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お狐様、しょぼん。諏訪神社の稲荷大明神

こんにちは。


へい、どすこい♪


ミカンがキンカンに見えるぜ、どすこい♪


徳島市の諏訪神社。

眉山北麓の諏訪山に位置し「佐古のお諏訪さん」と親しまれているお社です。

1585年。四国征伐の後に秀吉が蜂須賀家政に命じて徳島城を建てさせた時に徳島城の鬼門守護のお社として創祀され、以後、徳島藩主蜂須賀家代々の崇敬を受けます。


あなたがでかいのよ。


違うぜ、べいべー。

さて。お参りしたいのですが。


君子危うき道は通りません。

向かって左の坂道を、てーくてーく。


狛犬でかけりゃ燈籠もでかい。

ほうきとお比べ下さいまし。


むふーん。狛犬ちゃーん♪


おめめとー。


お腹すいた?


それは葉っぱだよ。


とーちゃん、あんたって人は。


そうだそうだ。


頑張れ、子狛!

こんな親子、1866(慶應2)年生まれ。
ひゃくよんじゅうきゅうちゃい。


三度の飯にはお金が大事。よろしくよろしく。


してへん。


こっちか。


あらまあ。


きゅん。


そうだよぉー。


こら。


・・・。



犬も食わぬ兄弟喧嘩は放置して。おや?


お隣の祠にまだ誰かいます。


こちらも兄弟。


にーちゃん、聞いてあげて。





くちゃいんかいっ。



お狐様劇場でした。


いつも応援いただきありがとうございます。諏訪神社、正面のどすこい狛犬君にびびってしまいましたが、てーくてーくしてたら可愛いお狐様に出会うことができました。しょぼん狐君にヘロヘロです。先代兄弟の緩やかな体の曲線は秀逸やと思うのですが、贔屓目でしょか。もっと大事にしてあげてー(T_T)
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

何か吸ってませんか?大麻比古神社の狛犬くん

こんにちは。

ドイツ人俘虜収容所から程近く。こんなぷりっちりのお出迎え。


はぁーい♪

ここは、大麻比古神社。

式内社(名神大社)、阿波国一宮。
旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

通称として「大麻さん(おおあささん)」とも呼ばれ、阿波国・淡路国両国の総鎮守として崇敬を集めています。

★「たいまひこ」とか「おおまひこ」は間違いですよ★


人がいっぱいでご機嫌さん。

訪問は1月11日。あまりに人が多いので、徳島県ではこの日に初詣?と尋ねてしまいましたが。

三ヶ日は降雪や寒波に見舞われたので日をずらして初詣に来られた様子。満員御礼。


「お賽銭箱を小さいのに戻してしもたんですぅ(T_T)」だそうで、長蛇の列。


いえーい♪


ぷりっ♪


ぷりっ♪


何でしょう?


はて?


まぁ、可愛い後ろ足♪

いや、待て。おや?何か吸って吐いてませんか?


ねえねえ、何をすぱすぱしてるんでしょか?


は、はい。すんません。

リピーあふたミー★「たいまひこ」と呼ぶのは間違いですよ★


ご神木の楠。樹齢千年以上。


【祭神】
大麻比古大神、猿田彦大神


■大麻比古大神■
大昔阿波国を開拓した阿波の忌部氏(いんべし)の大祖先の神様。

神武天皇の御代に忌部氏の子孫が阿波国に入り、吉野川市(旧麻植郡)を拠点として開拓し、麻や楮(かじ)の種を播いて麻布や木綿を作り、郷土の産業の基を開きました。

忌部氏は氏族先祖の神である天日鷲命(あめのひわしのみこと)を、忌部神社(徳島市)に祀ります。

その祭神・天日鷲命の大先祖の神である、天太玉命(あめのふとたまのみこと)を祀ったのが大麻比古神社。

この由緒から、天太玉命(大麻比古大神)は阿波地域の殖産興業の神とされています。


■猿田彦大神■
天孫降臨時の道案内の神。
裏に聳えている大麻山(おおあさやま)の峯に鎮座していたが、大麻比古神社に合祀。時期不明。
 
この二柱の神様を総称して人々は「大麻(おおあさ)はん」とお呼びしてます。


御神馬さま。

【延喜式の式内社・名神大社】

延喜式の神名帳(じんみょうちょう。平安時代初期に編纂・神社3132座の名簿)の、

「阿波国50座の内の大社」に、大麻比古神社、忌部神社、天石門別八倉比賣神社の名が残っています。

927年に完成した延喜式の神名帳に既に名があることは、大麻比古神社が千年以上の歴史をもつという事。


せっかく神馬舎の扉が開いてるのにね。

 
清和天皇の時に従五位上、順次進階して中御門天皇(享保4年)正一位。
朝廷、代々の国司領主の尊崇が深く、神田山林の寄進を受け、藩費にて社殿の造営が行われ、年々祭費を奉られました。
明治6年国幣中社。

明治13年。国費にて本殿以下の造営。
昭和45年。現在の祝詞殿、内拝殿、外拝殿が氏子崇敬者の寄進によって造営されました。


本殿は長蛇の列なので、奥宮遥拝所でお参り。



この辺りは神社によって丸山公園に整備されており、ドイツ人俘虜達が帰国前に作ったメガネ橋とドイツ橋があります。


メガネ橋。


ドイツ橋。


階段を上れば。


丸山稲荷神社。


末社の丸山神社。
丸山古墳跡にあり、丸山神を祀っています。


ぎゃ。


え、そうなのかしら。



今度は静かな時に。


大麻比古神社
《住所》徳島県鳴門市大麻町板東字広塚13




いつも応援いただきありがとうございます。噂の狛犬くんの足元の彫刻。深呼吸ね、きっと。初詣の方々で境内は賑わっておりました。さすが阿波国一宮様です。800mに及ぶ参道は燈籠が立ち並び見事でした。が、とても停車出来る状態ではなく。また行こう。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

きっかけは一通の手紙。忘れない事が大切。板東俘虜収容所。

こんにちは。


お髭さん、こんにちは。


ドイツに行ったら役に立つかしら。


徳島県鳴門市に残る板東俘虜収容所跡地。


【板東とドイツの交流】


跡地に残る、ドイツ人俘虜の慰霊碑。

帰国前に俘虜達が仲間を弔うために建立。

建立時には、自分達が帰国した後は慰霊碑が放置され死者を傷つけるかもしれないという不安がドイツ人俘虜達の中にもありました。

そして第二次世界大戦。

彼等の不安の通り慰霊碑の管理者は誰もなく、放置。

1947年。第二次世界大戦終了後。
満州から引き上げてきた人々が、坂東俘虜収容所に居住します。



1948年にシベリアから引き上げてきた夫と共に、ここに暮らしていた高橋春枝さん。

裏山で薪拾いをしていた時に、草むらからドイツ語で書かれた慰霊碑を発見。夫妻は定期的にこの慰霊碑を清掃し、献花。

やがて地域の人々も一緒に清掃。

13年後の1960年、この慰霊碑の清掃が徳島新聞で紹介されます。

記事を見た当時のドイツ大使ハース夫妻と神戸総領事・ベルガー夫妻が、この慰霊碑を訪問。




一方、ドイツでは。

坂東俘虜収容所で収容生活をした仲間がドイツ各地で「バンドー会」を結成。

1962年。バンドー会会員ライボルト氏が在ドイツ日本国大使館宛に坂東俘虜収容所の近況を知りたいとの手紙を出します。

この手紙が発端となり、坂東(現在の大麻町)とバンドー会が再び交流を始めます。



バンドー会に収容所の近況を伝えようと坂東の「独逸人を偲ぶ協議会」は、8mmフィルムで収容所跡地を撮影し、ドイツに送付。



ドイツ各地のバンドー会で上映。

このフィルムを見て、ドイツ人俘虜達が建てた慰霊碑が、高橋春枝さんらによってきちんと管理されていることを知ったバンドー会は深く感謝し、慰霊碑への感謝として募金を坂東に送金。

1963年。その募金で坂東(大麻町)で、慰霊祭を行います。

1964年。高橋春枝さんに、ドイツ政府からドイツ功労勲章が贈られました。



【ドイツ人俘虜からの手紙】


ドイツ人俘虜達が帰国前に作ったメガネ橋(大麻比古神社)

ヴェルサイユ条約の締結によりドイツ人達は本国へ送還となりますが、約170人が日本に残ります。


彼等は、収容所で培った技術で肉屋、酪農、パン屋、レストラン等を営みました。


カール・ユーハイム。アウグスト・ローマイヤー。

お菓子のユーハイム、ソーセージ等のローマイヤー、今でも有名店。

(敷島パンの初代技師長ハインリヒ・フロインドリーブは名古屋の俘虜収容所)


当時の板東俘虜収容所。

ドイツへ帰国した後も、松江所長と板東俘虜収容所を懐かしむ人が多く。


●ポールクーリー(リューデンシャイト市在住)

「私は、今度の第二次世界大戦にも召集をうけ、運わるくソ連の捕虜となり、1956年に解放されましたが、ソ連のラーゲルで冷酷と非情をいやというほど知らされたとき、私の脳裏に浮かんできたのは、バンドウのことでありました。

バンドウにこそ国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたのでした。(中略)
私は確信をもっていえます。世界のどこにバンドウのようなラーゲルが存在したでしょうか。世界のどこにマツエ大佐のようなラーゲルコマンダーがいたでしょうか。」





●エドアルド・ライポルト(コーブルグ市在住)

「懐かしきバンドウの皆さま。私は今から47年前、貴町の俘虜収容所にいた元俘虜であります。
バンドウラーゲルの5ヵ年は、歳月がどんなに経過しても、私たちの心の中で色褪せることはありません。否、ますます鮮やかによみがえります。
あのころの仲間で、現在も生き残って西ドイツに住んでいる者のうち、連絡のとれる33名は、年に何回かフランクフルトに集まって「バンドウを偲ぶ会」をもう20数年続けております。
会合のたびに、私たちはバンドウのめいめいの青春の日々を限りなく懐かしみ、遥かな御地へ熱い思いを馳せているのです。(中略)

目をつむると今もまざまざと、マツエ大佐、バラック、町のたたずまい、山や森や野原などが瞼に浮かんできます。」



【現在の板東(鳴門市大麻町)】

1976年。新たな慰霊碑が建立されます。



ドイツと収容所のあった鳴門市との文化交流は、100年足らずたった現在でも盛んに行われています。

鳴門市には「ドイツ館」というその象徴的な施設があり、収容所での生活の様子が再現されていたり、松江所長の紹介もされています。



板東俘虜収容所のお話は映画「バルトの楽園」となり、


その時に使われた映画セットは「バルトの庭」で見ることができます。


板東俘虜収容所跡地は公園になっております。



公園の奥の方、池の畔にふたつの慰霊碑。



その奥に。

慰霊碑をずっと清掃し続けた高橋夫妻のお墓が立っています。


最後に。「バルトの楽園」とまで呼ばれた板東俘虜収容所所長、松江の言葉をもう一度、残します。


【ドイツ人俘虜達を迎える前に部下へ語った言葉】

「実は、私は会津人だ。(中略)戊辰戦争のみぎり、鶴ヶ城に拠って官軍に抗し、朝敵の汚名を被った会津藩士の子として、この世に生をうけた。
私の父祖たちは、鶴ヶ城落城と同時に俘虜となって、会津降伏人とよばれ、屈辱と惨苦の境涯におちいったのである。(中略)

降伏人、すなわち俘虜というものがどんなに悲しいものであるかを、私は幼心に深く刻み込まれ、それはいまも忘れることができない。
『薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けありせば』
とは、あのみぎり大人たちがよく口にしていた言葉であった。
これも、今もなお私の耳底に残って忘れることのできぬものである。

さて、明日は第1次俘虜が当所にやって来る。そこで諸官へ、所長としての私の俘虜に対する方針を述べておきたい。

『武士の情け』これを根幹として俘虜を取り扱いたい。わかってくれるかね。」


【ドイツ人俘虜達を迎えた時】

「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況のなかにありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。
しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。
だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。
それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じえないのである。
願わくば自らの名誉を汚すことなかれ。」


【ドイツ敗戦。ドイツ人達に向けた言葉】

「諸君。私はまず今次大戦に戦死を遂げた敵味方の勇士に対して哀悼の意を表したい。もとい。いま敵味方と申したが、これは誤りである。

去る6月28日調印の瞬間をもって、我々は敵味方の区別がなくなったのであった。同時にその瞬間において、諸君はゲファンゲネ(俘虜)ではなくなった。ドイツ国民の一人一人であり、一個の自由なる人間になったのである。(中略)

さて、諸君が懐かしい祖国へ送還される日も、そう遠くではないと思うが、既に諸君が想像されているように、敗戦国の国民生活は古今東西を問わずみじめなものである。

私は幼少期において、そのことを肝に銘じ、心魂に徹して知っている。
それゆえ、帰国後の諸君の辛労を思うと、今から胸の痛む思いである。(中略)

どうぞ諸君はそのことをしっかり念頭において、困難にもめげず、祖国復興に尽力してもらいたい。」


【松江所長の息子さんの言葉】

「(収容所所長であった父のことを)、アウシュビッツやソンミ村事件に比べて、ヒューマニズムという言葉でいう人もありますが、ヒューマニズムというような今日的な言葉よりも、「武士の情け」という言葉のほうが、一番ぴったりしているように思います。

父は武士らしい厳しさと、強い正義感をもつ反面、人間を全面的に信頼し、情にはひどくもろいところがありました。」



徳島県に行く時は一度、お立ち寄り下さいませ。




「阿波大正浪漫 バルトの庭」(映画ロケセット)
徳島県鳴門市大麻町桧字野神ノ北22-1

「板東俘虜収容所跡地」
徳島県鳴門市大麻町桧(バルトの庭の近く。公園になってます)

「鳴門市ドイツ館」
徳島県鳴門市大麻町檜字東山田55-2

「大麻比古(おおあさひこ)神社」(メガネ橋・ドイツ橋)
徳島県鳴門市大麻町板東広塚13


《参考サイト・参考文献》

鳴門市ドイツ館HP
http://www.doitsukan.com/index.html
→→→(HPへ)鳴門市ドイツ館

「板東俘虜収容所物語―日本人とドイツ人の国境を越えた友情」
(棟田博/著・光人社NF文庫)

「板東俘虜収容所の全貌 所長松江豊寿のめざしたもの」
(田村一郎/著・朔北社)


いつも応援いただきありがとうございます。自分達が帰国した後は慰霊碑が放置され死者を傷つけるかもしれないと憂慮したドイツ人俘虜達。誰に頼まれたでもなく、ずっと清掃し続けた高橋夫妻。今日は阪神淡路大震災から20年。慰霊碑をずっと守り続けることが供養ですね。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

あれから20年


今日は阪神淡路大震災から20年。

忘れないことが供養。


いつも応援いただきありがとうございます。
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四方の海と日本初の「第九」全曲演奏。板東俘虜収容所。

こんにちは。


カイゼル髭さん、こんにちは。


ドイツ人俘虜達が暮らした鳴門市の板東俘虜収容所。


義勇兵が多かったため、彼等の技術を生かした収容所の生活。


収容所の食事がお口に合わず、ソーセージやチーズ、パン等を自作。


ドイツ皇帝の誕生日やクリスマスには、ドイツの歌を合唱し、皆でわいわい。お酒もオケー。

他には、ドイツ人俘虜が編集者となり新聞を発行。
ドイツの戦況や日本の状況や文化等を記事にしました。

また、楽器を演奏する技術を持った俘虜達による「へルマン・ハウゼン楽団」が結成されます。



彼等により、ベートーベンの交響曲第9番が、ここ、板東俘虜収容所において日本で初めて全曲演奏されました。

ソプラノはいませんので、男声で置き換えて演奏。

映画「バルトの楽園」では地域住民を招待していましたが、実際は収容所内でのささやかな演奏会だったといいます。




【ドイツ敗戦と松江所長の言葉】

1918年。ドイツの敗戦が板東俘虜収容所にも伝わります。

収容所でひたすら自国の勝利を祈っていた俘虜達。
動揺は激しく、将校も兵士も、ドイツ人としての誇りを失いかけます。

1919年。パリ講和会議。6月28日、ヴェルサイユ条約締結。


松江所長がドイツ人俘虜達に語った言葉。

「諸君。私はまず今次大戦に戦死を遂げた敵味方の勇士に対して哀悼の意を表したい。

もとい。

いま敵味方と申したが、これは誤りである。

去る6月28日調印の瞬間をもって、我々は敵味方の区別がなくなったのであった。
同時にその瞬間において、諸君はゲファンゲネ(俘虜)ではなくなった。
ドイツ国民の一人一人であり、一個の自由なる人間になったのである。(中略)

さて、諸君が懐かしい祖国へ送還される日も、そう遠くではないと思うが、既に諸君が想像されているように、敗戦国の国民生活は古今東西を問わずみじめなものである。

私は幼少期において、そのことを肝に銘じ、心魂に徹して知っている。
それゆえ、帰国後の諸君の辛労を思うと、今から胸の痛む思いである。(中略)

どうぞ諸君はそのことをしっかり念頭において、困難にもめげず、祖国復興に尽力してもらいたい。」




徐々に帰国するドイツ人俘虜達。

松江の「命令遵守に感謝する」との言葉に、クルト・マイスナー(通訳・日本語講師)が答えます。


「貴方が示された寛容と博愛と仁慈の精神を我々は決して忘れません。
そしてもし、我々より不幸な人々に会えば、貴方に示された精神で挑む事でしょう。

『四方の海みな兄弟なり』という言葉を我々は貴方と共に思い出すでしょう。」



このクルト・マイスナーの言葉の持つ意味。


「四方の海」は、明治天皇の御製。
欧米列強がアジアを侵略し、ロシアが日本を虎視眈々と狙っている時代に詠まれた歌。

四方の海 みな同朋(はらから)と 思ふ世に
など波風の 立ちさわぐらむ


(四方の海はみな同胞(兄弟)と思うこの世になぜ波風が立ち、騒ぎが起こるのであろう)


【ドイツ人達の残したもの】


 1919年8月に収容所の片隅に作られた慰霊碑。

収容所で亡くなった11名の仲間を弔うため、帰国前にドイツ人俘虜達が建立。



板東俘虜収容所の近くの大麻比古神社の境内にある「ドイツ橋」。

1919年4月初旬。ドイツ人俘虜たちが地域住民との親交の記念として建築。2ヶ月で完成。

川床の土台を強固にして、セメントを一切使わずに寸分の狂いなく積み上げられた石橋は、100年程が経過しても微動だにしておりません。



建築には、地元から相応の建築費が出されることになっていましたが、ドイツ人俘虜達はそれを固辞。

何故?

ドイツ人俘虜曰く

「松江大佐が、我々俘虜に創造の喜びと働く意欲を駆り立ててくれたことこそが最大の報酬です。」


1920年4月。収容所閉鎖。



【松江の息子が語る「父の性格」】

所長の松江豊寿は1922年に陸軍少将。
同年12月。会津若松市の市長に就任。

約3年間勤め、白虎隊の慰霊碑を整備するなど地元会津のために尽力。

そして。

1982(昭和57)年。87歳で永眠。


松江の息子さんは語ります。

「(収容所所長であった父のことを)、アウシュビッツやソンミ村事件に比べて、ヒューマニズムという言葉でいう人もありますが、ヒューマニズムというような今日的な言葉よりも、「武士の情け」という言葉のほうが、一番ぴったりしているように思います。

父は武士らしい厳しさと、強い正義感をもつ反面、人間を全面的に信頼し、情にはひどくもろいところがありました。」



■アウシュビッツ
第2次世界大戦のナチスドイツがユダヤ人の虐殺を行った収容所。

■ソンミ村事件
ベトナム戦争中のアメリカ軍人よる非武装民間人の虐殺事件。



収容所跡地に建つ赤十字の石碑。
なんか違和感がある。後付け感が拭いきれない。


ヒューマニズムとは、西欧における人道的・博愛的な人間中心主義。


しかし、外来語を借りずとも、日本では「武士の情け」という言葉で、その美徳を表現できるのです。



いつも応援いただきありがとうございます。松江所長の息子さんの言葉にあるように、横文字で表現するとニュアンスが異なってしまう松江の胸の内にあったもの。それに「四方の海」の歌で返したクルト・マイスナー。考えさせられることが多い板東俘虜収容所なのでした。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

板東俘虜収容所所長・松江豊寿。会津の心と武士の情け。

こんにちは。


板東俘虜収容所(跡地)。


映画「バルトの楽園」ロケセットが残る「バルトの庭」。


板東俘虜収容所の所長は、松江豊寿大佐。

ドイツ人俘虜達が、職業軍人ではなく、手に職を持つ義勇兵であると知っていた所長の松江豊寿は、彼等の知識や技術を生かした収容所にすべく心を砕きます。

7000坪もの土地を借り上げ、運動場、テニスコート、鶏舎、菜園を造成。


「バルトの庭」再現「製パン所」

仕立屋、理髪店、靴屋、写真館、製本屋、家具店、パン屋。
音楽教室、楽器修理、金属加工、配管工事の店などを敷地内に作ります。その数実に80件。


左の図面。黄色が俘虜達が経営する店。

また、引受人さえあれば俘虜の外出は自由。
地元民は俘虜達の持つ、ドイツの農業技術、洋酒製造法、標本作成、気象観測、設計と建築、石鹸の作り方などを学びます。

反対に俘虜達は、養蚕、稲作、藍染、焼き物等を地元民から学びました。


俘虜達は近くの吉野川や櫛木海岸で水遊びも楽しみました。

当然、陸軍省は激怒。松江は「あれは足を洗わせていたのだが、俘虜がついつい泳いでしもただけでーす」と、説明。

以降、櫛木海岸では「足洗い大会」と称し、地元民と俘虜のお祭りに。



「バルトの庭」再現「酒保(飲み屋)」

松江は、国際法を研究して俘虜の将校と交渉を重ねながら、規則は規則として厳守させつつ、可能な限りドイツ人俘虜の願いを実現させるように努力します。


「バルトの庭」再現「兵舎内部」
(ベッドの間に壁を作ることでプライベートを少しは保つことがてきるように)


ドイツ人俘虜の望郷の念、祖国や家族への心情には常に配慮しました。

驚くことに、ドイツ人俘虜の妻達は収容所を訪れればいつでも面会することができました。

妻たちは遠く日本まで足を運び、板東の付近に移り住んだのです。


「バルトの庭」再現「将校の兵舎内部」


ドイツ人俘虜達を迎えた時の松江豊寿の訓示に彼の信念が表れています。


「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況のなかにありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。

しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。

だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。

それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じえないのである。

願わくば自らの名誉を汚すことなかれ。」



「俘虜は犯罪者ではない」「彼らも祖国のために戦ったのだから」が口癖だったという松江。
ドイツ人俘虜達を「祖国のために敢闘した勇士」として迎えた彼の背景には何があるのか。



カイゼル髭がトレードマーク。


【松江豊寿の生い立ち】

1872(明治5)年。会津藩士・松江久平の長男として誕生。

佐幕派である会津藩は、戊辰戦争で薩長(新政府軍)と戦って敗北。
そのために松江豊寿は幼い頃より貧しく、苦労しました。

成績が優秀で、当時超難関だった陸軍幼年学校・陸軍士官学校を卒業。
日清・日露戦争に従軍し、1917年、44歳で陸軍大佐。板東俘虜収容所の所長となります。

エピソードとして、大尉時代に朝鮮駐留司令官の副官となるも、長州閥の上官と意見が対立。自分の信念を通して結局副官を解任され、左遷されたことも。


「バルトの庭」再現「洗面所」


【会津藩士の精神】

会津藩の初代藩主は保科正之。三代将軍家光の弟。
よって、将軍家に危機が迫れば、藩を賭して守護する藩風。

「会津武士道」と表現される独自の武士の子弟教育。

10人1組で「什」と称するグループを作り、遊びや勉強など常に行動を共にします。そのグループには厳守せねばならぬ掟があり、破れば厳罰。互いに切磋琢磨して自律心を養いました。


「什の掟」

一 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三 虚言をいふ事はなりませぬ
四 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五 弱い者をいじめてはなりませぬ
六 戸外で物を食べてはなりませぬ
七 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです



会津武士の精神は、戊辰戦争で発揮されます。
堂々とした戦いぶりは大いに薩長軍を悩ませますが、敗北。

そして、新政府軍(薩長軍)の態度は過酷。

◆会津藩は恭順の意を示すも「朝敵」の汚名を着せられ容赦なく攻撃を受ける。
◆女・子供など約3000人が戦死・自決。(白虎隊の悲劇等)
◆女分捕り隊・物品押収隊が派遣され城下が荒らされた。
◆会津人の死者は埋葬が許されず、屍は放置されたまま。
◆会津人は青森県斗南に一時移され、極貧で罪人のような暮らしを強いられた。  


明治初期に生まれた松江もまた、上記のごとき環境の中にあり。
彼は何を心に刻んだのか。

次のように松江自身が語っています。




【松江が収容所の部下に語った言葉】

「実は、私は会津人だ。(中略)戊辰戦争のみぎり、鶴ヶ城に拠って官軍に抗し、朝敵の汚名を被った会津藩士の子として、この世に生をうけた。

私の父祖たちは、鶴ヶ城落城と同時に俘虜となって、会津降伏人とよばれ、屈辱と惨苦の境涯におちいったのである。(中略)

降伏人、すなわち俘虜というものがどんなに悲しいものであるかを、私は幼心に深く刻み込まれ、それはいまも忘れることができない。

『薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けありせば』
とは、あのみぎり大人たちがよく口にしていた言葉であった。

これも、今もなお私の耳底に残って忘れることのできぬものである。

さて、明日は第1次俘虜が当所にやって来る。そこで諸官へ、所長としての私の俘虜に対する方針を述べておきたい。

『武士の情け』これを根幹として俘虜を取り扱いたい。
わかってくれるかね。」




次回は、第一次世界大戦の終結前後のお話。




いつも応援いただきありがとうございます。会津藩士の境遇を身をもって知る松江の言葉からは、確固たる信念を誰しもが感じとることができると思います。『せめて一片の武士の情けありせば』。聞かせてやりたい相手は誰でしょう。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

板東俘虜収容所を知っていますか

こんにちは。

今回の徳島旅の目的のひとつ。


徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)の板東(ばんどう)俘虜(ふりょ)収容所。

第一次世界大戦が始まると日本も参戦。
1914年。ドイツの租借地であり極東根拠地であった中国の山東半島にある青島(チンタオ)を攻撃。

敗れたドイツ兵4715人が俘虜に。さて困った。

日本政府は当時の陸軍省内部に、保護供与国と赤十字との関係交渉を担当する“俘虜情報局”を開設。
捕虜たちは貨物船で同年の11月中に日本に輸送され、北海道を除く全国各地の都市に点在する収容所に振り分けられます。

ドイツ兵4715人のうち約1000人が「板東俘虜収容所」に1917年から1920年まで収容されます。


「阿波大正浪漫 バルトの庭」

2006年公開の映画「バルトの楽園」は、「板東俘虜収容所」における収容所所長・松江豊寿の葛藤や、俘虜となったドイツ兵と地元の住民の交流などを史実に基づいて描いた作品。主演は松平健。

ご覧になった方はいらっしゃるでしょうか?

なぜここが映画となったのか。
ポイントは収容所所長・松江豊寿の人物像と、ここが「日本で初めてベートーヴェン交響曲第9番を全曲演奏した所」という点。


跡地に残る基礎。

1899年のハーグ陸戦条約の捕虜規定に日本も批准。
陸軍省は、1904年 - 1905年にロシア人捕虜に関する規定を決め、「捕虜に対する人道的な扱い」を定めます。


通気孔。

しかし、俘虜の処遇は現場の収容所の指揮官に一任。
収容所毎に様々に対応は異なり、四苦八苦。


レンガには、石積の如く様々な積方があり、これはドイツ積。

手探りながらも、同時期の他国の捕虜の扱いと比較して日本は収容総数がそれ程多くなかったこともあり、総じて日本側の待遇は十分耐えうるもので、関係機関の指導により環境の改善も行われました。


「バルトの庭」再現兵舎。


「バルトの庭」再現兵舎内部。

四人部屋ながらも間に簡易な壁を設ける事で、心理的な圧迫感を改善。


「バルトの庭」当時の兵舎の一部を移築したもの。

捕虜の脱走未遂が発生したため、1915年以降は戦争俘虜に関する規定が厳格化します。


「バルトの庭」将校棟内部。

日本は脱走者に規則上のみならず刑法上でも処罰を課す方針をとった(現行の戦時国際法に反する)ため、再捕捉された捕虜が有罪判決を受けることもありました。


「バルトの庭」将校棟の枠組み。当時の部材を利用。

日本人側は脱走計画の黙認・幇助も処罰の対象となり、収容所の職員たちは管理体制を厳格化。


板東俘虜収容所跡の給水施設。ここにもレンガ使用。

「板東俘虜収容所」では、収容所所長・松江豊寿の俘虜の自由に任せる方針の元に、ドイツ人俘虜は様々な活動を許されます。



青島で俘虜となったドイツ兵は、職業軍人ではなく、元々様々な分野で働いていた義勇兵(志願兵とも)だった事が幸いでした。


板東俘虜収容所跡の製パン所跡地。


「バルトの庭」製パン所再現。

技術を生かして様々な収容所内の自治活動に勤しみます。
菜園管理や動物の飼育、厨房(酒保)やパン屋さんもドイツ人俘虜で経営。


「バルトの庭」酒保。いわゆる、酒場。酒は友達。


板東俘虜収容所跡。飲めば出る。大小分かれております。


ふむ。


板東俘虜収容所跡。

トイレと給水施設の近さにしばし悩む。




ここは、日本で初めて「ベートーヴェン交響曲第9番」全曲が演奏された場所。ソプラノは俘虜の中から厳選。

次回。収容所所長・松江豊寿ってどんな人なのか、またこの板東俘虜収容所が残したものは何なのか。ちょろんっと考えます。


いつも応援いただきありがとうございます。昨年は第一次世界大戦の開戦より100年。今年は第二次世界大戦終戦より70年。日本にはこんなものがあった、こんな事があった、と、たまには真面目に考えるのでした。
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興願寺と丈六寺。徳島藩主蜂須賀家墓所と重臣達。徳島県。

こんにちは。


高野山奥の院ではありません。

ここは。


徳島県徳島市丈六町丈領32にある、丈六寺。


二日酔いも酔っぱらいに違いありません。


「阿波の法隆寺」と呼ばれるほど、文化財の多い丈六寺。
室町時代の三門が迎えてくれます。

室町時代中期。
阿波国・三河国・讃岐国の守護大名である細川成之が中興開山。
伽藍を整備しました。


その後、蜂須賀家政が娘・辰姫の供養のために方丈を再建し寄進。


もう一度。高野山奥の院ではありません。

蜂須賀家の重臣達の墓所が多く、その五輪塔の規模は高野山奥の院での大名級。


淡路洲本城代を代々勤めた稲田家。初代家老の稲田種元の供養塔。


丈六寺近くの八幡神社へ。

甘える狛犬。


どうでしょう?


あなたもですか。


たまらん。


徳島藩25万石の藩主、蜂須賀家。


これは高野山奥の院の蜂須賀家墓所。

初代藩主の至鎮から転封なく徳島藩を治め続けた蜂須賀家。

家祖・正勝から、13代斉裕までの歴代藩主の墓所は菩提寺である興願寺にあります。


歴代藩主の他に、殉死した家臣や家督相続前に他界した嫡男等も祀られています。


圧巻です。


初代藩主の至鎮(よししげ)の墓所。


幼少の頃の至鎮の付人、民沢右衛門可三の墓所。

1620年に至鎮がわずか35歳の若さで他界した後、ここ興願寺の墓守となります。

そして、1624年。至鎮の命日に至鎮の墓の前で殉死。


ずっと殿のおそばにいるの。

じぃーん。

じぃーん。っとしながら、鳴門スカイラインを走り。



再び淡路島を縦断して大阪に戻りました。


いつも応援いただきありがとうございます。丈六寺では高野山奥の院のように主だった方の供養塔や墓所に標識があり、また夢中になってしまいました。丈六寺で長曽我部元親が起こした黒事件はまた後程。怖かった。
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徳島の狛犬。季節限定のアクセサリー装着。

こんにちは。


狛犬くん、まだお正月バージョン。

かーちゃんにしがみついて、笑顔なお子ちゃん。


季節限定のアクセサリーにご満悦。


あら。くちうつし?


あなたが照れなくてもいいの。

あんなよだれだらけのもん、いらん。


なんだい、ぼたもち。


【注意】あれはキンカンではありません。皆と同じ、みかんです。


巨大さが伝わりますかねぇ。


鳥居と比較。


そ、そうなのかな。

では最後に。



いつも応援いただきありがとうございます。今日もいいお天気の徳島市。ただ、強風で。こんな時は、海でしょー。車の中で見物しながら、巻き寿司食べました。すだちの風味が強くて、さっぱりした味です。
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蜂須賀くんを追いかけて

こんにちは。


明石海峡を渡り


鳴門海峡を渡り

やって来ましたここは。


青い石。箱みたいな形。


蜂須賀氏の治める阿波徳島藩。

ここは徳島。徳島城。


どこから突っ込んでいいのかわからない狛犬くん。


これでも神紋。


正面奥が、眉山。私が立つのは。


一宮城の本丸跡。うっとり。


比高120mぐらい。本丸まで麓の登城口から500m。

正月ボケしてる身には、こたえましたわ。


宿泊者サービスで、ビールかソフトドリンクがついた。


いつも応援いただきありがとうございます。天気が良すぎて日焼けで真っ赤です。油断したー。しかし強風で、二つの橋を渡るときには車が真横に移動しそうなほど。怖かったです。
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