『平家物語』桜梅中将維盛の出家。変わらぬ姿を今一度
こんにちは。

屋島から脱け出し、高野山へたどり着いた維盛。
顔見知りの滝口入道の先達で奥の院を巡り、

維盛、滝口入道に憧れてうっとりしつつ、夜を明かします。
明朝。
東禅院の智覚上人という聖をお呼びして、かねてよりの望み通り、出家へ。

屋島を抜けるときに同行したのは、与三兵衛重景と石童丸と、舎人の武里。
「維盛こそ人知れぬ思ひを身に添へながら、道狭う遁れ難き身なればいかにも成るといふとも、この比は世にある人こそ多けれ。
我いかにも成りなん後、急ぎ都へ上つて各が身をも助け、且つは妻子をも育み、且つは維盛が後世をも弔へかし」と宣へば、二人の者共涙に咽び臥して暫しはとかうの御返事にも及ばず。
与三兵衛重景と石童丸を呼んで、維盛は、
「僕はもう逃れられない運命なの。でも、お前達は結婚して、妻子を養って、僕の後世を弔ってね」と。
重景と石童丸はびいびい泣き伏しました。

そこの二人。泣き伏して下さい。
この重景。幼名を『松王』といいました。

生後50日の祝いの日。重景を抱いた父が維盛の父・重盛の前に出ると重盛は、
「この家は『小松』というから、お祝いに『松』をやろう」と付けてくれた名前なのです。
松王(重景)が2歳の時。
父・与三左衛門景康は重盛の供をしていた平治の乱の時、討死。
松王(重景)が5歳の時。母も他界。
身寄りがない松王(重景)を、重盛は「あれは我が命に替はりたる者の子なれば」と手元で育てます。

重盛の実子・維盛が9歳で元服した日の夜。
重盛は、同い年の松王(重景)も元服させます。
「私の名前の重盛のうち、『盛』は平家の字なので五代(維盛)に付ける。お前には『重』の字をやろう」と言い、松王は重景となりました。
そして、臨終の時。重景を呼び出して、重盛は告げます。
「あな無慙。汝は重盛を父が形見と思ひ、重盛は汝を景康が形見と思ひてこそ過ぐしつれ。
今度の除目に靱負尉に成して、父景康を呼びしやうに召さばやとこそ思し召しつるに、空しうなるこそ悲しけれ。相構へて少将殿の御心に違ひ参らすな」
「ああ残念だ。お前は私を父・景康の形見と思い、私はお前を景康の形見と思って生きてきた。
今回の除目で靱負尉(※ゆぎへのじょう。御所を警護する衛門府の役人)に就かせ、お前の父・景康を呼んでいたように呼びたいと思っていたのに、それができないのが悲しい。決して維盛の心に背くことはするなよ」
こう言われた重景ですから、誠心誠意、維盛に仕えていたのでしょう。
ところが肝心の維盛から「じゃ、ばいばい」と言われたに等しい重景は、
「僕の事を『殿を見限って逃げる者』と思っていたなんて。そのお心が残念で情けなくてっ」と告白。

世の情勢を見れば、栄えていくのは源氏ばかり。
このまま生きていたとしても・・・とは平家に連なる者ならば誰しも思うこと。
「君の神にも仏にも成らせ給ひなん後、楽しみ栄え候ふとも、千年の齢を経るべきか。
たとひ万年を保つとも、終には終り無かるべきかは。これに過ぎたる善知識何事か候ふべき」とて手づから髻切つて、泣く泣く滝口入道に剃らせける。
「殿が神にでも仏にでもおなりになった後に、我が身だけが栄えても、千年も生きることは出来ません。
たとえ万年を生きたとしても、いつか終わりの時は来ます。
今以上に出家に良い機会はあるでしょうか、いや、ありませんっ」と、

自ら髻を切り。

泣く泣く滝口入道に剃らせました。
石童丸もこれを見て本結際より髪を切る。
これも八つより付き参らせて重景にも劣らず不便にし給ひしかば、同じう滝口入道にぞ剃られける。
石童丸もこれを見て、本結の際から髪を切りました。
彼も八歳のときから仕え、重景にも劣らずかわいがられていたので、同じく時頼入道に剃ってもらいました。

さあ、お供の二人が髻をばっさり切って、滝口入道にじょりじょりしてもらうのを見て、維盛はいかに?
僕も一緒に!ですよねー!?

・・・ちょっと、あなた。
これらがかやうに先立ちて成るを見給ふにつけても、いとど心細うぞなられける。
「変はらぬ姿を今一度恋しき者共にも見もし見えて後、かくならば思ふ事あらじ。」と宣ひけるこそせめての事なれ。
・・・んんんん?
彼らがこのように先立って僧形になるのを見て、維盛はとても心細くなりました。
「今の姿をもう一度恋しい者たちに見てもらってからなら、思い残すことはないのだが」と言うのが精一杯でした。

こらー!!

滝口入道、他2名、心の中では総突っ込みだったことでしょう。
さてしもあるべき事ならねば
「流転三界中恩愛不能断棄恩入無為真実報恩者」
と三反唱へ給ひてつひに剃り下ろし給ひてけり。
三位中将と与三兵衛は同年にて今年は二十七歳なり。石童丸は十八にぞ成りける。
しかしそうしてばかりもいられないので
「流転三界中恩愛不能断棄恩入無為真実報恩者(三界の中に流転し、恩愛は断つを能わず、恩を棄てて無為に入るは、真実恩に報ゆる者なり)」
と三遍唱えると、ついに髪を剃り下ろしました。
維盛殿と重景は同い年で今年は二十七歳。石童丸は十八歳でした。

ぜーぜー。
参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)
※平家物語巻十『維盛出家』
いつも応援いただきありがとうございます。お待たせしました。やっと維盛くんの出家です。桜梅の中将と呼ばれていた事が嘘のような、ヘタレくんな維盛。従う人達も大変ですねー。でも、憎めない子です。さぁ、頭もスッキリしたところで、次はいよいよ熊野へ旅立ちます。ええ。ヘタレてますけど。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

屋島から脱け出し、高野山へたどり着いた維盛。
顔見知りの滝口入道の先達で奥の院を巡り、

維盛、滝口入道に憧れてうっとりしつつ、夜を明かします。
明朝。
東禅院の智覚上人という聖をお呼びして、かねてよりの望み通り、出家へ。

屋島を抜けるときに同行したのは、与三兵衛重景と石童丸と、舎人の武里。
「維盛こそ人知れぬ思ひを身に添へながら、道狭う遁れ難き身なればいかにも成るといふとも、この比は世にある人こそ多けれ。
我いかにも成りなん後、急ぎ都へ上つて各が身をも助け、且つは妻子をも育み、且つは維盛が後世をも弔へかし」と宣へば、二人の者共涙に咽び臥して暫しはとかうの御返事にも及ばず。
与三兵衛重景と石童丸を呼んで、維盛は、
「僕はもう逃れられない運命なの。でも、お前達は結婚して、妻子を養って、僕の後世を弔ってね」と。
重景と石童丸はびいびい泣き伏しました。

そこの二人。泣き伏して下さい。
この重景。幼名を『松王』といいました。

生後50日の祝いの日。重景を抱いた父が維盛の父・重盛の前に出ると重盛は、
「この家は『小松』というから、お祝いに『松』をやろう」と付けてくれた名前なのです。
松王(重景)が2歳の時。
父・与三左衛門景康は重盛の供をしていた平治の乱の時、討死。
松王(重景)が5歳の時。母も他界。
身寄りがない松王(重景)を、重盛は「あれは我が命に替はりたる者の子なれば」と手元で育てます。

重盛の実子・維盛が9歳で元服した日の夜。
重盛は、同い年の松王(重景)も元服させます。
「私の名前の重盛のうち、『盛』は平家の字なので五代(維盛)に付ける。お前には『重』の字をやろう」と言い、松王は重景となりました。
そして、臨終の時。重景を呼び出して、重盛は告げます。
「あな無慙。汝は重盛を父が形見と思ひ、重盛は汝を景康が形見と思ひてこそ過ぐしつれ。
今度の除目に靱負尉に成して、父景康を呼びしやうに召さばやとこそ思し召しつるに、空しうなるこそ悲しけれ。相構へて少将殿の御心に違ひ参らすな」
「ああ残念だ。お前は私を父・景康の形見と思い、私はお前を景康の形見と思って生きてきた。
今回の除目で靱負尉(※ゆぎへのじょう。御所を警護する衛門府の役人)に就かせ、お前の父・景康を呼んでいたように呼びたいと思っていたのに、それができないのが悲しい。決して維盛の心に背くことはするなよ」
こう言われた重景ですから、誠心誠意、維盛に仕えていたのでしょう。
ところが肝心の維盛から「じゃ、ばいばい」と言われたに等しい重景は、
「僕の事を『殿を見限って逃げる者』と思っていたなんて。そのお心が残念で情けなくてっ」と告白。

世の情勢を見れば、栄えていくのは源氏ばかり。
このまま生きていたとしても・・・とは平家に連なる者ならば誰しも思うこと。
「君の神にも仏にも成らせ給ひなん後、楽しみ栄え候ふとも、千年の齢を経るべきか。
たとひ万年を保つとも、終には終り無かるべきかは。これに過ぎたる善知識何事か候ふべき」とて手づから髻切つて、泣く泣く滝口入道に剃らせける。
「殿が神にでも仏にでもおなりになった後に、我が身だけが栄えても、千年も生きることは出来ません。
たとえ万年を生きたとしても、いつか終わりの時は来ます。
今以上に出家に良い機会はあるでしょうか、いや、ありませんっ」と、

自ら髻を切り。

泣く泣く滝口入道に剃らせました。
石童丸もこれを見て本結際より髪を切る。
これも八つより付き参らせて重景にも劣らず不便にし給ひしかば、同じう滝口入道にぞ剃られける。
石童丸もこれを見て、本結の際から髪を切りました。
彼も八歳のときから仕え、重景にも劣らずかわいがられていたので、同じく時頼入道に剃ってもらいました。

さあ、お供の二人が髻をばっさり切って、滝口入道にじょりじょりしてもらうのを見て、維盛はいかに?
僕も一緒に!ですよねー!?

・・・ちょっと、あなた。
これらがかやうに先立ちて成るを見給ふにつけても、いとど心細うぞなられける。
「変はらぬ姿を今一度恋しき者共にも見もし見えて後、かくならば思ふ事あらじ。」と宣ひけるこそせめての事なれ。
・・・んんんん?
彼らがこのように先立って僧形になるのを見て、維盛はとても心細くなりました。
「今の姿をもう一度恋しい者たちに見てもらってからなら、思い残すことはないのだが」と言うのが精一杯でした。

こらー!!

滝口入道、他2名、心の中では総突っ込みだったことでしょう。
さてしもあるべき事ならねば
「流転三界中恩愛不能断棄恩入無為真実報恩者」
と三反唱へ給ひてつひに剃り下ろし給ひてけり。
三位中将と与三兵衛は同年にて今年は二十七歳なり。石童丸は十八にぞ成りける。
しかしそうしてばかりもいられないので
「流転三界中恩愛不能断棄恩入無為真実報恩者(三界の中に流転し、恩愛は断つを能わず、恩を棄てて無為に入るは、真実恩に報ゆる者なり)」
と三遍唱えると、ついに髪を剃り下ろしました。
維盛殿と重景は同い年で今年は二十七歳。石童丸は十八歳でした。

ぜーぜー。
参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)
※平家物語巻十『維盛出家』
いつも応援いただきありがとうございます。お待たせしました。やっと維盛くんの出家です。桜梅の中将と呼ばれていた事が嘘のような、ヘタレくんな維盛。従う人達も大変ですねー。でも、憎めない子です。さぁ、頭もスッキリしたところで、次はいよいよ熊野へ旅立ちます。ええ。ヘタレてますけど。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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