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黒田神社。配祀神黒田大連は官兵衛先祖。黒田古墳もあるってさ。

こんにちは。

あちーですね。今朝は6時に起きたとき、既に31度。
シャーシャーシャー!って蝉の声で起こされました。

さて、木之本町黒田です。

木之本から余呉湖に向かう365号線の途中で軍師官兵衛のノボリがはたはたしてたので、Uターンしたら、こんなおいしい神社を発見。


ほほう。黒田神社とな。


あー?足りないのは、足の長さじゃなくて、身長なの。間違えないで。


1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った記念行事の流れで造ったのかな。


そりゃもちろん、ちび鳥居は這いつくばって行くしかなかろ?


遠近感がおかしくなってます。


ご心配なく。大丈夫でございます。


子供が張り付いてるのかと思ったんですが、見つからなかった。
不思議、発見。


拝殿でしょうねえ。


【黒田神社】由緒

主祭神 大己貴命(おおむなちのみこと)☆大黒様です。詳細は略。
配祀神 黒田大連


〈境内案内石板より〉

「当社は欽明天皇の540年の創始と伝えられる。

和銅年間(710年)黒田大連、この地に繁栄し、郷名を黒田郷と称し、その一族の奉祀に係り、森崎黒田大明神とあがめ、 黒田五郷の総社で延喜の制定されるや国幣の小社に列せられた名社である。」


石板によれば、祭神の黒田大連とは、和銅年間に当地を開拓した神。

当社の背後にある森崎山には、黒田古墳(円墳6基)があります。
古代に繁栄していた一族の祖神を祀ったものだとか。つまり、黒田さんち。古いなー。


式内社・黒田神社に比定されている神社です。


〈境内案内石板より〉

「当社は住昔しばしば兵火に羅り

1・承久の乱(1221年) 社殿焼失


2・元亀の頃(1560年)兵乱のため焼失

3・天正11年(1576年)賊ケ岳の戦火で余燼は神殿・社宝をも鳥有に帰した。



以降は再建の事ならず、隣郷の 大澤神社に合祀奉斎されてきたが、明治9年、氏子の永年の念願稔り元の社地に再建遷座された」



さて、ご本殿にお参りしましょ。


すみません。


だってこんな道端にいきなり「黒田官兵衛!」のノボリがあったら、びっくりするでしょ。説明書もじっくり見るでしょ。


ちび狛犬さんだけ、あいさつしてくれました。


かわいい狛犬。耳がたまりません。


はいはい、こんにちは。


お耳まで垂らしていじけんでも・・・。



〈境内案内石板より〉
「かつて近江源氏と称した佐々木源三秀義公の後胤、黒田左衛門尉大夫伴官源宗清公、当地を領し、姓を地名よりとつて黒田氏と称し七世に及ぶ間、当神社を氏神として崇敬篤く献進が寄せられた」


☆昨日のおさらい☆
「筑前・福岡52万石・黒田藩の祖先は、佐々木源氏(近江源氏)の流れをくむ黒田判官・源宗清(別名・宗満)であり、近江国伊香郡黒田村に住み、湖北の荘園の領主として、黒田判官と称した。」


「黒田判官・宗清(1278ー1357)より数えて6代目・高政の時代、1511年の山城船岡山の戦いの後、備前邑久郡福岡村に移り住むまでの約200年間、黒田氏は黒田村に居を構えていた。」


記事はこちら→→→
黒田氏発祥地?黒田観音寺。行基と最澄と鶏足寺と戸岩寺と。



ふむ。お宝、満載だったのねー。

なのに、ファイヤー!の連続。お気の毒な神社さんです。


こんな謎のものもあります。



例大祭 4月17日
特殊祭儀おこない 2月17日、6組の塔主によって厳修。
☆オコナイについては、高月観音の里資料館が詳しいです。


だよぉー!


いつも応援いただきありがとうございます。
ここは通りすがりに発見。いえーい。現地に行かなくちゃわからんことっていっぱいですね。蜂とかカナブンとか蜘蛛の巣に耐えつつ、でへへ顔で 探検 お参りしました。たーのしーいなー。例え諸説あろうとも現地では見事に起承転結してるものです。

歴史ろまーんを廻る旅は「とにかく現場に行け」ですぜ、旦那。


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ありがとうございます。ちゅ。って、ちび狛犬が。

黒田氏発祥地?黒田観音寺。行基と最澄と鶏足寺と戸岩寺と。

こんばんは。22時でもまだ30度越えの大阪でふ。あああ、暑いいー。

さて、木之本地蔵院界隈から線路を挟んで北西部。
地名は「黒田」。



【黒田家の由来・近江国伊香郡黒田村(木之本町)説】(「黒田廟所説明板・木之本町教育委員会」より)

本日の前提です。

「筑前・福岡52万石・黒田藩の祖先は、佐々木源氏(近江源氏)の流れをくむ黒田判官・源宗清(別名・宗満)であり、近江国伊香郡黒田村に住み、湖北の荘園の領主として、黒田判官と称した。」


訪問は弥生中旬。あまりに寒いので…f(^_^;

「黒田判官・宗清(1278ー1357)より数えて6代目・高政の時代、1511年の山城船岡山の戦いの後、備前邑久郡福岡村に移り住むまでの約200年間、黒田氏は黒田村に居を構えていた。」


静かなところです。

「この構え屋敷から西へ1km離れた余呉川対岸の山麓、小字名を穂先谷(今の保崎谷)の観音寺に、かつて穂先長者とも伝えられている源宗清公が寄進したといわれる鎧の草摺があった。」


はい、ここが黒田観音寺です。


念じても開きません。事前に予約しましょう。
持ち回り当番制で、こちらを案内してくださいます。ここも、地元の方々が守ってきた大切な仏像を安置するお寺。

中はおばあちゃんちの仏間のような感じです。ご本尊様はとても素晴らしい仏像です。撮影禁止です。それでいいのです。来てね。



ご本尊は、国指定重要文化財の「伝・千手観音菩薩像」by行基。



【行基と最澄と湖北】

行基(668-749)は、全国行脚の途中で湖北に立ち寄り、お寺を建てて神社を作って。

寺社荒廃したら。

行基ラブの最澄さんが荒廃した行基発の寺社を復興。


そのお寺が湖北「世代山戸岩寺」と「己高山鶏足寺」。

時代の栄枯盛衰によりピンチだった湖北の寺宝。
その保存のための文化財収蔵庫が各々の山号に因み「世代閣」「己高閣」と名付けられ、素晴らしい仏像を安置されています。


〈世代閣・己高閣 遠景〉


〈共通事項〉
行基(668-749)が開いた。奈良に都がある頃。
しばらくして、荒れた。
最澄(767-822)が再興。湖北仏教文化圏を形成するまでに発展。

政状の変化や兵火、時代の変遷による地域経済力の低下により衰退。
地区村人が必死に寺宝を守る。與志漏神社境内に収蔵庫を建造。
経営・管理は地区の住民が担う。



〈世代閣~世代山戸岩寺〉
行基が全国行脚中に、ここ「世代明神」の社頭でうとうとしてると一人のじい様が夢に現れ「ここは薬師如来の縁の地。仏像を作り寺を開け。それから、西方に霊地があるぞ。開山せよ」と。

行基、目覚めて西方の栗谷山五ツ岩に光を見て、寺を建て薬師如来像を彫り「世代山戸岩寺」と名付けた。更に、神託のままに「己高山」「神使熊山」を開く。

荒廃…。

最澄、登場。再興する。
「世代明神」の社頭に薬師如来像も住民も移住。
※世代(よしろ)明神、與志漏(よしろ)神社はこの地の鎮守。

弘法大師、魚籃観世音・大日如来を祀る
恵心僧都、阿弥陀如来を祀る。

衰退→村人の浄財により完成した収蔵庫世代閣に安置。
石器時代以降の文化財、本尊薬師如来像、仏像・仏画を多数収蔵する


〈己高閣~己高山鶏足寺〉
行基、近江の国の鬼門にあたる己高山に十一面観音を祀り「東光山常楽寺」を草創。

荒廃…。

最澄、登場。行基ラブの彼がその跡を追って己高山高尾の草庵に来た。
裏山に瑞光を見て、不思議な鳥の声に魅せられ険しい山を登り、「薄雪に残る鳥の足跡」に導かれて進むと…荒廃地のなかに未だ鮮やかな十一面観音像を発見。

一人のじい様が現れ、
「この嶺は神明守護の高山也。而るに魔火再三に渡り仏閣野火に灰燼と帰す。汝速やかに再興し衆生を利益すべし。我は白山の翁なり」
と告げ、姿を消した。

最澄、再興する。天台宗。桓武天皇から寺領を与えられ国家鎮護の御祈祷所となる。
室町時代には僧坊120超の盛大な湖北仏教文化圏の中核として隆盛。
石道寺・法華寺・飯福寺等を別院にもつ格調高い寺として、浅井三代・豊臣・徳川の保護を受けた。

衰退→次第に都に吸収。現在は真言宗豊山派奈良長谷寺に属す。
2棟ほど残っていたが昭和8年冬の火災で、すべての堂が焼失。
寺宝、本尊十一面観音像、七面薬師他の重要な仏像は滋賀県下初の国庫補助による文化財収蔵庫に収蔵される。

紅葉が鶏の足みたいに赤いから、鶏足寺、ではござらぬ。


ここは、紅葉の名所なので秋にご紹介したいと思います。




さて、話を黒田観音寺に戻して。

全国行脚の途中で湖北に立ち寄った行基。皆に仏の教えを広めるために自ら「千手観音菩薩」を刻みお堂を建立したというここ。

ここもまた、戦禍・火災により荒廃しましたが、臨済宗の僧が見事なこの仏像を発見。えらいこっちゃー!っと、寺の修復のための浄財を集めた時、「保崎谷(or穂先)長者」と呼ばれた豪族が多額の浄財を寄進。


はーい。それこそ、緑文字の下線部、源宗清、その人です。


後の黒田家の先祖とされる黒田判官源宗清。寺院境内の2基の石塔はその墓だと言われています。


雪がすべるのね。昔は茅葺き屋根だったのかなあ。
葺き替えるのに、一棟1000万円もかかるんです、無理です、ってよその神社で聞いたことあります。

本当に維持管理だけでもとても大変。ぜひ現地でご本尊様を拝見してご協力しましょー。


だね。いいとこだね。


ご近所の迷惑にならないように、気をつけましょう。
ここまでの道も狭いです。


☆黒田観音寺☆
場所・長浜市木之本町黒田1811
連絡先・木之本町観光協会(0749-82-5909)、要予約。


☆緯度・経度は概略です。事前にご確認下さい。


参考文献
黒田観音寺 現地説明書
鶏足寺・戸岩寺 現地説明書・「世代閣・己高閣」パンフレット


いつも応援いただきありがとうございます。すみません、詰め込みました。
夢の中に、一人のじい様が現れたら、なんぞおねだりされますからご注意ください。只今23時過ぎましたが、まだ30度あります。死ぬぅー!

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ありがとうございます。ちゅ。

木之本地蔵院。賤ヶ岳の戦いと千代のへそくり牛馬市と北国街道。

こんにちは。

南端までたどり着いたので淡路島はおしまい。
久しぶりに、また琵琶湖物語です。


滋賀県長浜市木之本町。合併前は、滋賀県伊香郡木之本町でした。


あひゃひゃひゃひゃ。官兵衛、頑張ってますなー。


違うと思うよ。

木ノ本駅構内には、地元のお野菜とか、お菓子とか名産品が充実した売店があります。
官兵衛ふぇあーで、所縁の地のパンフレット等がいっぱい。

観光案内所は駅の隣に。

「黒田官兵衛博覧会 大河ドラマ館」も木之本です。賤ヶ岳のジオラマもあり、結構な人気の施設です。駅から徒歩圏内です。

駅前の観光者用駐車場に車を置いててくてくてくてくてく。


すみません。これ、3月中旬に行った時の画像です。寒いのなんの。


そうです!雪の掃除機です!・・・って、こらー。除雪車だよー。


がおがおがおー。

生まれて初めて見たので、こーふんしちゃった…。


木之本といえば、まずこちら。木之本地蔵院さんです。


けろけろけろ。


ここは目の病にご利益のあるお寺なので、来たかったんです。
気を付けてはいても、近視は進むし、もうすぐ〇眼になるかもしれんし。


ちゃんとお参りします。

こちらには、「身代わり蛙」という、皆の健康とお地蔵様のご加護をお祈りするため片目をつむることで自ら願掛けをしてくれている、あるいは、目を悪くした旅人にお地蔵様の命令により自分の目を差し出してくれた、ありがたぁい蛙さんがいるのです。

んで、さっきのけろけろがいた、と。


天武天皇の時代に、難波津に漂着した金光を放つお地蔵様がご本尊。秘仏。

お目にかかれないご本尊の代わりに、明治27年に実物の3倍の大きさの大地蔵像が開眼されました。

建立には、滋賀・愛知・岐阜・福井等から集めた銅鏡を溶かして作られ…ました。ありがたいけど、なんてこった。

「第二次世界大戦中、当時の住職や東條英機の妻である東条勝子などの援助により、供出命令を免れた。」とのこと。(Wikipedia「木之本地蔵院」)


さてこの木之本地蔵院。賤ヶ岳からもほど近く。

賤ヶ岳の合戦の際には、豊臣秀吉の本陣が一時おかれました。

この合戦の時、秀吉は大垣から木之本間(約52km)を約5時間で駆けつけました。「大垣大返し」です。
山崎の合戦の際の「中国大返し」といい、これといい、秀吉の軍勢は大変。
 

お猿が焼いたんではないですが、戦火により焼失。

1601年、豊臣秀頼の命令を受け、片桐且元が再建。
1739年、寺は再び焼失し、1764年に僧仁山の勧進により再建。現在に至ります。



お邪魔しました、あひゃひゃーん。


せっかくなので、木之本地蔵院界隈を少しぶらぶらします。

杉玉はお酒のお店のマーク。らぶ。「北国街道」「七本槍」等、お土産に最適。

・・・うんうん、道標の前でありがとうね。

北国街道の木之本宿には本陣、問屋、伝馬所などが設けられました。



「元 庄屋 上阪五郎右衛門家」

北木之本村の庄屋さんち。1847年築。2階を低くした典型的な役人家屋。人馬駄賃帳等の古文書が多く保存されています。駕籠が常備されていました。



琵琶湖の東側は、東西が混ざっていて好きです。


さーて、木之本といえば、これですよね。

木之本牛馬市跡です。

室町時代から昭和の初期まで毎年2回、街道の民家を宿として牛馬市が開かれました。


「馬宿 平四郎」
千代ちゃんのへそくりで山内一豊が名馬を手に入れたのは、木之本の牛馬市でした。

江戸時代には藩の保護を受け、地元近江をはじめ、但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭などから数百頭以上も牛馬が集まり盛況を極めました。


面白いなー。手数料で儲ける仕組みが、がっちりです。




木之本はぶらぶら散歩にちょうどいいところです。


参考文献
木之本地蔵院ホームページ・各所現地説明板・Wikipedia


いつも応援いただきありがとうございます。木之本は長浜城界隈とは全く空気が違い、ぴっきーんっと凍る北国でした。鼻水が垂れてても気がつかないような冷たさで・・・って、この猛暑日の最中に私は何を言ってるんでしょう。
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おまけ

待機中の狛犬ぷち。

鳴門の渦潮と生しらす。うまー。

こんにちは。
さて淡路島。南端にはもちろん。


鳴門海峡大橋ですよねー。


道の駅うずしおの、ごはん。白い海鮮丼。生しらす、来ましたー。


お刺身を別に食べてもよし、のっけて海鮮丼にしてもよし。


甘いお出汁が出るのよねぇー。いっただきまーす!


通れませんよ。いや、そもそも電車、ないですよ。








道の駅うずしおから、橋の下に下りることができます。


難しいねえ。


困りましたねえ。


ちょうどいいところに漁船と人を発見しました。
いかがでしょう。


海が川です。


うずしおを見るには潮見表で調べて来ましょう。
大潮なら、干潮満潮の前後一時間、見ることができます。



いつも応援いただきありがとうございます。近くに来ると巨大な橋。夏はふなふなふなむっしーがいるので、足元を見ずに上を向きましょうね。
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信長の「敦盛」。幸若舞と能。軍師官兵衛第28話本能寺の変

こんにちは。
「軍師官兵衛」第28話『本能寺の変』

おおおー!謡わず舞わず、語ってくれました信長様!ぐっじょぶ!

はい、あれは皆様ご存じ、幸若舞「敦盛」の詞章です。

『思へばこの世は常の住み家にあらず
 草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
 金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
 南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
 人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
 一度生をうけ、滅せぬもののあるべきか

 これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ』


【敦盛って?】
平清盛の弟、経盛の子。兄に琵琶の名手、経正。
敦盛は笛の名手。祖父平忠盛が鳥羽院より賜った笛『小枝(or青葉)』を譲り受け、一ノ谷合戦場まで持参して毎夜笛の音で皆を慰めました。


そして、熊谷次郎直実により一ノ谷で討死。まだ16才でした。



【幸若舞「敦盛」】
わずか16才で討死した敦盛が「人間五十年」と謡うわけはなく。
これは、敦盛を討った熊谷次郎直実の言葉なのです。

幸若舞「敦盛」はほとんど熊谷直実の視点から描かれています。
一度は敦盛を助けようとした直実も、味方の手前、無残にも若き首を落とさなければならず、世の無常を感じ、その後は出家して敦盛の菩提を弔います。

そんな熊谷直実が言った言葉が冒頭の詞章です。


「人間五十年 下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり
 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか」


「人の世の50年の歳月は、下天(仏世界のひとつ化楽天)の一日。下天に比べると、夢幻のようにあまりにも儚いものだ。一度生を授かっても、この短い命、誰もがやがては消滅してしまうものだ」

若き命を奪ったその償い、いずれは自分も滅びてゆく人生のはかない摂理、そんな思いを含んだ一節。

信長とはまったく異なった見解ですねー。


ちょっとここで、幸若舞のご紹介を。


【幸若舞】
幸若舞の演じ方は能とはまったく異なり、大夫、シテ、ワキの三人の立ち方が一列に並び、後ろに鼓が一人のみ。
舞は歩き回る程度で、たまに足拍子を踏むだけ。
立ち方3人もきっちり役分担するのではなく、適当に詞章を分担。
装束は3人とも上下直垂に烏帽子を付け、帯刀。

語って聞かせることに重点が置かれて、舞はごく形式的なもので、この簡潔さが戦国武将に人気を得た要因かもしれません。

幸若舞は戦国武将に大変好まれ、彼らのたしなみであったといわれています。
いざ出陣する時に幸若舞を舞い軍の気勢を昂揚させたそうです。

徳川家康も幸若舞を能と同じく幕府の式楽として取り入れ、年賀拝賀の順位は能楽者よりも上席だったようです。

残念ながら、諸々の事情が重なり衰退。今では唯一九州の福岡県・大江に地元に人たちによって伝承されています。



【能楽「敦盛」】
信長の「人間五十年」が「敦盛」だよー、とかじって能「敦盛」を見ると、五十年どころか十代半ばで一ノ谷合戦においてご他界。
わっくわくしてたのに、えええー!?っと泣くのは、誰もが通る悲劇。

シテ・・(前)草刈男 (後)平敦盛
ワキ・・蓮生法師(出家した熊谷次郎直実)

源平の合戦で平敦盛を討ち取った後、世の無常を感じ、出家して蓮生法師となっていた熊谷次郎直実が、敦盛を弔うため合戦が行われた須磨の一の谷に赴くと、風雅な笛を吹く草刈男(実は敦盛の霊)が現れます。その夜弔いを行うと、蓮生の夢に平敦盛の霊が現れます。


敦盛は負けた側の武将ですから、こちらの負修羅扇を用います。


後シテの敦盛の霊が物語る合戦の有り様も見所ですが、「敦盛」の切なさは平家の盛衰を謡う詞章。

「クセ」という箇所。

「然るに平家。世を取って二十余年。
 まことに一昔の。過ぐるは夢の中なれや。」



「籠鳥の雲を恋ひ。帰雁列を乱るなる。
 空定めなき旅衣。日も重なりて年月の。
 立ち帰る春の頃この一ノ谷に籠りてしばしはここに須磨の浦。」



「シテ『後ろの山風吹き落ちて』

 野も冴え返る海際に。船の夜となく昼となき。
 千鳥の声も我が袖も。波に萎るる磯枕。
 海士の苫屋に共寝して。須磨人にのみ磯馴松の。
 立つるや夕煙 柴と云ふもの折り敷きて。」



「思ひを須磨の山里の。かかる所に住まひして。
 須磨人になり果つる一門の果てぞ悲しき。」


やがて合戦が始まり一門の武将が相次いで討死する中、敦盛は、沖へ逃げる平家一門の船に乗り遅れ、馬で追いかけます。


一ノ谷合戦の有り様を敦盛は舞います。「キリ」の部分です。

シテ『せん方波に駒を控へ。呆れ果てたる。有様なり。』




「シテ『かかりける處に。』
 後ろより。熊谷の次郎直実。のがさじと。追っかけたり敦盛も。
 馬引き返し。波の打物抜いて。
 二打三打(ふたうちみうち)は打つぞと見えしが馬の上にて。
 引っ組んで。波打ち際に。落ち重なって。」



「終いに(ついに)。討たれて失せし身の。
 因果は廻り逢ひたり敵はこれぞと討たんとするに。」



「仇をば恩にて。法事の念仏して弔はるれば。
 終には共に。生まるべき同じ蓮(はちす)の蓮生法師。
 敵にてはなかりけり跡弔ひて。賜び給へ跡弔ひて賜び給へ。」
 
仇の熊谷次郎直実を討とうと迫りますが、あ、そうだ、今は僕の為に念仏を唱えてくれてるんだった…と気づき、跡を弔って下さいなと言い残して姿を消します。

おしまい。

参考文献
謡詞章「観世流独吟集『敦盛クセ』『敦盛キリ』」檜書店刊
幸若舞詞章「wikipedia『幸若舞』」

いつも応援ありがとうございます。
長々と読んでいただきありがとうございました。ふぅー。疲れたのでお風呂入って寝ます。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

異常巻きアンモナイトは淡路島で。ぐるんぐるんです。

こんにちは。
あちーですねぇ。皆様、お元気ですか?
大阪は、最低気温が下がらないので、暑さが身に染みます。

さて、淡路島。慶野松原から海沿いに南下して。ちょっとローカル色豊かな道を走ります。普通車なら大丈夫。

淡路島の北端から鳴門海峡大橋に行くには、西海岸線コースが交通量も少なくて、早いです。(高速除外)


「緑の道しるべ 阿那賀公園」で、休憩しましょ。


こらー。


鳴門海峡大橋を遠くに見ることができます。
東屋もあるので、お茶タイムの絶好の場所。

景色はいいし、人は少ないしー

こげなもの?これは、知る人ぞ知る、アンモナイトですよ。


淡路島南部の南あわじ市周辺には、和泉層群という中生代後期の白亜紀(1億3500万年~6500万年前)の最後期に当たる地層が分布。



和泉層群は中央構造線の北側に沿って、西は愛媛県松山市から東は大阪府和泉市、岸和田市まで約300キロメートルにも及ぶ地層群です。

この地層にはアンモナイトやウニの化石や生物の生痕化石(サンドパイプなど)が多く産出することで有名で、昔から多くの研究がされています。


淡路島では、特に世界中にここにしか存在しない珍しいアンモナイトも見つかっています。


【アンモナイト】

標準的な姿はこれですね。
殻は、同一平面に螺旋に巻いた渦巻状。断面にすると殻の中は、隔壁により区切られて個室になってます。これを、気房といい、空気を入れて浮きの役目をしたと考えられています。

かたつむりと違うんですねぇー。


体は軟体のため化石に残りにくく、未だ研究中です。


中生代も後期の白亜紀に入ると、「異常巻き」と呼ばれる奇妙な形の種が数多く見られるようになってきます。


これが、淡路島で数多く採集されるアンモナイトの「異常巻き」。
カタツムリの巻き巻きが立体的になり、さらに最後の巻きが、S字形になってます。


ここで採集できるのが、ディディモセラス・アワジエンゼ。

ディディモセラス・アワジエンゼと、プラビトセラス・プラビエンゼが、淡路島異常巻きアンモナイトの二大巨頭。

この異常巻きアンモナイトの化石を求めて化石採集の方々が多く訪れるここ。知る人ぞ知る場所なのです。

通称「ディディモ海岸」♪♪



聞くな。

このマニアックな異常巻きアンモナイトを、公園のモニュメントにしたお役場の人はすごいなー。

アンモナイトの画像はこちら。ディディモセラス・アワジエンゼが、ここらで採集された異常巻きアンモナイトです→→→→→
国立科学博物館「川下コレクションの世界」


でしょうねー。


道路工事の際には多数出土しましたが、現在では採集し尽くされ、また護岸工事などで露頭が少なくなり採集はかなり困難になってきています。


だね。



☆大体の場所なので、緯度経度は事前に地図でご確認くださいませ。


参考文献
阿那賀公園現地看板
国立科学博物館HP「川下コレクションの世界」


いつも応援いただきありがとうございます。異常巻きアンモナイトの実物は、淡路島でなら、洲本市立淡路文化資料館で見ることができます。面白いですよー。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

慶野松原で戯れる淡路島の初夏。万葉集に詠まれた白砂青松。

こんにちは。

淡路島の西海岸線を南へずーっと走ります。

慶野松原にたどり着きます。


約5万本の淡路黒松が生い茂り、白い砂浜が約2.5kmにのびる瀬戸内海でも随一の白砂青松の松原。

枝が低い位置から横に広がる特有の老木「磯馴松(そなれまつ)」は全体の2%ほどですが、ぜひ探してみましょう。

お散歩道が整備されてて、地域のボランティアさんのおかげで、ゴミひとつありません。



江戸時代には井原西鶴が『慶野松原は数万本の木振り、ことごとく異風にして、これ近くにあらば公家の昼寝所なるべきものを』と記しています。 



松原は延々と続きます。


慶野松原の美しさは古くから都人にも知られていました。

『飼飯(けひ)の海の 庭好くあらし 刈薦の 乱れ出づ見ゆ 海人の釣舟』柿本人麻呂(万葉集・巻3-256)

人麻呂の羈旅(たび)の歌8首(巻3 249~256)中 最後の1首。飼飯の海はこの慶野松原付近の海。

沖辺から次々に押し寄せる白波に海人の乗る釣舟が乱れるように動いてる。それはまるで妻の姿を思い出し心乱している人麻呂自身の心のようだ、と。





青い空青い海。


こんなきれいな海を見て、何の不満がありますか。


はい?


砂浜から、自分の背と同じ長さの枝をえっほえっほと運んで海をかき回しただけでしょ。


そうだねぇ。




いつも応援いただきありがとうございます。「日本の渚百選」「日本の水浴場88選」「日本の夕陽百選」に選ばれていて、夏場はそれはそれは海水浴客で大にぎわい。恋人さんたちの名前やプロポーズの言葉を刻んだハートの瓦が並ぶ「プロポーズ街道」も、瓦(かわら)ぬ愛を誓う鬼愛神社(おにあい、神社、ね)もあります。私には鬼門じゃ。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

藻塩焼く人淡路島の人

こんにちは。


もこもこ君も今頃は大人になってますかねぇ。


明石海峡大橋です。


久々の淡路島のご紹介です。もちろん…


画面いっぱいの生しらす丼。夏限定。うまーうまー。


この生しらす丼は、道の駅あわじ。


さて。淡路島を反時計回りに回ります。

松帆の浦から対岸を見れば、明石海峡を走る様々な船に出会えます。

『名寸隅(なきすみ)の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海人をとめ ありとは聞けど 見に行かむ

 縁(よし)の無ければ ますらをの 情(こころ)は無しに 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて 徘徊(たもとほ)り 吾はぞ恋ふる 船楫を無み』笠金村(巻6-935)


この長歌は726年、聖武天皇の印南野行幸の折に供していた笠金村が現在の明石市から松帆の浦付近を遠望して詠んだもの。

万葉集で「塩焼く」という歌はいくつかありますが、「藻塩焼く」と詠われているのは淡路島の一例だけ。


『来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に やくやもしおの 身もこがれつつ』藤原定家

『百人一首』で有名なこの歌。現在製塩は行われていませんが、とかく都の人は汐汲み、焼き塩、製塩の姿にえらく情緒を感じたようですね。


製塩が行われていた遺跡が西岸に残ります。それは、ここ。「貴船神社遺跡」。


貴船神社は海を見下ろす小さな丘陵に建ちます。
海と丘陵の間に南北に細長く広がった砂堆の上に立地している遺跡。



現地看板の写真。
発掘調査は、平成7年7月から12月まで行われ、その結果、古墳時代中期から奈良時代(5世紀から8世紀)にかけての製塩遺構が発見され、兵庫県下では初めての本格的な製塩遺跡となりました。


【お塩の作り方】
まず海水を煮詰めて濃縮。それを土器に入れ、炉の上に並べて煮詰め、水分を蒸発させて、残った塩だけをとり出します。この時にに使う土器を「製塩土器」と呼びます。


石敷炉(いしじきろ)の多くは径60cm㎝から120cmの規模で、形は円形や楕円形等いろいろ。炉は、確実なもので22基発掘。

石を敷けば地べたで焼くより、熱効率よく焼けます。
四角い器より丸い器の方が火に接する面が多く、これまた熱効率よく。


使われている石材にはチャート、花崗岩,砂岩など。花崗岩や砂岩は焼けると割れやすいので、元の形を残していないものも。

製塩土器は、塩水を煮詰め塩を取り出した後、廃棄されるため、炉の周辺では多量に出土します。

見つかった製塩土器は、弥生時代の終わり頃から奈良時代までのもの。特に古墳時代後期の製塩土器は、層になった状態で出土し、土器捨て場そのものだったので、恐らく、この地で塩づくりは、この時期が最も盛んであったと思われると。


発掘されたたこ壺。


同じく発掘された新羅陶器。あひゃひゃひゃー。


製塩作業の想像家族。おかーちゃん、頑張る。

他に竪穴住居跡2棟と墓が見つかっています。住居跡は、1辺4m前後の方形。北側に竈(かまど)を設け、砂地のため床面には粘土敷き。



こんな日常だったのかな。

それから、墓は、石を組み合わせた箱式石棺ですが、地滑りの影響で壊れています。幅40cm・長さ170cm以上の大きさ。
箱式石棺の内側が焼けていて、その原因・主旨は不明。副葬品は未使用の製塩土器だけで、他のものよりは丁寧に作られていたそうです。(以上説明は現地看板による)

さて。帰る前にご挨拶していきましょ。

復元家族が楽しかったです。


龍かと思ったらタツノオトシゴでしたか。


お参りして、ちょっと泣く。残念。



在庫全部持っといでー!!


いつも応援いただきありがとうございます。古代の淡路国は、『延喜式』や平城宮出土の木簡から、税として塩を納める国だったことが知られています。海岸部では、製塩土器を出土する遺跡が点々と見つかっていましたが、これまで炉跡を伴った製塩跡はなく、淡路での塩づくりの様子が具体的に明らかになった遺跡として貴重です。

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徳川幕府がなんぼのもんじゃー!向日神社。

こんにちは。



向日神社本殿×1.5=明治神宮本殿

向日神社。続きです。


祭神四柱のうちの火雷大神と玉依姫命ご夫妻について。

玉依姫命は、京都の下鴨神社のご祭神。
二神の子が上賀茂神社の祭神・賀茂別雷(わけいかづち)大神。能「賀茂」にも描かれてます。それはまた別の機会に…。

さぁて。

賀茂社の神紋は、二葉葵です。葵祭でも知られてます。



向日神社の神紋はこちら。

賽銭箱。

徳川家を彷彿とさせる三つ葉葵。向日神社によると、これは徳川家とは関係がなく、もともとの神門は二葉葵(双葉葵)だったものが、いつしか三つ葉葵となったとのこと。

当然、徳川幕府の時代になれば幕府からは家紋を改める指示も出たものの、向日神社の方が古いものだったため、改めることはなかったそうです。


そうだそうだー!
徳川幕府に逆らったのは大したものだー!

洛西では松尾大社も同様に賀茂社とのつながりがあるとされ、賀茂の神を共通項とする古来の氏族の繋がりを表しているのかもしれません。

つまり、火雷神をお祀りしていた賀茂(カモ)族が、この地(井ノ内)から上賀茂に移り住んだものではないか、というお話。

まあ、家紋と同様に神紋も自己申告ですから、紋よりも祭神から考えるのが自然でしょう。


さて反骨精神を見せてくれた素敵な向日神社。本殿がこれまた素敵。


どんっ。


おひげくねくね。


ぎゃおー。私の愛するぱおんが、おかしな人になってますー!
本殿手前側、向かって右の、ぱおん。


あうう…(T_T)
本殿手前側、向かって左側の、ぱおん。


うえーん(T_T) なんやこの人たちー!
本殿奥側、向かって右の、ぱおん。


ヒネ肉たぁ、私のことかい!?丸々は、否定しませんできません。
本殿奥側、向かって左の、ぱおん。

各々のお口の開き具合とお顔とお手手をご堪能ください。


さてさて。肝心のお二方。うふふ。

おはよございます!


いやいや、そんなご謙遜を…。


くせ毛に見えたのは、ひげ?もみ上げ?キダタロー先生?

こちらの狛犬様方のお生まれは…

酸いも甘いも…。


五社神社。祭神は、
大己貴神-おおなむちのかみ
武雷神-たけいかづちのかみ
別雷神-わけいかづちかみ(火雷神と玉依姫の子)
磐裂神-いわさくのかみ
事代主神-ことしろぬしのかみ


この下を通って…。


春日社。祭神は、
武甕槌神-たけみかづちのかみ
齋主神-いわひぬしかみ
天津兒屋根尊-あまつこやねのみこと
姫大神-ひめのおほかみ




変な人と思われてもいい。好きなものは好きなのだ。


背中で語る向日神社。

神社の立つ向日山は「勝山」とも呼ばれています。

豊臣秀吉が朝鮮出兵のため前線基地の肥前名護屋城へと向かう際、向日神社で休憩をしました。秀吉が社人に社殿のある山の名前を尋ねたところ、「勝山」と返し、秀吉は出兵の門出にふさわしいと喜んだということです。


あれ?ゴマすった?こらこらこらー。


向日神社の創祀以来、神官は六人部(むとべ)氏。
幕末の国学者六人部是香(むとべ よしか)はここの神官。

718年の創祀は六人部(むとべ)氏が当地を賜ったことに発する向日神社。今も六人部氏が神官としてお勤めされています。



物集女村(長岡京市)の勝地・櫻井にあった役小角の祠を、1777年に物集女村有志によりここ「勝山」に遷座した「勝山神変大菩薩」。


境内の北には元稲荷古墳という乙訓最古の古墳があります。
全長94mの前方後方墳。

卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳と同時代の古墳で、以後造られる乙訓の古墳の多くは、この前方後方墳を基準にして造られ、乙訓で一番大きな恵解山古墳も真南にあります。

向日神社の創建も元稲荷古墳と何らかのかかわりがあると考えられ、向日神社の氏子圏は向日市だけでなく、長岡京市や西京区の一部を含んでいます。



長く続く向日神社。維持していくだけでも大変なこと。



ちょびっとだけ、お賽銭を多めにしてみました。えへへ。


いつも応援いただきありがとうございます。向日神社の境内はこの辺りにお住まいの方々の憩いの場所であり、大切に守ってきた場所です。ちびちゃんも、ちゃんと頭を下げて通ります。見学者は失礼のないように配慮しなくちゃです。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

光秀の首塚。亀岡の谷性寺で桔梗と半夏生。

こんにちは。今日は季節ものなので、急ぎ挿入です。

雑節のひとつ、半夏生(はんげしょう)、ご存じですか?
夏至から数えて11日目頃。今年は7月2日でした。


ドクダミ科ハンゲショウ属ハンゲショウ。毒草。
「半夏生」は、この植物にちなんで名付けられたとされています。

天から毒気が降る、地面が陰毒を含んで毒草が生える等の言い伝えがあり、この時季に筍・わらびなどを食べることや種を撒くことを忌む風習があったそうです。井戸にも蓋をしたそうで。

地方によっては、ハンゲという妖怪が徘徊するという伝承があり、この時期に農作業をしたらあかん、という戒めになってます。

半夏生に降る雨を「半夏雨」といい、大雨になるといわれています。
まさに、その通り。

そんな半夏生。
葉っぱが花のように緑から白に色を変えていく姿が、まるで半分化粧しているようなので「半化粧」ともいいます。


はんげしょう、でしょ。


そうやけども。


女子会旅行、翌朝の会話。

地域によってはタコを食べる習慣があるとか。
土用の丑までヒマなお魚屋さんが、「タコ食べる日」にしそうです。


さてここは実は亀岡市の桔梗のお花畑なんです。


亀岡(亀山)、桔梗、といえば、明智光秀ですよねー。


ということで、

谷性寺(こくしょうじ)。

亀岡市郊外にあるお寺で、創建、変遷の詳細は不明ですが、平安時代には創建されていたとのこと。


1582年、明智光秀没後、家臣・溝尾庄兵衛が、戦に敗れ、晒されていた光秀の首を縁のある谷性寺に持ち帰りました。


無事のお帰りを待ってたのにね、桔梗さんたち。


1582年の本能寺の変を前に光秀は、本尊の不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願し、本懐を遂げたといいます。


1855年に首塚が建立されました。


本尊の不動明王両脇に、阿弥陀如来立像、大日如来などが安置されています。


この門は、光秀の亀山城の側の西教寺が廃寺になる際に移築したもの。


蛙股の内側に、光秀の桔梗紋。

外側には、西教寺の紋。

西教寺から移築する際に表と裏を変えたようです。

光秀縁のお寺。周りは桔梗の花畑になっています。

ぽーんって、はぜそうなつぼみ君。












へいへい。

本日のお気に入り

けろけろー(^◇^)


いつも応援いただきありがとうございます。じめじめしてて、湿気と汗で顔に塗ったもんが全て流れ落ちました。来週の大河は本能寺ですが、江口信長君にはぜひとも舞わず歌わず、そこはプロに任せて欲しいと切に願っております。
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