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新宮城でもっしゃもしゃ。甲賀中惣遺跡群。

こんにちは。

中世後期、甲賀の小領主達が「他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦う」等、有事の際の具体的な行動を一族内で取り決め、同名一族同士で組織した「同名中惣」。



甲賀全域に拡大し、やがて居住地域が近い同規模の武士団が連合し合う「甲賀郡中惣」と言われる形になります。

同名中惣内部では、総領家を中心としながらも庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えます。


それが国指定史跡「甲賀郡中惣遺跡群」。

今日はその中の新宮城。文献には残らず、姿形だけ残してくれたお城。

中惣城跡群の出来た経緯からわかるように、それぞれが「ぼくんち」を造ったため、ほんまにてんこ盛り。

どこが誰のものか悩むより、こんなにいっぱいあるのねっ♪楽しいねー♪っとウキウキするのがこの辺りの楽しみ方かと。

さて新宮城。

新宮神社の南側にあります。


辺りはこんな景色。



鳥瞰図の引用元→→→余湖くんのお城のページ
余湖様、ありがとうございます。こちらの図面を握りしめてたんけん致しました。

図面の上(北側)の新宮城。「案内板・標柱」のある南側に付けられた登城道を真っ直ぐ進みます。

尚、当時の登城道は、東側の郭を通る別の道があった様子。


ちゃんと入り口があるのは、初心者にはありがたいことです。


神社の参道とは違います。


鳥瞰図にある小屋。谷は深い。


主郭東側の郭。広々です。




いかがでしょう。


東側の虎口。さ、いよいよ主郭だぞぉ。


あううう。


ねっ。


めげてはいかん。


先程うろついた主郭下の郭を見下ろし中。


北側の虎口のような場所。
ずり落ちたら大変なので、ここで戻ります。


西側の虎口。


振り返る。主郭との高低差、あります。


落としてどうする。
井戸か水を溜めたとこ。足元注意です。


西側の堀切。ざくっと深いです。


うーむ。見えん。


右奥に主郭の土塁。


当時も森だったのか、つるっとしてたのか。


安全第一。戻ります。


虎口手前の土橋。両側は掘ってある。


楽しいねー。


土橋から見た南側。新宮支城との間の谷へ繋がります。


土橋渡って、虎口。

では、一旦下に降りて南側の台地を探険。


落ちたんじゃないよー。


小屋がいい目印になります。


もしゃもしゃ。


心が踊る。


次は新宮支城へ行くのですが、こんなとこ渡れません。

入り口へ戻ります。

ちゃんと踏み跡があるので安心。


楽しかったー!

あ、私は森林浴に行ったわけではございません。


鳥瞰図引用
「余湖くんのお城のページ」様
→→→http://homepage3.nifty.com/yogokun/
→→→(クリックで開きます)余湖くんのお城のページ

いつも応援いただきありがとうございます。主郭はもしゃもしゃですが、東側や南側の郭も見れるし、堀も土塁も土橋もあるし、楽しいところでした。こじんまりとしているので、踏み跡から外れなければ迷子にはなりません。ただし、踏み跡から反れたら危険率アップ。全て自己責任です。
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甲賀忍術屋敷。それは甲賀五十三家筆頭・望月出雲守宅。

こんにちは。


滋賀県甲賀市甲南町の風景。


こんなぷりちーな、えべっさんのいたところは。


元禄年間に造られた望月出雲守の屋敷。

望月氏は信濃国からやって来ました。


朝廷へ献上する馬の牧場「勅旨牧」は奈良時代より存在。

865(貞観7)年に、信濃国の貢馬の「駒牽(こまひき)」の儀式が、満月(望月)8月15日に改められ、この日に駒牽された貢馬を「望月の駒」と呼ぶようになります。

朝廷への貢馬の数が最も多かったのが、信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏。信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した一族として「望月」の姓が与えられました。

滋野氏はその後分家。望月氏、海野氏、根津氏(滋野三家)として継承されていきます。


東国に置かれた「勅旨牧」から貢進された馬を天皇に披露する「駒牽」の儀式。

勅旨牧は信濃・甲斐・武蔵・上野の4国。
それぞれの牧では50頭から80頭の馬を養っておりました。

駒牽の儀式は後に、16日が信濃、17日は甲斐穂坂、20日は武蔵国小野、23日は信濃望月、28日は上野、という順に引かれるようになります。(『延喜式』『政事要略』)


信濃の望月家と同じ九曜紋。

平安時代に平将門の乱の武功のあった信濃の望月三郎兼家が、朝命により甲賀十六ケ村を贈られ赴任、甲賀望月を起こしました。


今は「甲賀忍術屋敷」という名称で公開されております。

室町時代。
幕府の命に背く佐々木六角高頼討伐のため将軍足利義尚自ら大軍を率いて近江に来攻した時、甲賀武士団は佐々木六角氏に助勢。

それが、1487(長享元)年、鈎の陣。

山中でさまざまな奇襲攻撃をかけ、時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、活躍。

「鈎の陣」で六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家の筆頭格が、望月氏。

これを機に、望月出雲守を筆頭とする甲賀武士団の神出鬼没の戦術やその高い戦闘能力の印象が、「甲賀忍者」と呼ばれるようになったとか。


なりません。

奈良時代より、甲賀は、杣地方として巨大木が多く、京都奈良の建築物に多く使用され、巧みな建築技術も伝わります。

素早くその場を離れることを最優先にしたからくりの考案設計技術等、防御建築(防衛建築)としての観点から貴重な史跡なのです。




貝殻の内側が太陽によって光り、鳥避けになります。


忍び込まなくてよい。


にんにん、は、いいから。

中世後期、甲賀の小領主達は、同名一族同士で「同名中惣」を組織。

甲賀全域に拡大し、同規模の武士団が連合し合う「甲賀郡中惣」と言われる形になっていくのです。

「他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦う」等、有事の際の具体的な行動を一族内で取り決めていました。

同名中惣内部では、総領家を中心としながらも庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えます。

それが国指定史跡「甲賀郡中惣遺跡群」。

(甲南町・村雨城)
望月さんちの望月城もあります。


参考文献
忍術屋敷現地説明書とHP・新宮支城現地説明板


いつも応援いただきありがとうございます。忍者にんにん♪も面白いこの望月さんち。周囲には甲賀郡中惣遺跡群が点在し、のどかな風景を眺めつつ心踊るところです。信濃の望月氏、甲賀市でも頑張ったんですね。
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新宮神社。室町時代の表門とのっぺり狛犬。甲賀市甲南町。

こんにちは。


のんきに歌っていたのんきな風景。甲賀市甲南町新治。


この甲賀らしい造りのお城の北方には。


新宮神社・表門。

1485(文明17)年、室町時代に建築された表門。
国の重要文化財指定を受けております。


茅葺きで、細工にもこだわった造りです。


こんな風景の中に建っています。


首が痛いけど、じぃーっと見る。

表門の横には、小汚ない材木がありました。


実はこの木材。新名神の工事の際に出土した伐採時期は630年から680年の古木。

加工の跡が残っている点でも貴重。

説明書。(クリックで拡大)



なにか白状してくれたらいいのになぁ。


表門から参道を進み境内へ。


単に「新宮神社」だけではあちこちにありますもので。


どーんっ。




こんにちは。


建物が二つ並んでいます。



三つの宮を併せて「新宮神社」と称します。

《一の宮》
主祭神・伊弉冉命。
732(天平4)年に熊野より分霊を勧請。
字熊尾より延暦年間(782ー806)に当地に移したといいます。
この時、新宮大明神と号しました。

《二の宮》
祭神・速玉之男命。
1013(長和2)年、伴光常が鹿島より分霊を勧請したといいます。

《三の宮》
祭神・天之忍穂耳命。
元は矢川神社の境内社として勝手大明神と号していたものを、承応年間(1652ー1654)に現在地に移したといいます。





新宮神社は、矢川神社(森尻鎮座)、日吉神社(水口町三大寺鎮座)とともに、杣三社大明神称し杣荘二十二ヶ村の鎮守とされていた、古い神社です。(以上、滋賀県神社庁HPより引用)


のっぺりさーん。


聞こえました?


中にはあんこが・・・?


こちらもまた、のっぺりさーん。


さあどうでしょう。


予想外です。


微妙である。


室町は戦国時代の前です。一休さんがとんちをしていた頃です。


いつも応援いただきありがとうございます。田園地帯の中に、室町時代の表門が立つ風景。これぞ、日本。そして室町時代から戦国時代には、この新宮神社周囲に今も数多く残る甲賀の屋敷群に緊張が走っていたのですねぇ。
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村雨城。甲賀郡中惣遺跡群のひとつを探険してみよう。

こんにちは。

本で蒲生レオン氏郷の日野城(中野城)の縄張り図を見ていたときに。


これじゃない。
お城の平面図を「縄張り図」というの。


うきうきわくわくして見学したのが青丸の範囲に過ぎず。ざんねん。
しかし、全体を見ると、水のない空堀と、「土手」と書いてある巨大な土塁に囲まれた壮大なお城だった様子。

ふむ。土のお城なのね。ふむふむ。

近所に似たお城はないかしらー?っと、興味を持ち。

見つけたのでした。うふふ。


「甲賀郡中惣遺跡群」(寺前城・村雨城・新宮城・新宮支城・竹中城)です。
国指定史跡になっているおいしいところが5ヶ所もありました。


今回は村雨城。響きがいいですねぇ。村雨。

村雨城の形はこんな感じです。


自作は力不足のため、余湖様からお借り致しました。
いつもお世話になっているらんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~様のリンクからお邪魔させていただき只今夢中です。

ほんまに物凄い数と深い深い知識の宝庫です。
この鳥瞰図、「余湖図」と賞賛されているそうで。

引用元→→→余湖くんのお城のページ

甲賀市のHPからお城を見たら、余湖様のページに飛ぶ、という体験。


さあ、縄張り図片手に、突撃!いけいけどんどーん♪

鳥瞰図の案内板の場所から、道がありました。


郭(曲輪)ってなんだー?


これだー。
大事な主郭の手前で、攻めてきた人を射ったりぶっ刺したりするところ。


土塁土塁土塁・・・に、心はダンシング♪



右側の土塁土塁土塁、振り返るとこんなとこ。

踏み跡があるので、安心して探険できます。

しかし油断するとこの場所は

大事な主郭の玄関・虎口へ向かう道は用心用心。


ちくちくしている人の後ろは、こんなもこもこ。

ちくちくされつつ、虎口に立つと。

おおお。


人生ノーバックで生きてきましたが、ここは振り返る。うひひ。


重要な玄関なので、きっとこんな会話が・・・。

虎口から反時計回りに見回しますと。

南東角。


北東角。
土塁に高さの違いがありました。東は低め、北は高め。


北西角。
あそこは、なんだー?

さて。踏み跡通りに土塁に上がり。

反時計回りにてくてくします。


四方を高い土塁で囲む甲賀の屋敷群の典型が、こんな形。

おいしいなー。面白いなー。

高い土塁を造ることが出来、また、現在まで崩れることなく残ったのは、甲賀のこの辺りの土が粘土質だからだとか。

水はけが悪そうだなー。四方を囲まれてたら湿気むんむんそうだなー。


常駐の人がいたら、きっとこんなことに。


高い土塁の外側(南側)には


堀。

その切れ端は

こんな感じで。

低い土塁の向こう側(東)は。

大谷池。こっちからはなかなか攻められないのね。


用心のために、郭。


おちりからため息(byらんまるせんせ)連発。ぷっくぷぅー。


ぐるっと一周しました。

へこんでいた「あそこ」から、北側に下りる踏み跡があったので行ってみたら。

北側との間に堀あり。堀には、土の橋、土橋がありました。


気をつけよう。


池にまっ逆さまになるぞ。


土橋を渡った先から見下ろしたら、郭が二段ほど見えました。
この先は寺前城へ続いております。

今回は村雨城で、戻りました。寺前城は、次のお楽しみにとっておくの♪


村雨城も、また来るの♪


こんな風景も、おいしかったです。


鳥瞰図引用
「余湖くんのお城のページ」様
→→→http://homepage3.nifty.com/yogokun/
→→→(クリックで開きます)余湖くんのお城のページ

いつも応援いただきありがとうございます。歴史背景も細かい構造もかっ飛ばして、探険たんけん。村雨という優しい名前のこの史跡。初心者にも優しい素敵なところでした。土のお城、楽しいですよー。但し、見学は自己責任で。
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秋の夕日に、照る信楽・甲賀♪幅広く楽しめる歴史の宝庫。

こんにちは。

はいっ。


甲賀市甲南町新治。新宮支城の南の郭遠景。

すみません。これは、朝日でございました。


甲賀市甲南町新治。村雨城・寺前城と無名の城跡。

さあ、君も歩いてみないか。


甲賀市信楽。日雲神社。えいりあん狛犬・阿。


甲賀市信楽。日雲神社。えいりあん狛犬・吽。


信楽高原鉄道。試験運転に遭遇。

2013年台風18号により甲賀市水口町の杣川橋梁が流失。復興総事業費7億円。11月29日に復旧予定。


甲賀市甲賀町。大鳥神社。


甲賀市水口町役場前。とりゃっ。


甲賀市甲南町。新宮神社の狛犬。


特別出演・日野の馬見岡綿向神社の本殿前の親子。
どう見ても、子狛の向きがアレ。


甲賀市甲南町新治。新宮支城の主郭。巨大な土塁が囲んでおります。


同。奥に名物の巨大な土塁が見えるものの、入口に怪しげな水溜まりがあったので、うろちょろ。

むにょっと木をつかんでまたぎました。楽しいなー。


いつも応援いただきありがとうございます。この辺りは信楽の聖武天皇の紫香楽宮から甲賀の中世城跡群など、歴史が幅広く楽しめるところです。そして、笑わかせてくれる何かも。うふふ。
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ちいさい秋みぃつけた。甲賀・信楽・水口の紅葉たち。

こんにちは。

では、ご一緒に。

はいっ。


水口町。大徳寺。小堀遠州作の石垣と家康の腰掛け石があります。


信楽町。勅旨駅近くの西恩寺。


甲賀町油日の油日神社。


特別出演・馬見岡綿向神社境内社の浅間社の狛ちゃん。まだ乳歯?


信楽町上朝宮の三所神社。
両側の宮座(今坐・大坐・幣之坐・孫坐。親坐・姫座・出ケ坐の七座)の建物が貴重。


甲賀五十三家筆頭格の望月出雲守居宅。「甲賀の望月」さんち。


信楽町の新宮神社の霊木・神鈴柿。樹齢300年。


油日神社の龍。かっぱ。


甲南町の田園風景。


甲賀郡中惣屋敷群のひとつ。「新宮支城」の堀切。


同。内部から見ても、高さ4mから最大10mくらいある。


同。お城の一番大事な出入口の虎口。真っ直ぐには入れません。


甲南町野田の大澤八幡社の狛ちゃん。


信楽町の新宮神社の狛ちゃん。


甲南町野田の大澤八幡社。


水口町の水口城。さかさ出丸と紅葉。


ちいさくない。


だーれもいなかったー!!


いつも応援いただきありがとうございます。いいお天気の連休。おでかけの目的は甲賀郡中惣屋敷群(国史跡)。甲賀だけど、「中忍」屋敷、じゃないよ。そしてやはり神社で狛犬ちゃんずを探し、秋をちょびっと感じてきました。
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絵馬殿動物園。だだこね馬もいるよ。馬見岡綿向神社。

こんにちは。


間違えました。
ウーパーなルーパーさんでした。


こちらの


ここ。


蒲生定秀の参加した日野祭の絵馬があります。


絵馬の宝庫。


仕事終わると芳しいかほりがします。


花見は馬も浮かれるようで。


右下に見えるのは、仕舞と謡を奉納したときの絵馬。

素謡「高砂」
仕舞「竹生島」「田村」「小袖曽我」「巴」「山姥」


おんまをつーれーてぇー♪


おもちゃ売場にて。


庶民のお花の生け方がわかる点で貴重な絵馬。

絵馬殿は、楽しい動物園。


いつも応援いただきありがとうございます。いいお天気の連休。皆様いかがお過ごしでしょうか。関西は全国からのお客様が集中して、どえらいことになりまする。朝6時から大渋滞。こんな日は家事三昧。しょぼん。
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イノシシと蒲生稲置三麿。綿向大神に見込まれた。

こんにちは。


蒲生家氏神の馬見岡綿向神社。

綿向山に出雲国開拓の祖神を迎え祀り、545(欽明天皇6)年、その頂上に祠を建てたのが始まり。

796(延暦15)年に里宮として現在の地に遷し祀られたのが、現在の馬見岡綿向神社。




社伝によれば。

545(欽明天皇6)年。

蒲生郡の豪族、蒲生稲置三麿と山部連羽咋。

綿向山麓で狩りをしていると、一天にわかにかき曇り、4月というのに吹雪に。
岩陰に隠れてやり過ごし、雪がやんだので外へ出たら。


どでかい猪の足跡発見。

それを追って山頂に到着。
すると、一人の白髪の老人が現れて。


「綿向山の山頂に祠を建てて、我を祀れ」と御託宣。

老人は、綿向大神(天穂日命《あめのほひのみこと》)の化身だったのでした。

こうして建てられたお宮が、今も綿向山の山頂に建つ大嵩神社。


現在は馬見岡綿向神社の奥の宮になっています。


蒲生くんのおうちとは、蒲生稲置三麿以来かれこれ千年のお付き合いとなるわけで。


この伝承により、猪は綿向大神の使いとされております。

亥年の絵馬は、代々伝わるイノシシの焼き印を宮司様自らがジューっと押して制作。


イノシシに押したらあかん。


さて。奥の宮の大嵩神社は、伊勢神宮のように、20年毎に新宮(にいみや)に造り改めて、神様にお遷りいただき、御神威の蘇りを願う式年遷宮を行ってきました。

地元の榧(かや)材をもって建て替えられております。


来年は第75回式年遷宮を迎えます。


【創始の物語メモ】
一人の老人に出会ったら、ここに我を祀れ、と言われちゃったよーという話。各地の寺社にこのような創始話は散見されますが。


能楽「田村」前段。京都の清水寺の創始を語る場面があります。

「そもそも当寺清水寺と申すは。大同二年の御草創。坂上田村麿の御願なり。

昔、大和の国、子島寺といふ所に。賢心といへる沙門。生身の観世音を拝まんと誓ひしに。

ある時木津川の川上より金色の光差ししを。尋ね上つて見れば一人の老翁あり。

かの翁語つて曰く。我はこれ行叡居士といへり。
汝一人の檀那を待ち。大伽藍を建立すべしとて。東をさして飛び去りぬ。

されば行叡居士といつぱ。これ観音薩埵(かんのんさった)の御再誕。また檀那を待てとありしは。これ坂上田村麿。」

そして、後段の坂上田村麿の鈴鹿の鬼退治の話へと続きます。


紅葉のきれいな清水寺。ニュースなどで清水寺を見たら、ちらっと思い出していただければ幸いに存じます。


参考文献
現地説明書


いつも応援いただきありがとうございます。皆様、老翁にはご用心あれ。お寺や神社を建ててね、っとおねだりされるかもしれません。壇那とはパトロンのこと。お婿さんじゃないですよー。
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馬見岡綿向神社。蒲生家氏神。がおー。

こんにちは。


にゃー、な、レオン氏郷が生まれた蒲生郡日野町。


レオン氏郷が遊んだ若松の杜のある


馬見岡綿向神社。


広大なお社前の広場をてくてくすれば、遊んで欲しい狛犬あり。


めっちゃ笑顔。
ボールとわんこ、最強。犬好きには悪魔の組合せ。


かーちゃんにしがみつく子狛わん。


こわっ。


狛犬も人間もはじめが肝心。


子供は意外と冷静に見ておることよ。


鳥居。


めっちゃ入りにくいわっ。


正面の太鼓橋は神様が渡る橋。人間は左右の平らな橋を通ります。


拝殿を本殿と見間違うご立派さ。


ストーブは、七五三のご祈祷用。神社って底冷えしますもんねぇ。


隅っこからお社を見るの、好きです。


堂々とした内陣。三方を回廊が囲みます。



【祭神】天穂日命 天夷鳥命 武三熊大人命

(以下、滋賀県神社庁HPより引用)

【由緒】
「社伝。神武天皇の時、彦健忍雄心命が出雲国より天穂日命に供奉し来り綿向山に鎮祀した。」


「欽明天皇6年、蒲生稲置三磨山部連羽咋に託宣ありて創めて祠を造営す。
天武天皇12年、篠谷川厩上の地に奉遷す。此地に天夷鳥命の祠がありて合せて祀る。更に延暦15年現在の地に遷座する。

延喜式神明帳に祀する馬見岡神社の論社である。

其後、後白河天皇勅願の事あり、又高倉天皇は安元2年勅額を奉納され、治承2年中宮建礼門院御安産の祈願等社伝に記されている。文治元年、後鳥羽天皇勅願あり。

神主出雲宿禰の家は上古より連綿と奉仕し新撰姓氏録左京神別に出雲宿禰天穂日命子天夷鳥命之後也と見え出雲家が古くから奉仕していた。

遠孫出雲貞尚の時北朝の戦禍あり建武5年五辻宮守良親王足利氏に抗す、貞尚は志を親王に通ず。」


「康正3年蒲生貞秀は神田畠三箇所を免税とし毎年神共を献じている。」


「弘治3年蒲生定秀は祭礼を再興し、蒲生氏の一族及び家臣郎党領内120人郷の郷土を集め再興した。」

蒲生氏郷誕生の翌年。じーちゃん、お祭り騒ぎ。


「天亀2年蒲生賢秀の協力を得て社殿を造営す」

蒲生賢秀はレオン氏郷のパパ。じーちゃんとレオンに挟まれておりますが、パパあってこその氏郷。


本能寺の変直後、信長の妻妾を日野城に避難させたのは、パパ賢秀とレオン氏郷。

地図で見るとわかりますが、安土と蒲生郡日野は近いのです。


素敵な本殿。

「天正12年羽柴秀吉剣一口を奉納す。同15年社殿を修造する。蒲生氏郷の援助を得る。慶長8年徳川家康より社領十石を寄附す。以来社領十石の寄進を受ける。」(引用以上)


本殿前のがおー狛犬。背後に不審者。




このぷりっけつ猪と蒲生氏のお話は次回に続く。


いつも応援いただきありがとうございます。レオン氏郷の蒲生氏と馬見岡綿向神社の結び付きの固さは次回となりますが、日野商人が寄進した細部に至るまで壮麗な社殿など神社単独でも充分見ごたえがあります。ここに二時間滞在した物好きはわたくしでございます。すみません。
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蒲生定秀。孫が生まれたよ!お祭り騒ぎ日野祭。

こんにちは。


がもっち。


レオン氏郷が遊んだ、若松の杜。

その後ろにちょろっと見えるのは


馬見岡綿向神社。うまみおかわたむき神社。

注連縄に垂れているのは12ヵ月。12本。中央は日と月。


創建等はさておき、ここは蒲生氏代々の氏神様です。

年に一度の日野祭はここ、馬見岡綿向神社の祭礼。
1170年から行われてきた歴史ある春の例大祭。


3基の神輿と、16基の曳山。

現行は、「芝田楽」「警固」「獅子太鼓」「大榊弓矢」「御太刀」「神饌唐櫃」「剣鉾」「巫女」「大幣」「小幣」「神馬」「神職」「神輿」「神幣」「神主」の順に渡御の行列。

1557年の日野祭の様子はこちら。

1812(文化9)年、日野の豪商中井正治右衛門が谷田輔長に描かせ奉納した日野祭の祭礼絵馬。


中井正治右衛門は、4畳もの大きさの絵馬と、絵馬に合わせた絵馬殿まで奉納しました。

日野商人、恐るべし。

この絵馬には。


蒲生定秀が描かれております。

ふふふ。

蒲生定秀といえば。


素敵な土塁の残る日野城を造ったレオン氏郷のじーちゃんです。


1556(弘治2)年、氏郷誕生。



孫が生まれたよー!きゃっほー!

で。定秀は嬉しくて神輿を新造し寄進。
その翌年、1557年の日野祭の様子を描いたのが、この絵馬。


先頭。


僧兵のような姿が見えます。





神社の祭礼に、西明寺の僧達が参加しています。


羽織袴の人が続き


孫が生まれたよ!嬉しいな、の、蒲生定秀は白い傘の下の人。
前後には蒲生家家臣。

室町時代には、僧も領主も参加していたとわかるのがポイント。
(って、宮司さんが教えてくれた♪)


家臣団の後には、巫女とか神馬とか。


そして、3基の神輿。これは今も同じ。

孫の幸せを願うじーちゃんの気持ち、今も同じ。


享年40は、若すぎるよ、氏郷よ。

本人も悔しいね。


蒲生氏郷 辞世

限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風



いつも応援いただきありがとうございます。レオン氏郷の誕生を心から喜んでいるじーちゃん、ええなあ。こんなに望まれて喜ばれて生まれたレオン氏郷。若松の杜できゃっきゃっと遊びながら、すくすくと育ったんでしょうねぇ。滋賀県指定無形文化財の日野祭は4月7日の神子選びに始まり、5月2日宵宮、同3日本祭。古式ゆかしく、曳山の豪華絢爛さが美しいお祭りです。ぜひ。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
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つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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