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夏越の祓を和菓子で味わう。もちもち水無月。

こんにちは。

夏越の祓に行ってきたら、和菓子の「水無月」を食べます。


白いういろうに、小豆のせ。三角に切ってあります。

小豆は、魔よけの力をもち邪気を払うもの。
三角に切るのは、魔よけ、疫病よけのためと、氷を表現。

白いういろうも、氷を表しています。

なぜこの季節に氷?


旧暦6月1日は「氷の節句」または「氷の朔日」。
「氷室」の氷を口にして暑気を払う御所の年中行事。

冬の氷を京都の北山の氷室に保管し宮中に献上する習わしは『延喜式』に残っており、また、この氷室の氷の溶け具合でその年の豊凶を占っていました。

当時は氷室の氷を口にすると夏痩せしないと信じられ、臣下にも氷片が振舞われたようです。

しかし、庶民には氷なんて高嶺の花。そこで、「なんちゃって氷」として白いういろうを用いたのです。

色と、形と…ほぉら、氷に見える見える見える・・・。


おすましさんに見える京都の方ですが、妙に親近感をもつお話。

水無月は、6月の和菓子です。
お店によって大きさも味わいも微妙に違っていて、食べ比べるのが楽しいです。四季の中で一番素朴で好きな和菓子です。


それは、ういろうだから、かしらー?

ういろうといえば、私の出身地、名古屋。別に毎日食べてたわけではないのですが、好きです。

「白黒抹茶、あずきコーヒー柚子さくら。一口ういろぉー四季づくしぃー♪」は、名古屋市民の魂の歌。

名古屋のあんみつには、ういろぉが入っていますが、なにか?


いつも応援いただきありがとうございます。大阪でも夕方には売り切れてしまうので、予約しました。今夜のご飯は水無月と蒸し野菜(レンジでチン♪)と、焼酎緑茶割り。お饅頭でビールも日本酒も飲めます。夏太りするわたくしです。
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夏越の大祓。茅の輪くぐりと人形流し。水無月の行事。

こんにちは。
今年も半分が過ぎますねぇ。はやーい。

さて、明日。6月30日。

半年分の厄・災いを祓い、無事を感謝すると共に、残る半年の無病息災・健康を祈る日本の伝統行事の、夏越の祓(なごしのはらえ)・水無月祓(みなづきはらえ)が各地の神社で行われる日です。


早朝の神社はすがすがしいなー。
長岡京遷都時に奈良の春日大社を勧請した大原野神社です。

平安京の前に、長岡京という都がありましたよぉ…(・・;)


春日大社には、鹿さん。だからここにも、鹿さん。


もちろん、狛鹿さん。


おせんべの代わりに、お賽銭です。


蜂さんの八の字ダンスのように廻りましょう。


茅の輪をくぐるときに、口ずさむ歌。

「水無月の夏越の祓する人は千年の命延ぶといふなり」(『拾遺集』よみ人知らず)

穢れを祓うと同時に長寿を祈る行事です。


移動して、京都市内。

平安遷都の時に、都の南方守護のため創建された城南宮。
白河上皇が鳥羽離宮を造営したとこ。承久の乱の発端になったり、あれこれ賑やかな歴史の舞台。



ここでは、自分の分身とする人形(ひとがた)に名前を書いて体を撫で、息を吹きかけて罪や穢れを移し、川に流してきました。




幸せすら吹き飛ばす勢いで、ぷぅーぷぅー。こら。

ここは、野村万斎先生が映画「陰陽師」でされてたお上品な、ぷぅーをしましょう。鼻の穴、ひろげんでよろしっ。

城南宮さんは、30日に来れない人でも大丈夫。ありがたいことです。




さらに、こんなサービスあります。


「愛車」と書いて「おくるま」と読む!
気が利いたサービス、城南宮。ぐっじょぶ。


車で通れる茅の輪。どすこい。


7月1日から一週間通れます。


6月30日は夏越の大祓です。


いつも応援いただきありがとうございます。茅の輪くぐりをすると、もうすぐ夏だなーっと思います。
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敦賀探訪・新内節

こんばんは。

敦賀の気比神宮の大鳥居を出て信号を渡ると、こんな石碑があります。



「新内節」って、ご存じですか?

新内節は、豊後系の浄瑠璃で、宝暦(1751-64)頃、鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)(1717-86)によって曲風が確立されたものです。

吉原遊廓の町を粋に三味線をつまびきながら艶やかに歌いつつ歩く二人一組の姿が時代劇でちょくちょく出ていたので、なんとなーくお分かりいただけるかしら、と。

あれが、新内節を演奏ながら歩く、「新内流し」です。

時代劇の中だけでなく、ごく最近の吉原、神楽坂、深川などの花柳界でも、二人一組(一枚一挺といいます)で歩きながら演奏する姿がよく見られたといいます。



「新内流し」では、太夫は地の部分の三味線を、三味線弾きは上調子(高い調子の三味線)を受け持ちます。(ゆずをご想像ください)

三味線は中棹(棹の太さと胴の大きさが中程度のもの。種類が多く、義太夫節を除く各種浄瑠璃や地歌などで各様のものを用いる)を用います。

新内節は抒情豊かな語りが特徴で、題材には、駆け落ち、心中など男女の恋に関係する人情劇が描かれています。
それは創設の由来を見るとよくわかりますので、おつきあいくださいませ。


「新内節」の初代・鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)の出身地が、ここ、敦賀。

本名は高井庄兵衛。敦賀の紙屋町(現・元町)の両替商若狭屋に生誕。若い頃に江戸へ上り、名古屋や江戸で歌舞伎に出て大評判となった心中物を得意とする「豊後節」の宮古路豊後掾の弟子の富士松薩摩掾(ふじまつさつまのじょう)の弟子となりました。

江戸幕府が心中物を禁止したことから、豊後節は浄瑠璃へと変化し、分派。
富士松薩摩掾は、富士松派を創設。
弟子となった鶴賀若狭掾は、鶴賀節(鶴賀派)を立てます。

そして、鶴賀若狭掾は、実際に起きた心中事件をもとに作曲。
記憶に新しい事件を題材とした作品は江戸で大当たり。

非常に人気が出て清元節に移され、『明烏花濡衣(あけがらすはなのぬれぎぬ)』という題名で歌舞伎にもなり、これも話題をよびました。

鶴賀若狭掾が作詞・作曲したものは現在にも多く伝わっています。
『二重衣恋占(ふたえぎぬこいのうらかた)』
『帰咲名残命毛(かえりざきなごりのいのちげ)』
『蘭蝶(らんちょう)』本名題《若木仇名草(わかぎのあだなぐさ)》


「新内」の名は、美声で人気のあった若狭掾の弟子の2代目・鶴賀新内(つるがしんない)の名前から名付けられたといわれています。


このような経緯で創設された「新内節」なので、情緒豊かな語りと歌、遊女の心情をきめこまかに描いた曲の内容を併せ持ち、江戸情緒を代表する庶民的な音楽(浄瑠璃)として人気を博したのです。

「新内節」の名称は、富士松・鶴賀両派を包摂するかたちで現在に至っています。

そして、現在は、1999年に11代目鶴賀流家元を継承し、2000年に3代目鶴賀若狭掾を襲名、2001年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された鶴賀若狭掾先生が、新内節の普及に尽力されています。


ちょっと大人の芸能ですが、とても情緒ある面白い古典芸能ですので、ぜひ一度機会を作ってご覧くださいませ。



皆様の応援のおかげで更新頑張れます。たまには粋な江戸情緒もいかがでしょう?初世鶴賀若狭掾直筆の掛軸に曰く「自然の中の音にも 皆音律を得たる徳があるが今の人はそれがわからない。この門に入門したる者はよく花鳥風月に学び 愈々精を出すべし」。ふむ。ふむ。むーん。難しゅうござる。
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名神大社・気比神宮。仰天の狛犬。わんわん。

こんにちは。




【祭神】
主祭神・伊奢沙別命(いざさわけのみこと)
筍飯大神(けひのおおかみ)・御食津大神(みけつおおかみ)とも称す。天筒山に現れ、境内の聖地・土公に降臨。

食物を司り、また古くより海上交通、農漁業始め衣食住の生活全般を護り給う神として崇められてきました。

702年、文武天皇詔により、社殿を修営。下記六柱が加えられます。

「本宮」
仲哀天皇・神功皇后を合祀  
  
「四社乃宮」
応神天皇(総社宮)・日本武尊(東殿宮)・玉姫命(平殿宮)・武内宿禰命(西殿宮)

延喜式神名帳に「越前國敦賀郡気比神社七座並名神大社」と記載あり。


1336年、南北朝争乱。気比神宮大宮司氏治は後醍醐天皇を奉じて金ヶ崎城を築城。



足利軍を迎え撃つが、敗北。一門は討死し、社領減封。


1570年、信長の朝倉攻め。大宮司憲直等一族は越前国主朝倉氏側に。
神兵社僧を発して信長軍に立ち向かい、天筒山城に立て籠り抗戦。



敗北。社領没収、社殿焼失、一族郎党離散。

1614年、福井藩主結城秀康により、社殿造営、社家復興、社領寄進。
以降、明治まで続き本殿は国宝に指定されます。



しかし、空襲により社殿では大鳥居だけが焼け残りました。

では、今の境内、お散歩しましょ。


灯台みたいで、かわいい。



本宮と関係の深い神々。伊佐々別・天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦・擬領・劔・金・林・鏡の9社。



祭神:豊受大神(外宮)、天照皇大神(内宮)


そして、大鳥居へ戻りまして。



猿田彦神社に立ち寄ります。



天孫降臨の際に邇邇芸尊を、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らし道案内した神、猿田彦。

ここでも、気比大神の道案内として鎮座しています。(鎮座は1775年)
「サル」の音から、庚申さんと結びつけられることが多いです。



さあて。おーい、遊ぼー!



ごきげんさんです。


しかし、お背中、シュールです。


ふむ!


後ろから、きゅっ、としたいけど、シュールです。














耳なし芳一…いや、耳なし狛一。お経じゃないけど、なんか怖い。


しっぽーーー!!



仲良きことは美しき哉。


気比神宮の猿田彦神社は、楽しいところ。うふふふ。


いつも応援いただきありがとうございます。気比神宮はまだまだ他にも楽しい仲間がいるんですよー。でも、今回はこれにておひらき。またの機会をお楽しみに…f(^_^;
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気比神宮をちょろっと歩く。越前国一乃宮。

こんにちは。

さて、疋田からのたのたと北へ走って、敦賀へ。


福井県って、すごく西にも伸びてますの。京都府とも接してますのよ。

そんな敦賀の一ノ宮。気比神宮。

国の重要文化財の大鳥居。

福井県敦賀市は、昭和20(1945)年7月12日に日本海側初の空襲を受けました。軍需工場が存在し、港湾拠点であったため、計3回も。
気比神宮も罹災。焼け残ったのがこの鳥居。



式内社(名神大社)、越前国一宮。
旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。


大きさ比較。私、あと3センチでいいから、身長が欲しいです。


飲まなくては!簑亀さん、いただきまっ…


うーんっと…。も、いっかな。長生きよりも充実した人生を目指すよ。





空襲で焼けたので昭和の再建。
祭神とか由緒とかは、大変膨大なので省略。

ぜひこちらの、気比神宮様の公式HPをご覧下さい→→→
「北陸道総鎮守越前国一乃宮 気比神宮」





ぴかー。


「旗掲松(はたあげのまつ)」

社伝では、延元元(1336)年に宮司・気比氏治が南朝方として挙兵する時に、気比神の神旗を掲げたという松。


昭和11(1936)年、陸軍関係者から寄贈のユーカリの樹。
敦賀市指定天然記念物。フトモモ科ユーカリ属。


なんか面白そうな気配がします。


絵馬って、好き。


もおー、といえば、カモシカは牛の仲間なので、もおーっと言うそうで。


こつこつ貯めて作ったのかな。


ポーランド孤児やユダヤの人々はこういう船で敦賀まで逃げてきたのかな。

南門の鳥居のそばには、こちらの狛犬さん。

お口からなんぞ流れ出しておりますが…。


するわっ


犬なのに、猫手。んにゃーお。


ぷりちーなおちりで、ぷりっちり。

朝イチの神社お散歩は気持ちいいです。
ぴきーっとした空気が好きです。気比神宮、続きます…。



【ここでちょっとご紹介】
朝イチの空気のような空気を醸し出す日本の古武道。
そのひとつ、居合道というものをご存じですか?

「鞘の内の理念のもと、刀を抜かずして天地万物を和するにある」とは、居合道の極致とか。日本人として忘れてはいけない武士道精神を今の世に伝えようと日々精進されている徳平先生をご紹介。

こちらが徳平先生のブログ。記事の中で居合道の動画が見れます→→→
「かさい」居合道教室

地元の神社の神事に携わったり、国際交流や居合道の普及に真摯に尽力されています。先生の穏やかな人柄が伝わる優しいブログ様です。


いつも応援いただきありがとうございます。気比神宮の大鳥居にぽけーっとしていたら、側溝にはまりました。皆様も足元にはご注意を。
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狛犬がお迎えする疋田の日吉神社。

こんにちは。重いお話が続いたので、今日はさくっと。


好きな風景。

位置は疋壇城址の北側になる、この神社。


えっほえっほ。階段嫌い。


日吉神社。

祭神:大山咋命・菅原道眞
由緒:延暦2(783)年正月十六日勧請。
社格:村社

安政6(1859)年、大火のため、 古記録等一切焼失。
明治11(1878)年 、末社天満宮、祭神菅原道眞公を合祀。



まいど。


朝、4時半に起きてきた。


かりかりかり。


何でございましょうか?


はい。


んー?


ぎゃー!なんじゃこらー!?さよならー!


無理です。イモムシくんなら、触れますけど。体が硬いのはダメです。


ここもお城の中かと思ってしまいます。




その前に…。


おはよございますっ!


あら、素敵なお腹のくびれでございます。


びみょー。


どしたの?


うん。


おフランスの女王の如き縦ロールですねぇ。


本殿は、覆屋の中にあります。冬はどんな風になるのかな。

さて、うろちょろ。


ごろごろぉー。


こちらは、


はてな。


はてな。


過疎化がとまらないこの土地でも、地域の方々が大切にされてます。

これからも日吉神社の狛犬さんたちは時の移り変わりを見つめていくんだろうな。

疋田、いいところでした。


いつも応援いただきありがとうございます。疋田で起きた戦闘も、疋田舟川の繁盛も、黙って見てきた日吉神社。お喋りできたら楽しいのにな。ざんねん。
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今日、沖縄。何の日。

今日はなんの日。沖縄での組織的大規模戦闘終結の日。

沖縄の人の4人に1人が亡くなった沖縄戦。
20万人もの方々が犠牲になった沖縄戦。

摩文仁の丘に、そして各県の慰霊祭に全国から戦没者のご遺族が慰霊に訪れる日。

摩文仁の丘の慰霊碑に刻まれた戦没者のあまりの多さに足がすくんでも、自分の家族の名前を探す。

大勢の中の一人だけど。一人の戦没者には、何人もの遺族がある。
悲しい人は、刻まれた名前のいったい何倍、いるのだろう。

刻まれた名前を指でなぞって、今年も来たよ、来ることができたよ、と、言葉をかける。

故郷から遠く離れた土地で「お母さん」と叫んで、多くの兵士が亡くなっていった辛い土地。沖縄。

民間人もいったいどれだけ犠牲になったのか。


日本がどこへ向かうのか、という論戦を簡単に口にする前に、戦没者を悼む心を持ってほしい。戦没者の遺族というものは何代にも渡って辛く悲しいのだ、と、思いつつ。
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下に続きます。

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敦賀港は人道の港。命のビザとポーランド孤児。

敦賀港。



敦賀には、様々な時代の史跡がありますが、ご紹介はこちら。



なにかというと。



お写真の男性は杉原千畝さん。皆様ご存じ。「命のビザ」をユダヤの人々に発行した方です。

「人道の港 敦賀ムゼウム」についてお話する前にまず、敦賀港の歴史ざっくり。

1899(明治32)年に開港場(外国貿易港)の指定を受ける。
1902年 敦賀とウラジオストク間に直通航路が開設。
1910年 駐日ロシア領事館が開庁。
1912年 東京の新橋駅と敦賀の金ヶ崎駅の間に欧亜連絡列車が運行される。敦賀からウラジオストク間は航路、さらにシベリア鉄道を利用してヨーロッパ各都市と日本が結ばれることとなった。敦賀は拠点港となり「東洋の波止場」として繁栄した。


手前にロシア領事館。


往時の敦賀港。

1920年から1922年にかけて合計763人のポーランド孤児が日本赤十字社の救助により日本へ渡航。敦賀港に上陸。

シベリア動乱により家族を失ったポーランド孤児の受け入れのため、敦賀上陸委員が大阪までの運賃の優遇措置を鉄道省に申請する等、奔走。
敦賀町や住民は菓子・果物・文具を差し入れ、宿泊場所を提供。



1940年7月18日。
杉原千畝さんが勤務するリトアニア領事館にユダヤ人難民が日本通過のビザを求め押し寄せました。

領事代理の彼は、外務省に背いてビザを発給。

道中のシベリア鉄道でも強制連行・略奪という憂き目にあい、ようやくユダヤの人々が「命のビザ」を握り締めて初めて踏んだ日本の地がここ、敦賀なのです。その数、6000人。

彼等の証言が残ります。

「山に雪が積もっていて、敦賀は悪夢から覚めた楽園のようだった」

「戦争も差別もない。人々は親切で自由に街を歩くことができた。天国です」


港から欧亜連絡列車という名の列車が発着する敦賀駅までの間に、敦賀の人々が差し出したリンゴ。

それをユダヤの人々は、一口かじっては横の人に回し、皆で分かち合いました。


敦賀港の近くの朝日湯さんは、ユダヤの人々に銭湯を無料開放。

「温かい湯は気持ちがよくて、本当に嬉しかった」




「人道の港 敦賀ムゼウム」
命のビザにより救われた人々の証言、当時の情勢、杉原千畝さんの肉声、等、多数の映像や展示があります。


目の前に困っている人がいればごく自然に助ける心遣いをする。
それが本来誇りにすべき日本の姿ではなかったか…。

金ヶ崎城等の史跡が多い敦賀港周辺ですが、こんな歴史もあることを心に残しておくことも大事ね…と、思いました。


いつも応援いただきありがとうございます。こちら、無料休憩所兼用なのですが、寸志を納めるポストがあります。ぜひ一度お立ち寄りください…。
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信長の越前侵攻に翻弄された疋壇城址。朝倉氏の最前線。


早朝の町並をてくてくすると…


くんくん。


段々になってる石積に、うひょ!っと言ったのは誰。


石積と空堀っぽいのがあるよぉー。っと、立ち止まってみる。


まるでラピュタ。


おなかすいた。


素敵です。


上から見た。


そんなここは。


じゃん。


地域の皆様と共存中です。


落ちたらあかん。


ウシガエルがぶぉーぶぉー鳴いてて…泣きそうです。


一番高いとこ。



朝倉氏が家臣の疋田対馬守久保に文明年間(1469‐1487)に築かせた疋壇城。

柳ヶ瀬越・塩津越・海津越の主要江州路が集まる交通上の要衝である疋田は、越前朝倉氏の最南端の防衛拠点としても重要でした。

城址近辺に城(本丸跡)、小丸、中ノ切、馬場、等が字名に残る事からこの疋田周囲に拡がっていただろうと推測されてます。


北曲輪。右側の畑の下が通ってきた道と空堀。


土塁の下は、深い深い空堀。


小学校の運動場が作られ、曲輪は破壊されてます。残念。
しかし、その小学校は廃校に。過疎化が止まらない。


疋壇城はわずか100年ほどしか使われませんでした。

元亀元(1570)年。織田信長、越前侵攻。

朝倉氏の手筒山城落城、金ヶ崎城開城。
疋壇氏が籠る疋壇城もそれを受けて開城し、信長軍に破壊されます。

そこへ、浅井長政の離反。俗に言う「秀吉の殿軍」で信長軍撤退。


その隙に朝倉軍は疋壇城を修復。栂野三郎右衛門尉景仍が布陣。

姉川の戦いを挟んで、天正元(1573)年、再度の織田信長の越前侵攻。


朝倉軍は信長軍の猛攻に支えきれずに疋壇城は落城。

疋壇六郎三郎はじめ疋壇氏将兵500余人、朝倉軍3000余人がここで討死しました。

そして、信長軍により疋壇城は破却されました。

でも、お城の遺構は結構残っていて楽しかったです。
地権者の方のご厚意で見ることができる城址なので、畑に入ったりしないように注意しましょう。


こんなのも見えます。



早朝のお城はよいですねー。


いつも応援いただきありがとうございます。疋田舟川が流れる静かな町並と、朝倉氏の名残を留める疋壇城址。過疎化の進む地区ですが、心の故郷ってこんなとこを言うのかなあ…と懐かしく思いました。
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ぽちぽちぼっち、ありがとうございます。


fc2のアプリ更新したら、画像が今までのようにアップできませぬ…。

閑話休題・古代三関の愛発関と清盛念願の疋田舟川

こんにちは。

前回はご活躍していただきました鬼女のお姉様方。ちょいと休憩。


ということで。今日ご紹介するのは。


すんませんすんません。


愛発関(近江国と越前国の国境・福井県敦賀市疋田)
不和関(美濃国・岐阜県不破郡関ヶ原町)
鈴鹿関(伊勢国・三重県亀山市関町と推定)

の3つは「古代三関」として天武天皇の時代(672年or673年)に設置。

この三関から東が「東国」。
天皇崩御や争乱があった時に閉められました。

関の役目は東国から畿内を守ること。または、謀反人の逃亡を阻止すること。


西近江路と東近江路(後に塩津街道)が合流する疋田(ひきた)が愛発関の有力此定地。

この愛発関が歴史に残るのは、この方の時。


あるいは



淳仁天皇の後ろ楯となっていた藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。


背景はこれ。

敗色濃厚となり、琵琶湖を北上し息子が治める越前国へ逃げようとした仲麻呂は、先回りした上皇側により愛発関が閉じられているのを知り、断念します。


やむなく湖西の高島まで来たところで捕まり斬首されました。
淳仁天皇は天皇の地位を追われ淡路島に流され「淡路廃帝」などと言われてしまいました。

愛発関、大活躍の巻。

淳仁天皇についてはこちら→→→
淡路廃帝淳仁天皇と母当麻氏を探してたまねぎ畑へ
淡路廃帝は須賀神社の舟型御陵に眠るのか。湖北の菅浦。
淡路廃帝淳仁天皇をお祀りし弔い続ける菅浦の地。


桓武天皇の時に三関は停止されますが、完全撤廃はされず、天皇崩御・摂関の死去時に関を閉じる行為(固関)自体が儀式化され(「貞観儀式」)、天保年間まで続きました。
(途中から愛発関は京都と滋賀の県境の逢坂関に代わります)


そんな疋田。


視線が下過ぎますよ。


江戸時代に西廻り航路が確立するまでの物流ルート。


北国⇔敦賀 日本海側の海路
敦賀⇔塩津 塩津街道で陸路
塩津⇔堅田・大津 琵琶湖を航路
堅田・大津⇔京都・大阪 陸路



琵琶湖水運についてはこちら→→→

錨を上げろ、商売商売。船と琵琶湖と菅浦と。
丸子船紹介と清盛も重視した琵琶湖水運の覇権。


琵琶湖の水運に着目した平清盛を初めとして、大谷吉継なども敦賀と塩津の間に運河を作ろうとしますが断念。運河開削計画のみが残りました。


清盛の言葉。

「後世必ず湖水の水を北海に落とせと言う者あらん、このこと人力の及ぶことに非ず」


時は流れ、1815(文化12)年。

日本海側に異国船がちょこちょこと現れ始め、西廻り航路が危険に。

京都への糧道確保が急務となり、小浜藩と幕府が協議。小浜藩家老三浦勘解由左衛門を普請奉行として、運河工事を開始。


1817(文化14)年。敦賀と疋田の間に運河が完成。
川幅9尺(2.7m)、総延長6.5km。

疋田から湖北の大浦は牛車で運搬。


これが使用された舟です。

この舟川は水の流れが速いため水位が上がらず、積み荷を満載すると舟底がつかえるため、川底に松の丸太(胴木)を敷設して舟が滑るように工夫しました。

胴木寸法は、太さ5寸(15cm)長さ11尺(3.3m)。
3尺(90.9cm)毎に敷設。

それがここ舟川の特徴。


上りは人力。よいしょよいしょ。
道から離れたところは、竿で押しました。よっこいしょおー!


清盛以来の悲願であったこの舟川。
しかし、1834年に幕府と小浜藩により廃止されてしまいます。
稼働年数、わずか17年ほど。


長年陸路で稼いでいた人達の猛烈な反対運動のため。

なんやー?既得権益ってやつぅー?
いやいや、こちらも日々の生活がかかっています。


1857年、再び掘り起こされて利用開始。
1866年、大洪水により破壊される。


後に、福井県の県営用水環境整備事業により整備されます。

農業用水として滋賀県県境を水源とする五井川から取水し、疋田集落を流下し、この地域の農地を灌漑する「疋田舟川用水」として働いています。


泣くなよー。皆のお役にたってるんだよー。


ほんとほんと。


お水は怒ると暴れるからねー。


鳥居のある風景。八百万の神。

平成9年から16年に老朽化した護岸の整備をされてますが、片方の石積は当時のまま。


現在の疋田舟川用水が潤す農地は8ha。
同時に疋田地区の防火用水、生活洗浄用水としても利用されているのです。


ほんとほんと。(水はめんどくさいなぁ…)


で。このように、物流・交通の要所である疋田の地は軍事上も要衝であったわけでして。

はーい。



疋壇城です。


いつも応援いただきありがとうございます。疋田舟川用水、ちょいとお手手を浸すたけで、腕がもっていかれそうな勢いです。あひゃあひょうひょーっとあわてふためく阿呆に、呆気に取られる疋田の方々をご想像下さいませ。
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ぽちぽちぼっち、ありがとうございます。
プロフィール

つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

◎画像の著作権は放棄しておりません。
◎画像と記事の無断使用厳禁!!
◎丸パクリには断固抗議する!!

◎リンク戴く際はご一報下さい。御礼させて戴きたく。
◎一言でもコメント戴ければすごーく嬉しいです。

尚、メールでのお返事は致しませんので、コメント欄をご利用ください。

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