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元・日光院、現・名草神社の彫刻群。肉球はむはむ

こんにちは。

但馬妙見日光院【第12回】

兵庫県養父市の妙見山八合目(標高800m)の、こちら。


お天気に恵まれて、とっても気持ちがよかったです。


さぁて。


うふふふ。


力持ちさんと、躍動感あふれる狛犬たち。


うまうましては、いけません。


もう一人、いた。


ものすごくカメラ目線です。


この子、正面から見たらもっとかわいい。


ニヒルで二枚目風。切れ長の目がたまりません。


・・・前言撤回。


こっちも、もう一人いた。


ぎゃー。


ちょーりったいの龍。


どこへー?


手首、捻挫するぞ。


仲良し兄弟、キャッチボールなう。

この子達がどう並んでいるかといえば


正面はこのようになっております。


あははははは。


ラスボス登場。


賑やかで素晴らしい本殿です。




いつも応援いただきありがとうございます。傷んだ建物の中には、こんなにかわいい子達が賑やかに暮らしていました。どんな子がいるのかなー(*´∀`)、あらやだ、珠、投げてる~、うひゃぁ~(≧∇≦)っと、とても楽しい彫刻群です。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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元・日光院のでっかい狛犬

こんにちは。

但馬妙見日光院【第11回】


ふむ。最後の記憶は、NEWS ZEROのスポーツコーナー。

気づいたら、ブログ記事を書いてたはずの画面に謎の文字が並んでおりました。

「天国なのでし。倶知安は豪雪の温泉どし・・・」
※倶知安の記事なんて書いてないのに、なぜ、ちゃんと倶知安を変換までしたのか不明。

はい。酔っぱらいでした。



元・日光院、現・名草神社の本殿。


大型の狛犬。


ちょうど甘いものが欲しかったの。


あなたのよだれで、でろんでろんでしょ。いらん。


よーしよしよしよし。


あ、はい。


こちらの本殿も、また・・


彫刻のぱらだいすぅ~なのです。


たいくちゅですか?

では、ここの由緒をお話してあげましょ。むかーしむかし。


おっきな声は頭に響くのよ。

どうやら少し二日の酔っぱらい。


いつも応援いただきありがとうございます。お天気がいいので、今日はおうちで布団干して、玄関マットとお風呂マット干して、まな板とスリッパと枕を干してー。お洗濯ものも干してー。ベランダは大渋滞です。だって平日は干せないんですもの。そしてそれを眺めながら、のんびり昼酒。幸せな土曜日です。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

元・日光院。現・名草神社の本殿。危機的状況

こんにちは。

但馬妙見日光院【第10回】


出雲大社からやって来た三重塔。

1527(大永7)年。尼子経久が杵築大社に建立。
寛文の大造営で撤去されるところを御用材と交換に、出雲杵築大社から帝釈寺日光院に移建されたもの。


昭和59年。積雪により屋根が落下。

三重(最上階)の屋根に降り積もった約4mの雪が二重屋根に落ち、その衝撃で二重屋根が大破して一重屋根に落下し、一重屋根の垂木も折損して落ちるなどの大きな被害。

昭和62年大修理が竣工。

養父市の所在する但馬は指折りの豪雪地域であり、この元・日光院(現・名草神社)は妙見山(標高1135m)の八合目、標高800mに位置しています。

しかし、4mの積雪って・・・。


訪問日は5月2日。


山を下りればこの気温でした。さすがに溶けたと思うの。



旧・日光院の護摩堂。現・名草神社拝殿。

1689(元禄2)年、竣工(棟札による)。

割拝殿(建物の間に通路がある)の形式を採り、正面は懸造、屋根は入母屋造・柿葺。桁行5間、梁間2間。椽を四周に廻らせた構造。


真ん中の通路部分の天井。


視線を下に移すと、本堂(現・本殿)。1754(宝歴4)年竣工。

平成22年、本殿と拝殿が国指定重要文化財となりました。

ところが。


向拝部の右側及び屋根の棟が破損。

「平成24年4月、3メートル超の大雪によって、本殿と拝殿の屋根の一部が雪の重みが原因で折れる被害が発生し、また建築してから250年以上が経過しているので、基礎が沈んで建物の土台が破損しています。」(『東京養父市会』Facebookより引用)

「平成24年豪雪」。
北海道・東北・北陸・近畿地方日本海側を中心に記録的な豪雪となった年です。


棟から雨水が侵入・向拝も腐朽が進行。

立入禁止にしなくていいのかと思うほど、建物の構造材の毀損がひどいです。

悶々としつつ、検索。



「東京養父市会Facebook」に現況と修復工事の概要の記載があります。

以下転載。

「こうしたことから、地元である小佐地区自治協議会の発起により平成25年2月9日、名草神社災害復旧工事奉賛会を組織し、養父市を代表する歴史文化遺産であり、但馬の観光シンボルでもある名草神社の本殿、拝殿の修復に取り組むことになりました。
 この国指定重要文化財名草神社の災害復旧工事は、「平成の大修理」として、国(文化庁)、兵庫県、養父市からの財政支援を受けて実施する予定ですが、なお多額の地元負担金が必要となるため、養父市民、養父市内外の企業や団体等、多くの方々に奉賛金による支援を依頼するものです。
 名草神社災害復旧工事事業概要、及び奉賛金募集内容は次のとおりですので、新聞等への記載をよろしくお願いいたします。

1.国指定重要文化財名草神社災害復旧工事内容

  国指定重要文化財名草神社 本殿、拝殿災害復旧工事
  ① 本殿、拝殿 屋根などの全面修理
  ② 本殿、拝殿 基礎などの全面修理

2.奉賛目標総額 3,000万円
  ※総事業費 6億円

3.工事計画

  仮養生  平成24年12月
  工事期間 平成26年6月着手~平成30年春完成(予定)

4.協賛募金期間

  第1期 平成25年3月~平成27年12月
  第2期 平成28年1月~平成30年3月」

以上引用終わり。

「東京養父市会Facebook」https://m.facebook.com/YabuLoveTokyo/posts/366661083465210

Facebookでは、以下、協賛金の振込方法等の記事が続いています。

予定を見ると既に着手している日程なのですが、現況は各画像の如し。

平成20年、本殿などの調査を行い「名草神社建造物調査報告書」が刊行されていますが、この調査は本殿・拝殿などについて、建築史上どのような評価をすべきなのかを主眼に養父市教育委員会の依頼に基づいて行われたそうなので、工事の事前調査は建築の専門家によって別途必要。

はやくーはやくー。



所在自治体も観光協会も、うすらぼんやりとした紹介記事を掲載するのではなく、危機的状況下にある事を素直に述べるべきだと思います。



倒壊する前に。


いつも応援いただきありがとうございます。建物が傷んでいるとは知っていたものの、実際に現地に立つと本当に立入禁止にしなくていいのかと不安になりました。まぁ、工事を行うことは決定している様子なので、まだマシかなー。何を為すにも先立つものがなくては先に進まず。。。反対に、先立つものがあればなんとでもなる、のだなぁ。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

社格制度。平安時代から現代までの変遷

こんにちは。

但馬妙見日光院【番外編】

お社巡りをしていると、「式内社」「名神大」「郷社」等の「社格」を目にする機会が多いのは周知の通り。

本日はそのお話。

社格制度は平安時代の「延喜式」で確立されて以降、様々な変遷を経て昭和に入ってからも存在・機能しておりました。

現在の神社界では、昭和20年の終戦後に廃止されたので社格制度はありません。基本的に「じんじゃ、みな、びょーどー」なのです。

しかし、お社の由緒を述べるに当り、かつての社格を基にその歴史を推し量る事は不可欠で、無視するわけにもいきません。
お社の由緒書にも「当社は式内社だよ」とか「○○年に官幣大社になったよ」と書いてあり、一種のステイタス。



【式内社と式外社】(平安時代)


(画像:丹波市の伊尼神社)

「延喜式」の選定当時当時から存在していた神社は「式内社」「式外社」に振り分けられました。


『式内社』(しきないしゃ)
「延喜式」の神名帳(官社を記載登録した名簿)にその名が記載されている神社。2861社。
特に由緒のある神社とされ、毎年の祈年祭に幣帛が供えられ、災害や全国的な疫病蔓延などに際しては公の祈願が行われました。


『式外社』(しきげしゃ)
延喜式撰修前後に「存在しながら」神名帳にその名が記載されていない神社(記載に漏れた神社)。
石清水八幡宮、大原野神社、香椎宮、八坂神社、北野天満宮などの有力な神社でもこちらに含まれます。


「延喜式」とは

905年(延喜5年)。醍醐天皇の命により藤原時平・藤原忠平等が編纂に当たった格式(律令の施行細則)。全50巻。

927年(延長5年)に完成、967年(康保4年)より施行。

巻8に祝詞を掲載。巻9・10は神名帳(神社の一覧表)となっていて、祈年祭で奉幣を受ける2861社の神社が記載される。


延喜式撰修前後に「存在していた」神社。ここ、ポイント。


藤原時平イメージ。

藤原時平・忠平兄弟が編纂に当たったので、中臣氏(※藤原氏)と共に宮中祭祀を掌ってきた忌部氏の裔・忌部広成が「官社は中臣氏が欲しいままに選定した」(『古語拾遺』)と、愚痴っています。


式内社は、官社制の形骸化と共に中世には実態が失われました。

しかし、名称自体は、千年以上の歴史と伝統を持つ古い神社であることを示す社格の一種として残ります。


【延喜式の官国幣社】(平安時代)


この「官幣社・国幣社」は、式内社をさらに四等分した制度。

式内社は全て、陰暦2月の祈年祭において幣帛(延喜式では布帛、衣服、武具、神酒、神饌など)を受けます。

その幣帛の出所により分類。

一。「官幣社」
神祇官(国家)から幣帛を受ける。さらに「大社」と「小社」に分類。

二。「国幣社」
当該神社の鎮座する国の国司から幣帛を受ける。さらに「大社」と「小社」に分類。

よって、式内社は全て、官幣大社、官幣小社、国幣大社、国幣小社の4種のいずれかに分類されます。

大小の区分けは、祈年祭の際に幣帛を案(物を載せる台)の上に置く場合は「大社」、下に置く場合は「小社」。

区分け根拠はその神社の社勢。

「近代の社格制度」(明治時代成立)にも、「官幣大社、官幣小社、国幣大社、国幣小社」という同名の社格が登場しますが、延喜式における官国幣社と、明治期に制定された官国幣社は全く別のものです。

一般に「官幣○社」、「国幣○社」という場合は、実際には明治に制定された官国幣社の社格を指すことが多く、式内社は、特に分類はせずに単に「式内社」とのみいわれることが多いです。


【名神大社】(平安時代)


(画像:摩気神社の社頭標)

「式内社」のうち、特に「霊験の著しい神とされた名神」を祀る神社。224社。


【三社】(平安時代)

伊勢の神宮、石清水八幡宮、賀茂明神。

この三社は朝廷から特に尊く尊崇され、特別な奉幣使が遣わされました。

「伊勢の神宮」は皇祖の神宮。
「石清水八幡宮」は朝廷において大祖、宗廟の扱いを受ける。
「賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)」は皇女や皇女孫が斎院として奉仕した神社。


【十六社】(平安時代)


(画像:京都の大原野神社。官幣中社は明治の社格)

「二十二社」の前身。

朝廷奉幣のために10世紀初頭に定められた朝廷からの格別の崇敬を受けた神社。

伊勢、石清水、賀茂(上下)、松尾、平野、稲荷、春日、大原野、石上、大和、大神、廣瀬、龍田、住吉、丹生、貴布禰。


【二十二社】(平安時代)


(画像:京都の大原野神社)

「二十二社」は、朝廷奉幣のために11世紀初頭に定められたもの。

祈雨・祈晴や国家的大事に際しては特別に奉幣の対象になり、「二十二社」という名で特別な社格の神社として、他の神社よりも優越の地位を占めました。

上七社(伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日)
中七社(大原野、大神、石上、大和、廣瀬、龍田、住吉)
下八社(日吉、梅宮、吉田、廣田、八坂、北野、丹生、貴布禰)

二十二社奉幣の慣例は平安時代以降も長く続き、応仁の乱により廃絶。

明治以降は、何れの神社も官幣大社もしくは官幣中社に列格されました。


【一の宮】(平安時代中期以降)


(画像:徳島県の一宮神社)

諸国の国内で第一の地位を占めた神社。

以下「二の宮」「三の宮」。

国司の参拝順序による説、又は国内で自然発生した序列を国司が追認した説があります。

よって、当時、国司の存在しなかった北海道・沖縄には一宮はありません。


【近代の官国幣社】(明治時代から終戦まで)

「官社以下定額・神官職制等規則」(太政官布告・明治4年5月公布)

新たに社格制度が定められます。


(画像:淡路島の伊弉諾神宮の旧社格標)


(画像:福井県の日吉神社)


例祭にあたり

一。「官幣社」皇室より神饌・幣帛を供される神社(大・中・小)
 ※平安時代の「二十二社」など朝廷に所縁の深い神社が列格
 ※人物神を祀る神社(楠正成を祀る湊川神社等)は「別格社」と称す

二。「国幣社」国家(国庫)から神饌・幣帛を供される神社(大・中・小)
 ※主に諸国の「一の宮」が列格

上記二社を「官社」、以下を「民社」とも。

三。「府社」・「県社」府や県から神饌・幣帛を供される神社
四。「郷社」 郡や市から神饌・幣帛を供される神社
五。「村社」 村から神饌・幣帛を供される神社

六。「無格社」地方団体から幣帛や神饌料供進がない神社
 ※「雑社」とも呼ばれ、終戦当時の数は59.997社。全国の神社の半数近くを占める。

《例外》伊勢の神宮。
伊勢の神宮が「尊貴無上」であることから社格を与えられず。(無格社ではない)


《戦後》

昭和21年2月2日。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の神道指令による神社の国家管理の廃止に伴い、社格制度も廃止。


GHQからの干渉を防ぐため埋められた社格。

官国幣社は廃止されたものの、現在でも、天皇陛下が各地に行幸の際には、その地の旧官国幣社に幣饌料を供えます。


【別表神社】(戦後から現代)

昭和20年、終戦後に廃止されたので社格制度はありません。
基本的に「じんじゃ、みな、びょーどー」。

《例外1》伊勢神宮

《例外2》神社本庁の包括下にある神社の「別表に掲げる神社(別表神社)」と「諸社」の区分け


「別表神社」
信仰的・社会的現状から、他の一般の神社と同様に扱うことは適当ではないことから、区別される神社。


(画像:和歌山県の熊野速玉大社)

社殿・境内地・神職数・予算等が一定標準以上の神社であり、「権宮司」という職階を置くことができるのも別表神社(の中でも特に一定の基準に達した神社)だけであり、職員の任用や身分に関して、諸社の職員とは異なる扱いを受け、間接的にその神社が重視されるため「別表神社」という呼称が社格のようなステイタス感を覚えますが、法的には「神社は平等」。


(画像:淡路島の伊弉諾神宮の社標)

本庁包括下の神社は全国に79,057社。
別表神社に指定されている神社は346社(平成16年)。

※別表神社はあくまでも神社本庁の制度。
 単立の神社(伏見稲荷大社、日光東照宮等)は当然「別表神社」には含まれません。

※別表神社については「wikipedia」に詳しく記載があります。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E8%A1%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE


私も眠い。


参考文献
「神道事典」(國學院大學日本文化研究所編集/弘文堂)
「神道の基礎知識と基礎問題」(神社新報社)
「解りやすい神道の歴史」(神社新報社)
「神道辞典」(安津素彦・梅田義彦監修版/堀書店)

いつも応援いただきありがとうございます。お社の由緒書や社標をぱぱっと見て「式内社だー」「おや、村社だってー」とそのままのみ込んで参りましたので、自身のお勉強を兼ねてだらだらと書いてしまいました。「式内社」とは何か。ここ、ポイントです。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

元は日光院の護摩堂。現・名草神社拝殿

こんにちは。

但馬妙見日光院【第9回】

小難しいお話が続いたので、今日は現在も残るすばらすぃ~社殿のご紹介。


日光院が秀吉の兵火に焼失した後


こんな山道を延々と登った「奥の院」の場所に造営した社殿です。


高野山釈迦文院の高僧朝遍阿闍梨が日光院第35世を兼務、その弟子快遍阿闍梨を第36世として復興に尽力。

1632(寛永9)年。「奥の院」に妙見大菩薩を奉持して登り、日光院を妙見山の山腹に移転復興。


このわくわく感がたまらなくて。


出雲大社からやって来た三重塔。

このお向かいに


何かしら。


「弘化」年間。1844年頃かしら。


きれーなトイレがあるので安心です。


広々とした石段が私を待つ。


石段のふもとにあった謎の基礎。山門かなー。


神仏分離時まで幕末に寄進された青銅の鳥居が立っていました。

明治7年4月に青銅製の大鳥居を京都の商人に売却、重量は688貫目(2580kg)あったといいます。(『八鹿町史 下巻』引用元はhttp://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43_2.htm)

名草神社になった後の十年前の画像では鳥居が写っていて、再建された鳥居があったのかと思います。

この左奥には。


妙見山からの湧き水でもあったのかしら。


妙見山登山口にもなっています。


振り返ると鳥居の基礎が残っていました。


社務所向かいの石灯籠。

「現住龍寶代」「文化元年六月吉日」の文字があります。
「龍寶上人(日光院第四十三世)」が1804年に建立したもの。


気になるわぁ。


1689(元禄2)年、竣工(棟札による)。


三重塔も素敵ですが、こちらも迫力のある木造建築物です。


旧・日光院の護摩堂。現・名草神社拝殿。

桁行5間、梁間2間。椽を四周に廻らせた構造。
割拝殿(建物の間に通路がある)の形式を採り、正面は懸造、屋根は入母屋造・柿葺。


向かって右側に掛かる額。


真ん中の通路部分の天井。

わずかに彩色が残っています。木組の美しさにうっとりです。


視線を下に移すと、本堂(現・本殿)。1754(宝歴4)年竣工。


通路の天井にかかる牛さんの額。


牛さんの彫刻。


向かって左側の部屋の天井。

「歴代住職がこの拝殿で寛永9年から明治9年までの245年間、ここで妙見護摩を焚いていました。そうです、ここは日光院の護摩堂だったのです。

天井が真っ黒になっているのはその為で、格子になっている部分が、煙抜きなのです。密教寺院の特徴の一つです。」(日光院HPより引用)



ちょっと不気味な感じがしましたの。


通路を挟んだ反対側の部屋。ふたつとも、2間四方。

昔は何のお部屋だったのか、何もないのでわからないです。


柱は円柱。

外の木々の巨大さが伝わりますかしら。


おにぎりー。おなかすいたー。



残る彩色から、建築当時は朱色と白の護摩堂だったのかな。
さぞかし緑に映えたことでしょうね。

でも、今の光景の方が味わい深いなー。



いつも応援いただきありがとうございます。山の中の素敵な社殿。実物は想像以上に大きく、迫力がありました。什器などは一切残っていませんが、天井と壁の真っ黒な煤を見れば、確かにかつてここで護摩を焚いていた事が一目瞭然。うわー♪うわー(≧∇≦)っと、一人で笑顔になって拝見してきました。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

弱り目に祟り目。神仏分離と社寺上知令でずたぼろです

こんにちは。

但馬妙見日光院【第8回】

今日は、地べたのお話。

寺社は、信仰の対象となる「境内地」、田畑(直作or賃貸)、広大な山林(自社の建築材料or貨幣収入の用材)を所有していました。

また、徳川幕府の時代には、幕藩体制において一定の政治的・宗教的な役割を担う義務を負う反面、幕府や藩主から社寺地の「領主」として支配権を行使することを認められるようになります。

この「支配権」は、「朱印状」(幕府)・「黒印状」(藩主)により付与された事から、それぞれ「朱印地」・「黒印地」と呼ばれます。

この二つの土地は、幕府・領主に対する租税は免除となり、土地から得られる収益は全て寺社に徴収権があり、祭司・供養・社殿の修繕費用に充てられました。

(但し、この両土地は決して広くはなく、ここだけで全てを賄うことは不可能。)

さらに、寺社の境内地等は検地の対象外とする「除地(のぞきち)」であり、年貢諸役が免除されています。


平和に過ごしていたところ、嵐が到来。


1867(慶応3)年10月「大政奉還」・12月「版籍奉還」

諸大名から天皇へ領地(版図)と領民(戸籍)が返還されました。

そして。

明治4年1月。いわゆる「社寺上知令」が発布されます。

【社寺領現在ノ境内ヲ除クノ外上知被仰出土地ハ府県藩ニ管轄セシムルノ件】明治4年正月5日太政官布告(旧3年庚午12月)

「諸国社寺由緒ノ有無ニ不拘朱印地除地等従前之通被下置候所各藩版籍奉還之末社寺ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相当ノ事ニ付今般社寺領現在ノ境内ヲ除ク外一般上知被仰付追テ相当禄制相定更に蔵米ヲ以テ可下賜事」


既に各藩が領地を奉還した以上、「朱印地」「除地(のぞきち)」等の「社寺領」も当然「上知」すべきである。
それにより失われた特権については、追って蔵米にて補償する予定である、と。

この時の上知の対象の「社寺領」は、「朱印地」・「黒印地」に相当する領域でした。(大蔵省管財局1994年)


まだ、それほど焦ってないの。



【太政官布告】慶応四年三月十三日

「此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 (略)」


「王政復古の太政官布告」です。


神宮寺は分けやすい。


(画像:書写山園教寺の捨てられ朽ち果てた仏像)

神仏分離令に乗じ、各地で過激な廃仏棄釈が起こります。

寺院に対してさらに追い討ちをかけたのが、経済的基盤の崩壊に繋がる諸法令。


【寺院境内ノ区別ヲ一定セシムル件】太政官達第258号・明治4年5月

田畑・山林、例え不毛地であろうと墓地以外の境外地は全て「上知」せよ、と指示が出ました。

いったいどれだけ上知しろとー?っと、混乱。


「社寺領上地跡処分規則」(内務省達乙第72号・明治7年11月)
「社寺境内外区画取調規則」(地租改正事務局達乙第4号・明治8年6月)※通称「第二次上知令」

両規則により、判断基準が明確化されます。

1 寺社が自らの資金で開墾・購入した土地は寺社の所有とする事
2 自費開墾の証拠がある場合はその占有者に無償で下げ渡す
3 境内地は祭典法要に必要な場所に限り、それ以外は全て上地する事




つまり、「明治4年正月5日太政官布告」で上知の対象外となった土地が、



第二次上知令では、社殿・堂宇の敷地と法要・祭典に必要な場所以外全てが上知の対象となったのです。



清水寺では、第一次では15万坪が残ったのに、第二次では1.4万坪だけが残ったと言われています。(清水寺史)

こうして上知された寺社領は、全て官有地へ編入されました。



このため、寺社は社殿堂宇の修繕を名目として、上知の対象となる可能性の高い森林を伐採して売却。

数度に渡りそれを禁じる布告を出しますが、寺社にとって森林を管理・利用出来るか否かは死活問題ですから、もぐら叩きの様相。



この後紆余曲折を経て、

【国有土地森林原野下戻法】(法律99号・明治32年4月)

「地租改正又ハ社寺上知処分ニ依り官有ニ編入セラレ,現ニ国有ニ属スル土地」等について、「其ノ処分ノ当時之ニ付所有又ハ分収ノ事実アリタルモノ」は、翌33年6月30日までに下戻の申請を行うことができるようになります。

申請に対して不許可となった者は不服ある場合、行政裁判所へ訴えを起こすことができるとも定められます。

当初は管轄官庁である農商務省の指令に沿った判決が出ていましたが、転機が訪れます。

それが「一乗寺山林下戻請求事件(明治37年1051号事件)」に対する明治41年10月の判決です。

農商務省の処分を取り消し、係争対象たる山林・立木を原告(一乗寺)に下げ戻すべきであるとの判決を行政裁判所が下すのです。

これは、「朱印状がなければ当然租税を負担すべきであった土地であることは、朱印地が社寺の私有地であったことを意味する」との論考が現れた背景があります。

えーと。納税義務は所有者にある。朱印状によって特別に免税しただけよ、ということ。

しかし、証明義務は寺社にあり、「下戻」の形で本来所有していた土地が返ってくるとはいえ、相変わらず寺社には酷な制度ではありました。


大正10年「国有財産法」(法律43号)
国有地にある寺院境内地は、寺院に永久無償貸付を行っているとみなす、と定められます。

昭和14年「寺院等ニ無償ニテ貸付シタル国有財産ノ処分ニ関スル法律」(法律78号)

国と寺院等の間に従前から特殊事情にあった国有境内地を譲与することができることになり、寺院境内地処分審査会が発足するものの、戦争により中断。

終戦。


も少し、がまん。


【戦後の社寺境内地の処理】

連合国の占領政策の柱の一つは日本の民主化。

宗教に関する民主化も例外ではなく、G.H.Q.は、昭和20年10月に日本政府に対し「政治的、社会的及び宗教的自由に対する制限除去に関する覚書」をはじめとする宗教改革に関する一連の指令を発します。


昭和21年「明治29年法律第24号官国幣社経費ニ関スル法律廃止ノ件」(法律71号)

従前の公用財産としての取扱いをやめ、内務省所管から大蔵省所管に移し、寺院境内地と同様に神社の用に供する間、上知地について無償貸付を認めます。


昭和22年4月「社寺等に無償で貸付してある国有財産の処分に関する法律」(法律53号)

無償貸付していた財産について国と社寺との特殊関係を断絶し、整理するため

1 明治初年の社寺上知令あるいは地租改正条例に基づき国有となったもの
2 現に国有財産法により無償貸付を受けているもの
3 宗教活動に必要なもの

で、本法施行後1年以内に申請したものは,その所有権を返還する意味で当該社寺等に無償で譲与することができる。しかし、かかる事実がないものまたは事実があっても立証できないものについては,社寺等の既得権ともいうべき永久無償使用権の消滅を補償する意味で、時価の半額で売払うことができる等と定めます。

無償貸付件数(神社・寺院・教会)は、106,566件。
面積はなんと、119,324,134坪。


こんな膨大な土地ですから、慎重に審議します。
中央・地方に「社寺境内地処分審査会等」が設置され、審査を行いました。

処分の対象となった土地は118,752,963坪。

神社 75,669件、94,119,086坪
寺院 30,529(13)件、24,633,877(8,952)坪
※(内は教会)

中央審査会は昭和27年3月31日、地方審査会は昭和28年3月31日で役目を終え消滅します。

残存は、4601件、4,819,252坪

譲与されても管理費だけが嵩む土地は寺社側が拒否したり、既に国有林野事業が行われていた土地はその従事者が猛反対するなど、全てを譲与することは叶わず。

この残存分は、国有林野として管理されることとなります。


明治の上知令から長い長い道のりでした。


参考文献
「社寺と国有林—京都東山・嵐山の変遷と新たな連携」(福田淳 著/日本林業調査会)

財務省HP内「社寺境内地の処埋」https://www.mof.go.jp/about_mof/zaimu/30years/main/0303020103.htm#skipmain


いつも応援いただきありがとうございます。南禅寺界隈の別荘庭園群は、神仏分離令や社寺上知令によって、広大な敷地があった南禅寺の土地の大部分が民間へ払い下げられたことにより、山縣有朋や財閥の野村家など、政財界の人々がステータスとして競って別邸を建てたものです。綺麗な景色の中に、寺社と明治政府の攻防が隠れているんですねぇ。
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神仏分離の実施。法令を確認

こんにちは。

但馬妙見日光院【第7回】


1867(慶応3)年10月徳川慶喜大政奉還

さあ、明治の始まりです。



出雲大社の穏やかな神仏分離で日光院へ移された三重塔。


出雲大社が神仏分離を早々に行った事からわかるように、当時の神社では神殿と仏堂が同居し、神と仏は同列に祀られ、神殿に仏像・仏器が置かれ、僧侶が神に奉仕し、神前で読経などが行われ、さらに寺社の経営、人事管理までも行っていました。

それが、ごく普通の光景でした。


【明治の神仏分離概要】

政治背景として、幕末より「神社の復興・廃仏」を唱えた後期国学者や復古神道家の台頭があり、彼等は性急に諸法令を布告させ、実行に移します。

神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われます。

祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などを急激に実施したために大混乱。

当初は「神道と仏教の分離」が目的で、仏教排斥を意図したものではなかったものの、結果的に廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまいます。

明治4年(1871年)ごろ終熄したものの、あまりにも影響は大き過ぎたのです。


各法令を見てみましょう。




「王政復古の太政官布告」

【太政官布告】慶応四年三月十三日

「此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事
但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事」


まず、「王政復古・祭政一致」を宣言し、「神祇官」の再興が「太政官布告」の形で示されます。

明治政府は「古代の律令制に基づく官制」を目指し、太政官制を採用。
明治2年(1869年)6月には、神祇官は太政官から独立して、行政機関の筆頭に置かれます。

太政官布告により、全ての神社は、この神祇官に属することを定められます。

「王政復古・祭政一致」の宣言された新政府の下での神祇官は「太政官から独立した行政機関の筆頭」という存在として登場するのです。


「神祇事務局から諸社に対し、別当・社僧の復飾の達」

【神祇事務局ヨリ諸社ヘ達】 慶応四年三月十七日

今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也


復飾とは、僧侶が還俗すること。

神社に於ける僧職の復飾の命令が発せられます。



【神祇官事務局達】 慶応四年三月二十八日
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被仰出候事



神祇事務局から命じた事は

一、権現号あるいは牛頭天王号(共に仏教語)の廃止(仏教語を神号とすることの禁止)
二、仏像を神体とすることの停止(禁止)
三、本地仏・鰐口・梵鐘・仏器などを取除くこと(禁止)


ここで、滋賀県の日吉山王社のように、過激な神仏分離が多発。


【太政官布告】 慶応四年四月十日
諸国大小之神社中、仏像ヲ以テ神体ト致シ、又ハ本地抔ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等差置候分ハ、早早取除相改可申旨、過日被仰出候、然ル処、旧来、社人僧侶不相善、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ、社人共俄ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲ斉シ候様之所業出来候テハ、御政道ノ妨ヲ生シ候而巳ナラス、紛擾ヲ引起可申ハ必然ニ候、左様相成候テハ、実ニ不相済儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜ヲ考ヘ、穏ニ取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノ道ヲ可失、益国家之御用相立候様、精々可心掛候、且神社中ニ有之候仏像仏具取除候分タリトモ、一々取計向伺出、御指図可受候、若以来心得違致シ、粗暴ノ振舞等有之ハ、屹度曲事可被仰出候事、
但 勅祭之神社、御震翰、勅額等有之向ハ、伺出候上、御沙汰可有之、其余ノ社ハ、裁判所、鎮台、領主、地頭等ヘ、委細可申出事、


日吉権現破壊を受け、再度「神仏分離・神仏判然」の主旨を述べ、神仏分離の実施に当っては「穏ニ取扱べし」と命じています。

全国各地で極端な行動に出る者達が頻発したんですねぇ。

しかし、苗木藩や富山藩等や、政府直轄地では、地方官がこれを無視して強硬な抑圧・廃仏策を進めたのです。




「寺院の統廃合」など神仏分離の方針を超えた「廃仏棄釈」とよばれる事態が1874年(明治7)ごろまで続きました。

過激な「廃仏棄釈」により破壊されてきたお寺に、とどめとなる法令が布告されます。

それが、

1871(明治4)年正月5日付太政官布告の「寺社領上知令」。

境内を除き、お寺や神社が所有していた土地を国に取り上げられる法令。
これにより、寺社は経済的な基盤を失い、益々困窮し、荒廃していくことになるのです。


参考文献
「但馬妙見日光院ホームページ」http://www.tajimamyouken.com/
「兵庫県史」(兵庫県編纂)

本文中「」内緑字の引用元は「日本の塔婆」http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/touba3.htm


いつも応援いただきありがとうございます。文章ばっかりになってしまいました。眠い原因は、この記事を考えていたからなのでした。お勉強、きらーい。
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閑話休題。屋根を支える力士くん

こんにちは。

私、世界ふしぎ発見を見ていたはずなのに、おかしいわね。お外が明るいわ。

ということで、但馬妙見日光院【第6回】



ということで、本日は閑話休題。

お屋根を支える力士さんです。


書写山園教寺。

奥の院へ行くと・・・


開山堂。1671年建造。


ここにも力士さん。伝・左甚五郎作。


後ろ姿は、リアル力士。


かわいいの。

あまりに重たいので、北西隅の力士さんは脱走。

そろそろ戻ってきてもいいんじゃないかしら。ふふ。



いつも応援いただきありがとうございます。あー、びっくりしたー。洗濯機の中には洗い終わったものがくちゃくちゃのまま~。洗い直さなくちゃ。この記事、書写山のカテゴリに入れたんで過去記事を見たんですが。一年前は官兵衛巡りしてたんですねぇ。文書が拙くて恥ずかしい。
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出雲大社様、御用材と三重塔の交換でいかが?但馬の日光院より

こんにちは。

但馬妙見日光院【第5回】



「日光院 森田祐親殿

『当神社(※出雲大社)寛文造営の際、但馬妙見山日光院より、本殿の御用材を購入し大永時代尼子恒久の建立せし当社境内にありし三重塔を妙見山日光院へ送りしこと事実相違無之候。  出雲大社考証課長 矢田 豊雄」
(『日光院HP』より引用。※は管理人)


出雲大社(当時は杵築大社)の「寛文造営」は、まさに神社が行った神仏分離。境内から仏教色を払拭し、本殿の造営を実施。

しかしまぁ、こんな立派な三重塔が境内に建つほど杵築大社(出雲大社)でさえ仏教色が色濃かったとは驚きました。

この経緯を詳細に記録したものが、出雲大社に残る「寛文御造営日記」
。(←証拠は文書で)




「寛文3年(※1663)12月17日
岡田半右衛門と宮内市之丞面談、両国造家より御祝儀樽肴持参、村上方入札物語承り候
大社御本社の木材諸国に無之由、伊勢に大木3本、熊野山に11本有之候・・山出し難成・・、秋田山たんさくにても無之・・・、
松柱に仕より外無之と申す所に雲州・・の竹内三郎兵衛と申す者・・但馬国妙見山に杉の木有之の由承及旨・・・」


杵築大社(出雲大社)は本殿造営のための用材を全国津々浦々探して、但馬の妙見山に杉があるとの話を聞き付けます。


「寛文3年10月15日竹内三郎兵エ、北川杢右エ門、両人を但州へ遣被申候。
12月3日妙見山へ参着、此山は真言宗1寺日光院朱印の地百石、寺領在の由、杉の大木山壱里半四方、其外寺山の分、五里四方有之由、八端杉と申して18抱半有之神木、七曜の杉と申して難及言語大木有之候則大社の間尺に相応の杉12本買取申べく約束仕候木10本を金子180両値段仕唯今前金20両日光院へ相渡申候」


日光院の現況と、「八端杉と申して18抱半有之神木、七曜の杉と申して難及言語大木有之候」という巨木を発見。

縄文杉のような巨木だったのでしょうか。

20両を前金としてその場で支払っている様子。御用材といえどもここは丁重。


(続き)「惣別此山の木枝葉にても取申事神の祟りつよくて昔より取不申故何此大木にて候然れども大社の御木材に被成候事妙見神も冥加に御叶候と日光院被申10本の外2本相添被申候
右の段々岡田半右エ門殿竹内三郎兵衛物語承り書付申候末代にも御木材より出可申越と一入社家の大悦と申事に候」


ご神木なので枝葉さえ切ることを躊躇ってきたものの、杵築大社(出雲大社)の御用材になるなら「妙見神も冥加に御叶候」と日光院が応えています。

んー?妙見神?




「寛文4年5月7日
但馬国妙見山より岡田善兵衛殿飛脚半右エ門殿へ到着大社大木材不残本伐仕由・・・善兵エ殿其外之衆へ 心入之通日光院被申候様は今度大材木進上候代金子を以て二重之塔造立可仕覚悟に御座候承り候へば大社に三重之塔並びに輪蔵破却被成候由左様候はば幸之事に候間取崩妙見に立申度旨善兵衛へ議被申通書中参候」


背景として、日光院の伽藍が天正5年の秀吉による兵火で一部を残し焼失しており、奥の院の場所に移転し再興。

今回の売却代金で二重塔を建立したいなーと日光院は考えたところ、杵築大社(出雲大社)は三重塔を破却予定。

それならば、三重塔と用材を物々交換なんてどうかしら?と申し出ます。



「寛文4年5月12日
善兵衛追状に杵築三重塔之事両国造殿社家中御造営奉行衆迄妙見山へ可被下旨、日光院隠居老僧73歳先以大悦」


大社では三重塔譲渡の決定がされ、当時の日光院隠居(快遍)が「大悦」。


(出演:兵主神社のちびちゃん)

なんでしょう。「隠居老僧73歳先以大悦」に萌えてしまいました。


「寛文4年9月19日
但馬よりの材木値段太守様より御尋ねあり金子230両但御戸板は妙見山の住持日光院寄進の旨奉行より上申す」


「日光院寄進」となった事が明白に語られています。


「寛文5年正月23日
但州妙見より塔こわしのため日光院代僧法住坊、並に八鹿村西村新右エ門、大工与三エ門来る」
「寛文5年27日
三重塔今日迄に崩済申候此塔は大永7年(※1527)尼子経久建立也」


そうと決まれば早々に解体。



めでたく妙見山にお引っ越し。



なにかしら。


塔を支える力士さんかな。


とまと、ちゃうしぃ。


おーい。


どちら様でしょう。


とてもそうは思えませんが。


・・・。


見たくて見たわけではありません。


んふふ。

最上層の軒下四隅には、見ざる、言わざる、聞かざる、「??ざる(不明)」さん達がいます。


が、がっつだぜ?


この子、なんの子、しくしく。


はるばる出雲大社からやって来た三重塔。
今は妙見山の標高800mの所に静かにたたずんでおります。


静かに・・・


・・・たたずんでください。



日光院
《住所》兵庫県養父市八鹿町石原450番地


参考文献
「但馬妙見日光院ホームページ」http://www.tajimamyouken.com/
「兵庫県史」(兵庫県編纂)

本文中「」内緑字の引用元は「日本の塔婆」http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/touba3.htm


いつも応援いただきありがとうございます。後々、大変な意味を持つことになる「寛文御造営日記」。証拠は文書で、です。
昭和59年2月の豪雪(積雪3m)により二層目と一層目の屋根が落下したため、3年間を費やした「昭和の大修理」で復活。歴史的背景を含め見事な建築物でした。

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三重塔は出雲大社から日光院へ。出雲大社の神仏分離

こんにちは。

但馬妙見日光院【第4回】


えんやーとっと~っと山道を走り


樹齢数百年以上の妙見杉の林を抜けて


わっくわっくしながら参道を上ると


見えてきました。


ああ、なんて素敵なの。

三重塔はあちこちにあれど、

一、神社に存在(名草神社)
二、標高800mの山の中
三、かつて杵築神社(現・出雲大社)のものだった
四、日光院の歴史的背景

等から、ほんとに会いたかったのです。感無量。


【いつからここに】



但馬妙見日光院のHPより

「日光院が隆盛をきわめていた江戸時代、出雲大社では両部時代から唯一神道に復帰する時期を迎えました。いわゆる寛文の御造営です。神殿のご用材を全国各地に探し求めましたところ『日光院の妙見杉』に白羽の矢がたちました。」



「第三十六世快遍阿闍梨は『出雲大社のためならご本尊妙見大菩薩もお喜びになるでしょう』と快く引き受けました。同時に出雲大社の境内にありました三重塔を取り壊す計画を知り、『日光院も塔を建立する予定です。仏教にとっては重要なものですので是非お譲り頂きたい』と申し出たところ、逆に快くお譲りいただいたのであります。」(引用終わり)


1527(大永7)年。尼子経久、出雲杵築大社に三重塔を建立(竣工は翌年)。

寛文年中(1661-1673)。杵築大社(現・出雲大社)の神仏分離により、杵築大社から帝釈寺(日光院)へ譲渡され、移築される。


【背景・杵築大社(出雲大社)の背景】

(この項の参考文献は「出雲大社紫野教会HP」http://www.izumo-murasakino.jp/yomimono-013.html)


全国的に強制的に神仏分離が行われたのは、明治。



ところが杵築大社(出雲大社)では、既に江戸時代前期に行われていたのです。

仏教を広める手段のひとつとして「神様は読経を聞くと喜ぶ」という話を元に、寺院に「その土地の神様を祀る神社」(清水寺の京都地主神社等)が出来、次に「神は仏の仮の姿である」という神仏習合思想が広まり、神社に寺が出来るようになります。


実権が朝廷から武家に移るにつれ、寺院側の力が増す状況に苦悩する神主も増加。

中世には大社と天台宗鍔淵寺との関係が深まり、鍔淵寺は「別当」に相当する地位にまで着き、神前で読経する事が増加。


尼子経久の永正(1504-21)の造営ではさらに佛教色が強まり、大日堂・三重塔・輪蔵を建立。


初層。

三重塔は1528(大永8)年竣工。


とまと、じゃない。

釈迦・文殊・普賢の三尊が安置され、外には彫刻が施され丹青の漆が塗られていました。


読めない。


江戸時代四代将軍徳川家綱の時代。

出雲国造千家尊光は、松江藩主松平直政の支援を得て大改革を断行します。

「寛文の造営」です。

徳川幕府も50万両を奉納して援助しています。

そして、神仏習合の弊をのぞき、境内地にあった堂塔を廃して拡張整備し、社殿を高さ80尺という古来の正殿式に復興して1667(寛文7)年にはほぼ現在と同規模の威容が完成しました。


この時、杵築神社(出雲大社)の中にどれ程の仏教に関係するものがあったのか。


赤丸が三重塔。

『三重塔は但馬の妙見山日光院に移されて今は重文となり、鐘楼・撞鐘・護摩堂および大日如来・観音菩薩・弁財天・不動尊の像は松林寺に移され、三光国師の像は西蓮寺に、釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の像や輪蔵・一切教は神光寺に、聖殿および六観音は神宮寺に移し、境内から一切の仏教的な色彩を除去した』(『出雲大社(第2版)』 千家尊統 著/学生社)

実に多くのものがあったのですね。


このように、杵築大社(出雲大社)は「一足早く江戸時代に神仏分離を行った」のです。

この時の記録が「寛文御造営日記」。



三重塔は仏教の象徴となる建物のため、杵築大社(出雲大社)では取り壊す予定だったのです。


日光院第五十一世祐親大僧正が昭和28年に出雲大社に書簡をおくり、その返答として出雲大社考証課長(出雲大社古文書等の研究の責任者)の矢田豊雄より、「出雲大社から日光院に三重塔が贈られたこと」を記録した書簡が残ります(八鹿町指定文化財)。

「日光院 森田祐親殿

 当神社寛文造営の際、但馬妙見山日光院より、本殿の御用材を購入し大永時代尼子恒久の建立せし当社境内にありし三重塔を妙見山日光院へ送りしこと事実相違無之候。  出雲大社考証課長 矢田 豊雄」




なんだー?


つづく


日光院
《住所》兵庫県養父市八鹿町石原450番地


参考文献
「但馬妙見日光院ホームページ」http://www.tajimamyouken.com/
「兵庫県史」(兵庫県編纂)


いつも応援いただきありがとうございます。標高800mに建つ三重塔。「塔」とは、お釈迦様の遺骨「舎利」をお祀りすることに始まった仏教の象徴的な建造物。神仏分離を進める出雲大社においてこれ以上目障りなものはなかったのでしょうね。藩主松平直政と思惑が一致、そしてタッグを組むとは、さすが出雲国造千家さんです。
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