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まけきらい稲荷。茨城県土浦から丹波篠山へ

こんにちは。


なんてストレートな。

さぞかし意地っ張りなお稲荷さんがいるに違いない。


あらやだ。かわいい。


これはこれで正解なのか否か。


こっちもこう来ましたか。


こちらにもかわいい方々が。

やほー。


温かい飴ちゃんなら欲しいです。寒い。

お狐さんの背後には、ミニ清水の舞台のような建物があるのですが。

ここは王地山という山の上に鎮座する


そう、忍耐神社です。

ちゃうわっ。


鎮座するのは、蜷寵吒枳尼天王で、お名前は王地山稲荷大明神。

本経寺の鎮守のお稲荷さん。


あうちっ。


へ、へへへ。裏から来ました。


悪かったわねっ。


へぇー。土浦ってどこ?


えーっと。


こらー。

私は浜名湖から向こうはわかんないんだー。


土浦は茨城県。

本経寺は元々、1601(慶長6)年。高崎藩主・松平安房守信吉(藤井松平家3代。桜井松平家からの養子)が実母(徳川家康姉)菩提のため、家臣の都築和泉に奉行を命じ、茨城県土浦の地に建立した寺。

妙長山本経寺と称しました。


失礼せんばん。

蜷寵吒枳尼天王(稲荷大明神)は、「伝教大師最澄聖人一刀三礼の御尊像」と伝わり、信吉の実父、松平伊豆守忠吉(桜井松平家5代)が陣中守護神として帰依していました。

本経寺の開山は高僧持経院日泉上人。

吒枳尼天王の霊像を鎮守神として勧請し、本経寺境内に併せて堂宇を建立します。

1619(元和5)年。松平安房守信吉は篠山藩主として転封。

篠山藩とは。


篠山の八上城には1608(慶長13)年に松平康重が入りますが、


王地山、篠山、飛の山の候補の中から篠山を選んで1609(慶長14)年に築城を開始。

こちらが篠山藩主の政庁となり、松平康重は八上城の城下ごとお引っ越しします。

候補地のひとつであった王地山が、ここ。


さて、松平安房守信吉と共に土浦から篠山へお引っ越しとなる本経寺。

本堂を解体し船に乗せ、土浦から瀬戸内海→加古川口より曳き舟に乗せ替え→久下から牛車にて陸送→篠山市河原町の現在地へ。

山号寺号はそのままとし京都大本山妙顕寺の末寺となりました。


階段回避のため、車で来たの。下りませんわよ。ほほ。

吒枳尼天王御神体も共に篠山に移され、王地山の地に奥の院として観請されました。

以来「王地山稲荷大明神」と称します。


水口ぴょん太。

1649(慶安2)年。松平安房守信吉の後を継いだ忠国は明石へ移封。

しかし、「永く当山にとどまり衆生を救え」との霊告により、本経寺・王地山稲荷社とも篠山の現在地にとどまる事を許されました。

・・・フレキシブル。

以降、松平(形原松平家)家、青山家の歴代藩主の帰依を受け、現在に至る。


死ぬほど冷たかった。


はくしょん。

寒いから花粉はまだまだね♪っと思っていましたが。
画像を見たら、花粉がてんこもりもり。きゃー。


何の密談ですか?


王地山稲荷社(まけきらい稲荷社)
《住所》兵庫県篠山市河原町92



参考文献
王地山稲荷社「参拝の栞」


いつも応援いただきありがとうございます。大きくてお茶目なお狐様やちびっこお狐様と出会えて幸せなひととき。王地山は篠山城築城の候補地であったと知っただけでもわくわくします。どうしてここじゃなかったのかな、狭かったのかな。お狐様の密談もわくわく。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

磯宮八幡神社ハダカガヤ。光秀丹波攻めと神仏習合四天王

こんにちは。





・・・どいて、狛ちゃん。

丹波篠山の磯宮八幡神社。


たまたま子ども狂言の発表会に出会いました。


えーっと。拝殿と本殿。

賑やかだったので、少し回避しまして。


正面の鳥居。内側より。


裏口スキーのお姉さまに捧げます。えへ。


裏から見ても見事な本殿。



【主祭神】応神天皇
【配祀神】上筒男命(ウワツツノオノミコト)・天兒屋根命(アメノコヤネノミコト)

【由緒】
933(承平3)年。石清水八幡宮より分霊を勧請。
五十神(いそのかみ)を末社としたため五十宮と称したといいます。
磯宮の名前は、水辺(=磯)に鎮座していたことが由来とも。

もとは、曽地・後川荘など四ヶ荘の総社(他二ヶ所が気になるわ)。


摂社・末社群


生活に必要な神様御一同様。


頭脳とお金は何より必要。

あああ、私に一番欠けとるものやー。よろしくよろしく。


力石にしては、ちっこいわ。


護摩堂。

明治の廃仏毀釈でもこちらは生き延びたのでしょうね。

日本古来は神仏習合。神様仏様。

磯宮八幡神社には、木造持国天立像と多聞天立像(国重文)が残っています。


(クリックで拡大)

「神宮寺にあった」木造持国天立像と多聞天立像(篠山市HP磯宮八幡神社(日置))と篠山市の説明にある事から、この磯宮八幡神社は明治の廃仏毀釈までは神宮寺と神社が一体となっていたと推察されます。

四天王のうちの二人。持国天と多聞天。今は収蔵庫に安置。祭礼の時に拝見できるらしく。是非拝見したいなー。


本殿。

1336(建武3)年、足利尊氏が九州への途中参拝し、願書や鏑矢等を奉納し、田畑も寄進したと伝わります。

建武の中興に功があった足利尊氏。
しかし、新政府に重用されるはずが、1335(建武2)年11月には政権に敵対する者とされ、追討を受けるようになってしまいました。

新田義貞・北畠顕家らの軍勢と京都で激戦するも敗北。
尊氏は丹波に逃れます。

「旗揚げの地」篠村八幡宮(京都府亀岡市)で一旦兵を整え、丹波路を播磨へ向かいます。

国道の372号線(デカンショ街道)は亀岡から播磨へ通じています(←国道を走ったんじゃないぐらいは、私でもわかるけど、でもぉ)。

その途中。

曽地(篠山町)の土豪、内藤入道道勝の館へ立ち寄り、磯宮八幡神社に参詣。


カヤの大木三兄弟。

真ん中の木が突然変異で生じた世にも珍しい、


ハダカガヤです。

かったい堅い殻がなく、ブドウの実のような皮だけの実がなる不思議な木。この木の種子を蒔いても、普通の堅い殻のカヤになるそうで。

と、いわれても、カヤの実を知らんので、説明板をご覧下さい。


(クリックで拡大)

磯宮八幡神社に立ち寄った際に、社僧の勝心がお菓子としてカヤの実を出したところ、尊氏は皮をむいて社前に奉げ、武運長久と共に、この実が育って無皮の実が成るようにと祈って蒔いたところ、なんと、ほんとに堅い殻がない「無皮の実」が結実。


今や国指定の天然記念物。

足利尊氏と同じように、磯宮八幡神社は領主、武将らの信仰が厚く。

八上城主波多野秀治も城内武運長久の守護神として崇敬し、各種寄付。せっせせっせと。


丹波篠山といえば、このお山が城域そのものの、八上城。


だって、山頂の割れ目があれだ。

そして恒例の


光秀による信長のための丹波攻めファイヤー。


下々が騒々しくてごめんあそばせ。しかしこちらも


1579(天正7)年、兵火により磯宮八幡神社は焼失。

翌1580(天正8)には再建。


本殿の神前狛犬さん。木製わんこ。


立派な角がある狛犬さんです。たくますぃ~。


誰に。


また建てるの大変なので燃やさないで下さい。


他人のフリしないで。こら。


さて。関ヶ原を経て


天下普請の篠山城も出来上がった後。

1654(承応3)年。
篠山城主の松平康信が境内並びに田地二反余を黒印除地とします。

※徐地とは、納税義務の免除された土地
※黒印とは、藩主が目下の者へ出したお手紙に押すはんこ (勉強中)



1672(寛文12)年。社殿建立。

現存社殿は1848(弘化5)年に造営されたもの。

丹波地域の特徴。本殿の彫刻が見事です。


馬?鹿?


とりさん。


地場野菜は葉っぱ付きで嬉しい。


熱田神宮のチャボは、飛び蹴りしてくる。


へいへい、かくれんぼぉ~♪

・・・なんの記事でしたっけ?


磯宮八幡神社でした。

周囲を見渡せば、山城のてんこもりもり。


磯宮八幡神社
《住所》兵庫県篠山市日置167




参考文献
兵庫県神社庁HP
篠山市HP「丹後ささやま五十三次」「磯宮八幡神社」

「丹波篠山とっておきの話Ⅱ 戦国動乱の時代と丹波の支配者たち」(梶村文弥著 あいわ書房刊)


いつも応援いただきありがとうございます。神仏混合の名残ある磯宮八幡神社。足利尊氏の逸話や丹波国人衆の攻防と光秀の丹波攻めファイヤー。八上城とそれを取り囲む山城や砦群。興味の尽きない楽しいお社です。木製の狛犬さん、実はでかわんこなのです。わん。
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磯宮八幡神社で子ども狂言発表会。賑やかっていいな

こんにちは。

ふと立ち寄った丹波篠山の磯宮八幡神社。


あれ?だーれもいないお社に来たつもりが。



京都の茂山家御一門で、篠山市在住の山口耕道先生が4年前から子供達に狂言を教えに来ているそうで。

発表会でした。


むーらの鎮守のかぁみさっまのぉ~♪

能楽も狂言も、プロの先生方が全国で学校訪問をして、少しでもホンモノに触れてもらおうと必死です。

わからなくていいから、まず、触れることが大事だと。

中には、ピアノやバイオリンよりお笛や鼓が好きな子がいるかもしれません。

私も能楽に触れたのは、祖母の「謡講」に連れていかれたから。
名古屋では謡が好きな閑人が集まって好き好きに謡う同好会が盛んだったんです。
一人で留守番するか、ばーちゃまについてくるか、どっち?って、そんな無茶苦茶な選択を幼稚園の頃に迫られ。

「そぉろぉーそぉろぉー」って真似したもんです。


臨時の能舞台。


本舞台ならこんな感じ。

歴史あるお社の舞台で発表会が出来るなんて、幸せなことです。

狂言は、当時の風俗や笑いのツボをありのままに伝える、とても豊かな内容の古典芸能。
コントがあれば、舞もあり、時々お涙ぽろり、そして時々難しい。

肩肘張らずに気楽に鑑賞したらいいと思います。笑うところは、大声で笑う。

笑う、って、すごく大事。


ね。

本番中は撮影を遠慮したので画像はありませんが、みんな一生懸命で、観客も大笑いして、とても賑やかであたたかい催しでした。

折しも今日であの震災から四年目。

ここのようなあたたかい繋がりが脈々と続くようお祈りするばかりです。


いつも応援いただきありがとうございます。ご近所の老若男女が笑顔で集う場所。それが昔ながらのお社ではないかと思います。少しずつ、ゆっくりゆっくりでもいいから、心からの笑顔が戻っていますように。そして、遠く離れていても、私に出来る応援を忘れずに。産地直送の農作物や海鮮うまうまを、ポチっとしようっと。
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波々伯部神社。ほほかべ氏と丹波の祇園さんの受難

こんにちは。


どいてください。あなた、今日は関係ないです。

さて、丹波篠山。


うすらぼんやりしておりますが、室町時代末期の青銅鳥居。

ここは、波々伯部神社。ほほかべ、或いは、ほおかべ。





「丹波の祇園さん」と呼ばれるお社。


樹齢数百年のが立ち並ぶ参道。


ほほかべ神社でほほほほ。


雨上がりは気持ちいいな。


ウエットティッシュでごめんあそばせ。

【由緒】

(クリックで拡大)

社伝によれば、680年の発祥。

神仏習合で素戔嗚尊の他に、薬師如来像と牛頭(ごず)天王を祀っていたとか。(神主さん談 神戸新聞「社寺巡礼」2008年8月11日掲載)

波々伯部神社所蔵の「薬師三尊懸仏 3面」は篠山市指定文化財になっています。


波々伯部神社拝殿。

958(天徳2)年もしくは1098(承徳2)年に京都の祇園社(現・八坂神社)から勧請したという伝承もあり、あるいは広峯神社が遷座される際の途中の休憩所に社を建てたものとも伝えられます。

牛頭天王を祀るので、祇園さん。


(社務所のポスターを撮影)

波々伯部神社が賑わうのは、8月の例祭。

素戔嗚尊が大歳大神(おおとしのおおかみ)まで「御旅」に出掛ける伝統行事。大歳神社まで約1.5km。

例祭では氏子の他、世襲で受け継がれてきた社役人と宮年寄が取り仕切り、柿色の袴姿で先頭を練り歩きます。

民話では「神さまが現地妻のところに行く行事だった」とか。



牛頭天王が初めてこの場所に来た時、もともとの土地神「こもり姫」を見初めた。だが、牛頭天王はすでに竜神の三番目の娘をめとり、子どももいた。あきらめきれない牛頭天王は年に一度だけ姫の元に行くことを許された。ただし妻と子を同行で。

こらー。なんておおらかなー。



(社務所のポスターを撮影)

「ヨオーイ、サンジャ」の掛け声と共に、田園の中を進む8基の山車。



境内が広いのは祭礼のためなのね。

3年に一度、境内に高さ7mの「胡瓜山(きゅうりやま)」が出されます。山車の真ん中に小さな舞台が設けられ、「デコノボウ」と呼ばれる十二体の人形を謡曲にあわせて、宮年寄がおやまの上で胴串だけの単純な造りの人形を操ります。

演目は「高砂」「道成寺」「愛宕山」「田原藤太」などが残っているとか。

デコノボウが文楽、人形浄瑠璃に使用する人形の祖形と見られることや、屋台上で演じられること、また謡曲が古式であることから、中世的色彩を留めた貴重な民俗芸能とされ、2005年、国の無形民俗文化財に指定されました。



「波々伯部」の名は、古代朝廷で亀卜に用いる「ハハカ」の木を献上する人々が居住していたところから、「波々伯部」と呼ばれるようになります。


1098(承徳2)年、波々伯部村の有力農民13名は、拓いた田地を京都の八坂神社(祇園社感神院)に寄進。

波々伯部村は祇園社領となり、波々伯部保と呼ばれるようになりました。

荘園経営の為、八坂神社(祇園社感神院)執行の下に、下司職を置きます。下司職「波々伯部氏」の登場です。(1221(承久3)年「関東御教書」)


波々伯部神社と同じ波々伯部氏の紋「松喰い鶴」

室町末期、細川氏の重臣であった三好長慶が幕府の実権を掌握し、丹波国は三好氏の勢力下に入ります。


八上城のお山遠景。

やがて三好氏が没落すると、波々伯部光政はご近所の八上城城主の波多野氏に属して活躍。

波々伯部神社お向かいの淀山城をはじめ、東山城、 南山城を築いて、八上城の東口守備に努めます。


巨木三連星@ガンダム(違)。

やがて1575(天正3)年、1577(天正5)年、織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻略が始まります。

波多野氏をはじめとする丹波国人衆は果敢に戦います。


丹波のお社恒例。「焼失by光秀の焼き討ち」。

波々伯部神社も、焼失。

波々伯部光吉も八上城籠城の一人でしたが、妻の兄荒木山城守らの説得もあり、八上城を落ちることに決め、荒木氏の居所に退きます。

その後、光秀に降伏した波多野兄弟は安土城下に送られ、そこで信長によって殺害され、八上城は落城。



波々伯部光吉は荒木氏とともに八上々町、さらに新町に移って農業と酒造業を営み繁盛。江戸時代の1664(寛文4)年に庄屋、1694(元禄6)年に大庄屋となりました。


本殿の彫刻は中井権次正胤。

焼失したお社は、豊臣秀勝によって再建されたといいます。


でかいでかいと言っても伝わりにくいので、おまけ。


今日もお社は静かです。


波々伯部神社
《住所》兵庫県篠山市宮ノ前3-2



参考文献
神主さん談 神戸新聞「社寺巡礼」2008年8月11日掲載
「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」兵庫県教育委員会発行
篠山市HP「波々伯部神社 おやまの神事」


いつも応援いただきありがとうございます。久々の光秀にファイヤーされる丹波のお話。丹波篠山付近のお社は、歴史が古いだけでなく、とても静かで手入れの行き届いた気持ちのいいお社が多いです。神様のおおらかなお話も、日本の神様らしくてくすくすと笑ってしまいます。
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丹波篠山で酒を調達。田んぼ畦道に越後村上藩主の墓所

こんにちは。


かゆいけどお出かけもしたいもん。

そろそろ凍結の心配もないだろうと丹波篠山へ。

丹波篠山といえば。


古墳がぽこぽこと点在して。


天下普請の丹波篠山城がそびえ立ち。


自己主張の強い誰かさんがマーキングして。


張り切って積んだら家康様に叱られて、とうとう天守が造られなかったところ。

本日のお目当てはこちら。


じゃん。


じゃじゃーん。

鳳鳴酒造様の、生原酒「からくち」。
20度あるので、邪道ながらロックでちびちびっと。

酒蔵で杜氏さんが顔を見ただけでおすすめしてくれた思い出のジュース。

うみゃい。地方へ行くときは、小分けして持参。へへへ。

ところで。

丹波篠山城の北東を走っていると、田んぼの真ん中にこれ。

なんだろなー?なんだろなー?っとずっと思っていたので、探検。


村上周防守、調べてみたら、村上忠勝でした。


【越後村上藩主、村上忠勝】

村上頼勝の外孫で越後村上藩第2代藩主。

村上頼勝は、越後国本庄(村上と改称)9万石。

丹羽長秀、堀秀政・秀治、松平忠輝の元で最も有力な与力大名でした。
しかし、出自詳細は不明。信濃村上氏とか村上水軍とか。

関ヶ原では東軍。越後に在国し、国内で起こった西軍方の上杉旧臣による上杉遺民一揆の鎮定に努め、その戦功により、徳川家康から所領を安堵。


忠勝は頼勝の娘婿戸田内記の子。今でいう外孫。

男子のない外祖父・頼勝の養嗣子となり、1616(元和2)年、家督を継ぎます。

1618(元和4)年。家臣の魚住角兵衛暗殺事件の黒幕が家老高野権兵衛だと風評が立ち家中騒動に発展。改易となります。

村上忠勝は、捨扶持300石を与えられて丹波篠山藩(5万石)に流罪。



預かったのは藩主・松平康重。

丹波篠山藩は畿内への街道が交わる重要拠点であり、青山氏が入るまで松平氏が治めます。

松平康重 →1619(元和5)年、和泉岸和田へ
松平信吉(5万石)←上野国高崎藩5万石より
 ↓
松平忠国 1620(元和6)年、信吉死去により第2代藩主

忠国は藩政において、検地の実施や城下町の整備、社寺の建設、文化振興などを行った名君と賞される人物。



藩主が転々とする中、忠勝はどんな日々を送っていたのかな。

越後村上藩からは林八郎右衛門ら家臣二十数名が同地に従い、篠山城の一角で日々を過ごしたといいます。

1623(元和9)年死去。享年は25だとか28だとか。
丹波篠山に流されてから、わずか5年。


何とも寂しい所にぽつんと一人。

位牌は近くの法昌寺にあり、忌日には回向を続けているといいますが、なぜこんな田んぼの真ん中に。


この形、あまり見かけないのです。一石五輪塔かしら。宝筐印塔かしら。


くすんくすん。


うわーん。

他藩に預かり、って、こういうことなのねー(ノ_<。)


※村上頼勝について
この供養塔は篠山市が「丹波ささやま五十三次」に定めた史跡で、篠山市HP等での解説文には「戦国の猛将村上義清は武田信玄と勇戦し、退いて上杉謙信を頼り、信濃北東部の失地回復を図ったが果たせず、越後根地城で死んだ。その子頼勝は、」とあります。

しかし、今のところ論拠に乏しく、記事では通説に従い出自不明と記しました。
私、村上義清のひ孫がこんなところに!?っと食い付いたんですが。
うーん。


いつも応援いただきありがとうございます。やっと北向きにドライブできる季節になりました。嬉しいな~♪丹波篠山の城と町並み、明智光秀にファイヤー!される山城があっちこっちに点在するわくわく感(ってか、山、全部お城でしょ?的なもりもり)、古い古いお社、古墳。わくわくです。帰りは新鮮な地元産の野菜をトランクに積めて、うはうはです。あ、もちろんお酒もねっ♪
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

ゲリラ雷雨の豪雨の連休初日

こんにちは。


連休だー。やっと、連休キター。でもなんだー、この天気ー。

ご用があるので、大阪でうだうだする連休ですけど嬉しいな。


高速があっちこっちで大渋滞してます。なので、下道をうろうろ。
丹波細工所城のあったお山です。只今、緊急避難ちゅー。


ずーっとAMラジオがばりばり言っていて、とうとう視界が真っ白になるくらい光りまして。
JA事務所とスーパーと食堂が併設されて、野菜市も開かれる道の駅みたいなとこで、お昼ごはんも買い込んで待機ちゅー。


これであんしん。


来ました。どかーん。
ヒョウが降ったら車ごと軒先に突っ込もうと、ごはんをもぐもぐしながら待機ちゅー。黒豆コロッケ、うまー。

ポットに入れてきたお湯でコーヒーをいれて、丹波の黒豆ようかんをデザートに、もぐもぐ。もぐもぐもぐもぐ…まだかー!?

そして、小一時間経過。丹波の黒豆おかきも食べてしまった。


ゲリラの雷雨の豪雨は過ぎ去りました。さわやかです。気温20度まで下がってます。

そして、灼熱のおうちに帰宅。

皆様も楽しいお休みをお過ごしください。


いつも応援いただきありがとうございます。
亀岡のお寺を見たあと丹波篠山に行こうとして、あとわずか、という辺りで丹波篠山方面が真っ暗で稲光がびっかびっかし始めたので、くるんっとUターンしました。
車内でぽけーっと見てて、これはこれで楽しかったです。食後はお昼寝。稲光が目を閉じててもピッカ、ピッカチウ。おほほ。

お気に召していただけましたら、それぞれぽちゃぽちゃぽちゃ、とお願いします。

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ありがとうございます。

櫛石窓神社(名神大社・篠山市)と明智光秀ファイヤー!

こんばんは。

あ。間違えた。



櫛石窓(くしいわまど)神社をご紹介します。



祭神は、櫛石窓命(くしいわまどのみこと)・豊石窓命(とよいわまどのみこと)


天孫降臨の際のニニギの従者として三種の神器に添えられた三神に「天石門別神(あまのいわとわけのかみ)」の名があります。同神については「またの名を櫛石窓神・豊石窓神という」とあり、また「御門の神である」と記しています。(「『古事記』天孫降臨の段」)

宮中の神祇官西院において「御門巫祭神 八座」に、櫛石窓神・豊石窓神が4面の門に各1座ずつ祀られています。(「『延喜式』神名帳」)

同「『延喜式』神名帳」において、「丹波国多紀郡に『櫛石窓神社二座 並名神大』」と記載され、2座として名神大社に列しています。


現地案内板には「天照大神の天の岩戸隠れ」の際に、櫛石窓神・豊石窓神が御門を護った、とあります。


この「天照大神の天の岩戸隠れ」関連まめまめ知識。

「まずは岩戸のその始め。隠れし神を出さんとて。八百万の神遊び。これぞ神楽の始めなる」(「三輪」)

神楽舞、の原点は、岩戸の前で八百万の神々が遊んだもの、と。
おひゃーらーりーいやーららーりーいやーらあらあらあらあひゃーいとー。
(おかしくなったん違いますっ。お笛の音色をこうやって歌うのですっ)







右から、拝殿・本殿・宮山

宮山の頂上付近に巨岩がみっつ。
「宮山は神奈眉(かんなび)、巨岩は磐座(いわくう)」「磐座は櫛石窓神・豊石窓神降臨の磐山で、禁足の神跡」(現地案内板)


「ご神体である岩座」のある神域を神奈備(眉)といい、それが宮山である、ということ。


背後に宮山。


実は「ばんざいカメラ」で撮影しました。身長欲しい…。



しかし、お約束の。

光秀の丹波侵攻いけいけどんどんの兵火により一切を焼失。

災厄を追い払い皇居の御門を守護する神の鎮座する神社として朝廷や領主の信仰を集め、大芋(おいも)荘他48村の総社であり、丹波唯一の名神大社も戦の炎には一瞬にして焼かれてしまったのですね…。


ここの隣には私のものがあります。



やめなさい。

はー。

光秀もこんな景色を見たのかな。


櫛石窓神社でしたー。


皆様の応援がありがたいです。ポチ、していただけたら神楽を舞います
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丹波篠山城に敵が来た。どうする?馬出じゃー!古墳じゃ!磔じゃー!

はい、こんにちは。まだ丹波篠山城です。

本日は、敵が来たとの情報により、皆で迎え撃つ仕度を一緒にしてみましょう。
















小林家長屋門(江戸時代後期築)




現地集合もオケー。


土塁のまま堀と共に残る点が貴重な南馬出。



図面で見てみよう。

ここで敵を迎え撃つ出丸の働きを持ち、内堀から本丸に続く要所を守ります。
また、隊列を整え、出陣に備える役目も負います。




ばっちし。さすが藤堂高虎君の縄張り。

次。東。



ここも堀に囲まれ、ばっちし。

北側の大手門につながる要所も同様の馬出がありましたが、現在は駐車場。

あなたが丹波篠山城を攻める時はこの逆コース。

おや?敵は帰っていきました。


お花見わっしょい。


光秀の亀山城の亀岡市から丹波篠山の南部を通り、姫路につながる国道372号線は別名「デカンショ街道」。



国道の北の道を丹波篠山から東へ、ぼけーっと走っていると、関西人には見慣れた光景が。



こふん。

古墳時代中期(5世紀)前半に築造の大規模な前方後円墳の定型。
全体を見るには高台に上らないと無理。それが古墳。

埋葬主体に長持型石棺。頸鎧、短甲、衝角付冑等の武具、刀剣、鉾、鉄鏃等の多量の武器を副葬していました。
明治33年(1900)に、宮内庁によって陵墓参考地に。全長140m。

中央のヤマト政権との繋がりがあったのかな、っと、しみじみする南向かいには…

です。勘違いしてるのはスルー。

はーい、しつもーん。
せんせせんせ。お山のてっぺんの凹みは、ただの空間ですか?人工的なもんですか?


ここを治めていたのが波多野秀治。

彼に属していた「荒木鬼」の荒木氏綱が築いたのが交差点にある…


明智光秀の丹波攻めの際に、城砦を構えて徹底抗戦するも落城、降伏。
光秀と秀治とを取り持ち和議を計りますが、約束に反して波多野秀治は安土で磔に。


まあ、息子を仕えさせたんですけどねー。

本能寺後、荒木氏は明智氏と運命を共にして細工所城は廃城となりました。


丹波篠山城のまわりは、古墳もあっちこっちにあり、お城跡地もいっぱい。

ぜひ、丹波篠山へおこしくださいまし。ふごー。


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桜の丹波篠山城は天下普請の突貫工事。刻印石で自己主張!

天下普請シリーズ。


丹波篠山城です。

1609年(関ヶ原後)、家康が、山陰道が通る要所であるここに、大阪城の豊臣方や西国大名の抑えとして建築を命令。はい、天下普請。


普請総奉行の池田輝政、20を数える大名の助力で、わずか半年で竣工。



井伊直政の正室の兄弟である松平康重(家康の今川から独立時からの家臣、松平康親の子)が入ります。以降、松平三家八代、青山六代と続き、明治を迎えます。


さて、行きますよー。





ここも、虎口の一種です。クランクしていて門は見えず、かくんかくんっと折れ曲がる手間がかかります。

敵が手間取っている隙に、上からいろんなもんをどすんどすん、っと落とせばオケー。


この石垣には…

丸に小、の印の方々。
ここから4キロほどの距離に石切場があったので、お互いに間違えないように目印。
石をめぐって喧嘩させたい徳川方の狙いを回避。

と、うちがやりましてん、見て見て見てー!の印。



二の丸跡地。

当時の図面を元に原寸大に間取りを描いてる地面。ないすあいであ。



私のツボは、ここ。

でも風呂に入ってても、ぷわーんっとにおったのではなかろうか。

大手口と反対側に埋門。閉まってる。ち。

埋まってます。入ってきた時は、目の前には階段しか見えず。













この埋門側の石垣には刻印石が集中しています。

刻印石コレクションは、ぼちぼちご紹介します。

さてこの篠山城。皆が頑張って造ったのに

と言われ、天守閣は最後まで作られず。


代わりに本丸の南東隅に天守台と一層の櫓を作りました。


基礎から見ても小振りな櫓だったようです。

天守台からの眺め。




波多野氏の八上城があり、丹波攻めの際に明智光秀が兵糧攻めを行って落城。
光秀の母(もしくは伯母)が磔にされた城(後世の創造かもしれん)。

関ヶ原後は

篠山城完成後は廃城となりました。







この丹波篠山には毎週通っていた時期があるくらい好きな場所です。

丹波栗、丹波黒豆の枝豆、自然薯、丹波牛、里芋、など食材豊かな土地です。
冬と春の篠山春日能には、関西の名手の先生が演能されます。

皆様もぜひおこしくださいませ。


おまけ




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丹波篠山は桜満開の桜祭り開催中!

今日の朝はさぶかったですね。
桜を見たくて、丹波篠山へドライブしました。


うわあ♪大手口、きれいだなー


みっちりですわぁ


角っこよぉ!算木積みよぉ!


刻印石なのよ、奥様!


まあ、素敵な天下普請


いしづみぃいしづみぃ♪



丹波篠山城、やでぇ!


詳細はまたご報告致します。

あ、今日はこんな催しがありまして。

もう41回を数える歴史ある演能です。

そしてお土産はここで。



おほほほほほほ。


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