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師崎で大あさり

こんにちは。

イキテマスイキテマス。オヒサシブリブリデス。


3月の愛知県の旅で。


知多半島の先っぽ、師崎(もろざき)へ。


お醤油の、こーばしーいかほりがします。


これ。

貝柱みたいなのが、十円玉くらい。


海へ来たら必ず食べてた大あさり。

あたしゃ、どこにでもあると思ってたら、須磨の海水浴場にはなかったなり。


あああ、ビールが飲みたかった・・・


いつも応援いただきありがとうございます。
たとえぼったくりんな観光地価格であろうとも、食べなきゃおさまらないものってありますよね。海といったら、大あさり。私にはとても懐かしい味です。ノンアルコールビールを飲むのは、我慢しました。なんだか酔っ払いそうな気がしましたの。おほほほほ。

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南極観測船ふじ。名古屋港で博物館になって30年

こんにちは。


南極観測船ふじと、愛知県警の海のパトカー。


海ってだけで、何故かかっこよく見えるマジック。


海でも赤色灯を回して、ピーポーピーポーっていうのかな。


南極観測船ふじは、今は博物館。


海上自衛隊艦番号AGB-5001。

昭和40年(1965)年3月18日に進水、7月15日に竣工。

同年から南極観測船としての役割を海上保安庁の「宗谷」より引継ぎ、昭和58年(1983)年4月まで海上自衛隊により運用され南極地域観測隊輸送に従事。(wikipediaより引用)

1984年4月11日の退役後、翌年から名古屋港で「南極の博物館」として係留。一般公開されています。



日本初の極地用の本格的な「砕氷艦」です。


ブリッジ。


脱出です。


お船って、あっちこっちにお名前が書いてあるので探すのが楽しいです。


寒いだろうなー。


自衛隊のお船にも同じようなのがありました。

あっちは偵察、こっちは観測。


泳げるかどうか以前に凍死しそうです。


日本から南極まで約1ヶ月。現地でのお仕事含めたら長期間ですもんね。


ふじと昭和基地間の輸送を担うヘリコプターです。


前任の宗谷は海上保安庁管轄でしたが、

1963年8月20日の閣議決定「南極地域観測の再開について」において、輸送手段を防衛庁の担当とし自衛隊法を改正の上、新南極観測船は防衛庁が運用することに。

なので、ヘリコプターには「海上自衛隊」のロゴ。


カタカナってむずかしい。ほほほ。


うふふ。


おっきなネジみたいなのは


ふじのスクリュー。


・・・です。

そして、ふじに背を向けて


タロジロです。


いつも応援いただきありがとうございます。
そ、そうか。名古屋港へふじが来てから30年かぁ。早いなー。朝のお散歩で立ち寄ったので内部は見てませんが、確かここにもリアルマネキンな人達がいたような。

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名古屋港さんぽ。港橋と市電

こんにちは。

今回の名古屋旅では、お宿を名古屋港にしました。

朝さんぽ。


港橋です。


なんだこりゃ?橋と言われましても、水がない。


昭和40年頃までは、港橋の下には運河。


ほんとね。


何ともおマヌケなことに。

港橋は明治39年12月24日建設、老朽化のため昭和11年3月に付け替え。


港橋の辺り。広い広い歩道は下手すると車道より広い。


昭和43年の風景。灯台があったんだー。ほぉー。


今は地下鉄が通っています。


大正初期の名古屋港。おじさんが着物と袴です。あらびっくり。

朝さんぽの目的は


うふふふ。


南極観測船ふじ。


内部も見学できますよー。

そして、南極といえば


この子達ですな。

名古屋港の狛犬。


んまっ。


いつも応援いただきありがとうございます。
やっぱりお宿は海の近くがよいですわ♪夜の街へ繰り出すわけでもないので、名古屋港でのお泊まりは正解でした。普段と違う朝の空気が気持ち良かったです。

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野間大坊(8)ぷりてぃお狐様と幻の五重塔

こんにちは。


義朝墓所を後にして、


なんでしょう?


だって1階がすっけすけ。見張り台とか展望台とか・・・

鐘楼です。


ここには、建長2年(1250)の銘をもつ梵鐘(重文)が。


鎌倉5代将軍藤原頼嗣の寄進です。

背後には、


お寺の境内に、鳥居。


ここにいたお狐様が


この、赤いきつねっぽいものに入って


ほのぼのしながら


いろいろと助けてくれた子達です。うふふふ。

このお稲荷さんの付近には


五重塔があったらしい。


建久元年(1190)10月25日。源頼朝、野間大坊を訪問。

頼朝により本堂、講堂、食堂、開山堂、鐘楼、浴室堂及五重塔、相輪塔、仁王門、客殿等の大伽藍を再建されています。

しかし。


享禄4年(1531)の兵火で、仏様と大門以外を焼失。



慶長5年(1600)九鬼嘉隆の兵火で大半を焼失。

五重塔も、燃えちゃったんだろうな。


源氏を称する徳川家康登場。

家康の母方の従兄弟が、大御堂寺中興開山・長圓法印。

尾張藩主・徳川義直の命により野間大坊の住職は、家康の外戚・水野氏(守信系か守信外戚の河和水野氏)が代々つとめました。


「野間大御堂寺境内 五重大塔再建寄附物勧進帳」(文政7年/1824)

勧進帳とは、


建設資金を集めるための企画書。


享禄4年(1531)兵火のため、伽藍諸堂悉灰燼に帰す。

天文年中本堂鐘楼別当客殿方丈大門を修営、成就といへども開山堂鼓楼五重の塔未だ修造ならず、塔中に安置の本尊大日如来は今大坊内殿に安座したまま星霜を経る。

大坊八世先住良圓法印これを深く悲嘆し再建を発起し、広く有縁無縁の懇志の清財寄進を勧進する。

附:大御堂寺中興開山長圓法印東照大神君母方の従弟であり、その縁で国主及び水野氏と大御堂寺大坊とは多くの因縁がある。


「日本の塔婆『尾張野間大坊大御堂寺』」より引用
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_nomadaibo.htm



『尾張名所図会』(天保12年/1842)には、見当たらず(この辺ってとこ)

文政7年(1824)に五重塔の勧進を起案した野間大坊第8世・良圓は、文政6年(1823)に没しており、『尾張名所図会』(天保12年/1842)に五重塔の記載がなく、


また、現在も五重塔はおろか礎石も何にも見当たらないことから、


結局、五重塔再建は勧進だけで終わったのかな?


参考&引用サイト

日本の塔婆「尾張野間大坊大御堂寺」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_nomadaibo.htm


文政七年九月「野間大御堂寺境内 五重大塔再建寄附物勧進帳」:「知多半島収集研究室・竹内 進 所有」



いつも応援いただきありがとうございます。
志半ばでご他界された良圓、さぞかし無念だったことでしょうね。この良圓の死により五重塔建造は出来なかったのかな。勧進帳(文政7年)の少し前から外国船(主にイギリス)が姿を見せ、幕府が異国船打払令を出し、持ち出し禁止の日本地図を内緒でお土産にしようとしたシーボルトが捕まったり、何やら忙しい時代だったことも背景にあるのかしら?

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野間大坊(7)織田信孝墓所。昔より主をうつみの野間なれば

こんにちは。


野間大坊(大御堂寺)には、野間で落命した源義朝 の墓所。


義朝の乳兄弟で共に野間に散った 鎌田政清 とその後を追った妻。


敵方ながら、義朝の菩提を弔うため野間大坊大御堂寺を整えた 平康頼

※後世に建てられた供養塔で義朝墓所地外にあります。


頼朝の命を救った 池禅尼

と、ここまでは、頼朝シリーズ。

この中に、1基だけ、ちょっと異質な存在が。


織田信孝の墓です。

織田信孝は、織田信長の三男。


信長には、長男・信忠、次男・信雄、三男・信孝、以下多数。

信長の伊勢攻略後、鈴鹿市の神戸城主・神戸具盛(かんべとももり)の養嗣子となり、神戸三七郎、神戸信孝を名乗ります。

神戸を名乗った後でも信長の三男として信長や信忠に従い、連戦。

天正10年(1582)信長は四国征伐を計画。

総司令官は、信孝。

所領の北伊勢の河曲・鈴鹿2郡の15歳から60歳に至る名主・百姓を尽く動員しても足りず、伊勢国内の牢人衆、伊勢各地の国衆、近隣の伊賀衆・甲賀衆、紀州の雑賀衆、さらに丹州(丹波国・丹後国)からもかき集めた軍勢でした。(wikipedia)


ところがそこへ、


本能寺の変

この時、大阪の堺で戦の支度をしていた信孝はいち早くニュース速報を知り、知り、知りますが・・・


四国征伐のために急きょ集めた兵は、雲散霧消。

中国大返しで戻ってきた豊臣秀吉と合流し、「総大将」として山崎の合戦を戦い、明智光秀側に勝利。


信雄と信孝が臨席出来なかった清洲会議
で、信長の後継は三法師に決定。

信孝は兄・信忠の領地の美濃国一国と岐阜城を与えられ、岐阜城へ。


サルに対し、鬱憤ぷんぷんの信孝(岐阜)は、

柴田勝家(越前)、滝川一益(伊勢)と秀吉包囲網を形成。

天正11年(1583)正月。伊勢で滝川一益が挙兵。3月に勝家、信孝も挙兵。

賤ヶ岳の戦いの始まりです。

しかし、敵もサルもの。

信雄を前面に出し、美濃の国人衆を信孝から引き離すことに成功。

そして、


柴田勝家、北ノ庄城で自害。(画像/賤ヶ岳近くの余呉湖)

秀吉、岐阜城を包囲。


信孝の家臣の大半は伊勢国の神戸衆や外様。去るのは早い。

信雄の持ちかけた和議により、


信孝、岐阜城を開城。


信孝は長良川を下り、(画像/江戸時代の尾張)

尾張国知多郡の内海の、


野間大坊大御堂寺の安養院へ。


天正11年(1583)5月2日。

ここで信孝に告げられたのは、

自害。


告げたのは、兄の信雄(with 秀吉の意向か)。



信孝は自害の際、お腹の中身をつかみ出し、床の間の掛け軸に投げつけて。

辞世

むかしより 主(しゅう)をうつみの野間なれば

むくいを待てや 羽柴ちくぜん



うつみ=内海・討つ身

信孝が用いた刀とお腹の中身を投げつけた梅の掛け軸は、野間大坊に現存(非公開)




平治の乱で敗走した 源義朝 が、相伝の家臣であり乳兄弟・鎌田政清の舅である長田親子に討たれたのは、ここ、内海の野間。



裏切りの長田親子 は、義朝の嫡男・頼朝 により磔にされました。

しかし、

信孝の無念を晴らす者は現れず、


とても寂しくお気の毒な信孝です。



いつも応援いただきありがとうございます。
えーっと、これを言うと元も子もないのですが、信孝の辞世は、後世の創作とされております。信孝自害当時は、まだ秀吉は天下を取っておらず、兄の信雄が実質的に織田信長の後継として振る舞っており。信孝が恨んだのは秀吉というよりは、兄の信雄でしょう。しかし、源義朝の故事になぞらえたこの歌は、信孝の無念をよく表していると思います。

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野間大坊(6)池禅尼経塚。頼朝レスキューと熱田大宮司家

こんにちは。


鎌田政清が見つめるのは、


主であり乳兄弟でもある、源義朝。

二人を討った長田親子は、義朝の嫡男・頼朝により「みのおわり」を与えられました。


頼朝、とーちゃんの仇を討った。

恨みを忘れない頼朝は、反面、恩も忘れない。


建久元年(1190)命の恩人・池禅尼の経塚を建立。

池禅尼は、平清盛の父・忠盛の正室(後妻)であり、清盛の継母。


清盛に頼朝の助命を嘆願し、頼朝の命を救った池禅尼です(『平治物語』)。


池禅尼の父は藤原宗兼。

叔母に、当時、宮廷社会で勢力を誇っていた善勝流藤原家保の妻。

家保は、父・顕季の母(家保の祖母)が白河天皇の乳母となり政界に進出し、白河・鳥羽・後白河を経る間も常に院近臣の中心人物でした。

息子・家成も、鳥羽院有力近臣として絶大な権勢を振るい鳥羽殿の安楽寿院や三重塔を造営。

また、鳥羽院との間に近衛天皇を生んだ美福門院は家保の姪、家成の従姉妹。

清盛の父・忠盛の出世はこの妻・池禅尼(宗子)の縁から、家成との結びつきを強め白河院・鳥羽院の恩寵を得たことが大きく。


さて、頼朝。

平治の乱で敗れた父・義朝と東国への逃亡途中ではぐれ平氏側に捕らえられた頼朝は、永暦元年(1160)六波羅の清盛の前に引き出され。

その頼朝を見た池禅尼は、


頼朝に亡き我が子・家盛の面影を見て


ハンガーストライキも辞さぬ勢いで助命を嘆願したとか。


亡き我が子に似てるだけでここまでするか?


裏には、熱田大宮司家(頼朝の母実家)の働きかけもちらほらずどんっと(wikipedia/元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』)。

池禅尼は、頼朝の外祖父である熱田大宮司・藤原季範の伯母。


【熱田大宮司家とレディース】


頼朝母・由良御前の父は、尾張氏に代わり熱田大宮司となった藤原季範でしたね。

この頃の熱田大宮司は熱田ではなく、在京。

藤原季範は娘達(由良御前の姉妹)を、待賢門院上西門院に女房として仕えさせています。


《レディースその1・外堀★待賢門院》

待賢門院は、鳥羽院との間に崇徳・後白河両天皇、上西門院(統子内親王)

鳥羽院は、美福門院との間に近衛天皇。
つまり、待賢門院と美福門院は恋のライバル(違)


★待賢門院と熱田大宮司・藤原季範★

季範の娘(由良御前の姉妹)が女房として仕えます。

他に、藤原季範の弟・憲実は待賢門院の御願寺円勝寺に入り、寺院内のこといっさいを掌る都維那(ついな)にまで昇進。


《レディースその2・内堀★上西門院》

鳥羽院と待賢門院の娘で、後白河の同母姉。


★上西門院と熱田大宮司・藤原季範★

季範の娘(由良御前の姉妹)が女房として仕えます。
(由良御前も上西門院の女房であった説あり)

季範の甥・頼朝も上西門院(統子内親王)が皇后に昇ると皇后宮権少進に任じられ、さらに平治元年(1159)より上西門院蔵人となり、仕えておりました。

※同年、由良御前は死去


このことから、熱田大宮司家が頼朝助命に上西門院を動かし、上西門院と親しかった池禅尼に口添えを頼んだと言われています。

また、清盛には、後白河法皇より働きかけがあった可能性もありますね。


「頼朝、レディースに助けられる」の巻でした。


◆熱田大宮司家メンズの動向◆

藤原季範の弟・憲実は待賢門院の御願寺円勝寺で、寺院内一切を掌る都維那(ついな)にまで昇進。

藤原季範の息子達は、範忠は後白河近臣、範雅は後白河天皇の北面として仕え、祐範は園城寺に入っています。


【祐範(ゆうはん/すけのり)】

平治元年(1159)上西門院蔵人として頼朝が仕え始めた年に亡くなった姉・由良御前の仏事を執り行い菩提を弔った、僧侶です。

※熱田大宮司家一門には、神職だけでなく関連する寺院の僧となる家系もありました。

この祐範が入ったのは、園城寺。



伊豆国の蛭ヶ小島へ流される14歳の甥・頼朝には従者を付けてやり、


伊豆で過ごす頼朝には、毎月使者を送り、影ながら援助。


「頼朝、(母を通して)メンズに助けられる」の巻でした。


【例外】

熱田大宮司家こぞって頼朝の助命に奔走したかというと、例外あり。


藤原季範の長男・範忠です。

平治の乱の時には、義朝に味方をせず。

さらに、義朝を野間で謀殺した長田忠致・景致親子に派兵をし。

頼朝の同母弟・源希義を潜伏先の駿河国香貫(現沼津市上香貫、下香貫)にて生け捕り、朝廷に引き渡し。

(※希義は頼朝と共に池禅尼の助命嘆願により土佐へ流されますが、頼朝挙兵時に土地の者により討たれます)


なにやっとんねん。

まあ、尾張国目代の子から熱田大宮司となり、懸命に家をもり立てようとした父・季範に比べ、範忠は「生まれながらの」熱田大宮司家のぼんぼん。

当時はまだ武家政権は確立しておらず、地位も低い。

そんなもんに関わりたくもなく、時勢にのっただけなのでしょうねぇ。

この範忠。

どうも父・藤原季範とは何らかの確執があったようで。


外祖父・尾張員職の夢の託宣により熱田大宮司の座に就いた藤原季範。

今度は、「悪夢の託宣」により、大宮司職を長男・範忠ではなく、五男の藤原範雅に継がせます。

範忠が熱田大宮司職に就いたのは、父・季範の死後でした。


恨みも恩も忘れない頼朝。

藤原範忠は、頼朝が武家政権を確立する前に他界したのが、幸いでした。



いつも応援いただきありがとうございます。
すみません、長くなりました。頼朝の助命に奔走した熱田大宮司家。単純に「我が子にうりふたご」だとはたてまえで、本当は裏にいろんな事があったのですね。源平の有名人からではなく、この時代は朝廷側から見るととても面白いです。まあ、それを大河でやったらコケたようですが。

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野間大坊(5)源義朝を討った長田忠致親子の、みのおわり

こんにちは。


大きな本堂の右奥には、


源義朝の墓と伝えられる宝篋印塔。


平治の乱に敗退し、野間で入浴中に殺された義朝。


「木太刀の1本でもあったなら」の義朝無念の言葉にちなみ、墓所には木太刀が山盛り。


義朝の乳兄弟・鎌田政清(政家)夫妻の墓所。

義朝を殺したのは、この鎌田政清の舅・長田忠致(おさだただむね)と景致(かげむね)親子。


義朝最期の地遠景。


湯殿で最期を迎えた義朝と時を同じくして、この乳兄弟・鎌田政清も命を落とします。


先生(せんじょう)景致(=長田景致)待ち懸けて、(政清の)諸膝斬って切り伏せければ、「正清(政清)も御供に参り候ふ」と最期の言葉にて、頭殿(義朝)と同年三十八にて失せにけり。(『平治物語』義朝内海下向の事付忠到心替りの事)



落命した政清にすがる妻(長田忠致娘)は、夫の後を追います。


鎌田が刀を未だ人も取らざりければ、彼の刀を取りて心もとに差し当てうつ伏様に伏しければ、刀は後ろへ分きて出づ。二十八にて、鎌田が死骸に伏し添ひて同じ道にぞなりにける。(同上)


娘の自害は想定外だったでしょうが、やっちまったもんは引き返せず。

長田親子は、義朝と政清の首を洗い、


(首を洗ったと伝わる血の池)

都へ向かい、意気揚々と六波羅の平家の前に差し出します。

お目当ては、ご褒美♪

長田忠致は壱岐守、息子の景致は左衛門尉に。

しかしこれに対し長田親子ったら、

「昔の将門や純友にも劣らぬ朝敵である義朝・正清を討ったのに、最果ての壱岐国かよー。義朝の所領を一つ残らずもらうか、住んでいる尾張国をもらわないと納得できん。」と抗議。

清盛の不興を買います。(『平治物語』長田六波羅に馳せ参る事 )


あるいは、褒めようとした清盛を嫡男・重盛がそれを止め。


重盛からこんな脅しめいた言葉を浴びせられ、

長田親子は、壱岐守だけもらって、そそくさと都を退散。


「源氏世に出でて後、長田、掘首にせらるるか磔になるか、あはれ、長田が果てを見ばやと憎まぬものはなかりけり。」(同上)



平氏の世でさえこんな評判。源氏の世になったらどうなることやら。

そして。


やって来ました、源氏の世@ねちっこ頼朝。


昔のことは気にするな、平家追討したら美濃尾張をあげるよ、と頼朝。

長田親子、必死に頑張り、成果をあげます。


平家を討ち奥州征伐を終えた頼朝は、上洛途中で野間大坊に立ち寄り。


長田親子に、約束通りプレゼント。


「ながらえし いのちばかりは 壱岐守(いきのかみ)
 美濃尾張をば いまぞたまわり」



長田忠致の辞世とも言われる歌です。

そう、頼朝が与えたのは、美濃尾張=みのおわり=身の終わり


長田忠致・景致親子は、野間で逆さ磔、あるいは斬首(時期、場所、方法は諸説あり)されたのでした。



頼朝、よく耐えました。


自分のことばっかり言ってないで、ほめてやれよ、義朝~。


野間大坊(大御堂寺)
《住所》愛知県知多郡美浜町大字野間字東畠ケ50





いつも応援いただきありがとうございます。
下が上を選ぶことができる世であったとはいえ、あさましい長田親子についての『平治物語』の描写はけちょんけちょんで、清盛には「相伝の主や婿を討つなんてとんでもねぇ馬鹿野郎だ」と言われ、温厚だと評判の重盛でさえ「六条河原に引き出し、二十日にかけて二十本の指を切り落とし、首を鋸で切ってやりたい」と言う始末。まさに「みのおわり」は規定路線だったのでしょうね。

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野間大坊(4)伝・頼朝建立の大門と鎌倉様式の本堂

こんにちは。


(やっと)お邪魔しまぁす。


建久元年(1190)頼朝により建てられたと伝わる大門。


門といっても、ビシッと扉が閉まるわけではなく。

「ここからお寺の境内だよ」の目印みたいな感じ。


車止めがありました。突っ込まれたら元も子もないですもんね。


以前は柵で囲まれ遠くからしか見えなかったのですが、ありがたいことに柵が作り替えられ、通ることができるようになってます。


かわいいお狛。


後ろはちっちゃな牡丹。


装飾過多でない点が、いいです。


彫刻で飾らなくても、所々がお洒落さんです。


うら。


おもて。

野間大坊は、享禄4年(1531)兵火で仏様と大門以外を焼失。


よく生き残りました。(と、伝わる)


海に近いお寺独特というか、あっけらかんっと明るい境内です。


幾度も兵火に遭遇し、


宝暦4年(1754)に尾張藩により鎌倉様式で再建されました。


ちょいとびっくりする大きさです。


ずっと「野間大坊」という名前のお寺だと思ってたわ。こほ。

正式には、「鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)」


木鼻のお狛がえらくふんぞり返っているような。


のびーっと。


あー、こちょこちょしたーい。


間に挟まれ戸惑うおこま。うふふ。


本堂を眺めつつ、右奥へ進むと


源義朝墓所です。

つづく。


野間大坊(大御堂寺)
《住所》愛知県知多郡美浜町大字野間字東畠ケ50




いつも応援いただきありがとうございます。
ぬぼーっとしてたら、野間大坊シリーズはもう4回目。えらいこっちゃー。尾張藩が再建した本堂はとても大きくて、質実剛健。これが丹波などでは中井権次一統の華麗な彫刻群に覆われることでしょうが、ここにはこれがいいんだ、と思います。秀吉の建築ラッシュでいい木材は減っていたでしょうに、どっしりとした柱は素晴らしいです。

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野間大坊(3)家康の保護。代々の住職は水野氏

こんにちは。


源義朝のお墓のあるのは、野間大坊(大御堂寺)


『尾張名所図会』「大御堂寺」

現在もこの『尾張名所図会』とほぼ同じで、あっけらかんとした明るい境内です。


ほめてますほめてます。


正式には鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)、通称「野間大坊」。

真言宗のお寺です。

寺伝では、天武天皇(673~686)時代に『阿弥陀寺』として建立、弘法大師(空海)がこの地で一千座の護摩を焚き庶民の幸福を祈り、承歴年間(1077~1081)に白河天皇の皇室繁栄を祈願する寺として、『大御堂寺』と称されたといいます。(野間大坊HPより)


文書に記録が残る由緒では、『吾妻鏡』


平康頼が文治2年(1186)に小堂を建て、

建久元年(1190)源頼朝が本堂、講堂、食堂、開山堂、鐘楼、浴室堂及五重塔、相輪塔、仁王門、客殿等の大伽藍を再建。

本尊は、頼朝の念持仏(秘仏)。


『尾張名所図会』「(頼朝の)義朝公尊霊供養の図(文治6年)」


【野間大坊踏んだり蹴ったり】

頼朝により七堂伽藍が整えられるも、


享禄4年(1531)兵火にあい、


仏様と建久元年(1190)源頼朝が建てたと伝わる大門以外を焼失。


文久3年(1534)再び伽藍を修造するも天正年間(1573-)に織田信長により領地没収。

文禄4年(1595)豊臣秀吉が194石3斗3升の朱印地を寄附。


慶長5年(1600)九鬼嘉隆の兵火で大半を焼失。

※関ヶ原の戦いで、西軍の九鬼嘉隆の水軍は知多半島へ上陸し、ファイヤーしてます。


お向かいさんだもんな。くそっ。

野間大坊、踏んだり蹴ったり。


【救いの神は家康くん】


家康は野間大坊を厚く保護。

武格11万石の朱印を与え、各種武格の特権を附与。

捕鹿免状(後に犬山の成瀬さんへ)、鷹狩免許状(現存)を授与(・・・え)。



家康から鉄砲の所有権を与えられ、小規模ながら僧兵もあり。

寺奉行は野間の須賀川家で、火薬、鉄砲を管理(明治以降は花火を製造)。


諸々を取り仕切ったのは、大御堂寺中興開山・長圓法印

この人は、家康の母方(水野氏)の従兄弟です。

さぁ、家康の外戚、水野氏登場です。


水野氏は、尾張国南部の知多半島と三河国西部を中心とした一族で、戦国期の尾張三河においては織田、松平と並ぶほどの大豪族でした。

で。

水野氏宗家は徳川家康の母・伝通院(於大の方)の実家

於大の方の兄弟の水野忠守の子に、水野守信(家康の従兄弟)


尾張藩主・徳川義直の命により野間大坊の住職は、水野守信の家系、もしくは、守信の妻の河和水野氏から出すことを定められます。



現住職も水野さん。

が。


江戸時代にも火災が起きて、焼失。


本堂は、尾張藩による宝暦4年(1754)の再建。

ほんとにまぁ、踏んだり蹴ったり。


野間大坊(大御堂寺)
《住所》愛知県知多郡美浜町大字野間字東畠ケ50



参考文献

『野間町史』(「美浜ふるさと研究会叢書第3巻」/旧野間町著・山本豊治郎ほか編纂/美浜ふるさと研究会/2001)

『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之六「知多郡/大御堂寺」
図会は、「国立国立図書館デジタルコレクション」より
http://dl.ndl.go.jp/

本尊は野間大坊ホムペでお姿が拝見できます。
野間大坊公式ホームページ
http://nomadaibou.jp/


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信長が奪い秀吉がごまをすり、家康が建て直す。オールスターな足跡です。地図を見れば一目瞭然ですが、知多半島を含む伊勢湾は水軍が闊歩する歴史もあります。いつかゆっくり伊勢湾水運を調べたいです。さて。家康は源氏を称しているので、源義朝を弔う野間大坊は特別な存在であったのでしょうね。

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野間大坊(2)頼朝、上洛途中で義朝墓所へ。平康頼に感謝

こんにちは。


はい、どうも~♪

こちらは、大門。


建久元年(1190)、頼朝により建てられたと伝わる門です。


【頼朝の上洛】

建久元年(1190)、平家追討や奥州征伐を終えた頼朝は、後白河法皇の要請により大軍を率いて上洛します。


『建久元年源頼朝卿上京行粧之図』


10月3日。頼朝は鎌倉を出発。

先陣・畠山重忠、後陣・千葉常胤。
先陣が懐島(現神奈川県茅ケ崎市)に着いた時、後陣はまだ鎌倉を出ていなかったというほどの大行列でした。


10月25日。尾張に到着。

頼朝は、野間庄(美浜町野間)にある父義朝の廟堂に参ります。


平治の乱は平治元年(1160)12月9日、義朝死没は翌年1月3日。

頼朝が野間を訪れた時には、義朝の死後30年が経過していました。


10月25日丙午
尾張の国御家人・須細治部大夫為基を以て案内者と為し、当国野間庄に到り、故左典厩の廟堂(平治事有り、この所に葬り奉ると)を拝し給う。

この墳墓荊棘(いばら)に掩われ、薜蘿(葛)を払わざるかの由、日来は関東に於いて遙かに懐き遣わしめ給うの処、仏閣扉を排き、荘厳の粧い眼を遮る。僧衆座を構え、転経の声耳に満つなり

二品これを怪しみ、疑氷を解かんが為、濫觴を尋ねらるるの処、前の廷尉康頼入道国の守たるの時、水田三十町を寄付せしめてより以降、一伽藍を建立し、三菩提を祈り奉ると。

この事、康頼入道の殊功に謝せんが為、兼日一村を賜うと雖も、彼の任国は往年の事なり。行業定めて廃絶せしむか。潤餝を加うべきの由思し食すの処、鄭重の儀親しくこれを覧る。
いよいよ禅門の懇志を憐み、更に古塚の結構を感じ給う。
また数十許輩の龍象を屈し、二十五三昧の勤行を修せらる。口別に綿衣二領・曝布十端これを施し給うと。
(『吾妻鏡』文治6年4月11日改元建久元年庚戌)



『尾張名所図会』野間大坊(大御堂寺)


建久元年(1190)10月25日。
尾張国野間庄に着いた頼朝は、亡き父、左馬頭義朝の墓所をお参りします。

草がもじゃもじゃだろなと思ってたら、お堂の扉を開ければ荘厳で、読経の声も聞こえます。

「Why?」

以前、元檢非違使の平康頼入道が尾張に赴任した時、水田三十町(30ha)をここへ寄附。以後、一つのお堂を建立し弔っていると。

頼朝は以前、康頼入道の殊功へ感謝して、村を一つ領地として与えましたが、彼の赴任は昔の事。

きっと廃れているに違いないと予想してたのに、感謝感激雨あられ。

頼朝は、十人以上の偉い僧侶を選び南無阿弥陀仏の勤行をさせ。
一人ずつに綿入れを二着、さらしを十反づつお布施として与えましたとさ。

※口→お坊さんの「人数」は、一人二人でなく一口二口と数えます。
 ・・・お坊さんはお口ばっかし?



きちんとお手入れされてて頼朝は嬉しかっただろうなー。


伝・平康頼墓

※平康頼の没年は承久2年(1220)のため頼朝訪問時は存命
 境内の既存のものを後世に平康頼墓としたらしい


平康頼が敵方である源義朝の墓を修理して堂を立て、六口の僧を置き不断念仏を唱えさせ、その保護のために水田三十町歩を寄進した当時は、尾張国目代。

国司ではなく、目代に過ぎない立場でここまでした気持ちがよろしい。

ってことで、平家一門だけでなく後白河法皇もお気に召し。

後白河法皇により検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、「平判官」と称します。(院の近習、北面の武士)


安元3年(1177)6月。平家打倒計画(藤原成親・西光・俊寛達)「鹿ケ谷の陰謀」の密議に加わり、俊寛・藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流されるも、翌年、成経と康頼のみ赦免、京へ。

平家滅亡後の文治2年(1186)。頼朝により阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任命され、承久2年(1220)没。


【頼朝の熱田社参詣】

頼朝は野間を訪れた翌々日、熱田神宮(熱田社)を訪れています。

10月27日 戊申
御潔斎。熱田社に奉幣せしめ給う。当社は外戚の祖神たるに依って、殊に中心の崇敬を致さると。

(『吾妻鏡』文治6年4月11日改元建久元年庚戌)


母・由良御前は熱田大宮司・藤原季範(すえのり)の娘。

頼朝にとって、藤原季範は外祖父。

頼朝と他の兄弟達との決定的な差は、この母の血筋の良さでした。




『建久元年源頼朝卿上京行粧之図』
五雲亭貞秀著/藤岡屋慶次郎発行/文久2年

『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之六「知多郡/大御堂寺」

上記二点「国立国立図書館デジタルコレクション」より
http://dl.ndl.go.jp/

『吾妻鏡』読み下し文
東鑑目録(汲古書院発刊の「ふり仮名付き「吾妻鏡」寛永版影印」)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html


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頼朝上洛時の「先陣・畠山重忠、後陣・千葉常胤」にツボります。北条義時や小山朝政達の名前を探して『吾妻鏡』の諸行事の名簿に釘付けになったむかしむかし。でもこれ、『吾妻鏡』の楽しみ方のひとつだと思うんですよねぇー。うふふふ。

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