四方の海と日本初の「第九」全曲演奏。板東俘虜収容所。
こんにちは。

カイゼル髭さん、こんにちは。

ドイツ人俘虜達が暮らした鳴門市の板東俘虜収容所。

義勇兵が多かったため、彼等の技術を生かした収容所の生活。

収容所の食事がお口に合わず、ソーセージやチーズ、パン等を自作。

ドイツ皇帝の誕生日やクリスマスには、ドイツの歌を合唱し、皆でわいわい。お酒もオケー。
他には、ドイツ人俘虜が編集者となり新聞を発行。
ドイツの戦況や日本の状況や文化等を記事にしました。
また、楽器を演奏する技術を持った俘虜達による「へルマン・ハウゼン楽団」が結成されます。

彼等により、ベートーベンの交響曲第9番が、ここ、板東俘虜収容所において日本で初めて全曲演奏されました。
ソプラノはいませんので、男声で置き換えて演奏。
映画「バルトの楽園」では地域住民を招待していましたが、実際は収容所内でのささやかな演奏会だったといいます。

【ドイツ敗戦と松江所長の言葉】
1918年。ドイツの敗戦が板東俘虜収容所にも伝わります。
収容所でひたすら自国の勝利を祈っていた俘虜達。
動揺は激しく、将校も兵士も、ドイツ人としての誇りを失いかけます。
1919年。パリ講和会議。6月28日、ヴェルサイユ条約締結。
松江所長がドイツ人俘虜達に語った言葉。
「諸君。私はまず今次大戦に戦死を遂げた敵味方の勇士に対して哀悼の意を表したい。
もとい。
いま敵味方と申したが、これは誤りである。
去る6月28日調印の瞬間をもって、我々は敵味方の区別がなくなったのであった。
同時にその瞬間において、諸君はゲファンゲネ(俘虜)ではなくなった。
ドイツ国民の一人一人であり、一個の自由なる人間になったのである。(中略)
さて、諸君が懐かしい祖国へ送還される日も、そう遠くではないと思うが、既に諸君が想像されているように、敗戦国の国民生活は古今東西を問わずみじめなものである。
私は幼少期において、そのことを肝に銘じ、心魂に徹して知っている。
それゆえ、帰国後の諸君の辛労を思うと、今から胸の痛む思いである。(中略)
どうぞ諸君はそのことをしっかり念頭において、困難にもめげず、祖国復興に尽力してもらいたい。」

徐々に帰国するドイツ人俘虜達。
松江の「命令遵守に感謝する」との言葉に、クルト・マイスナー(通訳・日本語講師)が答えます。
「貴方が示された寛容と博愛と仁慈の精神を我々は決して忘れません。
そしてもし、我々より不幸な人々に会えば、貴方に示された精神で挑む事でしょう。
『四方の海みな兄弟なり』という言葉を我々は貴方と共に思い出すでしょう。」
このクルト・マイスナーの言葉の持つ意味。
「四方の海」は、明治天皇の御製。
欧米列強がアジアを侵略し、ロシアが日本を虎視眈々と狙っている時代に詠まれた歌。
四方の海 みな同朋(はらから)と 思ふ世に
など波風の 立ちさわぐらむ
(四方の海はみな同胞(兄弟)と思うこの世になぜ波風が立ち、騒ぎが起こるのであろう)
【ドイツ人達の残したもの】

1919年8月に収容所の片隅に作られた慰霊碑。
収容所で亡くなった11名の仲間を弔うため、帰国前にドイツ人俘虜達が建立。

板東俘虜収容所の近くの大麻比古神社の境内にある「ドイツ橋」。
1919年4月初旬。ドイツ人俘虜たちが地域住民との親交の記念として建築。2ヶ月で完成。
川床の土台を強固にして、セメントを一切使わずに寸分の狂いなく積み上げられた石橋は、100年程が経過しても微動だにしておりません。

建築には、地元から相応の建築費が出されることになっていましたが、ドイツ人俘虜達はそれを固辞。
何故?
ドイツ人俘虜曰く
「松江大佐が、我々俘虜に創造の喜びと働く意欲を駆り立ててくれたことこそが最大の報酬です。」
1920年4月。収容所閉鎖。
【松江の息子が語る「父の性格」】
所長の松江豊寿は1922年に陸軍少将。
同年12月。会津若松市の市長に就任。
約3年間勤め、白虎隊の慰霊碑を整備するなど地元会津のために尽力。
そして。
1982(昭和57)年。87歳で永眠。
松江の息子さんは語ります。
「(収容所所長であった父のことを)、アウシュビッツやソンミ村事件に比べて、ヒューマニズムという言葉でいう人もありますが、ヒューマニズムというような今日的な言葉よりも、「武士の情け」という言葉のほうが、一番ぴったりしているように思います。
父は武士らしい厳しさと、強い正義感をもつ反面、人間を全面的に信頼し、情にはひどくもろいところがありました。」
■アウシュビッツ
第2次世界大戦のナチスドイツがユダヤ人の虐殺を行った収容所。
■ソンミ村事件
ベトナム戦争中のアメリカ軍人よる非武装民間人の虐殺事件。

収容所跡地に建つ赤十字の石碑。
なんか違和感がある。後付け感が拭いきれない。
ヒューマニズムとは、西欧における人道的・博愛的な人間中心主義。
しかし、外来語を借りずとも、日本では「武士の情け」という言葉で、その美徳を表現できるのです。
いつも応援いただきありがとうございます。松江所長の息子さんの言葉にあるように、横文字で表現するとニュアンスが異なってしまう松江の胸の内にあったもの。それに「四方の海」の歌で返したクルト・マイスナー。考えさせられることが多い板東俘虜収容所なのでした。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

カイゼル髭さん、こんにちは。

ドイツ人俘虜達が暮らした鳴門市の板東俘虜収容所。

義勇兵が多かったため、彼等の技術を生かした収容所の生活。

収容所の食事がお口に合わず、ソーセージやチーズ、パン等を自作。

ドイツ皇帝の誕生日やクリスマスには、ドイツの歌を合唱し、皆でわいわい。お酒もオケー。
他には、ドイツ人俘虜が編集者となり新聞を発行。
ドイツの戦況や日本の状況や文化等を記事にしました。
また、楽器を演奏する技術を持った俘虜達による「へルマン・ハウゼン楽団」が結成されます。

彼等により、ベートーベンの交響曲第9番が、ここ、板東俘虜収容所において日本で初めて全曲演奏されました。
ソプラノはいませんので、男声で置き換えて演奏。
映画「バルトの楽園」では地域住民を招待していましたが、実際は収容所内でのささやかな演奏会だったといいます。

【ドイツ敗戦と松江所長の言葉】
1918年。ドイツの敗戦が板東俘虜収容所にも伝わります。
収容所でひたすら自国の勝利を祈っていた俘虜達。
動揺は激しく、将校も兵士も、ドイツ人としての誇りを失いかけます。
1919年。パリ講和会議。6月28日、ヴェルサイユ条約締結。
松江所長がドイツ人俘虜達に語った言葉。
「諸君。私はまず今次大戦に戦死を遂げた敵味方の勇士に対して哀悼の意を表したい。
もとい。
いま敵味方と申したが、これは誤りである。
去る6月28日調印の瞬間をもって、我々は敵味方の区別がなくなったのであった。
同時にその瞬間において、諸君はゲファンゲネ(俘虜)ではなくなった。
ドイツ国民の一人一人であり、一個の自由なる人間になったのである。(中略)
さて、諸君が懐かしい祖国へ送還される日も、そう遠くではないと思うが、既に諸君が想像されているように、敗戦国の国民生活は古今東西を問わずみじめなものである。
私は幼少期において、そのことを肝に銘じ、心魂に徹して知っている。
それゆえ、帰国後の諸君の辛労を思うと、今から胸の痛む思いである。(中略)
どうぞ諸君はそのことをしっかり念頭において、困難にもめげず、祖国復興に尽力してもらいたい。」

徐々に帰国するドイツ人俘虜達。
松江の「命令遵守に感謝する」との言葉に、クルト・マイスナー(通訳・日本語講師)が答えます。
「貴方が示された寛容と博愛と仁慈の精神を我々は決して忘れません。
そしてもし、我々より不幸な人々に会えば、貴方に示された精神で挑む事でしょう。
『四方の海みな兄弟なり』という言葉を我々は貴方と共に思い出すでしょう。」
このクルト・マイスナーの言葉の持つ意味。
「四方の海」は、明治天皇の御製。
欧米列強がアジアを侵略し、ロシアが日本を虎視眈々と狙っている時代に詠まれた歌。
四方の海 みな同朋(はらから)と 思ふ世に
など波風の 立ちさわぐらむ
(四方の海はみな同胞(兄弟)と思うこの世になぜ波風が立ち、騒ぎが起こるのであろう)
【ドイツ人達の残したもの】

1919年8月に収容所の片隅に作られた慰霊碑。
収容所で亡くなった11名の仲間を弔うため、帰国前にドイツ人俘虜達が建立。

板東俘虜収容所の近くの大麻比古神社の境内にある「ドイツ橋」。
1919年4月初旬。ドイツ人俘虜たちが地域住民との親交の記念として建築。2ヶ月で完成。
川床の土台を強固にして、セメントを一切使わずに寸分の狂いなく積み上げられた石橋は、100年程が経過しても微動だにしておりません。

建築には、地元から相応の建築費が出されることになっていましたが、ドイツ人俘虜達はそれを固辞。
何故?
ドイツ人俘虜曰く
「松江大佐が、我々俘虜に創造の喜びと働く意欲を駆り立ててくれたことこそが最大の報酬です。」
1920年4月。収容所閉鎖。
【松江の息子が語る「父の性格」】
所長の松江豊寿は1922年に陸軍少将。
同年12月。会津若松市の市長に就任。
約3年間勤め、白虎隊の慰霊碑を整備するなど地元会津のために尽力。
そして。
1982(昭和57)年。87歳で永眠。
松江の息子さんは語ります。
「(収容所所長であった父のことを)、アウシュビッツやソンミ村事件に比べて、ヒューマニズムという言葉でいう人もありますが、ヒューマニズムというような今日的な言葉よりも、「武士の情け」という言葉のほうが、一番ぴったりしているように思います。
父は武士らしい厳しさと、強い正義感をもつ反面、人間を全面的に信頼し、情にはひどくもろいところがありました。」
■アウシュビッツ
第2次世界大戦のナチスドイツがユダヤ人の虐殺を行った収容所。
■ソンミ村事件
ベトナム戦争中のアメリカ軍人よる非武装民間人の虐殺事件。

収容所跡地に建つ赤十字の石碑。
なんか違和感がある。後付け感が拭いきれない。
ヒューマニズムとは、西欧における人道的・博愛的な人間中心主義。
しかし、外来語を借りずとも、日本では「武士の情け」という言葉で、その美徳を表現できるのです。
いつも応援いただきありがとうございます。松江所長の息子さんの言葉にあるように、横文字で表現するとニュアンスが異なってしまう松江の胸の内にあったもの。それに「四方の海」の歌で返したクルト・マイスナー。考えさせられることが多い板東俘虜収容所なのでした。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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