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戦国時代に孤軍奮闘。近衛前久と信長と猿と狸

こんにちは。


丹波市春日町の興禅寺。

春日局生誕地であり、赤井直正の黒井城の居館であり、近衛屋敷であったと思うと、とても面白いところ。

19歳で関白・左大臣・藤氏長者になり、上杉謙信と血盟を交わし関白のままで越後へ下り、関東平定を助けた近衛前久。

信長が連れてきた足利義昭と不和のため、石山本願寺と丹波へ下向し、数年間を過ごします。

ここまでが、前回。


この間の丹波の赤井直正は。

近衛前久の妹あるいは娘を内室に迎えます。

「妻近衛関白龍山公姫君」(『赤井系図』)
「龍山公殿下其姫君を直正に下したまふ」(『赤井家譜』陽明文庫所蔵)

特に陽明文庫の『赤井家譜』では、赤井直正の実父・時家が1563(永禄6)年に京都西院の近衛前久のもとに伺候してその息女を直正にもらい受けたとしています。

しかし、

「姫君天正三年八月廿一日黒井において逝したまふ、大梅山興禅寺に葬る。渓江院殿月下笑光と号」(『赤井家譜』陽明文庫所蔵)

せっかくお迎えした近衛前久の息女は、1575(天正3)年8月に逝去。



1570(元亀元)年。織田信長が台頭してきた頃。

直正は本家の赤井忠家と共に信長に降り、丹波奥三郡(氷上・天田・何鹿郡)の所領安堵を受けます(『寛永諸家系図伝』)。

1571(元亀2)年。氷上郡へ侵攻してきた山名祐豊を打ち破り、逆に山名氏が治める此隅山城・竹田城を占拠。

山名祐豊が信長に救援を頼みますが当時の信長は石山本願寺や三好三人衆や武田勝頼、浅井・朝倉と対峙し多忙。

この隙に赤井直正は反織田勢力の毛利・武田・石山本願寺と同盟を結び、信長包囲網を計画します。(『吉川家文書』『赤井家文書』『証如上人日記』)

1575(天正3)年6月、信長は光秀を丹波へ派遣。11月より本格的に黒井城攻めにかかります。


【いけいけ前久】



1575(天正3)年11月より光秀は本格的に黒井城攻めを開始。

これに先立つ3月。

丹波の赤井直正の動向を知っていたのか、薩摩の島津義久の家臣・喜入季久(きいれすえひさ)が、前久の警護の為に黒井城下に入ります。

1575(天正3)年6月。前久は不和になった義昭を追放した信長の奏上により帰洛。(『公卿補佐』『御湯殿上日記』)

以降、信長の下で外交・調停工作に奔走します。



1575(天正3)年。島津家の九州争乱の調停。

九州に下向し、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図ります。(ここはサラッといくww)


《メモ・近衛と島津》


(高野山奥の院・薩摩島津家墓所)



薩摩・大隅・日向の3国は「島津荘」という荘園でした。

これは藤原頼通が寄進を受けたのが始まりといいます。



この荘園の荘官(下司)として九州に下り勢力を拡大した惟宗某が、源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ「島津」を称したのが島津氏の始まりとされています。

突然、前久が九州へ下向したのではなく、近衛家と島津家にはかねてより繋がりがあった、と。



1580年(天正8)年。織田信長と本願寺の調停に貢献。
信長と石山本願寺との争いは10年にも及んでおり、落とし所を模索していた頃合。

義昭の征夷大将軍着任後、一時的に石山本願寺に身を置いていたこともある前久はまさに適任。

同年3月。正親町(おおぎまち)天皇の勅命として本願寺に講和が申し入れられます。

顕如等が大坂本願寺を退去することを条件に、籠城勢の命は保障するという内容であり、8月、ついに顕如は本願寺を出たのです。


実に11年間に渡る「石山戦争」の終結。

前久、頑張りました。


(画像:高野山奥の院・武田家墓所)

1582(天正10)年。織田信長の武田征伐(天目山の戦)に同行。

さあ、これから!というときに。

同年。本能寺の変。



変の当日、信長の嫡男・信忠の滞在していた二条御所に隣接した前久の屋敷から銃弾が撃ち込まれたことで、前久の事件への関与が疑われる事態に。

前久は身の潔白を訴えるため出家。「龍山」と号し、京都慈照寺の東求堂に隠棲。

改姓の労(松平から徳川へ)を執ったことから親しくなった徳川家康を頼り、浜松へ下向。

家康の取りなしにより、翌年、帰洛。

ところがどっこい。「小牧・長久手の戦い」


前久、しばらく奈良に滞在します。


【前久、猿との攻防】



秀吉は朝廷での官位を高めることで各地の大名を従わせる政権構想を立て(官位により自己政権の正当化を図ろうとした)、五摂家以外ではなれない関白への就任を望むようになります。

しばらくすれば、関白職は返上。近衛家には千石、他の4家にも五百石ずつの知行を贈る、と執拗だったお猿秀吉。

秀吉の強要に屈し、秀吉を猶子とすることで関白に就任させます。

しかし。

関白就任後、秀吉は豊臣の姓を創始して近衛家との関係を切り、甥の秀次に関白の位を譲ります。(「関白相論」)



1598(慶長3)年。秀吉死去。


1600年。関ヶ原の合戦。

前久は、敗軍となった島津家の落人を保護し、家康との和平交渉に奔走。
同年8月家康から島津領安堵の確約を取り付けます。


1605(慶長10)年7月。嫡男の信尹(のぶただ)が関白に任官。

1612年。77歳で他界。

まさに激動の時代を駆け回ったお公家さんでした。



参考文献
『春日町史』・『春日町の文化財』(春日町発行・編)
『近衛家と春日』(春日町歴史民俗資料館)
『流浪の戦国貴族―近衛前久』(谷口研語著 中公新書)


いつも応援いただきありがとうございます。さあ、これから!という時に毎回訪れる不幸。お気の毒。中でも本能寺の変は、心底ショックだったことでしょうね。丹波で見かけた前久は地味な印象だったんですが、なかなかスリルとサスペンス~(?)な人物だったんですね。
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