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平家相伝「抜丸」と「折れず曲がらず良く切れる」日本刀の作り方

こんにちは。

【大原鍛冶と源平】


源氏の宝剣「童子切安綱」と、双剣「鬼切安綱」の生みの親、大原安綱。

安綱の子・真守(さねもり)が作ったのは、


抜丸(ぬけまる)。こっちは平家相伝の太刀。


嵯峨帝の勅により真守が打ち、元は「木枯(こがらす)」。

「忠盛一日池殿にて昼寝せしに大蛇出で呑まんとす、この木枯の太刀自ら抜出たれば大蛇畏れて水に入る。これより抜丸と云ふとあり」(『平治物語』)


平忠盛→頼盛(忠盛5男/池殿)→重盛(清盛嫡男)→維盛(重盛嫡男)

平治の乱では平重盛はこの抜丸で悪源太義平と戦い、壇ノ浦の合戦のときは、維盛(重盛の嫡男)が所持。肥後守平貞能に預けおき。

現在、行方不明。


安綱を始祖とする大原一門は、息子・真守以降も栄え、平安末期から鎌倉中期まで繁栄します。

刀の原材料である良質の真砂砂鉄に恵まれたこともあり、大原鍛冶は、多くの国宝・重要文化財・重要美術品級の名刀を鍛え出しました。

この大原鍛冶が活躍した時代を、特に「古刀期」といいます。


【日本刀の作り方】


たたらと刀剣館


月に2回、刀鍛冶実演がありまして。


食べてきた 見てきた♪


普段はプレスも用いるそうで。

これは堺の刀鍛冶も同様。


岐阜県関市の刀鍛冶実演では、「予算豊富なので」(たたらと刀剣館実演時のお話)イメージ通りのとんてんかん、が見えるとか。


(狐の画像/大原神社)

素材は大別して鋼、銑、鉄の3種類。

鋼のうち、特に炭素量が適量で優れた品質のものを「玉鋼」と呼び、直接、日本刀の素材として使用されます。


玉鋼は、たたら炉(ケラ押し法)で作られます。

銑、鉄はそれぞれ脱炭、吸炭させ鋼に変えて(おろし鉄)使用。



日本刀は、「折れず、曲がらず、良く切れる」という三つの条件に加え、刀身の地肌や刃文の美しさ、ゆるやかに孤を描く姿から、現在は芸術品として高く評価されており、高値で取引。


日本刀剣は、太刀、刀、脇差、短刀、薙刀、槍等の総称。


あれ?


《折れず曲がらずよく切れるためには?》

玉鋼をただ単に伸ばすだけでは、ふにゃけた棒(西洋の刀剣)。

日本刀の強さは、「折れず曲がらずよく切れる」点にあり。

「切れる&曲がる」←鋼は硬いのがよい←炭素量高い
「折れず」←鋼は柔らかいのがよい←炭素量少ない

どうすりゃいいんだ?


答えは、昆布巻(イメージですよっ)

柔らかい心鉄(しんがね)を硬い皮鉄(かわがね)でくるむ方法。

これが西洋の刀剣との違いで、日本刀の特徴。


《皮鉄の作り方》

皮鉄=炭素量高く、硬い


送風機と並行して、特に風を送りたい時にはふいごを使用。

炭素の含有量を調整し不純物を除去するために、鍛錬。


(奥から)水減し(みずへし)→小割り→積み沸かし→折り返し鍛錬(下鍛えと上鍛え)

ころんっとした玉鋼を薄く打ち伸ばし、小割り。
積み重ねて熱し、タガネを入れて打ち伸ばし、折り返して重ね(下鍛え)



短冊鍛え、柝木(たくぎ)鍛え、木葉鍛え等、様々な方法で各々の材料を組合わせて積み上げ鍛錬(上鍛え)することで、板目や杢目、綾杉など地金の変化が生まれます。


この折り返し鍛練を15回ほど繰り返すと、

約3万3千枚の層になります。

これが、日本刀が強靭である理由のひとつ。


《心鉄の作り方》

柔らかくていいので、数回の折り返し


《造り込み》

心鉄を皮鉄で包みます

これで、「折れず曲がらずよく切れる」が実現。

甲伏(こうぶ)せ、本三枚(ほんさんまい)、四方詰(しほうづめ)など時代、流派、個人によって異なります。

以降、素延べ(すのべ)、火造り(ひづくり)といういわゆる「とんてんかん」の作業、研ぎ等を行い、


あああ、やっとこさ出来たよー。


参考サイト

公益財団法人日本美術刀剣保存会(日刀保)
※「日刀保たたら」の母体です。

「日本刀の製作工程」
http://www.touken.or.jp/seisaku/koutei.html

和鋼博物館(安来市)

「日本刀」
http://www.wakou-museum.gr.jp/spot9/

※製作工程が図解してあり、わかりやすいです


いつも応援いただきありがとうございます。
砂鉄の採集から見てきたたたら製鉄。やーーーーっと、刀になりました。長かったですねぇ。たたら製鉄史跡巡りはぼちぼち続けますが、何しろ山奥が多いので冬はお休み。このままでは年単位でお蔵入りする狛犬さんとかあっちこっちの史跡とかが、肩にずっしり。たたらのお話、我ながらよくはまったものだとびっくりしてます。

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源氏の宝剣「童子切安綱」「鬼切安綱」と大原古鍛冶

こんにちは。


鳥取県伯耆町大原の大原神社。

私がここで血眼になって探したものは、実は金屋子神様でした。

というのも、


大山(だいせん)の麓の大原地区にいたのは、


源氏の宝剣「鬼切」とその双剣「童子切」を生み出した「大原安綱」。

中国山地はたたら製鉄の原材料である砂鉄が豊富。


特に、刀剣の原材料「玉鋼」に向く「真砂砂鉄」が多いです。


近隣の丸山地区には、たたら製鉄跡があります。

これまで見てきたたたら製鉄操業や、高殿等のたたら製鉄史跡は主に中世(院政期/1100年頃以降)から近世のものですが、大原鍛冶の最盛期は、平安末期から鎌倉中期。

安綱たちを総称する「大原鍛冶」は「古鍛冶」に分類されます。


【童子切安綱】


国宝「太刀/銘安綱/名物 童子切安綱 」(画像/e国宝)


多田源氏の棟梁である源満仲が刀匠大原安綱に打たせた双剣のひと振り。
双剣は、「鬼切」と「童子切」。

平安中期のこと。


・・・満仲より、息子「頼光」の方が土蜘蛛退治や、大江山の酒呑童子退治の説話で有名ですね。




源頼光は、清和源氏3代目。

父は源満仲(清和源氏)、母は源俊(すぐる)の娘(嵯峨源氏)。

異母弟に源頼親(大和源氏)、源頼信(河内源氏/武家の棟梁、征夷大将軍を輩出)


父・満仲より摂津国多田(兵庫県川西市多田)を相続(摂津源氏or多田源氏)。


旧多田院の鎮守社&多田72ヶ村の総社。鎌倉期創建。


《源頼光の土蜘蛛退治~能「土蜘蛛」~》


能「土蜘蛛」。後シテは、土蜘蛛。

前段では寝込む頼光を僧に化けて襲った土蜘蛛ですが、


源氏代々の宝刀「膝丸」により負傷。

土蜘蛛を追い払ったのは、ひとえに剱(つるぎ)の威徳。
頼光は、「膝丸」を「蜘蛛切」へと名を変えます。

結局、土蜘蛛は負傷したときに滴り落ちた血の跡を辿ってきた渡辺綱達武士団に退治されてしまいます。



明治の神仏分離時に多田神社の仁王像は、満願寺へ。

満願寺にあるのは、


・・・間違えました。


伝/坂田金時の墓

頼光が父・満仲から継いだ武士団の中でも特に、
渡辺綱(頼光の母方の嵯峨源氏)・坂田金時・碓井貞光・卜部季武「頼光四天王」として大活躍。


《頼光の鬼退治》

丹波国大江山の鬼・酒呑童子達は、悪さばっかし。

源頼光が鬼退治に行くこととなり、


頼光四天王や友人の藤原保昌達、総勢50数名と共に大江山へ。


山伏の仮装をして酒呑童子の本拠地へ入った一行は

酒宴を催し、鬼達を酔いつぶしたところで、ふぁいっ。

頼光は、酒呑童子の首を落とし、ミッション終了。

この時、頼光が用いた刀が、


童子切安綱。(画像/東京国立博物館展示/2016)

酒呑童子った安綱作の刀なので、「童子切安綱」


初めは源氏の宝剣とされた「童子切安綱」の持ち主は、

足利将軍家→豊臣秀吉→徳川家康→2代将軍徳川秀忠→松平忠直(秀忠異母兄・結城秀康の長男で秀忠娘婿、越前福井藩主、越前松平家)→高田藩→津山藩。

昭和21年(1946)、津山松平家、刀剣商へ売却→(すったもんだ)→国の所有となり東京国立博物館に所蔵。


ところで。


酒呑童子が頼光に斬られるのを見て、脱走し生き延びた「茨木童子」

茨木童子はその後、様々なお話に登場。


渡辺綱と一条戻橋や羅生門で戦い、腕を切り落とされ。

この時渡辺綱が用いたのが、頼光から与えられた「鬼切安綱」


「此太刀は、伯耆国会見郡に大原五郎太夫安綱と云鍜冶、一心清浄の誠を至し、きたひ出したる剣也。

時の武将田村の将軍に是を奉る。
此は鈴鹿の御前、田村将軍と、鈴鹿山にて剣合の剣是也。
其後田村丸、伊勢大神宮へ参詣の時、大宮より夢の告を以て、御所望有て御殿に被納。

其後摂津守(源)頼光、太神宮参詣の時夢想あり。
『汝に此剣を与る。是を以て子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし。』と示給ひたる太刀也。

されば源家に執せらるるも理なり。」


(『太平記』巻32/272段「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」)


持ち主は、

源満仲→(伝承/坂上田村麻呂、伊勢神宮に奉納※年代不整合)→源頼光(渡辺綱にちょっと貸す)→源頼国→源義家が蝦夷征伐に赴く際に借り、そのまま義家の子孫に伝わる。

後に箱根権現に奉納→源頼朝→最上家

一時、南北朝動乱の折りに新田義貞が「鬼丸国綱」と「鬼切安綱(國綱改銘)」を所有し、奮戦。

最上家へ戻ったかを含め、以後不明。

明治13年滋賀県権令の籠手田安定の首唱で寄付を募って購入。
京都北野天満宮に奉納、現在に至る。

ただし、現在は銘が改変されており、「國綱」と切り直され「鬼切丸国綱」。国綱作「鬼丸国綱」とは別物。



大原は、こんな素敵な双剣を生み出した安綱の鍛冶場があったところ。

そらもう、よだれたらたらでうろうろしてました。

おほほのほ。


参考サイト
「文化遺産オンライン」
http://bunka.nii.ac.jp/index.php

文化遺産データベース→作品名に「童子切安綱」入力、で見えます。

参考文献
「鳥取県の歴史」(山川出版/1997)
「鳥取県の歴史散歩」(山川出版/1994)
「鳥取県誌」(第一巻「原始古代」1972)
「ふるさとの古代史」(伯耆文庫第9巻/今井書店/1994)


いつも応援いただきありがとうございます。
「源氏の宝剣」という響きにうっとりしながら、大原地区を通りました。大原安綱の時代(平安中期)には、砂鉄を用いた製鉄操業は行われていたものの、金屋子神様を鍛冶場で祀っていたかどうかは鍛冶場そのものが残っていないのでわかりませんでした。源家の宝物として伝わる刀剣には、他にも安綱の銘が刻まれたものがあり、畿内とは遠いながらもしっかりとした交流があったのだろうと思います。

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金屋子神社(5)村下(むらげ)さんの裸足参りと金儲神社

こんにちは。


安政5年(1858)の火災後、元治元年(1864)再建

2基の石灯籠は、大阪の鉄問屋奉納。



【祭神】金山彦命、金山姫命

【合祀】素盞嗚命、石凝姥命、譽田別命、市杵嶋姫命、息長帶姫命、玉依姫命、伊弉册尊、天照皇大神、天兒屋根命、倉稻魂命、天玉祖命、押武金日命、猿田毘古命、天鳥船命、建御名方命、大國主命、事代主命、迦具土神、武内神、上筒之男命、、底筒之男命

※明治7年に天田神社、同40年に八幡宮外十社を合祀(22柱)


境内社・天田神社

祭神は、天の鉧女命(現地表記/天鈿女命:アメノウズメ)


金屋子神の金?


石灯籠は出雲の名産・来待石。

柔らかく細工が容易で色が美しいため、石灯籠や狛犬等に用いられる石。


ただ、細工が容易な反面、少々もろい。


【金屋子神社と製鉄業界】

金屋子神社の春と秋の例大祭には、西日本一帯の製鉄、鋳物、鍛冶に関わる人達がこぞって参詣。

特に、「日刀保たたら」では、村下(むらげ/たたら製鉄操業の総技術監督)さんや、日刀保たたらの従事者、岡山県新見市の中世たたら製鉄再現の実行委員会、広島県荘原の古代たたら製鉄復元メンバーさん達や、村下さんの出身校教員(授業にたたら再現を取り入れ)さんと共に欠かさずお詣り。

この日は、「日刀保たたら」から金屋子神社までの片道10kmの道のりを素足で歩き、参拝されています。

「裸足参り」といい、現在の村下さんの発案で復活させたそうです。


金屋子神(画像/岡山県新見市中世たたら製鉄操業の現場)

「鉄がどうしても涌かない時は、村下の骨を四柱に括り付けよ」(吉田村)

などと金屋子神から言われているのになー。

村下さん、すごいなー。


金屋子神様への信仰は命がけな気がするぞ。(画像/金屋子神社拝殿)


境内には、鉄がいっぱい。


「金屋子神」と刻まれた石の周り。


たたら製鉄で出来たケラとかノロ(ケラになれなかった不純物)。


境内の建物の横に置かれていた、ケラ。


帝国製鉄株式会社は、

戦時中の軍刀需要に答えるため、「たたら製鉄」による玉鋼の生産を目的として操業した会社。


仁多郡奥出雲町竹崎の卜蔵氏「原たたら」跡。

松江藩9鉄師の卜蔵家の主力炉「原たたら」跡を帝国製鉄株式会社が借り受け、「叢雲(むらくも)たたら」として終戦まで操業。


1944年「叢雲(むらくも)たたら」のケラ(安来市和鋼博物館)3.5トン。


現・日立金属安来工場。

日刀保たたらへ社員を出し、古代たたら製鉄復元を行うなど、日本のたたら製鉄操業を支えています。


あっりがとおっ♪(石灯籠も日立金属奉納)

こちらは、境内社・山神神社。

(いかん、どうしても境内社が百葉箱に見えてしまう・・・。)


祭神は、大山祇命。

大山祇命は山の神として林業や鉱山関係者に崇拝されています。


誰かがそーっと置いたのかしら。


【金儲神社と金屋子神社】


あらやだ。なんて下世話なっ。


・・・金儲神社ですと。

この付近(広瀬町西比田)の「有限会社梅林商会」代表・梅林幸雄氏

幼い頃より金屋子神社先代宮司夫妻に養われ、神社の手伝いをしながら学校へ通い、やがて会社設立。

「金儲神社を寄進すれば、金儲神社と金屋子神社と共に信仰する者は金が儲かり、金運が授かる」と梅林氏に金屋子神のお告げがあり、金儲神社を寄進。

祭神は金屋子神。


「金儲」 をバラすと、「金の信者」

つまり、屋子神を祀る屋子神社と儲神社を信仰すれば、お金持ちになれると。


こうじゃなくて、


こう?

「鉄山師は金屋子神を信仰して金儲けして大財産家になった」(現地説明板)事が根底にあるようですが、ビミョーに何かずれてるような。

ま、いっか。

お金は好きだ。

金屋子神社を信仰し、周りの支えにより会社を設立することができたという感謝の気持ちから寄進されたのでしょうね。

・・・ということにしておこう。


お口直しにケラをもう一回堪能して。

金屋子神社のお話、おしまい。


いつも応援いただきありがとうございます。
村下さん達の「裸足参り」は実際に行われており、10月に新見市の中世たたら製鉄操業の復元操業の時に村下さんが「秋の例大祭(11月3日)一緒に来ますか?」とお誘い下さり。いや、部外者ですし、そもそも裸足で10kmなんて、むりーむりー。ところで、わたくし。今年も忘年会の連続で、今月は忘年会のために働いているようなものでして。あああ、お金がなーいっ。

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金屋子神社(4)金屋子神の好き嫌い。死はタブーにあらず

こんにちは。


金屋子神社。

安政5年(1858)に火災で焼失、元治元年(1864)再建。

再建時がたたら製鉄バブルのため、総けやき造で彫刻が素敵な社殿です。


龍虎の仲良しコンビ。


なかなかシュールなお顔です。


はめ込まれていたお目目が取れちゃったのかな。


相変わらず、撮影がへたぴーですみません。


多分、狛犬だと思います。根拠?前足があるからっ。

へへへへ。


【金屋子神の特異性】

たたら製鉄操業の現場にお祀りされる金屋子神。

金屋子神の実態については、八幡神、天日槍、卓素、須佐之男命、金山彦命など諸説あり。

いずれにしても、たたら製鉄や鍛冶に携わる人々が信仰していた神様は「金屋子神」。これは事実。

彼らが製鉄技術と共に金屋子信仰を各地に広め、金屋子神社の宮司・安部氏がそれを形式化したものと推定されます。

さて。


金屋子神(画像/岡山県新見市の中世たたら製鉄再現現場)


好き嫌いの激しい神様で、禁忌がいくつかあります。
その禁忌がたたら製鉄操業の現場においてのルールとなっています。


《嫌いなもの!犬と蔦、麻》

金屋子神は、犬に吠えられ蔦を伝って逃げた。
しかし、蔦が切れたので犬に噛まれて亡くなった。(鳥取県日野郡)

蔦でなく、麻苧(あさお)に絡まって亡くなった。(島根県飯石郡)

島根県仁多郡では蔦は切れたものの藤に掴まって助かる。藤は好き。

⇒たたらの現場では

犬を入れない、たたらの道具は麻苧を用いない。


狛犬はいいんだよ。たぶん。


《嫌いなもの!!おんな!》

金屋子神は♂か♀か。

「金屋子神は通常女神とされるが、それはこれを祀るのが女(ヲナリ)であったからで、もとは若々しい男神であった」(安部正哉/金屋子神社宮司)

だそうですが、


金屋子神はたたらの現場では、女の神と伝えています。

あまり見目麗しくはなく、とにかく焼きもちやきで気難しく、他の女性が仕事場へ入ってくる事を極端に嫌います。


⇒たたら製鉄の現場では

村下(むらげ/たたら製鉄の総技術監督)さんは、妻が月のものや出産前後にはたたらを休み、休めない時は家へ帰らず。

村下さんは、お風呂は女性の後に入らず。

たたら炉で鉄を吹いている間は、村下さんの妻は化粧もせずに地味な姿で神様の機嫌を損ねないよう過ごした。


違う違う。狛ちゃん、そうじゃない。

もっとも、実際には炭等を運ぶなどの作業で女性も手伝っていたそうです。(菅谷高殿現地での説明による)


《死を忌むことなく、むしろ屍体が好き》

・・・。

金屋子神の死後、途方に暮れた門弟達への神託 from 金屋子神。

鉄がどうしても涌かないときは四柱に死体を立て掛けよ(仁多郡)

村下の骨を四柱に括り付けよ(吉田村)


他の神様が死を忌むのに比べ、なんとまぁシュールです。


⇒たたら製鉄の現場では

たたら場での死のケガレは無く。

人が死ぬとたたらの中で棺桶を作った(安芸・山形郡)

葬式が出ると、棺桶を担いでたたらの回りを歩いて回った(備後双三郡)


(画像/菅谷高殿)


とても不思議でシュールな金屋子神様なのでした。


参考文献

鉄の道文化圏推進協議会編『金屋子神信仰の基礎的研究』/「ヒストリア」

『金屋子縁起と炎の伝承:玉鋼の杜』 金屋子神社/安部正哉著/1985

日立金属HP『たたらの歴史・金屋子神』
http://www.hitachi-metals.co.jp


いつも応援いただきありがとうございます。
たたら製鉄操業の現場には必ず祀られている金屋子神。姿を描いた絵であったり、お札であったり、勧請して祠を建てたり。たたらに関わる人々から現在も変わることなく厚い崇敬を受けています。その姿を見ていると、これほど真剣に、あちこちで信仰されている神様も少ないのではないかと思いました。

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金屋子神社(3)由緒と祭神。金屋子神伝承と神様のシェアハウス

こんにちは。


金屋子神社。


【「金屋子祭文雲州比田ノ伝」】

金屋子神社に伝わるお話。

「金屋子神は、村人が雨乞いをしていたところへ雨と共に、播磨国岩鍋(兵庫県千草町岩野辺)に天降る。

盤石をもって鍋を作る。故にこの地を岩鍋という。

しかしそこに住むべき山がなく、白鷺に乗って西国に赴き、出雲の国能義郡黒田奥比田の山林に着き、桂の木に羽を休める。

偶然、狩りに来た安部正重に出会う。

神託により、長田兵部朝日長者が宮居を建立、安部正重を神主に任じ、神は自ら村下(むらげ/たたら製鉄操業の総技術監督)となり、

朝日長者の集めた炭と粉鉄(砂鉄)を吹けば、鉄の涌くこと限りなし。」(要旨)


播磨国岩鍋(兵庫県千草町岩野辺)
たたら製鉄が行われた土地であり、鉄穴(かんな)流し、たたら炉跡等が現存。(兵庫県西播磨県民局発行『たたらのふるさと西播磨』)


桂の木

白鷺に乗った「金屋子神」が降りた桂の木はご神木とされ、たたらのそばに。


菅谷高殿の桂の巨木。樹齢200年。

高殿が出来た時代より後なので、伝承に基づき植樹したのかな?


【たたら製鉄と金屋子神社】

金屋子神社は、「全国1千2百社とされる金屋子神社の本社、総本山として信仰の対象となった」とか。(現地説明板他)

八幡神社は4万4千社、稲荷神社は3万2千社。
これに比べれば少ないですが、全国1千2百社というのは、「鉄」業界がいかに大きな勢力を占めているかを示し、面白いです。

金屋子神社は、いわゆる「鳥居が立ち、境内地に拝殿・本殿がある」構えを備えた神社よりも、各たたら炉や刀鍛冶、鉄器を作る鍛冶屋等にそれぞれ勧請された「祠」が多くを占め、金屋子神社の分布とたたら製鉄等の分布がリンク。

従って、金屋子神社はたたら製鉄操業が盛んであった西日本(特に中国地方)に多く分布。

(鉄の道文化圏推進協議会編『金屋子神信仰の基礎的研究』/「ヒストリア」195)


各たたらで祀られた金屋子神様へ込める願いは、よい鉄が吹けますように、操業が安全に出来ますように。


鉄師・櫻井家住宅の裏山に鎮座する金屋子神社。


菅谷たたら山内の金屋子神様の祠。


岡山県新見市の中世たたら製鉄再現操業の現場


【金屋子神社】

【由緒】

安政5年(1858)の火災で古文書の一切を焼失。

よってこれ以前の記録、創建年代等不詳。
また、宮司(阿部氏)間での口伝断絶(継承時に先代が故人)。


ちょっとー!

近年、現存する資料・学説を集めた書籍を刊行。研究待ち。

(『金屋子縁起と炎の伝承:玉鋼の杜』 金屋子神社/安部正哉著/1985)


現存するものの中で面白いのは、

『金屋子神社所蔵勧進帳』

金屋子神社本社の宮司安部正哉氏所蔵の三つの勧進帳です。年代は、

寛政3年(1791)、②文化4年(1807)、③文政2年(1819)

「たたら製鉄炉」「砂鉄精錬場」「鍛冶屋」の分布、「村下(むらげ)」「炭坂(すみさか)」「左下(さげ)」等のたたら製鉄操業従事者の役名等が判明する貴重な資料です。


金屋子神社は奈良時代から平安時代にかけて成立した『六国史』(奈良~平安時代/日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代実録の六書)『延喜式神名帳』には記載なし。

よって、平安時代後期以降に創建されたと推定することは出来ます。



安政5年(1858)の火災後、元治元年(1864)再建

元治元年。明治維新まであと4年。
日本の内外がガヤガヤとし始める頃です。

よって、鉄の需要は非常に高く、たたら製鉄は好景気。


社殿はいずれも総けやき造りで、拝殿の彫刻は名工・荒川亀斉。

山中に鎮座しながらとても豪華な社殿なのは、スポンサーである製鉄関係者の好景気を反映。




【祭神】金山彦命、金山姫命

【合祀】素盞嗚命、石凝姥命、譽田別命、市杵嶋姫命、息長帶姫命、玉依姫命、伊弉册尊、天照皇大神、天兒屋根命、倉稻魂命、天玉祖命、押武金日命、猿田毘古命、天鳥船命、建御名方命、大國主命、事代主命、迦具土神、武内神、上筒之男命、、底筒之男命

※明治7年に天田神社、同40年に八幡宮外十社を合祀(22柱)



で、祭神の中に、金屋子神様の名前が、ない。

ここはツッコミどころですが、


ボケ倒しておりますが、拝殿内部の掛け軸。金屋子大明神。

「金屋子大明神」を祀っていたものが、明治時に仏教色のある「大明神」を廃し、明治期に金山彦命、金山媛命を祭神へ変更したいつものパターンでしょうか。

かといって金屋子神様の姿が一切ないわけでもなく、


こちらに。


「金屋子神」と刻まれた石。文政10年。


たたら製鉄で出来たケラやノロ(不純物)が納められています。


いつも応援いただきありがとうございます。
ある意味マニアックな金屋子神様。各たたら炉や刀鍛冶さんの作業場に祀られている姿をよく目にしました。金屋子神様の由来や伝承が後世に作られたものであるかは今後の研究によりますが、現場の人々に深く広く信仰されていたことは紛れもない事実。従って、金屋子神社の祭神として「金山彦」があるのは、異質に感じます。

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金屋子神社(2)狛犬ズ。怪我した子のお手当とキレキレおちり

こんにちは。

ちょっとその前に


おほほほほ。


金屋子神社。


神社周辺から出土したケラ(かねへんに母)を満喫して、


お待たせっ。


私の名前は「お賽銭」ではありません。

あれ?狛犬さんの胸像とは、めずら・・・


落下したのかな。痛かったね、きっとね。


そうかそうか、私も好きだ。


それはもはやアテではない。

痛々しくないよう上手にお手当てされてます。


ぼんじゅ~♪


よーしよしよしよし♪


ほんとね。阿ちゃん吽ちゃんがお揃いなのがいいね。


体が斜めになる不思議な手水。


石段の奉納は、文政13年。

たたら製鉄操業が盛んだった頃です。


狛犬さんのお顔の辺りが私の目線。2m超えの大きな子達です。


うん、って言いたかったのね。


お仕事は?


鉄とかケラで出来てるのかと思うような色合いです。


狛犬、お客を呼び込み中。


後ろ足が、ぱつんぱつん。


金屋子神様のお社ですね。


大きな垂れ耳がかわいい子です。


尻尾で身長をかせぐ狛ちゃん。


きれっきれのおちりです。いたたたた。


では、遠慮なく。


いつも応援いただきありがとうございます。
忘年会一発目は贅沢なタグ付きカニカニのコース。お財布が破綻しましたが、美味しかったです。忘年会なのに、食べ始めたら無言。学生時代からの集団なので、それでいいんです。さて、金屋子神社の狛犬ズ。お怪我しても大切にされている子に会うのは、気持ちがほっこりします。大きな子達も痛みが激しく、近い将来、骨折するのではないかと心配です。が、きっとここの宮司さんはそれでも大切にしてくれると思います。

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金屋子神社(1)出土した巨大なケラの数々と足立美術館

こんにちは。


安来市西比田に鎮座する金屋子神社。


金屋子神社へ来た目的は~


神社周辺から出土したケラ(かねへんに母)。


砂鉄を原料とするたたら製鉄操業(ケラ押し法)で、炉の底に育った塊です。


安来市の和鋼博物館屋外展示


江戸中期。安来市広瀬町布部のケラ。


安来市広瀬には、月山富田城。

鉄師のたたらが点在する奥出雲町から流れる飯梨川の下流域にあたり、


上流での砂鉄採掘による土砂等が流入し、川底が上昇。


近くには、横山大観と日本庭園の足立美術館(画像/wikipediaより)

足立美術館創設者の故足立全康氏は、木炭運びから身を起こし、太平洋戦争中には日本刀(軍刀)を作る株式会社出雲刀剣を創立。

㈱出雲刀剣では、市原たたら(安来市広瀬町西比田)や樋廻(ひのさこ)たたら(同町布部)の鋼を用いたそうです。

たたらには炭が不可欠。
故足立全康氏の原点はこの木炭を安来へ売りに行き、帰りは赤貝等を運び。

終戦に伴い軍刀作りは終わり、横山大観の絵に感動し収集。
昭和45年(1970)、71歳で生家のある安来市古川町に足立美術館を開館。

借景として目に映る山々は、たたら製鉄操業で用いる炭の材料の落葉樹の山。


1944年。仁多郡奥出雲町竹崎「叢雲(むらくも)たたら」のケラ。

3.5トン。

叢雲(むらくも)たたらは、松江藩9鉄師の卜蔵家の主力炉「原たたら」跡に帝国製鉄株式会社が借り受け、終戦まで操業。


1981年。仁多郡奥出雲町大呂「日刀保たたら」のケラ。


安来市広瀬町西比田「市原たたら」

市原たたらの経営者・松浦弥太郎の銅小屋で当鉄(あてがね)として使用。

足立美術館創設者の故足立全康氏の㈱出雲刀剣で用いた玉鋼は、市原たたら。


1964年。日立金属安来工場。

海綿鉄から作られ、左の角形350kg、右の丸形300kg。


金屋子神社。

ケラは通常、熱いうちに鉄池に入れて冷却し、大鍛冶で部位ごとに割り出荷しますが、操業の失敗か何らかの原因により、そのまま放置されたものが田んぼの下や河川から出土。


安来市東比田猿隠山麓の谷川より出土のケラ。


宇波地区出土のケラ。


金屋子神社宮司さんの家の前の田んぼから出土。

4~5百年前のケラ(金沢大学による測定)。

月山富田城を奪取した尼子経久は、文明18年(1486)に金屋子神社へ参詣。


下は追神集落、上は梶集落の田んぼから出土のケラ


丸い炉なんてないので、失敗したのかな?


宇波地区出土のノロ。

重さ3.5トン。


比較対照が出来なくて申し訳ない。


ノロは、たたら製鉄操業の際に排出される不純物。

製鉄遺跡の中で製鉄炉跡とならび重要なのが、ノロ(鉄滓)。


下記の事項がわかるそうで。(日立金属HPより引用)


使用原料が砂鉄?鉄鉱石?砂鉄だとすれば、真砂か、赤目か?

製錬時の鉄滓(製錬滓)?鍛冶の際の鉄滓(鍛冶滓)?鍛冶ならば大鍛冶か、小鍛冶か?

製錬技術の程度(温度、還元率、ズク押し?ケラ押し?)

噛み込んだ木炭から使用木炭の種類およびC14分析による稼業年代の推定


製造した鉄器は腐食されてなくなることが多く、また古鉄として再利用されますので、なかなか残りません。

しかし、鉄滓は「金糞」と呼ばれて近くに廃棄されていたので、鉄滓の出る所の近くには何らかの製鉄遺跡があったと考えられます。しかも、鉄滓は酸化物の形で極めて安定ですから昔のままの状態で残されており、貴重な資料になります。
(引用終わり)



お待ちになって。


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金屋子神社は人に製鉄を教えたという金屋子神に関わりのあるお社。ずらりと並んだ古いケラの大きさにびっくりです。こんなものがごろんっと出てきたら、さぞかしびっくり&邪魔だったことでしょうね。谷川から見つけられたケラがまぁるいところがちょっとほっこりです。

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稲田神社。クシナダヒメを祀るお社と姫のそば

こんにちは。


里へおりてきました。おほほほほ。

本日は、稲田神社。

祭神は稲田姫。

クシナダヒメを稲田姫と稲田神社では称しています。

『日本書紀』では奇稲田姫、『古事記』では櫛名田比売。
『出雲国風土記』(飯石郡の項)では久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)。

ヤマタノオロチから須佐之男命に助けられた人です。


【ヤマタノオロチのお話】


8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物。(画像/たたらと刀剣館)

その名は、ヤマタノオロチ。

『日本書紀』では八岐大蛇、『古事記』では八俣遠呂智。

こいつが狙うのは


クシナダヒメ。お腹がふくれそうなお姿である。


てーってて~ててーてて~てってって~ててぇ~♪(@暴れん坊将軍)


スサノオ登場。


助けてください。続かないでしょ。

スサノオは稲田姫を櫛に変えて髪に差し、ヤマタノオロチ退治へ。


頭それぞれに酒を与え、酔いつぶれたところを、

成敗っ。


ヤマタノオロチのしっぽからは、ひとふりの剣。


これが、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」(『古事記』)「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」(『日本書紀』)

人の姿に戻ったクシナダヒメとスサノオは

「八雲たつ出雲八重垣妻ごみに 八重垣作るその八重垣を」と詠み宮を建て一緒に暮らしましたとさ。


そのクシナダヒメを祭神とする稲田神社。


創建不詳。神社の棟札に記された最古の棟札は、元禄15年(1702)。


(稲田神社HPより借用)

近くには、稲田姫の「産湯の池」、そのそばの稲田姫を祀った旧社、姫のへその緒を切った竹ヘラを逆さまに挿したら生えた「笹宮」があり、この地には稲田姫信仰があったと稲田神社は伝えています。(稲田神社HPより)

が。

お社としての歴史は浅く、江戸時代後期の文政年間に創建された祠(産湯の池ほとりの旧社)を、昭和7年に小林徳一郎が神殿を新築、勧請。(横田町資料※図書館閲覧※による)



幣殿、ぴーんち。


石段最下部の、えーっと何?


現在の社殿は昭和13年、小林徳一郎(明治3年~昭和31年)の寄進。

小林徳一郎はここ、奥出雲町横田の出身で、九州小倉の石炭王。

故郷に錦。

稲田神社の拝殿、社殿、社務所を一寄進で建立。

昭和27年の資産評価は2千5百万円だというので、

消費者物価(日銀)昭和27年と比較したら物価ベースで、約6.692907653倍。
今なら1億1670万円ほどかな?(資産評価だとどうかなー)


また、小林徳一郎は出雲大社の大鳥居も寄進。
それ以降、稲田神社の宮司は出雲大社の千家宮司が代々勤めています。

(以上由緒書、稲田神社HPより)


大きな注連縄=島根だなーっと感じる素人。


幣殿向かって左の建物。


本殿。


振り反って、拝殿背後。


姫の宮。


拝殿の扁額。

の、両側に


これはなんだ?


なんなのだー?

この稲田神社は社務所に併設の


「姫のそば ゆかり庵」が大人気。ランチタイムは行列でした。


参考サイト
「稲田神社応援サイト『稲田姫を照らす会』」
http://www.inatahime.jp/


稲田神社/姫のそばゆかり庵
《住所》 島根県仁多郡奥出雲町稲原2128ー1




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稲田神社は由緒の通り新しいですが、笹宮の笹は、香淳皇后(今上天皇生母)が懐妊された際、安産のお守りとして皇室に献納されたそうです。小林徳一郎は成功した後も故郷を忘れず、社殿を構え勧請、一式を寄進。何とも豪気な人です。ただ、このために氏子というものの存在が微妙で、お蕎麦屋さんが繁盛しないと社殿の修理もままならないのではないかと余計な心配してしまいました。

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原たたら跡。松江藩鉄師卜蔵家の主力炉から叢雲たたらへ

こんにちは。

島根県奥出雲町竹崎の追谷に居を構え、たたら製鉄操業を行ったのは


卜蔵氏(画像/「卜蔵氏庭園」)

松江藩の定めた9鉄師、櫻井家(奥出雲)、田部(たなべ)家(雲南市吉田町)、絲原(いとはら)家(奥出雲)、卜蔵(ぼくら)家(奥出雲)、杠(ゆずりは)家(奥出雲)等で、

明治維新後、大正の「一斉廃業」まで操業を続けた「4鉄師」、櫻井・卜蔵・田部・絲原のひとつ。


今日は、その卜蔵氏の原たたら跡へ。


・・・(T_T)


川底に見える砂鉄


おや、人工の水路があるぞ。

ということで、原たたら。


大正15年(操業廃止翌年)の原たたら平面図。

高殿(炉のある建物)、大鍛冶場、炭小屋等のたたら製鉄操業を行う建物のそばに、分家、村下(むらげ/たたら製鉄操業の総技術監督)以下の技術者、雇人が集団で居住する形態を記しています。


樹齢300年の桂の木。

たたらを人に教えた「金屋子神」は、


白鷺に乗って桂の木に降りたと伝わります。

そのため、各たたらのそばにはご神木として桂の木。


頒功石(はんこうせき)

他のたたら炉では平均3千キロのところ、この原たたらでは7千キロとれたのでそれを称賛して建てられた石碑。(現地説明板)


恐らくこの原たたらでとれたケラをお供え。


たたら製鉄操業のおさらい(ケラ押し法)


砂鉄と炭を交互に投入し、炉の中で育てたケラは


炉を崩し真っ赤なあちあちのまま水へ入れて


一気に冷やします。


この原たたらでも


こう。


高殿(現存せず)から一気にお向かいの鉄池へ。


鉄池。(じーっと見つめると四角い形が)


日本で唯一現存する菅谷高殿(雲南市/田部家のたたら)でも


ゴロゴロっと高殿から


お向かい鉄池にじゃぼん。

ね。

原たたらに戻り


平面図にあるように、原たたらは敷地内に水源地を持ち、小川が囲み


目の前をさらさらと流れています。


対岸から見ると、こう。


たたら炉で出来たケラを、玉鋼とそれ以外の部位に仕分けるのが大鍛冶場(大鉄場)。


動力に水車を利用しているため、水路が残っていました。


卜蔵氏庭園から原たたらの周辺には、棚田の光景。


この原たたら。

大正14年の操業廃止後、昭和に帝国製鉄株式会社が借り受け、「叢雲(むらくも)たたら」として復活し、軍刀需要にこたえます。

そして、敗戦。

叢雲たたらは、操業を終えたのでした。


いつも応援いただきありがとうございます。
たたら製鉄操業に水が不可欠なのがよくわかる原たたら跡です。ここで吹いた鉄の品質は非常に優秀で、卜蔵家たたらの主力炉でした。卜蔵氏庭園との間には、近隣の皆さまのご厚意で棚田を見渡す展望公園も整備されてますが、道が狭くて車がとめられず通過。しもたー。車がしゅっと畳めたらいいのになー。

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卜蔵家庭園。後醍醐天皇を助けた名和長年と楠正成と卜蔵さんち

こんにちは。

松江藩の政策「出雲鉄方法式(てつかたほうしき)」

享保11年(1726)松江藩は、領内の鉄師9人、たたら10カ所、大鍛冶場3軒半に限定して独占的な経営を保証

この時定めた鉄師9人は、炭焼きのための広大な森林を所有する大地主でもあり、面々は

櫻井家(奥出雲)、田部(たなべ)家(雲南市吉田町)、絲原(いとはら)家(奥出雲)、卜蔵(ぼくら)家(奥出雲)、杠(ゆずりは)家(奥出雲)等

このうち、櫻井・卜蔵・田部・絲原は「4鉄師」として維新後も残り、大正の「一斉廃業」まで続きます。


《鉄師・田部(たなべ)家》


菅谷の高殿を中心とする吉田地区は、田部家のたたら。

寛正元年(1460)たたら製鉄操業を開始。

祖は、安西入道の系譜を引く「熊野ノ別当田部湛増ノ孫、田辺隼人正」とされてます。(『国乃礎』「相良英輔/編/松江藩鉄師頭取田部家の研究/島根大学特定研究部門たたら研究プロジェクト/2009」)


田部家のたたら、菅谷高殿。高殿として現存唯一の建物。


炉は操業の都度壊しますが、地下構造は永続して使用可能なので「永代」たたら。


《鉄師・櫻井家》


櫻井家といえば、ダンえもん。いや、塙団右衛門の末裔。


製鉄を人に教えた金屋子神様を自宅にもお祀り。


【鉄師・卜蔵家】


ぼくら、です。

卜蔵(ぼくら)家のたたら製鉄操業の最後の村下(むらげ/たたら製鉄の総技術監督)さんが、現在の村下さんの師匠。

門外不出、一子相伝であった村下の仕事をたたらの継承のため、全くの他人である人達へ教え込んだ方です。


島根県奥出雲町竹崎の追谷集落の入口にある卜蔵氏庭園。

現在は庭園のみが残ります。

さて、卜蔵家とはどんなおうち?


ちょっとその前に。

《山陰と南北朝》


鳥取県北西端に位置する大山(だいせん)。

大山の北側(伯耆国)に「名和長年」という人あり。
村上源氏を自称するも、出自不詳。

元弘元年(1331)元弘の乱。
後醍醐天皇、鎌倉幕府の討幕計画が露見し隠岐島に流罪。
同3年(正慶2年/1333)隠岐島脱出。

名和長年、後醍醐天皇を船上山(現・鳥取県東伯郡琴浦町)に迎え、討幕運動に参加、勝利。(wikipediaより)

建武中興の一翼を荷い、伯耆・因幡の守護となった長年ですが、 足利尊氏の東上を京都で迎撃し、一族とともに奮戦し討死。

南北両朝時代になり急速に山陰へ北朝の勢力が浸透すると、名和氏とその一族は九州へ。

末裔は、戦国時代を生き延び、柳川藩主立花氏の家臣となり明治。



南北朝といえば、楠正成(まさしげ)。なんこうさん。

河内国の住人。後醍醐天皇の討幕運動に参加。
建武中興が実現すると功により河内・和泉の守護。

離反した足利尊氏を一時は九州に追いやるも、再び東上した尊氏を兵庫で迎え撃ち湊川で敗死。


楠木正成・正行父子訣別の「桜井の別れ」の場面


さて、卜蔵氏です。

卜蔵氏の祖は、系図によれば、河内国の楠正成の弟・正氏と伯耆国の名和長年の弟・太郎左衛門の娘との間に生れた「楠太郎左衛門正秀」

南北両朝時代になり急速に山陰へ北朝の勢力が浸透すると、名和氏とその一族は九州へ移りますが、一部は伯耆の西部に隠栖。

勝太郎も伯耆に残り、伯耆・出雲の守護・山名時氏に仕えます。

明応4年(1495)横田庄内竹崎村に移り、土着。

11代より楠氏から卜蔵に改姓。


現在「卜蔵氏庭園」が残る島根県奥出雲町竹崎の追谷に居を構え、

十年畑村に住んだ一族が製鉄を始めます。

これが松江藩の定めた9鉄師のひとつ「卜蔵家」の始まり。


卜蔵氏庭園。関西から庭師を呼んで作らせたとか。

江戸初期、特に形式から元禄の頃の作庭と推定されるこの庭園は、滝石組が三段、約260坪の池泉観賞式の庭園で、現在は外垣の木が高くなっていますが、船通山を借景に取り入れた構図になっているそうです。(現地説明板より)


現在は居宅はなく、代わりに山菜料理&手打ち蕎麦のお店があります。


卜蔵家庭園
《住所》島根県仁多郡奥出雲町竹崎800


前記事の鉄穴流し本場跡や山ノ神神社より南西


いつも応援いただきありがとうございます。
庭園の見方はよくわからないので、ぼーっと眺めて参りました。お向かいには、公民館があり、地域の憩いの場になっている雰囲気です。卜蔵家もまた、伝承によれば武家の出身のようですね。膨大な面積の森林を必要とするたたら製鉄操業ですから、奥出雲では「土地持ち」の土豪が鉄師となっていった、と。さて、次は卜蔵家のたたら跡を見学へ。鉄子の旅はまだ続く。

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