閑話休題。屋根を支える力士くん

こんにちは。

私、世界ふしぎ発見を見ていたはずなのに、おかしいわね。お外が明るいわ。

ということで、但馬妙見日光院【第6回】



ということで、本日は閑話休題。

お屋根を支える力士さんです。


書写山園教寺。

奥の院へ行くと・・・


開山堂。1671年建造。


ここにも力士さん。伝・左甚五郎作。


後ろ姿は、リアル力士。


かわいいの。

あまりに重たいので、北西隅の力士さんは脱走。

そろそろ戻ってきてもいいんじゃないかしら。ふふ。



いつも応援いただきありがとうございます。あー、びっくりしたー。洗濯機の中には洗い終わったものがくちゃくちゃのまま~。洗い直さなくちゃ。この記事、書写山のカテゴリに入れたんで過去記事を見たんですが。一年前は官兵衛巡りしてたんですねぇ。文書が拙くて恥ずかしい。
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軍師官兵衛紀行の書写山円教寺の本堂は摩尼殿です。弁慶がいます。

書写山円教寺の観光案内。続きます。

三之堂から、てくてくします。




樹齢700年、幹の太さ8.4mの杉の巨木。




お客さん、肩、こりこりでんなー。


栂の巨木。剛毛。


古すぎる。

しばらくして、着きました。

天禄元年(970)創建。


ある日ここで、天人が桜の樹を礼拝するのを見て、

誰かがその生えてるまんまの桜の生木に観音像を刻んだ。

桜の樹、受難。

それが本尊の六臂如意輪観世音菩薩。1月18日だけ開扉。

「摩尼殿」のマニは、梵語の如意のこと。
如意、輪、観世音菩薩がいるのでマニ殿。

残念ながら失火で焼失。これは大正の再建。

まず、裏から回ります。さっきの道から続き。








さぁて、正面からお参りします。






この摩尼殿が、西国三十三箇所巡り第27番札所。
この下は、ぎゅーぎゅーの人混み。
画像下に写り込んでるのは、心霊現象ではなく、線香の煙。

先達さんに連れられた団体さんが多数。
ご朱印もらってお経を納めて…とても丁寧に回るんだなあーっと。






石が好き。


基礎、兼、土留め、的な石積。




ところで、比叡山の「西塔の傍らに住まいする武蔵坊弁慶」(能楽「橋弁慶」)ですが、「西の比叡山」と称されるここ書写山で育ったという伝説あります。幼名、鬼若丸。






鬼若丸が昼寝から目覚めたら皆が爆笑するから、「?」と映した鏡井戸。お顔に落書きされていたので、怒った鬼若丸。大喧嘩のあげく…


楽しい伝説。

弁慶好きな方々とコトさん、やんちゃな鬼若丸はいかがでしょう?

朝一番に来たのに、お昼時となり…


はづき茶屋で、お昼ごはーん。

おいしかった。お母さんのごはん。

これで書写山円教寺のご紹介はおしまいです。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。


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軍師官兵衛紀行の書写山円教寺「三之堂」を写真満載でご紹介です

きゃー!わははーっと、爆笑してしまいました。
書写山…皆さん言いにくそうでしたね。
しょしゃざん…ちょちゃじゃん。



前記事やカテゴリ「書写山圓教寺」とあわせてご覧ください。


書写山の秀吉本陣と山中鹿之介のいる上月城の位置はこんな感じ。

書写山から上月城の距離は50キロ。
書写山から三木城の距離は35キロ。(姫路から南東)

山陽自動車道を走ると東から「淡河(おうご)」「三木」「姫路」の地名が並び、運転しながら笑顔です。

書写山の東隣の山が、懐かしの広峰神社の広嶺山、その隣が黒田休無おじさまの有明山城の増位山です。

さて、書写山。

三之堂ご紹介。

大講堂。本尊は釈迦如来。両脇に文殊菩薩・普賢菩薩。


まずはお参りします。




…なーんだ。じゃ、他のとこ見ようっと。

あれ?

モップを持ったお寺の人発見。追っかけよー!


荘厳な空気が流れてきます。内陣は異空間です。


よっこいしょ。








食堂(じきどう)



よっこいしょ。



食堂は中に入れます。2階は書写山の仏像等が展示されています。
写真撮っていいかわからなかったので…これありました、の、絵。

赤い柱のつもり。実物は縦書き。

本堂の摩尼殿の柱に残された落書き彫り。小一郎は、秀吉弟の秀長。
直径50センチの柱。ほ、ん、ど、う、の、柱。

秀吉は「わしの護持仏にするでよぉー」っと、摩尼殿のご本尊の如意輪観音像を持ち去ってるし。

戦略が思い通りにならなかった秀吉は2年後に手放し、その際如意輪観音様は鶴に乗って帰ったという言い伝えまで付属。

仏前にお供え物を置く「書写塗の大壇」まで持ち去るとは。なんてこったい。
(室町時代に製作された大壇は、幸い平成12年に書写山に戻り平成23年までお寺で使用したものが展示されてた…え、使ったんかいっ)

秀吉およびその一味!お寺さんで粗相をするんじゃありませんっ。いくら「いただきまーす」な時代とはいえ、お寺さんはいけませんっ。

名古屋弁では「だちかん」っといいます!


常行堂





舞台は正面の大講堂内の仏様に舞楽を奉納するためのものらしく。
ここで能楽「東北」が奉納された写真がありました。


常行堂とは、常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を呟きつつ本尊の周りを回る修行)するための重要な道場。
大きさは5間×5間で、東向。本尊は阿弥陀如来。


この常行堂と大講堂の1階屋根と、食堂の2階が同じ高さ。


食堂2階から見た風景。




すべてがでっかい三之堂でした。


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軍師官兵衛が秀吉におすすめした書写山円教(圓教)寺をさくっとご紹介致します。


大講堂


常行堂


食堂(じきどう)

ここは「西の比叡山」とも呼ばれる書写山円教寺(圓教寺)の西谷にある「三之堂(みつのどう)」


(背景は書写山からの眺め)
本多家廟所の場所にはかつて五重の塔があり、これを含めて中世伽藍配置となります。建物は全て落雷・火災で焼失。五重の塔を除き十五世紀半ばの室町時代に再建・現存。

別所長治が毛利に寝返ったため、秀吉は官兵衛のおすすめ書写山円教寺に本陣を移します。広いし、眺望もきくし。


「官兵衛と同じ景色を見よう!」開催中。

でも伝令はいちいち登山しないといけないよねー…気の毒に。

違うでしょ。

境内をさくっとご紹介。


姫路藩主本多家廟所


姫路藩主徳川直基墓所


姫路藩主榊原家廟所


奥の院開山堂軒下を支える力士。左甚五郎作。甘えん坊。


和泉式部歌塚
「冥きより冥き道にぞ入りにける 遥かに照らせ山の端の月」


東谷には

西国三十三箇所巡りの第27番札所。


見上げるのもたいへん。

それから

…境内にはたーくさんの種類コケがあるのっ。

さて、英賀御堂のところでご紹介したのですが

英賀御堂からこの梵鐘が強奪され、信徒が必死に奪い返した事件。


新興勢力である本願寺と旧勢力と争いが起きたわけですね。


そんな書写山円教寺は、四季折々の美しさが実感できる素敵なところです。
実はカテゴリで書写山円教寺をたてておりまして。よろしかったらお運び下さい。本多家代々をご紹介したり、してます。



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《書写山》奥の院へ左甚五郎作のおしりを見に行く






1316年建築。書写山で最古の様式をもつ建築物。
三間四面で、手前の一間は礼堂。


三間、つまり柱の間がみっつ。
手前一間が礼堂だから、奥の二間が本堂。造りの違い。

解体修理の時に、この辺りから奈良時代の遺物が出たので、書写山ができる前からここには何らかの宗教施設があったかも…だとか。






室町時代建築。薬師堂と同時期・同仕様。
ただし、礼堂がついてない。



奥の院へ向かいます。



奥の院。




1589年建築。本殿は庭を挟んだ向かいにある護法堂。
神社形式をとる仏殿の様式が珍しいのだと、現地案内板。


開山の性空上人(1007年没)を祀る。
性空上人の骨を内蔵した等身大仏像がある。骨…。
建物は1671年再築。


右側の護法堂が工事中のため半分見えず。悔しいから合成。

さて、開山堂へ。







かりょうびんが
天人や観音菩薩が現れるとき、前触れにふわふわ飛んでくる人。
この人達が来るときは、いい匂いがしてきて、音楽が聞こえてきて、お花が舞うの。
この人は琵琶を演奏中。




軒下の四隅に、左甚五郎作の力士像。


そうなの。


北西の力士君は、あまりの重たさに脱走。

甚五郎さん、納期に間に合わなかったの?



ここは、この↓

の、乙天童子(不動明王の化身)を祀る。

若天は?

あまりに不細工ちゃんだから、性空上人が暇を出しましたとさー。
ひどい(T_T)


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《書写山》ロープウェイに乗って本堂へいざ!

書写山へ来てね、と言ったからには境内をご紹介。

朝一番のロープウェイで、書写山に向かいました。
あ、ほんとの朝一番は、お寺の職員さん専用でした f(^_^;




ロープウェイ山上駅近くの丁石。麓の登山口(参道入口)がスタート地点。




これより聖域。






1579年正松町天皇が「岡松院」と命名。
赤松満祐が16歳で他界した娘の為に建てたとされ、後に、同じ正松町天皇により「十松院」の勅号を賜ります。

非公開なので詳細不明。
壽量院と同じ、書写山圓教寺独自の塔頭形式をもつらしいです。


鎌倉時代ですよー。


実は…


「(比叡山延暦寺の)西塔の傍らに住む武蔵坊弁慶」の名乗りは謡の世界では、ちょー有名なフレーズ。

書写山圓教寺は、別名「西の比叡山延暦寺」。同じ天台宗。
だからここに弁慶のお手玉があっても不思議じゃないのかしら。

なんたって、英賀から梵鐘を強奪しちゃう元気な僧兵在中の書写山だから?



忠政工務店施工。


西国三十三箇所巡りは、ここでご朱印をもらいます。




書写山圓教寺はじめ、大きなお寺にある「塔頭」は各地の「講」の宿所を兼ねました。
創建・由緒は不明ですが、現在も網干観音講さんの宿所となっているそうです。

網干は、姫路市の南西部。揖保川(龍野の揖保川の下流域)沿い。



朝一番のロープウェイに乗って、どどどどどーっと歩いたわけは、




本堂到着。


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《書写山》松平直基廟所…誰か直してあげてっ

松平直基(なおもと)。

徳川家康二男の結城秀康の五男。つまり家康の孫。

1648年に、西国探題職として姫路藩主に赴任するよう命じられます。
おうちは、出羽国山形城。

どえらい、遠い…(T_T)

はるばる山形から姫路に向かう途中、江戸で発病し姫路に入らないまま、逝去。相模国最乗寺に葬られました。

後に、直基の子の直矩が姫路藩主となってから1670年に相模から分骨して墓所を作りました。



















静かなところに、ぽつん…と、あるのです。

同じ松平さんちでも、寂しい人…(T_T)

あー、でも、墓所ならこれが正解なのかしら。
忠勝君ちは、忠政が書写山の恩人だから一等地なのかしら。


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《書写山》榊原家廟所

【姫路藩主榊原家】
第1期 忠次・政房・政倫
第2期 政邦・政祐・政岑・政永

忠次・政邦は増井山随願寺、他は書写山圓教寺に廟所。


随願寺の忠次・政邦の廟所。





「式部大輔侍従従四位下源朝臣」


書写山圓教寺にある榊原家廟所は、政祐の養子・政岑が1734年に建てました。



政房と政祐が並んでいます。


「刑部大輔従四位下源朝臣」


「式部大輔従四位下源朝臣」

お墓は、手前にある石碑ではなく、奥の五輪塔なのです。
お間違えなきよう。



石積が麗しい…


まわりこんでみた。




誰だ、わたしゃ…。









正面だけ、麗しくしたのかな。


書写山圓教寺に、徳川四天王の本多忠勝と榊原康政の直系子孫の廟所があるのが、趣深いです。

それだけ姫路って重要なトコロなのですね。


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《書写山》本多家廟所⑦ 本多さんちが大騒動で松平様の登場!さあ、書写山へ行こう!

    忠政ー(忠刻逝去)ー政朝ー政長(本家だけどちびっこ)
忠勝[
    忠朝(忌むべきは酒の人)ー政勝


政勝。忠朝の嫡男でしたが、父が戦死したときわずか2歳。

初代忠勝の遺訓「ちびっこは継いだらいかん」のため、父の跡を継げずにいました。代わりは、夢の人・政朝。(⑥参照)


政朝の辞世「夢の世の夢の内なる夢の身の夢の浮橋今とたえたり」

ところが兄・忠刻逝去のため急遽本家に戻った政朝。
姫路藩を継いでまもなく、大和郡山藩15万石に移動になります。

大多喜藩→移動して龍野藩主、の地位は、本来継ぐはずだった政勝に戻されます。政勝、やっと藩主になれた。


ところが政朝が早逝し、嫡男はちびっこ政長。これでは忠勝系本多家は継げません。
「政長が成長したら本家の家督を譲れ」と遺言を残し、政朝は政勝に家督を譲りました。


しかぁし、自分の子に跡を継がせたくなるのが人情ってもんで。

やらかしまっせ、政勝。

政勝は、実子の政利に継がせようと画策し始めます。

その最中、政勝逝去。おい(ノ-_-)ノ~┻━┻


はい、家督を巡るお家騒動の勃発です!!

大和郡山藩15万石は、本来襲封するはずだった政長に9万石、政勝実子の政利6万石、に分割されます。
これを、九・六騒動、といいます。

大和郡山の他に既に相続していた姫路新田3万石とあわせ12万石持ちとなった政長。

しかし、あほーな政利は、父の所領丸ごと15万石を相続できなかった恨みで、政長を毒殺。

したとかしないとか。

しかし、政長、さすがは夢の人の子(?)、幸いなことに、養嗣子をとっていました。


じゃーん!

松平頼元の次男坊、忠國君でーす!

経歴は…水戸藩初代藩主・徳川頼房の孫で、2代藩主・みとこーもん徳川光圀の甥。

まつだいら、だじぇー♪


政長死後、家督相続と同時に福島15万石に転封となり、後、姫路15万石に転封となります。

本多家の姫路藩主の第2期の初めとなります。



お利口さんの忠國は、不遇だった養父・政長の廟所をちゃんと大和郡山から移動させ、自分の横に廟屋を建ててあげました。
(政勝は排除?)



政長、父の政朝と祖父の忠政の前にいて、横には優しい養嗣子忠國。ううう…(T_T)


忠國は、誠意あふれる人だったようで。

赤穂四十七士吉田兼亮の娘婿伊藤治興が家臣にいたためか、1703年に吉田兼亮の遺児吉田兼直が連座して伊豆大島へ遠島となると、幕府に許可されている持ち込み上限の金20両・米20俵のぎりぎりに近い、金19両米19俵を伝内に贈って支援しています。

藩主在任中に死去し、家督は三男の忠孝が継ぎました。


ちなみに、政長を毒殺したらしい政利は、忠國に所領の一部を返還させられ、減封・転封を繰返し、侍女殺害や領民への過酷な使役などの不行状で除封、岡崎城に幽閉されました。


そんな、本多家の廟所。



忠勝の横に忠刻とその息子の幸千代の五輪塔。


書写山へ、おいでませ。

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《書写山》本多家廟所⑥ この世は夢の中…政朝の流転人生

忠政と熊姫の子、長男・忠刻は千姫を嫁にもらうも嫡男幸千代は3歳で早逝、本人も後を継ぐ前に早逝。

で。

次男坊の政朝登場。

嫁は、


の、忠朝(叔父)の娘。つまり、父方の従姉妹。

次男坊だった政朝は、当初は忠朝の嫡男(政勝)が幼少だったため、

忠勝遺訓「ちびっこに家督を継がせてはならん」に従って、

政勝の代わりに上総大多喜藩の第2代藩主となり、後、龍野へ移封。


しかし、実の兄の忠刻が早逝したため、忠勝系本多家(宗家で、実家)の嫡子となります。


「父ちゃん、俺っていったい…」

「仕方ねーんだ、忠刻が死んだから」

そして、父・忠政の死後、姫路藩主となりました。
もともと持っていた龍野5万石は、弟の忠義と従兄弟の政勝が継ぎます。


上総大多喜藩は、嫡子が幼少のため、次男坊だった政朝がたまたま継いだ。

姫路藩主は、兄の逝去のため急遽継いだ。

頑張れよ…政朝。



生前からの約束で殉死した大谷三兵衛政明が廟屋の中で寄り添ってます。

政朝の辞世「夢の世の夢の内なる夢の身の夢の浮橋今とたえたり」


政朝ー!  ゜゜(´O`)°゜


政朝逝去時、嫡男はまだ6歳。さあ、嵐の予感!!


続く!


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