり外されたかのような、横笛ちゃん。

我をこそ捨てめ様をさへ変へけん事の恨めしさよ。
たとひ世をば背くとも、などかはかくと知らせざるべき。
人こそ心強くとも尋ねて恨みん、と思ひつつある暮れ方に都を出で嵯峨の方へぞ憧れける。



頑張って時頼を追いかけ、とうとう嵯峨の往生院まで辿り着きます。

しかし、時頼は

全くこれにはさる事なし。もし門違へにてやら候ふらん。とてつひに逢はでぞ返しける。
横笛情なう恨めしけれども力及ばず涙を押さへて帰りけり。



同宿の僧に「全くここにはそのような人はいません」と言わせたので、横笛は泣く泣く帰りました。


また横笛が訪ねてきたら、きっと心が動いてしまうから、と、滝口入道(時頼)は嵯峨を出て、高野山へ移ります。

横笛も髪を下ろしたと伝え聞いた滝口入道。二人は和歌を交わします。

滝口入道
そるまでは恨みしかどもあづさ弓 まことの道に入るぞうれしき

横笛
そるとても何かうらみんあづさ弓 引とどむべきこころならねば


その後、横笛は横笛はまもなく法華寺で亡くなりました。

滝口入道は、これを聞き、ますます修行に励みます。



父の斎藤左衛門茂頼は息子の不孝を許し、親しい者達も入信。

やがて滝口入道は「高野聖」と呼ばれるほどの人物になりました。


おや。滝口入道のもとへ誰かが訪ねてきました。

どちら様でしょう?


つづく。


参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)
※平家物語巻十『横笛』

いつも応援いただきありがとうございます。ロミオとジュリエット風の滝口入道と横笛の悲恋物語。立花宗茂が帰依したことと、この滝口入道にゆかりのお寺として大円院は有名です。さて、『平家物語』の滝口入道は、この訪ねて来た人物の最期を見届けることになります。
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田辺藩主のお好みwater。宮谷神社の吐月水。

こんにちは。


東舞鶴湾の向かい側は、大浦半島。見えるのは多禰山。


ここは、引き揚げ船が入港したところ。

この橋の「クレイン」とは「鶴」という意味らしく。
大浦半島の博奕岬に石炭火力発電所を作るため、関西電力が工事用道路の一環として作ったとか。

あほー。電気代、安くしろぉー!(←切実)


ぷりっけつ狛犬さんのお社へ行く途中の


いや、落とし物よりもっと手前の


佐波賀に鎮座する宮谷神社。


海には、蛇島・烏島。

蛇島には城跡があり、城主は下志万七郎左衛門(『田辺旧記』)。

下志万氏は、京都府の舞鶴湾を拠点に活躍した水軍。
当時の水軍は舞鶴湾沿いに根城を持っていました。

「蛇島城主光孝天皇二十九代末孫下志万七郎右衛門助景丹波国何鹿郡志万庄より当国に来る時代不知」(『丹後国加佐郡寺社町在旧起』)(wikipediaより)。後に没落。



1570/永禄13年4月29日。
信長は越前朝倉義景の討伐の兵を起こしますが、それに先駆け、丹後守護の一色義員は丹後水軍数十艘を率いて越前金ヶ崎を攻めます。
しかし、この時信長勢は後詰めの羽柴秀吉に護らせて敗退。

続いて、天正3年8月。一色義員の加佐水軍が田辺を出帆し、10月下旬、間和泉守・筑前守頼照・松浦法橋ら越前一揆勢を攻めます。

この加佐水軍の中に、矢野藤一郎光長(田辺城代)、大島但馬守長光(田中高屋城主)等と並んで、櫻井豊前守左吉郎(佐波賀城主)の名前が見られます。
この功績により、義員は信長より改めて丹後を与えられました。


山城があったらいいな、と思いつつ。

宮谷神社は、佐波賀氏の氏神だったようなのですが、詳細不明。
とりあえず、舞鶴湾には水軍がいて、そこそこ活躍した、と。

ご勘弁。


「田辺藩名水吐月水」です。

田辺城城主の牧野英成(ひでしげ)が茶堂を建てて船で通った程に惚れ込んだ名水とか。
歴代の田辺藩主にも名水として好まれ、この名水に「吐月」と命名。


今も湧水があります。


茶を煎れた程なので真水だとは思うんですが、時節柄、えんりょ。


落とすわけにはいかないですもの。


こじんまりとしたお社です。


ここの狛犬ズも、正面を向いてます。


やめといたー。


ちび狛ちゃん、ラブ♪


かーちゃん、待って待って。


ごめん。


力石にしては小さいの。


冬は雪国。


丹波・丹後地域に散見する扇形の拝み石。


本殿が味わい深くて、お気に入り。


このようなお社を見ると、神社ってでかけりゃいいってもんじゃないなーと思うんですが。


かわいい龍でも、なんか好き。


ウフフフフ。


地域の人に大切にされているのは、とても素敵なコトナノダ。


「?」王権現、と書かれた扁額を見つけてしまったー。

いやーん。何かしらー?

蔵王権現?



・・・見なかったことに。



いつも応援いただきありがとうございます。海が目の前なのに淡水が湧くので、珍しいぞっと思ったのかな。確かに見た目はきれいなお水でした。田辺城といえば、細川幽斎様の籠城ですが、江戸時代は牧野氏が藩主。地道にこつこつ。楽しみが船で対岸に渡って、「ちゃーしばこかぁー(お茶にしましょ。※大阪でも誰も言いません)」とは、なんて慎ましい。
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狛犬7組集合。舞鶴市の朝代神社でうはうはー。

こんにちは。


舞鶴市の朝代神社。

ここはなんと狛犬7組。うはーうはー。


1組目。正面を向いた狛さん。


2組目の阿呆、じゃなかった、阿ちゃん。


2組目の吽ちゃん。


おつむがとってもかわいい。むにゅっと。


赤い両部鳥居を抜けると


あらやだ。汗で壁が崩れて、素っぴんでございますわ。


左折して、参道。

突き当たりが、


お隣、です。


右の石段が朝代神社の本殿への道。


ここはまず、本殿へお詣りを。


3組目は舞鶴市内最古という狛さん。崩れて気の毒。


拝殿前にも、お待ちかね♪


4組目の「がぉ」と、5組目の「ん~ん♪」狛さん。
奥の5組目の子は、正面を向いた上に阿吽が逆。


4組目の子連れちゃんと、5組目の「枝がいやぁ~」な狛さん。


本殿と拝殿の間にはー、


6組目。おまわりさーん!変な子、いまーす!


ものすごく嬉しそうに覗き見してます。

奥の赤い子が、7組目の神殿狛犬。
・・・撮り忘れましてんっ( ノД`)…アツクテネ~


6組目。叫ぶ狛さん。


おっきな口を開けて吠えてます。そして後ろが神殿狛犬。


この子達、絶対にかわいいっ(≧∇≦)

お顔が見たいなー。ぜーーったいに、かわいいのになー。

さて。先程のお隣は、というと。


真っ赤っか。


うーむ。ここは何だろう?


困った。


お手上げでーす。

なぜなら、ここをさらに進むと、


円隆寺に入ってしまうのです。


(クリックで拡大)※北は右

地図を見ると、東に細川幽斎が籠城した田辺城跡があります。

この円隆寺。一見、朝代神社の神宮寺のようですが、取り敢えずそうではない事だけお伝えしまして。

詳しいお話はまた後日。



いつも応援いただきありがとうございます。神殿狛犬さんは後で撮ろうと思ってたのに、すっかり忘れてました。でも、7組も色々な狛犬さんに会えたので、ほくほくです。やっぱり狛犬ちゃん巡りは楽しいですねー♪暑くても、へ、へ、平気だわっ。
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舞鶴市の朝代神社。不審犬発見。おまわりさーん。

こんにちは。


ここは、東舞鶴。


西舞鶴の愛宕山山麓に鎮座する朝代神社。


凛々しい狛犬さんに迎えてもらい、ほくほく。


ええ、ほんとに暑いです。こんにちは。


知らん。


二人の間を隔てる障害物です。


何かの除幕式のようで。


この狛犬さん達、とても細かい細工なのです。


手元のボール、透かし彫りで。


参道を進むと、舞鶴市内最古という狛犬さんがお出迎え。


あらやだ、狛犬ちゃんがいっぱい♪っと小躍りしながら


まぁ、素敵な装飾の本殿ねーっと拝見していたら。


怪しい犬影発見。

もし?


おまわりさーん!


変なわんこがいまーす!


不審犬です。

真剣に覗き見してます。まぁ、たいへんっ。


すみません。すみません。



いつも応援いただきありがとうございます。真正面に設置された仮設テントが邪魔で邪魔で。んもぉー。鳥居の横の狛犬さん達、テントと比べていただくと判るように、台座だけで私の背をはるかに超えてまして。ということは、お日様に向かって顔を上げないと挨拶出来ない高さに狛犬さんは、お座り。くらーっとしました。
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史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

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