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丹鶴城の丹鶴姫。熊野別当物語。

こんにちは。


新宮城第2代城主・水野重良により1631(寛永8)年に寄進された阿須賀神社の手水鉢。

ということで。

熊野川河口に位置する新宮城。


城跡訪問の毎度の儀式。仁王立ち。

別名「丹鶴城(たんかくじょう)」

古くは丹鶴姫(たんかくひめ)の住まいがあったことから「丹鶴城」と。

丹鶴姫?

源為義(頼朝の祖父)が院の熊野御幸に警護のため同行したとき、新宮の熊野別当家の娘と仲良しになって出来た姫。

こらー。

同母弟に、源新宮行家(諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え平家打倒の決起を促した人)。


熊野別当?







熊野三山。各々が熊野三所権現を互いに祀りのんびり過ごしていたところ。


白河上皇の1090(寛治4)年の熊野御幸後、事態は一変。

白河上皇は、先達を務めた園城寺の僧侶・増誉を熊野三山検校に補任すると同時に、熊野別当を務めていた社僧の長快を法橋に叙任。

これにより、熊野三山の社僧達は中央の僧綱制に組み込まれたのです。


熊野三山検校は熊野に常駐せず都にあり、実務は熊野別当が取り仕切ります。


その熊野別当は世襲で、後に新宮に本拠を置く「新宮別当家」と本宮と田辺を拠点とする「田辺別当家」に分裂しつつ、交互に別当職を務めました。

源為義(頼朝の祖父)と新宮の熊野別当家の娘の間に生まれた丹鶴姫は、19代熊野別当行範(在任1年で死去)の妻となります。

二人は子だくさん。
男子は権別当や熊野別当等になり、娘の一人は湛増(21代熊野別当)の妻となるなど熊野地域において確固たる地位を築きました。

夫・行範の死後、丹鶴姫は「鳥居禅尼」と名乗り、源平の争いの中、終始源氏側として一族を采配します。


弁慶も新宮別当家一族の鈴木氏なりよー。


そして鳥居禅尼は治承・寿永の乱後、乱中の数々の功績によって、甥に当たる将軍源頼朝から紀伊国佐野庄および湯橋、但馬国多々良岐庄などの地頭に任命され、鎌倉幕府の御家人になったのです。(『吾妻鏡』)


新宮別当家は、こうした鳥居禅尼の働きにより鎌倉将軍家の一族として手厚く遇され、熊野三山内外にその勢力を伸ばしました。


一方、田辺の熊野別当家は、当初は院との関わりが深いことから以仁王の動向を平家にチクるなど、平家側についておりました。

平家と源氏のどちらにつくか内紛が起こったりしたあげく、鳥居禅尼の娘婿の湛増が源氏につくことを選択し、熊野水軍を率いて壇之浦の戦いに参加。

頼朝の上洛時に面会し、ようやく積年の罪を赦されます。
熊野別当、ほっと一息。


伊勢海老食べて一服。


次の修羅場は1221(承久3)年に起こった承久の乱。

別当家は鎌倉幕府派と上皇派と中立派に分裂します。

しかし結果は周知の如く幕府の一方的な勝利に終り、源氏方の新宮の別当家こそ被害は少なかったものの、熊野別当家は多くの荘園・所領・所職を失いました。

隆盛期には配下に置いていた熊野水軍に対する統制力もやがて失い、1308(徳治3)年、「西国および熊野浦々海賊」が蜂起。

太平洋航路の権益を巡り鎌倉幕府と7年近くにわたる争いを繰り広げてしまい、以降、もともと熊野水軍を構成していた熊野地方の武士勢力は、もはや熊野別当の統制に服することなく独自の行動をとりはじめます。


さらに、熊野制圧のために鎌倉幕府が派遣したとみられる小山氏・安宅氏などの武士団が土着化して勢力を拡大。

熊野別当の力は著しく衰退。

しかし、熊野三山の統轄体制だけは、南北朝時代中頃(14世紀中頃)に熊野別当の呼称が消えるまで細々と続きました。


ちなみに、那智山。
こちらは熊野別当家勢力が衰え始めた13世紀末期になると、那智執行、滝本執行、宿老、在庁との合議制によって一山運営を行うようになり、熊野三山の中で半ば独立した存在になっていったのでした。


熊の弁当じゃありません。熊野別当です。


すみません。私、源平時代が心底好きなんでちゅ。


いつも応援いただきありがとうございます。新宮に初めて泊まった夜。居心地のいいお店で「明日たんつるじょうに行くの!」と叫びました。「つねまるさん、明日どこ行くんやった?」「たんつるじょう!」「たんかくじょうやー!」って掛け合いが一夜限りの合言葉になりました。皆様、「たんかくじょう」ですのでお間違いなきよう。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

みけつかみへ怨敵退散祈願。三狐神と茶吉尼天、シュールな出会い

こんにちは。


ポケモンって番組を「黄色いぽってりしたリスがめっちゃかわいいよー」と教えてもらったのは遥か彼方昔。

ぴっかちゅーの事だったんですが。衝撃の生き物でした。



さて。新宮市の阿須賀神社。


本殿に向かって右隣に阿須賀稲荷神社。

お稲荷さん。

総本社は伏見稲荷大社ですが、全国に境内社を含めると30000以上もある稲荷神社。

主祭神は穀物・食物の神々。

宇迦之御魂神(うかのみたま)
豊宇気毘売命(とようけびめ)
保食神(うけもち)
大宣都比売神(おおげつひめ)
若宇迦売神(わかうかめ)
御饌津神(みけつ)


またの名を稲荷神という「御饌津(みけつ)神」について。

「御(み)=尊称」「饌(け)=食物」「津(つ)=の」神で、食物の神を意味します。


キツネの古語は「けつ」。


・・・すみません。

御饌津神(み・け・つ・かみ)→み・けつ・かみ→三狐神(みけつかみ)

と誤解されて、次第にキツネの神に変容し、稲荷神は狐を使いとするようになったとの説があります。


阿須賀神社摂社の阿須賀稲荷神社。

奈良県十津川村にある玉置神社の『玉置山権現縁起』の中に。


「三狐神は『天狐・地狐・人狐』であり、熊野新宮の飛鳥(=阿須賀)を本拠とし、その本地は極秘の口伝である」との記述があります。



また、天智十年「五月、飛鳥社に白狐が出現した」との記述も。
(『熊野年代記』江戸時代成立の熊野の古文書)


白い狐といえば、茶吉尼天(だきにてん)。

元はインドの女神ですが、虚空を飛び人間の心臓を食し血をすする、なかなかシュールな方で。

密教においては大黒天(大日如来)によって調伏され、死者の心臓であれば食べることを許可されます。
自由自在の通力を有し、六ヶ月前に人の死を知り、死ぬまではその人を加護し、死の直後に心臓をとってこれを食べるとか。ひい。

一方、キツネ。
古来よりキツネは、古墳や塚に巣穴を作り、時には屍体を食らうことが知られ、また人の死を予知したり人の精気を奪う動物と考えられていました。

このキツネと茶吉尼天。なんだか似た者同士。


平安時代以降の神仏習合により、狐を使いとする穀物神・稲荷神の本地(本体)は茶枳尼天だとされるようになりました。

茶吉尼天は白狐にまたがる女天形で「胎蔵曼荼羅」に描かれ、辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)、貴狐天皇(貴狐天王、きこてんのう)とも呼ばれます。


三狐神信仰は、御饌津神・稲荷神・辰狐王菩薩・茶枳尼天などの神仏が絡み合った「日本らしい」信仰のようです。


いつも応援いただきありがとうございます。お稲荷さんと本地仏の茶枳尼天。戦国時代に各地の武将が城鎮守稲荷として祀ったのは、商売繁昌の稲荷神ではなく、怨敵退散を祈願し戦に勝利するための荼枳尼天の方。不思議だったんですよねぇ。お城にお稲荷さんって。食糧難?って。
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阿須賀神社と大威徳明王。狛犬はネックレスでおめかし。

こんにちは。


熊野三山の神々が集った阿須賀神社。


どうせコンクリート製でしょ。

のんのん。

新宮城第2代城主・水野重良により1631(寛永8)年に寄進された、一枚岩を削って作成されたもの。

熊野速玉大社の境外摂社の阿須賀神社は、江戸時代も崇敬を受け、新宮城城主水野家から社領の寄進を受けています。


お待ちください。

阿須賀神社の主祭神「事解男之命」の本地仏は、大威徳明王。(神は仏の姿を借りて衆生を救う)


鬼を祈り伏せるために不動明王を呼び出す時の言葉。
「東方降三世、南方軍茶利夜叉、西方大威徳、北方金剛夜叉、中央不動明王」に出てくる大威徳明王。


阿須賀神社の神奈備山である蓬莱山から出土した「御正体(みしょうたい)」。

御正体の製作年代は様式から見て、平安時代4点、鎌倉時代119点、室町時代42点、不詳数点と分類されています。
御正体は、鏡像・懸仏の両方を含み、描画技法は墨彩、毛彫、線刻、針書、金銅鋳出など様々。

境内の新宮市立歴史民俗資料館には出土した御正体が多数展示されており、その大多数が大威徳明王でした。

(この新宮市立歴史民俗資料館が実は物凄く面白くて貴重な展示品を惜しげもなく展示されてまして。立ち寄りゃな損損!係のおじさまはとても博学で、お話がうまくて、新宮大好きっ子さん。そんなおじさまが大好き。えへー。)


大威徳明王は水牛にまたがる六面六臂六足という異様な姿。
「世に蔓延する一切の悪を降伏する仏」であり、平安末期頃からは戦勝祈願の本尊とされた仏様です。


乗せてあげてー。


ここにも徐福さんのお宮があります。

不老不死の薬を探してきまーすっと秦を旅立ち、「童男童女3000を率い五穀百工を携えて東海に船を浮かべ、常世の郷熊野邑即ち飛鳥に至る」(現地説明板より)


熊野市の波田須、新宮駅前、その他全国に徐福の史跡がありますが。

「童男童女3000を率い」って、なに。もわんもわんもわーん(妄想)。


「然して子孫此処に止まり繁昌せりと云伝ふ。即ち常世神の常在蓬莱神仙の郷、長寿息災豊穣の神々と今も崇めらる」(現地説明板)

でも、「童男童女3000を率い」でしょおー?


しっぽこうげきはお待ちください。

徐福、怪しい人です。
帰国したら我が身が危ないから、居着いただけじゃないのかなーって考えちゃうわ。

ねー?


何のぷれいですか。

・・・間違えました。さすが阿須賀神社の狛犬様です。しめ縄で自ら結界を張っておいでです。


へ。


まぶちいねぇ。


石にシミって何。


この子達は違いますが、砂岩が多い関西の狛犬くんは、傷みやすいのです。

おなかがすいてしっぽがもみじ饅頭に見えてきたので、ごはーん。
地元の魚屋さんで刺身を仕入れて。






この景色を眺めながら

海鮮どどん。

熊野の旅では、海鮮丼用の甘いおだしの醤油とわさびを常備しとります。うまー。


阿須賀神社摂社の阿須賀稲荷神社は、次回に続くのです。みけつかみ君の登場です。

いつも応援いただきありがとうございます。熊野三山と本地仏。熊野の旅に必要なのは、海鮮丼用のお醤油とわさび。それさえあれば時間を気にせず好きな場所で好きな時間に好きなだけかきこむことが出来ます。
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熊野三山の発祥地。太古より阿須賀に神はおわします。

こんにちは。

新宮市の阿須賀神社。

阿須賀神社は蓬莱山の南麓に鎮座。


蓬莱山は円錐形をした神奈備山。
ここでの神奈備とは、神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山の神域を指します。


阿須賀神社は熊野川河口にありまして。

阿須賀の「須賀」は、砂洲、砂丘、砂浜など、砂がたまるところを意味する古語の「すか」。
また、「あすか」は「浅洲処」とも書きます。


古来熊野川の河口は狭く、砂が堆積し船が座礁したり河口を塞いで支流が氾濫したり、災害が頻繁に起こりました。

その災害を防ぐため、地域住民が河口にある神奈備山である蓬莱山に水の神を祀り、河口を守護する航海・延命・生産・発育の霊力をもつとして崇敬されてきました。


境内からは弥生時代の住居跡や祭祀跡遺跡が発見され、蓬莱山からは大量の御正体(みしょうたい)が出土。


「御正体」とは、懸仏を指します。これは亀岡市の穴太寺のもの。
蓬莱山から出土したのは、主に青銅製。

これにより熊野最古の原始信仰形態を実証し、熊野権現発祥地として確認されたのです。



閑話休題。

熊野三山と阿須賀神社の関係について。


【祭神】
主祭神・事解男之命(ことさかのおのみこと)
家都御子大神・熊野速玉大神・熊野夫須美大神(熊野三所大神)

ここは、熊野速玉大社の境外摂社。


主祭神の事解男之命とは誰でしょう。


黄泉の国へイザナミを追いかけて行ったものの、その変貌っぷりに逃げ出したイザナギ。


「不負於族(うがらまけじ・お前には負けないもんっ)」と言い捨て、お別れを切り出し、ぺっ、します。


唾から、速玉男之男神、誕生。熊野三山の祭神の一人。
古代、唾を吐くのは、魔除・祓い・契約を意味する行為とか。


それを掃きはらって、事解主之男神、誕生。この子が阿須賀神社の主祭神。

こうして生まれた二人のぼっちゃんは、共に穢れ・汚れを祓い清める力を持ちました。


そんな事解主之男神を主祭神とする阿須賀神社は、本宮・新宮よりさらに古い歴史をもつ、熊野発祥の地であるといわれています。

なぜでしょう?

熊野大神(家都御子大神・熊野速玉大神・熊野夫須美大神)は初め神倉山のゴトビキ岩に降臨。

現在は神倉神社が鎮座。


次に三神は、阿須賀の森に遷ります。

やがて家津美御子は貴袮谷から熊野川上流の音無の里(本宮)へ。


熊野速玉大神・熊野夫須美大神はそのまま阿須賀の森に留まりますが、第12代景行天皇の御代に今の熊野速玉大社へ遷座していきました。

新しい宮なので、熊野速玉大社のことを「新宮」と呼び、新宮が鎮座する場所なので「新宮市」。


このように熊野三所大神が初めに降臨した神倉山から一旦阿須賀神社の地に遷り、その後各々が移動したので「本宮・新宮よりさらに古い歴史をもつ、熊野発祥の地」と言われているのです。


ちょっと待っててね。


めんどくさいお狛くんです。


いつも応援いただきありがとうございます。阿須賀神社に移動するまでは名なしの神様だった熊野三所大神が、初めて名を称した地としても阿須賀神社は重要なところです。地味ですが、実は弥生時代の遺跡が境内にあり、熊野の中でも特に古い土地なのです。
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鬼ヶ城は田村麻呂の鬼退治。鬼ヶ城本城は有馬氏内輪揉め

こんにちは。


熊野古道。波田須の道。

お伊勢さんから熊野へ向け、てくてく歩いて峠をいくつも越えて、

大泊の海に出て


更に松本峠越え。

この松本峠に連なる小高い山の先端には

国の名勝、鬼ヶ城。


「おしおきだべぇー」

・・・いいんだ。わかる人にわかれば…(T_T)ターイムボッカーン♪


むかぁし昔、ここには鬼と恐れられこの地を荒らし廻っていた海賊・多娥丸(たがまる)一党がおりました。


桓武天皇は、坂上田村麻呂に海賊・多娥丸の征伐を命じます。


坂上田村麻呂といえば、能楽「田村」の主人公。
鈴鹿の鬼の征伐にお出かけして、千手観音様の仏力の助けを借りた人。

さて。鬼ヶ城では如何にせん。

鬼(海賊・多娥丸)達は鬼ヶ城にて田村麻呂達を迎え撃つべく籠城。

すると、沖合の「魔見ヶ島(まみるがしま・地元ではマブリカ)」に童子が現れ舞い唄い出しました。

籠城していた鬼さん達が「なにかしら?」っと岩戸を開けた瞬間に、坂上田村麻呂が「神通の矢」を放ちます。


見事一矢で鬼を仕留めましたとさ。


くるっと回れる遊歩道なんですが、太平洋の荒波の力は物凄い。


石英粗面岩から構成されるこの岸壁は、数回に渡る急激な地盤の隆起により、段々になっています。


各段毎に波蝕洞窟があり、天井には蜂の巣状の風蝕痕。
床は板のように平らになっている反面、上端は鋭く尖っています


隆起しては波に侵食された跡ですねぇ。


蜂の巣状の風蝕痕。


くるっと。


落下してこないか、ちょっと怖い。


蜂の巣状の穴をじいーっと見てると、ぞわっとします。


色の違いが美味しそうです。


鬼ヶ城から見えるホテル。

部屋から見える景色が好物です。

名勝鬼ヶ城の上には鬼ヶ城本城。

室町時代(1523年頃)に熊野有馬氏の有馬忠親が甥の忠吉に家督を譲り隠居城として山頂に築城したお城。

熊野有馬氏とは

イザナミがカグツチを産んだ


産田神社の


神官の榎本氏が有馬一帯(産田神社や花の窟神社のある辺り)に勢力をはり有馬氏を名乗ったことに始まるといい、最盛期には御浜町から尾鷲までを治めていました。

その有馬忠親は、隠居後に実子が生まれたため、甥の忠吉を自刃させてしまいます。
怒った忠吉親族が忠親を鬼ヶ城本城に攻め、敗れた忠親は自刃。実子孫三郎が家督を継ぐも、有馬氏の勢力は大きく後退。
後に有馬氏は堀内氏によって滅ぼされます。堀内氏は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いまで当地を治めました。

鬼ヶ城は上も下も大忙し。

さて、熊野古道にお話は戻り。

峠を越えて


あとは七里御浜を進むだけ。




お天気がいいと眠くなるよねぇ。


意地っ張りめ。


いつも応援いただきありがとうございます。鬼ヶ城は、獅子岩とともに国の天然記念物ですが、いきなりこんなもんが現れたら、昔の人はさぞかし驚いたことでしょう。夏の鬼ヶ城はふなむっしーが運動会してます。ええ、そりゃもう、たくさん。
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安宅荘の獅子舞お稽古風景。ぶぅーんっと。

こんにちは。


日置川町志原海岸。

日置川町は1520年代に熊野水軍の安宅氏の本城があった場所。

安宅氏といえば、淡路島洲本市の洲本城。

うふん、のポン太。


秀吉の淡路島攻略の際、官兵衛の「安宅切 わきけおとし」により斬殺されてしまった安宅さん。

元々は熊野水軍。熊野灘に面する日置川を拠点に安宅氏は活躍します。
周辺には城跡が点在し、安宅氏一族の墓もあります。


道の駅志原海岸でランチしていたら、


秋祭りの獅子舞のお稽古に遭遇。


日置川町田野井地区「春日神社」の獅子舞。
春日神社は安宅荘内の安宅一族末裔の田野井地区の守り神として祀られています。


例祭では神前の神事に続き、区長、神官を先頭に日置川の河原まで渡禦。
道中は「伊勢音頭」が唄われます。


ご親切なお獅子です。やほー。

河原の拝礼所まで着くと、潮を頂く代わりに川の水を頂き、お祈りの後の獅子舞として、「幣之舞」「しれ」「剣」「かっぷり(乱獅子)」を奉納。


なだめるお兄さんが持ってるのが「幣の舞」の時に用いる鈴。

次に春日神社神前へ移動し、獅子舞の全曲を奉納。


お獅子さん、しっぽがあります。かわいい。


あらよっ。


お獅子の中身が時々入れ替わって舞い続けます。


おおお。


ありがとうございます。


獅子は天狗の残した剣で四方を祓い、激しく舞って一連の獅子舞をおさめます。


春日神社の例祭は、10月第2週日曜日。


いつも応援いただきありがとうございます。獅子舞を大きいお兄さんが小さいお兄さんへ手取り足取り教えていました。ほっこり。そして、やはり大きいお兄さんの獅子舞は、動きが大きく、きめるべきところできめる、さすがの舞い姿でした。すごいなあ。
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伊勢海老天丼どどん。台風直前の熊野や串本。南紀の旅。

こんにちは。


土日で熊野速玉大社のある新宮市や串本へ行ってきました。


熊野速玉大社の神宝特別展示が見たくて。
ええ、遅い夏休みを取ったんです。火曜日まで滞在の予定を半分にしたんです。きいー。


(9月23日)
三重県熊野市から新宮市の熊野古道。海の道。


(10月11日)
まだ沖縄の向こうにいる台風なんですが。


(9月23日)
いつもおやつをするお気に入りの砂浜なのに。


(10月11日)


近づけません。


(9月23日)お気に入りの景色。


(10月11日)荒波、線路。おっとびっくり。


移動して、紀伊大島へ。今回の旅のほんとの目標。


どーん!

うふふふ、和歌山南部も伊勢海老の産地♪
10月1日から解禁になったので、早く食べたかったの。むふ。


食堂に来る人ほぼこれを注文。


伊勢海老丸ごと一匹いただきっ。みそー。はにぃー。んめー。


お味噌汁にも半分の伊勢海老。


伊勢海老天丼で、一匹半の伊勢海老。満腹ぷくぷくです。

さぁて。「海金剛」で、ぽけーっとしようかな。


(9月23日)


(10月11日)あらまぁ。


しょぱー。


伊勢海老天丼でお腹いっぱいで体重増加中でも、強風で転がりそうです。


退避。


風向きの具合でしょうね。潮岬はまだ静かでした。


海はそうでもない。退避。


橋杭岩前のお宿に泊まって、一晩中どきどき。
ひょーって風の音が半端なく。
でも、本州最南端の串本のお宿の人は、こんなん序の口ですよー、っと。


朝起きたら、岩が波と戯れておりました。



串本から、時計回りに白浜方面へ走り、周参見(すさみ)で一息。



まだ沖縄の辺りなのに。今回の台風はすごいなー。


道の駅志原海岸。


海老ふりゃー、と呼んだことはありません。


間隔をおいて、こんなものすごい波が来ます。






二階レストランからの眺めでした。


お利口さんは海に来ません。
しかし、比較するものがないと大きさが伝わりませんねぇ。

あ。


みんなの注目の的でした。笑われてるんだよ…。

そして、紀伊田辺から一直線で大阪へ。くそぉ。


いつも応援いただきありがとうございます。大阪に到着した後、車の足元とエンジンルームを高圧洗浄、併せて点検。ボディーも洗ってもらいました。潮と砂でぺったぺた。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。夏休みを返上して明日は会社へ行きます。

岸壁の母は待つ。待ち続けた舞鶴引揚港。

こんにちは。


舞鶴港。大戦中は海軍の軍事拠点として重要な場所でした。
日露戦争時の艦船は全て舞鶴港から出港。

しかし、第二次大戦後の舞鶴港は全く違う役目を負います。



昭和20年(1945年) 第二次世界大戦が終結。

旧満州(現・中国東北)や朝鮮半島をはじめ南太平洋など多くの国や地域に約660万人もの日本人が残されたまま。



これらの方々を速やかに、しかも一斉に日本へ帰国させなければなりません。
「引き揚げ」事業の開始です。



昭和20年9月、舞鶴・浦賀・呉 など全国で10港が引揚港に指定され、帰国者の受け入れを開始しました。



舞鶴は主に旧満州や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れる港となります。



昭和20年(1945年)10月7日に最初の引揚船「雲仙丸」が入港。



その後順次他の港が指定港の役目を終える中、唯一、舞鶴港は最後まで引揚船の帰還を迎える役を担います。

最後の引揚船の入港は、昭和33年9月7日。「白山丸」。

13年間に渡り迎え入れた引揚者・復員兵の数は約66万人。



舞鶴市では引揚船が入港する度に、湾内の定期船を チャーターして、引揚船近くまで乗り入れ桟橋へ輸送(船が大きく着岸不可)。

引揚者の帰郷に際しては、沿道歓送、湯茶、ふかし芋の接待を行い、市民こぞって、引き揚げてきた人々を勇気づけました。


お若い方はこの歌をご存じでしょうか。

「母は来ました。今日も来た。この岸壁に今日も来た」

遥か彼方のシベリアから、息子は必ず帰ってくると待ち続けたお母さん。実在の人物をモデルとしたこの歌。

引揚船が入港する度に遠い自宅からはるばる通い続けた。
一緒に待っていた人々の姿がなくなっても、一人待ち続けた。


「届かぬ願いと知りながら」


「もしやもしやに もしやもしやに 引かされて」

息子の死亡通知書を受け取っても、「必ず帰ってくる」と亡くなるまで信じ続けたお母さん。


ナホトカは遠い。ナホトカは、あっち。


ううう…。



この記憶を残し伝えるため、舞鶴引揚記念館が作られました。

パネル展示だけではなく、シベリア抑留時の記録(全て没収されたが奇跡的に残った)、実際に使っていた道具、薄っぺらい防寒具等の品々が豊富に展示されています。


敷地内には各部隊や遺族会の記念植樹が多数あります。

最後に、引揚記念館の碑文を。

(クリックで別窓拡大します)

いつも応援いただきありがとうございます。帰省の度に自宅で私を待っていた母の姿が脳裏に浮かび、柄にもなくメソメソ君になってしまった舞鶴港の景色でした。皆様、お母さんを大切にねー。あ、お父さんもね。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

最後にひとこと。ソ連嫌い。もうないけど。

ぷりっちり狛犬在住の大丹生。舞鶴の夜はフェリーと乾杯。

こんにちは。


丹後半島の浦嶋神社からちょいと走り


伊根に到着。


船屋て何かといいますと、


1階がお船のガレージで、2階がお住まいの、この伊根独特のおうち。


船屋を一般公開しているお宅や、カフェもあります。
狭い集落なので、車は指定の駐車場に置いて、てくてくと見学しましょう。

さあて。
丹後半島付け根の宮津の天橋立は駐車場の客引きが激しいので国道を勢いよくぶっちぎり。


西舞鶴の田辺城も通りすぎ


すんませんすんません。


まったり過ごす東舞鶴の夜。見たかった景色です。


新日本海フェリー。小樽と舞鶴を往復してます。

着岸時間わずか2時間あまりで、膨大な荷物(トレーラーの荷台だけ積載)の上げ下ろしと客室の清掃をします。

きっとあの中は戦場でありましょう。


小樽に着くのは、明日の夜。ああ、乗ってしまいたい。

そんな事をぶつくさ言いつつ、酒をかっくらって就寝。

朝。


舞鶴は海軍の街。海上自衛隊の街。
対岸に見えるのは、舞鶴湾を挟み陸続きの大浦半島。


やどかりかりかりの車止め。


船の中にプラネタリウムがあります。こんなすっとぼけた施設があるのは。


関西電力舞鶴火力発電所があるからで。


関電からの贈り物達(怒)。

さて、ここから少し海沿いに移動すると。


そう。山王やし、です。か?


石製両部鳥居、といいます。山王やし・・・?


「山王宮」かな、ねえねえ。


神社本庁への届け出名は山王宮ではなく「大丹生神社」。
この辺りの地名は、大丹生。

【祭神】大山咋命(日吉大神)
【由緒・創建】不明
江戸時代までは山王権現と呼ばれていましたが、明治時代以降、何時の頃か現社名に改称されたようです。


境内社:大川神社、八坂神社、稲荷神社、塩竃神社、招魂社、乙女神社、淡海神社


このかわいい建物の中に本殿。


くぅー。かわいいっ。


ちょっと愛でさせて。


ぷりてぃーなおちり、で、ぷりちー。


なんとツボを心得た後ろ足の内股っぷりでしょう。鼻血が洪水です。


他の人に頼んで下さい。


いじけた姿で言わないで。鼻血が。


海でボール遊び、いいねいいね。


目の前は海ですものー!


あれ?男の子だ。


ごめんごめん。

お姉さん、ちょいとやってみたいことがあります。せーの。





すっきり。今でも踊れるピンクレディー世代。


御協力ありがとうございました。



いつも応援いただきありがとうございます。舞鶴は、田辺城や寺社が建ち並ぶ細川幽斉様の西舞鶴と、赤レンガの建物が並ぶ海軍の街の東舞鶴に分かれています。ぷりっけつの狛犬に鼻血が止まりません。体の模様の細工が細かく愛情がいっぱい込められた二人です。あー、ほっこり。
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工兵第四連隊もいた高槻城跡。狛犬まとめて何匹?野見神社。

こんにちは。


高槻城と言えば、高山右近ですが。

右近が治めるずーーっと前から、高槻城界隈は京都と難波を結ぶ重要拠点。

高槻城の歴史は古く。

990(正暦元)年、近藤忠範が平地にあった小さな丘・久米路山を根拠地としたのが始まりと伝えられます。

ふ、ふふふふ、古いです。

古けりゃいろいろあるわけで。

久米路山(粂治山)付近の瀧ヶ淵の主、大蛇。(背景は高槻城土塁)

大昔の干ばつの際にご神託により久米路山に涌き出る清水を使ったら田畑が実ったので、大蛇を龍神として祀り社殿を建てました。


右近父子による寺社破壊から時を経て、元和年間に高槻藩主となった松平紀伊守家信が堀の中に社祠を建てて奉祀。

堀の中って、あなた。
水に纏わる神様は、水の中に?それとも空堀だったのかしら?


1908(明治41)年、社領を陸軍に寄進し野見神社境内へ遷座。


野見神社境内の小島神社。

【祭神】市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)・大己貴命(オホナムチノミコト)・磐長姫命(イワナガヒメノミコト)・天児屋根命(アメノコヤネノミコト)の四柱


大正3年、真上村山辻の春日神社を合祀。


例祭は10月2週目の日曜日に執り行われ式典終了後湯神楽を奉納。

さて、高槻城下。

永井の殿様がやってきて平穏な200年が流れておりましたが、明治維新。


明治元年の神仏分離令で、元々の祭神「牛頭天王」を「須佐之男命」と名を変え、更に野見宿禰命を合祀し「野見神社」と改称。

これで激動の時は終わったのかしら。

いやいや、平和になる前に、もうひと波乱。


1874(明治7)年、高槻城は取り壊され、工兵第四連隊の駐屯地となります。
工兵第四連隊(淀4079部隊・中部第29部隊)は、1888(明治21)年6月、工兵第四大隊として創設されました。


1909(明治42)年3月22日から兵営(兵隊さんの宿舎)と練兵場が置かれ、地域の防災に貢献すると共に、西南戦争、支那事変、大東亜戦争に従軍します。


高槻天主堂教会跡地(発掘結果を知っている今から思えばキリスト教墓地)に、憲兵分隊が置かれました。


おや?まだ、境内にはちびっこがいました。


高槻恵比寿神社。

初代高槻市長故磯村弥右ヱ門等が高槻市発展に必須な街の賑わい創造の為、えべっさんの総本社・西宮神社(十日戎の福男選びのかけっこで有名)から分神してもらい、高槻戎神社として鎮座。昭和31年創建。


こちらのえびす祭は、十日戎(1月10日)。
高槻市は企業が多く、えびす祭の当日の境内では福笹の授与を始め、甘酒無料配布や福引きなどで大にぎわい。


ほーれほれ。


ちびっこはおちりもかわいい。


兄ちゃん、しっかりしてあげてー!


お社は一番新しいのに、狛犬わんこは一番古参な気がします。


そういう意味じゃなくて、やねぇ。


車の点検帰りに立ち寄った高槻市の野見神社。
ぱっぱらぱっぱーなご報告は以上です。

クイズです。


狛犬わんわんは、いったい何匹いたでしょう?うふふふふ。


さて。高槻市の高槻城ちょろちょろ見学の最後に。


営門跡の「工兵第四連隊の碑」の碑文を添えます。



「門出せる昔を偲びここに立つ 永久の平和をともに祈らん」


いつも応援いただきありがとうございます。城跡には、勝者の証のつもりか役場と兵隊さんの駐屯地等が鎮座されますこと多く。その是非の問いはどーでもよろし。だって私に出来るのは、再び血が流れるようなことがないようにお祈りすることだけ。碑文の言葉の重さを背負いつつ高槻を後にしたのでした。
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