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美保神社(3)案山子な神様・久延毘古命とちび狛犬

こんにちは。


美保神社。


社殿に向かって右奥へ行くと


境内社にちび狛ちゃん。やほー。


ほぉー。


聞こえません。

で、どちら様がおいでなのかしら?


・・・頑張れ。

美保神社HP(2016.10.20閲覧)によると、

①《若宮社》
天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと)


美保神社祭神の「事代主神」の御子神ですって。

②《今宮社》
太田政清霊(おおたまさきよのみたま)←誰

《秘社》神号不詳

ひ、ひ、秘社ってなんなのー!?


すごいなっすごいなっ!

いや実は、


コピー&ラミネートの名札で「糺(ただす)社御同座中」

境外末社「糺社」が最近合祀されたようです。


祭神は、久延毘古命(くえびこのみこと)



ある日、大国主 in 美保。

海の彼方から天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って現れたのは


鵝(ひむし/蛾)の皮をまとった親指ぐらいの小さな神。

誰だ誰だとあたふたしていると、多邇具久@ヒキガエルが言った。


(画像はトノサマガエルだそうです。10.21追記)


そこで久延毘古に尋ねると「その神は神産巣日神の御子の少名毘古那神(すくなひこな)だよ」と答えた。


「久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也、此神者、足雖不行、盡知天下之事神也」(『古事記』)

久延毘古は、今は山田の曾富騰(そほど/雨に濡れる案山子)。
この神は歩くことが出来ないが、天下の事を知り尽くした神である。


これは、少名毘古那神(少彦名命)と大巳貴命(大国主命)が兄弟の縁を結び、国造りをするお話へと続きます。



阿ちゃん、お手伝いありがと。


この子ちょっと男の子。


付け焼き歯?


すみません。


ほんとにちっちゃな狛犬さんです。


彫りも浅く素朴な子ですが、一生懸命作られたんだろうなと思います。


周りをへこませて大きく見せる工夫がされた、かわいい角。


そんなことないよ。体に散りばめられた模様も、かわいいよー。


私は筋肉痛で、しゃがむのが辛いです。くぅー。


参考文献
『出雲国風土記 全訳注 』(講談社学術文庫 / 荻原千鶴 )
『美保神社の研究』(弘文堂/和歌森 太郎 )
島根県立古代出雲歴史博物館「音曲の神さま-美保神社奉納鳴物(2014)」展示時のパネル・図録


いつも応援いただきありがとうございます。
壮大な社殿の奥に、さらっと立つ境内社。年代不詳の狛犬さんですが、とても個性的でかわいい子達。こんな出会いがあるから、お社へ行くと隅々まで歩き回ってしまうのですよね。「秘社/神号不詳」なんて初めて見ました。美保神社の周辺の十社以上ある境外社を何かの事情で合祀する時に備えて、予備スペースを作っておいたのかしら。

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美保神社(2)代わる祭神と国譲り。出雲国風土記など

こんにちは。


美保神社。

・・・間違えました。


美保神社。昭和3年再建の拝殿。


でっかい。


私の目線は狛犬中心。んふ。


『出雲国風土記』(天平5年(733))在神祇官社14所のひとつに「美保社」の記載。

『延喜式』(延長5年(927))記載の式内社。



本殿。文化10年(1813)再建。

大社造の二殿連棟の特殊な形式で、「美保造又は比翼大社造」(重文)


【祭神】

三穂津姫命(みほつひめのみこと)/左殿・大御前(向かって右)
事代主神(ことしろぬしのかみ)/右殿・二ノ御前(向かって左)


《事代主神(ことしろぬしのかみ)》

出雲大社の大国主神の第一子。

母は神屋楯比売命(『古事記』)。

天孫降臨前に「この国を天つ神に献れ」と言われた大国主神とーちゃんは、美保碕で釣魚をしていた事代主神に相談。

返答は


かくして、大国主神は国土を奉献(国譲り)しましたとさ。


《三穂津姫命(みほつひめのみこと)》

高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の姫神(『日本書紀』)。

高天原の斎庭の稲穂を持ってきて皆に配り、農耕を進めた神。


おにぎりじゃなくて、稲穂。種をまかなくちゃ広がらないでしょ。

大国主神の后神(『日本書紀』)ですが、事代主命の母神ではなく。

この神様が「美保」の地名の由来?


結論は、NOです。


【かわる祭神】


「所造天下大神命、娶高志国坐神意支都久辰爲命子俾都久辰爲命子奴奈宜波比売命而令産神御穂須須美命、是神坐矣。故云美保」(『出雲国風土記』「美保郷の條」)

「天の下造らしし大神の命、高志の国に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜比賣命にみ娶ひまして、産みましし神、御穂須須美命、是の神坐す。故に、美保といふ。」


ここは大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)との間に生まれた「御穂須須美命」が鎮座するところである、よって「美保」という、の主旨。

『出雲国風土記』では、「美保社」と記され、地名「みほ」を冠する御穂須須美命が主祭神。

三穂津姫(三保津姫)の父神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)ですから、御穂須須美命とは異なります。

よってこの『出雲国風土記』の時代には、現在の祭神である事代主命も三穂津姫命も不在です。


御穂須須美命様がいますよ。


9百年の時が流れ

「併祭神御穂須須美命与御祖大穴持命、及御母奴奈支智比売命而、言三社大明神是也」(『出雲風土記鈔』天和3年(1683)/岸崎左久次)

天和3年(1683)当時は「三社大明神」と称していた、と。

「大明神」は神仏習合における仏教的な神の称号であり、後に吉田神道でよく用いられましたが、明治の神仏分離時に「仏教的なもの」として神社が自主的に避けるように。

『出雲風土記鈔』は年代は下るものの『出雲国風土記』を元にしているので、祭神は御穂須須美命と記しています。


しかし、他を見るとこの頃には『出雲風土記鈔』が例外くさい。

御穂須須美命に代わり、三穂津姫(三保津姫)の名前が現れます。


文亀3年(1503)の『神名帳頭註』(吉田兼倶)では、

「島根郡美保、三穂津姫也。一座事代主」

主祭神に三穂津姫、もう一柱に事代主神が出現。


「高皇産霊尊子三保津姫は大己貴命娶り給ふ。三保の明神是なりといへり」(『懐橘談』承応2年(1653))


「美保神社、三穂津姫・事代主命の鎮座なり」(『雲陽誌』享保2年(1717))


「三保関、三穂両大明紳、祭神一ノ宮みほつひめの命、ニノ宮ことしろぬしの命」(『出雲神社巡拝記』天保4年(1833))


「杷御穂須須美命、風土記。按風土記妙、配祀大穴貴命・奴奈宜波比買命。或云、祀事代主・三穂津姫二締、未魚執是」(『大日本史』「神祇十八神社十三/美保神社の條」)


『大日本史』には名前があるものの、「御穂須須美命」はどこへ?





しまいには、

「事代主神に三穂津姫を祭りしなり」(『出雲風土記考』横山永福/弘化3年(1846))

祭神の「三穂津姫(三保津姫)と事代主神」が、「事代主神と三穂津姫(三保津姫)」に逆転。


『出雲風土記』時代には、地名「みほ」を冠する「御穂須須美命」が主祭神であったものの、いつしか国譲りの「三穂津姫」「事代主命」が祭神に。

これが、御穂須須美命=三穂津姫、なのかは不明。



そこへさらに。

中世に普及した福の神「えびす」と事代主命が混ざって一体になった「えびす=事代主命」の民間信仰を神社側が取り入れ、

今は全国各地にある「事代主神を祀る『えびす社』3千385社」の「総本宮」として宣伝中。


ちなみに文献上初めて釣りをしたのが、事代主命=えびす、だとか。


私は眠いです。


参考文献
『出雲国風土記 全訳注 』(講談社学術文庫 / 荻原千鶴 )
『美保神社の研究』(弘文堂/和歌森 太郎 )
島根県立古代出雲歴史博物館「音曲の神さま-美保神社奉納鳴物(2014)」展示時のパネル・図録
その他、関連資料(図書館閲覧時にメモ忘れました)

参考サイト
「社家の姓氏・横山氏」http://www.harimaya.com/


いつも応援いただきありがとうございます。
ねちねちよろよろとしたお話で退屈ですね。すみません。お詫びにおにゅーの狛ちゃんを出してみました。えへ。出雲地域においては、『出雲国風土記』に記載の神社がいわゆる「式内社」的な存在になるようで、編纂当時に「あった」という事を示します。神話の世界からは距離を保ちつつ、せっかくよろよろしながら訪れた神社なのでちょっと調べてみました。

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美保神社(1)備前焼の狛犬、文政13年生まれでぴっちぴち

こんにちは。

今日は狛犬日和。


伯耆富士の名を持つ、大山(だいせん)。


一の鳥居。


二の鳥居。

温泉津でぐでんぐでんになりつつ、やっとたどり着きました美保神社。


わっ。


やかましっ。


目だけ石がはめられているのかな。


嘉永3年(1850)生まれ。


大きなお目目です。


ついでに大きなお体です。


彫刻満載の神社を見慣れた身にはとてもさっぱりした造りです。


でっかい注連縄です。


巨大な拝殿に、狛ちゃん、どーこだっ。


いたいた。


遠いよー。


では、阿ちゃんから記念撮影。


まだ。


何かが生まれそうなモコモコしたおつむです。


何だかおいしそうです。


はーい、おしまい。ありがとー。


はい、何でしょう。


狛犬さんの母子手帳です。

「文政13庚寅年(1830)正月吉日/備前伊部/森五兵衛正統信之」

備前焼の狛犬さん、えーっと、にひゃくちゃい未満。

先程の石の狛犬さんより、20歳年上。とてもきれいな子達です。


いくよー。


吽ちゃーん、りらーっくす、ですよー。


りらーっくす、よ。


二本に見える角がかわいいです。


はーい、ありがと。


ごめんごめん。


お?


皆生温泉も近いしねー。よいねぇ。


二人の距離がありすぎて会話が・・・。


でもこれはこれで幸せなんだろうなー。


いつも応援いただきありがとうございます。
昨今の狛犬誘拐事件を思うとこの子達は大丈夫かとちょっと心配ですが、とても文政13庚寅年(1830)生まれとは思えないほどきれいな狛犬さんです。美保神社は実は狛犬天国。温泉津でぐだぐたになりつつ必死に走ってきてよかったなぁー♪疲れも何もかも吹っ飛ぶかわいさでした。

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世界遺産石見銀山遺跡・最終回。世界で流通した銀と近代化失敗

こんにちは。

関ヶ原後、毛利は石見銀山や温泉津を離れ、江戸幕府の天領になります。


天領時代は銀山周囲を柵で囲み、厳重に管理。


石見銀山で採掘された銀は製錬され、


温泉津港と沖泊港等から北前船で日本各地へ運ばれますが、

福岡の博多港から世界へ大量に輸出された点が、石見銀山の特徴。

石見銀山で生産された銀は高品質で、東アジア交易において最も信用が高く、石見銀山の所在する佐摩村(さまむら)にちなんでソーマ銀と呼ばれ流通。
16世紀半ばから17世紀前半の全盛期には、世界の産銀量の約3分の1を占めた日本銀のかなりの部分が石見銀山で産出されたものだったと考えられています。
(「石見銀山遺跡とその文化的景観」より引用)

それほど豊かな山であった石見銀山にも、やがて終わりの時が来ます。


慶長年間にピークをむかえた産銀量はしだいに減少。

【灰吹銀出高】
延宝元年(1673) 357貫25匁     (約1,340㎏)
享保元年(1716) 177貫730匁5分8厘 (約665㎏)
天保元年(1830) 80貫800目     (約300㎏)


(石見銀山資料館「石見銀山の歴史・資料」より)


元治元年(1864)第一次長州征伐

慶応2年(1866)第二次長州征伐。
長州軍が大森(石見銀山管轄)に進撃。代官・鍋田三郎右衛門は逃亡。


長州軍が本陣を構えたお寺は、なんと毛利元就様の木像を安置していてみんなびっくりー!の、現・豊栄神社。

明治維新時に、生野銀山は官営へと移行しましたが、石見銀山はどうか?

そこで、温泉津の薬師湯です。



明治5年(1872)の浜田沖の大地震の時に湧出したので「震(新)湯」とも呼ばれる新しい湯。

この浜田沖の大地震で、石見銀山の多くの間歩が崩落・水没。

休山となります。

既に銀の採掘量が減っていた石見銀山には踏んだり蹴ったり。

残った既存の間歩(まぶ/坑道)で地元の人々が小規模に採掘。


狛犬さんの叫びに応え

明治19年(1886)。大阪の藤田組(萩出身の藤田伝三郎達の起業。現・㈱DOWAホールディングス)が、仙ノ山の福石鉱床の金銀含有率と量に着目。

採掘権(借区権)を入手し、

明治27年(1894)近代的な銀の製錬所の建設を開始。

設計は武田恭作(東京帝国大学冶金学科卒)

20万円(約二十億円)の巨費を投じて翌年に完成、4月から操業を開始したのが、清水谷製錬所。


草ぼーぼーですが、石造です。まちゅぴちゅです。

酸やアルカリ溶液でいったん、鉱石から銀を溶かした後に、銀を取り出す「収銀湿式製錬」という最新式の技術を投入。


草のなかに何かがある。くすん。


うえええん。


現存するのは製錬所の基礎で、


往時は上屋が建ち並び、上から下へ鉱石を降ろしながら順次、製錬。

しかし、鉱石の品質が予想より悪く、また設備の銀の製錬能力も十分でなかったことから不採算となり、明治29年10月に、開始からわずか1年半で操業を停止。(現地説明板より)

藤田組は、鉱業の主軸を仁摩町大国の永久製錬所での銅生産に切り替えました。



大正12年(1923) 休山
昭和16年(1941) 「重要鉱物増産法」により(株)同和鉱業が再開発を行うが稼業できず。

四百年に及んだ石見銀山の鉱山としての歴史は、おしまい。

昭和44年(1969)代官所跡・山吹城跡・大久保間歩・釜屋間歩・本間歩・龍源寺間歩・新横相・福神山間歩・新切間歩・安原備中墓・安原備中霊所・大久保長安逆修墓・佐毘売山神社(山神)・天正在銘宝篋印塔基壇の14ヶ所が国指定史跡となった(石見銀山資料館「石見銀山の歴史・資料」より)ことを皮切りに、石見銀山は鉱山ではなく、遺跡としてのお仕事を始めます。

そして、

平成19年(2007)世界遺産(文化遺産)に登録。


それでも存続が危ういものは数多く存在する矛盾。

うーん。


最後に羅漢寺へ。建物内部に、五百羅漢。

18世紀中頃。銀山で死亡した人々と先祖の霊を供養するために、代官や代官所役人、領内の人々の志を受けて温泉津町福光の石工が25年の歳月をかけて彫像。


五百羅漢に参れば、亡くなった人に会えるとか。

銀山のお仕事は命がけ。いったいどれ程の人達が亡くなった人の面影を探しに来たことでしょう。


うちの祖父はいたけど、両親はいませんでした。残念。

さて、石見銀山をてくてくすること6時間。


バス停の近くのお蕎麦屋さんで、エネルギー充填。

温かい鴨肉&ネギのおつゆに負けない強い風味のお蕎麦が美味しかったです。

これにて、石見銀山シリーズはおしまい。
長々とおつきあいいただきありがとうございました。


いつも応援いただきありがとうございます。
石見銀山は残念ながら江戸時代末期には産出量が減り、明治に巨額の投資をしたのに1年半で操業停止。それ故に近代化されず、ぽつんっと遺構が残ったのでしょうね。世界遺産認定に自然との共存が大きな要因となったそうですが、そりゃ休山から百年近く経過すれば自然が盛り返すわよ、と思ったのは悪魔の私。天使の私は、素晴らしいと言ってます。ほほほほ。

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温泉津(7)元湯泉薬湯と薬師湯。いい湯だぜっ

こんにちは。


温泉津(ゆのつ)。

起源は、旅の僧が、湯に浸かって傷を治している狸を見つけたとか、大国主命が病気のウサギをお湯に入れて救ったとか。

現実には、7世紀頃に発見といいます(「元湯泉薬湯」経営者伊藤家に伝わる『温泉記』)。

『和名抄』(承平4年《934》頃)に「温泉津」の記載あり。

「温泉」+「津」=「温泉のあるみなと」として、都でも知られる温泉地であったことがわかります。


(温泉津/龍御前神社の狛犬)

ここへは、温泉がとってもとっても楽しみでやって来ました。


せっかくなので温泉津の町をてろてろお散歩して、


沖泊港の


鼻ぐり岩も見つけて、お腹いっぱい。


いざー。(鳥取県/鷲峯神社の狛犬)


とっても風情がある町並を行くと、


元湯泉薬湯。

開湯は室町時代の観応から文和(1350-1355)の頃。

伊藤重佐と名乗る修行僧がこの地を訪れた際、改めて洞穴を開き温泉場を開発したのが始まりと伝えられています。

岩山に薬師堂を建立。広く民衆にも開放。

多くの人達が湯治に訪れるようになり、永正年間(1504-1520)には伊藤家は温泉屋本坊職や新坊職と呼ばれるように。

毛利元就が温泉津を領有すると、弘治元年(1555)、毛利元就の子・元康により伊藤重佐が命じられ、輝元の代には伊藤信重が湯税を納めます。

温泉津と毛利の歴史がぎゅぎゅっと詰まった素晴らしい場所です。


そんならこちらへ入ったかというと。

前日の石見銀山歩きっぱなしの疲れがあったので、休憩室がある少しお向かいの


薬師湯へ。

明治5年の浜田沖の大地震の時に湧出したので「震(新)湯」とも呼ばれる新しい湯です。


元の画像は薬師湯HPより拝借。

薬師湯は、施設の真後ろで地下2~3mから自然湧出する約46度の源泉が、だぼだぼっとかけ流されてます。

お湯の色は日によって変化するそうですが、まー、湯船や床に出来た温泉成分の結晶がすごいです。

ほんとに、濃いぃ濃いぃ新鮮な温泉なんですよー。

こちらでは、体を洗うお風呂ではなく、療養のために湯につかる場所ということで、シャワーなんてありません。

湯船がひとつ、あるだけ。それがいいんです。

ただ、熱い。

注ぎ口から一番離れていても、あっちぃー!!なので、番台でかけ湯をしっかりね、とご教授されます。



新鮮で濃いぃ温泉に何度かつかった後は、二階の休憩室でゆっくり。

ええ、あほーな私は、ここでぐでんぐでんになりました。


薬師湯HPは、http://www.yunotsu.com


いつも応援いただきありがとうございます。
元湯、薬師湯共に自然湧出。しかも湯元はすぐそば。なかなかパンチ力のある温泉です。前日、午前3時半に大阪を出て数百キロを走り抜け、石見銀山で歩きっぱなし、夜は夜で三瓶山の温泉で地酒三昧。さらに朝から温泉津の町をてろてろお散歩して、すっかりぐだぐだ。このあと百キロ以上を走らないといけないのに、湯上がりはぐでんぐでん。休憩室で熟睡し、自分のイビキで目が覚めて。おほほほほ。

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温泉津(6)温泉津港と沖泊港。鼻ぐり岩はどこだーっ


江戸時代以来の町割り、町屋、廻船問屋、温泉旅館、社寺等の伝統的建造物がよく残る温泉津。



石見銀山を尼子氏から勝ち取った毛利元就は、銀の搬出港として温泉津港を重視。

水軍も率いる元就ですから、港と海運の価値は熟知。

元就が如何に温泉津港を重要視したかは温泉津を直轄領にし、毛利水軍御三家の一つ内籐一族を安芸国から迎え奉行に据えたことからも伺えます。


温泉津に残る内藤屋敷。

内藤氏は、毛利水軍御三家の一つ。

「元亀元年(1570)当家初代、内藤内蔵丞は毛利元就の命を受け銀搬出の重要拠点である温泉津港口に鵜の丸城を築き、奉行に任命されました。」(現地説明板より)



さあ、今日は銀の搬出港である沖泊港へ。


温泉津沖泊往還道。

銀の搬出のため、元就により作られた温泉津~沖泊間のショートカット道。


沖泊港。

この辺りはリアス式海岸で海は岸まで深く、大型船の出入り可。
入り江にせり出す岩山は、見張りに最適。

さすが元就。


ほら、いかにも深そう。


二つの山城で警備もばっちし。


温泉津に屋敷が残る毛利水軍御三家の一つ内籐さんちの初代、内藤内蔵丞が元就の命で築いた鵜丸城。


うっかり入ったら、わーっと来た毛利軍に、ちゃーっとやられます。

関ヶ原後、毛利は温泉津や石見銀山から去りますが、

江戸時代を通して石見銀山の銀の搬出、また反対に石見銀山への必要物資の搬入の船で大いに賑わったとか。


北前船に乗って、行くんだよー。


狛犬さんも実は便乗。これは温泉津の子。


まぁ、そっくり♪なこの子は丹後半島の子。

出雲産の来待石。どんぶらこっこfrom出雲。


石見銀山の神社には、大阪狛犬さん。どんぶらこっこfrom大阪。

狛犬さんも物流や人の流れをこそこそっと教えてくれます。

さて。

この沖泊港で見たいものは、鼻ぐり岩。


お船を係留する時にぐりっと繋ぐ、これ。


港最奥にあった岩。人工的に穴を通してあります。


じー。


ロープが巻き付いてるの、見えますかしら?


じぃーっじぃーっ。


あったー。


ずーむっ。


いろんなタイプの鼻ぐり岩があったよー。


沖泊港のすぐ横には、恵比寿神社。

航海の安全を祈ったのね。

・・・銀が海のもくずになったらたいへん。


以前訪れたときはぼろぼろさんでしたが、きれいになっていました。

ああ、ほっこり。


いつも応援いただきありがとうございます。
温泉津から沖泊港へは今は車道が通っていますが、往時は岩を掘って作った往還道で銀を運んでいたのですね。たいへん。鼻ぐり岩はひとつの形だけでなく、いろんな形があるので面白いです。元就は地形を生かし、敵に備えて、さらに物流確保。さすが元就さん。無駄がないですね。

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温泉津(5)沖泊往還道と西念寺。毛利元就手植えの紅梅

こんにちは。



石見銀山をめぐる出雲の尼子氏らとの合戦を制した毛利元就は、
永禄5年(1562)2月、銀山を領有し、2年後に温泉津を直轄港として支配。


温泉津からトンネルを通ると、沖泊港。

ここは、元就が銀を運び出す拠点の港とした所です。

リアス式海岸の温泉津港と沖泊港は、水深が深く、大型船も入港できるため、元就以降、江戸時代は北前船が盛んに出入りしました。

当時はトンネルなんてないので、道。


こちらは、温泉津側の沖泊往還道入口です。

民家の隙間に案内表示。

よそのお宅に入るのかと心臓ばくばく。


びびってしまってこれ以上は進まなかったのですが、

手掘りで拓いた道が続いているそうです。


おおいに勘違いなう。それほど、往還道は狭かった。


温泉津の町は、岩山に囲まれた土地にあると何度もお伝えしていますが、


岩盤をくりぬいたこちらは、見てはいけないような感じです。


ほんとにこんな姿はお気の毒で、心が痛いです。

このお向かいには、


西念寺。


【西念寺由緒】

元は西念庵と称する小庵(禅宗)。

永禄4年(1561)3月。源誉念休(然休)上人によって浄土宗の寺として開基。


毛利元就との密接な関係があり、

中庭には元就手植えと伝わる紅梅(今は二代目)が残ります。


豊後の大友氏・肥前の龍造寺氏・薩摩の島津氏が三分する形で緊張状態にあった九州。

そこへ元就は商都博多を目指し、お得意の謀略で筑前擾乱に着手。


九州先陣に伽僧として従った念休(然休)上人。

(元就が帰依する長福寺三休上人は高齢なので、代わりの直弟の念休上人)

この参陣の褒美として、永禄4年(1561)「西念寺寺地安堵の奉書」を受けます。


温泉津は山に囲まれぎゅーぎゅーなので、

毛利の軍勢の加勢で岩山を切り開き七間四面の堂宇を建立。


岩盤をくりぬいた石仏様方がおいでですが、

現役の墓地でしたので、遠慮しました。

代わりと言っては何ですが、西念寺参道入り口にあたる温泉津港の横、


この岩山の麓に


こちら。


手前の建物の内部は、岩盤をくりぬいた洞窟。浜の観音様です。


とてもとても大切にされている仏様達。

ほっとします。


まいスイートホームをお持ちの仏様。


彫りがとても丁寧で、優しいお姿です。


北前船で賑わう温泉津港を見てきたのでしょうね。



著名な仏師の手による仏様も素晴らしいですが、こちらのような手作りの石仏様には、なんだか「ほっ」とするあたたかいものを感じます。


温泉津、ええとこだー。


由緒は、西念寺HPを参照
http://sainenji.info/


いつも応援いただきありがとうございます。
ほんとに温泉津は岩山に囲まれ、土地を拓くには岩盤を掘るしかないんだなーっと実感。元就手植えの松はお庭にあるようです。普段関西をうろついていると元就さんにはなかなか出会わないですし、幕末明治は長州にもにょもにょなのでちょっと苦手。でも現地で見る「元就が元就が」という由緒などはとても面白いです。ここにも元就さんが来たのだなー。

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温泉津(4)愛宕神社。取り違えた梵鐘と大久保長安逆修墓

こんにちは。

さて。本日より、鉄から銀へ頭を切り替えてーっと。


狛さんよ。ぎん、しか合ってませんよ。


手掘りで鉱脈を採掘して精錬した、石見銀山。


大きなお財布の石見銀山を巡ってすったもんだしたのは、


大内、尼子、毛利の皆様。銀山周囲には山城が点在。

永禄5年(1562)2月。石見銀山をめぐる出雲の尼子氏らとの合戦を制した毛利元就は、銀山を領有。


2年後に温泉津(ゆのつ)を直轄港として支配。

リアス式海岸の最奥の入り江にある温泉津港は、季節風の影響が少なく波静か。

水深は深く、大型船も楽に入港可能。

水軍も率いる毛利元就がここを重視しないわけがない。


そんな温泉津をお気楽さんぽ。


はぁー。


ご近所の方に「気をつけてね」と言われるほど、ヨタヨタの私。

前日の石見銀山探検がストレートに足腰にきております。


所変われば姿もかわる。てっぺんが長いなぁと。


温泉津の町は岩山に囲まれた土地。


けろけろです。ぜーぜー。

愛宕神社

【祭神】奥津彦命・奥津姫命、軻遇突智命

【由緒】永禄元年(1558)上総国智岡禅師

時報や緊急事態を告げる梵鐘を持ち、秋葉大権現と勝軍地蔵を安置。

「鐘撞堂」を称します。

明治に仏教色の濃い「秋葉大権現」から、祭神と社名を変更。
「愛宕神社」に改名、現在に至る。


謎の梵鐘。

天正19年(1591)に太閤豊臣秀吉の朝鮮出兵に備えて供出された梵鐘。

その後帰ってきたのは、隠岐国海部郡の勝田山源福寺の梵鐘(「明応6年《1497》卯月」の銘あり)。


梵鐘が、取り違えられてしまいました。


温泉津港や温泉津の町を眺めるこちらには、大久保長安逆修墓。


石見銀山にも、大久保長安の逆修墓がありました。



逆修墓は生前にたてるお墓で、死後にその功徳の全部を得ることができるといいます。(地蔵菩薩本願経など)


「為/朝散大夫従五位下石見守/大久保□(ユの下に矢)自建立」


慶長18年4月25日(1613年6月13日)は、長安の死没日。

何度か再建されているそうなので、これが当時のものかは不明。


気になりますな、これ。


正反対ではなかろうかと。


温泉津の町さんぽ、つづく。


参考

現地説明板

大田市観光サイト/石見銀山ウォークミュージアム
http://www.ginzan-wm.jp/spot/1668


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たたらから離れて戻って「世界遺産石見銀山遺跡」のお話。先の戦争の時のように、秀吉の朝鮮出兵時にも梵鐘等の供出があったとはびっくりです。返還の段取りをしたのは、三成なのかなー。三成ならこんなヘマしないかなぁ。それともわざと?可愛らしい社殿は平成3年の再建ですが、いわくつきの梵鐘と大久保長安の逆修墓があるので、とても興味深かったです。

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たたらと金屋子神社。境内は鉄でいっぱい

ただいまぁー。

今回の奥出雲たたら巡りのシメは、やはり神社。


島根県安来市比田の山の中に鎮座する金屋子神社。

左側に、変なものが並んでいます。


田んぼの中や住宅敷地内から出土した、ケラ(かねへんに母)です。

ケラとは、


土の炉で砂鉄と木炭を交互に入れて作るたたら製鉄において


砂鉄と木炭と炉の粘土の成分が反応して出来る、


大きなカタマリです。(安来市和鋼博物館)

神社の前に奉納されているものも、これと同じ。


谷川にはまだまだゴロゴロしてるのかな。


これに至っては、2m以上はあろうかと。

そう、金屋子神社には、ケラがいっぱい。


境内の建物の横に置かれていた、ケラ。


由緒などはまた後日ご紹介ってことでご容赦。

中国山地のたたら場では必ず祀っている金屋子神。ここはその本社。


雲南市の菅谷のたたら高殿のそばにも祠があり。


古代たたら製鉄の復元作業でも祀られていました。(左奥の榊のとこ)


金屋子神は、高天が原より播磨国志相郡(現・兵庫県宍粟《しそう》郡千種町)に天下り、鉄作りを教え、岩石で鉄鍋を造り(地名を岩鍋と名付ける)。

住むに足る山がなく、白鷺に乗って、出雲国能義郡黒田の奥非田の山の桂の枝で休憩。

そこで、安部氏に鉄造りの技術を教えました。(『金屋子神祭文』)

この安部氏末裔が、現在の金屋子神社宮司の安部さん。




ただし、現在の祭神は金屋子神ではありません。

「金屋子大明神」を祀っていたものが、明治期に大和の金山彦命、金山媛命を祭神に。

仏教色のある「大明神」を神話の世界の神様へ変更したいつものパターンでしょう。

なので、ケラ等が奉納されているのは、


「金屋子神」と刻まれた石の周り。


たたら製鉄で出来たケラとかノロ(ケラになれなかった不純物)。


境内社の「大山祇命を祀る山神神社」の前にも


誰かがそーっと置いたのかしら。

大山祇神は山の神。林業や鉱山関係者に崇拝されています。


狛犬さんの前にはないねぇ。


美味しくないよー。




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こちらの金屋子神社は、たたら製鉄の監督をする村下(むらげ/役職名)さんが、常駐してたたら製鉄を行う「日刀保たたら」から神社まで十数キロを裸足(指には藁を巻く)で歩いてお詣りされるほど、大切な所。ただし、金山彦命&金山媛命ではなく、あくまでも「金屋子神」へお詣りしている所にこだわりを感じます。

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温泉津(3)惠珖寺。細川幽斎の百韻連歌

こんにちは。


さて、温泉津(ゆのつ)です。


てーくてーくてーく。


恵珖寺(えこうじ)。日蓮宗。

寺伝によれば、元は真言宗の小さなお寺(創建不詳)。

ある日。

日慈(加賀国出身)が自身のお寺、石見銀山の本光山妙像寺(日蓮宗/廃寺)で説法。

この法話に感動した恵珖寺の信徒(油屋妙珍や村上氏など)の有志が日慈を温泉津に迎え、改宗。

大永5年(1525)に現在のお寺の基礎となるお堂を創建したと伝わります。


どうなんでしょ。時勢にのったのかしら。


鐘を見るの忘れました。


何となく見慣れない木組。


逆光なのよ。

門の左右には素敵な方が。


小柄ですが、なかなかの男前です。


そうそう、ここはお寺でしたね。


大永6年(1526)尼子氏領侵攻の際に大内義興がここに本陣を構え。

永禄5年(1562)2月。石見銀山をめぐる出雲の尼子氏らとの合戦を制した毛利元就は、銀山を領有。


2年後に温泉津を直轄港として支配。

天正15年(1587)5月。


とある有名人が立ち寄ります。

九州出兵の秀吉の陣を訪ねる途中の、


細川幽斎様です。

天正15年(1587)といえば秀吉の九州平定。幽斎は武将として参加してたんじゃないのか、こら。

またこの頃の幽斎は、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められ、居城は宮津城。

海を渡ってきたのかな。

で。

日慈(この時82歳)と親交があった幽斎。

ここ、惠珖寺で連歌の会を催します。


(龍御前神社の狛犬)

連歌とは、和歌の上の句(五・七・五)と、下の句(七・七)を多数の人たちが交互に作り、ひとつの詩になるように競い合って楽しんだもの。


(同上、がんばれ狛犬)

幽斎達が詠んだのは「百韻連歌」(ひゃくいんれんが)。

鎌倉時代~江戸時代の連歌の基本形で、

五・七・五(長句)→七・七(短句)→五・七・五(長句)のように

百句になるまで長句・短句を交互に連ねていくもの。

(「日本文化いろは事典」より『連歌』を引用)
http://iroha-japan.net/iroha/D03_poem/04_renga.html


細川幽斎の連歌の会は、5月3日。参加者8名。

この「百韻連歌」の記録は、現存。



(石見銀山の大久保長安の逆修墓)

江戸時代に入ると初代石見銀山奉行・大久保長安や佐々新十郎から庇護され。

代官が使用した膳や「殺生禁断の制令」、祈祷箱が寺宝として現存。



本堂裏手には、数多くの墓標が一つ屋根の下に複数の墓標が並ぶ廟式の墓地あり。

これは、廻船問屋「越前屋、佐渡屋、境屋、泉屋」などのもの。

北前船を介し、全国各地との交流があったことがわかります。


岩山をくりぬいた墓地。


龍御前神社の巨大な龍くんのように、温泉津は岩と共存かしら。


参考

現地説明板

大田市観光サイト/石見銀山ウォークミュージアム
http://www.ginzan-wm.jp/spot/1668


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細川幽斎の百韻連歌に付き合ったのは、同行者か温泉津の趣味人か。気が遠くなるような数ですね、ひゃくいんれんが。まさか温泉津で幽斎に出会うとは思いもよらず。連歌して、温泉につかってから、よっこいしょーっとお船で九州へ行ったのかな。さすが幽斎。急がず慌てず我が道をれっつごー。

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