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後白河上皇。『梁塵秘抄』と35回の熊野御幸

こんにちは。


熊野那智大社【第6回】


熊野速玉大社の石碑。

白河上皇9回、鳥羽上皇21回、崇徳上皇1回。

後白河上皇(1127~1192)、35回(諸説あり)
後鳥羽上皇(1180~1239)、29回

後白河上皇は35年の在院期間のうちに35回の熊野御幸を行ったのに対し、後鳥羽上皇は24年の在院期間のうちに29回。

熊野御幸は、往復におよそ1ヶ月費やすので、後鳥羽上皇はおよそ10ヶ月に1回という驚異的なペース。


いくら上皇は「ふりーだむ!」な立場とはいえ、お供もいい迷惑。


【後白河院、その濃いーい人生】

後白河院の生涯は、源平の争い、そして、武家政権の確立の時代。

どんな人がいたのか。院の前に現れた面々はこちら。



仲良しだったり、幽閉されたり。思ひで深い人。

清盛の日宋貿易に興味を持ち、協力的な後白河院。
宋人とも面会します。

宇多天皇の遺戒により厳禁だった外国人との接見です。
「我が朝延喜以来未曽有の事なり。天魔の所為か」(by九条兼実)

平清盛は、第1回目の後白河院の熊野御幸に同行(当時の清盛は大弐の位)。


序列を争う叔父と甥。新宮行家と木曽義仲。


「以仁王の平家追討の令旨」に呼応。

倶利伽羅峠で平家をなぎ倒し、行家を迎え、後白河院を救出しつつ上洛。

いけずな都人にいじめられ、後白河院を幽閉したり、「打倒平家!」のはずが、いつのまにやら「打倒、頼朝!」。

最期は源範頼・義経の追討軍により、粟津で討死。


びみょーに諸悪の根源な人。頼朝の叔父。

父は河内源氏の棟梁・源為義。
同母姉に、新宮別当家嫡流の行範(19代熊野別当)の妻・鳥居禅尼。

以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達。
頼朝→義仲→義経、と身を寄せる相手は変幻自在。お口が達者なのが特徴。

後白河院の碁仲間。


義仲の後、都へ来たヒーロー義経と、最強のSP弁慶。


速玉大神に仕える熊野三党のひとつ、鈴木一族の出自と熊野速玉大社では伝わる武蔵坊弁慶。

義経は、幼い頃鞍馬にいたので、ちょっと都風。後白河院の狛犬、いや、駒。

平家を滅ぼした後、兄の頼朝と不和になり、後白河院に要請して頼朝追討の宣旨を賜るも、次は逆に源頼朝の要請により義経追捕の院宣が下る。少し残念な悲劇の人。


後白河院に「日本国第一の大天狗は、更に他の者にあらず候ふか」(『吾妻鏡』11月15日条、『玉葉』26日条)と言った人。

1190(建久元)年11月7日。頼朝は千余騎の軍勢を率いて上洛。

後白河院と頼朝は何度もお話。

頼朝の諸国守護権が公式に認められ、「武家が朝廷を守護」する鎌倉時代の政治体制が確立することになりました。

しかし、後白河院は頼朝に地頭職を握られた事で、院政の財政的な基盤を失うのです。


1192(建久3)年3月13日。後白河院、崩御。

同年7月12日。 源頼朝、征夷大将軍に就任。


【後白河院の熊野御幸】

35回。


(画像:熊野速玉大社の小太りな狛犬さん)

・・・ひまじん?


後白河院は、自宅の法住寺殿に、鎮守として日吉社の他に熊野社を建立するほど熊野信仰に夢中。

熊野社は、熊野詣に出発する前の精進・参籠の場となりました。

ちなみに、この法住寺殿の南殿の北側に造立されたのが、蓮華王院(三十三間堂)。平清盛の寄進。


《『梁塵秘抄』にみる熊野御幸》

後白河院といえば、「今様」好き。

院の撰述による『梁塵秘抄』は、歌集十巻、口伝集十巻の計二十巻であったと推定されますが、現存は、歌集巻一の断簡と巻二、口伝集巻一の断簡と巻十。

口伝集には、1回目と2回目、そして12回目の熊野詣のことが記されています。


《後白河院の熊野デビュー》

1159年。平治の乱が勃発。

1160年。後白河院、初めての熊野御幸。34歳。


平清盛、同行。

10月17日より精進を始めて、法印覚讃(かくさん)を先達にして、23日に出発。

道中の長岡王子で、後白河院は今様を歌います。


熊野の権現は、名草の浜にこそ降り給へ、
 
和歌の浦にしましませば、年はゆけども若王子

(『梁塵秘抄』「巻二 四句神歌 神分」) 

 

11月25日、幣を奉り、経供養・御神楽などを奉納。
礼殿にて院の音頭で、古柳・今様・物様まで数を尽くす間に、次々に琴・琵琶・舞・猿楽を尽くした。初めての熊野詣のときのことである。

 
《後白河院の熊野御幸。2回目》

1162年。正月21日より精進を始めて、同27日に発つ。

2月9日。本宮に幣を奉る。本宮・新宮・那智の三山に三日ずつ籠って、その間、千手経を千巻(1000回)転読。


熊野本宮大社・本宮。第三殿(證証殿・主祭神の家津御子大神)


那智。

同月12日。新宮に参って、いつものように幣を奉る。



夜が更け、社殿の前へ上り、宮廻ののち礼殿で通夜、千手経を読む。
しだいに皆、居眠り。

夜半過ぎ、神殿の小さな火の光に御神体の鏡がところどころ輝いて見える。
しみじみと心が澄んで涙が出た。

明け方、礼殿で歌う。

「よろづのほとけの願よりも 千手の誓ひぞ頼もしき

枯れたる草木もたちまちに 花さき実なると説いたまふ」



この時、覚讃法印が社殿の前の松の木の上にて

「心とけたる只今かな~♪」、と、神の歌う声を聞いたという。




《後白河院の熊野御幸。12回目》

次は12回目。1169年、院43歳のときのこと。

正月9日より精進を始めて、同14日に発つ。26日に幣を奉る。


この時はまだ出家前。
「俗体では今回が最後の熊野詣になるだろうと思われる」熊野御幸でした。



熊野本宮大社・若宮。

今回は、両所権現のうちの西の御前(結の宮)から《麝香(じゃこう)の香》が漂ってきた。


熊野本宮大社・結宮。

神殿のすだれが動き、そこに懸かっていた御神体の鏡がみな鳴りあったので、びっくりして立ち去った後白河院一行。


「ほとけは常にいませども うつつならぬぞあはれなる

人のおとせぬあかつきに ほのかに夢にみえたまふ」

(『梁塵秘抄』巻第二 26)


なかなかシュールな体験をしたようで。




「巻二 四句神歌 神社歌 熊野二首」

 
「紀の国や牟婁の郡に坐(おは)します 熊野両所は結ぶ速玉」
 
「 熊野出でて切目の山の梛(なぎ)の葉は  

 万(よろず)の人の上被(うはぎ)なりけり」



熊野速玉大社の梛の木。


(私見)
後白河院の人生を見ると、権謀術数というよりは、目の前の事態に振り回されて、些かパニックになっているような。

今様に夢中だった皇子が成りゆきによって突然天皇となり、上皇となり。
これまた成りゆきで武家勢力と相対峙することになり。



しかし本来の後白河院は、35回に及ぶ熊野御幸から見るに、仏教への深い信仰心もさることながら、道中で今様を徹夜で歌い明かし、今様の名手の女芸人に歌を習ったりする日々こそ、本来の後白河院の姿のような気がします。


熊野に関してこんな記事も書いてます。

「丹鶴城の丹鶴姫。熊野別当物語。」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-239.html

「阿須賀神社と大威徳明王。狛犬はネックレスでおめかし」速玉大社の境外摂社
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-237.html

「大斎原。水霊の斎く霊地」熊野本宮大社の旧境内地
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-214.html

「波田須の道は鎌倉石畳。伊勢路最古の熊野古道」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-216.html



参考文献
『熊野三山信仰事典』(加藤隆久編・神仏信仰事典シリーズ(5) 戎光祥出版)・『和歌山県史』・『神道事典』

「熊野学」(新宮市教育委員会)http://www.city.shingu.lg.jp/div/bunka-1/htm/kumanogaku/index.html


いつも応援いただきありがとうございます。白河上皇は9回に及ぶ熊野御幸!と昨日は叫んでおりましたが、今日の後白河院てば35回。鎌倉目線の小説では、まさに「大天狗」な後白河院ですが、熊野御幸では家臣とごろ寝したり、恐怖で走って逃げたり、とても楽しい人です。エネルギッシュな人物だったのかなー。
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