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さようなら山上の社殿。但馬妙見日光院の神仏分離

こんにちは。

但馬妙見日光院【第15回】

但馬妙見日光院を襲った神仏分離の嵐は、廃仏毀釈とまではいかないまでも、「まず神社ありき」で強引に進められました。


守札の配札を控えて困窮し、抗議しつつもご沙汰を待っていたところ。


明治5年3月13日。

日光院檀家が多く日光院の基盤であった石原村、大火。


90余軒中77軒を焼失。



明治5年6月。土地上知令により寺の所有林を奪われ。

 
「こうして政府は、敢えて本尊妙見大菩薩を妙見信仰とは全く無縁の名草彦命と称し、日光院を名草神社としようとしたのです。

当初は住職と同一世帯のものが神主として奉務することになっており、第四十七世弘応上人と同一世帯の北垣伊佐美をもって初代名草神社の神主とされましたが遂に明治9年7月8日には豊岡懸から『寺号を廃し、同寺が所有してきた不動産を神社に明け渡すこと』との布達が発せられました。

これをもって名実共にお寺を神社にせよ、との命令でした。」(日光院HPより引用)



明治9年7月8日。兵庫県通達。

『      名草神社
石原村鎮座妙見社之儀先官参事田中光儀失錯ニテ曩ニ名草神社帝釈寺互立処分ニ及ビ置候処客年10月25日教部省達之旨有之候ニ付今般更ニ伺ノ上断然帝釈寺号相廃候條仏像仏器之外動不動産悉皆可受取此段相達候事
   明治9年7月8日       兵庫県権令三吉周亮代理

豊岡県権参事 大野右仲 印  』



「帝釈寺は廃寺」とし、名草神社は「仏像仏器を除き動不動産を悉く受け取るように」との兵庫県通達。

いよいよ、日光院は山を下りなくてはならなくなったのです。(ここまで前回)



《ちょっと寄り道》

通達文に「不動産」の文字が見えます。

1898年(明治31年)に施行された「民法」(明治29年法律第89号、明治31年法律第9号)により、下記のように定められます。

「不動産」は「土地及びその定着物をいう」(第86条1項)
「不動産以外の物は、全て動産である」(同条2項)

日本において「所有権」を明確にしたのもこの民法です。

「所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する」(第206条)


動産・不動産を定義する民法の施行(明治31年)前なのに、通達(明治9年)では既に「不動産」の言葉を用いていたところが、面白いなと思いまして。

また、民法成立後の「所有権」の概念を、民法成立以前に援用すると大いなる勘違いに陥るので、ここは注意しなくては。



すみません。


名草神社では、

明治9年7月13日、元楯縫神社祠掌であった井上賢次郎(雪江)が名草神社祠掌に任ぜられます。



【さようなら】

明治10年。
兵庫県より、帝釈寺号再称、成就院への合併などが裁可されます。

成就院?

秀吉の但馬攻めの際に社殿が焼失した後。



1632(寛永9)年。「奥の院」に妙見大菩薩を奉持して登り、日光院を妙見山の山腹に移転復興させたとき、旧寺域に唯一復興させたのが「成就院」。

旧伽藍域の経営にあたっておりました。


9月5日。午前5時。
九鹿村から奥の小佐谷中は各1戸から1人ずつ。他に諸国信者、数百人が山上に集まります。


違うよー(T▽T)

いよいよ山を下りる時が来たのです。



「妙見七尊体尊像を始め全ての仏像、教典、法具、蔵書等、寺宝を護持し、鐘楼以外の日光院の建物のみを山上に残し、元の日光院が寛永年間まであった山麓の石原に降り、末寺成就院と合流しました。」(日光院HPより引用)


1655(寛文5)年9月に杵築大社(出雲大社)より移築。

三重塔の本尊の虚空蔵菩薩も、山麓へ。


仏塔から、ただの「建物」になりました。


寛永9年から明治9年まで、この245年間の但馬妙見日光院が、如何に盛隆を極めていたかを伝える建物達ともお別れです。


護摩堂。


1688(元禄元)年5月建立(棟札による)。


日々の護摩焚きによって真っ黒になった天井。



1754(宝暦4)年建立の本殿。

「宝暦四年 日光院現住宝潤(日光院の第四十世)」の棟札が残ります。


この中に、妙見七尊体尊像が納められていたのです。

皆、山麓へ。


あなたは残るの。


妙見大菩薩である「七曜紋(北斗七星)」はこのまま。


みんな、残るの。


(T_T)








午前10時には作業を終え、大護摩が焚かれました。

午後には説教があり、多くの信者が聞き入ったといいます。



現在の日光院は、「成就院」に合併し、旧寺域に立っているのです。



参考文献
「但馬妙見日光院ホームページ」http://www.tajimamyouken.com/
「兵庫県史」(兵庫県編纂)

本文中「」内緑字の引用元は「日本の塔婆」http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/touba3.htm


いつも応援いただきありがとうございます。山を下りなくてはならなかった日光院。どんな思いであったのか、想像すらできません。さぞかし無念であったことでしょうね。
しかし、日光院は泣き寝入りなんて致しません。リベンジの巻へ続きます。

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