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前田利長夫妻墓所。いつまでも見つめあっていたいの。高野山奥の院。

こんにちは。


高野山奥の院編。


前田利長墓所。

秀吉の友達、前田利家の嫡男。

幼名は、犬千代。

(・・・すみません。わんこ不足なもので。)

1562年。名古屋市中村区荒子で生まれ、仕えたのは信長→秀吉→家康。

関ヶ原前に父・利家が他界。家康の策略にはまって右往左往。

関ヶ原では、東軍に付き、家康の上杉景勝討伐軍に出陣。
大聖寺城を落として越前まで平定するなど、北陸方面で奮闘。

関ヶ原後、領地を加増され、加賀・越中・能登の3ヶ国合わせて122万5千石を支配する加賀藩に。
なんと、日本最大の藩となりました。


加賀前田家第2代。加賀藩前田家初代藩主。

前田利長墓所。

利長夫人・永姫は、信長の四女。

お父さん。

この二人には、幼い時に他界した満姫しかお子がおらず。


利長の後継者を、誰でもいいから生んで下さい、と言ったとか。


しかし、利長は側室を持たず。


前田利長墓所。

彼がじーっと見つめる先にあるのは。


前田利長夫人墓所。

愛しの奥様。


参道を挟んで向かい合う、利長夫妻です。

仲良きことは美しき哉。


二人は、前田利常(利家四男。利長の年の離れた異母弟)を養子に迎えます。

前田利常は、利家が名護屋城に詰めてたときに出来た子。
利家ってば、56歳。うわー。

げ、元気なことは素晴らしき哉。


いつも応援いただきありがとうございます。いつまでも見つめあっていたいの。な、お二人。隣り合わせな墓所はありますが、ずーーーっと見つめあうとは、なんと素敵なお二人でしょう。ま、「ちょっとー、あっち向いててよ。飽きた。」と言われても動けませんな。
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高麗陣敵味方戦死者供養碑と日本赤十字。高野山奥の院。

こんにちは。


高野山奥の院編。


無数の供養塔等が立ち並んでおります。

その中にあるのが、こちら。


「高麗陣敵味方戦死者供養碑」

慶長の役で戦死、横死・病死した人々は数知れず。
敵方兵81500人以上、味方兵3420人とも。

1599(慶長4)年。
慶長の役から帰国した島津義弘・忠恒(家久)父子が、
敵味方の双方の戦没者の菩提を葬うために建立した供養碑。

石材は琉球石。
高野山にあるはずのないこの石は、島津家が運んできました。

供養碑の背後は島津家墓所。


薩摩・島津家墓所。(供養碑とは別の場所のもの)


向かって左が家久。
家久は、島津家18代。薩摩島津藩初代藩主。


「高麗陣敵味方戦死者供養碑」

「高麗国在陣之間敵味方闘死(以下判読不能)」と、中央にはっきりと書かれています。

戦の最中は敵味方に分かれて戦っても、死した後は敵味方の恩讐を越えて、区別なく同じように極楽往生させる「怨親平等」とは、仏教の教え。

敵も味方も同じように処遇する(恨み敵対した者も親しい人も同じように接する)事に違和感はありませんが、実行するとなると話は別。

島津義弘・家久親子を見直してベタ惚れです。




数百年後にこの供養碑が見直される事が起きました。

1887(明治20)年に発足した日本赤十字社。
国際赤十字社に加盟を申し込むも、拒否されます。

ところが、高野山奥の院のこの「高麗陣敵味方戦死者供養碑」の故事によって加盟が承認されます。


つまり、国際的にこの供養碑はまさに「国際赤十字社の精神」であると認められたのでした。




【日本赤十字社物語】

日本赤十字社の前身「博愛社」は西南戦争勃発の時に創立されました。

「西南戦争」の激戦地となった田原坂一帯(熊本県植木町)には、多数の負傷兵が。

佐野常民(元老院議員)は、当時ヨーロッパで既に活動していた赤十字のような救護組織「博愛社」の設立を政府(陸軍省)に願い出ます。


博愛社設立趣旨(規則第4条)
「敵人ノ傷者ト雖モ救ヒ得ヘキ者ハ之ヲ収ムへシ」


しかし、政府にはこの「敵味方の差別無く救護する」精神が理解されず不認可。

不認可にしたのは、陸軍卿代行の西郷従道(隆盛弟。薩摩の人)。
内戦は国家間戦争とは異なり、逆賊=犯罪者。双方の救護なんて駄目と。

佐野は意を決して熊本に赴き、元老院議長で征討総督である有栖川宮熾仁親王に直接願い出ます。

親王は博愛社の精神に共感し、中央に諮る事なく設立を許可。

1877(明治10)年。
ようやく「博愛社」は、熊本の地で、敵味方の差別なく、官軍・薩摩の負傷者の救護活動を行うことが出来たのです。

博愛社は1887(明治20)年に「日本赤十字社」に改名。
よってこの年が「日本赤十字社発足の年」。

そして、博愛社が設立され、救護活動を行った、熊本県玉名郡玉東町全体が「日本赤十字社発祥の地」といわれるようになったのでした。


薩摩の島津義弘の精神は、決して忘れないようにしたいものですな。


参考文献・サイト
高野山奥の院説明板。
日本赤十字社熊本支部HP→→→日本赤十字社熊本支部


いつも応援いただきありがとうございます。高野山奥の院でうろうろしていて初めて、この供養碑の存在を知りました。「敵味方等しく」の島津義弘・家久親子の精神を(状況は異なるにせよ)すっかり忘れて却下した薩摩の西郷従道。しかし、国際化の中で日本(赤十字社)を救ったのは島津義弘の精神。歴史は面白いなー。
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母への想い。結城秀康と徳川忠長。高野山奥の院。

こんにちは。


高野山奥の院編。


巨大手水鉢。


木立の中へ向かいます。


屋久島のような巨大な杉達。

奥まった山側の一角に静かに佇むひとつの墓所。

崇源院墓所。
浅井三姉妹の末っ子、お江。徳川秀忠正室。

遠くからでも人目をひく巨大な五輪塔。

奥の院墓碑群の中で一番大きい(高さ6.6m)ので「一番石」と呼ばれます。


1627(寛永4)年。
駿河大納言忠長が母の追善供養の為に建立。

駿河大納言とは、徳川(松平)忠長。
幼名・国松(国千代)。二代将軍徳川秀忠の三男。

あらゆる面で兄の家光(秀忠次男。幼名竹千代)より優れていたとされ、両親の寵愛も一身に受けておりました。そこで勃発したのが。

竹千代擁立派(with乳母・春日局) VS 国松擁立派(withお江)。

ふぁいっ。

結果は周知の如く。三代将軍は、兄の竹千代(家光)に決定。


ちなみに、春日局の墓所はこの、御廟橋を渡ったお大師様の御廟所の近く。
「崇源院様より、もっとお大師様に近くてよー!」って聞こえそう。
例えこれは秀忠が建てたのだとしても、だから春日局ってなんか好かん。


さて。失意の忠長(国松)。

徳川ではなく松平姓を称させられ、将軍後継候補から脱落。

駿河国・遠江国・甲斐国55万石を領し、従二位権大納言となるも、幕府により改易されてしまいます。
理由は忠長自身の問題よりも大名数削減の為に冤罪をかけた「幕府の意向」説が主流とか。

1633年。配流先の高崎で自害。享年28。


母の追善供養にこの五輪塔を建立したのは、従二位権大納言となった翌年。
そのわずか6年後に自害となろうとは。


忠長、大好きなかーちゃんの側で眠りたかったろうな。


(T_T)


さて。かーちゃんの横にはもう一人、お子さんが。

天樹院(千姫)墓所。

豊臣秀頼に嫁ぎ、豊臣滅亡後は姫路藩本多忠刻に再嫁。ラブラブ夫婦に。
しかし、忠刻も千姫に先立ち他界。

千姫墓所の斜め横には

播磨姫路・本多家墓所。(すごくぼけ倒してごめんなさい)

千姫、よかったね。

(T_T)


さて。次は。


結城秀康石廟。

家康次男。母は正室築山殿の侍女、於万の方。
人質として秀吉の元へ。秀吉に鶴松が生まれて、結城家へ婿養子に。
よく出来た人物であったようですね。

家康の次は秀康を本多正信・正純等は推挙したとか逸話は数々。(秀忠推挙は大久保忠隣のみ推挙)


でも、豊臣家へ養子(人質)に出した上に、結城家へ婿養子に入った秀康を後継者には出来ず。

1607年。結城秀康は家康に先立ち他界。長男・松平(松平へ復姓。越前松平)忠直により石廟建立。

亡くなっても徳川家の廟所へ入れるわけはなく。

(T_T)


結城秀康と母の石廟。

この二つの石廟は、木をほとんど使用せず、瓦や壁、柱や棟木、扉まで全て石造。外壁には、仏様のレリーフが刻まれています。(近寄れないのでズームで見てね)


母の石廟は1601年、秀康自身が母・於万の方を祀るため建立。

しかし、その秀康の方が先に急死してしまいました。
親に先立つ不幸だよ、秀康。

母・於万の方は秀康死後、出家して長勝院。1619年72歳で他界。


秀康長男・忠直は、せめて、かーちゃんを祀る石廟のお隣でゆっくり休んでね、と思ったのでしょうか。

(T_T)



いつも応援いただきありがとうございます。お江の墓所は、奥の院20万基の墓所の中で一番巨大。忠長のおかーちゃんへの愛の大きさでしょうか。結城秀康母子の石廟は、木造かと見間違えるほど精巧に造られています。忠長も秀康も、父親とはビジネスライクなお付き合いだったのかな。かーちゃんだけが生涯の味方だったのかな。母親ってのは、いつまでたってもありがたいものだと思います。
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東の関ヶ原・慶長出羽合戦編。高野山奥の院。

こんにちは。


高野山奥の院編まだまだ続いております。

本日の主役はこちら。じゃん。


なりましてません。


【慶長出羽合戦】(東の関ヶ原)

1600年、出羽国で繰り広げられた上杉VS最上・伊達連合軍の戦い。

家康の会津討伐に従い最上に集結した奥羽諸将。
家康が三成挙兵を知りUターンしたら皆帰国してしまい、ポツンっと残った最上義光が上杉景勝相手に頑張ります。

開戦までの経緯は省略。


《東軍》最上義光・伊達政宗


出羽山形・最上家墓所。

最上義光の妹・義姫は政宗の母。つまり義光は政宗の伯父。

上杉景勝相手に奮闘。
西軍敗退を知り退却する上杉軍を追撃して兜に被弾。

関ヶ原後は、上杉撃退の功績により出羽山形57万石。

しかし、最上騒動により1622年義光の孫・義俊の代に改易。
名家の断絶を惜しまれ、近江大森藩15000石(近江国蒲生郡)を改めて与えられます。
しかし義俊の子が継いだ際に、幼少を理由に5000石に減封。



伊達政宗墓所。

なぜ鳥居にプランターがかかってるのかしら。
独眼竜はお花が好きなのかしら。

家康から「100万石のお墨付き」をもらってご機嫌♪


奥州仙台伊達家墓所。

伯父・最上義光の応援要請に叔父・伊達政景と3000の兵を派遣。
(地味に私のツボ。おじおじ軍)

上杉退却のどさくさに紛れてあちこちで領地拡大に励むも、緒戦敗退。
関ヶ原後、一揆煽動(岩崎一揆)疑惑で「100万石のお墨付き」が反故に。

ざんねん。


《最上義光に従った武将》南部利直等


奥州・南部家墓所(1)

奥州藤原氏征討に入った甲斐源氏の南部光行が始祖。

慶長・出羽合戦当時は、わんこそば発案者の南部利直(烏帽子親は前田利家)。


・・・ちがーう。

最上義光に従い、山形へ出陣。
しかし、伊達政宗の一揆煽動(岩崎一揆)鎮圧のため帰国。


奥州・南部家墓所(2)

関ヶ原後も家康により所領安堵。明治維新を迎えます。

★メモ★
黒田官兵衛の家老、栗山利安(善助)の子、利直(栗山大膳)が黒田騒動の責任をとって盛岡藩南部家預かりとなります。
この時栗山家伝来の、「官兵衛の赤いおちょこの兜」を持参。
よって、この兜は現在、もりおか歴史文化館が所蔵してます。


《西軍》上杉景勝

謙信と景勝墓所。

圧倒的多数で善戦するが、いかんせん、肝心の関ヶ原で西軍敗退。

敗れた上杉景勝は庄内・会津等を没収され、120万石から米沢30万石に。

最上家改易の際は山形城受取りを務めました。

遺骨は高野山清浄心院。
遺灰と衣冠は山形県米沢市の上杉家御廟所。



《中立》相馬義胤・佐竹義宣等


奥州・相馬家墓所

山椒は小粒でもピリッと辛い、相馬家。
鎌倉時代の千葉常胤を遠祖とする古いおうち。

佐竹や伊達と長らく反目しあう仲。
周囲と違い、伊達政宗に負けても下らず独立保持し、秀吉により本領安堵。


奥州・相馬家墓所

積極的参加はせず、伊達政宗が領地を通過するのをスルーしたり、伊達と共に上杉景勝領を襲ったり(月夜畑の夜襲)。

関ヶ原後、佐竹家与力大名であり、また佐竹家と婚姻関係にもあったため連座により改易。
しかし、相馬義胤は「月夜畑の夜襲」の戦死者名簿を提出し、本多正信のとりなしにより改易撤回の訴訟に勝利。

旧領に復活。明治維新を迎えます。


鎌倉時代から明治維新まで、その間実に700年余。
南部家も相馬家も、先祖代々の土地を治め続けました。すごいなー。



秋田・佐竹家墓所

新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。

佐竹義宣は家臣の意見をまとめきれず、中立。

関ヶ原の2年後、ようやく家康に拝謁。
常陸54万5800石から、石高を教えてもらえないまま秋田・仙北へ転封。

家康にすれば、中立していた佐竹は関ヶ原の合戦後も無傷。
与力大名分を含めて実質80万石といわれる佐竹が江戸に近くてはアブナイ。

1664年、ようやく20万5,800石と決定。半減。
そのまま明治維新を迎えます。



いつも応援いただきありがとうございます。奥州の武将達。鎌倉時代から同じ土地を治め続けたなんて、すごいなぁ。行ってみたいなぁ。代々のお宝がざっくざっくしてそうだなぁ。
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三成と光秀墓所。高野山奥の院。

こんにちは。


奥の院巡りで一年書き続けることができるような数です。

さて。本日は、ちょいと憎まれっ子な二人。


【本能寺の変】明智光秀。

光秀の首塚は亀岡市の谷性寺。

1582年。家臣・溝尾庄兵衛が、晒されていた光秀の首を縁のある谷性寺に持ち帰りました


首塚。

そして高野山奥の院。

明智光秀墓所。

高野山にとっては、信長の焼き討ち回避の陰の立役者。
本能寺の変がなければ、危なかった。


光秀墓所は明智家の菩提寺(島津義久再興の宿坊「恵光院」)が管理。


何度建て替えてもひび割れてしまうという光秀の供養塔。
「信長の呪い」説が流れております。

うーん。信長、そんなチッサイオトコデハナイぞ。


亀岡の谷性寺の光秀応援隊。


【関ヶ原の戦い】石田三成。


石田三成墓所。

お大師様のそばです。みんな仲良くしましょう。


いじめられたりしてないか、お姉さん、心配。


あー、そんなことに動じるような三成ではございませんでした。


でもほんとは強がりさんなくせに。
では、応援のお歌をうたいます!

♪♪そろばんくわえた みつにゃんー 追っかけぇてー♪♪
♪♪裸足でぇー 駆けてくぅ 世話好き さーこにゃん♪♪


ざんねん。


いつも応援いただきありがとうございます。大河では三成は変人悪人説で押しきられてしまうのかなぁ。気持ちが萎え萎えになっちゃいます。あの死装束みたいな着物もヤダなぁ。
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織田信長と有楽斎系織田家墓所。宿敵も受容。高野山奥の院

こんにちは。


本日のご案内は。


こんな風景の続く奥の院。

高野山も、比叡山に続き焼き討ちに遭遇するピンチあり。
きっかけは、荒木村重の残党を匿ったこと。

荒木残党探索のため高野山に入った足軽を高野山が殺害。


高野山は、足軽が乱暴狼藉を働いたからだと伝えています。

荒木残党の引渡しを拒否した結果、でぇーらぁ怒りゃーた方がおったがね。

今日はその人に会いに行きます。

てくてくてく。

地元の言葉でご挨拶。なんとなく地元のおじちゃんに会う気分。


織田信長墓所。
供養塔には、「天正10年6月2日」(本能寺の変の日付)と戒名。
菩提寺は「悉地院(しつじいん)」の刻名。
悉地院は信長の家臣の弟が住職を務めていた寺院。現・無量光院。


信長は高野聖を捕らえて安土に集め、処刑。その数たるや、数百人。


比叡山の惨劇、高野山で再現か!?

そこへ。本能寺の変。結果はご存じの通り信長は他界。
武将達は我が身の行く末のかかった怒濤の日々へ。


高野山は降伏することなく、ピンチから脱出。

さて。

明智光秀墓所。

間接的に高野山の命の恩人(か?)。



前に行ったときは、信長にくっついて「筒井順慶墓所」の表示があったんですが、今回は行方不明に。高野山、「あ、間違えてました」?


高野山にとっては、敵将である信長の墓所。
現在は奥の院の中でもお大師さまに近い一等地にあります。

この墓所は1970年に発見されました。

つまり、それまでは「憎い敵の信長の墓所なんて高野山にあるわけないよー」っと、ずーっと忘れられていたわけで。

近年判明した江戸時代後期の図巻には、現在地からもっと遠い場所に描かれておりました。

高野山奥の院は、弘法大師御廟までの参道に三つの橋がかかっています。


「一の橋」付近
高野山の町と奥の院の間に流れる「おど川」にかかる橋。

ここから弘法大師御廟まで2km。
20万基の墓所・供養塔が立ち並ぶ奥の院の入口です。


「中の橋」
金の河(死の河)にかかる橋。

図巻の信長の墓所は、この中の橋付近の多数の墓所の中に描かれていました。

一の橋から中の橋の間には、戦国武将(特に徳川期の外様)の墓所がところ狭しと立ち並びます。
中の橋から奥に、徳川関連の家や豊臣家の墓所があります。


「御廟橋」
御廟川にかかる橋。または「無明橋」(煩悩をとる橋)。
弘法大師御廟に一番近い橋で、これより聖域。


信長供養塔に刻名されていた菩提寺「悉地院」(無量光院と合併)は、信長家臣の弟が住職。
彼が信長の遺徳をしのんで建てたのではないかと推測されています。

山の人々は、いくら憎い敵でも、ま、いっかーっと黙認していたのでしょう。

さすが高野山。懐が深い。

やがて月日が過ぎ恨みが薄れ。

宿敵の墓は、御廟に近い、一族と一緒のにぎやかな場所へ恐らく一族の方により移された、と。



大和柳本・織田家墓所。

こちらは織田信長の弟・有楽斎の系統。初代は、有楽斎五男・尚長。
よって大和柳本は正確には尚長系織田家。

第4代藩主・秀親が発狂した前田利昌に殺されてしまい、改易の危機。
家老達が「秀親は病死」として弟の成純を養嗣子として後を継がせて乗り越えました。

変身の天才・有楽斎の系統らしく、幕末期には情勢を見極め早くから官軍に接近。
天誅組の反乱鎮圧や領内の崇神天皇陵、景行天皇陵の修復工事を実施します。

明治維新後は版籍奉還により知藩事、子爵となり、宮中侍候・宮中祗候として明治天皇に仕えました。

さすが有楽斎のご子孫です。


いつも応援いただきありがとうございます。高野山が焼き討ちにあわなくて良かった良かった。一の橋からお大師御廟まで直行して片道2km。往復4km。あっちこっちを探しながら歩くと、5割増?なので、奥の院をゆっくり見るには半日以上の余裕をみておくのがオススメです。
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関ヶ原・大津籠城武将編。高野山奥の院。

こんにちは。


高野山奥の院案内係。

本日は、関ヶ原の戦い。大津籠城編。


【東軍】京極高次


大津籠城戦死者追悼碑。

関ヶ原の戦いの大津籠城戦で戦死した京極家家臣22名の供養のため、京極高次が建立。


筆頭に忠臣の山田左衛門。

慶長5年9月13日の日付が刻まれています。


【ざっくり大津籠城戦記】

9月7日。毛利元康(西軍総大将・輝元の叔父)を大将とする立花宗茂・小早川秀包・筑紫広門等九州の強者15000(MAXで40000説あり)が包囲、攻撃。

9月13日。西軍の総攻撃。「大津籠城戦死者追悼碑」の日付はこの日。

9月14日。北政所の使者・孝蔵主・高次老臣の黒田伊予の説得を受け高次は降伏。

9月15日。高次は大津の園城寺で剃髪。高野山へ入ります。関ヶ原では西軍総崩れ。大津城攻め手の皆様、間に合わず…(T_T)


高次系の京極さんちが見当たらなかったので

丸亀藩の京極家墓所。
五輪塔が多い中で、この形は珍しかったです。

京極高次の庶長子・忠高の養子の高和が1658年丸亀藩へ入城。
廃藩置県まで丸亀藩藩主。


【西軍】毛利元康・立花宗茂・小早川秀包・筑紫広門


西軍総大将・毛利輝元は関ヶ原後、所領安堵の約束を反故にされ減封。
輝元は隠居、嫡男の秀就が周防・長門2国を領します。


一際巨大な五輪塔が林立しておりました。
絶対に現地で体感して戴きたく存じまする。


大津城攻めの大将・毛利元康は、かの元就の八男。
長門厚狭(山口県山陽小野田市)に10,500石。毛利家家老(四本松毛利家)。


小早川秀包は、毛利元就の九男。
小早川隆景の養子となるも、秀秋を養子に迎えるため廃嫡。別家を創設(T_T)

関ヶ原の戦い後に改易。
毛利輝元より長門国内に所領を与えられ、(裏切りもん秀秋のせいで)小早川姓を捨てて毛利姓に復し、大徳寺で剃髪して玄済道叱と称しました。

※毛利家は当初は萩城(萩市)に藩庁。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)へ。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」(wikipediaより)



柳川の立花家墓所。立花宗茂くんのおうち。

美形と噂の小早川秀包くんと誠実な宗茂。仲良しこよし。

変な意味ではなく、二人は何度も共に戦い、矢も銃も得意な同級生であり、義兄弟の契りを交わしています。
久留米の秀包、柳川の宗茂。おうちは、お隣さん。

関ヶ原後、九州へ引き返す際に「共に戦おうねっ」と言う宗茂に対し、秀包はそれを断ります。

「毛利は動かず」

毛利に仕える秀包は、自分の信念だけでは動くことが出来ない立場。
筋道を通し信念を貫く宗茂のようにはいかなかったのでしょう。

二人で仲良く歩んだ道はここで二つに分かれてしまいました。


戻った柳川では、官兵衛も加藤清正も辟易するほど元気一杯に戦った宗茂。お世話になってる清正の説得を受け開城。

その後改易となるも、見事旧領へ復活。

宗茂くんちの金桃ズ。

やったね!


いつも応援いただきありがとうございます。自分の家臣とはいえ、大津籠城戦死者追悼碑を建立する京極高次の心意気に乾杯です。「山口毛利家の墓所」は遠目にもわかる巨大さと五輪塔の数。圧倒される規模です。町内の一区画全てが毛利さんち、なイメージ。小早川秀包と立花宗茂の親友話を妄想すると、エンドレスです。
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上杉謙信と武田信玄。対照的な姿の墓所。高野山奥の院。

こんにちは。


お世話になります。よろしくね。


高野山奥の院。


よいしょよいしょ。好きなもの目指してテクテクするのは幸せだー。


「上杉謙信霊屋」

上杉謙信と景勝の廟墓です。

「『謙信』の名は、1574(天正2)年45歳で上洛した時、高野山にも訪れて、その時に贈られた法名といわれています。

位牌刻名には、下記のように記されています。

(右)『為権大僧都法印謙信』(謙信)
(左)『為権大僧都法印宗心』(景勝)」

(以上現地説明書)


建物は江戸時代初期のものと推測され、小規模ながら霊屋としては古い時代に属するとか。


内部には格天井(こうしてんじょう)を張り、須弥壇上には二基の石碑を納めています。
昭和41年の解体修理時に、銅板葺から檜皮葺にしたことで、建築当時の姿に戻りました。(現地説明書より)


格天井(こうしてんじょう)は、これ。(浦嶋神社)


神社と違って壁は黒色。



さて、上杉謙信といえば、武田信玄。


武田信玄・勝頼の墓所。

「戦国武将らしく簡素な墓石は、豪華を誇る上杉家の霊廟に比べ、却って心に迫るものがある」(現地説明書)


向かって左が信玄。右が勝頼。

信玄の碑面
表「恵林殿」。裏「天正元年(※1573年)4月12日逝去」。

勝頼の碑面
表「法泉殿」。裏「天正10年(※1582年)3月11日逝去」。


菩提所は成慶院。


諏訪氏の通字である「頼」を冠する勝頼は、諏訪氏を継ぎ伊那高遠城に配置されます。

勝頼が継承したのは諏訪惣領家だと従来は考えられていたものが、菩提所である成慶院に伝来する『甲斐国過去帳』において、勝頼を「高遠頼継の高遠諏訪氏の後継」と記されていることから、勝頼が継承したのは高遠諏訪氏であったと近年は考えられています。(wikipediaより)


信州諏訪家墓所もありました。

高台にあるこの墓所、大きさと数で周囲を圧倒しております。


いつも応援いただきありがとうございます。謙信と信玄。墓所も対照的な二人です。高野山の現地説明書が何度読んでも信玄贔屓に見えるのですがどうでしょう。あ、格天井は「こうしてんじょう」ですよー。「格天丼どーん」ではありませんよー。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

高野山奥の院で尾張徳川家と島津と鍋島。負けるな、御三家筆頭!

こんにちは。


紀州藩主徳川頼宣の墓所。


紀州藩主四代の墓所。


紀州藩は夫人方の墓所もあります。高野山は和歌山県。


昨日の新宮城記事のコメントで、紀州といえば「暴れる上様」とお話をいただきまして。暴れる上様の敵役といえば、ねじねじ中尾彬さん、ではなくて、尾張徳川家の徳川宗春様。

むーん。御三家筆頭なのに、尾張から将軍になってない鬱憤が爆発です。


お手伝い下さい。


高野山奥の院。


てくてく。


殿様ー!


(訳)お久しぶりでございます。


ずんぐりして、安定感あふれるお姿にございます。


・・・あれ?


徳川様、直してください。


大丈夫!リニアが開通すれば大判小判がざっくざくぅー!(誤)


あー、味噌煮込、食べたい。覚王山の鬼まんじゅうが恋しい。おでんは赤味噌をぺったり付けて食べたいぞぉー!っと。


「思ひきや人の行方ぞ定めなき 我が故郷をよそに見んとは」by蒲生氏郷。

蒲生氏郷を好きになったきっかけは、この歌。
故郷を離れた土地で働く身には、涙がとまらなくなる歌でございます。

閑話休題。

高野山奥の院の墓所、本日は島津家と鍋島家をご紹介。


島津様の御三人。
こちらの巨大さは鳥居の高さから推測いただけたら。


いかがでしょう。物凄く威圧感があります。


「島津家」の墓所はまた別にあります。


こちらです。


鍋島様もおいでです。

追伸。時乃★栞様へ
いつもお世話になってるお礼です。研究と論文、頑張って下さいねー。


いつも応援いただきありがとうございます。高野山奥の院は、ぜひ観光案内所で事前に墓所地図(有料。缶コーヒーを1本節約すればオケー)を入手してからお参り下さい。先日ニュースで、早朝の高野山は霜で真っ白になり、紅葉とのコントラストがとてもきれーいっと報じていましたよー。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

徳川御三家でがっぽり。新宮城と備長炭。

こんにちは。


新宮の熊野別当の丹鶴姫が居たところにある、丹鶴城。


1873(明治6)年に天守等の建物は払下げと取り壊しの憂き目に。現況はこんな感じ。


がたんごとーん。


着手は、ねぇねぇねね様の義弟浅野長政の長男・幸長の重臣、浅野忠吉。

浅野幸長が関ヶ原の功により紀伊国へ加増転封。
忠吉は新宮で2万8,000石を預かることとなり、新宮城の築城を開始。


途中、1615(元和元)年の一国一城令で廃城を命ぜられますが、場所的に重要な城として、1618(元和4)年再建を許可されます。

と、そこへ。

幸長の他界後に家督を継いだ次弟長晟(ながあきら)が福島正則の改易により広島藩に転封となり、忠吉もこれに随行。
備後三原3万石を預かる三原城の城代家老となりました。

次に紀州藩へやって来たのが、徳川頼宣。


(高野山奥の院)

徳川頼宣の付家老・水野重仲(家康の母方の従兄弟)が新宮城城主となり、以降水野氏の居城として明治維新を迎えます。



1633年(寛永10年)第二代城主・重良の時に一応完成。


小さいながらも、地元の熊野酸性火成岩を積み上げた優美な城になりました。


紀州徳川さんちの重要な拠点なので、丁寧に丁寧に造られたそうで。


丁寧に。


丁寧に。


そして、仁王立ち。


「水の手郭」には港があり、軍港と共に経済的物流港の役割も果たしました。


港の横には炭納屋群の跡が19棟。備長炭を常時1万俵も保管出来ます。

紀州備長炭(白炭)は炭の中でも逸品ですが、この良質な備長炭を年に15万俵近くも江戸へ送り、その量は江戸の炭消費量の3割を賄ったといわれます。
他藩にも販売したので全体では、30万俵近くに。

備長炭と共に重要な商品が鯨油。

新宮市三輪崎や近海では鯨を捕らせて、江戸へ直送。
鯨油は行灯等の照明器具の油として不可欠。

良質な備長炭と鯨油を商い、しかも、関税無料。うっはうは。

だって、紀州藩は徳川御三家だもん。

(高野山奥の院)

葵の紋所だもん。

(高野山奥の院)

紀州藩新宮領は35000石でも、炭と鯨油の販売により、実質は数十万石もの力があったと評されたのでした。

特に第9代城主・水野忠央(ただなか)は、経営手腕に優れ他藩が羨む大富豪であったとか。


(ぷぅーんっとします。くちゃいです。)

【水野忠央の功績】

◆備長炭を新宮領の専売とし、公儀御用達品として葵の紋所付きの輸送船で関税無料で江戸へ販売。

◆「熊野三山貸付」を創設。

◆和紙・陶器・瓦の製造促進、植林、造船、学問奨励。

◆丹鶴叢書(たんかくそうしょ。国史・国文学・有職故実を集めた本)の編纂。(熊野速玉大社神宝館に保存)

◆西洋の軍事教練を導入し、軍事刷新。


(においが伝わればよいのですが。うひひ。)


こんな豪腕の水野忠央の根底にあったのは、反骨精神。

初代水野重仲が家康の母方の従兄弟であろうとも、新宮領がどんなに大富豪であろうとも、紀州藩付家老はあくまでも陪臣。

直参は1万石。水野家は35000石。決して少ない石高でもない。
水野忠央は何とかして直参になりたくて、幕府内部へ身内を総動員する勢いで婚姻、養子縁組により入り込みます。

また、次の将軍位をめぐって徳川斉昭の子・徳川慶喜を推す一橋派と、紀州藩主徳川慶福を擁立する南紀派に分かれて対立した時には。

結果として井伊直弼等と共に慶福改め家茂を第14代将軍に擁立することに成功。

しかし、桜田門外の変で井伊直弼が横死すると、かつての一橋派や反井伊派が勢力を盛り返したため、直弼の与党であった忠央も失脚。家督を嫡男の忠幹に譲って強制的に新宮へ隠居させられました。

残念。


桝形の虎口。


敵が来たらここでやっつけちゃおー。


わたくしはやぶ蚊にやっつけられちゃって、退散。


参考文献
新宮城現地説明板・「新宮再発見の旅」(西村忠之著。新宮再発見の旅研究所発行)


いつも応援いただきありがとうございます。水野さんちの新宮領。今で言うなら、ガスと電力を販売してたわけで。そりゃ儲かりますわねぇ。新宮城の訪問はまだ暑い9月でしたので、やぶ蚊攻撃が半端なく、ちょろっと見て退散しました。次は探検したいなー。
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