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蜂須賀家政、徳島城へ。織部灯籠を鑑賞。

こんにちは。


うーみー。


徳島県下最大の山城、阿波・一宮城。

南北朝時代に小笠原氏(一宮氏を称す)が築城し長く居城。

長宗我部元親が一宮氏を謀殺し、入城。



秀吉の四国攻めでは数万の軍勢が対峙する主戦場となり、結果、長宗我部元親は、開城。


はっちー好きの淡路島の狛犬。

阿波国の大名となった蜂須賀家政は、まず一宮城に入ります。



時は戦国真っ盛り。家政は大急ぎで本丸の石積を築造。


・・・間違い。


こっち。


しかし、家政は翌年、眉山の向こう側、徳島城へお引っ越し。

私も一宮城から移動。


徳島城博物館に滑り込み、庭園へ。

屋外展示が面白かったです。


織部型灯籠。

古田織部の墓にあった奇抜な形の灯籠から名付けられたという織部型灯籠。

お庭の事はわからないので、「wikipedia」より引用。

「つくばいの鉢明りとして使用する、四角形の火袋を持つ活込み型の灯籠。その為、高さの調節が可能である。

露地で使用される。奇抜な形から江戸時代の茶人・古田織部好みの灯籠ということで『織部』の名が着せられる。」


石竿部分。

「石竿に十字模様や聖人(実際は地蔵菩薩)のようにも見える石像が刻まれており、これをもってキリシタン灯籠と呼ばれることもある。

ただし、織部灯籠をキリシタン遺物と結びつける説が現れたのは昭和初期からであり、否定的な学者も多い。」(引用終わり)

地蔵菩薩様にしては、ちょいとすらーっとしてますもんねぇ。


いつも応援いただきありがとうございます。黄砂が飛来した時から怪しかった花粉症が、爆発しました。鼻水が洪水です。頭がパーです。という訳で短めでごめんあそばせです。花粉症の皆様、お大事に~(T▽T)
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眉山湧水群「錦竜水」。徳島藩時代は有料でした

こんにちは。


徳島のシンボル、眉山。


どこから見ても眉のように見えることから、眉山。

この眉山の山麓には神社が集中しています。
阿波徳島藩主蜂須賀家政が徳島城を築城する際にお呼ばれしたり、ずっとずっと昔から鎮座していたり。


狛犬、壱(阿)。むっちり。


狛犬、弐(阿)。ちゅん。


狛犬、弐(吽)。ちゅんちゅん。


狛犬、参(吽)。年長者。


狛犬、四(阿)。どっちり。


狛犬、四(吽)。落ちちゃうー。


狛犬、五(阿)。お土産ありがと。


狛犬パラダイス、春日神社。


お社の周囲は寺町。

※うっかり自分の車を真ん中に撮影してました・・・(ノ_<。)


新しく阿波徳島藩主となった蜂須賀家政は城下町の建設にあたり、徳島城(本城)のある「城山」に対して西方に位置する「眉山」の山麓・大滝山の山懐一帯に多くの寺社を集めます。

城下町にはよく見られる光景ですね。

いざ戦となれば、兵力を集める場所となり、また、本城の防衛を担う重要な寺町。

この寺町には、還国寺(徳川家の位牌を安置)、持明院(蜂須賀家祈願寺)、藩士や城下の町人の檀那寺等が集められ、宗派も混在(浄土宗・日蓮宗・真言宗)しています。



寺町にある錦竜水(きんりょうすい)。


眉山の麓の「眉山湧水群」のひとつ。

錦竜水の他に、東山手町の瑞巌寺の鳳翔水、西富田の八幡神社の八幡水などがあります。

江戸時代の徳島城下の人々は、これらの眉山の湧き水を買って飲み水としていました。

特に歴代の阿波藩主は、この錦竜水を愛用し、水番所を置いて保護。
今も錦竜水は、歴史的名水として多くの市民に親しまれているとか。(説明板より)



最近は、どこもこれ。

1976年頃に水脈が途絶えたものの「名水阿波錦竜水保存会」による復旧工事で、1987年に蘇ったそうです。よかった。


お腹壊したら大変ですから。


よだれが出たので、ペットボトル1本分いただいて、某所で沸かして抹茶ぶれいく♪しました。おほほ。

車に湯沸かし道具を積んできてよかったー。



いつも応援いただきありがとうございます。藩主蜂須賀さんも愛飲の名水、錦竜水。水番所まで設置しているのですから、よっぽどお気に入りの味だったんでしょね。昔は「これは何処其処の水だ」と言い当てるゲームが流行るほど味覚が繊細だったそうですから。
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地神社。蜂須賀氏が恐れた神罰と阿波国独特の地神信仰

こんにちは。


眉山の周囲をぐるんぐるんする徳島の旅。


蜂須賀家政が徳島城の総鎮守として奉還した春日神社。


おはー。


このペアは、1769(明和六己丑)年正月吉日生まれの古参。
大阪炭屋町の石工さんの手による狛犬ちゃん。


徳島の狛犬さんもかわいいな。


境内の奥に鎮座する地神社。


聞き慣れないお社の名前です。


阿波独特の信仰に「地神信仰」があります。

「地神」と刻んだ石碑は他の地区でも散見しますが、阿波国においては創始に藩主蜂須賀氏が深く関わり、「地神を祀る塔と祭礼」が一定のルールにより藩内で統一性を保っている点が独特です。


【「地神信仰」とは】

「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由云々」
 
阿波国内の天皇陵や古代の遺跡を掘り荒らした蜂須賀氏。

その神罰を恐れた、阿波徳島藩代11代藩主の蜂須賀治昭。

1790(寛政2)年。

阿波徳島藩代11代藩主の蜂須賀治昭が、神職早雲伯耆の建白を受け、藩内全域に地神塔(塚)を建て、春秋の社日(戌の日)に地元の氏子や農民に「地神祭」を行うようにさせたことが始まり。



阿波徳島藩内に地神として祀る碑や祠(地神社)が、2000基はあるといいます。

その形は「五角柱の心石」「五角形の祭壇」「屋根がない」という統一性があり、塔の五面には

①天照大神【農業祖神・皇祖】※必ず北向き
②倉稲魂(ウカノミタマ)命【五穀祖神・稲米(五穀)の神 】
③埴安姫(ハニヤスヒメ)命【土御祖神・埴土(はに《=土器や祭祀》)の神】
④少彦名(スクナヒコナ)命【五穀祖神・薬学の神】
⑤大己貴(オオナムチ)命【五穀護神・葦原中つ国の盟主神】

以上五神の名をそれぞれの面に記します。

古事記・日本書紀の神話の「国土創生」の神々であり、阿波国内では神蹟の明らかな「土着の神」の五柱。



【「地神祭」とは】

春・秋の彼岸に一番近い「戌」の日に、地元の氏子や農民は農耕を休み「地神さん」の周りで祭礼を行います。

その日に農作業をすると地神さんの頭に鍬を打ち込むことになるといわれ、忙しい時期ではあるものの総ての農家が農作業を休みました。

「地神さん」の周りに注連縄を張り、沢山の供物が供え、時間が来ると、その供え物は子供達に「お下がり」として分け与えられます。

子供達はこの日のことを「おじじんさん」と呼び、楽しい年中行事の一つとしていたとのこと。


以上のように、阿波徳島藩内に独特の「地神信仰」は「地神社」と「祭礼」の形で今も残っているのです。

※尚、阿波藩独特の祭礼行事なれど、隣接する地域や、阿波徳島藩からの入植者が居住する北海道の地域等でも「地神さん」が祀られています。


春日神社境内では、一際大柄で細工の見事な狛犬が地神社を護っています。


はいはい。こちらは1862(文久2)年戌二月吉日生まれ。


大事にされてよかったね。


あら。何に使うの?


ふんふん。

 
犬歯も細かく彫られたお顔。

え、貯金!?


えらいねぇ。


阿吽共に大型犬の穏やかさがにじみ出ています。

しびあだけど。


しっぽの先まで立派。


どうしたのかしら。


おっと。おしり、落ちかけてるよー。


温泉なんかに入ったらどうなると思う?


違うでしょ。沈んでしまうでしょ。レスキュー呼ばなくちゃでしょ。


教育的指導。

さて。いろいろな狛犬さんに会えたので、満足して帰途につきます。

おや。社務所兼集会所の前にも狛犬さんが。


食べかけの飴ちゃんはいりません。気持ちだけ、ありがとう。


・・・鳴門金時じゃ、だめ?

ほら、おさつやしっ(*^▽^)/★*☆♪



春日神社
《住所》徳島県徳島市眉山町大滝山1



参考サイト
「徳島県立図書館/郷土研究発表会紀要第42号」
→→→「郷土研究発表会紀要第42号」

 
いつも応援いただきありがとうございます。しまった。オヤジギャグで締めてしまったー。
大型犬の狛犬さん。丹後半島等で大型犬には会いましたが、横から見たら徳島の狛犬。春日神社も狛犬いっぱい。阿波国独特の地神塔(地神社)にも触れることができて、とても興味深いお社でした。

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春日神社。徳島城の総鎮守。狛犬勢揃いでお待ちかね

こんにちは。

本州から


明石海峡を渡り


鳴門海峡を渡り

やって来ましたここは、久方ぶりの


蜂須賀氏の治める阿波徳島藩。


徳島観光の目印は、この眉山。


ご機嫌な朝です。

阿波・一宮城は蜂須賀家政が阿波国に入り、最初に居城とした城。

素敵な山城。

さて。本日は眉山の麓、大滝山に鎮座するお社へ。


春日神社。

【祭神】
武甕槌命(タケミカヅチノミコト)

【配神】
斎主命(イハイヌシノミコト)
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
比売神(ヒメカミ)

奈良に坐す春日大社の御分社であるこの春日神社は、御祭神も同じ四柱の神々。



1586(天正14)年。

藩主蜂須賀家政が、徳島城築城と共に城下の鎮守として、名東郡田宮村(一説には名西郡入田村)より現地に奉遷。


かぽー。


そんなぁ。照れるなよぉ。


おっはー。

今日も狛犬さんは元気です。


しょーばいはーんじょ。


はいはい。


おや。徳島の狛犬さんのお得意のポーズ。ぷりん♪


ぼんきゅぼーん♪

ふふ。



徳島城下の総氏神として歴代藩主を始め上下の崇敬が篤かった春日神社。

当時の社殿を始め主要建築物は、1945(昭和20)年の戦災の為殆ど灰燼に帰してしまい、その後再建。

徳島市も空襲の被害が大きかったのですね。


拝殿に向かって右には秋葉社と若宮社。

秋葉社の御祭神は大己貴命(大国主命)。
若宮社の御祭神は天忍雲根命(祭神・武甕槌命の孫)。


おはー。


ち、ちゅーん?


そうだねっ。気温3度だもんねっ。


私も幸せ~♪


なによぉ。甘えてんのぉ?


ふふふ。


鳥さんのようにも見え。

そして


阿波・一宮城の石垣のようにも見え。


この子が徳島の狛犬さん、なのかな。


はいよー。


どっしり。


あら。ずいぶん濃い~ぃお顔。


食べたんかいっ。


毎日たいへんね。


重たいんかいっ。


朝から賑やかな春日神社です。

いつも応援いただきありがとうございます。朝からわいわい賑やかな明るいお社。ご近所の方々が絶えずお参りになっていました。朝のさわやかな挨拶を交わしつつ、いつまでも狛犬にへばりつき、うふふ、うふふ、っとほくそ笑んでおりました。春日神社、続きます。
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木本神社。熊野灘の水は飲めません。

こんにちは。


獅子岩。

紀伊半島南部では、熊野酸性岩という火成岩が熊野層群という堆積岩の中に貫入して、那智滝、鬼ヶ城、橋杭岩など特異な風景を作り出しています。


那智の滝。


橋杭岩。津波で一部崩落。


国の名勝鬼ヶ城。


鬼ヶ城は、流紋岩の大岩壁。


鬼ヶ城は数段の階段状になっていて、数回の地盤の隆起の跡と波蝕洞窟と天井の風蝕痕が段々畑のようになっています。

盛り上がっては削られ、盛り上がっては削られ。


その流紋岩は火山岩の一種。

熊野酸性岩と流紋岩のように、火山の影響が大きいのが紀伊半島南部の見所です。


この鬼ヶ城の付け根に鎮座するのが、


木本神社。


紀州藩直轄地のプライド。

【安政の村替騒動】

安政二年。木本方面の紀州藩領二十七ヶ村と有田方面の新宮藩領五ヶ村の知行替えに反対する木本の人々の一揆を防ぐため、江戸詰御勘定奉行の吉田庄太夫が熊野に来て説得にあたり、知行替えを行わないとの誓詞を独断で書き中止させるも、その責任を取り自害。


吉田庄太夫を祀る吉田大明神石祠。


今は平和なお社。

しかし、目の前はなんと。


堤防と国道。

向こう側に渡ると、


水門おーぷん。


うーみー。

っと、かくの如く目の前は海。また、木本の土地は砂礫層に覆われていて、水に恵まれず。

干ばつの時には、一荷なんぼ、と飲み水を販売していたといいます。



1712(正徳2)年。長年の水不足解消のため、木本浦の浜地太右衛門さんが水源地から町内四カ所(低地)に水を引くための工事を行います。

長い松の木を縦に割り、中をくりぬいたものを合わせて土の中に埋めて水を引く水道管を作り、「水槽石」に貯水。

木本の人々の飲料水としました。



当時四カ所に配置された水槽石は、木本神社の手水鉢を含め四個とも現存しています。

そんな木本の地。大変だったんだなぁ。


狛犬さんは笑顔。ほっこり。


笑顔でおねだり。最強。


お祭り?


おや、ビーバーの尻尾。かわいい。

阿吽で尻尾が違うとこ、お気に入り♪


お神輿だー。

毎年、神輿の渡御に付き添う形で「六方行列」が進む木本祭りは熊野市無形民俗文化財。


歴史の語り部。



木本神社
《住所》三重県熊野市木本町95





いつも応援いただきありがとうございます。目の前にお水はたっぷりあるけれど、海水では飲めず。木本神社には鎌倉時代のものとされる木像狛犬さんがいるのですが、貴重なものなので熊野市歴史資料館の画像で満足しました。この資料館のおじさまが、熊野市大好きな素朴で真面目な方で、この方にお会いするのも熊野通いの楽しみのひとつ。うふふ。
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新宮城と安政の村替騒動の木本神社。欲深さんは大嫌い

こんにちは。

紀州徳川家の治める親藩の紀州藩。


(高野山奥の院)

徳川家康の十男・徳川頼宣が紀伊国一国に南伊勢を加えた55万5千石で入部し、成立。お住まいは、和歌山城。

和歌山市から南伊勢(熊野一帯含む)を治めるのは広すぎる。


そこで、徳川頼宣の付家老・水野重仲(家康の母方の従兄弟)が新宮城城主となります。


紀州徳川家の重要な拠点。


1633年(寛永10年)第二代城主・重良の時に一応完成し、以降水野氏の居城として明治維新を迎えます。


小さいながらも、地元の熊野酸性火成岩を積み上げた優美な城との評判。


新宮城は熊野川河口に建ち、専用の港を持ちます。


「水の手郭」には港があり、軍港と共に経済的物流港の役割も果たしました。


港の横には炭納屋群の跡が19棟。江戸へ送る紀州備長炭の倉庫です。

新宮の紀州備長炭と鯨油を江戸へ販売。
紀州徳川藩の名を利用し、関税無料。



紀州藩新宮領は35000石でも、炭と鯨油の販売により、実質は数十万石もの力があったと評されたのでした。


桝形の虎口。

しかし、新宮領主水野家には、とても悔しいことがあります。

初代水野重仲が家康の母方の従兄弟であろうとも、新宮領がどんなに大富豪であろうとも、紀州藩付家老はあくまでも陪臣。

直参は1万石。水野家は35000石。決して少ない石高でもない。

9代城主の水野忠央は何とかして直参になりたくて、幕府内部へ身内を総動員する勢いで婚姻、養子縁組により入り込むも、失敗。強制隠居。

覚えておいてね「9代城主の水野忠央」




さて、熊野。ここも紀州徳川家が治める土地。


名勝鬼ヶ城の上には鬼ヶ城本城。

室町時代(1523年頃)に熊野有馬氏の有馬忠親が甥の忠吉に家督を譲り隠居城として山頂に築城したお城。


「おしおきだべぇー」・・・わかるあなたが大好きです(≧∇≦)


くるっと回れる遊歩道なんですが、太平洋の荒波の力は物凄い。


鬼ヶ城の西の端に鎮座するお社。


木本神社。



木本神社が鎮座する木本町は、江戸時代に紀州徳川家の本藩公領地として『奥熊野代官所』が置かれ、熊野川以東の熊野地方の中心地として栄えた町です。


小学校みたいでかわいいお社。

木本神社は、元は「若一王子権現」(「若一王子」=天照大神)といい、新田地区にあったものを現在地に遷座したと言われています。

熊野市歴史資料館に1608(慶長13)年の遷宮棟札(写し)があり、このお社のお話をお伺いして興味津々。

木本神社のポイントは。

新宮城城主水野さん、嫌だもんっ

・・・私の熊野うきうき旅を全否定するが如き衝撃。



覚えていますか「9代城主の水野忠央」

水野忠央(ただなか)は政治的権力と金力をもって、本藩の紀州藩を抑え、実権を握ります。35000石の水野家。石高充分、ひゃっはー。

初代水野重仲が家康の母方の従兄弟だろうが、新宮領がどんなに大富豪だろうが、紀州藩付家老はあくまでも陪臣でー。

これは我慢の限界!

何とかして直参になりたくて、幕府内部へ身内を総動員する勢いで婚姻、養子縁組により入り込み、幕府をも動かし、まずは多年の夢である村替を実施しようとしました。


交換にせよ、こんな魂胆見え見え。

安政2年。
木本方面の紀州藩領二十七ヶ村と有田方面の新宮藩領五ヶ村の知行替えが発表されると、税が重くなることを恐れた木本側による領地替え反対騒動が発生(安政の村替騒動)しました。

つまり、和歌山に近い有田の新宮藩領五ヶ村と、和歌山から遠い木本方面の紀州藩領二十七ヶ村を交換しましょ、と。

木本、紀州藩直轄から、新宮城主の配下となってしまう、ということで。



反対の理由

【表向】

「歴代藩主の御恩忘れ難く、村替されるのは母から裂かれる子のようなもの」と終始一貫して共同目標をかかげ嘆願し、ひたすら基本姿勢を崩さず続けました。


【本心包み隠さず】

「新宮側の財、税政に対する不信や猜疑心(年貢の引上げ等)」であり「木本方面の27ヶ村は本藩に属していた自尊心」があったことでしょう。


そこで登場するのが、江戸詰御勘定奉行の吉田庄太夫。

一揆を防ぐため、吉田自身が木本に来て説得にあたりますが、木本側は納得しません。

庄太夫は侍と百姓という身分を越え、人間と人間として命をかけて向き合い必死に説得。

しかし民意を動かす事が出来ないことを察し、庄太夫は藩命にそむき独断で「村替中止のことは身をもって引き受ける」と宣言し、有名な「村替据置」の誓紙を手交し、一揆を中止させます。

藩命にそむいた侍の責任の取り方は、死をもって償う「自決」。


5月15日早朝。
庄太夫の木本出立にあたり、「一期一会」になることを察し人々は、交代で庄太夫を担ぎ、前後に大明神幟をなびかせ、泊峠(松本峠)を越え大泊まで見送りました。


松本峠は鬼ヶ城の上を通る。


そして、大泊から尾鷲へ。

庄太夫は江戸に戻り、自身の言葉通り村替を中止させ、のちに江戸藩邸において自決。


吉田庄太夫を祀る吉田大明神石祠。

9代城主の水野忠央は幕府内部へ身内を総動員する勢いで婚姻、養子縁組により入り込むも、失敗。新宮へ強制隠居。


こんな歴史を見つめた木本神社なのでした。



いつも応援いただきありがとうございます。神々のおわす熊野の地といえども、ここに生きる生身の人々には幾度も豪族の戦いに巻き込まれたり、圧政に耐えかねることもあったわけで。その微妙な歴史の積み重ねがとても面白い熊野なのです。
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神話と熊野。イザナミの子達と花の窟神社のお綱。

こんにちは。


淡路島おのころ神社のせきれい石。


せきれい先生を覗き見して、子作りを知ったイザナギとイザナミ。


神生みを始めます。

ところが。


三重県熊野市。産田神社。

日本書紀に曰く。

「 一書曰伊弉冉尊、火神を生み給う時に灼かれて神退去(さり)ましぬ」


イザナミは火神カグツチを生む際に火傷。お亡くなりになりました。


「故(か)れ紀伊国 熊野の有馬村に葬(かく)しまつる」




三重県熊野市有馬町。花の窟神社。

「 土俗(くにびと)此神の魂(みたま)を祭るには 花の時に花を以って祭る 又鼓 吹幡旗(つづみふえはた)を用て歌い舞いて祭る」



「即ち当神社にして、其の由来するところ最も古く、花窟の名は増基法師が花を以て祭るより起これる名なり。」

花を供えて祀った岩屋。よって、花の窟神社。



「花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。」


「南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。」



さて、生まれるときに母伊弉冉尊の体の一部を焼いてしまった軻遇突智(カグツチ)。


父のイザナギに殺されてしまいました。

このとき用いたのが、十拳剣(とつかのつるぎ)の、天尾羽張(あめのおはばり)。

天尾羽張についた軻遇突智の血から、火・雷・刀に関する神が生まれます。


再び、花の窟神社。


イザナミ。

「此の窟の南に岩あり、軻遇突智(かぐつち)神の神霊を祀る。」


「此の神、伊弉冉尊の御子なれば王子の窟という」

イザナミのとカグツチの窟は向かい合わせに鎮座しています。

さて。



寂しいイザナギは、イザナミに会うため黄泉の国へ行き、


変わり果てたイザナミの姿を見て逃げ出します。


「不負於族(うがらまけじ・お前には負けないもんっ)」と言い捨て、お別れを切り出し、ぺっ、します。


唾から、速玉男之男神、誕生。熊野三山の祭神の一人。

古代、唾を吐くのは、魔除・祓い・契約を意味する行為とか。


それを掃きはらって、事解主之男神、誕生。

こうして生まれた二人のぼっちゃんは、共に穢れ・汚れを祓い清める力を持ちました。


黄泉の国とイザナミにお別れして、帰る父子。


黄泉の国の穢れを祓うため「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」で禊を行なうと、様々な神が生まれ。最後に。


アマテラス。


ツクヨミ。


スサノオ。

三貴神の誕生です。


イザナミの葬られた三重県熊野市・有馬の、花の窟神社。

ご神体は、イザナミ。

このご神体にかけられるのが「お綱」。


夕方撮影したので白黒です。


扇に挟まれた三つの飾りは、イザナミにアマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴神が奉納したとされています。




この飾りを付けたお綱は、年に一度、「お綱かけ神事」で新たにかけられます。

「かけ替え」ではないため、前回のお綱が残っている場合でもそのままにしておきます。

前の大祭のお綱が残っていることは、豊作を約束されたものとして喜ばれるといいます。(現地説明書)


7本の綱から出来ています。

古代米の稲藁で作られた7本の綱を1尋ごと(1.6m)に結束。

7本の綱が意味するものは、イザナミが生んだ自然神7柱。

①風の神・・・級長戸辺命[シナトベノミコト]
②海の神・・・少童命[ワタツミノミコト]
③木の神・・・句句廼馳[ククノチ]
④草の神・・・草野姫[カヤノヒメ]
⑤火の神・・・軻遇突智命[カグツチノミコト]
⑥土の神・・・埴安神[ハニヤスノカミ]
⑦水の神・・・罔象女[ミツハノメ]

面白いなぁ。


神内神社。

前回記事の神内神社の伝承では、ここでイザナミが一女三男を生んだといいます。


古神殿。

果たしてその子達は誰なのかな、とわくわくする週末なのでした。


いつも応援いただきありがとうございます。イザナミは何といっても八百万の神をお生みになりましたもの。神内神社で生んだの、だぁれ?と思っても古事記・日本書紀には記述がない。しかし、熊野一帯はどこも神話の世界の空気が漂っていて、あっちこっちにこのようなこぼれ話が存在していそうです。
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神内神社と古神殿。熊野の自然信仰

こんにちは。


前髪ぱっつん狛犬さんがお迎えする神内神社。



創始は明らかでないものの、子伝承に曰く。

「当社の義は近石と申すところに逢初森(アイソメノモリ)というのがあり、そこに伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナギ)、天降らせ一女三男を生み給う。」



「この神を産土神社(ウブスナジンジャ)と崇め奉る、よってこの村の名を神皇地(コウノチ)と称す。
いつの頃よりか神内村(コウノウチムラ)と改むと言い伝う」


右側に佐倉宗吾宮。


いよいよ拝殿。


別名・子安神社。よだれかけがたくさん奉納されています。

「近郷の人、子安の神、安産の神として参詣するもの多い。また豊漁の神として近隣の漁師の信仰厚い。」


神内神社には神様を祀る社殿はありません。

【祭神】
天照大神(あまてらすおおみかみ) 
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)


ここでは巨大な岩がご神体です。


すごいなぁ、っと見つめることができる部分は全体の数十分の一。


遠望してはじめて大きさがわかります。

さて。神内神社を後にして少し歩くと。


神内神社のご神体手前には「古神殿」。


古神殿。

神内神社の元宮で、原始時代の信仰の形を残す巨石群。


重なった岩。


岩。岩。岩。

残念ながらここは個人所有地のため木々は伐採されておりますが、往時は巨木の密集した中に岩が垣間見える神秘的な場所であったのでしょう。

神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)を覆う神奈備。
まさにそんな場所。古神殿。


伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナギ)が降り立ち、一女三男を生み給うという神内神社。

一女三男って誰なのかな。面白いな。

さて。ここは熊野。

神内神社と同じように巨大な岩がご神体のお社としては、熊野市の花の窟神社があります。


熊野市・花の窟神社。


ご神体は巨大な岩。


ここは、カグツチを生んだ時の火傷によりお隠れになったイザナミの亡骸を納めたところ。


熊野市・産田神社。

イザナミがカグツチを産んだところ。ここは、古代の神籬(ひもろぎ)がそのまま残っています。(社殿はあります)



熊野市・七里御浜の獅子岩。


通えば通うほど興味が尽きない熊野。

ぜひ一度お越しくださいませ。



いつも応援いただきありがとうございます。熊野新宮大社・熊野那智大社・熊野本宮大社のいわゆる「熊野三山」だけでなく、古代からの自然信仰の姿を色濃く残す熊野。熊野の奥深さはこんなお社が残る所にあるような気がしております。
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神内(コウノウチ)神社。神皇地に鎮座するお社

こんにちは。

和歌山県の南端から東に走り熊野川を渡ると、三重県。



ここは三重県紀宝町神内近石(ちかいし)958番地

今日は、いかにも熊野らしいお社を訪ねます。


巨木の立ち並ぶ社頭。


神内神社です。


「『明細書』に『当社の義は近石と申すところに逢初森(アイソメノモリ)というのがあり、そこにイザナギ・イザナミ、天降らせ一女三男を生み給う。

この神を産土神社(ウブスナジンジャ)と崇め奉る、よってこの村の名を神皇地(コウノチ)と称す。

いつの頃よりか神内村(コウノウチムラ)と改むと言い伝う』とあり。

近郷の人、子安の神、安産の神として参詣するもの多い。また豊漁の神として近隣の漁師の信仰厚い。」(現地説明板より)

創始は明らかではなく、上記は子伝承に依っています(三重県神社庁HP)。



安産?


石を飲み込むホルトノキでした。

この石は鎌倉時代に参道の両脇に並べられた石。
数百年が経過し木が成長。石を抱え込んでしまったようです。


木々に圧倒されて私は今、緑色かも。


神武天皇や明治天皇と並び、佐倉宗吾の宮があります。

【佐倉宗吾って誰】
江戸時代前期の人。佐倉藩領、公津村(現・千葉県成田市台方)の名主。
藩主堀田氏による苛政に苦しむ百姓のために1653(承応2)年、上野寛永寺に参詣する将軍徳川家綱に直訴。

その結果、藩主の苛政は収められたが、佐倉宗吾夫妻は磔となり、男子も死罪となります。

佐倉宗吾の物語は歌舞伎や講談などでも語られ、義民として知られるようになり、ここ神内神社では百姓の神として祭られるようになりました。(現地説明板より)


向かって左が神武天皇や明治天皇をお祀りする祠、その脇の岩屋に佐倉宗吾宮。


奥行きのある空間になっていました。


ぴしっと。


おっきな岩ねぇ。


「神内神社は、石英粗面岩(熊野酸性岩)の岸壁をご神体として祭った原始宗教の名残りのもので、多数の水蝕洞穴があり岩面には着生植物が多い。

神社の境内には着生植物、シダ植物を含めて約300種の植物が繁茂している。」(現地説明板)



お社の横に清流。禊の場所でしょうか。この階段は


真っ直ぐ本殿に通じています。


迫力に圧倒されて川に落ちそうです。


おや。狛犬さん。


はじめまして。


お手々はすすぎました。


なによっ。失礼なっ。


見張り番、お疲れ様です。


ぷ。


いやぁん。かわいい。

どうも違和感があると思ったら、阿吽が逆でした。


頭がっ。あたまっ。


そこまで申してはおりません。


狛犬さんの横のこちらで改めてきれいきれいに致しまして。



続きは次回。原始宗教と熊野の巻。のつもり。


いつも応援いただきありがとうございます。私、緑色になってるんじゃないかしら?っとわくわく。参道の山側(向かって右側)をよく見つめると、あちこちから巨大な岩が顔を出しています。大きすぎて画像に入らないです。くすん。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

木葉神社。土に還りそうな狛犬と神の依り代

こんにちは。


ねんねこねんねこおろろんよー


首飾りの効果でしょうか。


惚れ惚れしてしまいます。素敵な狛犬さんです。


ねんねこ祭の木葉神社。

古くから「祢んねこの宮」といい、特に安産育児小児の難病に御霊験が厚いと伝えられているお社。

多くの人々から崇敬され大切にされているのが、お手入れの行き届いた境内からひしひしと伝わってきます。


では、お参りしましょ。


こまちゃんを探せ。


阿ちゃん。


吽ちゃん。


びっくりするほど古い子でもないのにな。


顔の表情がわからなくても、


とってもかわいい。


この子は長い間ずーっとこうして見つめてきたのね。


吽ちゃん。





ねんねーこねんねーこ♪


仲良し。


玉垣の内側。豊かに敷き詰められた白くて平たい石。


履き物を脱いで、藁草履に履き替えなくてはならなかったそうです。

下駄箱に草履が置いてあったので、お借りしました。
神職様が来られたとき「ありがとうございます」と笑顔で言われ、あたふた。誉められ慣れてないものでf(^_^)


燈籠は無事。


正面の石段を上がって90度左を向くと、この風景。


本殿。

和歌山県神社庁HPより

「鎮座の歴史については、1471(文明3)年社殿が火災に羅り、殆どの記録を焼失したので御由緒を知ることが出来なくなった。

社名の『祢んねこの宮』の由来については、古文書に『不寝児爲寝宮』の字句がある。

この寝宮という言葉や、例祭の節に奉納する子守唄の『ねんねこ、ねんねこ、おろろんよ~……』などの言葉から、祢んねこの宮と呼ばれるようになったものと考えられる。

何れにしても、子供のための宮を意味したもので、寝る児は肥るの古語にもあるように、良く眠らせ、良く肥らせる育児を願意とした御宮であると拝せられ、御霊験も別けて子供のことに験かであると伝えられている。」(以上引用)



「社殿を造ると火事になる」との言い伝えがあり、禁を破って社殿を作ったところ、火事になって社殿は焼け落ちたとか。

その通りになってしまいました。



【主祭神】木花咲耶姫

建物がなく小高い本殿の玉垣の中には、籬(ひもろぎ)と思われる石を積み上げた依り代があります。

古い古い神社の形を色濃く残しているようですね。


本殿を囲む配祀神のお社。


大地主神社。

【祭神】大地主命


若宮神社。

【祭神】不詳。近隣より合祀。


金比羅神社。

【祭神】金山彦命 武内宿祢


八幡神社。(本殿の玉垣の外に鎮座)

【祭神】誉田別命(神功皇后・応神天皇)


こちらも古参。


おや。かわいい狛犬さんが一番年長のようです。


木葉神社の名前の由来としては、

神功皇后が三韓征伐から凱旋して田原の浜に上陸し、産気づき、当社の木の葉の上で安産したという伝承が残ります(『日本地名辞典』《和歌山県》)。



ねんねこの宮と呼ばれる木葉神社。



子供達に寄り添う優しいお社。



とても素敵なお社でした。


木葉神社
《住所》和歌山県東牟婁郡串本町田原551番地


いつも応援いただきありがとうございます。お顔も姿もわからなくなってしまった狛犬さん。それなのにとてもかわいい子達。まだまだ現役で参拝者をお迎えしています。ぜひ、会ってやって下さいませ。
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