野間大坊(2)頼朝、上洛途中で義朝墓所へ。平康頼に感謝
こんにちは。

はい、どうも~♪
こちらは、大門。

建久元年(1190)、頼朝により建てられたと伝わる門です。
【頼朝の上洛】
建久元年(1190)、平家追討や奥州征伐を終えた頼朝は、後白河法皇の要請により大軍を率いて上洛します。

『建久元年源頼朝卿上京行粧之図』
10月3日。頼朝は鎌倉を出発。
先陣・畠山重忠、後陣・千葉常胤。
先陣が懐島(現神奈川県茅ケ崎市)に着いた時、後陣はまだ鎌倉を出ていなかったというほどの大行列でした。
10月25日。尾張に到着。
頼朝は、野間庄(美浜町野間)にある父義朝の廟堂に参ります。

平治の乱は平治元年(1160)12月9日、義朝死没は翌年1月3日。
頼朝が野間を訪れた時には、義朝の死後30年が経過していました。
10月25日丙午
尾張の国御家人・須細治部大夫為基を以て案内者と為し、当国野間庄に到り、故左典厩の廟堂(平治事有り、この所に葬り奉ると)を拝し給う。
この墳墓荊棘(いばら)に掩われ、薜蘿(葛)を払わざるかの由、日来は関東に於いて遙かに懐き遣わしめ給うの処、仏閣扉を排き、荘厳の粧い眼を遮る。僧衆座を構え、転経の声耳に満つなり。
二品これを怪しみ、疑氷を解かんが為、濫觴を尋ねらるるの処、前の廷尉康頼入道国の守たるの時、水田三十町を寄付せしめてより以降、一伽藍を建立し、三菩提を祈り奉ると。
この事、康頼入道の殊功に謝せんが為、兼日一村を賜うと雖も、彼の任国は往年の事なり。行業定めて廃絶せしむか。潤餝を加うべきの由思し食すの処、鄭重の儀親しくこれを覧る。
いよいよ禅門の懇志を憐み、更に古塚の結構を感じ給う。
また数十許輩の龍象を屈し、二十五三昧の勤行を修せらる。口別に綿衣二領・曝布十端これを施し給うと。 (『吾妻鏡』文治6年4月11日改元建久元年庚戌)

『尾張名所図会』野間大坊(大御堂寺)
建久元年(1190)10月25日。
尾張国野間庄に着いた頼朝は、亡き父、左馬頭義朝の墓所をお参りします。
草がもじゃもじゃだろなと思ってたら、お堂の扉を開ければ荘厳で、読経の声も聞こえます。
「Why?」
以前、元檢非違使の平康頼入道が尾張に赴任した時、水田三十町(30ha)をここへ寄附。以後、一つのお堂を建立し弔っていると。
頼朝は以前、康頼入道の殊功へ感謝して、村を一つ領地として与えましたが、彼の赴任は昔の事。
きっと廃れているに違いないと予想してたのに、感謝感激雨あられ。
頼朝は、十人以上の偉い僧侶を選び南無阿弥陀仏の勤行をさせ。
一人ずつに綿入れを二着、さらしを十反づつお布施として与えましたとさ。
※口→お坊さんの「人数」は、一人二人でなく一口二口と数えます。
・・・お坊さんはお口ばっかし?

きちんとお手入れされてて頼朝は嬉しかっただろうなー。

伝・平康頼墓
※平康頼の没年は承久2年(1220)のため頼朝訪問時は存命
境内の既存のものを後世に平康頼墓としたらしい
平康頼が敵方である源義朝の墓を修理して堂を立て、六口の僧を置き不断念仏を唱えさせ、その保護のために水田三十町歩を寄進した当時は、尾張国目代。
国司ではなく、目代に過ぎない立場でここまでした気持ちがよろしい。
ってことで、平家一門だけでなく後白河法皇もお気に召し。
後白河法皇により検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、「平判官」と称します。(院の近習、北面の武士)
安元3年(1177)6月。平家打倒計画(藤原成親・西光・俊寛達)「鹿ケ谷の陰謀」の密議に加わり、俊寛・藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流されるも、翌年、成経と康頼のみ赦免、京へ。
平家滅亡後の文治2年(1186)。頼朝により阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任命され、承久2年(1220)没。
【頼朝の熱田社参詣】
頼朝は野間を訪れた翌々日、熱田神宮(熱田社)を訪れています。
10月27日 戊申
御潔斎。熱田社に奉幣せしめ給う。当社は外戚の祖神たるに依って、殊に中心の崇敬を致さると。
(『吾妻鏡』文治6年4月11日改元建久元年庚戌)

母・由良御前は熱田大宮司・藤原季範(すえのり)の娘。
頼朝にとって、藤原季範は外祖父。
頼朝と他の兄弟達との決定的な差は、この母の血筋の良さでした。

『建久元年源頼朝卿上京行粧之図』
五雲亭貞秀著/藤岡屋慶次郎発行/文久2年
『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之六「知多郡/大御堂寺」
上記二点「国立国立図書館デジタルコレクション」より
http://dl.ndl.go.jp/
『吾妻鏡』読み下し文
東鑑目録(汲古書院発刊の「ふり仮名付き「吾妻鏡」寛永版影印」)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html
いつも応援いただきありがとうございます。
頼朝上洛時の「先陣・畠山重忠、後陣・千葉常胤」にツボります。北条義時や小山朝政達の名前を探して『吾妻鏡』の諸行事の名簿に釘付けになったむかしむかし。でもこれ、『吾妻鏡』の楽しみ方のひとつだと思うんですよねぇー。うふふふ。


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

はい、どうも~♪
こちらは、大門。

建久元年(1190)、頼朝により建てられたと伝わる門です。
【頼朝の上洛】
建久元年(1190)、平家追討や奥州征伐を終えた頼朝は、後白河法皇の要請により大軍を率いて上洛します。

『建久元年源頼朝卿上京行粧之図』
10月3日。頼朝は鎌倉を出発。
先陣・畠山重忠、後陣・千葉常胤。
先陣が懐島(現神奈川県茅ケ崎市)に着いた時、後陣はまだ鎌倉を出ていなかったというほどの大行列でした。
10月25日。尾張に到着。
頼朝は、野間庄(美浜町野間)にある父義朝の廟堂に参ります。

平治の乱は平治元年(1160)12月9日、義朝死没は翌年1月3日。
頼朝が野間を訪れた時には、義朝の死後30年が経過していました。
10月25日丙午
尾張の国御家人・須細治部大夫為基を以て案内者と為し、当国野間庄に到り、故左典厩の廟堂(平治事有り、この所に葬り奉ると)を拝し給う。
この墳墓荊棘(いばら)に掩われ、薜蘿(葛)を払わざるかの由、日来は関東に於いて遙かに懐き遣わしめ給うの処、仏閣扉を排き、荘厳の粧い眼を遮る。僧衆座を構え、転経の声耳に満つなり。
二品これを怪しみ、疑氷を解かんが為、濫觴を尋ねらるるの処、前の廷尉康頼入道国の守たるの時、水田三十町を寄付せしめてより以降、一伽藍を建立し、三菩提を祈り奉ると。
この事、康頼入道の殊功に謝せんが為、兼日一村を賜うと雖も、彼の任国は往年の事なり。行業定めて廃絶せしむか。潤餝を加うべきの由思し食すの処、鄭重の儀親しくこれを覧る。
いよいよ禅門の懇志を憐み、更に古塚の結構を感じ給う。
また数十許輩の龍象を屈し、二十五三昧の勤行を修せらる。口別に綿衣二領・曝布十端これを施し給うと。 (『吾妻鏡』文治6年4月11日改元建久元年庚戌)

『尾張名所図会』野間大坊(大御堂寺)
建久元年(1190)10月25日。
尾張国野間庄に着いた頼朝は、亡き父、左馬頭義朝の墓所をお参りします。
草がもじゃもじゃだろなと思ってたら、お堂の扉を開ければ荘厳で、読経の声も聞こえます。
「Why?」
以前、元檢非違使の平康頼入道が尾張に赴任した時、水田三十町(30ha)をここへ寄附。以後、一つのお堂を建立し弔っていると。
頼朝は以前、康頼入道の殊功へ感謝して、村を一つ領地として与えましたが、彼の赴任は昔の事。
きっと廃れているに違いないと予想してたのに、感謝感激雨あられ。
頼朝は、十人以上の偉い僧侶を選び南無阿弥陀仏の勤行をさせ。
一人ずつに綿入れを二着、さらしを十反づつお布施として与えましたとさ。
※口→お坊さんの「人数」は、一人二人でなく一口二口と数えます。
・・・お坊さんはお口ばっかし?

きちんとお手入れされてて頼朝は嬉しかっただろうなー。

伝・平康頼墓
※平康頼の没年は承久2年(1220)のため頼朝訪問時は存命
境内の既存のものを後世に平康頼墓としたらしい
平康頼が敵方である源義朝の墓を修理して堂を立て、六口の僧を置き不断念仏を唱えさせ、その保護のために水田三十町歩を寄進した当時は、尾張国目代。
国司ではなく、目代に過ぎない立場でここまでした気持ちがよろしい。
ってことで、平家一門だけでなく後白河法皇もお気に召し。
後白河法皇により検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、「平判官」と称します。(院の近習、北面の武士)
安元3年(1177)6月。平家打倒計画(藤原成親・西光・俊寛達)「鹿ケ谷の陰謀」の密議に加わり、俊寛・藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流されるも、翌年、成経と康頼のみ赦免、京へ。
平家滅亡後の文治2年(1186)。頼朝により阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任命され、承久2年(1220)没。
【頼朝の熱田社参詣】
頼朝は野間を訪れた翌々日、熱田神宮(熱田社)を訪れています。
10月27日 戊申
御潔斎。熱田社に奉幣せしめ給う。当社は外戚の祖神たるに依って、殊に中心の崇敬を致さると。
(『吾妻鏡』文治6年4月11日改元建久元年庚戌)

母・由良御前は熱田大宮司・藤原季範(すえのり)の娘。
頼朝にとって、藤原季範は外祖父。
頼朝と他の兄弟達との決定的な差は、この母の血筋の良さでした。

『建久元年源頼朝卿上京行粧之図』
五雲亭貞秀著/藤岡屋慶次郎発行/文久2年
『尾張名所図会』
岡田啓 (文園)、 野口道直 (梅居)著/片野東四郎/1880
前編巻之六「知多郡/大御堂寺」
上記二点「国立国立図書館デジタルコレクション」より
http://dl.ndl.go.jp/
『吾妻鏡』読み下し文
東鑑目録(汲古書院発刊の「ふり仮名付き「吾妻鏡」寛永版影印」)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html
いつも応援いただきありがとうございます。
頼朝上洛時の「先陣・畠山重忠、後陣・千葉常胤」にツボります。北条義時や小山朝政達の名前を探して『吾妻鏡』の諸行事の名簿に釘付けになったむかしむかし。でもこれ、『吾妻鏡』の楽しみ方のひとつだと思うんですよねぇー。うふふふ。


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。