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関ヶ原・大津籠城武将編。高野山奥の院。

こんにちは。


高野山奥の院案内係。

本日は、関ヶ原の戦い。大津籠城編。


【東軍】京極高次


大津籠城戦死者追悼碑。

関ヶ原の戦いの大津籠城戦で戦死した京極家家臣22名の供養のため、京極高次が建立。


筆頭に忠臣の山田左衛門。

慶長5年9月13日の日付が刻まれています。


【ざっくり大津籠城戦記】

9月7日。毛利元康(西軍総大将・輝元の叔父)を大将とする立花宗茂・小早川秀包・筑紫広門等九州の強者15000(MAXで40000説あり)が包囲、攻撃。

9月13日。西軍の総攻撃。「大津籠城戦死者追悼碑」の日付はこの日。

9月14日。北政所の使者・孝蔵主・高次老臣の黒田伊予の説得を受け高次は降伏。

9月15日。高次は大津の園城寺で剃髪。高野山へ入ります。関ヶ原では西軍総崩れ。大津城攻め手の皆様、間に合わず…(T_T)


高次系の京極さんちが見当たらなかったので

丸亀藩の京極家墓所。
五輪塔が多い中で、この形は珍しかったです。

京極高次の庶長子・忠高の養子の高和が1658年丸亀藩へ入城。
廃藩置県まで丸亀藩藩主。


【西軍】毛利元康・立花宗茂・小早川秀包・筑紫広門


西軍総大将・毛利輝元は関ヶ原後、所領安堵の約束を反故にされ減封。
輝元は隠居、嫡男の秀就が周防・長門2国を領します。


一際巨大な五輪塔が林立しておりました。
絶対に現地で体感して戴きたく存じまする。


大津城攻めの大将・毛利元康は、かの元就の八男。
長門厚狭(山口県山陽小野田市)に10,500石。毛利家家老(四本松毛利家)。


小早川秀包は、毛利元就の九男。
小早川隆景の養子となるも、秀秋を養子に迎えるため廃嫡。別家を創設(T_T)

関ヶ原の戦い後に改易。
毛利輝元より長門国内に所領を与えられ、(裏切りもん秀秋のせいで)小早川姓を捨てて毛利姓に復し、大徳寺で剃髪して玄済道叱と称しました。

※毛利家は当初は萩城(萩市)に藩庁。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)へ。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」(wikipediaより)



柳川の立花家墓所。立花宗茂くんのおうち。

美形と噂の小早川秀包くんと誠実な宗茂。仲良しこよし。

変な意味ではなく、二人は何度も共に戦い、矢も銃も得意な同級生であり、義兄弟の契りを交わしています。
久留米の秀包、柳川の宗茂。おうちは、お隣さん。

関ヶ原後、九州へ引き返す際に「共に戦おうねっ」と言う宗茂に対し、秀包はそれを断ります。

「毛利は動かず」

毛利に仕える秀包は、自分の信念だけでは動くことが出来ない立場。
筋道を通し信念を貫く宗茂のようにはいかなかったのでしょう。

二人で仲良く歩んだ道はここで二つに分かれてしまいました。


戻った柳川では、官兵衛も加藤清正も辟易するほど元気一杯に戦った宗茂。お世話になってる清正の説得を受け開城。

その後改易となるも、見事旧領へ復活。

宗茂くんちの金桃ズ。

やったね!


いつも応援いただきありがとうございます。自分の家臣とはいえ、大津籠城戦死者追悼碑を建立する京極高次の心意気に乾杯です。「山口毛利家の墓所」は遠目にもわかる巨大さと五輪塔の数。圧倒される規模です。町内の一区画全てが毛利さんち、なイメージ。小早川秀包と立花宗茂の親友話を妄想すると、エンドレスです。
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