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熊野三山、狛犬さん

こんにちは。

閑話休題、熊野三山の狛犬さんに会いにいきましょー。


熊野三山。都から往復750キロです。これを一ヶ月ですよ、奥さん!


スタート&ゴールの京都市の城南宮。


いつもお土産なし。


道中、身を清めながら


最後に川を渡って、熊野本宮大社へ。


【熊野本宮大社】


明治に流失するまで、熊野川の中洲に鎮座。


現在は少し高台へ。
しかし、3年前の台風12号の大水害で浸水。


鳩胸、くるっぽー。


この子達も水没。


この階段の途中まで、3年前の台風12号の大水害が襲いました。


拝殿は神門と横並び。


綾部市に移された九鬼さんのご子孫ね。


・・・シャキーンシャキーンシャキーン。キャシャーン。


寝癖って、本人が気にするほど他人は気にしない。


首に鈴。おうちわんこ。


いざとなれば、ご主人様の為に戦います。

だって神仏を守護する神獣ですもの。


背筋は割れてるのに、腹筋はぷにぷに。ふふふ。


本宮大社からは、お船。今は国道168号。


この川は海に近づくと


こうなる。雨の後なので、茶色で失礼。

熊野新宮大社の東を流れる熊野川です。


【熊野速玉大社】


熊野速玉大社。


ぼたもち。


ぷ。


照れ隠し。


おお、何といさましいっ。


強がってると、


ふりーだむ!な上皇様に見つめられます。


【熊野那智大社】


那智。


熊野那智大社。


勇ましい狛犬さんですが、


相方さんはトイレの前。


矢ン木ぃーな、神馬さん。


熊野那智大社と並び建つ、青岸渡寺。


山門の中から、声が。


えええー!?


だまされたっ。

うーむ。誰が一番かわいいかな。


ちっちゃいだけじゃ・・・?


熊野でいろんな狛犬さんに会いました。十人十色。

牛鼻神社。紀州最古の社。ぴゃー狛犬。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-254.html

八咫鏡失敗作と下里神社。獅子丸叱られる。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-255.html

宇久井神社。んばあ狛犬の語る宝永地震。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-258.html

木葉神社。土に還りそうな狛犬と神の依り代
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-346.html

風伝おろしの尾呂志神社。ソフトクリーム付狛犬。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-253.html

まだまだいるよー。


いつも応援いただきありがとうございます。大斎原から移動したので、熊野本宮大社は少し新しい狛犬さんですね。熊野三山、それぞれ姿の異なる狛犬さんでした。熊野の狛犬をあなどるなかれ。あちこちのお社で、いろんな子達がお待ちしてます。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

『平家物語』平忠度の都落ちと藤原俊成

こんにちは。

後鳥羽院の熊野御幸に供奉した定家。


道中、障りにあって


踏んだり蹴ったりな有り様。


疲れ果てて、夜の和歌会では夢うつつ。


「和歌で頑張らなくては、どこで頑張るのだ!」と叱るのは、パパの藤原俊成。

後白河院の院宣により『千載和歌集』を単独で編纂した歌人・俊成。
門下生も多いのです。


熊野御幸で参詣した熊野本宮大社から熊野川を下ることしばし。

今日は熊野育ちの文武両道の人物をご紹介。


清盛の弟の・・・


そう。さつまいもくんです!

・・・(ノ-_-)ノ~┻━┻


平忠度くんです!!


【平忠度~武と歌と~】

平忠盛の六男。
兄弟は上から、清盛、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度、忠重、他。

熊野生まれの熊野育ち。
 
「薩摩守忠度は入道の舎弟なり。熊野より生立ちて心猛けき者と聞こゆ。」
(『源平盛衰記』巻第二十三「朝敵追討例附駅路鈴の事」)


1180(治承4)年。正四位下・薩摩守。

反平氏勢力追討のために大将軍として各地を転戦。

源頼朝討伐の富士川の戦い(1180・治承4年)、源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦い(1183年・寿永2年)等に出陣。

最期は1184(寿永3)年2月7日。
一の谷の合戦で源氏方の岡部忠澄の手により討死。享年41。


忠度は歌にも優れており、藤原俊成に師事しています。

1171(承安元)年 太皇太后宮亮経盛歌合
1178(治承二)年 別雷社歌合
1166(仁安元)年から1178(治承二)年頃の為業(寂念)歌合

他に、守覚法親王の歌会などにも参加し、また自邸で歌合を主催したり。

家集に『忠度集』。
『千載和歌集』に1首・『新勅撰和歌集』等の勅撰和歌集に11首が入集。


【『平家物語』と熊野】



祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
驕れる者も久しからず、たゞ春の夜の夢の如し。
猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。



皆様ご存じ『平家物語』の冒頭部分。

『平家物語』が語るのは、平家一門の栄枯盛衰。

この時代に政治の中枢にいたのが、後白河上皇。
熊野御幸すること34回。

『平家物語』の熊野は、上皇や貴族たちによる熊野信仰が全盛を迎えた時代なのです。

この『平家物語』に、忠度と俊成の別れの場面があります。


【『平家物語』巻第七「忠度都落」】

薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん、侍五騎、童一人、わが身ともに七騎取つて返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。

「忠度」 と名のり給へば、
「落人帰り来たり」 とて、その内騒ぎ合へり。

薩摩守、馬より下り、みづから高らかにのたまひけるは、
「別の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門を開かれずとも、このきはまで立ち寄らせ給へ。」 とのたまへば、俊成卿、

「さることあるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ。」 とて、門を開けて対面あり。ことの体、何となうあはれなり。



忠度が五条の三位俊成の門前で「忠度です」と名乗ると、閉じられた門扉の中で「落人がきたー」と騒ぐ声がする。

忠度は開門せずともいいと言ったが、俊成は開門し対面した。
どうしたことか、姿に哀愁が漂っている。




薩摩守のたまひけるは、

「年ごろ申し承つてのち、おろかならぬ御ことに思ひ参らせ候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。
君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。 」



忠度は言う。
「先年より歌道に就いて教えを承り、私は決してあなたを粗末にするまいと思っていました。
しかし、ここ二、三年の京都や国々の騒乱は、わが平家の上に覆い被さっていることなので、日頃は参上致しませんでした。
安徳天皇は既に都を出ました。一門の運命ももはや尽きたのです。」




撰集のあるべきよし承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存ずる候ふ。

世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。

これに候ふ巻き物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をかうぶつて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ。」とて



「和歌集の勅撰の沙汰があると聞き、生涯の名誉に一首だけでも勅撰集に入れて戴けたら、と思っていたものの、世の中が乱れ、その沙汰もなくなってしまったことは、ただひたすら嘆かわしいことと存じております。

世の中が静まったなら、きっと勅撰集編纂のご沙汰があるでしょう。

この巻物の中にしかるべき和歌があり、もし一首だけでも勅撰集に入れて戴けたら、草葉の陰であっても嬉しく存じ、微力を尽くし貴方を御守り致します」と言って




日ごろ詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。


忠度は、今こそ最後と覚悟して出発した時、日頃詠みためた中から秀歌と思われる歌を百余首書き留めた巻物を、持ち出していた。

それを鎧の引き合わせから取り出して俊成に渡した。




三位これを開けて見て、

「かかる忘れ形見を賜はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず。
さてもただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ。」 とのたまへば、


俊成はそれを見て
「このような忘れ形見を賜った上は、ゆめゆめ粗末に致しません。
それにしても、今、この時に来てくれたことこそ情け深く、哀れなことと思い知らされ、感涙が抑えられません」と言ったところ、




薩摩守喜んで、

「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。
浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して。」

とて、馬にうち乗り甲の緒を締め、西をさいてぞ歩ませ給ふ。三位、後ろをはるかに見送つて、立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、

「前途ほど遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す。」

と、高らかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ。



忠度は喜んで、

「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野に屍をさらさばさらせ。
浮き世に思い置くことなし。では、これでお別れでございます」

と、馬に乗り、甲の緒を締め、西をさして進んだ。
俊成は立ち尽くして、忠度の後ろ姿をはるか先まで見送っていたが、遠くから忠度とおぼしき高らかな声がして

「前途程遠し、思いを雁山の夕べの雲に馳す」(※朗詠集にある別れの歌)と聞こえた。

俊成は、とても名残惜しくあわれに思え、涙を抑えて門の中に入った。




そののち、世静まつて千載集を撰ぜられけるに、忠度のありしありさま言ひおきし言の葉、今さら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「詠み人知らず」と入れられける。

さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな

その身、朝敵となりにし上は、子細に及ばずと言ひながら、うらめしかりしことどもなり



その後、世が静まり、千載集の撰集があった。

俊成は、平忠度のあの日の姿、言い置いた言葉が今更思い出されて、哀れだった。
受け取った巻物の中にしかるべき歌はたくさんあったが、忠度はもはや朝敵となった人なので、名前を明かさず、「故郷の花」という題の一首を、「読み人知らず」として載せた。

さざ浪や志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな



天智天皇時代に都であった志賀の都は荒れてしまったが、昔から変わらない長等(ながら)山桜が咲いていることよ。

忠度が朝敵となった上は仕方のないことだが、恨めしいことであったよ。


俊成に歌への心残りを静かに語る姿から一転。



武将・忠度の覚悟の言葉が対照的です。


【忠度の歌】

『千載和歌集』に1首・『新勅撰和歌集』等の勅撰和歌集に11首が入集。

この『千載和歌集』の1首こそ、『平家物語』に語られる「読み人知らず」の歌。

作者が忠度であることは周知の事実であったものの、朝敵の身となったため、撰者の藤原俊成が配慮して名を隠したのです。




『忠度集』より

〈閨冷夢驚といふことを人にかはりて〉

風のおとに秋の夜ぶかく寝覚して 見はてぬ夢のなごりをぞ思ふ



(秋の深夜、寒ざむとした風の音に目が覚めて、途切れてしまった夢のなごりを追想するのだ。)

「閨冷夢驚」とは、「閨(ねや)の冷たさに夢から醒める」の意味。

この歌は鴨長明『無名抄』で「させる事なけれど、ただ詞続きにほひ深くいひなしつれば、よろしく聞こゆ」歌の例として挙げられています。


参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 (下)』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)/『平家物語』本文を引用。


いつも応援いただきありがとうございます。熊野生まれの熊野育ち、平忠度です。次の世代では、武将よりも公家と言うべき雅な平家の公達。それに比べ、忠度は歌もたしなむけれど武家の心構えをはっきりと持っていました。はぁー、好きだ、忠度。
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上皇達の熊野御幸ルート。和歌会の熊野懐紙でお小遣い稼ぎ

こんにちは。


ふりーだむ!な、白河・後白河・後鳥羽上皇。


熊野御幸すること各々多数。


【上皇達の熊野御幸ルート】


スタート地点は、城南宮。

精進潔斎して、陰陽師が出発の吉日を占います。


船で淀川を下り、大阪の天満橋付近で上陸して、陸路を南下。


「本宮→新宮→那智→新宮→本宮」が、上皇の熊野御幸のルート。


1、紀伊半島西海岸沿いに南下(黄色線)。口熊野(田辺)まで。

2、田辺から東進(ピンク線)、熊野本宮大社(本宮)。

「中辺路」ルート。


かつて熊野本宮大社が鎮座していた場所は熊野川の中州。


本宮へお参りするには熊野川を渡らなくてはなりません。




現在は明治22年の大洪水で社殿が流出したため、


中四(第五殿~第八殿)社、下四社(第九殿~第十二殿)が、この二基の石祠に祀られています。

神聖な場所「大斎原(おおゆのはら)」なのです。


3、本宮から熊野川を下り(水色線)、熊野速玉大社(新宮)。






4、新宮から海沿い、那智川を上って(オレンジ線)、那智の滝と那智大社。


新宮から那智へ向かう道中の海。


那智の滝


熊野那智大社



最終目的地の那智にお参りしたら、また新宮へ戻り、同じ道を帰ります。

「本宮→新宮→那智→新宮→本宮」が上皇の熊野御幸ルート。
ほぼ一ヶ月で往復しています。

唯一の例外が、定家も同行した後鳥羽院の4回目。

「本宮→新宮→那智→妙法山『大雲取越え・小雲取越え』の険しい道→本宮」。



実はこれ、妙法山から見ていました。


定家が輿に乗り、そして、前後不覚になったのが、この「大雲取越え・小雲取越え」でした。


【和歌会(わかえ)】

後鳥羽院の4回目、1201(建仁元)年の熊野御幸では、道中の王子社等で和歌会が催されました。

藤原定家の記した『後鳥羽院熊野御幸記』によれば、9回11座が催されています。

10月06日 住吉社

10月07日 厩戸王子

10月09日 湯浅宿

10月11日 切部王子

10月13日 滝尻王子

10月14日 近露宿

10月16日 本宮2座(1座は発心門分)

10月18日 新宮
10月19日 那智2座(1座は阿須賀分)


上皇達の熊野御幸では、神仏を楽しませるものとして、白拍子・馴子舞・里神楽・相撲など、様々な芸能が演じられました。


後鳥羽院の熊野御幸での相撲大会。


定家がひっくり返っていますが、和歌会。

和歌に熱心だった後鳥羽上皇の熊野御幸では、和歌会が催された点が特徴。

28回の後鳥羽上皇の熊野御幸のうち、史料的に和歌会が催されたことが確認できるのは、3回目(1200年・正治2年)・4回目(1201年・建仁元年)の2回のみ。


《熊野懐紙》

和歌会に参加した人々が自分の詠んだ歌を書いて差し出した自詠自筆の和歌懐紙。

熊野懐紙1枚は、縦30~35cm・横50~60cmほどの大きさで、署名がされ、1枚につき2題の歌が1首ずつ書かれています。

各歌会での懐紙は、上皇自詠自筆の懐紙を筆頭につなぎ合わせて一巻とし、裏面に上皇が歌会の催された場所と年月日を記した付札をつけました。

この熊野懐紙。
当時の歌人には宝物と珍重され、都で高値で売買され、後鳥羽院政の収入源にもなったといわれています。


道中、散々な目に遭い


ついには前後不覚に陥った、藤原定家。

和歌会でこそ実力発揮したかったでしょうに、残念・・。


現存する熊野懐紙とその歌の数は35枚、70首。
鎌倉初期の、筆者と書かれた日時場所を断定できる「仮名筆跡」としてとても貴重。

多くは一枚ずつに分けられ掛軸に仕立て直されていますが、そのほとんどが国宝か重要文化財に指定されているのです。



せっかくの熊野なのに、お魚やニラ・葱などは道中お口にできず。

旅慣れた後鳥羽院ならいざ知らず、険しい道のりで他の人も青息吐息だったことでしょうね。


城南宮のこまさん。いつも見送るばかり。


いつも応援いただきありがとうございます。上皇達の熊野御幸、もはや毎年の恒例行事の趣。これにより、熊野三山は中央との結びつきを得て大いに発展します。清盛から源平合戦、鎌倉幕府の樹立の時代と重なり、『平家物語』にも熊野の名前は頻出。興味の尽きない熊野なのです。うふふ。
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「後鳥羽院熊野御幸記」藤原定家へろへろ日記

こんにちは。



後鳥羽院の熊野御幸のご案内。

「熊野御幸記」

1201(建仁元)年10月。
22歳の後鳥羽院の3回目の熊野御幸に供奉した藤原定家、40歳。

定家の日記『名月記(明月記)』から後鳥羽院の熊野御幸に従った時のものを抄出したもので、定家の直筆本のため、国宝。

「後鳥羽院熊野御幸記」 「熊野幸庫記」「熊野御幸道之間記」「熊野詣記」などの別名があります。

22歳の後鳥羽院。インドア派の定家が何故同行したのか。

院政実力者の内大臣・源通親が熊野に随従するため、なんとか取り入って権少将から中将に官位をあげてもらおうと切望したわけで。



定家の任務は、後鳥羽院一行に先駆けて船や昼食、宿所を設営する役。



暁暗に起き出し、輿に乗り馬を馳せ、御幸の先触れや途中の王子社での御経供養や奉幣と走りまわります。

既に歌での名声はあった定家。

それ故の悲惨な事態に陥ります。
必死に供奉のお仕事を終えた夜。今度は後鳥羽院のお召しで歌会の講師。

定家、四苦八苦。あげくに失神。

へれへれになって詠んだ歌に「霜の心すでにもって髣髴(おぼろおぼろ)たり、卒爾の間、力及ばず」と傍書するほど。


【熊野道之間愚記 略之 建仁元年十月】

五日 天気晴れ


白河・後白河・後鳥羽院の出発地は城南宮。

御供の人
内府(源通親)・春宮権太夫(藤原宗頼※私的なお供)・右衛門督(坊門信清)・宰相中将(西園寺公経)・三位仲経(藤原仲経)・大弐(藤原範光)・三位中将(久我通光※源通親の3男)

殿上人
保家(藤原保家)

その他
藤原保家・土御門定通(源通親の4男)・藤原忠経・源有雅・中院通方(源通親の5男)

上北面(殿上人)はほぼ全員。下北面(武士)は精撰した者。

面目は身に過ぎて恐れ多い。人はきっと毛を吹く(あらさがしする)心があるんだろな。はーあ。

今日は天王寺まで。

夜に入って、左中弁が題三首をお書きになる。明日住江殿において披講(和歌会などで作品を読み上げること)せよとのこと。

疲労している間は沈思することができないよ。寝よ寝よ。


九日 天気晴れ



朝の出立がすこぶる遅れたため、皆様は既に王子(藤代王子)の御前にて御経供養などを行なっているそうだ。

営みに参ろうとしたが、白拍子の間、雑人が多く立っていてそこへ行けない。しもたー。


これから先の宿所をまた文儀の従者の男(定家個人の先達)の手配で取る。

件の宅は憚りがあるとのことを聞き付ける。


なんと、父の喪70日ほどで、忌中だった。


よって小宅を騒ぎ出て宿所に入った。

先達はこのようなことは憚からないとのことを言われる。

そうだといっても臨時の「潮垢離」をして、景義に祓わせた。
これは臨時の事である。



精進潔斎して生臭も絶って熊野三山に向かう旅。
喪中の家に泊まることは許されるはずがなく。

定家は穢れを取り去るため、初冬の冷たい海水で「潮垢離」をせざるを得ず、このため風邪気味になります。



この湯浅の入江の辺りは松原の景色が素敵だ。

家長が歌題2首を送る。詠吟は疲労していて、甚だ術がない。

灯りをともして以後、また立烏帽子を着けて一夜のように参上。
しばらくして蔀の内に召し入れられる。
また講師の事を仰ぐためである。終わってすぐに退出する。

題 深山紅葉 海辺冬月 愚詠。今日もまた2首当座

こゑたてぬあらしもふかき心あれや みやまのもみぢみゆき待けり

声を立てない嵐にも深い心があるのだろうか。御山の紅葉が御幸を待っていたことだ。

くもりなきはまのまさこにきみのよの かずさへ見ゆる冬の月かげ

曇ることなく澄んだ冬の月の光。その光に照らされてはっきりと見えている(吹上浜の)細かな砂(の粒の数の多さ)に、あなた様の齢の数までもが見えるようです。
(後鳥羽上皇様、どうかお健やかにご長寿でお過ごしくださいませ。)

毎夜毎夜の後鳥羽院からのお呼び出し。
日記の前半では、詠まれた歌をきっちりと書き留めています。



十日

仮屋が少ないので、無縁の者は入らない。

縁のある者で小宅を占め、簡札を立っているところに、内府(内大臣。源通親)の家人が押入って宿した。


(源通親の家臣に追い出された定家)

出ずべ可ざる之由念怒すとのこと。
ただ人の身分によって不公平になるのか。

灯りをともして以後甚しく雨が降る。今夜は甚だ熱い。最も暑い時期と同じだ。帷を着る。



南国の気か。蠅が多く、また夏のようだ。


 十二日 天気晴れ

明け方に御所に参る。出御前に先陣する。
また山を越え、切部中山王子に参り、次に浜に出て磐代王子に参る。
ここは御小養のための御所であったが、入御はなし。

この拝殿の板は毎度御幸の人数を書き記される(先例とのこと)。
右中弁が番匠(大工)を召して、板を外してカンナをかける。
人数を書いて元のように打ち付けさせる。

建仁元年十月十二日
            陰陽博士晴光はいまだ参らず
            上北面はこの人数中之
            中其着無術之由
            もって左中弁が申し入れる
            可被聴上北面之由被仰下了
  御幸4度
  御先達権大僧都法印和尚位覚実
  御導師権大僧都法印和尚位公胤
  内大臣正二位兼行右近衛大将皇太弟傳源朝臣通親
  

昨夜、寒風が枕を吹き、咳病が忽ちに発し、心神甚だ苦しむ。
この宿所はまたもって荒々しい。



「潮垢離」を昨日今日の間に一度しろ、と先達が命じていたので、今日やはりこの事を遂げる。

 
十四日 天気晴れ

近露宿所に入る。


滝尻からここに至るまでゴツゴツ・デコボコの険しい山道で、目が眩み、魂が転んで恍々とした。



昨日、川を渡って、足をいささか痛める。
よってもっぱら輿に乗る。

午の時の終りころに御幸終わる。すぐに題をくださる。
また二首。


十六日 天気晴れ
(熊野本宮大社へ到着する)

明け方にまた発心門を出て、王子2(内水飲、祓殿)、祓殿から歩いて目指し、御前に参る。


(画像:熊野本宮大社の狛犬)

山川千里を過ぎ、ついに宝前に拝み奉る。

感涙が禁じがたい。

それから宿所に入り、明け方、更に祓殿に戻って参る。


この間に舞・相撲(御加持、引き出物)などが行なわれたとのこと。
その儀式は見ない。

咳病がことさら起こり、なす方なし。


心神無きがごとし。殆んど前途を遂げ難し。腹病、あげくだしなどが競い合う(T_T)

灯りがともって以後また「水垢離」。

病のせいでなす術無し。

また昼の装束(ひのしょうぞく。束帯)を着る。

先達と共に御前に参り奉幣する(私奉幣)。
その儀式は昼の御拝のようだ(公私で変わらない。幣の先は左に向けて)。

衆人の狼藉はあさましい(※経供養の事)。
次に経供養所に入る。(人が多いので西経所とのこと)。
導師が来て説法して、布施を置いた(被物1・裏物)。

次に火に滅す(炉に火がある)。
加持僧12人が来て加持し、布施を置き(貧乏により綿各7両)、退き出る。

この経所の路より宿所に入る。



病で倒れそうになるのを支えて、また御所に参る。

数刻、寒風にさらされ、病身にはなす方なし。

夜中に召し入れられる。


    
歌はおよそ尋常でなかった。希有の不思議である。

予は疲労し、病の苦しみにはなす方なし。読み上げ終わって退出。

心中なきが如し。まったくなす方なし。

満身創痍の定家に対し、後鳥羽院は元気もりもり。夜中に呼び出されるものの、もはや歌を書き留める気力も体力もない定家。
ただひたすら、しんどかった様で・・・。



十八日 天気晴れ
(熊野本宮大社から熊野新宮大社には、船で下ります)

(乗船の間の事)
明け方に宝前を拝む。川原に出て船に乗る。
宛てがいくださった船が1艘、私が個人的に雇った船が3艘、併せて4艘。

川の途中に種々の石などがある(あるものは権現の御雑物と称する)。
未の一点ころに新宮に着き奉拝。


十九日 天気晴れ

明け方に宿所を出て、また道に赴く。



輿を持って来たのでやはりこれに乗る。

未の時(午後2時頃)、那智に参着する。

(那智に御参りの事)
先ず滝殿に拝す。(輿から下りる)



険しく遠い路で、明け方から食べていないので力がない。
極めて術なし。次に御前を拝して宿所に入る。

しばらくして御幸とのこと。
日が入ったころ、宝前に参ると、御拝奉幣なさっている。

また祝師(神職)の禄を取って、次に神供を供えさせる。
別当がこれを設けて取る。

(伝供の事)
公卿が順番に取り継ぐ。一万十万等の御前。殿上人がやはり順番にこれを取り継ぐ。予も同じくこれを取る。

次に御経供養所に入御。例の布施を取り、次に験比べとのこと。
この間に私的に奉幣し、宿所に退き下がる。

夜中に御所に参り、例の和歌が終わって退き下がる(二座である、一は明日香(阿須賀神社)とのこと)。


疲労病気の間は、毎時夢のようだ。

 
二十日 明け方より雨が降る

いよいよ大雲取越えの難所。

松明がなく、夜明けを待つ間、雨が急に降る。
晴れるのを待ったが、ますます雨は強くなる。

よって営を出て(雨が強いので蓑笠で)1里ばかり行くと夜が明ける。
風雨の間、路が狭く、笠を取ることができない。

蓑笠を着、輿の中は海のようで、林宗のようだ。

1日中かけて険しい道を越える。



心中は夢のようだ。いまだこのような事に遇ったことはない。

雲トリ紫金峯は手を立てたようだ。
(手を立てたように、急峻な山だー)

(紫金を越える事)
山中にただ一宇の小さな家がある。右衛門督(藤原隆清)がこれに宿していたのだ。
予は入れ替わってそこに入り、形のような軽い食事をする。

その後、また衣裳を出し着る。ただ水中に入るようだ。この辺りで、雨が止んだ。


前後不覚。

戌の時(今の午後8時頃)頃に、本宮に着き、寝に付く。

この路の険難さは「大行路」以上だ。

記すいとまがない。

定家、とうとう日記を記すことも出来ず。

 
二十二日 天気晴れ

明け方に近露を出て、滝尻に下る。


明日三つの宿を越さなければならない。
遠路で人が多くしようがないから、今夜このように迷惑する。

峠を越えたこの辺りから、定家はスピードアップします。往きは十六日を要した道のりを帰りはわずか六日で京に戻っています。

 
二十三日  天気晴れ


今日はたまたま休息。終日寝た。


二十六日  天気晴れ

京都に帰着。様々な所へ立ち寄った後、定家は洗髪沐浴してから寝付きます。

最後のひとこと。




「今夜は魚を食す。」


 二十七日    

(道中の雑物を先達の許に送る事)
早朝、道中の雑物(日常用いる雑多なもの)をことごとく水で洗い、また雑物などを取り集めて先達の許に送る。

これは恒例のことであるとのこと。
文義がこれを指図する。


以上。定家の熊野御幸へろへろ日記でした。



定家にとっての熊野随行は、後鳥羽院と内大臣右近衛大将に接近を図り、追従をして中将への昇進を掴み取る旅であり、また熊野三山の神仏に大願成就を祈願する旅でもありました。

12月23日、除目(任官の儀式)の日。

定家のもとには何の音沙汰もなし。



熊野の神仏、無情。

ただ、この旅の後、定家は源道具ら5名とともに後鳥羽院に『新古今和歌集』の編纂を命じられ、その選者として名を残すこととなるのでした。


参考文献
『国宝 熊野御幸記』(三井記念美術館・明月記研究会共編、八木書店)


いつも応援いただきありがとうございます。藤原定家といえば、おすましさん、のイメージだったのですが、この熊野御幸随行の日記からは、ちょっとドジっ子で、お茶目さんな人物像を垣間見ることができました。それにしても、大変な熊野旅でしたよねぇ。
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後白河上皇。『梁塵秘抄』と35回の熊野御幸

こんにちは。


熊野那智大社【第6回】


熊野速玉大社の石碑。

白河上皇9回、鳥羽上皇21回、崇徳上皇1回。

後白河上皇(1127~1192)、35回(諸説あり)
後鳥羽上皇(1180~1239)、29回

後白河上皇は35年の在院期間のうちに35回の熊野御幸を行ったのに対し、後鳥羽上皇は24年の在院期間のうちに29回。

熊野御幸は、往復におよそ1ヶ月費やすので、後鳥羽上皇はおよそ10ヶ月に1回という驚異的なペース。


いくら上皇は「ふりーだむ!」な立場とはいえ、お供もいい迷惑。


【後白河院、その濃いーい人生】

後白河院の生涯は、源平の争い、そして、武家政権の確立の時代。

どんな人がいたのか。院の前に現れた面々はこちら。



仲良しだったり、幽閉されたり。思ひで深い人。

清盛の日宋貿易に興味を持ち、協力的な後白河院。
宋人とも面会します。

宇多天皇の遺戒により厳禁だった外国人との接見です。
「我が朝延喜以来未曽有の事なり。天魔の所為か」(by九条兼実)

平清盛は、第1回目の後白河院の熊野御幸に同行(当時の清盛は大弐の位)。


序列を争う叔父と甥。新宮行家と木曽義仲。


「以仁王の平家追討の令旨」に呼応。

倶利伽羅峠で平家をなぎ倒し、行家を迎え、後白河院を救出しつつ上洛。

いけずな都人にいじめられ、後白河院を幽閉したり、「打倒平家!」のはずが、いつのまにやら「打倒、頼朝!」。

最期は源範頼・義経の追討軍により、粟津で討死。


びみょーに諸悪の根源な人。頼朝の叔父。

父は河内源氏の棟梁・源為義。
同母姉に、新宮別当家嫡流の行範(19代熊野別当)の妻・鳥居禅尼。

以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達。
頼朝→義仲→義経、と身を寄せる相手は変幻自在。お口が達者なのが特徴。

後白河院の碁仲間。


義仲の後、都へ来たヒーロー義経と、最強のSP弁慶。


速玉大神に仕える熊野三党のひとつ、鈴木一族の出自と熊野速玉大社では伝わる武蔵坊弁慶。

義経は、幼い頃鞍馬にいたので、ちょっと都風。後白河院の狛犬、いや、駒。

平家を滅ぼした後、兄の頼朝と不和になり、後白河院に要請して頼朝追討の宣旨を賜るも、次は逆に源頼朝の要請により義経追捕の院宣が下る。少し残念な悲劇の人。


後白河院に「日本国第一の大天狗は、更に他の者にあらず候ふか」(『吾妻鏡』11月15日条、『玉葉』26日条)と言った人。

1190(建久元)年11月7日。頼朝は千余騎の軍勢を率いて上洛。

後白河院と頼朝は何度もお話。

頼朝の諸国守護権が公式に認められ、「武家が朝廷を守護」する鎌倉時代の政治体制が確立することになりました。

しかし、後白河院は頼朝に地頭職を握られた事で、院政の財政的な基盤を失うのです。


1192(建久3)年3月13日。後白河院、崩御。

同年7月12日。 源頼朝、征夷大将軍に就任。


【後白河院の熊野御幸】

35回。


(画像:熊野速玉大社の小太りな狛犬さん)

・・・ひまじん?


後白河院は、自宅の法住寺殿に、鎮守として日吉社の他に熊野社を建立するほど熊野信仰に夢中。

熊野社は、熊野詣に出発する前の精進・参籠の場となりました。

ちなみに、この法住寺殿の南殿の北側に造立されたのが、蓮華王院(三十三間堂)。平清盛の寄進。


《『梁塵秘抄』にみる熊野御幸》

後白河院といえば、「今様」好き。

院の撰述による『梁塵秘抄』は、歌集十巻、口伝集十巻の計二十巻であったと推定されますが、現存は、歌集巻一の断簡と巻二、口伝集巻一の断簡と巻十。

口伝集には、1回目と2回目、そして12回目の熊野詣のことが記されています。


《後白河院の熊野デビュー》

1159年。平治の乱が勃発。

1160年。後白河院、初めての熊野御幸。34歳。


平清盛、同行。

10月17日より精進を始めて、法印覚讃(かくさん)を先達にして、23日に出発。

道中の長岡王子で、後白河院は今様を歌います。


熊野の権現は、名草の浜にこそ降り給へ、
 
和歌の浦にしましませば、年はゆけども若王子

(『梁塵秘抄』「巻二 四句神歌 神分」) 

 

11月25日、幣を奉り、経供養・御神楽などを奉納。
礼殿にて院の音頭で、古柳・今様・物様まで数を尽くす間に、次々に琴・琵琶・舞・猿楽を尽くした。初めての熊野詣のときのことである。

 
《後白河院の熊野御幸。2回目》

1162年。正月21日より精進を始めて、同27日に発つ。

2月9日。本宮に幣を奉る。本宮・新宮・那智の三山に三日ずつ籠って、その間、千手経を千巻(1000回)転読。


熊野本宮大社・本宮。第三殿(證証殿・主祭神の家津御子大神)


那智。

同月12日。新宮に参って、いつものように幣を奉る。



夜が更け、社殿の前へ上り、宮廻ののち礼殿で通夜、千手経を読む。
しだいに皆、居眠り。

夜半過ぎ、神殿の小さな火の光に御神体の鏡がところどころ輝いて見える。
しみじみと心が澄んで涙が出た。

明け方、礼殿で歌う。

「よろづのほとけの願よりも 千手の誓ひぞ頼もしき

枯れたる草木もたちまちに 花さき実なると説いたまふ」



この時、覚讃法印が社殿の前の松の木の上にて

「心とけたる只今かな~♪」、と、神の歌う声を聞いたという。




《後白河院の熊野御幸。12回目》

次は12回目。1169年、院43歳のときのこと。

正月9日より精進を始めて、同14日に発つ。26日に幣を奉る。


この時はまだ出家前。
「俗体では今回が最後の熊野詣になるだろうと思われる」熊野御幸でした。



熊野本宮大社・若宮。

今回は、両所権現のうちの西の御前(結の宮)から《麝香(じゃこう)の香》が漂ってきた。


熊野本宮大社・結宮。

神殿のすだれが動き、そこに懸かっていた御神体の鏡がみな鳴りあったので、びっくりして立ち去った後白河院一行。


「ほとけは常にいませども うつつならぬぞあはれなる

人のおとせぬあかつきに ほのかに夢にみえたまふ」

(『梁塵秘抄』巻第二 26)


なかなかシュールな体験をしたようで。




「巻二 四句神歌 神社歌 熊野二首」

 
「紀の国や牟婁の郡に坐(おは)します 熊野両所は結ぶ速玉」
 
「 熊野出でて切目の山の梛(なぎ)の葉は  

 万(よろず)の人の上被(うはぎ)なりけり」



熊野速玉大社の梛の木。


(私見)
後白河院の人生を見ると、権謀術数というよりは、目の前の事態に振り回されて、些かパニックになっているような。

今様に夢中だった皇子が成りゆきによって突然天皇となり、上皇となり。
これまた成りゆきで武家勢力と相対峙することになり。



しかし本来の後白河院は、35回に及ぶ熊野御幸から見るに、仏教への深い信仰心もさることながら、道中で今様を徹夜で歌い明かし、今様の名手の女芸人に歌を習ったりする日々こそ、本来の後白河院の姿のような気がします。


熊野に関してこんな記事も書いてます。

「丹鶴城の丹鶴姫。熊野別当物語。」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-239.html

「阿須賀神社と大威徳明王。狛犬はネックレスでおめかし」速玉大社の境外摂社
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-237.html

「大斎原。水霊の斎く霊地」熊野本宮大社の旧境内地
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-214.html

「波田須の道は鎌倉石畳。伊勢路最古の熊野古道」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-216.html



参考文献
『熊野三山信仰事典』(加藤隆久編・神仏信仰事典シリーズ(5) 戎光祥出版)・『和歌山県史』・『神道事典』

「熊野学」(新宮市教育委員会)http://www.city.shingu.lg.jp/div/bunka-1/htm/kumanogaku/index.html


いつも応援いただきありがとうございます。白河上皇は9回に及ぶ熊野御幸!と昨日は叫んでおりましたが、今日の後白河院てば35回。鎌倉目線の小説では、まさに「大天狗」な後白河院ですが、熊野御幸では家臣とごろ寝したり、恐怖で走って逃げたり、とても楽しい人です。エネルギッシュな人物だったのかなー。
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白河上皇の熊野御幸。熊野フィーバーの始まり

こんにちは。

熊野那智大社【第5回】

熊野が世間に広まるのは、上皇達による熊野御幸。

熊野を初めて詣でたのは、907年の宇多法皇。


992年の花山法皇。百日滝籠まで成し遂げました。

次に、1090年。白河上皇の熊野御幸。
いよいよ熊野信仰がフィーバーします。


【白河上皇の熊野御幸】

熊野御幸の初回は、1090年。白河上皇、37歳。
1116年から5年連続、25年より3年連続。最後の28年は亡くなる前年。
実に合計9回。

白河上皇といえば、原摂関家から実権を奪い、「院政」を始めた上皇。


《白河上皇の院政》



藤原氏の「摂関政治」は、藤原氏が天皇の外祖父になり、天皇の幼少時は摂政、成人してからは関白として政治の実権を握る形態。

ここへ、宇多天皇以来170年ぶりに、藤原氏と外戚関係のない天皇が即位します。

後三条天皇。

白河天皇の父上様です。

後三条天皇は権力を摂関家から取りあげ、天皇親政を行い、国政の改革に取り組み、4年半の在位後、白河天皇に譲位。


白河天皇。

白河天皇の母は藤原氏出身ですが、摂関政治を許さず、反藤原・天皇親政を貫きます。

1086年、譲位(堀河天皇は8歳)。白河上皇(院)となります。

上皇が政治の実権を握る新しい政治制度「院政」を開始。

白河上皇の院政は堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇の3代、43年間。
天皇在位中と合計すると、57年間、政治の実権を握り続けました。

「意の如くにならざるもの、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つ」


《その頃の熊野》

『扶桑略記』永保2年(1082)10月17日条

「十七日甲子。熊野山犯来大衆三百余人。荷負新宮那智御躰御輿。来集粟田山。暫安御輿於其山口。大衆参入公門。訴尾張国館人殺大衆等之状也。」


熊野の大衆が新宮・那智の神輿を奉じて上洛(粟田山)したことが記されています。


(画像:熊野市木本神社の神輿)

これは「那智」の史料上の初見とされ、強訴で神輿を動座した初例ともされる文書。


『熊野本宮別当三綱大衆等解』1083(永保3)年9月4日
 
熊野別当が神領の押領を訴えた記録。

「三所権現の護持」とあって、この頃には、三山が共通して権現を祭る「熊野三所権現」が成立していたと考えられる資料。

「権現」とあることから、永保年間には熊野の地は神仏が習合し、本地垂迹説により神が語られていたことが推測できます。

※熊野権現とは、家都御子神・熊野速玉男神・熊野牟須美神の三柱。
熊野三山はこの三柱を互いに祀っています。


神像。


各々に対する本地仏。


《白河上皇と熊野御幸》

朝から晩まで多忙で自由のない天皇の一日。

それに比べ上皇は、「天皇の父」として権力・財力を持ち、自由の身(「上皇」に法的根拠はない)。


「熊野御幸」はあっても「熊野行幸」がないのは、この差。


1090年。白河上皇の熊野御幸。

これは熊野にとって、実に大きな意味をもつものでした。

1。先達を勤めた園城寺の増誉(ぞうよ)が初代の熊野三山検校に任命された。



「先達」とは、案内人。

園城寺(三井寺)の最高責任者で、当代一の高僧として名高かった増誉(1032~1116)。

「検校(けんぎょう)」とは、社寺の総務部。


(画像:熊野那智大社に残る本願寺跡)

「熊野三山検校」とは、熊野三山を統括する最高位の役職(名誉職)。
現地に赴任することはなく、お仕事は熊野御幸の折に先達をつとめる程度で、実際の統括は熊野別当が行いました。

増誉以降、園城寺か聖護院(増誉が熊野御幸の功により開いた寺)の僧が熊野三山検校に任じられることが慣例となりました。

〈熊野のメリット〉
熊野三山が、都とのつながりを持てたよー。


2。上皇が熊野三山に紀伊国の田畠百余町を寄進

山、すぐ、海!の地形で耕作地に恵まれない熊野三山が、経済的地盤を持つことが出来た。


(画像:熊野古道・波多須の石畳)

不動産が、好き。


3。熊野別当の長快(ちょうかい)に法橋(ほっきょう)という地位を与えた。

「熊野別当」とは、熊野三山の統括者。

「法橋(ほっきょう)」は五位に準じます。
これをもって、「熊野別当」が朝廷から正式に承認を得たことになるのです。

白河上皇にしてみればたわいもない任官であったかもしれませんが、熊野三山からすれば、都、つまり、中央との結び付きを得た上に、財政基盤までも得ることが出来た、大きな意味をもつものでした。


(画像:熊野本宮大社の参道)

そして、白河上皇の熊野御幸は9回。


【白河上皇の熊野御幸の影響】

白河上皇に続く上皇方の、「ほんと?」と思うほどの回数の熊野御幸。


熊野速玉大社の石碑。

白河上皇 (1053~1129)、9回(速玉大社では12回)
鳥羽上皇 (1103~1156)、21回
崇徳上皇 (1119~1164)、1回
後白河上皇(1127~1192)、35回(速玉大社では33回)
後鳥羽上皇(1180~1239)、29回
土御門上皇(1196~1231)、2回
後嵯峨上皇(1220~1272)、3回(速玉大社では2回)
亀山上皇 (1249~1305)、1回

このように歴代上皇をはじめ貴族の参詣が続きました。


(画像:熊野速玉大社の小太りな狛犬さん)

善行を重ねるほどに熊野三所権現の功徳が増すという「多数作善功徳信仰」が上皇らの熊野詣での回数に表れているのかどうかはわかりませんが、熊野はとんでもなくフィーバーするのです。


熊野三山について、こんな事を書いております。

「熊野三山の発祥地。太古より阿須賀に神はおわします。」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-236.html

「熊野本宮大社でキャシャーンに出会った。」参拝記録
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-213.html

「熊野速玉動物園。もとい、熊野速玉大社。」参拝記録
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-196.html

「熊野本宮大社周りをうろついて串本へ。」宮司は九鬼さん。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-207.html


参考文献
『熊野三山信仰事典』(加藤隆久編・神仏信仰事典シリーズ(5) 戎光祥出版)・『和歌山県史』・『神道事典』

「熊野学」(新宮市教育委員会)http://www.city.shingu.lg.jp/div/bunka-1/htm/kumanogaku/index.html


いつも応援いただきありがとうございます。白河上皇は9回に及ぶ熊野御幸で、何を見て、何を得たのでしょう。白河上皇は3回目の熊野御幸に寵妃・祇園女御とその養女・璋子を同行しておりますが、問題はこの璋子。白河上皇は、養女璋子とラブラブ♪なのに、孫の鳥羽天皇の后にさせます。この璋子こそ、待賢門院。白河上皇、熊野に璋子を4回も同行してます。うは?うは?
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花山法皇の出家と那智の滝千日籠

こんにちは。


熊野那智大社【第4回】


往時の熊野信仰を物語る仏教説話集『三宝絵詞・三巻』。

この『三宝絵詞』の成立年である984(永観2)年に即位したのが、花山天皇。


【花山法皇と熊野】

花山天皇(968~1008)は、冷泉天皇の第一子。984年、17歳で即位。


《花山天皇の出家~『大鏡』の世界~》

時代背景は、藤原氏の摂関政治の時代。


藤原道長の頃に絶頂期を迎えます。

道長の父は兼家(当時は右大臣)。

兼家が摂政になるには、自分の娘・詮子(せんし)が生んだ懐仁親王が天皇即位する必要があり、その為に花山天皇を退位させようと計画。

当時の花山天皇は最愛の妃の死を嘆き、出家を考える状態。
天皇が出家するには、退位して上皇にならねばなりません。


息子の藤原道兼が「共に出家しましょ!」っと、花山天皇を夜中に京都東山の元慶寺(花山寺)へ誘い出します。

まず、花山天皇が剃髪。


ところが道兼、脱走。

花山天皇の出家の翌日。

わずか7歳の懐仁親王が即位し、一条天皇が誕生。

兼家は摂政に就任。

986年、花山法皇、19歳の時の出来事でした。


《花山法皇と「箸折峠」》

はーとぶれいくな花山法皇。


「そうだ、熊野へ行こう。」(画像:大阪市「八軒家跡」側の表示)

道中のランチタイムにて。



お箸を忘れた家臣が、代わりに茅を折って差し出すと、その茅の茎から、血のようなものが滴りました。

花山法皇は問います。「これは血か、露か」。

以来、ランチタイムをした峠を「箸折峠」、峠の先の里を「近露(ちかつゆ)」と呼ぶようになりましたとさ。


熊野古道の中辺路の「箸折峠」にある、「牛馬童子像」。


《花山法皇の熊野参籠》

花山法皇は熊野へ到着後、よほど居心地が良かったのか、那智の滝上流の「二の滝」近くに庵を結び、千日の修行をします。



『源平盛衰記』

「花山法皇御参詣、滝本に三年千日の行を始め置かせ給へり。
今の世まで六十人の山篭とて、都鄙の修行者集りて、難行苦行するとかや。」


「花山法皇は那智で千日の滝籠を行いました。
それ以来、60人の修行者が山籠し難行苦行したそうです。」

この時、花山法皇の前に現れた龍神から、「如意宝珠一顆と水精の念珠一連と九穴の蚫貝一つ」を貰います。

法皇は供養をして、今後も続く行者達の為に「宝珠は岩屋の中に、念珠は千手堂の部屋に各々納め、蚫は一の滝壺に放ち置いた」のでした。



「花山法皇御参籠時、三重瀧ニ本地千手如意輪馬頭ト顕御ス」(『熊野山略記』)

花山法皇の那智滝籠中に、本地仏の千手観音と如意輪観音が現れた、という霊験譚。


「一条(天皇) 正暦三壬辰 法皇熊野行幸那智山滝本本尊御寄進、本宮法華経一部納、新宮へ御狩衣束納、八月上に還御御飾を妙法山に納一寸八分の金仏を令納。」(『熊野年代記』)

992(正暦3)年、花山法皇は那智山滝本に本尊を寄進し、本宮へ法華経一部を納め、新宮には狩衣装束を奉納。
8月上旬には都に戻り、法皇の令により妙法山に一寸八分の金仏を納めました。


《花山法皇と西国三十三ケ所観音霊場巡り》


那智大社と並んで建つ現在の青岸渡寺は、西国三十三箇ヶ所巡りの一番札所。

参籠していた花山法皇の前に、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けます。

花山法皇はこれに従い、那智で千日の滝籠の修行を終えると、西国三十三ヶ所観音霊場巡礼を行い、各地で歌を詠みます。

これが、「御詠歌」のはじまり。

花山法皇が西国三十三ヶ所観音霊場巡礼の中興と言われる由縁です。



明治までは、如意輪堂。

本尊の如意輪観音を祀り、熊野那智大社の一部でした。

神仏分離時、花山法皇が再興した経緯があることから、「青岸渡寺」として神社から分離させ、存続することに成功。



那智山青岸渡寺の御詠歌
「補陀洛や岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝津瀬」

以上、花山法皇と熊野、でした。


参考文献
『熊野三山信仰事典』(加藤隆久編・神仏信仰事典シリーズ(5) 戎光祥出版)・『和歌山県史』・『神道事典』

「熊野学」(新宮市教育委員会)http://www.city.shingu.lg.jp/div/bunka-1/htm/kumanogaku/index.html


いつも応援いただきありがとうございます。『大鏡』で有名な花山法皇の出家。ひどいお話ですねぇ。さて、熊野から都へ戻った花山法皇のその後はなかなかシュール。歴史は勝者のものといいますが、藤原氏にとっては無理矢理退位させた花山法皇が素晴らしい人物では都合が悪かったのかな。いや、那智に千日も籠ってしまうエネルギッシュな方だから、実話なのかな。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

『三宝絵詞』に見る熊野三山。おおらかな熊野信仰

こんにちは。


熊野那智大社【第3回】


開創は社伝によれば。

神武天皇東征のとき、神武天皇は熊野灘から那智の海岸“にしきうら”に上陸し、那智の山に輝く「那智の滝」を神と祀り、その御守護のもと八咫烏に導かれ大和へ入った。(社伝)


こけこっこー。

当初、お社は滝に近い場所(「那智経塚」の近く)にあり、現社なの地の造営は、仁徳天皇五年(三一七年)。

鎮守社としての「別宮飛瀧大神」と「夫須美大神」を鎮祭し、併せて「国づくりに御縁の深い十二柱の神々」を祀った。(『熊野略記』・社伝共)



仏教が伝来すると、役小角(那智を第一の霊場に定めた)を始租とする修験道がおこり、那智の滝を「飛龍権現」と称し、「熊野牟須美神」の本地として千手観音を祀るようになりました。



古来の神々と仏とを併せて祀る、いわゆる「神仏習合の信仰」の熊野三山の出来上がり。

《熊野本宮大社》
家都御子神(けつみこのかみ)または家都美御子神
阿弥陀如来

《熊野速玉大社》
熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)または速玉神
薬師如来

《熊野那智大社》
熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)または夫須美神
千手観音



太古より信仰の対象であった那智の滝。



熊野速玉大社、熊野本宮大社と異なるのは、この「那智の滝」に抱いた自然信仰が熊野那智大社の始まりだという点。

つまり、まず、滝。社殿は、後。


熊野三山。

熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社。


面白いのは、三つ子ちゃんのように、いちにのさーんっと生まれたわけではないところ。

結論から述べると、那智さん、遅咲きです。



【『新抄格勅符抄』の熊野】

『新抄格勅符抄』に収載された、806(大同元)年の太政官牒より。

766年(天平神護2年)。

「熊野牟須美神  四戸紀伊 天平神護二年奉充」
「速玉神  四戸紀伊 神護二年奉充九月廿四日奉充」


上記のように、熊野牟須美神と速玉神(新宮)に、各4戸の封戸が与えられた旨の記載があり、これが熊野の主神に関する最古の資料とされています。


ところが、『長寛勘文』(平安時代、1163~1164作成)では熊野牟須美神の記述はなく。


859(天安3)年1月27日、熊野早玉神社(速玉・新宮)と熊野坐神(本宮) 従五位下から従五位上へ。
(※天安3年は4月25日に貞観に改元)

同年5月26日、二社は従二位に進む。

863(貞観5)年3月2日、熊野早玉神は正二位。

907(延喜7)年10月2日、熊野早玉神は従一位、熊野坐神は正二位。
(同年10月、宇多上皇が熊野に参詣by『扶桑略記』)

940(天慶3)年2月1日、熊野早玉神と熊野坐神は共に正一位。

上記のように、順調に位を高めていく熊野早玉神(速玉・新宮)と熊野坐神(本宮)に対し、熊野牟須美神(那智)の名前が見られません。


【『延喜式』神名帳では】

927(延長5)年。「延喜式」完成。

神名帳の、紀伊国の項「牟婁郡六座 大二座 小四座」に記載あり。

「熊野坐神社(本宮)」・「熊野早玉大社(新宮)」

※「那智大社」の名は見られず。
 つまり、熊野本宮大社と熊野速玉大社は式内社ですが、熊野那智大社は式内社ではない、ということ。

おやまぁ。



「『延喜式』神名帳」に名前があるとは、この編纂時に神社が「あった」事を示します。

無論、記名に漏れていても「存在していた」お社はあるのですが、なぜ「那智」の名前がないのかしら。

では、当時、熊野はどんな所だったのか。


【『三宝絵詞』の熊野】

『三宝絵詞』984(永観2)年成立。

これは、若くして入道した冷泉天皇の第二皇女・尊子内親王の仏教理解のために、源為憲が作成した絵巻。

絵は逸亡し、詞書が仏教説話集『三宝絵詞・三巻』として伝来。

当時の「熊野」の世界観を伝えます。


11月。熊野八講会

「紀伊国牟婁郡に神います。熊野両所、証誠一所と名づけ奉れり。両所は母と娘と也。一所はそへる社也。此の山の本神と申す。新宮、本宮に皆八講を行う(略)。もしこの社いませざりせば、八講をも行はらまし。(略)妙法を広め聞かしめ給へるは、菩薩の跡を垂れたると言ふべし。(略)」(『三宝絵詞』下巻)



《熊野両所とは》

母と娘の関係だと言う「結(熊野牟須美神)」と「早玉(速玉神)」のことで、二神が一社に祀られていたと『三宝絵詞』では後文で記しています。


《熊野八講とは》

「法華八講」のこと。
法華経八巻を、朝夕で二度×四日間=八回、講説するもの。

『三宝絵詞』では、熊野八講では「ただ来たれる人の勧むるに従」い、講義する僧の姿は「裳袈裟を調へず」、「鹿皮の衣を着、脛巾(きゃはん)をしたり」で、「貴賤」を選ばず、老少もなかったといいます。

このように、新宮・本宮の社殿で仏教説話が行われる様子が描かれています。


「菩薩の跡を垂れたると言ふべし。」

諸国の神社への「本地垂迹説」の導入は9世紀頃より現れますが、熊野の「本地仏」について明確に記された文献は、『三宝絵詞』から100年以上経過した『長秋記』(1134年)。


「本地垂迹説について」は、こちらを見てね→→→
本地垂迹説
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9%E8%AA%AC

『三宝絵詞』には本地仏が誰で、と明示されているわけではないので、ここでは不明。既にあったかもしれないし、まだかもしれない。

しかし、「菩薩の跡を垂れたる」という言葉が示すことから、考え方として芽生えていた事はうっすらと伝わります。




このように、本宮と新宮の神様の名前や存在を示す諸資料はあるものの、なかなか「那智大社」さんは出てきません。


本宮・新宮と併せて熊野三山とする記述で最も早いのは、

『熊野本宮別当三綱大衆等解』《永保3年(1083年)9月4日》。

この頃には三山共通の三所権現を祀る神社として成立していた事が文書よりわかります。


【那智山の創成(伝説)】

『熊野略記』(前述)



現社地の造営は、仁徳天皇五年(三一七年)。
鎮守社としての「別宮飛瀧大神」と「夫須美大神」を鎮祭し、併せて「国づくりに御縁の深い十二柱の神々」を祀った。




『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』

その1

孝昭天皇辛卯歳(紀元前450)

熊野新宮には、三匹の熊がおってさ

そこへ猟師の是与が追っかけてさ

西北の岩上で三つの鏡となってさ



インドから裸形聖人が来てさ

祠を作ってさ

そいで鏡を祀ったー。のが、起源だ。


その2

孝昭天皇戌午歳(紀元前423)

那智の滝に千手観音が現れた。同年、裸形聖人が山上で熊野十二権現を祀った。これが那智山の起源だ。



・・・すごいぞ、裸形聖人!(←この人、青岸渡寺の創建にも出てくるよー)


結局、起源は謎なのだ、という・・・ことで。


以上のように、熊野那智大社の「神社」としての存在は熊野三山の中でも熊野坐神社(本宮)・熊野速玉大社(新宮)の二社とは異なり、「那智の滝」を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後、ということなのです。



参考文献
『熊野三山信仰事典』(加藤隆久編・神仏信仰事典シリーズ(5) 戎光祥出版)
『和歌山県史』・『神道事典』他


いつも応援いただきありがとうございます。むにゃー。眠くなってきました。次回、「(仮)滝にうたれて花山院」。那智の滝に打たれて無事に済むのでしょうか?
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熊野那智大社へようこそおこし

こんにちは。


やた殿とやた姫。


那智。

熊野那智大社はご覧の通りの高い所にあるので、


さかみーちー♪



熊野古道の雰囲気を味わいながら、坂道をてくてくすること5m。


車道と古道が接してますので。

おほほ。

那智の滝前を過ぎ、民間駐車場勧誘のお姉様方を振り切って、鋭角に右折すると、


有料ですが、防災道路を通ることができます。


横着者です。


青岸渡寺という「お寺」と


熊野那智大社という「神社」が並び立つ那智。これは二の鳥居。

明治の神仏分離を経ても残った光景。詳細は後日。


車で一気に登ってしまったので、


下りてきた。一の鳥居。


柄の悪い声がします。


大事にされてるのかと。


日曜の朝は神馬さんとお散歩~ヽ(*´▽)ノ♪

んなわけあるか。


狛犬さん。


んふ。


勇ましい狛犬さん。


いつものように前後左右から堪能したいのですけど、


トイレを激写する変な人になってしまいます。うう。


10月に行くと、このキイロジョウロウホトトギスが満開なのです。

とってもきれいなお花なので、10月にまた熊野へ来たはいいのですがー。


うがぁー。


さすがにびびって、お宿でおとなしくしてました。


いつも応援いただきありがとうございます。お宿でおとなしくしてた、と言いつつ海の画像があるのは、実は伊勢海老天丼どーん!の解禁日が10月で、いつも行くお店が紀伊大島の魚釣り公園の食堂なので、仕方なく。ええ、仕方なく、です。だって、「天丼で1尾、お味噌汁に半身」がどどん、なんですもの。
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熊野三山の本地仏

こんにちは。


天御中主神社が鎮座するのは、和歌山県新宮市。熊野です。


お気に入りの場所。


熊野灘、ね。


熊野といえば、那智勝浦のまぐろ丼と。


季節限定の伊勢海老天丼。


んふ。


熊野といえば、熊野三山。
熊野速玉大社、熊野本宮大社、熊野那智大社です。


熊野三山が共に祀るのは、熊野権現。


【権現、なーに?】

仏・菩薩が神に形を変えて現れること。時にはその神そのものを指すこともあります。または、その逆(ざっくり)。

神々はそのままでは俗世に姿を現すことは出来ないので、仮に仏に姿を変えて現れる(権現)のです。

これにより、熊野三山の神々にも本地仏があてられ、仏が権(かり)に現れたものとして、熊野三所(十二所)権現とよばれました。




【熊野権現、だーれ?】

熊野権現とは、家都御子神・熊野速玉男神・熊野牟須美神の三柱
熊野三山はこの三柱を互いに祀っています。


神像。


【熊野権現信仰って、なんだー?】

熊野三山は奈良時代に起きた神仏習合の流布に伴いこれを受容。

衆生の苦しみや病を癒し、過去世の業を救い現世安穏の御加護を垂れ、来世(浄土)に導いて下さる神仏のいる常世、それが熊野三山である、と。

三山三世信仰とも呼ばれます。
本宮・速玉・那智の三山。過去・現世・来世の三世。

古来より「滅罪と人生の甦り」を求めて多くの人々の信仰を集めた由縁です。


【熊野速玉大社】(新宮)



「熊野寶(宝)璽(印)」カラス文字48羽。

《主祭神》熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)または速玉神
《本地仏》薬師如来
東方浄瑠璃浄土

新宮は熊野川の河口近くにあり、水玉の勢いを示すという熊野速玉大神が主祭神。


【熊野本宮大社】



「熊野寶(宝)璽(印)」カラス文字88羽。

《主祭神》家都御子神(けつみこのかみ)または家都美御子神
《本地仏》阿弥陀如来
西方極楽浄土

本宮は熊野川の中洲にあって、川を神格化したものとされます。


【熊野那智大社】



「那智瀧寶(宝)璽(印)」カラス文字72羽。

《主祭神》熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)または夫須美神
《本地仏》千手観音
南方補陀落浄土

那智大社は大滝(那智の滝)の聖水のもつ生産力への信仰が根源とされ、熊野夫須美(産霊)大神を主神に祀っています。




【熊野三山の神仏分離】

熊野三山には、神宮寺の他に、中世以来、社堂の造営・修理を行うために浄財を募る、「本願」と呼ばれる歓進元の寺院がありました。

本宮庵主・新宮庵主の各1ケ寺と那智山に7ケ寺の9ケ寺です。

しかし、熊野本願寺院も近世後期以降は無体化・退転が進み、明治初年の神仏分離で、ほとんど廃寺となりました。


現在の熊野那智大社は


西国三十三箇所巡りの一番札所の青岸渡寺と隣接しています。



熊野那智大社編、スタートです。


いつも応援いただきありがとうございます。昨年は連休の度に熊野へ走っておりました。んまぁー、一番遠い関西なので行くのも大変なのですが、うみ、そら、おさかな、こまいぬ、どれもがとても素晴らしくて。また行きたいなー。
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