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レオン氏郷のおうち。日野城址の土塁に惚れちゃう。

こんにちは。


かもっちまでご丁寧な日野。


いやいや。これは、日野川ダム。水がないけど。

ここに面して、


蒲生氏郷のご先祖代々の音羽城と区別するため、地元では中野城。


土のもりもりに心は踊る。


ありがたいことです。


日野城は氏郷の移封後は棄却され、耕作地になり。

江戸時代は、日野城の東北角っこに仁正寺藩市橋氏が仁正寺陣屋を構えたので、一部改変されてます。


横堀を渡る土の橋。


土橋西側。土塁の外側に城を囲む堀がずずいーっとあります。


目を凝らしてご覧ください。


土橋東側。夏に来たらやぶ蚊が凄そうな。


ここはなにかしらー?


1620年、市橋長政が入り仁正寺藩を立藩。


市橋さんの藩庁跡です。


ありゃ。


土塁で囲み外側に堀を巡らせていた日野城。

現存してるのは、これだけです。



戻りましょー。


レオン氏郷のおじいちゃま・蒲生定秀が造り始め、パパ・賢秀、レオン氏郷が居城とした日野城。

西側の土塁を登れば

お稲荷さん。


市橋氏二代政信の時、仁正寺藩庁の裏鬼門に建てられた稲荷神社。
維新後は旧藩士による稲荷講により信仰されています。


はしっこの下は


土塁だけでも高いのに、さらに下は堀。高低差ありありです。


うふふふ。


昔は馬場と本丸への通り道だったのか、なー?の、今の通り道。


ではお向かいの凉橋神社へ。




どこかに井戸があったんだろうな。


1720年創建の凉橋神社。

市橋氏の氏神様。源氏の流れという市橋氏の先祖・六孫王源経基を祀るとか。
あるいは、1666年に毒殺された藩主政房の怨霊を鎮めるためとか。


凉橋神社からの眺め。すかーっと。

市橋氏時代は、この辺りは藩庁の庭園になっていたとのこと。


左上が凉橋神社。言われてみれば庭園の趣。






ちまちまっとした石積がぷりちー。


楽しかったなー。


一旦、外に出まして。てくてく。


レオンの名残。


なんときれいな産湯の井戸。
きっと、ここに城内の井戸があったんだろうな。


堀。


日野城址図面の西側、当時からの本丸への道は今も道路として活躍中。


この石碑の背後には。


本丸南側の斜面。

さて。お腹がすいたので。

愛知県民、魂のおやつ。しるこサンド。
親友のお土産・名古屋港水族館バージョン。


レオン氏郷のおうちは、少ししか残ってないけど、手軽に堪能できてとっても楽しかったです。


いつも応援いただきありがとうございます。レオン氏郷が駆け回っていた当時の面影が残る日野城址。日野川ダム公園の駐車場や東屋を利用してのんびり散策できます。ただし、日野の町中にはコンビニなどはないので、おやつやご飯はご持参下さいね。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

蒲生貞秀墓所。千とせの後の人もたつねむ。氏郷断腸の思い。

こんにちは。


蒲生氏郷の故郷・滋賀県蒲生郡日野。


1547(天文17)年まで日野川の河床だった田園地帯。
向こうに見える高台は、日野城へ続きます。

赤い葉っぱのあるところ。そこには大抵お寺とか史跡とか。

てくてく。


うふふふ。

蒲生氏14代・貞秀の墓所。(氏郷は19代)

1504(永正元)年、貞秀は自分が死去してからの墓所を自ら定め、一本の松を植えました。それがここ「標の松塚」。



近江南部の有力国人であった蒲生氏。

貞秀は数々の戦で勇名を馳せ、戦国武将・蒲生氏を起こした英主と称されています。



50歳で出家した後も隠居せずに戦場へ。

槍の先に阿弥陀仏をかけて念仏を唱えながら戦に臨んでいたとか。


蒲生家菩提寺の信楽院。

こちらの本尊の阿弥陀仏。別名「槍かけ本尊」。
貞秀が槍の先にかけてた阿弥陀仏。


「標松塚」の石碑。from信楽院。


貞秀戒名「信楽院殿大弐法眼知閑大徳」


永正11年3月5日(1514年3月30日)死去。



「武芸はいふに及ばず、歌道にも達したり」(『蒲生軍記』)と記述のある貞秀。

『新撰菟玖波集』(室町時代後期の准勅撰連歌撰集)に5首が選ばれ、また、『蒲生貞秀詠草』『貞秀朝臣集』等を残しています。



お漬物で美味しい「日野菜」は、ここ、日野の地場野菜。

貞秀の時に後柏原天皇へ献上したらとてもとても喜ばれたので、以降、蒲生氏上洛の手土産になりました。

日野菜があればご飯もりもり。文武家計三道。


貞秀の植えた松は枯死してしまったようですが、


墓所の前にだけ、紅葉。


貞秀は自分の墓所を自ら定め、一本の松を植えた時に一首の歌を添えます。


「引うべし 松の下はに世をへれば 千とせの後の人もたつねむ」



来たよ、数百年を経て。ちとせの後もきっと、誰か来るよ。



かもっちにご挨拶。


さすが、レオン氏郷の故郷のかもっち。


いつも応援いただきありがとうございます。秀吉や徳川幕府の政策で先祖代々の土地を離れなければならなかった領主達。どんな思いで去ったのかと日野に来る度に思います。蒲生氏郷が去った後も、日野の人々は彼を追い、松阪、会津へ。そして日野の地には、蒲生氏に関わる史跡が残り。ぜひ日野へお越しくださいませ。
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蒲生氏郷。故郷への想い。滋賀県蒲生郡日野。

こんにちは。


がぁー。


んもー。

ということで。


(馬見岡綿向神社)

蒲生氏郷。

13歳の時、蒲生家の人質として織田信長のもとに送られ、14歳で伊勢大河内城の戦に初陣。

大きな手柄を立てた氏郷は、身柄開放と信長の娘の冬姫との婚姻を得て、故郷の日野に帰ります。



氏郷は信長のもとで学んだ楽市を奨励し、商業を保護。
領内の行政、経済の改革により、日野は大きな繁栄の時代を迎えます。




日野城址。地元では中野城。


蒲生氏居城。

氏郷はやがて祖先代々の土地・日野から伊勢松ヶ島城へ転封。さらに会津に移り、92万石の大名へ。

その後、40歳の若さで京都にて病に倒れ、大徳寺に葬られました。


佛智山信楽院。蒲生家の菩提寺。

修理には数年かかるとのこと。


彫刻が豊かなお寺です。


鐘楼にも細かな細工が。

そして。


蒲生氏郷の遺髪塔。




故郷の若松の杜を思い、伊勢では「松阪」、会津では「会津若松」の名を残した氏郷。



文禄の役のため九州に赴く途中、中山道武佐宿にて、故郷の綿向山を仰いで、詠んだ望郷の歌。

「思ひきや人の行方ぞ定めなき 我が故郷をよそに見んとは」



氏郷の切ない思いは日野で味わうべし。ほろりん。


いつも応援いただきありがとうございます。若松の杜でちびっこ氏郷が遊ぶ光景を妄想し、綿向山を見て氏郷の歌を思い出し、ほろりとする日野。日野商人の質素堅実な町並や蒲生氏ゆかりの寺社巡り等、のんびり過ごすには良いところです。
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「獅子と狛犬」展。MIHO MUSEUMとエイリアン

こんにちは。


信楽といえば。


たぬー。


う、うわぁー。


ちゅー。


さて。今日の目当ては、MIHO MUSEUM。


「獅子と狛犬~神獣が来た遥かな道~」

このMIHO MUSEUMは、常設展示でさえ涎が垂れます。ギリシャ、エジプト、アジア各地の素晴らしいげーじつ品が、ざっくざっく。

ちょー男前のガンダーラの仏立像がいます。はい。うっとりしてきました。

副題にあるように、様々な国の獅子と日本の狛犬を項目毎に紹介されていて、なるほどなるほど、と。

狛犬には普段は神社で会うので、大きさが麻痺しているのでしょうね。
ガラスの向こう側の狛犬達はとても大きく、とてもいろんな姿と顔をしていました。

初めて東北の狛犬ちゃんずにも会えて、ほくほくです。



まるっこい狛犬ちゃんずに会いたくなり、信楽の神社へ。


縛られてるのかオシャレなのか・・・youはshock。


むっちむちだから、ま、いっか。

もっとまぁるい子に会いたいなー。



※◇◎●☆▽!



どえらいもんを見てしまいました。



こういう子に会いたいのにぃ。


MIHO MUSEUM
《住所》滋賀県甲賀市信楽町田代300
今回の展示概要や、男前の仏立像等はこちらのHPで→→→

MIHO MUSEUM


いつも応援いただきありがとうございます。「獅子と狛犬」展、とても楽しかったです。お好きな方はぜひ。しかし、ものすごい姿の狛犬に、なにもかもがすっこーんっとぶっとんでしまいました。夜には会いたくないなぁ。ひいいいい。
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龍神温泉と八大龍王。紀州藩主のお宿あります。

こんにちは。


皆瀬神社で狛ちゃんが教えてくれた龍神温泉。

日本三美人の湯。

島根県湯の川温泉と、群馬県川中温泉 と、和歌山県龍神温泉。

美人になれるのかなー。


しつれいせんばん。


日高川に沿って少し車を走らせ。


やって来ました、龍神温泉。

龍神温泉は、奈良時代に役行者小角が発見し、後に弘法大師が夢に難陀龍王のお告げを聞いて開いたのが始まりだと伝わります。


温泉街のかわいい祠。


なんだぁ龍王、いや、難陀龍王を祀ります。


難陀龍王は、八大龍王の筆頭。

八大龍王とは、仏教を守護する八体の龍王(龍神)。

難陀(なんだ)・跋難陀(ばつなんだ)・娑迦羅(しゃから)・和修吉(わしゅきつ)・徳叉伽(とくしゃか)・阿那婆達多(あなばだった)・摩那斯(まなし)・優鉢羅(うはつら)。

日本では祈雨・止雨の神ともされております。



能楽「春日龍神」。

唐から天竺へ向かおうと決めた明恵上人は、暇乞いのために訪れた春日神社で、宮守の老人に渡航を止められます。
思いとどまった明恵の前に龍神が現れます。

「八大龍王は。八つの冠を傾け。所は春日野の。月の三笠の雲に上り」

明恵上人が渡航をやめた事を確認。
千尋の大蛇の姿の龍神は猿沢の池を波立てて、天へ帰っていくのでした。

ちゃんちゃん。



八大龍王といえば。

「時により過ぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまへ」(源実朝「金槐集」)

技巧を凝らすでもなく、真っ直ぐに「豪雨で困る。八大龍王様、雨、やめて」と詠む実朝。好きです。


外湯の龍神温泉元湯。

かけ流しの温泉は、関西では貴重なのだ。温泉天国の地域の方々が羨ましいのだ。


龍神温泉元湯の壁面レリーフ。えらく優しい龍神さん。


江戸時代には、紀州藩初代藩主・徳川頼宣の保護により発展。


(高野山奥の院 徳川頼宣墓所)

頼宣は、藩主が湯治を行うために、藩主専用のお宿「上御殿」と家臣用のお宿「下御殿」を藩費で作らせます。


「上御殿」の管理は、龍神家が任されました。


今も表札には龍神さんのお名前が。


楽しい主従。

1871(明治4)年の廃藩置県以後は、一般のお宿として開放。
1884(明治17)年の温泉地区の大火で焼失。翌年、再建され現在に至ります。
南紀初の国の登録文化財です。


うはうはー。


食べる。

さて。


温泉街から川を渡って


お宿へ。


風呂上がりに、甘いものと


般若湯。


橋を渡って、お風呂。


そして、高野山で仕入れたご飯。

翌朝には、ほら、こーんな美人さんに・・・び、びじ・・


うーむ。悩む。


さて翌日。



くまちゃんのおすすめ。


うまー。うまー。



狛ちゃんズがお忍びで行きたくなる龍神温泉。

ええとこです。


参考文献
現地案内表示
田辺商工会議所編集・発行「熊野検定テキストブック」


いつも応援いただきありがとうございます。高野山巡りの後は足をのばして龍神温泉、おすすめです。上御殿に泊まって殿様気分でうっはうはーなんて、いかがでしょう。素泊まりなら、龍神温泉元湯別館があります。ここは元湯に入り放題です。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

皆瀬神社。高野山の後は龍神温泉。神社合祀し過ぎだよ。

こんにちは。


高野山。奥の院のご紹介はまた追々。


高野山から


高野龍神スカイラインを走り


オトメな名前の滝で


滝の水と戯れ


やって来ましたのは、和歌山県龍神村龍神。


つり橋に、れっつとらい。


神頼みより、ここは現実に重要な皆様にお願いして。


訳のわからん強がりを呟きつつ。


渡れましたともっ。失礼なっ。


ソフトクリームのてっぺんみたいな尻尾の狛犬くん。口が悪い。


皆瀬(かいぜ)神社。


【創祀】
1458(長禄2)年、この龍神地域の豪族、龍神正直(龍神氏10代)が勧請。
文明年間(1469—1486)正直の世継に当る龍神正氏(龍神氏11代)により社殿が造営されました。

ところで。龍神正信(龍神氏12代)またの名を皆瀬弾正。

弾正36歳。盆踊りの夜に。

小又川森に別宅を構えて、本宅と別宅を悠然と行き来していたのを高慢と見た村の若者たちに襲撃され、大乱闘の末に自害に追い込まれてしまいました。

なんとまあ。


厳かな春日造りの神殿です。

【祭神】

(主祭神)八幡大明神 

(配祀神)
天児屋根命 品陀和気命 中筒男命 源頼宜公 大棉津見命 宇賀魂神 大己貴命 市杵嶋姫命 大名持神 須佐男命 丹生津比売命 三筒男命 天香々背男命 伊邪那岐命 菅原道眞公 大地主神 不詳2座


ものすごくぎゅうぎゅう。

なぜなら。

神社合祀令に基き次の神社が合祀されたのです。(以下和歌山県神社庁HP様より引用)

八幡神社〈村社 殿垣内 品陀別命 治承年間(1177—1181)龍神大和守和勧請〉

青田神社〈無格社 天児屋根命・中筒男命 正応5(1292)年青田戸野丈ヱ門藤勧請〉

南龍神社(無格社 湯本 源頼宜公)

海神社〈無格社 湯本 大綿津見神 弘仁年間(810—814)空海当地に来りし時、龍陀王の出現せるをもって祀ると言う〉

大国主神社(無格社 大己貴命)
嚴島神社〈無格社 湯本 市杵島姫命 安永7(1778)年勧請〉
若宮神社(無格社 湯本 祭神不詳〉
住吉神社〈無格社 野々垣内 三筒男命 永仁年間(1293—1297)青田源左ヱ門藤勧請〉
八幡神社〈無格社 滝ノ上 品陀別命 長禄2(1458)年龍神刑部大夫源正直勧請〉
稲荷神社〈無格社 湯本 宇賀魂神 寛政12(1800)年勧請〉
稲荷神社(無格社 野々垣内 宇賀魂神)
新谷神社(無格社 小森 祭神不詳)
河内神社〈村社 小又川 天児屋根命 勧請不詳 天文7(1538)年に皆瀬彈正政信再建〉
金刀比羅神社〈無格社 久志 大名持神・須佐男命〉
八幡神社〈無格社 大江 品陀別命 天文7(1538)年に皆瀬彈正政信勧請〉
佐卉神社〈無格社 崎 丹生津比売命・品陀別命 正保2(1645)年勧請〉
大地主神社〈無格社 崎 大地主神 正保2(1645)年勧請〉
田野々神社(無格社 丹生津比売命)
原神社(無格社 三筒男命)
龍神社(無格社 丹生津比売命)
星神社(無格社 上湯又 天香々背男命)
星神社(村社 三ツ又 天香々背男命)
八幡神社(無格社 三ツ又 品陀別命)
廣原神社〈無格社 八幡尾 品陀別命 應永18(1411)年湯川竹松丸勧請〉
丹生神社(無格社 板鶴 丹生津比売命)
八幡神社(無格社 初鹿野 品陀別命)
嚴島神社(無格社 寺野 市杵島姫命)
丹生神社(無格社 寺野崎 丹生津比売命)
丹生神社(無格社 皿田 丹生津比売命)
多賀神社(無格社 栂尾 伊佐那岐命)
天満宮 (無格社 大熊 菅原道眞公)
住吉神社(無格社 小畠 三筒男命)
八幡神社(無格社 仮屋 品陀別命)
神前神社(無格社 四ノ谷 品陀別命)
八阪神社(無格社 久志 須佐男命)
八幡神社(無格社 原ノ谷 品陀別命)
稲荷神社(無格社 久志 宇賀魂命)

以上37社、18祭神。
1924(大正13)年、社殿の大改築。(引用終わり)

この時の大改築では、高野山宮大工棟梁を招き、大工、石工、屋根職人など21名が技を競い、龍神村特産の檜の銘木を用いて完成させました。



1906(明治39)年の勅令によって神社合祀政策は進められます。

全国で1914年までに約20万社あった神社のうち、7万社が取り壊されました。
特に合祀政策が甚だしかったのは三重県。県下全神社のおよそ9割が廃されることとなります。
和歌山県や愛媛県も三重県同様に神社合祀が多く進められました。


龍神温泉は美人の湯♪

島根県の湯の川温泉、群馬県の川中温泉とで「三美人の湯」。
おおお、美人になれるかなー!?


んまっ。失礼なっ。


これから行くのよ。ふふふ。


え?


夜中に温泉三昧の狛犬ですか?それはもはや、妖怪では。


は、はいっ。かしこまりましたっ。


皆瀬神社
《住所》和歌山県田辺市龍神村龍神1346番地

参考サイト
和歌山県神社庁HP


いつも応援いただきありがとうございます。神社合祀が多すぎるような皆瀬神社。かつて近隣にこれだけの数のお社があったというのに驚きました。強引な神社合祀政策に従ったものの、こんな立派な社殿を建ててみせた龍神村の氏子の方々のプライドに敬服です。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

チェスの駒ワン宇久井神社。海の幸もりもり。

こんにちは。

前回に続きまして。


那智勝浦町の宇久井神社でございます。


那智の滝。


とーーおくに、那智の滝が見える場所。
※南から北を見てるので、右が東。視線を東へ移動してくと、


海、山、うふー。


宇久井、ここ。


絶賛、磯遊び中。


わたくしとしたことがっ。


那智勝浦といえば、生まぐろ丼どーん。


たまには生マグロカツも食べる。


那智勝浦も串本も、ぴちぴちお魚が豊かで


酒のアテには困りません。


南紀は、伊勢えびやカツオ、地魚等がとても豊かで美味しいところ。


ぱーらだいすぅー♪なのです。

すみません。美味しかった画像ばっかりで。うふ。



そして狛犬ズが表情豊かなところです。


もしくは文鎮。


肩がありません。


ここですかぁー?


いいこいいこ。

はい、吽ちゃんも。

角なのか髪の毛なのか。


狛犬くんが眺める下の段には。






賑やかに並んでいます。

周りの景色とお天気と狛犬ズのおかげでしょうか。
とても明るくさわやかな神社さんでした。


んばあっ。


いつも応援いただきありがとうございます。熊野三山のおわす地域という土地柄なのでしょうか。参拝していると、地元の方々が「ありがとう」とお声をかけて下さいます。狛犬ズは愛されて幸せいっぱい。こっちも幸せいっぱいです。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

宇久井神社。んばあ狛犬の語る宝永地震。

こんにちは。


和歌山県那智勝浦町の宇久井神社。


宇久井、という場所にあります。


ええ感じ。


なぜ片方だけ、びろろろーんなのか。


お邪魔します。

こちらは、古より、漁業加護の御神徳あらたかな神社であると伝えられております。


はーい。


階段上がって右に90度向くと、ほんで・・・


ほんでんばぁ、じゃない。


本殿でございます。

ここもまた、シェアハウス。

【祭神】
(主祭神)蛭子大神
(配祀神)素狭男神 應神天皇 軻過突智神 保食神 天照皇大神 熊野速玉大神


まあ、ぷりちー。

【創建】
不詳。

元々は蛭子神社という名称。

1909(明治42)年、神社合祀政策により下記を合祀。
素狭男神社(那智勝浦町大字宇久井 字中芝鎮座 無格社)
稲荷神社(同字出見世鎮座 無格社)
蛭子神社(同字太唐地鎮座 無格社)
稲荷神社(同字太唐地鎮座 無格社)

同44年、蛭子神社から宇久井神社へと改称。村社となります。

大正元年、神饌幣帛料供進神社に指定。

昭和49年、本殿・拝殿・社務所 御造営。
昭和54年9月、神輿舎を新築し、平成3年10月、拝殿の新築が行われました。


よかったね。


何があったの?



創建が不詳なのは、1806(文化3)年の古文書の記述に

「1707(宝永4)年の津波で、神具だけ残して他を一切流失し祭式が中絶していた」

とあり。宇久井神社は宝永年間以前から存在していたことが伺えます。


宝永地震。


串本の橋杭岩をよく見ると。


巨大な岩が、一定方向に落ちていることがわかります。


1707(宝永4)年10月に遠州灘沖から紀伊半島沖を震源として発生した巨大地震。
南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされてきた大地震です。
地震の49日後に起きた宝永大噴火と共に亥の大変(いのたいへん)とも呼ばれます。

その凄まじさは、wikipediaに詳しいのでご参照下さい。
→→→宝永地震



普段はそう思えても、そうではないのが怖いね。


ううう・・・(T_T)


はい?


んまあ!


ちょっとー!!あんたたちー!!


宇久井神社
《住所》和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字宇久井233

参考サイト
和歌山県神社庁


いつも応援いただきありがとうございます。宝永地震の爪痕・記録は、駿河から日向という広範囲に太平洋側・内陸部問わず数々残っているかと。那智勝浦、串本等の南紀をあちこち巡りましたが、大地震が来たら10分であの山に上れと?そんなん、無理やわ、と思う箇所が多数。何とかして避難出来るようにしなくてはいけないと痛感します。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

串本の朝貴神社。オソのガバとシャコ貝。

こんにちは。


紀伊大島の伊勢えび天丼どん。


うまー。


お腹いっぱいになったところで。


こんな景色の見える、潮岬東側の出雲漁港へ。


ここには「オソのガバ」と呼ばれる小さな洞窟があります。

むかしむかし、ここにオソ(カワウソ)が棲んでいました。

このオソくん、海で泳ぐ子供のおちりを取りに来ると恐れられておりました。



近くの朝貴神社の神様がオソを懲らしめ、追い払いました。



以後、子供達は溺れることがなくなり安心して遊べるようになりましたとさ。


こちらがその朝貴神社。


お手手のお清めはご容赦。


なぜか足元が賑やかです。


おや。いかにも海の神社らしいものが。


まあ、かわいい。


水盤っていうのかな。


【祭神】
(主祭神)大己貴命
(配祀神)天照大神 火々出見尊 火産霊神 蛭子命 熊野夫須美神 速玉男神 家津御子神


とてもお手入れされた清々しい境内です。


社伝では、1458(長禄2)年、大職冠「藤原鎌足」公の嫡子伊美麿から二十五代の裔、神祇大副卜部兼倶が熊野参詣のとき出雲国より勧請し創建といいます。

しかし、『紀伊続風土記』は「伊勢大神宮の摂社礒辺の神を祀るという」考えをとっているようで。

江戸時代は浅木明神社といわれ崇敬されておりました。

1868(明治元)年、神仏分離の動きのなかで朝貴明神社と改称したが、朝貴神社と現名に。

1874(明治6)年4月、村社。

1910(明治42)年10月、一村一社の神社合祀で村内の神社(真笹ノ平見の休所神社、向ヒ地の愛宕神社、蛭子神社)を境内社に合祀。

大正4年10月境内地を拡張。同5年1月、幣帛料供進社と会計法適用社に指定されました。


海の中に佇む、静かなお社でした。



朝貴神社
《住所》和歌山県東牟婁郡串本町出雲58番地

参考サイト
和歌山県神社庁HP


いつも応援いただきありがとうございます。ほっこり昔話の神社さんでした。しかし、おちりを取っていってどうしたのかな、カワウソくん。コレクションしたんでしょうか。ふむ。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

本州最南端の前方後円墳。下里古墳。

こんにちは。


強がり阿くんと


おすまし吽くんのいる


下里神社。

南東に紀伊半島南部唯一の古墳があります。徒歩10分弱。


下里古墳。

4世紀末から5世紀初め(古墳時代)に造られた前方後円墳。


造られた当時は近くまで海岸が迫り、ここは小高い砂丘の上だったとか。


平安時代から明治までここに神社がありました。

前方部は削られ、古墳の表面の葺石(古墳表面を覆うように敷き詰めた石。近くの天満海岸の石が用いられていた)も除去されてます。


後円部には竪穴式石室が発掘調査により発見。

昭和3年の調査では大量の副葬品が発掘されましたが、大部分は行方不明に。


(裏側から全体)

墳丘は全長40m。幅5mの周濠跡(図面の青の点線)も発見されています。

下里古墳は、前方後円墳では本州最南端。
紀伊半島南部では唯一の前方後円墳。国の史跡です。

ぽつん。

熊野国(大化の改新で紀伊国に併合)に古墳を作るほどの豪族が存在したのか、または渡来人のものか、まだ判明していません。

なんでここに古墳があるのかな。面白いな。


古墳を見てたら背後に電車が。

実は地図を見てるのに、うろうろと探しました。


これは丹波篠山の古墳。

こんな森に向かったら。


たどり着いたところはお寺でしたの。


とても立派な石垣のお寺さんで。


てくてく。


おや。えらいとこに。


庚申さん。


いち、に、さん・・・おお。七人の六地蔵様です!

あほな。


一番左は違う仏様でした。

さて。下里神社に戻りますと。

下里神社と国道挟んで向かい側には、下里城址もありますの。


不思議なところ。那智勝浦の下里でした。


いつも応援いただきありがとうございます。ちまっと、まるっとしたかわいい下里古墳。ほっこりします。下里神社と下里古墳と下里城址。いろんな時代の史跡が集中する下里は、とても面白いところでした。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。
プロフィール

つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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