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山ノ神神社。鉄穴流し本場と砂鉄採掘場に鎮座する小さなお社

こんにちは。


羽内谷鉱山鉄穴流し本場跡を見たあと、車で走ること1分。


森に来ました。

・・・ちがーう (T_T)


地図上で「山ノ神神社」とか「山ノ神社」と書かれてましたの。


写真を見たら、倒れる寸前ですね。

手水鉢は・・・あったあった。


ひょうたんです。


拝殿。足元にある石には


寄付の記録かなぁ?


昭和30年に境界設定した際の記録のようです。

五畝歩(約500平方m)を寄付したのかしら?

※反別は、町・反・畝(せ)・歩の単位で表した田畑の面積。

「万歳山之神社/宮司□□□」と見えます。

これがこちらのお名前なのかどうかは不明です。


他に基本財産を記した石碑がありました。


拝殿の奥に本殿。

祭神様はわかりません。
金屋子神なのかな?土地神様なのかな?


どなたでもいいですの。

山の中で出会うこちらのようなお社、大好きです。


地面が、砂鉄混じりの感じ。

周囲は鉄穴流し本場や、鉄穴流しにより造成された棚田が広がります。


お腹すきました。


素朴だけど大切にまもられてきたお社は、気持ちがいいですね。


いつも応援いただきありがとうございます。
この山ノ神神社は小さな森と丘になっており、あー、神社があるのねーっと遠目にわかりました。たたら場があれば金屋子様ですが、詳細不明。三重県や和歌山県ならば間違いなく合祀されていたことでしょう。基本財産を記した石碑があるので、明治頃に神社としての形を整えたのではないかと思います。

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お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

比内谷鉱山鉄穴流し本場跡。純度80パーセントの砂鉄作り

こんにちは。


風化した軟質花崗岩などが露出する山を崩して、山土を採取。

この山土から砂鉄だけを取り出す方法が、「鉄穴(かんな)流し」

工程は、山砂鉄の「採取」と「選鉱(洗鉱)」。

山砂鉄の山土に対する含有量は、0.5~10%程度。


切り崩した山土を、水路(走りまたは井出)に流し込みます。

土砂は破砕され、土砂と砂鉄は分離され

今日は、この先の「選鉱(洗鉱)」を見学。


山の中です・・・(T_T)


比内谷鉱山から1kmほど下流の、比内谷鉱山鉄穴流し本場跡。

分離された砂鉄の純度をさらに高める鉄穴流しの最終段階である、
「選鉱(洗鉱)」を行う場所で、これを「本場」といいます。

昭和47年の廃止まで1日に2~4トンの砂鉄を産出。


川沿いです。土砂と砂鉄の分離には水が不可欠。


上から、第一出切→第二出切→大池→中池

では、上流から見学。


鉱山で採取され流されてきた土砂を一旦ここに溜めて


流します。


第一・第二出切は、水を流しつつ土砂を緩やかに滞留させ、砂鉄を沈殿させます。


砂鉄は、花崗岩に含まれるほかの鉱物より重い(比重が大きい)。

重い砂鉄が流水の中で沈み、軽い土砂は流れていく。

重さの違いを利用して鉱物を選り分けることを「比重選鉱」といいます。


☆☆☆「比重選鉱」☆☆☆

金銀の採掘場で用いられた手法。

金銀山の採掘が盛んとなる文禄、慶長年間には各地の金銀山を中心に普及。
金山ではこれを「ねこた流し」といいました。



鉄穴流しの上には別の「足水水路」

きれいな水は「足水水路」から取り入れ、土砂混じりの水を川へ流し、砂鉄と土の混じった水はさらに下流へ。


排水部分。下流域の河川が濁るわけです。


今はちょっと埋もれてるのが残念ですが。


出切に残っていた花崗岩っぽい砂。


第二出切の一番下流。

流水の中で沈殿した砂鉄のみをすくいあげ、ここから再び流します。


大池からは、樋に流します。


砂鉄をすくいあげ、次の池へ移しやすいように、木の樋です。


大池全体。


次の中池との境に、少し段差。


中池全体。


中池から乙池の境にも、少し段差。


乙池全体。ここまでくると、かなり細かい砂鉄。


終点の、樋。

この工程を経た砂鉄の純度は、80%以上。


こうして出来た純度の高い砂鉄を用いて


たたら製鉄操業が行われるのでした。


いつも応援いただきありがとうございます。
たたら製鉄の史跡の多くは山の中。近くの県道で工事をしていた皆様が「どこ行くのっ!?」な視線をくださる中で、ぎゅーんっと山道へ。ちょっとドキドキしましたが、それほど走らずに着きました。ほっ。ここで1日に2~4トンの砂鉄を産出ってすごくないですか?もう、たたら製鉄の規模にびっくりです。

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「鉄穴流し」と棚田の風景。たたら製鉄が生み出す景観

こんにちは。


たたら製鉄操業によって作られるのは、


ケラ。

これを部位毎に分けて(大鍛冶)、日本刀や鉄器にトンテンカン(小鍛冶)。

ケラは、「かねへんに母」と書きます。

鉄のお母さん。まさにこれ。


たたら製鉄の材料は、砂鉄。

滋賀県に数十箇所分布する古代製鉄遺跡では「鉄鉱石」を用いていますが、時代が下り中国山地で盛んに行われたたたら製鉄操業では、砂鉄を原料とします。


この砂鉄、どこから来たのかな?


【砂鉄の種類】

砂鉄は、主に花崗岩などの岩石の中に含まれます。


砂鉄の採集場に残ってました。

砂鉄は採集する場所によって、山砂鉄、川砂鉄、海砂鉄があり。


①山砂鉄

風化した花崗岩系の山を崩して採取するのが、山砂鉄。
たたら製鉄操業では主に山砂鉄を用います。

②川砂鉄

山砂鉄が河川に流入し、下流域に堆積したものを採取するのが川砂鉄。


浅い下流域で作業するので、船底が平ら。

③海砂鉄

川からさらに海へ出た砂鉄は海浜に打ち上げられて砂浜のように堆積。
これを採取するのが海砂鉄。


【砂鉄をとりましょ、お山から~♪】


奥出雲をドライブすると、棚田が連続。


これは熊野古道の近くの、丸山千枚田(三重県)。

平地の少ない山間部で見られる棚田は、一枚ずつが細かいですが、


ごく最近に整地されたように大きな田んぼが丘陵一帯に広がります。

この奥出雲の風景を作り出したのが、たたら。


《山砂鉄の採取方法》


風化した軟質花崗岩などが露出する山。


風化してるので、サクサクと切り崩す事が出来ます。


山砂鉄の山土に対する含有量は、0.5~10%程度。

山の上に貯水池を作り、


切り崩した山土を、水路(走りまたは井出)に流し込むと


押し流される間に土砂は破砕されて土砂と砂鉄が分離


分離された砂鉄は下場(洗場、本場)の砂溜まりに堆積。


さらに選鉱場で土砂と砂鉄を分離。

この山砂鉄の「採取」と「選鉱(洗鉱)」を「鉄穴(かんな)流し」といいます。


慶長年間に出雲に入った堀尾吉晴が慶長15年(1610)斐伊川上流での鉄穴流しを禁止しており(日立金属『たたらの歴史』)、これ以前から行われていたことがわかります。

最盛期は18世紀中頃。

幕末期の記録『芸藩通志』『日本山海名物図会』『鉄山秘書』等に残っており(和鋼博物館『鉄穴流し』)、これは同時に奥出雲でのたたら製鉄の発展時期と重なります。


しかし、下流域では。

膨大な土砂が下流に沈殿し、川床が上がり天井川となり洪水発生。

また、鉄穴流しに用いる水は農業でも灌漑に必要。
河水の汚濁により潅漑ができなくなる。

このため、鉄山師と農民との間で争いが起こり、藩命による鉄穴流し禁止令がしばしば出されることに。

よって、砂鉄の採集は普通秋の彼岸から春の彼岸までの「冬場の農閑期」に限って行われました。


「奥出雲のたたらと棚田の文化的景観」

鉄穴流しの跡地や、土砂流出によって膨大な土砂が下流に堆積して生じた平地は田畑として耕作され、山内(さんない:たたら集団の集落)の食糧の一部を補いました。今日、中国山地で棚田として残っているものはこのようにして形成されたものが多いのです。
(和鋼博物館)



大切な所は削らず島のように残るのが奥出雲の棚田の特徴。


砂鉄と山土を流すための貯水池と水路は、農業でも活躍。

奥出雲町の横田地区では3分の1以上の水田に当たる535ヘクタールが鉄穴流しで造られたとか。


《たたら製鉄と森林保護》


たたら製鉄には砂鉄と共に大量の炭、つまり、広大な森林が必要。

たたら1カ所、大鍛冶場2軒で年間130町歩(約1.28平方km)、30年伐期で3900町歩(約38.67平方km)の森林が必要。(明治期の絲原家の見積による)

産業として持続するには、森林資源の永続的な確保が必須。


そこで松江藩がとった政策が「出雲鉄方法式(てつかたほうしき)」

享保11年(1726)松江藩は、領内の鉄師9人、たたら10カ所、大鍛冶場3軒半に限定して独占的な経営を保証し、鉄師が持つ山、他人の山、村人達が所有する山で焼かれる炭を買う特権を付与。

伐採する場所と範囲を細かく取り決め、森林保護に努めました。


山をおハゲちゃんにすることなく森林保護をしながら炭を作り、山砂鉄採取後には農地を広げた結果が、この地域の景観。

「奥出雲のたたらと棚田の文化的景観」として売り出し中です。



いつも応援いただきありがとうございます。
たたら製鉄により生み出された農地は、奥出雲特産の「仁多米」を育てます。美味しいお米と豊かな水のあるところには、無論、美味しいお酒がありまして。うっはうっはな地域なのですわ。稲刈りの終わった間抜けな時期に訪れたので、春の田植え時や黄金に輝く秋にまた行きたいです。

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島根県雲南市出雲湯村温泉で、やどめし

こんにちは。


菅谷たたら山内で高殿を初めて見てうっきゃうっきゃした、楽しい雲南市。


私が宿泊したのは、雲南市の国民宿舎「出雲湯村温泉清嵐荘」

※お宿の画像は公式HPより拝借。

トイレ、バス共同。洗面所は合宿所のような素朴なお宿。

目的はかけ流しの温泉。


出雲国風土記にも記載があるらしいですが、んなこたぁ、どうでもよろし。


温泉は、うんちくで入るべからず。


ただひたすら、んぼーっとすべしっ。


こんな山の中ですもの。

ご飯もきっと素朴なものかなー。


さにあらず。

実は、島根県の三瓶温泉、皆生温泉、そしてこの出雲湯村温泉と泊まり歩いた中で一番の、ごちそうだったんですな。


酒のアテ。うま。


右側のは、こっそりチーズ風味


海鮮丼だけが海の幸の味わい方ではないぞよ。

生わさび、美味しいですよね。


旅館あるあるなお鍋はこっそり、鴨肉。


濃厚なお出汁の茶碗蒸し、うまー。


むふーん。

酒はぁ飲ぉめぇ飲め、飲むならばぁ~、とことん。

そんな心地にて、ここらで既に酔っぱらい。


いちじくの天ぷら、うまうま。


ひらぺったい出雲蕎麦、濃いぃー。

ここでお腹がぱっつんぱっつん。くそぉ。悔しいっ。


生の果物ではなく、ジュレですぜ、奥さん。

ちびチョコケーキまで付けるとは、憎いじゃないか。


干物もうまし。

サラダに生ハム。ロースハムじゃなくて、びっくり。


ご飯のお友達なひとくち味噌。


山椒と生姜の味噌の小さな瓶詰めを、私へのお土産にしました。

おにぎりに入れたら、うまっ。うまっ。


何より好きだったのは、この食堂の雰囲気。

なんだかどこだか、懐かしい。


海の幸山の幸、島根県の旅はおデブへの道まっしぐら。

お宿の温泉へ入ること5回。

あっちこっちを散策するのも旅の醍醐味ですが、チェックインからチェックアウトまで目一杯滞在してお宿を楽しむのが好きです。

夜に見た、お空に光るお星さまがとてもきれいでした。

・・・普段、オリオン座がやっと見れる程度のとこに住んでるので、お星さまがたくさん見えるだけで、ごちそうです。

うはうはー。


お宿は、出雲湯村温泉《雲南市営 清嵐荘》
島根県雲南市吉田町川手161ー4




いつも応援いただきありがとうございます。
温泉貧国の大阪在住なので、かけ流しの温泉は憧れます。旅の醍醐味は、ゆったりまったりとお湯につかって、ぼえーんっとして、酒、ごはん、酒。ごはんとお湯がよけりゃ建物が古かろうが私はものすごっく満足です。こちらのお宿の予想以上のご飯にうはうはしました。さぁて、師走はどこへ行こうかねぇ。

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製鉄遺跡の目印「ノロ」と菅谷たたら山内の風景

こんにちは。


今日も今日とて、たたらの話。


なんとも言えぬ魅力のあるものへ、突進。

そうよ私は、ノーバックカンガルー(大学時代の別名 by 同期)。



日本で唯一残る菅谷高殿。

この菅谷高殿の建物でたたら製鉄操業が行われたのは、
宝暦元年(1751)から大正10年(1921)。


※以下、操業の画像は新見市の中世たたら操業再現


たたら製鉄操業は、三昼夜。これを一代(ひとよ)と呼び。


その間約30分毎に砂鉄と炭を交互に投入。

村下(むらげ/たたら製鉄操業の総技術監督)の判断で頃合を計り、投入を止めて


炉を壊します。


判断の一つの基準が、炉の厚さ。

炉の壁が薄くなり(特に手前)、Vは拡がって凹形になっています。

砂鉄の還元(鉄にくっついた酸素を取る・酸化の反対)に、炭と炉の内側の土が反応を助け、不純物(ノロ)となり排出されるため、炉が食われた感じです。

欲張って砂鉄と炭を投入し続けると、炉が破れ灼熱の中身が噴出。

これは事故。

そうなる前に操業を止める判断を下すのが、村下さん。


このあっちぃちぃーの真っ赤な塊の下に丸太を入れて


ゴロゴロっと高殿から


あっちへ移動。


そのために出口付近の高殿の床は、下り坂。


鉄池にじゃぼんっと入れて、


一気に冷やしたら、


ケラ(かねへんに母)の出来上がり。

このケラは、いい玉鋼の部分と不純物が混在。

これを砕いて、品質毎に仕分けするのが


大どう(かねへんに胴)場。


大どう場裏では、二本の川が合流。


内部には大きな分銅があり、水車の力で大きな分銅を持ち上げ、


どーんっと落として、ケラを割ります。

こうして砕かれてノロや炭を除かれた後、品質、大きさなどにより数種類の等級の鋼や銑(ズク)、歩ケラ(製錬が不十分で不均質な鋼)などに鑑別されます。

日本刀の原材料となる「玉鋼」は全体の約3分の1から2分の1。

ズク(銑)、歩ケラは、大鍛冶でドンドン(加熱 & 鍛錬)して、不純物や炭を除去し、錬鉄(割鉄)あるいは包丁鉄と呼ばれ、各鉄道具の原料とされました。



ケラ(かねへんに母)でもズク(銑)でもない、ノロ。


炭、炉の土などの不純物の塊なので、ポイッと捨てられる。

てつぐそ、なんて呼ばれてしまう物ですが、反対に。


このノロが大量に出土すると、あー、「製鉄遺跡」だなーっとわかるわけです。

※画像は中国横断自動車道建設工事時に菅谷大志度付近で出土したノロ(鉄の歴史博物館蔵)



「菅谷たたら山内(さんない)」

山内(さんない)とは、たたら製鉄操業を行う建物(高殿)を中心とする関連施設と、たたら製鉄従事者が暮らす集落一帯のこと。

菅谷たたら山内は、標高約350mの谷間に形成され、高殿、元小屋、米倉、炭小屋、大どう場が配置され、25軒の民家で構成されています。

明治18年(1885)の記録によれば、山内の人口は34戸、158人。

盛行をきわめた中国山地のたたらを支えた山内の状態を知ることができる現存する好例として重要です。(和鋼博物館展示より)

昭和42年に重要有形民俗文化財指定。



高殿に近い長屋は一番、二番、三番、と格付けされた村下さんち。


働く皆さんへのお給料は、主に米。


高殿横には、製鉄を人に教えた金屋子神様を祀ります。


ここで営まれたたたら製鉄操業の火が消えたのは、大正10年(1921)


今は静かな静かな、菅谷たたら山内なのでした。


いつも応援いただきありがとうございます。
たたら製鉄に関する博物館としては、安来市の和鋼博物館、奥出雲町のたたらと刀剣館、雲南市吉田町の鉄の歴史博物館などがありますが、パネルや模型展示を見るならば、この菅谷たたら山内へ来て、実際の高殿等を見るのが一番印象的で面白く、たたらに興味津々になると思います。あー、また行きたくなってしまいます。

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菅谷たたら山内。たたら製鉄と村下(むらげ)さん

こんにちは。


村下(むらげ)さんのお話。


村下とは、たたら製鉄操業の総技術監督。
つまり、操業の全責任を負います。

たたら製鉄操業の際の、炉の粘土の採取場所、炭と砂鉄の投入のタイミング、砂鉄の配合等は全て門外不出&一子相伝。

かつては各鉄師の所有するたたらの数だけいた村下さんも、現在は、国内で1人だけ。

文化財保護法による選定保存技術保持者。



日本で唯一残る菅谷高殿。

この菅谷高殿の建物でたたら製鉄操業が行われたのは、
宝暦元年(1751)から大正10年(1921)。

※この地域で製鉄が始まったのは鎌倉時代


炭と砂鉄の反応を助ける炉は、村下さんの内緒の土製。


たたらでどんな鋼を作るかにより、異なる砂鉄のブレンド。

そして、大量の炭。
備長炭のようにカンカンに締めてはならず、不要物と共にノロとして排出するため小さく砕かねばならず、調整が必要。

これらを用意して始まるたたら製鉄操業。


操業は、三昼夜。これを一代(ひとよ)と呼びます。

この間、約30分毎に炭と砂鉄を投入。つまり、寝ずの番。


炉の下をのぞいて具合を見たり


炉の縁にこぼれた炭などをお掃除したり炉のひびを埋めたり。

お仕事は多岐に渡ります。


単純に燃え盛っているように思える、炎ですが

「初日の籠もり期には朝日の昇る色に吹き、二日目(中日)は太陽の日中の色に吹き、最後の日の下り期には日が西山に没する色に吹けと父の村下から教わった」(堀江村下(故人)談)


操業開始直後の「朝日の昇る色」の炎。


中日期にあたる「太陽の日中」の炎。

共に同じ操業の際の炎です。


近代角炉操業でも引き継がれた黒い村下装束。

たたら製鉄操業の時、お向かいにいる村下さんの黒装束を背景に炎の色を見たといいます。


炉の内部の砂鉄と炭の反応は、

送風管上の「ほど穴」から見る炎の具合で確認。


炉の中を直視して確認する村下さん


「片目ずつ見なければ両目をやられる」


遠くから見てもこの強さです。

長年に渡って高温の炉内を直視するため、村下の眼は強い光によって衰えを早め、ついには全く視力を失うに至る、と。(鉄の歴史博物館)

時には水蒸気爆発も起きたというたたら製鉄操業。

過酷なお仕事です。


操業を始める時には、高殿前の川で身を清め

たたら製鉄を人に教えた神様である金屋子神様へお参りしま


どこ行ったー!?


菅谷たたら山内の金屋子神様の祠にお参りし、高殿へ。

金屋子神様のタブーについては別の回にしますが、村下さん関連では


☆金屋子神様は女の神様なので、女嫌い

つまり、月の穢れ、産の穢れを忌む、と。

村下さんは、奥さんがそれの時には操業をお休み。


☆金屋子神様は、血の忌を嫌うが、死の忌は嫌わない

腕の立つ村下さんが死に、どうしても鉄が沸かなくて困ったとき。
村下さんの骨を掘り起こし、たたら場の押立て柱に括りつけたらよく沸くようになった、とか。


金屋子神様、恐るべしっ。


金屋子神様へお参りした後は高殿へ向かいますが、奥に見える坂は


村下さんだけが通ることを許される「村下坂」


高殿内部には、村下さん専用お休み処

三昼夜続く操業の間は約30分毎に炭と砂鉄を投入するため、仮眠しかとれません。


草履の着用は、村下さんだけ


「菅谷たたら山内(さんない)」。

山内(さんない)とは、たたら製鉄操業を行う建物(高殿)を中心とする関連施設と、たたら製鉄従事者が暮らす集落一帯のこと。

高殿に近い長屋は、


一番、二番、三番、と格付けされたそれぞれの村下さんち。


10月に見学した中世たたら操業再現では、村下さんと二人のお弟子さんが携わっていましたが、村下さんは全体を眺め適宜指示し、二人のお弟子さんが実際の作業を担っていました。


炉の上部にあるでっぱりが、前と後ろの境目。


砂鉄投入を行うのは、二人の村下さんのお弟子さんのみ。

他にもいる村下見習いさんは、手を出せず。


二人の持ち場は境目で各々決まっていました。


炉の製作から炉を壊し鋼を取り出すまで実に細やかな作業です。

たたら製鉄において、その存在がなければ成り立たない村下さんのお話でした。


※操業の画像は新見市の中世たたら操業再現


いつも応援いただきありがとうございます。
現在の村下さんは、とても気さくなおじいちゃま。一緒に焼き芋食べたり、炉のそばで細かく説明して下さったり。古代、中世たたら操業の復元において大勢の方々が文化祭のように楽しく集まるのは、村下さんのお人柄によるところが大きいかと思います。たたらの炎が途絶えることのないように後継者育成に尽力された村下さんは、御歳80越え。絶対に長生きしていただきたい方です。

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菅谷高殿を構える前のたたらの形。古代たたら製鉄操業再元より

こんにちは。


菅谷たたら山内の高殿。

ごめんください。


村下(むらげ/たたら製鉄操業の技術総監督)さん。


近代角炉操業でも、村下装束。

熱い熱い炎と対峙するので、鼻と口を覆います。



たたら製鉄操業の際の、炉の粘土の採取場所、炭と砂鉄の投入のタイミング、砂鉄の配合等は全て門外不出&一子相伝。

今は日本でただ一人。

優しいけれど厳しいお目目で指導されてます。


中心部にある四角い炉は、操業の度に壊します。

この菅谷高殿のたたら製鉄操業は「ケラ押し法」。

この地下に、水蒸気爆発を防ぐために炭や石を敷き詰めた排水施設があり、これはずーっと使用できます。

よってこの形を「永代たたら」と称します。

では、この高殿の中で行う「永代たたら」以前はどんな形かというと


古代たたらの復元の、炉の形。


菅谷高殿のある吉田村でたたら製鉄が始まったのは鎌倉時代であるといわれています。

この時代から中世までは、移動しながらたたら製鉄を行う「野だたら」でした。


日本で唯一残る菅谷高殿。

この菅谷高殿の建物でたたら製鉄操業が行われたのは、
宝暦元年(1751)から大正10年(1921)。

さて、野だたらのイメージです。


小型で縦長です。


炭と砂鉄を交互に投入する作業を繰り返し


砂鉄に混ざる不純物「のろ」を下から出しつつ、ケラを育てます。


空気穴からのぞいて、砂鉄と木炭との反応具合を確かめる村下さん。


最後は、炉を壊し


砂鉄と木炭と炉の土が反応して出来た鉄のかたまり。


これを水に入れて冷やして


ケラ(かねへんに母)の出来上がり。

これを部位ごとに割って、出荷。

一番上等な「玉鋼」の部分は、刀剣の原材料として高値で取引されました。


いつも応援いただきありがとうございます。
同じような画像ばかりで申し訳ないですが、たたら操業の変遷が少しずつ伝わればいいなーっと。移動しながら操業を行うということは、毎回、必要な設備の設置が必要。それが高殿を構えて炉回り以外の設備を使い回すことが出来るようになった事は、操業従事者達が定住し、安定した操業が可能となり、つまり安定した収入を得ることに繋がります。

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菅谷たたら山内。たたら製鉄集団の暮らす風景と菅谷高殿

こんにちは。

享保11年(1726)松江藩は、領内の鉄師9人、たたら10カ所、大鍛冶場3軒半に限定して独占的な経営を保証「出雲鉄方法式(てつかたほうしき)」)。

合わせて鉄師が持つ山に加え他人の山や、村人達が所有する山で焼かれる炭を買う特権も付与。

場所と範囲を細かく取り決め、大量の炭を必要とするたたら製鉄操業による森林破壊を防ぎます。


この時定めた鉄師9人は、炭焼きのための広大な森林を所有する大地主でもあり、面々は

櫻井家(奥出雲)、田部家(雲南市吉田町)、絲原(いとはら)家(奥出雲)、卜蔵(ぼくら)家(奥出雲)、杠(ゆずりは)家(奥出雲)等

このうち、櫻井・卜蔵・田部・絲原は「4鉄師」として維新後も残り、大正の「一斉廃業」まで続きます。


【鉄師・田部家】


田部家の土蔵群。

この田部家のたたらを訪れます。


・・・(T▽T)


「菅谷たたら山内(さんない)」です。

山内(さんない)とは、たたら製鉄操業を行う建物(高殿)を中心とする関連施設と、たたら製鉄従事者が暮らす集落一帯のこと。


手前から、田んぼ、川、高殿。


ハデ干し、というそうな。

ここは菅谷高殿の村下(むらげ・たたら製鉄操業の技術総監督)さんのおうちの、田んぼ。

ここで収穫された酒米は、雲南市内の酒蔵で仕込まれて
菅谷高殿最後の村下の名前を冠した「要四郎」という銘柄で販売。



高殿の横に、桂の巨木。樹齢200年。

たたらを人に教えた「金屋子神」は、白鷺に乗って桂の木に降りたと伝わります。

そのため、各たたらのそばにはご神木として桂の木があるそうです。


アヒルちゃんに見えるのは気のせい。


小川の川底が鉄色です。

さて、いよいよ。


日本で唯一残る高殿。

この菅谷高殿の建物でたたら製鉄操業が行われたのは、
宝暦元年(1751)から大正10年(1921)。

※この地域で製鉄が始まったのは鎌倉時代


高殿内部。

この中央にある炉の中で、たたらの炎が燃えていたのねっ♪


さぞかし神秘的だったことでしょう。


炉から立ち上がる炎に加え、毎回壊す炉の熱気のため


内部は吹き抜け、天井は高く。


ぞわぞわする空気です。


いつも応援いただきありがとうございます。
菅谷たたら山内は、高殿を中心としたたたら製鉄集団の建物がそのまま残り、とても貴重です。しかし、現在もここで生活されている方々がおいでなので、撮影や散策には気配りが必要。この菅谷高殿。一歩足を踏み入れた瞬間に、神社へ来たような感じがしました。ここは作業場だけど工場ではなく、金屋子神が伝えた製鉄を行う大切な場所なんだなーっと思いました。

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たたら角炉伝承館。たたらの炎、消える

こんにちは。

中世たたら製鉄操業(ケラ押し法の場合)おさらい。


内緒の土でブロックを積み上げて炉を作り


内部は下へ行くほど分厚くします。


炉の下部に吹子から空気を送る送風管を設置。


炭と砂鉄を交互に入れて、を繰り返し


炉の下の穴から流れ出てくる、ノロ(不要物)。


砂鉄と炭と炉の土が反応。

砂鉄(酸化鉄)の還元作用(酸化の反対)が起こり、炉の内部で鋼が育ちます。


炉を壊すと


分厚かった炉の土は食べられて薄くなってまして。


底には育った鉄のかたまり、ケラ(かねへんに母)が出来ていて


池に入れて一気に冷やして


立派なケラの出来上がり。

これをお肉のように部位ごとに仕分けして(大鍜治屋)、出荷。


「たたら製鉄」操業により出来上がる銑鉄(せんてつ)はリンなどの不純物が少なく、粘り強くさびにくい高品質なもの。

しかし、毎回、炉を壊すため非効率。(→お値段がお高くなる)

明治に始まった「近代洋式製鉄法」(高炉製鉄)にはコストで適わず。

これを改善しつつ、しかし、あくまで「砂鉄」と「石炭」による優良な鋼を作ろうと鉄師達が生み出したものが、


「角炉」※目をこらすとガラスケースの中に大きな煙突。これが角炉。

炉が粘土から耐火煉瓦の炉となり、壊すことなく連続操業が可能に。

角炉の初めは、明治26年官営広島鉄山落合作業所(布野村)。



角炉の理屈はこの中世たたら炉と同じ。


角炉上部より炭と砂鉄を投入。(画像は2階部分)


右の黒い人は、村下(むらげ・たたら操業の総監督)装束。


水車を動力として送られる空気は、送風管を通り炉の下部へ。


最下部から、熱々の銑鉄が流れ出てきます。


さぞかし熱かろうと。


西洋式の製鉄は、鉄鉱石を原料に溶鉱炉でいったん銑鉄(せんてつ)を作り、転炉に移して2次製錬し鋼に変える「間接製鋼」

これに対し、たたらは炉の中で1度で鋼ができる「直接製鋼」


「炉の上段と中段が溶鉱炉、下段が転炉に当たる高度な技術が『たたら』」(村下さん談)


この角炉導入により、生産量は大幅に増大。


ここは、たたら角炉伝承館。

かつて松江藩鉄師頭取役をつとめた櫻井家の槇原たたら高殿があった敷地に建ちます。


裏山には、金屋子神社。


槇原たたら高殿は、文久元年から大正11年まで操業。

昭和10年。櫻井家は奥出雲で最初に角炉を導入。


地下構造は高殿のものをそのまま利用。

終戦まで操業。

「もう軍需産業の鉄は必要ない」と、角炉の送風を止めた櫻井家当主。

これにより約3百年に及ぶ櫻井家の製鉄の火は消えました。



唯一残ったのは、奥出雲の鳥上木炭銑(せん)工場(現日立金属安来製作所鳥上木炭銑工場)の角炉でしたが、昭和40年、閉鎖。

これをもって、一度、たたら製鉄の炎は途絶え、

昭和47年。

「日本刀の原料となる玉鋼の供給」を目的として、日本美術刀剣保存協会(日刀保)により、たたらは復元。

現在も、「日刀保たたら」として操業中です。



たたら角炉伝承館
《住所》島根県仁田郡奥出雲町上阿井1325-6


櫻井家住宅からほど近くの国道432号線沿いです


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あくまでも炭と砂鉄から作ることにこだわりを持ち、何とか近代化しようと苦心惨憺する鉄師達。炉を壊さず連続操業が可能になる点で非常に大きな変革です。しかしそれでも洋式高炉や輸入品にかなわず、角炉での操業も終焉。今は復元された角炉と水車小屋だけが残ります。

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塙団右衛門末裔・松江藩鉄師頭取役櫻井家の金屋子神社と鎮守神社

こんにちは。


塙団右衛門を祖とするのは、


松江藩鉄師頭取役の櫻井家。


たたら製鉄操業を松江藩より認められた鉄師9家のひとつ。


こちらは製鉄を教えた「金屋子神」を祀る安来市の金屋子神社。

良いケラ(砂鉄から、たたら製鉄操業で作る塊)が出来ますように、事故なく操業が出来ますようにと、たたらを行っていた人々の崇敬を集めたお社。

各々の操業場にも金屋子神様をお祀りしたため、小さな金屋子神社があちこちに点在しています。

また、今も製鉄会社や日本で唯一たたら製鉄操業を認められている「日刀保たたら」の村下さん(むらげ・たたら操業の総監督の役職名)や刀鍛冶の崇敬が厚いお社です。

※現在の祭神は金山彦。明治に祭神が金屋子大明神から変わっています。


櫻井家住宅の裏山に鎮座する金屋子神社。

櫻井家の周辺にあった「大鍛冶屋」では、たたらで吹いた鉄を練鉄にして出荷。
この「大鍛冶屋」の為に金屋子神を祀ったのがこの金屋子神社。


元文3年(1738)築の櫻井家住宅は、第5代利吉当時のものが現存。

金屋子神社の社殿も当時のもの(棟札が現存)で、住宅等と共に国の重文。

が。

数年前の大雪で社殿が倒壊。

2014年に再建されるまでご神体を仮に祀っていたお社が


櫻井家住宅と川をはさんだ向かい側に鎮座する、


鎮守神社。


「第5代利吉」は、現在の櫻井家住宅を構えた当主。


寄附「櫻井直昇」は、第9代櫻井源兵衛直昇(1827-1861)

第8代櫻井源兵衛脩民(1802-1848)の時に、
松江藩藩主より「代々苗字御免」を許され、御軍用方より葵御紋入り提灯と幟を預かり。

第9代櫻井源兵衛直昇(1827-1861)は、松江藩藩主より「代々帯刀御免」。

櫻井家は、鉄師頭取役を務める町民。

「代々苗字御免」「代々帯刀御免」により、士分格の地位を認められることに。


薄くくりぬかれた鉢、きれいです。


狛ちゃん、思いっきり逆光です。


お賽銭お賽銭と叫ばなくていいのかしら。


はーい。


こちらも、第9代櫻井源兵衛直昇。

狛犬さんがこの時のものかは不明。狛ちゃん、おいくつ?


鼻水出てるよ。


小ぶりながら、島根県有形文化財指定。


振り返ると、狛犬さんが叫んでいました。


櫻井家住宅・可部屋集成館
《住所》島根県仁多郡奥出雲町上阿井1655


櫻井家住宅や鎮守神社周辺は、奥出雲の紅葉の名所です。


参考文献
可部屋集成館展示資料
可部屋集成館図録


いつも応援いただきありがとうございます。
まー、実に山奥の櫻井家住宅と資料館「可部屋集成館」ですが、展示資料は充実しており素晴らしいです。住宅見学の時には、偶然、第13代の櫻井家当主様にご案内いただきました。とってもとってもお上品なおじいちゃまで、ご説明もわかりやすく楽しかったです。島根の旅でたたらにはまったのは、訪ねた先で出会った皆様がとてもあたたかくて、とにもかくにも「たたらが大好き!」でとても誇りを持っておいでなのが一番の要因だと思います。

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