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板東俘虜収容所所長・松江豊寿。会津の心と武士の情け。

こんにちは。


板東俘虜収容所(跡地)。


映画「バルトの楽園」ロケセットが残る「バルトの庭」。


板東俘虜収容所の所長は、松江豊寿大佐。

ドイツ人俘虜達が、職業軍人ではなく、手に職を持つ義勇兵であると知っていた所長の松江豊寿は、彼等の知識や技術を生かした収容所にすべく心を砕きます。

7000坪もの土地を借り上げ、運動場、テニスコート、鶏舎、菜園を造成。


「バルトの庭」再現「製パン所」

仕立屋、理髪店、靴屋、写真館、製本屋、家具店、パン屋。
音楽教室、楽器修理、金属加工、配管工事の店などを敷地内に作ります。その数実に80件。


左の図面。黄色が俘虜達が経営する店。

また、引受人さえあれば俘虜の外出は自由。
地元民は俘虜達の持つ、ドイツの農業技術、洋酒製造法、標本作成、気象観測、設計と建築、石鹸の作り方などを学びます。

反対に俘虜達は、養蚕、稲作、藍染、焼き物等を地元民から学びました。


俘虜達は近くの吉野川や櫛木海岸で水遊びも楽しみました。

当然、陸軍省は激怒。松江は「あれは足を洗わせていたのだが、俘虜がついつい泳いでしもただけでーす」と、説明。

以降、櫛木海岸では「足洗い大会」と称し、地元民と俘虜のお祭りに。



「バルトの庭」再現「酒保(飲み屋)」

松江は、国際法を研究して俘虜の将校と交渉を重ねながら、規則は規則として厳守させつつ、可能な限りドイツ人俘虜の願いを実現させるように努力します。


「バルトの庭」再現「兵舎内部」
(ベッドの間に壁を作ることでプライベートを少しは保つことがてきるように)


ドイツ人俘虜の望郷の念、祖国や家族への心情には常に配慮しました。

驚くことに、ドイツ人俘虜の妻達は収容所を訪れればいつでも面会することができました。

妻たちは遠く日本まで足を運び、板東の付近に移り住んだのです。


「バルトの庭」再現「将校の兵舎内部」


ドイツ人俘虜達を迎えた時の松江豊寿の訓示に彼の信念が表れています。


「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況のなかにありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。

しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。

だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。

それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じえないのである。

願わくば自らの名誉を汚すことなかれ。」



「俘虜は犯罪者ではない」「彼らも祖国のために戦ったのだから」が口癖だったという松江。
ドイツ人俘虜達を「祖国のために敢闘した勇士」として迎えた彼の背景には何があるのか。



カイゼル髭がトレードマーク。


【松江豊寿の生い立ち】

1872(明治5)年。会津藩士・松江久平の長男として誕生。

佐幕派である会津藩は、戊辰戦争で薩長(新政府軍)と戦って敗北。
そのために松江豊寿は幼い頃より貧しく、苦労しました。

成績が優秀で、当時超難関だった陸軍幼年学校・陸軍士官学校を卒業。
日清・日露戦争に従軍し、1917年、44歳で陸軍大佐。板東俘虜収容所の所長となります。

エピソードとして、大尉時代に朝鮮駐留司令官の副官となるも、長州閥の上官と意見が対立。自分の信念を通して結局副官を解任され、左遷されたことも。


「バルトの庭」再現「洗面所」


【会津藩士の精神】

会津藩の初代藩主は保科正之。三代将軍家光の弟。
よって、将軍家に危機が迫れば、藩を賭して守護する藩風。

「会津武士道」と表現される独自の武士の子弟教育。

10人1組で「什」と称するグループを作り、遊びや勉強など常に行動を共にします。そのグループには厳守せねばならぬ掟があり、破れば厳罰。互いに切磋琢磨して自律心を養いました。


「什の掟」

一 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三 虚言をいふ事はなりませぬ
四 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五 弱い者をいじめてはなりませぬ
六 戸外で物を食べてはなりませぬ
七 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです



会津武士の精神は、戊辰戦争で発揮されます。
堂々とした戦いぶりは大いに薩長軍を悩ませますが、敗北。

そして、新政府軍(薩長軍)の態度は過酷。

◆会津藩は恭順の意を示すも「朝敵」の汚名を着せられ容赦なく攻撃を受ける。
◆女・子供など約3000人が戦死・自決。(白虎隊の悲劇等)
◆女分捕り隊・物品押収隊が派遣され城下が荒らされた。
◆会津人の死者は埋葬が許されず、屍は放置されたまま。
◆会津人は青森県斗南に一時移され、極貧で罪人のような暮らしを強いられた。  


明治初期に生まれた松江もまた、上記のごとき環境の中にあり。
彼は何を心に刻んだのか。

次のように松江自身が語っています。




【松江が収容所の部下に語った言葉】

「実は、私は会津人だ。(中略)戊辰戦争のみぎり、鶴ヶ城に拠って官軍に抗し、朝敵の汚名を被った会津藩士の子として、この世に生をうけた。

私の父祖たちは、鶴ヶ城落城と同時に俘虜となって、会津降伏人とよばれ、屈辱と惨苦の境涯におちいったのである。(中略)

降伏人、すなわち俘虜というものがどんなに悲しいものであるかを、私は幼心に深く刻み込まれ、それはいまも忘れることができない。

『薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けありせば』
とは、あのみぎり大人たちがよく口にしていた言葉であった。

これも、今もなお私の耳底に残って忘れることのできぬものである。

さて、明日は第1次俘虜が当所にやって来る。そこで諸官へ、所長としての私の俘虜に対する方針を述べておきたい。

『武士の情け』これを根幹として俘虜を取り扱いたい。
わかってくれるかね。」




次回は、第一次世界大戦の終結前後のお話。




いつも応援いただきありがとうございます。会津藩士の境遇を身をもって知る松江の言葉からは、確固たる信念を誰しもが感じとることができると思います。『せめて一片の武士の情けありせば』。聞かせてやりたい相手は誰でしょう。
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