こんにちは。

鎌田政清が見つめるのは、

主であり乳兄弟でもある、源義朝。
二人を討った長田親子は、義朝の嫡男・頼朝により「みのおわり」を与えられました。

頼朝、とーちゃんの仇を討った。
恨みを忘れない頼朝は、反面、恩も忘れない。

建久元年(1190)命の恩人・
池禅尼の経塚を建立。
池禅尼は、平清盛の父・忠盛の正室(後妻)であり、清盛の継母。

清盛に頼朝の助命を嘆願し、頼朝の命を救った池禅尼です(『平治物語』)。
池禅尼の父は藤原宗兼。
叔母に、当時、宮廷社会で勢力を誇っていた善勝流藤原家保の妻。
家保は、父・顕季の母(家保の祖母)が白河天皇の乳母となり政界に進出し、白河・鳥羽・後白河を経る間も常に院近臣の中心人物でした。
息子・家成も、鳥羽院有力近臣として絶大な権勢を振るい鳥羽殿の安楽寿院や三重塔を造営。
また、鳥羽院との間に近衛天皇を生んだ
美福門院は家保の姪、家成の従姉妹。
清盛の父・忠盛の出世はこの妻・池禅尼(宗子)の縁から、家成との結びつきを強め白河院・鳥羽院の恩寵を得たことが大きく。
さて、頼朝。
平治の乱で敗れた父・義朝と東国への逃亡途中ではぐれ平氏側に捕らえられた頼朝は、永暦元年(1160)六波羅の清盛の前に引き出され。
その頼朝を見た池禅尼は、

頼朝に亡き我が子・家盛の面影を見て

ハンガーストライキも辞さぬ勢いで助命を嘆願したとか。
亡き我が子に似てるだけでここまでするか?
裏には、
熱田大宮司家(頼朝の母実家)の働きかけもちらほらずどんっと(wikipedia/元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』)。
池禅尼は、頼朝の外祖父である熱田大宮司・藤原季範の伯母。
【熱田大宮司家とレディース】
頼朝母・由良御前の父は、尾張氏に代わり熱田大宮司となった藤原季範でしたね。
この頃の熱田大宮司は熱田ではなく、在京。
藤原季範は娘達(由良御前の姉妹)を、
待賢門院や
上西門院に女房として仕えさせています。
《レディースその1・外堀★待賢門院》待賢門院は、鳥羽院との間に崇徳・後白河両天皇、
上西門院(統子内親王)。
鳥羽院は、
美福門院との間に近衛天皇。
つまり、待賢門院と美福門院は恋のライバル(違)
★待賢門院と熱田大宮司・藤原季範★
季範の娘(由良御前の姉妹)が女房として仕えます。
他に、藤原季範の弟・憲実は待賢門院の御願寺円勝寺に入り、寺院内のこといっさいを掌る都維那(ついな)にまで昇進。
《レディースその2・内堀★上西門院》鳥羽院と待賢門院の娘で、後白河の同母姉。
★上西門院と熱田大宮司・藤原季範★
季範の娘(由良御前の姉妹)が女房として仕えます。
(由良御前も上西門院の女房であった説あり)
季範の甥・頼朝も上西門院(統子内親王)が皇后に昇ると皇后宮権少進に任じられ、さらに平治元年(1159)より上西門院蔵人となり、仕えておりました。
※同年、由良御前は死去
このことから、熱田大宮司家が頼朝助命に
上西門院を動かし、上西門院と親しかった
池禅尼に口添えを頼んだと言われています。
また、清盛には、後白河法皇より働きかけがあった可能性もありますね。

「頼朝、レディースに助けられる」の巻でした。
◆熱田大宮司家メンズの動向◆藤原季範の弟・憲実は待賢門院の御願寺円勝寺で、寺院内一切を掌る都維那(ついな)にまで昇進。
藤原季範の息子達は、範忠は後白河近臣、範雅は後白河天皇の北面として仕え、祐範は園城寺に入っています。
【祐範(ゆうはん/すけのり)】平治元年(1159)上西門院蔵人として頼朝が仕え始めた年に亡くなった
姉・由良御前の仏事を執り行い菩提を弔った、僧侶です。
※熱田大宮司家一門には、神職だけでなく関連する寺院の僧となる家系もありました。
この祐範が入ったのは、園城寺。

伊豆国の蛭ヶ小島へ流される14歳の甥・頼朝には従者を付けてやり、

伊豆で過ごす頼朝には、毎月使者を送り、影ながら援助。

「頼朝、(母を通して)メンズに助けられる」の巻でした。
【例外】
熱田大宮司家こぞって頼朝の助命に奔走したかというと、例外あり。
藤原季範の長男・範忠です。
平治の乱の時には、義朝に味方をせず。
さらに、義朝を野間で謀殺した長田忠致・景致親子に派兵をし。
頼朝の同母弟・源希義を潜伏先の駿河国香貫(現沼津市上香貫、下香貫)にて生け捕り、朝廷に引き渡し。
(※希義は頼朝と共に池禅尼の助命嘆願により土佐へ流されますが、頼朝挙兵時に土地の者により討たれます)

なにやっとんねん。
まあ、尾張国目代の子から熱田大宮司となり、懸命に家をもり立てようとした父・季範に比べ、範忠は「生まれながらの」熱田大宮司家のぼんぼん。
当時はまだ武家政権は確立しておらず、地位も低い。
そんなもんに関わりたくもなく、時勢にのっただけなのでしょうねぇ。
この範忠。
どうも父・藤原季範とは何らかの確執があったようで。

外祖父・尾張員職の夢の託宣により熱田大宮司の座に就いた藤原季範。
今度は、「悪夢の託宣」により、大宮司職を長男・範忠ではなく、五男の藤原範雅に継がせます。
範忠が熱田大宮司職に就いたのは、父・季範の死後でした。

恨みも恩も忘れない頼朝。
藤原範忠は、頼朝が武家政権を確立する前に他界したのが、幸いでした。
いつも応援いただきありがとうございます。
すみません、長くなりました。頼朝の助命に奔走した熱田大宮司家。単純に「我が子にうりふたご」だとはたてまえで、本当は裏にいろんな事があったのですね。源平の有名人からではなく、この時代は朝廷側から見るととても面白いです。まあ、それを大河でやったらコケたようですが。

お手数をおかけ致します。ありがとうございます。