大きな哺乳類と太地町

こんにちは。


太地港のぴちぴちのお魚、好き♪


こんな崖の上には。


ものすごく監視されてるようです。


海の安全といえば、金比羅様。


ちょっとびっくり。


強風だとぶっ飛ぶのかな。


古式捕鯨が盛んだったのは江戸時代。


みんな無事帰ってきますように、ってお祈りしたんだろうなー。


ではこれから、先端へ。


この先、蚊の大群が私を襲う。


古式捕鯨仕度部屋跡です。

蚊取り線香じゃ追いつかないほど、やぶ蚊がやぶ蚊が、ががが。


(クリックで拡大)


番をした人の住居跡はジャングル♪

隣接して


御崎神社。

蚊がががが。


吉備真備が漂着したようで。


(クリックで拡大)
吉備真備って、遣唐使でしたね。忘れてた。


山見番所。


(クリックで拡大)


強風だと無理ねー。


(クリックで拡大)

斜めだろうが何だろうが、おでこを刺され腕を刺され。蚊がががが。


か?(うわのそら)


1636年より、灯台として、ぴかー。


(クリックで拡大)くじらさん、ありがとうございます。


当時は植栽などなかったでしょうから、指揮を取るのに絶好で重要な場所だったわけで。


ここが一番高いからかな。


燈明台からこちら様へ戻る途中にあるのが、


漁をするところ。


広い駐車場は、漁の期間中は閉鎖。バリケードばりばり。

ここ、臨時の派出所が出来るのです。
一昨年は警察等の訓練の日に来てしまい、おまわりさん等のホコ天状態で、車の私は立ち往生。
それどころじゃない、阿呆めーっという視線が痛かったです。
ごめんなさいごめんなさい。

この日も、カメラを持ってうろちょろしていたら爽やかに「観光ですかー?」と、鍛え抜いた体のお兄さんに声をかけられ。

即座に退散。ごめんなさいごめんなさい。




(クリックで拡大)

これからどうなっていくのか私にはわかりませんが、ここでは確かに、生活に密着した文化であり、生活の糧であるわけです。



ううむ。ううむ。と、考えつつ、太地町にお別れを・・・


元気でなによりです。



いつも応援いただきありがとうございます。太地町の町は昔ながらの漁村の趣。この燈明台の駐車場は太地中学校の裏手にあるのですが、そこのお手洗いがそれはもうきれいできれいで。感動しました。旅のネックのお手洗い事情、こちらは問題なしです。そして、臆病者なので、ぼやかした内容ですみません。
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大きな船と太地町

こんにちは。


妙法山阿弥陀寺から見渡した太地(たいじ)町。


くじらの風車。


道を通る度に気になってしょーがない物体。


・・・やっほー。


何ですか、アシカですか。


視線の先にあるものは。


ふるさと創生なんちゃらの一億円で作られたとか。

むろん、その一部でしょうけど、もったいないなぁ。


そうだ、頑張れ。


きゃー。


きゃー。


きゃー。


これが、調査船です。これからどうなるのかな。


スクリュー好き。普段見えないから。


おや。


うふふ。


妙法山阿弥陀寺から見えたんだから、反対もあり。


那智勝浦の島々。海~。

くじらの尻尾の辺りから島巡りの遊覧船が出ています。



いつも応援いただきありがとうございます。大阪は秋のような爽やかな週末でした。このまま秋にならないかしら?腹を出して寝落ちたもので、しっかり寝冷えして、鼻水が滝です。皆様もお気をつけあそばして。
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妙法山阿弥陀寺。死者と繋がる絶景の古寺

こんにちは。


熊野那智大社から


お不動様に応援してもらいつつ


那智山スカイラインを走り


熊野灘を見下ろす妙法山の山頂付近に建つのは


妙法山阿弥陀寺。





先を急ぎましょう。


熊野大鳥居門。これは、妙法山の山門。

鳥居だー。なぜだー。

「山の中に造られた古いお寺の山門は鳥居になっている事が時々あります。それは、新しく仏様をまつるお寺を造る時、そのお山に元からいらっしゃる神様に敬意を払いご加護を頂く為だと言われています。

また古いお寺によくあるようにこの山門も真南に向かって建てられています。」(妙法山阿弥陀寺ホームページより)

この門の横には


亡者のひとつ鐘。


なんだろう。


昭和56年9月に火災で焼失したため、再建。


紀州徳川家初代藩主 徳川頼宣が勧請した、三宝荒神社。
珍しい木造の荒神像は、三面六臂の憤怒尊だとか。


こんにちは。


また細い道を走らないと帰れませんので。


応照上人の火生三昧(かしょうざんまい)跡

少し奥へ進み、


この石畳の坂を下りると


弘法大師堂。


弘法大師堂横に、1852(嘉永5)年の道標。


香炉の狛犬さん。


誰。


誰なのー!


室町時代、1509(永正6)年建築のお堂。

弘法大師42歳の時の姿(厄除け大師)と伝わる等身大の坐像が祀られています。

弘法大師堂は、ふたつの建物から構成されます。


篭り堂と大師堂。


古い寺社の楽しみは、床下よね。ねー。


ここが開いていると、ありがたい気分です。(×得した気分)


古いお墓が散在。

さすがに撮影は躊躇われたので、お話だけ。

この弘法大師堂の横には、納骨髪堂があります。

「納骨髪堂とは、平安時代末から鎌倉時代にかけて盛んに行われた熊野参詣の旅人達が、阿弥陀の極楽浄土へ行ける事を願って毛髪を納めたお堂。

その後、室町時代から現在に至るまでも、亡き人の菩提を弔う為に人々が遺髪や遺骨を納めました。

これを「お髪上げ」と言って特に紀南地方の人々はその宗旨に関わらず、必ずと言って良いほど妙法山に来られるのです。」(妙法山阿弥陀寺ホームページより抜粋)

いわゆる分骨堂かな。今は体を分ける、といって避ける地域もありますが、このような古くからの信仰が残り、それが今も続いているところが、すごいなぁと思うのです。


火生三昧跡


亡者のひとつ鐘

人は亡くなると、この鐘をひとつ、撞く。


そして、奥の院へ行き、「死出の山路」と呼ばれる「大雲取越え・小雲取越え」の道を進みます。


妙法山阿弥陀寺には、死者との繋がりを思わせるものが数多く。

しんみりとするのです。


ところが、ですな。



熊野那智大社で聞いたところ、なんと、昔は、那智勝浦から妙法山阿弥陀寺は、新婚旅行でとても賑わったのだそうです。

びっくり。


妙法山阿弥陀寺の駐車場からの景色。

そうかぁ、嬉し恥ずかし新婚さぁん♪の時代には、ここへ。


へぇぇぇー。



参考文献
『熊野検定テキストブック』(編集・発行/田辺商工会議所)
「妙法山阿弥陀寺ホームページ」http://www.za.ztv.ne.jp/yominokuni/myohozan.htm

いつも応援いただきありがとうございます。妙法山阿弥陀寺のご案内でした。四年前の大水害で山が崩れ、昨年からようやく妙法山阿弥陀寺へ通じる那智山スカイラインが通行可能になりました。一車線分の道幅ですが、待避箇所もカーブミラーもあり、交通量が少ないので、難なく走ることが出来るかと思います。道中の景色が素晴らしいので、ぜひ。
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火生三昧。日本初の焼身往生。妙法山阿弥陀寺

こんにちは。


絶景を眺めつつたどり着くのは


人は亡くなるとここへ鐘をつきに来る。「亡者のひとつ鐘」。


妙法山阿弥陀寺。

実は境内の一部が忠度のお話の回で登場済みでして。


妙法山阿弥陀寺境内の、弘法大師堂。


室町時代、1509(永正6)年建築のお堂。

弘法大師42歳の時の姿(厄除け大師)と伝わる等身大の坐像が祀られています。


忠度も、鐘をついたのかな。

さて。

弘法大師堂からほど近くにあるこちら。


唐から来朝した応照上人の火定三昧(かじょうさんまい)跡。

火生とは、生きながら己の身を焼き浄土へ往生しようとする行為・焚(焼)身のこと。

『本朝法華験記』(平安末期、法華経行者の善事をまとめた著書)によれば。


法華経の行者・那智山の沙門の応照上人は、仏道の究極を極めようとして山林樹下に住し、人事雑事を避け、法華経を繰りかえし読んでいた。

薬王品にいう「喜見菩薩(薬王菩薩)が己の身を灼いた」という薬王の姿に感動、共鳴。

これは、全てのの衆生の罪咎を一身に負い、火をもって自らの体を焼き尽くす薬王の姿を表したもの。

上人は決断。

「そうだ。自分も菩薩の如く焚身して仏に供養しよう」


焚身と焼身自殺は違います。多分。


五穀・塩・甘味を断ち、松葉を噛んで食事とし、雨水を呑み、心身共に清浄に保って焚身に備え。

紙衣を着て、香炉を手に、西方を臨んで

「この身をもって法華経に供養し、頭は上方の諸仏に供養し、足は下方の世尊に捧げ奉る」

と唱え、口に法華経を誦し、火を付ける。



上人の身体が火に包まれても読経の声は穏やかで絶えず、
辺りにはまばゆいほどの光が残り、山野を照らした。

鳥が数百羽集まって来て声を合わせて回りを鳴き飛んでいた。


煙は三日三晩熊野灘を漂い続けた。

これが、日本最初の焼身往生。



応照上人の行いは自分の為ではなく、我が身を蝋燭のように心身共に仏に捧げることで、衆生の罪過を償おうとした「利他行」であると。

ここ、大事。



うーむ。そこまでしていただくと、正直、困ってしまうのです。



参考文献
『熊野検定テキストブック』(編集・発行/田辺商工会議所)
「妙法山阿弥陀寺ホームページ」http://www.za.ztv.ne.jp/yominokuni/myohozan.htm

いつも応援いただきありがとうございます。今も護摩焚きの後などに修験者が行っている火渡りも、火生三昧の形だとか。しかし、応照上人のものは、苛烈ですねぇ。ここに至る思考回路はわからないです。ほほーっと現地でお参りしつつ、上人がそこまでして救おうとした衆生ですが、その後も懲りずに罪を繰り返してますよ、と申し訳無い心地になるのでした。
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亡者のひとつ鐘。妙法山阿弥陀寺

こんにちは。


ダルに遭遇する「大雲取越え・小雲取越え」の道。

この道は「死出の山路」と呼ばれ、道中には「亡者の出会い」と名付けられた場所さえあり、亡くなった肉親や知人の霊に出会うことがあるといわれる道。


定家が失神したほど辛い山道だからでしょうか。

さて。


熊野那智大社の奥。


これから妙法山を上り


那智三峯のひとつ、標高749mの妙法山の山頂近くの阿弥陀寺を目指します。

この阿弥陀寺は、死者の霊魂が詣でるお寺。

なぜ死者の霊魂が、わざわざ?


熊野那智大社から細い道をくねくね。

阿弥陀寺には、鐘をつきに行くようですね。


道中、絶景の連続です。


これもこの道中の絶景でした。


お約束。

さぁ、ここが。


妙法山阿弥陀寺。


この鐘をつくために妙法山を上ってきました。

これこそ、


「亡者のひとつ鐘」なのです。

人が亡くなると、その幽魂は必ず妙法山に参り、この鐘をひとつついてから、あの世へと旅立つといいます。


鐘をついたら、妙法山山頂に建つ奥ノ院・浄土堂へ。


幽魂は、枕飯3合を炊く間に、枕元に供えられたシキミを1本持って、妙法山阿弥陀寺へ鐘をつきに来ました。

そのシキミを妙法山山頂に建つ奥ノ院・浄土堂に供え、それから大雲取越えの山路を歩いていくのです。



大雲取越えの山路は、あの世への道。

これが、「亡者の熊野参り」というもの。


ダルに遭遇する「大雲取越え・小雲取越え」の道。

この道が「死出の山路」と呼ばれ、「亡者の出会い」という場所で、亡くなった肉親や知人の霊に出会うことがあるというのは、この「亡者の熊野参り」の伝承によるものなのでした。




妙法山阿弥陀寺の御本尊は阿弥陀如来。御詠歌は、


くまの路をもの憂き旅とおもふなよ 

死出の山路でおもひ知らせん




参考文献
『熊野検定テキストブック』(編集・発行/田辺商工会議所)

いつも応援いただきありがとうございます。この妙法山阿弥陀寺の「亡者のひとつ鐘」。鎌倉末期の文書「元亨訳書」に既に記されており、現在の鐘は1675年に再鋳されたもの。
この鐘は、人影もないのに、時折かすかな音を立てるといわれます。不思議な独特の雰囲気をもった鐘でした。

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熊野古道で取り憑く、ダル。或はヒダル

こんにちは。


後鳥羽上皇の熊野御幸に同行した藤原定家。


『後鳥羽院熊野御幸記』に記されたのは、定家の踏んだり蹴ったりの珍道中。


途中から輿に乗ったものの

「こころな喪きごとく、さらになす方もなし」
「嶮岨の遠路、無力、きわめてすべなし」



急峻な山では、輿を水平に保つことは無理。

特に、熊野那智大社から本宮へ向かう大雲取、小雲取越え35キロの嶮しさは、

終日険岨を超す。心中は夢の如し。
いまだかくの如きの事に遇わず。雲トリ紫金峰は掌を立つが如し。
(略)前後を覚えず(略)この路の嶮難は大行路に過ぐ。


そして、肝心の日記すら

「くまなく記すあたわず」


定家、失神。

上皇の熊野御幸に供奉した定家ですから、一行には先達が付いていて、自身の家臣もいたというのにこの有り様。

下々の熊野詣はいかに難儀であったことでしょう。


定家が愚痴らなかった那智の滝から那智大社への石段でさえ、しんどかったの。

さて。

定家が「雲トリ紫金峰は掌を立つが如し」と記すほど急峻な山越である「大雲取越え、小雲取越え」。

ここは「死出の山路」とも呼ばれ、その道を歩いていると、「ダル」に取り憑かれたり、亡くなったはずの肉親や知人に出会ったりするという不思議な現象に遭遇することあり。

ダル?


これが、「ダル」に憑かれた状態。

急に脱力感に襲われ、意識が朦朧とし、歩くこともできなくなり。

これは険しい山道で餓死した無縁仏の亡霊(ダル)が山中をうろつき、通りすがりの人に取り憑くのだとか。



「ダル」「ダリ」「ヒダル」といわれ、全国各地に伝承が残る悪霊の一種、ダル。
特に熊野を含む紀伊半島で多く伝えられます。

熊野でダルの伝承が残るのは、大雲取の長谷の奥、小雲取の石堂峠、それに辞職峠や笊山峠の辺り。

いずれも嶮岨この上もない山中。


《ダルの傾向と対策》

ダルは、空腹のときに憑かれやすい。

ダルに憑かれたときは米を一粒でも食べるとダルが退きます(熊野辺の言い伝え)。

1。お弁当を食べるときは、一粒でいいから残しておきましょう。


これを口にすれば、たちまち元通り。


2。飯粒がないときは、手のひらに「米」という字を書いてそれを食べる真似をしましょう。


「米」と書きましょうね。緊張してるのもわかるけど。


熊野の生物学者の南方熊楠が体験を記しています。

「予、明治三十四年冬より二年半ばかり那智山麓におり、雲取をも歩いたが、いわゆるガキにとりつかれたことあり。

寒き日など行き疲れて急に脳貧血を起こすので、精神呆然として足進まず、一度は仰向けに倒れたが、幸いにも背に負うた大きな植物採集胴乱が枕となったので、岩で頭を砕く難を免れた。

それより後は里人の教えに従い、必ず握り飯と香の物を携え、その兆しある時は少し食うてその防ぎとした」(『民族』一巻一号)



3。窪地に注意。

ダルに取り憑かれる場所は、昔の人々が「ダルに憑かれる場所は山や硲でたいがい決まっている」と伝えるように、山中の窪地など、風通しの悪い場所。



山中には、落ち葉などの有機物が腐食して発生した二酸化炭素が滞留し濃度が濃くなる場所があります。

ここに入り込み、二酸化炭素を大量に吸い込むと、ダルに取り憑かれた状態と似た症状を示す「二酸化炭素中毒」になる可能性があり。

よって、窪地に近づかないようにしましょう。


4。食べ物必携。

低血糖の時も同じような症状になります。


おやつを忘れずに。



こうならないように気をつけましょうね。

ちなみに。


今夜は湿気が多くてだるいです。


参考文献
『熊野検定テキストブック』(編集・発行/田辺商工会議所)

いつも応援いただきありがとうございます。ダル或はヒダルという存在。大雲取、小雲取越え等の急峻な山越えの道端には無縁仏が点在。熊野那智大社からさらに上ると亡者が突く鐘があり。また、もののけ好きには、あの牛鬼の伝説も残る熊野古道。ぞわっとしつつ、わくわくもします。
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那智勝浦の白蛇弁天。干潮時は弁天島へ

こんにちは。


熊野那智大社からさらに上った妙法山から見た光景。

「そっちは」の「ちは」の上付近が、那智勝浦の温泉街。


いつも、那智勝浦のお宿にはチェックイン開始と同時に入り、まったりします。
かけ流しの温泉と景色がお気に入り。

海辺なのに塩じゃなく、さらさらな肌触りで、少し硫黄の香りがするような、優しい温泉。


お部屋からの景色。漁港と弁天島。


ちょいとお散歩。


「熊野層群中に出来た泥ダイアピル(泥火山)が上昇流動した岩」って場所です。


遊歩道をてくてくするとこんな景色。んふふ。






無限に見ていられます。


がおがお。


この丸い背中がたまりません。


ほほぉ。


あれれ?


マンボウみたいな体形。


今夜のおつまみはー、


那智勝浦の定番。地ビール「熊野古道」と、まぐろどん。

熊野の旅にクーラーボックスは必携。

そして翌朝。


波食台。おいしい景色。磯遊びができるとこ、特に好きぃ。


じー。


だな。おにぎり食べて、ちょっと待つ。


おっし。


すっごく、踏み散らかしているような。


見なきゃよかったぜ、べいべー。


見た目は平なのですが、実はわりとでこぼこしてます。


鳥居まで来ました。


ずーっと来たかったんだ。


白蛇弁天。

白蛇は弁財天のお使い。なので、祭神は市杵島姫神かしら。


雰囲気は、島自体を祀るお社だなー。

熊野は、熊野三山の歴史的な価値もさることながら、このような神社が残されているのも素晴らしいなぁと思います。

この海岸付近を「大勝浦」と称し、『紀伊続風土記』の「勝浦村」の項に

「天満村の巽(東南)14町にある。勝浦村・天満村・浜ノ宮村の3ヶ村はみな海に瀕して東に向かったひとつの海湾である。この海湾を吹浦という。勝浦村はその南の端の出崎にあって、また南にひとつの小さな海湾があって入津湊という。この地は海の中に突き出ていて南北両面に海を受けている。

村名の意味を考えると、このときの出崎細く長く海面に出る葛の蔓のようであるのをもって『かつらうら』といったのがちぢまって『かつうら』となり文字も勝浦書いて来たのであろう。長島荘にも同名がある。」

と記載されています。


熊野の山々。


三男(右端)の足元に、白蛇弁天。


向こうにも岩があるようです。


妙法山を見ているのは間違いないのですが。


いえーい。来たぞー。


調子にのっていると潮が満ちてくるので、適度に退却。


海はいいな。ぺちっ。



いつも応援いただきありがとうございます。那智勝浦の海はとってもきれい。様々な地層と岩があるので、それを観察するのも楽しいです。熊野三山と共に自然信仰の姿が残るのもまた、熊野の面白いところ。世俗にまみれた私には、弁天島を眺めながら、昼ビールに昼ウイスキーに、海の幸。これぞ天国。いえーい、なのです。
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熊野本宮大社と巫女の物狂い。能「巻絹」

こんにちは。


流失前の熊野本宮大社。黄色丸の橋は江戸時代のもの。


なので、上皇の熊野御幸が盛んであった頃は、音無川を渡らなくては参詣出来ませんでした。


明治22年の大水害では本殿はなんとか残ったものの、


今は遷座して高台に鎮座。


かつて熊野本宮大社があった場所は現在「大斎原(おおゆのはら)」と称し神聖な場所。


さわやかな境内です。


洪水対策のため設けられた基壇の上がかつて本殿が存在していた場所です。


かつて社殿があった場所。


中四(第五殿~第八殿)社、下四社(第九殿~第十二殿)が明治22年の大洪水で流出したため、この二基の石祠に祀られています。


この中に、熊野本宮大社の東北にあった地主の神「音無の天神」が合祀されています。


この熊野本宮大社を舞台とした能「巻絹」。


後嵯峨法皇。熊野御幸2回。

ある日、後嵯峨天皇の霊夢により、全国から巻絹を千疋、熊野三山に納めさせますが、都(京都)からの巻絹が遅刻。

使いの男に理由を聞くと、「音無の天神」に手向けの和歌を詠んでいたと答えます。

『音無にかつ咲き初むる梅の花 匂はざりせば誰か知るべき』

勅使は怒り、男を捕縛。


そこへ、「音無の天神」が憑衣した巫女が現れ、私に和歌を捧げたのだから許せと縄を解き


巫女は和歌の功徳を語ります。

ワキ(勅使)
さあらば祝詞を参らせられ候ひて。神を上げ申され候へ

(祝詞を申して、憑いた神を上げなさい)


巫女(シテ)は、幣(ぬさ)を手にして祝詞を上げ始めます。

幣(ぬさ)は、神への供え物であり、神が宿るもの。
また、神が自身の象徴として持ちます。


「祝詞」

(巫女・シテ)

謹上再拜(きんじょうさいはい)。

抑も(そもそも)当山は。法性国の巽。金剛山の霊光。
この地に飛んで霊地となり。今の大峰これなり

(地謡)されば御嶽は金剛界の曼荼羅

(シテ)華蔵世界。熊野は胎蔵界

(地謡)密厳浄土。ありがたや


巫女は「神楽」を舞い始めます。

「神楽」は、5段(洋楽でいう楽章)からなり、1から3は、神社で耳にするようなゆったりとした曲調。


「シズメ(orシズム)」といい、神に礼拝しているような「神楽」独特の型です。

やがて、「神楽」は4段目になると「神舞」というとても早いテンポに急変。

神憑りの有り様を示します。

(地謡)
不思議や祝詞の巫女物狂い。
不思議や祝詞の巫女物狂いのさもあらたなる。飛行を出して。
神語りするこそ。恐ろしけれ。


ここから、熊野本宮大社の各社殿に祀る神と本地仏と、その功徳を唱えます。


本宮。第三殿(證誠殿)。主祭神・家津御子大神。本地仏は阿弥陀如来。

シ『證誠殿は。阿弥陀如来』
地『十悪を導き』 シ『五逆を憐む』



結宮。第二殿(中御前)。祭神・速玉大神。本地仏は薬師如来。

地『中の御前は』 シ『薬師如来』
地『薬となって』 シ『二世を済(たす)く』



下四社。第九殿(一万十万)。
祭神・軻遇突智(カグツチ)。本地仏は文殊菩薩・普賢菩薩。

地『一萬文殊』 シ『三世の覚母たり』
地『十萬普賢』 シ『満山護法(まんさんごおう)』



巫女に様々な神が憑衣し、トランス状態。

数々の神々。かの巫(かんなぎ)に。九十九髪の。
御幣も乱れて。空に飛ぶ鳥の。
翔り翔りて地に又踊り。数珠を揉み袖を振り。
挙足下足(きょそくげそく)の。舞の手を尽くし




これまでなりや。神は上らせ給ふと言ひ捨つる。


(幣を投げることで、神が上がったことを表します。)


(ここで初めて、巫女は我に返ります)

声のうちより狂ひ覚めてまた本性にぞ。なりにける

おわり。


前半は、後嵯峨法皇の熊野御幸の際の「下々の者でも歌を詠んだよ」というお話(『沙石集 巻五』)の脚色。

主題は後半。巫女が神憑りして狂乱して舞う、その姿。

同じ「神楽」でも、『三輪』や『龍田』の女神が舞う場合はお上品。

これに対し、『巻絹』では初めから神憑りした巫女が舞うのですから、次第に高まっていく狂乱の様をドタバタせずにいかに舞うか、とてもお稽古のしがいがある曲なのです。

そして、この曲からわかるのは、熊野本宮大社の巫女は、神憑りするものだということ。

面白いなー。

また、謡の詞章に、熊野本宮大社の各社殿に祀る神と本地仏の名前がはっきりと記されているのも興味をひきます。


神憑りする巫女のいた熊野本宮大社。

熊野はいいところです。


参考文献
観世流大成版『巻絹』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。実はですね、熊野本宮大社にお詣りするときに、「しょおじょおでんなーあーみだにょーらーいぃー」と、ついつい口ずさんでしまって。現地で説明書を読みながら、謡の詞章がデタラメではないことを実感したのでした。すごく感動して、運転しながらぶつぶつと歌って・・・あああ、恥ずかしいっ。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

狂言版「薩摩守」平忠度

こんにちは。


熊野生まれの熊野育ちの忠度。


一ノ谷の合戦時にも、箙に付けた短冊に歌を記していました。


能楽「忠度」では歌人として武人として、とても素敵な男前。

今日は、能と対の「狂言」のお話。

世阿弥の時代の狂言は、滑稽な所作や秀句(洒落)などの言葉遊びを主体とした即興芸で、芸術としては未完成であったようです。

「狂言の役人の事。是又、をかしの手立、あるひはざしきしく(座敷秀句)、又は昔物語 などの一興ある事を本木に取りなして事をする(略)。」 (世阿弥『習道書』)


能楽「忠度」謡本。

狂言の台本は1576(天正6)年の「天正本」が最初。
能に比べ150年以上の遅れです。

ただ、狂言の台本は、筋立ての概略しか記されませんでした。
これは、言葉遊びや民俗芸能を取り入れたり、即興を重視する狂言の特徴でもあります。

実際、現在も、謡曲のお稽古には謡本が必須なのに対して、狂言のお稽古は先生からの口伝なのです。
(それでは無理なので手書きのペーパーが・・・内緒)


何が大変って、言葉のアクセントが関西弁で、ですな。
これは「以呂波」のお稽古。いろはにほへと、すら言えない。


さて。「座敷秀句」、つまり、シャレを楽しむ狂言。


男前の忠度が、狂言では、とんでもないことに。


【天正狂言本『青海苔』】

《あらすじ》
とある茶店。
旅の修行者が来て茶を飲むが茶代を持っていない。

問答の末 亭主はこれを許します。
修行者の行先には大きな川があり、渡し船に乗らなければなりません。
船頭は秀句好きだから何か秀句を言えば大丈夫だと教えます。

さて天橋立、切戸の文殊への参道。舟に乗ろうとすると


(画像は丹後半島、間人の海)

船頭「船賃は?」
修行者「平家侍」



船頭「船賃か、秀句か」
修行者「なかなか」(まあまあ、そんな感じ)


(歌っているのは狂言「千鳥」)

舟の中では歌などを言い交わして、船頭と修行者は仲良く過ごしました。

さて。舟を上がる段になり。


「薩摩守青海苔」とは?


薩摩守→忠度→ただのり→※★◇◎!


船頭「???・・タダノリかよー!」

二人は笑いあい、酒盛りをして能「船弁慶」の謡を謡いましたとさ。

めでたしめでたし。


《曲趣》
1・「船」「別れ」といえば能「船弁慶」のクセの謡(静との別れ)。
2・薩摩守といえば、平忠度。
この二つを誰もが連想して初めて成り立つ、「座敷秀句」のお話。

「船弁慶」の謡が用いられているため、狂言「青海苔」の制作年代が「船弁慶」上演後とわかります。

「船弁慶」の作者は観世小次郎信光(世阿弥の甥の音阿弥の第七子 1450-1516)と判明しているので、狂言「青海苔」の制作はほぼ1500年代前半と推定されています。


【狂言「薩摩守」】

この「青海苔」が半世紀後には「薩摩守」に変容します。

主役/修行者→遠国方の出家
行き先/切戸文殊→住吉・天王寺
渡る川/天橋立からの参道→神崎川

《あらすじ(大蔵流)》

とある茶店。
旅の僧、無一文。
茶屋の亭主は、神崎川の渡しをタダで行けるように知恵を授けます。

船頭はダジャレ問答が好きなので、 船に乗ったら「船賃は薩摩守」と言い、心は?と聞かれれば「忠度(ただのり)」と答えると、船賃をタダにしてくれるだろう、と。



船頭「船賃は?」
修行者「平家の公達」



船頭「船賃か、秀句か」
修行者「秀句」



船頭「その先は?」
修行者「平家の公達、薩摩守」
船頭「あははは」

船が着いて



船頭「そのココロは?」
修行者「・・・(忘れたー!)」



船頭「薩摩守のココロは?」
旅の僧、思い出せません。



修行者「青海苔(あおのり)の引き干し!」



僧は、「薩摩守忠度→ただのり→ただ乗り」を忘れて、唯一覚えていた「ノリ」から、知っている言葉を絞り出したのです。


ひぃぃ。


(いや、舞台が大阪の神崎川なんで、つい)

船頭「やくたいもなし。とっとと行かしめ(怒)。」
修行者「面目ござらん」

となって、おしまい。


《曲趣》
「青海苔」と同様、「ただのり」の秀句が焦点。

本来、僧は無賃乗船が認められていました(能『碇潜』に「無縁の僧に船賃を 取らんと思ふ人こそ 無道心」とある)。

船頭は、無賃乗船を怒ったのではなく、秀句好きなので「言いかけ」の「薩摩守」にワクワクし、そのココロが期待はずれに終わったので、怒り心頭の事態になるのです。

このように、「薩摩守→忠度→ただのり→ただ乗り」の連想は、少なくとも室町時代の終わりには一般に使われていた「シャレ(洒落)」だったんですねー。


こんな決意で一ノ谷の合戦に向かった忠度ですが、


死後数百年経過したらこんなイメージになってしまいましたとさ。

でも、いいんだ。薩摩守といえば忠度、ってのがいつまでも残ったんだもん。

めでたくもあり、めでたくもなし。ちゃんちゃん♪


参考文献
「狂言ハンドブック改訂版」(監修者小林責)
「狂言鑑賞二百一番」(文・金子直樹)
「狂言記 新日本古典文学体系58」(校注 橋本朝生・土井洋一/岩波書店)


いつも応援いただきありがとうございます。「薩摩守」は現在も上演回数の多い曲で、流派やその時の上演する先生によって様々な演出があります。アドリブで台詞を変える時もあります。だからこそ、狂言は面白くて、同じ曲を何度見ても飽きないのです。狂言師では、野村萬斎先生が有名ですね。ドラマや映画で拝見しても、所作がひとつひとつ綺麗でうっとりです。
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能楽版「忠度最期」花や今宵の主ならまし

こんにちは。

本日は、能楽「忠度」のお話。

忠度に限らず、『平家物語』を題材にした能楽の曲は多数。
大半が、平家方の公達の最期の物語。


熊野生まれで熊野育ちの平忠度。

1183(寿永2)年5月。倶利伽羅峠の戦い。
忠度も大将として参戦しますが、木曽義仲に敗退。

兵力の大半を失った平家。


同年7月に安徳天皇と三種の神器を奉じ、都落ち。

能楽「忠度」の後半(中入後)。
須磨の明石に到着した旅僧(ワキ)の夢に忠度が現れます。


平家の烏帽子は、右折れ。(源氏は左折れ)
肩(片)脱ぎは、武人の鎧を表します。
「忠度」独自のものは、背中の矢。



(忠度《シテ》)
恥かしや亡き跡に。姿を帰す夢のうち。
覚むる心は古(いにしへ)に。
迷ふ雨夜(あまや)の物語。
申さんために魂魄にうつりかわりて来りたり

さなぎだに妄執多き娑婆なるに。
何中々の千載集の。歌の品には入りたれども。
勅勘の身の悲しさは。よみ人知らずと書かれし事。
妄執の中の第一なり



勅撰の「千載集」に入ったものの、朝敵である平家の身の上から「よみ人知らず」と書かれた事が妄執の第一だと告げる忠度。

忠度は武人ですが、古今序「生きとし生けるもの何れか歌をよまざりける」の如く歌人でもあります。

歌人であるが故に、自分の歌が「よみ人知らず」として埋もれてしまう悲しさが、この謡曲「忠度」の主題になっています。


年は寿永の秋の頃。都を出でし時なれば。
さも忙しかりし身の。さも忙しかりし身の。
心の花か蘭菊の。狐川より引き返し。
俊成の家に行き歌の望(のぞみ)を嘆きしに。



平家の都落ちの際、狐川(乙訓郡・長岡京市)からわざわざ引き返し、 歌の師匠である藤原俊成に、自らの秀歌を書き留めた一巻を託します。


望(のぞみ)足りぬれば。
又弓箭(きゆうせん)にたづさはりて。
西海の波の上。暫しと頼む須磨の浦。
源氏の住み所。平家の為はよしなしと知らざりけるぞはかなき。



別れを告げ、忠度は一ノ谷へ向かいます。

しかし、一ノ谷の須磨・明石といえば『源氏物語』で光源氏居住の地。
平家には縁のない土地。



以下、謡の描写が具体的なので、連続で記します。

(引用はじめ→)


さる程に一の谷の合戦。今はかうよと見えし程に。
皆々舟に取り乗って海上に浮ぶ。

(忠度《シテ》)
我も船に乗らんとて。汀(みぎわ)の方(かた)に打ち出でしに。
後(うしろ)を見れば。


武蔵の国の住人に。岡部の六弥太忠澄と名のって。
六、七騎にて追つかけたり。

これこそ望む所よと思ひ。駒の手綱を引つかへせば。


六弥太やがてむづと組み。両馬が間(あい)にどうど落ち。


彼の六弥太を取つておさへ。既に刀に手をかけしに。


六弥太が郎等 御後より立ちまはり。
上にまします忠度の。右の腕(かいな)を打ち落せば。


左の御手にて六弥太を取つて投げのけ今は叶はじと思し召して。


そこのき給へ人々よ。西拝まんと宣ひて。

光明偏照十方世界念仏衆生摂取不捨と宣ひし。
(こうみょうへんしょうじっぽうせかいねんぶっしゅじょうせっしゅふしゃ)

御声の下よりも。痛はしやあへなくも。
六弥太太刀を抜き持ち。

つひに御首を打ち落す。

(忠度《シテ》)
六弥太。心に思ふやう。

(地謡)
痛はしや彼の人の。御死骸を見奉れば。



其年もまだしき。長月頃の薄曇。降りみ降らずみ定なき。
時雨ぞ通ふ村紅葉の。錦の直垂はたゞ世の常によもあらじ。
いかさまこれは公逹の。御中にこそあるらめと。
御名ゆかしき所に。


箙(えびら)を見れば不思議やな。
短冊を附けられたり。


見れば旅宿(りょしゅく)の題をすゑ。

行き暮れて 木の下蔭を宿とせば
花や今宵の 主ならまし   忠度

と書かれたり。

さては疑(うたがひ)あらしの音に聞えし
薩摩の守にてますぞ痛はしき。


御身此花の。蔭に立ち寄り給ひしを。
かく物語り申さんとて日を暮らしとどめしなり。


今は疑よもあらじ。花は根に帰るなり。

我が跡弔ひてたび給へ。

木陰を旅の宿とせば。花こそ主なりけれ。(←引用終わり)


【能楽の表現】

矢を入れるもの、箙。


能楽の装束では、簡素化して矢一本で表します。


背中に付けた一本の矢が箙を表現。


「つひに御首を打ち落す」


頭上に上げた扇を、ぱたん、と倒すことで表現。


「忠度の歌の表現」

具体的な詩章で忠度の最期を強く謡った後、「六彌太心に思ふよう」で落ち着きます。

箙の短冊に書かれた和歌は、ゆったりと歌うように。聞かせ処です。

行き暮れて 木の下蔭を宿とせば
花や今宵の 主ならまし
   

舞台ではシテが「ゆぅきーいくれてぇーぇぇーぇーぇー」とゆったりと謡った後で「立廻(たちまわり)」が入ります。
(※立廻:お囃子だけに合わせて舞台を廻る型)

すべてはこの和歌の為にあったのかと思うほど、印象的(私見)。


『平家物語』の「忠度最期」では、忠度は源氏方に紛れて逃亡を図りますが、六彌太に声をかけられた際、お歯黒で「平家だ!」と見破られてしまいます。
忠度を護衛する筈の百人程の者達は臨時雇いであったため、忠度と六彌太が組み合うのを見て、雲散霧消。

残念。




このような気概を持って戦に挑んだ忠度でしたが、和歌への未練は断ちがたく。



旅僧(ワキ)に回向を頼み、「木陰を旅の宿とせば 花こそ主なりけれ」と、花の陰に隠れるように姿を消すのでした。


参考文献
観世流大成版『忠度』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。能楽「忠度」の良さは、謡の音階の美しさと忠度自身の歌の響き。この曲は他の修羅物(武人が主役の曲/殺生をした武人の死後は戦いと苦しみに明け暮れる修羅道に堕ちる)と異なり、修羅道に落ちた苦患を一言も述べず、終始、風雅な武将として忠度を描いているのです。
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