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「式内社」の称号を鵜呑みにする危険。但馬の名草神社

こんにちは。

但馬妙見日光院【第18回】

兵庫県養父市に鎮座する名草神社。


現在は名草神社本殿となっている、元日光院の本殿。

社格は、式内社。縣社。

詳細→→→社格制度。平安時代から現代までの変遷
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-447.html


『式内社』(しきないしゃ)
927年(延長5年)に完成した全50巻からなる「延喜式」。
この中の「神名帳(官社を記載登録した名簿)」にその名が記載されている神社。

特に由緒のある神社とされ、毎年の祈年祭に幣帛が供えられ、災害や全国的な疫病蔓延などに際しては公の祈願が行われました。


つまり、「式内社」とは、延喜式撰修前後に「存在していた」神社。ここ、ポイント。


「延喜式神名帳」に、但馬国養父郡「名草神社」の名前が掲載されているので、名草神社が延喜式撰修前後に「但馬国養父郡」に「存在していた」ことは、わかります。

しかし、名前が載っているからといって、それ以降も当該神社が綿々と続いていたとは限りません。



927年(延長5年)延喜式完成から数百年。

延喜式神名帳に記載の「名草神社」は、その後の消息が絶えており、「つまりは、その後、早い時期に廃絶したものと考えるのが自然な考えであろう。」(『日本の塔婆』【4-4】「但馬名草神社」を巡る「俗説」批判 http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken44_4.htmより引用)



そんな名草神社が突然、公文書に出現。

明治9年7月8日。兵庫県通達。

『      名草神社
石原村鎮座妙見社之儀先官参事田中光儀失錯ニテ曩ニ名草神社帝釈寺互立処分ニ及ビ置候処客年10月25日教部省達之旨有之候ニ付今般更ニ伺ノ上断然帝釈寺号相廃候條仏像仏器之外動不動産悉皆可受取此段相達候事
   明治9年7月8日       兵庫県権令三吉周亮代理

豊岡県権参事 大野右仲 印  』



但馬妙見日光院の神仏分離の一連の流れの中で、不動産を「名草神社」に譲り、仏像仏器を持ちそこを退けとの兵庫県からの通達文書。

詳細は→→→「但馬妙見日光院を襲った謎の神仏分離。簒奪される寺院」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-452.html

あまりに唐突な登場です。

なぜだー?

時間を少し戻します。

「尊王攘夷」を理念として成立した明治政府。。
その理念の裏づけとなった思想は「水戸学や後期国学や復古神道」であり、それは慶応4年の「祭政一致」の「王政復古」として実現しました。

まず、「王政復古・祭政一致」を宣言し、「神祇官」の再興が「太政官布告」の形で示されます。

明治元年(慶応4年)3月13日。
「此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、(略)」(『太政官布告』(慶応四年三月十三日))


詳細は→→→「神仏分離の実施。法令で確認」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-444.html

「神祇官」の元となる思想は「水戸学や後期国学や復古神道」ですから、まず「神社」の存在を重要視しました。

既存の神社に対し、布告を出し、全国津々浦々の神社を社格制定の為に調べ上げます。


【太政官布告】 第七百七十九(布)太政官 (明治3年)閏10月28日 
今般国内大小神社之規則御定ニ相成候条於府藩縣左之箇条委細取調当12月限可差出事
 某国某郡某村鎮座
某社
 1.宮社間数 並大小ノ建物
 1.祭神並勧請年記 附社号改替等之事 但神仏旧号区別書入之事
 1.神位
 1.祭日 但年中数度有之候ハゝ其中大祭ヲ書□スヘシ
 1.社地間数 附地所古今沿革之事
 1.勅願所並ニ宸翰勅額之有無御撫物御玉?献上等之事
 1.社領現米高 所在之国郡村或ハ?米並神官家禄分配之別
 1.造営公私或ハ式年等之別
 1.摂社末社の事
 1.社中職名位階家筋世代 附近年社僧復飾等之別
 1.社中男女人員
 1.神官若シ他社兼勤有之ハ本社ニテハ某職他社ニテハ某職等の別
 1.一社管轄府藩縣之内数ヶ所ニ渉リ候別
 1.同管轄之庁迄距離里数


この一連の作業の中で、当然「式内社」の存在を調査。



但馬国養父郡の「名草神社」。

「やったー。日光院の神仏分離にぴったりの存在じゃん♪」by神祇官。


例えそうであっても


なのです。

よって、現在の「名草神社」は、

927年(延長5年)延喜式神名帳に名前の記載のある「式内社名草神社」ではなく、「兵庫県通達(明治9年7月8日)」で初めて現れた「新・名草神社」。

927年の延喜式の完成から明治9年まで、数百年間の但馬の妙見山における宗教施設あるいは妙見信仰の歴史は名草神社のものではなく、日光院が積み重ねてきた歴史なのです。





無理矢理、「式内社名草神社」を鎮座させたため、由緒・祭神の説明において数々の矛盾が生じます。



以下、兵庫県神社庁より引用 http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6324001.html)

【祭神】名草彦命  ナグサヒコノミコト

【配祀神】日本武尊 天御中主神 御祖神 高皇産靈神 比売神 神皇産霊神(ヤマトタケルノミコト アメノミナカヌシノカミ ミオヤノカミ タカミムスビノカミ ヒメノカミ カミムスビノカミ)

【由緒】
敏達天皇14年(585)、養父郡司高野直夫幡彦、紀伊国名草より来り。民の悪疫に苦しむを憐れみて其祖神名草彦命以下の諸神を祀りて之に居りしに創まると伝う。

延喜式の制小社に列し、中古社運隆盛を極め仏者に習合して真言帝釈寺当社の別当となり、祭神中に天御中主神あるによりて7座の祭神を北辰7星に象りて両部神道を構成し、社名を妙見宮と改め、真言特有の加持祈祷を以て信仰を得る。

天正年間(1573~1593)、豊臣秀吉悉く社領を没収し、江戸時代徳川将軍より朱印領30石を寄進して社頭の維持漸く安きを得たり。

明治維新までは、出石藩主仙石侯及び村岡藩主山名侯の祈願所となり、摂家一條家よりも屡々代参の儀ありき。

寛延4年(1751)本殿を修造し、宝暦2年(1752)日光東照宮を模して改築に着手し、同4年(1754)之を竣工。

元禄元年(1688)拝殿を改築し翌年(1689)竣工。


明治維新社名を名草神社と復称し、明治6年(1873)村社に列し、大正11年(1922)、県社に昇格。(引用終わり)


「おかしいのは、どーこだっ?」って宿題にしちゃお(o^-^o)
ヒントは赤文字ねー(≧∇≦)って書こうと思ったらまっかっかになってしまったー。



お目目がチカチカするので、次回へ続く。


強引に「式内社名草神社」を鎮座させた影響は大きく、コピペ主流の昨今の「由緒書」記事ではもはや何が何だかわからなくなっています。これはさらに、日光院の存在を無視することで悪化してます。

→→→リンクはこちら・養父市ホームページ 名草神社
http://www.city.yabu.hyogo.jp/3445.htm

これに対し、根拠を明確に冷静に歴史と現況を示しているのが、但馬妙見日光院です。
→→→リンクはこちら・但馬妙見日光院ホームページ
http://www.tajimamyouken.com/



起きて、おねがいっ。

式内社。この怪しげなもの。お社を訪れる度に「ほんとぉ?」と疑う手間。正直、スルーしたいところではあります。


いつも応援いただきありがとうございます。「次回は『祭神を素直に信じると危険』の巻。」と豪語したのに、前フリが長くなってたどり着けずにごめんなさい。次回に続きます。
お社巡りの中でひとつのヒントになる「式内社」の称号すら信用出来ないってのは、なかなかの破壊力なんですよねぇ。やっぱお社は「狛ちゃん命」でサラッといくのが楽しいなー。

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