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テンキテンキ祭の竹野神社。丹後の名神大社。狛犬前で落涙。

こんにちは。


間人(たいざ)の海。厩戸皇子の母・間人(はしひと)皇后が疎開してきたところ。


厩戸皇子異母弟の麻呂子(まろこ)が鬼を退治し、封じ込めた岩。
この麻呂子は斎宮神社に祀られています。


供をしてきた東漢直駒(やまとのあたえこま)の子孫が東姓を名乗り、竹野川を中心に交通運輸を司るようになり建立した水無月神社。

近隣の斎宮神社の宮司さんが7月28日の祭事を司っています。

今日はそんな斎宮神社へ。



海の近くからまっすぐにのびる参道。二の鳥居。


三の鳥居。
丹後三宮・名神大社「竹野(たかの)神社」と摂社「斎宮神社」。


どきどきします。


わんこ動物園。


大型犬は穏やかです。


悲しげな理由は、阿の狛犬くんのお顔が欠損してしまってること。


本人は気にしない。


さっきから吠えてたのはこちら。


わんこの「遊ぼ♪」のおねだりは、最強ですよねー。


とってこい遊びは、エンドレス。


あられもない姿。


わくわくしながら待っていそう。


こちらも阿くんのお顔が欠損してました。かわいそうに。


京都府指定文化財の中門。この形を「向唐門」といいます。


扁額には「斎宮神社」の文字でした。不思議。
まーるい天井にわくわくします。




倉庫かしら?


のぞいちゃった。

竹野神社の祭礼の郷土芸能「テンキテンキ祭」は、子供6人で行われる素朴なものですが、風流囃子物の古い形を伝えるものとして京都府登録文化財になってます。

海辺にある「道の駅てんきてんき丹後」は、ここから名付けられました。



閑話休題。

室町時代などのお祭り囃子の音調や詞章、踊りの形は、狂言の様々な曲の中に残されています。

お祭でお神輿を「ちょうさちょうさ」と担ぐかけ声等は、狂言「千鳥」の中で面白く謡われます。

「ちょうさやちょうさ。ちょうさやちょうさ!」と囃されれば、
「えいともなー、えいともな。えいともえいともえいともなー!」と答えます。



さあて、お参りしましょ。っと、続きます。すみません。


いつも応援いただきありがとうございます。わんこ動物園に心踊ったのですが、2対共に阿くんのお顔が欠損。初めは何か背景があるのかと思っていたところ、お尻を立てた狛犬くんのお顔がお腹の下に置いてあるのに気づき。これはイタズラかと悲しくなった次第。
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王者の棺。丹後半島は交易でがっぽり。まいどおおきに。

こんにちは。


間人の「後の浜」。

ここから陸側へ車で1分。


土地付建売住宅はいかが?


環境もよろしゅうございます。

丹後半島は「丹後王国の存在」を称する説があるほど弥生時代中・後期から古墳時代の古墳群があり、奈良市の古墳と同一の企画で築造された古墳の存在(網野銚子山古墳と佐紀陵山古墳)からは丹後半島とヤマト政権と密接な関係があったと推察されています。

古事記・日本書紀は古代天皇家と丹後との婚姻関係を記述しています。


山と海に挟まれせまい耕地しか確保出来ない丹後半島では、古墳を造るほどの財力を農耕に求めることは出来ず、国内外との交易で豪族達は富を得たのです。



「京丹後市立丹後古代の里資料館」屋外展示。

大阪市内は掘ればお茶碗が出てきます(大阪城内に当たるので)が、丹後半島は掘れば石棺が出てきそうな勢いです。


きれいな形です。


石棺かどうかは不明。


間人の「馬場の内古墳」出土の長持形石棺の蓋石。

長持形石棺は用いられる人間が限られているので、「王者の棺」と称されています。

材質は凝灰岩。隅が丸いので「隅丸長方形」。
突起は欠損部含め6個。

周辺からは鉄斧・鉄鋤先・管玉・革金具片、各々1個等が出土。


昭和44年、工事中に偶然発見された蓋石。
偶然だったもので、周囲の土は削平されており、古墳自体の形や規模は不明。惜しい。


蓋石。棺部分はありませんでした。

日本海交易も、古墳時代中期になると瀬戸内海航路が確立され、衰退。
丹後半島はヤマト政権の勢力下に組み込まれていくのでした。


他に面白いものがありました。

整理が追い付かないのかしら。


さりげなく展示されてます。


おおらかなところがとてもお好みでございます。うふふ。


京丹後市立丹後古代の里資料館
住所 京都府京丹後市丹後町宮108



いつも応援いただきありがとうございます。奈良に行けば「緑の木立は全て古墳」ってぐらい山ほどある古墳も、海の近くで見るととても新鮮。交易って儲かるんだなー。すごいなー。
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厩戸皇子母の疎開の地。丹後の間人で日本海ざぼん。

こんにちは。今日はどこでせう?


えへへへ。


日本海は、波までもが紺色です。腹の底に響く波の音。


ここは、丹後半島の西北にある「間人」の、後が浜。

間人は、たいざ、と読みます。


るるるん♪

間人と書いて、はしひと、と読むひと、だーれだ。

はい。用明天皇の后で、厩戸皇子のおかーさんの、穴穂部間人皇后です。

物部(日本古来の神派)と蘇我(仏教推進派)が互いに争った時、間人皇后がここに疎開してきました。


皇后の御領だった関係で、斑鳩の宮からはるばる疎開。


争いが終結し斑鳩へ帰るときに、とてもお世話になったから私の名前を地名にしてもよくってよ、と言います。

おそれ多いっす。

そこで、地元の人々は、間人皇后がこの地を去る→退座する→たいざ、と呼ぶようになりました。

さて。

間人皇后の疎開には、東漢直駒(やまとのあたえこま)、穂見中江磨(ほみのなかえまろ)等7名が供人として同行。

うち、東漢直駒(やまとのあたえこま)の子孫が東姓を名乗り、竹野川を中心に交通運輸を司るようになります。
(供人で来たのに、何してたのかねぇ、直駒くんは)


そして、水無月神社を建立。

現在は、近隣の斎宮神社の宮司さんが7月28日の祭事を司っているとのこと。


近づけば、柱状節理の巨大な岩です。

厩戸皇子の異母弟・麻呂子(まろこ)が、悪い鬼を退治しこの立岩に封じ込めたなんて伝説があります。


これでも京都府ですよー。


いつも応援いただきありがとうございます。間人といえば、間人ガニ。松葉ガニの中で、丹後町間人漁港で水揚げそれるカニを特にこう呼びます。捕れる量がとても少なく「幻のカニ」と言われ最高級品だとか。食べたい。でも、高い。カニカマでいいや。
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九鬼水軍の故郷九木神社。隠れ住んだ尾鷲市九鬼町。

こんにちは。

熊野市に行く前にこちらに行きました。

三重県尾鷲市。

尾鷲市市街地から八鬼山トンネルを通ってようやくたどり着くのは

尾鷲市九鬼町。



1367年頃、伊勢国佐倉に居住していた九鬼中将藤原隆信は、家臣の平賀蔵人の謀逆により仁木義長に破れて従者悉く離散。


同年、この地にたどり着き直ちに城を築きます。
よって、この地を九鬼と呼ぶようになったといいます。


九木神社創祀は隆信の嫡子隆治の時。

宮内少輔九鬼隆治は永和年中(1375~1378)(南朝)、駒之原における戦の時、四方を敵に囲まれ「こりゃーもう自害しかなかとー!」という窮地に陥ります。


このとき北野天満天神に祈り、その加護を得て窮地を脱しました。


よって、宮内少輔九鬼隆治は九鬼城内の祠に天満天神を祀ります。
これを社伝では創祀であるとしています。


1662(寛文2)年に現在の鎮座地に遷座。


遷座の際に、この地の産土神として祀られていた若宮八幡・国柄明神を共に1社に祀られたと伝えられています。


古くから「天神」と称し近郷の人々の崇敬を集めてきた九木神社。
先代までは九鬼氏子孫さんが宮司でした。


しかし、九鬼氏が当地に居城したのは数年の間。

文和年中(1352~1356)(北朝)に隆良は「武名を天下に上げん!」と、壮士30余人を率いて海を渡り、志摩国英虞郡波切村に着き、そこで居を構えます。(「九鬼家々譜略」)

数年間でも、くっきーさんがいた土地、九鬼の町。そう思うと・・・

なのです。


三方を山に囲まれ、深い湾を有するこの土地に九鬼さんは敗走してたどり着いたなんて。ろまーん。


笑いがとまらん。


なのよ。


祭神は、菅原道真。天神さんなので、


もーもーさんがいます。


一人笑いを見られたらしい。


微妙に賢い牛だ。ち。


明治6年(1873)村社に列せられ、同39年(1906)神饌幣帛料供進社となっています。


ツボった。


かわいい。


ここは漁港の町。


神社の裏山に回ると、景色がいいと案内がありましたの。


なんだこりゃ。


おおー?








直径1mの砲弾じゃないよ。そんなもんどうやって飛ばすんだー。
ハロが化石になっちゃったんだよー。


さらに歩きまして。




外海から九鬼湾内に入る出入口になるようです。


背後は山々峰々。


灯台に遭遇。どうやら岬の先端に来たようで。


岬神社。そのまんまやん。


ここが終点。さ、戻りましょ。


九鬼さんも、きっと見たね。楽しいな。


いつも応援いただきありがとうございます。九鬼氏といえば信長につき、水軍を率いて勇猛に戦った志摩の九鬼の印象が強いのですが。かつては敗走してこの場所にひっそりと隠れ住んだのですねぇ。
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徐福の墓ふたつ。異国の獅子はかしましい。波田須と新宮。

こんにちは。

今月に入って、ドライブ距離が1610kmです。へへへ。

さて。

波田須の道。るんたった。

波田須は「秦住(はたす)」と、かつて称しておりました。

秦の始皇帝から不老不死のお薬をとってこーい!された徐福。
数十隻の船団を組み出航すると、徐福だけがこの地に流れ着きました。


蓬来山の徐福の宮。

当時ここには3軒の民家があり、与八・文吉・三郎兵衛が徐福のお世話をし、やがて帰還を諦め永住を決意した徐福は、窯を設けて焼物を住民に教えます。

窯所からは、陶器の破片が出てきました。写真の徐福の宮の向かって左斜面辺りです。

んじゃ、下りてみよっかなー。

集落の中はもっと大変。


冷や汗びっちょり。


この周囲から秦の時代の「半両銭」が発掘されているそうで。


稲荷神社と合祀される徐福の祠(向かって左)。
神宝は、20cmほどの摺鉢。


徐福の求めた不老不死のお薬。この辺りに自生する天台烏薬という植物かもよー?です。


はるばる来たのにねぇ。

徐福の墓はもうひとつ、新宮市にもあります。


和歌山県新宮市・徐福公園。


派手。


うわー。


わー。


喋るスピードは異国の方でどうぞ。


あ。


げー。




異国情緒。


初代紀州藩主、徳川頼宣が命じて作られたという徐福の墓。

新宮市にもまた、徐福が流れ着き、様々な技術を伝えたとのお話あります。

徐福。

故郷の秦へ帰りたかったのか、政変や始皇帝の心変わりを思い彼のの元へは帰れなかったのか。


まるっこい子にほっこりしたい気分。

やはり日本の神社の狛犬わんこに会いたいな。


だれー!?



いつも応援いただきありがとうございます。波田須の徐福の宮へは、決してでかい車で行かれませんように。狭い集落の道なのでそりゃもう、泣きそうでした。いや、泣きました。
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波田須の道は鎌倉石畳だす。伊勢路最古だす。熊野古道伊勢路。

こんにちは。

熊野古道を歩いてみたいけど、熊野は遠くて時間がないわ、というあなたにええとこご紹介。


三重県尾鷲市。


近海も遠洋もどんとこい。

熊野古道伊勢路は、三重県東紀州地域では数々の峠越えがあります。
その中のひとつ。

波田須の道を歩いてきました。てくてくてく。

「波田須」は、「はだす」と読むだす。
もとは「秦住」と書いて、はだす、と読んだだす。


秦の始皇帝から不老長生きのお薬をとってこーい!と言われた徐福が流れ着き、ここで生涯を終えたと言われています。

徐福と波田須のお話は次回。へへ。今日は熊野古道伊勢路をご紹介。

熊野古道というと、和歌山県田辺市から熊野本宮大社へ向かう中辺路が有名で各種ツアーが組まれ、最盛期なんて、そらもう、なんてこったい!ってな混雑。

が、今のところ伊勢神宮から熊野へ向かう伊勢路は踏み荒らされる事も少なく、古の姿を垣間見ることができます。


わかりやすいのは、国道311沿いに標識のある場所が駐車場(4台分くらいかしら)。ここからとりつくルート。


お向かいに徐福茶屋さんがあります。


坂を登ってすぐに波田須神社。
白トビしてるのではなく、純白の鳥居さんなの。


こんにちは。ご機嫌よろしゅう。


ノンストップで行こう。


そんでもゴミひとつないから、地元の方々に大事にされてる風情。


あうち。


頑張っていこー。蚊取りグッズは必携。集団で襲撃するヤブ蚊います。


尾鷲に代表されるように、伊勢路は多雨地域。
土の道ではぐずぐずやし、流失してしまうので石畳が多いのが熊野古道伊勢路の特徴。


屋久島みたいにシダだらけです。


各所に案内があるので、ご参考に。


山側の石積も、よいぞよいぞ。


お地蔵さん、昨今はシビアです。


なんだろうねぇ。


あれれ?

ここまで十数分。さ、戻ろうかなー。


熊野古道伊勢路の中でも最古という波田須の石畳。


えへへへ。

って、撫でたら変な人でしょ。頼朝は石を並べてないでしょ。


どっこいしょー。


足をのせることができて、安全です。


上皇や公家の熊野詣が下火になり、「蟻の熊野詣」と言われるほど庶民の間で盛んになったのは江戸時代。


あっちこっち見ながら歩いていたので、時々、あひょーっと踊ってしまいました。


ちらりずむです。


石積まで味わえて、幸せ。


あっという間。

どうでしょ。楽チンでしょ?


熊野古道伊勢路は、国道311号を渡って、徐福の宮のある波田須の集落に向かいます。


そして、大泊に出て。


松本峠を越えます。
この間、国道311号を車で走れば、松本峠まで約5km。

松本峠を越えればそこは。

七里御浜。いえーい。


獅子岩。がおーん。


伊勢神宮から数々の峠を越えてきた熊野古道伊勢路は、花の窟神社辺りで分岐します。

熊野速玉大社を目指し七里御浜を歩く浜街道。
熊野本宮大社を目指し山へ入る本宮道。

いずれもまだまだ熊野詣の旅は続きますが、数々の峠を越えてきた人々の目には七里御浜はどれほど眩しく映ったことでしょう。



いつも応援いただきありがとうございます。熊野古道中辺路沿いにある数々の王子は伊勢路にはありませんが、竹林の中を通ったり美しい石畳があったり海が見えたり、様々な景色を楽しむことが出来ます。でも私のモットーは、つまみ食いです。ぱくん。
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夏休みで南国です。

こんにちは。


南国に来ました。いえーい。


二度目の夏休みです。ばかんすぅー♪

ここはどこでしょう?


まいどおなじみ。

いつも応援いただきありがとうございます。ええなも、は、清洲酒造さんの。祖母が使っていた名古屋弁です。あのなも、とか。名前につられてゲットだぜ。昨夜はサーバーエラーで更新できんどころか書いた記事が天国へ。くすん。
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大斎原。水霊の斎く霊地なのに踏んだり蹴ったり。

こんにちは。


熊野本宮大社の主祭神の家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)は家都御子大神(けつみこのおおかみ)とも言います。

「キツ」から「木の神」で「木の国」、即ち紀の国の語源となったとか。
家都美御子大神は植林を推奨し造船技術を教え、外国との交易を開き人々を幸せにし、生命の育成を司った神。



この熊野本宮大社は、何度も何度も大きな災害に見舞われ、特に文明年間(室町時代)と永禄年間(戦国時代)には大火災が発生。社殿・宝蔵・文庫等多数を焼失。

特に明治22年の大水害では本殿はなんとか残ったものの、遷座を余儀なくされました。


かつて熊野本宮大社が鎮座していた場所は熊野川の中州。



今は遷座して高台に鎮座。

よって、かつて熊野本宮大社があった場所は「大斎原(おおゆのはら)」と称し神聖な場所とされています。

最初から高台に造ったらいいのにねー。

そうはいかん。


紀伊半島を縦断する果無山脈は熊野連山の三千六百峰を形成し、この間(奈良、三重、和歌山の三県)を縫うが如く流れる熊野川は太平洋に流出する 熊野の大動脈です。

神名から紐解く由緒よりはるか昔々のお話。

この熊野川の中枢に古代より熊野坐神(くまのにいますかみ・熊野にいらっしゃる神)が鎮座。

熊野坐神がいるところ。それが熊野坐神社。熊野本宮大社の元祖(?)。

第十代崇神天皇六十五年に社殿が創建されたと(皇年代略記)(神社縁起)に記載されています。

だから、熊野川から離れて高台に造ることなんて全く考えてなかったのでしょうね。


普段の私はよよいのよい。


洪水対策のため高くされています。


おせっかい。


基壇の上がかつて本殿が存在していた場所です。


ぽつん。


警備のおっちゃん?


ええ、さようでございます。


中四(第五殿~第八殿)社、下四社(第九殿~第十二殿)が明治22年の大洪水で流出したため、この二基の石祠に祀られています。


上四社は高台にお引っ越ししたからって、いや、そんな。




なんだったのかな。


お弁当広げてはいけません。飲食厳禁です。


遊んじゃだめでしょ。


えええー!?


この鳥居はここから見たのでした。


神聖な場所、大斎原でした。

まわりにはこんな所もあります。



熊野古道について要領よく展示されてておすすめです。
関連書籍も揃ってますし、観光案内もしてくれます。


せきにんじゅうだい。


ごはんにしよう、そうしよう。


来てね!

いつも応援いただきありがとうございます。現在の本殿も素晴らしいのですが、古来から社の鎮座していた大斎原は熊野らしさを感じることができてとても好きです。川原でのんびりするのがおすすめです。
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熊野本宮大社でキャシャーンに出会った。しゃきーん。

こんにちは。

熊野三山のひとつ、熊野本宮大社。

現在の社殿は明治の大水害で流失した後に、高台に移されたもの。
古来は、こんな場所に。


熊野川の中ほどに古代より熊野巫大神の鎮座する「熊野坐神社」と号していました。


カラスさん。




この階段の途中まで、3年前の台風12号の大水害で浸水。


鳩胸、くるっぽー。


そうだねえ。手足固定の上、石だもんねえ。





「熊野権現」については、こちら→→→熊野権現信仰と熊野三山。源のゴトビキ岩ってなんだ?






拝殿と神門が横並び。


綾部市に移された九鬼さんのご子孫ね。


姉さん、事件です。キャシャーンがおすわりしています。




角はいりません。お首に鈴ぶら下げて、かわいー。


キャシャーンがさらに武装したー。


古くて悪かったわね。


参道を真っ直ぐ進むと神門なので、左横にある拝殿になかなか気づきません。

神門へ戻って、参拝します。神門より内側は撮影禁止。


中はこのように社殿が並びます。

参拝順路は次の通り。
① 第三殿 家津御子大神(主祭神)
② 第二殿 速玉大神
③ 第一殿 夫須美大神
④ 第四殿 天照大神
⑤ 満山社 結ひの神・八百萬の神


結宮。
第一殿(西御前)・熊野牟須美大神(夫須美大神)、事解之男神
第二殿(中御前)・速玉大神


本宮。
第三殿(證証殿)・主祭神の家津御子大神


若宮。
第四殿(若宮)・天照大神

まあ、参拝順序をすっかーっと忘れて、左から順番にお参りしてしまいましたけど。えへー。息をしたら、全て忘れるお馬鹿さんです。


いつも応援いただきありがとうございます。早朝の熊野本宮大社。社殿は新しいけれど、空気が清々しい熊野本宮大社でした。神職の皆様が忙しく働く中をちょろちょろと。お邪魔だったろうな。ごめんなさーい。
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熊野三山牛王神符。誓約破れば血を吐き地獄へ。

こんにちは。

豊臣秀吉臨終間際に、徳川家康等五大老・五奉行に秀頼への忠誠を誓わせた起請文を書かせた紙はなんでしょう?

A4コピー用紙でも、お習字の紙でもござらん。

じゃん。



これが、熊野牛王符または宝印神符といい、俗に「オカラスさん」とも呼ばれるカラス文字で書かれた熊野三山独特の御神符です。

「牛王」の名称は、牛の肝から得られる牛黄(牛玉)という霊薬を密教で加持祈祷に用い、これを印色として神符に用いたので、牛王宝印と称するようになりました。

起源は明らかではありませんが、熊野本宮の主祭神である家津美御子(ケツミミコ)大神(スサノオ)と天照皇大神との高天原における誓約、あるいは、神武天皇東征の際の熊野烏の故事に由縁するとも。


熊野牛王神符の裏面を料紙として用いたときは、誓約の内容を書き記し、それを熊野権現に対して誓うのです。

鎌倉時代には「誓約書」となり、やがて「起請文」、江戸時代には「起誓文」の代わりとして用いられました。

熊野権現への誓約を破ると、熊野大神のお使いのカラスが1羽亡くなり、

本人は、血を吐き、地獄におちると古くから信じられてきたのです。


熊野牛王符は熊野信仰の人々をあらゆる災厄から護ってくれるもの。

・カマドの上(ガスの元栓)の上に祀れば火難を免れる
・門口に祀れば盗難を防ぐ
・懐中して飛行機、船にのれば、乗り物酔いと災難を免れる
・病人の床にしけば、病気平癒となる
・病気にはカラスを切り抜いて浮かべた水を飲むと効あり

ありがたや。

熊野三山の参拝後、熊野牛王神符と梛(なぎ)の葉を受けとる習わしがあり(梛は、熊野のご神木)、家々の神棚や入口等に奉斎したのです。


熊野の修験者及び熊野比丘尼によっても全国に配付されました。

今も和紙に木版と墨で一枚ずつ手刷りです。
熊野牛王符(牛王宝印、烏牛王)の刷り初めが正月に行われます。

【熊野速玉大社】



「熊野寶(宝)璽(印)」カラス文字48羽。


【熊野本宮大社】



「熊野寶(宝)璽(印)」カラス文字88羽。

古く天武朝白鳳11年(約1300年前)はじめて熊野僧徒牛王宝印奉ると記されているのが初見。


【熊野那智大社】



「那智瀧寶(宝)璽(印)」カラス文字72羽。

1月1日には午前3時に那智の滝の奥の「秘所の水」を若水として汲み、1月2日にその水で烏牛王神璽摺初め式を行います。



大事にしなくちゃいけません。


参考文献
熊野速玉大社・熊野本宮大社・熊野那智大社牛王神符説明書



いつも応援いただきありがとうございます。博物館で起請文等を見ると、おお、熊野三山のかね?っとわくわくします。さあ、カラスの数を数えてみましょう。れっつとらい。
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つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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