社僧は阿波公方代々の墓所がある西光寺。御嶽神社の狛犬

こんにちは。

阿波公方、ちょっとおまけ。


阿波公方代々の墓所がある西光寺。


参道には西国三十三箇所の石仏様がずらり。

の、隣に鎮座するのは


御嶽神社です。

境内の石碑によると、


創建は不詳。

応永13年(1406)に現在地へ遷座。

「『御嶽大権現』と称し社僧は西光寺」(『寛保改神社帳』)

明治3年10月5日に「御嶽神社」と改称。


「御嶽大権現」から「御嶽神社」に改称したのは、祭神の蔵王権現が修験道ではご本尊様で、神仏習合の神様だから。


「修験道の神である蔵王権現を祀る神社は、明治時代の神仏分離のときに、御嶽神社、金峰神社(金峯神社)、蔵王神社などと改称された。

神道において、蔵王権現は『大己貴命、少彦名命』、『国常立尊、大己貴命、少彦名命』や、『安閑天皇(広国押建金日命)』、『金山毘古命』と習合し、同一視されたために、それらの神々を祭神とするようになった。」(wikipediaより引用)


ここの祭神がどちら様かわかりませんが、上記のどなたかなのかな。


現在は、こんな感じ。


西光寺の参道と同じ奥行きの御嶽神社の境内。


素朴な手水鉢。


なかなかの年代物です。


元治年間は1864年と1865年。


うーむ。


何だろうねぇ。お庭の跡か、ただの石ころか。


境内摂社の前には


手水鉢の先代さん。ちょっと小ぶり。


こまちゃーん♪( 〃▽〃)♪


あらやだー。


したした。すっごくした。


首が行方不明。


あ、ごめん。


似合いますわよー。

すっごく元気な首飾りねー。つんつんつん。


えーっと。チョビヒゲなのかなー?

お口から出てるように見えるけど、よもや、二枚舌・・・?

きゃー。

・・・おやつを食べてる最中ってことにしておこう。


うんうん。神様も阿波公方代々のお墓もお守りしてるのね。


えらいえらい。


氏子さん方の尽力で今は素敵な白亜の社殿。


静かだー。


首飾り、よね?


西光寺山門と横並びの御嶽神社の本殿。

阿波公方足利家の人々も墓参の折りには立ち寄ったのかなー。


水仙がきれいでした。

おしまい。


御嶽神社

《住所》徳島県阿南市那賀川町赤池角地187ー1


地図が少しずれてますが、西光寺の南西に隣接してます。


いつも応援いただきありがとうございます。
無邪気なお顔の狛犬さんにとっても癒されて、阿波公方巡りを終えました。石碑の遷座年代の記述に加え、手水鉢の奉納年代を見ると、ここへ阿波公方家の人々が参詣した可能性は大きいなと思います。もしかしたら、この手水鉢を使ったかもしれないしー。わくわくが止まらないまま、ほっそいほっそい道をドキドキして運転しつつ、次の場所へ。

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浪人、足利義根。阿波公方270年の歴史に幕。最終回

こんにちは。

少し懐具合が良くなった阿波公方。

第8代義宜、第9代義根は共に漢文学や儒学を熱心に学び、
京都から招聘した島津崋山の教え方も上手だったのか、
優れた門人が多数、平島館に集います。



阿波南部における漢文学の中心地、「平島文化サロン」のオープンです。

しかし。


「文化って金喰い虫なの」(←誰)


文化2年(1805)。第9代義根は、京都の名門を介して、阿波徳島藩第11代藩主・蜂須賀治昭に増禄を願い出るも、不可。

父の代にたくさん増えたばかりです。無理。


義根、噴火。

今までの阿波公方ならば、「ところがどっこい」→「しょぼん」で終わるところ。

しかしこの義根、根性が違う。


怒った。

阿波を出る覚悟を決めます。

病気療養を名目に阿波退去の許可を第11代藩主・蜂須賀治昭に申請。



徳島市の興源寺、蜂須賀家墓所。

蜂須賀治昭も学問好き。

義根の出奔には「藩主蜂須賀治昭からの退去慰留状追書」(阿波公方・民俗資料館蔵)を出して引き留めます。

藩主としては、阿波公方家を藩から出してしまうのは、まずい。

しかし、義根の決意は変わらず。

やむ無く、義根の阿波退去を許可。

義根には餞別として銀300枚、阿波公方家代々の墓がある西光寺には墓守料50石を与えました。



文化2年(1805)7月24日。

足利義根、阿波を出ます。

ここに、270年間も続いた「阿波公方」の歴史は幕を閉じました。



平島館は廃され、解体。


阿波国を去った義根は、紀州へ。


なぜ、紀州?

紀州側は「名門の直系である足利家が蜂須賀ごときに隷属し、不遇な日々を送るとは、なんてこと。うちへ来たら厚遇するよー」


と言っており、義根は紀州を目指しました。


ところがどっこい。(やっぱり)




幕府老中・水野出羽守より

「足利に対しては、扶知を致す筋合いなし」

と叱られた紀州藩主。



義根、紀州藩への仕官かなわず。

さぁて、どうしましょ。

阿波公方家は、阿波徳島藩の陪臣ですが、第3代義種の妻は足利周暠の孫で水無瀬家養女、第8代義宜の妻は羽林家中納言持明院基輔の娘、義根自身の妻は西洞院家の養女であるように、京都に限り権威や血筋をある程度は認められていました。

もう、京都しかない。

京都において義根は、蜂須賀家に押し付けられた平島姓を足利姓に戻し。

足利歴代の菩提寺・等持院を宿所とし、盛大な先祖供養の法会を行いました。

しかし、どの宮宅、公家も義根一行を受け入れてくれる所はなく、生活にも困窮。

阿波を出たときに270名ほどいた一族・家臣達は殆ど離散。


悲惨。

義根は、足利氏ゆかりの寺院からの援助で細々と食いつなぐ日々。

援助したのは、四つのお寺。

天龍寺(開基・足利尊氏)
相国寺(開基・足利義満)
等持院(開基・足利尊氏。足利氏菩提寺)
金閣寺(開基・足利義満。義満の北山山荘を死後に鹿苑寺とした)

※等持院には代々の室町将軍像があるが、阿波から第14代将軍となった義栄はないとか。いけず~。


さあ、どこにも属さない足利義根。身分は、浪人。


悲惨。

あのまま阿波にいれば、少なくともここまで惨めな事はなかったのに。

さすがにまずいと思ったのか、紀州藩。


紀州徳川家から毎年200両を援助。

これは明治30年頃まで続きました。



その後、義根は北野七本松(現・一条七本松)の崇禅寺に移り。

文政9年(1828)10月8日。80歳で亡くなりました。

やがて御一新で全て白紙に。


もう、阿波公方といえば、これ。


紀州藩の援助はその額が減らされ、四ヶ寺からの援助は廃止。

義根の子の足利義俊は、明治4年に阿波公方家の華族復帰運動をするも、失敗。

葛野郡下山田村(現・京都市西京区)にて帰農。

阿波に留まっていれば、蜂須賀家家臣として士族になれたかもしれません。



泣くな。


悲惨な結果となった第9代阿波公方・義根ですが、この阿波公方家は現在も続いておいでです。

他家(喜連川氏)が養子を入れたのに対し、阿波公方家は平安時代末期の足利家初代・足利義康の血脈が途絶えることなく続きました。


阿波公方のおはなし、おしまい。




参考文献

◎阿波公方

『平島公方物語』(中島 源・著/那賀川町役場/1991.11)
『平島公方史料集』(那賀川町史編さん室/2006)
阿南市「阿波公方・歴史民俗資料館」の展示文書
西光寺の境内説明板

◎三好氏

『三好長慶 諸人之を仰ぐこと北斗泰山』(天野忠幸・著/ミネルヴァ書房/2014)
『戦国三好氏と篠原長房』(若松和三郎・著/戎光祥出版/2013)
『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』(天野忠幸・著/戎光祥出版/2016)


◎その他、適宜「wikipedia」を閲覧

☆出演 兵庫県、徳島県、京都府、和歌山県、香川県、北海道の狛犬さん


いつも応援いただきありがとうございます。
長々とおつきあいいただきありがとうございました。決して有名ではないけれど、徳島県から室町将軍が出たこと、そしてその子孫が徳島県阿南市の平島という地で「阿波公方」として粛々と生きていたこと、頭の片隅にでも置いていただければ幸甚に存じます。いやー、狛ちゃん達には助けてもらいました。みんながいなければとても続かず。狛ちゃんにも感謝でーす。

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武から文へ。阿波公方の平島館、文化サロンになる

こんにちは。

今日も阿波公方のお話。


阿波公方に与えられたのは、100石。生活、困窮。

第4代義次の代に旧領のうち七浦山が返還され、第5代義景の代に現米(土地でなく、お米の現物支給)100石の合力米が許されても、


平島館は火の車。


そこで、第8代阿波公方義宜は。

プライドを捨てました。

なんと。

阿波徳島藩第10代藩主の藩主蜂須賀重喜に加増を求めたのです。



(徳島市の興源寺、蜂須賀家墓所)

蜂須賀重喜は、出羽秋田新田藩主・佐竹義道の4男。
第9代藩主・蜂須賀至央の末期養子として第10代藩主に就任。

藩政改革に着手。

明和6年(1769)10月晦日。32歳の時に「藩政宜しからず」として幕府より隠居を命じられ、長男・喜昭(治昭)に家督を譲ります。

そんな藩主、蜂須賀重喜。



プライドを捨てて頼んだのに。

藩政改革の途中の為か、蜂須賀重喜、拒否。

でもめげないっ。



宝暦11年(1761)、重喜が江戸に参勤交代で上府した際、藩重役に再度加増を求めるも、やはりダメ。


ところがどっこ~い。


明和年中に現米950石を加増されて、1190石に。

やったぁー♪


奥さん、すごくなぁい?


この第8代阿波公方義宜、プライドを捨てて頼んだけれど、それはそれ。

平島姓を名乗るとはいえ、うちは何たって足利将軍家。


れっつすたでぃー。

京都から名儒学者として著名な島津華山を招聘。

平島館に学問所「栖竜閣」を設け、子弟・家臣達の教育を崋山に任せます。


《島津華山て誰?》

島津崋山(1738~1794)

兵法家・島津義忠の子として京都で生まれ、両親他界後に父の友人の医師、京極高安の養子となり医業を修め、儒者に転向。

養父他界後は、島津姓に戻します。

義宜の招聘を受け阿波公方に仕え、子弟や家臣の教育に尽力。



崋山の儒学教室は、

平島周辺の寺子屋師匠・山内省山、医師・高橋赤水、西光寺の堅如(大仁錦水)、信行寺の才玄など優れた人物を輩出。

この弟子達は、崋山が親しく交流した藩儒の那波魯堂(なばろどう)と共に、「平島文化サロン」(後述)のメンバーに。

崋山はそのまま阿波平島で没。

墓石には、崋山の功績を讃える碑文が刻まれています。

それは、第9代阿波公方・足利義根撰、弟の義恭の書。
(阿南市那賀川町大京原・須賀庵墓地)


崋山の弟子で著名なのは、医師・高橋赤水。

赤水は明和6年(1769)徳島生まれ。
京都で医学、儒学を学び、赤池村(那賀川町)に移り、医業の傍ら崋山に学び、また、門人に儒学を教えました。

弟子に、貫名菘翁(ぬきなすうおう)がいます。
江戸後期の文人画家の巨匠であり、書では「幕末の三筆」。

赤水は、当時主流であった朱子学を排斥し、孔子本来の教えに立ち戻る立場をとり、著書『赤水文鈔』『古今学話』等を記しています。

生涯については墓碑銘しか知る手立てがないようで。


墓所は、阿波公方家と同じ西光寺にあります。

(墓碑銘なんて読めやしませんでした・・・)


《足利義根、文化サロンをオープン》

足利義根(1747~1826)

宝暦12年(1762)。兄の義智が家督を継ぐ前に早世、第9代阿波公方に。

義根は島津華山に学びます。


義根、漢詩・漢文学に才能が開花。


天明6年(1786)。義根、『栖竜閣詩集』を刊行。

第8代義宜の頃より崋山も協力して編纂を始め、5巻3冊で219首の漢詩を掲載した『栖竜閣詩集』。


『栖竜閣詩集』(阿波公方・民俗資料館蔵)

第9代義根の漢詩も数多く入っています。



義根の漢詩では、義根は平島館を「野水の浜」と詠んでいるそうです。

館から那珂川河口はそれほど遠くはないので、義根の目には平島館が「野水の浜」と映ったのかなー。


さて。


京都詩壇の大御所・江村北海(華山の京都時代の師)のもとへ、崋山に連れて行ってもらったこともある義根。

他に、藩儒・那波魯堂、江村北海・伊藤蘭嶋等の碩学名士とも親しく交流。

崋山の弟子である寺子屋師匠・山内省山、医師・高橋赤水、西光寺の堅如(大仁錦水)、信行寺の才玄など、文人が集う平島館。

「平島文化サロン」のオープンです。


平島館は、阿波南部における漢文学の中心地に。


しかし。

「文化ってのは金喰い虫だぜ」(←誰)

つづく。


島津崋山について、下記の記事を参考にしました。

毎日新聞2015/8/30地方版『阿波春秋』より
http://mainichi.jp/articles/20150830/ddl/k36/070/375000c

その他の参考文献はシリーズ最後に掲載。


いつも応援いただきありがとうございます。
漢詩って難しいですよね。資料館で見ても何が何だか。第8代義宜の尽力により少しは暮らし向きが楽になったのかしら。ちなみに義宜の妻は、羽林家中納言持明院元輔の娘。蜂須賀家の陪臣でわずかな知行地しかない阿波公方足利家ですが、京都ではその権威と血筋は少しは認められていたようです。ここ、ポイント。

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阿波公方の収入源「マムシよけ」

こんにちは。


初代阿波公方・足利義冬から第9代義根まで、270年間。


代々の阿波公方家は、平島館で暮らしました。

江戸時代には。

阿波徳島藩主・蜂須賀氏により禄を百石に減らされ、さらに「足利」ではなく「平島」の姓を名乗らされます。


なんたるくつじょく。ぷぅ。

たった百石で、公方家の体面を保つのは大変だったでしょね。

代々の阿波公方は、どうやって食いつないだのかしら。


【大事な収入源「マムシよけ」】

これは言い伝え。

第4代足利義次(1596~1680)(蜂須賀氏より、「平島又八郎」の名乗りを強制された人)のとき。


平島館のすす払いをしていたら


床下に


大量のマムシの死骸。

きゃー。

足利将軍家のご威光は、マムシをも殺す。


なんてものすごい威力でしょぉー。


噂が噂を呼んで。


マムシよけの守札を求める人々が相次いだのでした。


と、ここまでが「まむしよけ」についての言い伝え。


阿波公方家では「阿州足利家」と紙に書き、「清和源氏之後」という朱印を押した札を発行します。

足利氏、本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏ですから、「清和源氏之後」ですね。

効き目は、持っていればマムシに噛まれないとか、ヘビに見せたら逃げるとか。

守札は徳島県内に広く伝わり、発行は第9代義根が阿波を去るまで続きました。



「阿州足利家」銘呪符(阿南市立阿波公方民俗資料館より)

この「まむしよけ札」は二十枚ほど現存し、「阿州足利家」「阿波足利家」「足利家阿州」「足利家」の4種があります。

紙質、筆跡、横書き、縦書き、大きさ等は様々で、相当長期に渡り発行されていた事が推測されています。

「まむしよけ札」の発祥は言い伝えながら、この守札の発行が阿波公方の収入源であることは間違いなく。(『阿南ふるさと探訪』その61/湯浅良幸著)


「阿州足利家」銘呪符(阿南市立阿波公方民俗資料館より)



阿波公方には、予想外の収入源。


長年発行し続けたということは、さぞかし人気があったのでしょうね。

面白いなー。


つづく。


参考文献

徳島県立博物館ニュース33(1998年)

その他の資料はシリーズ最終回にまとめて掲載。



いつも応援いただきありがとうございます。
文字を書いて押印するだけのお仕事です。阿波公方さんでも、これならOKだったのかな。前提としては、室町幕府の将軍家である足利家に対する畏敬の思いが、平島館のある阿波の人々にあったことでしょう。蜂須賀家はよそから来た人。それに比べ、200年以上に渡り勝瑞城館を中心に栄えた細川・三好が担いだ、阿波公方家。しかも、第14代将軍義栄は生粋の阿波の人。地元のヒーローですものねー。

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阿波公方代々の墓所・西光寺と蜂須賀家の仕打ち

こんにちは。


阿波公方足利家の菩提寺・西光寺。


室町幕府第14代将軍・足利義栄、第10代将軍・足利義稙、初代阿波平島公方・足利義維(義冬)の墓所。

義栄の死後は弟の義助が第2代阿波公方となり、平島館で上洛の機会をうかがいます。


第14代将軍足利義栄の母と妻、2代阿波公方義助の墓所。

義栄の妻は大内義興の娘。

将軍職を家臣に追われ、全国放浪の末に周防国大内氏を頼ったのは、第10代将軍・足利義稙。

彼の養子である義冬、その縁で大内義興の娘を妻に。


義冬も、後見人である細川持隆が三好実休に暗殺された折は激怒して妻の実家へ引っ越しましたね。



平島館の玄関(地蔵寺へ移築されたもの)

義助達阿波公方は、平島館で雌伏の時を過ごします。


しかし。



土佐の長宗我部元親が北上し、阿波へ侵攻。


200年以上も細川・三好氏の拠点であった勝瑞城が落ち


三好氏の後を継いだ十河存保は讃岐へ。


ところがらっきー♪(はじめての、らっきー♪)


元親は、阿波公方の伝統的権威には手を付けず。

阿波公方の所領(平島郷十二村・吉井・楠根・丹生・和食の三千貫)を従来通り保証。


阿波公方の面目を保ちました。


ところがどっこい。(やっぱり)


阿波徳島藩主となった蜂須賀くん。

室町幕府の将軍家が藩内にいるのは、


生かさず殺さず。


① 阿波公方の禄高を一挙に100石内外に削ります。

足利義昭は秀吉期に1万石、喜連川氏(鎌倉公方家の後裔)は大名格、西山至之・尾池藤左衛門(義輝の遺児の子)でさえ1千石といいますから、阿波公方の100石はとってもとっても冷遇。


② 阿波公方第4代目の義次を「平島又八郎」と名乗らせるなど、旧将軍家の権威を認めず。

平島にいるからって平島姓を名乗らせるとは、なんちゅー単純お馬鹿。

また、これ以降阿波公方家は、平島姓の場合は「又」を通字にします。

何でもこれは、遠祖の足利尊氏の幼名「又太郎」から取って、蜂須賀氏に強引に通字とされたものだとか。(wikipediaより)

んまー。


なんてこったい。

以下、()内は平島姓。


第5代目公方義景(又二郎)、第6代目公方義辰(又太郎)。

※4代義次(又八郎)の墓所は不明(平島館と伝わる)


第7代目公方義武(又八)。


第7代目公方義武の弟・義人。この方だけお不動さん。


足利二つ引紋が見えます。


第8代目公方義宜(右兵衛)。

京都の名儒(儒者)島津華山を招いて子弟を教育しました。


第9代公方義根の子と第7代目公方義武の弟の義人の子。

あれ?

第9代公方義根(又太郎)がいない。

そう。この義根、蜂須賀家の対応にたまりかね、


爆発。

とうとう阿波を去ってしまったのでした。

義根が去った後の平島館は廃され、今はわずかに土塁が残るのみ。


歴代阿波公方と妻や子が眠る墓所。


室町幕府の将軍も眠る足利家の菩提寺。


西光寺でした。


次回、阿波公方のお金の話へ、つづく。


西光寺
《住所》徳島県阿南市那賀川町赤池185番地




いつも応援いただきありがとうございます。
「不幸」の神様に好かれたのか、代々、踏んだり蹴ったりの阿波公方家。それでも暴れだしたりしないのは、自前の武力がないからかしら。それとも「そんなことははしたないぞよ」だったのかしら。

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阿波国で生まれ育った足利義栄、将軍になる

こんにちは。


苦節数十年。

やっと将軍の座が目の前にやって来たというのに、足利義冬は既に57歳。
加えてちょいと病身。

よって、代わりに登場したのが


嫡男の足利義栄。

永禄9年(1566)。義栄は、三好三人衆方の篠原長房・三好康長らに擁され摂津国へ入ります。

永禄10年(1567)1月5日。「従五位下左馬頭」に叙任。

永禄11年(1568)2月8日。摂津国において義栄に将軍宣下。

阿波生まれ阿波育ちの「第14代将軍」の誕生です。


やったーやったー\(^o^)/

さあ、あとは、上洛するだけよー。


ところが。



この頃、松永久秀と三人衆、仲違い。

足利義栄自身の病もあり、上洛は、まだ。

もたもたしているうちに、奴が来た。

そう。


きしめんだ。

違った。信長だ。

永禄11年(1568)9月。織田信長 with 足利義昭、上洛。


松永久秀は信長に下り、三好三人衆は京都から退き。

後見人がいなくなった義栄。


将軍の座を得ながらも一度も上洛することなく阿波へ帰国。


そして間もなく。

阿波国撫養(むや)にて、父親の義冬に先立ち、病没。


永禄11年(1568年)10月18日。
上洛からわずか一ヶ月で、足利義昭、将軍宣下。第15代将軍に就任。



義冬、しっかりして。



阿波公方の平島館(地蔵寺に移築)

ここで義冬は、義栄の後を継いだ義助(弟)と共に上洛の機会を待ちます。


平島館内に勧請した三社神社に義冬が建てた鳥居(現・古津八幡神社)


同じく、石灯籠(現・古津八幡神社)

義冬は何を思いながらこの鳥居や石灯籠を建立したのかな。


この間に畿内では、信長がずんずん台頭。


そして。



義栄から遅れること5年。

将軍を目指した足利義冬は、阿波国平島にて死去。



阿波公方足利家の菩提寺・西光寺の墓所。


第14代将軍・足利義栄(1538~1568)


将軍になったけれど一度も上洛出来なかった義栄。



第10代将軍・足利義稙(1466~1523)


二度も将軍職を追われ失意のうちに阿波国撫養で病没した義稙。



初代阿波公方・足利義維(義冬)(1509~1573)


従五位下左馬頭に任じられても将軍になれなかった義冬。



義稙を真ん中に、向かって左に義栄、右に義冬。


今は三人並んで静かに眠っています。


つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。
ざーーーっと阿波公方三代を見てきた後で墓所を見ると、また趣が変わって見える気がします。今は静かな田園風景が広がる平島の地に、室町幕府の将軍となり、また次になることが出来る立場であった足利家の人々が暮らしていたんですね。

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松永久秀と三好三人衆、足利義冬を将軍にしま・・・

こんにちは。

天文22年(1553)。

頼みとしていた細川持隆が、長慶の弟・三好実休により見性寺において殺害されてしまった足利義冬。

さすがにこれには激怒して


妻の実家、周防の大内さんち(当主は大内義長)へ家出。


畿内では。

永禄元年(1558)。

将軍家(足利義輝)と三好長慶は和解。

永禄4年(1561)3月30日。

三好長慶は、義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎え、5月6日に義輝の勧告で敵対する細川晴元とも和睦。


数年の間、平穏。


長慶はこの頃には摂津・山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨・河内・大和の10カ国に加え、伊予東部2郡・山城南部等を支配下に。


ところが。


永禄7年(1564)。

三好長慶、病没。

長慶を支えたよくできた弟達(実休・安宅冬康・十河一存)も、既に他界しており、後を継いだ長慶の甥・義継は若年。

で。

松永久秀と、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)が、台頭。



一方、将軍義輝は


香取神道流の剣豪・塚原卜伝に習う程のリアル暴れんぼー。

しかも、筆まめ。

あちこちの合戦を調停したり、せっせせっせとお手紙書いた。

「当代、京の公方様義輝と申候は、天下の覚めでたく候」(『細川両家記』)


松永久秀と三人衆、危機感ばりばり。

彼等が望むのは、傀儡の将軍。


永禄8年(1565)。

室町幕府13代将軍足利義輝を暗殺(永禄の変)。

室町御所を襲撃し、めっためたに斬り殺しましたとさ。



室町幕府の将軍を近江へ追い払うものの、殺しはしなかった三好元長・長慶とは大違い。

さて、松永久秀&三好三人衆は


第14代将軍を誰にするかと考え・・・


義澄(11代)━義晴(12代)━義輝(13代)
      ┗義冬    ┗義昭


おや。阿波公方家しか将軍継承候補が居ない。(義昭、逃亡なう)

そう。


白羽の矢がぶっ刺さったのは、


ずっと将軍になりたかった、義冬です。


三人衆(三好長逸)が迎え、周防国から阿波へ戻った義冬。

いよいよ将軍に・・・


ちょっと待て。



いくつだ、義冬。

57。


待ちに待ってたら、もう、57。


なんてこったい。


さすがにこの年では征夷大将軍職ははばかられ。


嫡男の足利義栄が次代室町幕府将軍として推挙されました。


ちなみにこの頃、松永久秀と三人衆、仲違い。


永禄9年(1566)。

足利義栄は、三人衆方の篠原長房・三好康長らに擁され摂津国へ入ります。

永禄10年(1567)1月5日。

「従五位下左馬頭」に叙任。

これは、征夷大将軍になる者が事前に命じられる官職。

あとは征夷大将軍の宣下を待つのみ。←義冬、ずっとここ




永禄11年(1568)2月8日。

朝廷より「第14代将軍」として義栄に将軍宣下。


ついについに、将軍になれたー(息子が)!!



苦節数十年。

義冬自身はなれなかったけれど。

よよよよ。


ところがどっこいしょ。


義冬を最大の悲劇が襲います。



つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。
自分の武力を持たない義冬には、待つことしか出来なかったのかな。ずーっと待ったあげく、年をとってしまったが故に手に入らなかった将軍の座。嫡男の義栄が第14代将軍になれたのが救いです。畿内に松永久秀と三好三人衆が出てきたということは、いよいよ、織田信長がやって来る頃合い。

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待ちぼうけて数十年。初代阿波公方・足利義冬

こんにちは。


三好一族(之長・元長・義賢・長治達)の墓所。

天文元年(1532)6月。後見人の三好元長が幕僚同士の勢力争いに敗れ、顕本寺で自害。

頼みとしていた三好元長の死により、三好一族と共に阿波へ帰国した足利義維(義冬)。

※この頃に義冬に改名したので、以下、義冬で。


迎えたのは、阿波守護・細川家。

庇護者が世代交代しています。

阿波守護・細川之持→→息子の持隆
三好元長→→息子の長慶



足利義冬は、まず西光寺へ。


後に阿波公方足利家の菩提寺となるお寺。

細川持隆は、平島郷十二村、吉井村、楠根村、丹生村、和食村の計三千貫の土地を献上。

義冬は、侍分15人含む360人を従え、平島の地へ下向。

これ以降、義冬の家系は「阿波公方」と呼ばれるように。


なぜ平島なのか。

それは、この西光寺がある辺りは、足利尊氏が開基し、足利家に縁の深い天龍寺の荘園「平島荘」だったから。


義冬、鼻息ぶぉーぶぉー。


ところがどっこい。


細川持隆も、三好長慶も、左へ受け流すぅ~。

そう。将軍義晴は琵琶湖湖西(朽木・坂本)と都をうろうろするわ、呼応したいろんな人が出てくるわで、畿内あっちこっちをモグラタタキするため長慶と兄弟達はフル活動。(略しすぎてごめんなさい)


もんもんする義冬。


待ちぼうけ♪ること、実に十数年。


やがて、京都は再び義晴派閥の手に。

天文15年(1546)12月。
義晴は征夷大将軍職を嫡男の義輝(11歳)に譲ります。



早く上洛して将軍の位を奪還しなくちゃっ。

なのにぃ~(T▽T)

三好長慶ってば、足利義輝に何度も命を狙われている(焼き殺されかけたり、斬られたり)というのに、近江へ逃れた後の義輝を追い詰めない。

放置。


自害した父の三好元長も、そうでしたね。

結局、諦めない義輝との争いは十数年に及びます。


つまり、


待ちぼうけ♪ていたら、さらに十数年経ってた義冬。


義冬の周囲は変化がなくても、畿内は大騒動。

特に、三好長慶の台頭はめざましく。


永禄4年(1561)3月30日。
義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎え、5月6日に義輝の勧告で敵対する細川晴元とも和睦。

長慶の勢力圏は、摂津・山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨・河内・大和の10カ国。
さらに、伊予東部2郡の支配、山城南部の支配なども強化。

(阿波守護細川家は既に三好長慶の台頭により実力が形骸化。)


さすがにしびれが切れた義冬。

三好がダメなら、と、阿波守護細川家を説得。
上洛の同意を得て、いざ。


ところがどっこい。


天文22年(1553)。

肝心の、細川持隆が、長慶の弟・三好実休により見性寺において殺害されてしまいまーす。


なんてこったい。

さすがにこれには、義冬、激怒して


妻の実家、周防の大内さんち(当主は大内義長)へ家出。


え?


義冬の先代、第10代将軍・足利義稙は家臣達に征夷大将軍をクビにされ(明応の政変)、激怒して逃亡し、征夷大将軍職復権を目指して13年半もの間、越中、近江、加賀、中国地方の最西端・周防国まで放浪。



周防国の大内義興の支援により、めでたく永正5年(1508)に京都を占領し、将軍職に復帰。

この、大内義興の娘が、義冬の妻(この人の姉は細川持隆の妻)。


永禄6年(1563)頃に三好長逸らの手引きで帰国するまで十年間を周防国で過ごした義冬。

さて、ここでクイズです。


永正6年(1509)生まれなのよ。

このまま周防の国でおとなしく余生を過ごしました・・・か?

そんなわけなかろ。

つづく。



いつも応援いただきありがとうございます。
まー、待つわ待つわ、いつまでもまぁつーわ♪(古っ)の足利義冬さんですが。三好長慶には将軍義輝を義冬のために討つ気などさらさらないようで。義冬を対抗馬として担ぎ上げる義理もないですしねー。ものすごく省略していますが、この時期の畿内はほんとに面白いです。

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足利義維(義冬)、従五位下左馬頭になれども将軍には?

こんにちは。



義稙亡き後、その意思と執念を継いだのは、11代将軍義澄の子で義稙の養子であった足利義維(よしつな・後に義冬)(1507-1573)。

お育ちは阿波細川さんち。


という、とーちゃんの遺志を継ぎ。

京都の室町御所で第十二代征夷大将軍となっていた実兄の足利義晴と対立する道を選び、その将軍位を虎視眈々と狙い始めます。


そんな義維の後ろ盾は、阿波国を代表する二人の権力者。

阿波守護職・細川之持(ゆきもち)と、その右腕・三好元長。


特に三好元長及び弟の康長の武勇と器量は大きな支え。


大永7年(1527)2月。桂川原の戦い。
三好元長・細川晴元達は、兄の第12代将軍・義晴を擁する細川高国を打ち破り。

将軍義晴は京都を捨て近江朽木谷へ逃亡。京都室町政権は瓦解。


ポイント。
ほっぽり出すだけで、追いかけて始末まではしないのが三好元長。
これは、子の長慶も同じ。


覚えておいてね♪


同年3月。

細川持隆、三好元長に擁立され、義維(義冬)はついに阿波を出立。
大阪の堺へ入ります。



同年7月。

「従五位下左馬頭」に叙任。

これは、征夷大将軍になる者が事前に命じられる官職。

あとは朝廷からの勅使を迎え、征夷大将軍の宣下を待つのみ。




堺の顕本寺に居住した足利義維(義冬)の周りには、都を追われ鳴門の撫養で死去した第10代将軍・足利義稙に従ってきた幕府吏僚達がおり、奉行人奉書の発給を始めています。(wikipediaより)


「堺公方」「堺大樹」と呼ばれても、肝心の待ち人、来ず。

朽木谷へ逃れたとはいえ、現職の将軍・義晴は存命。
再起する可能性もあったからでしょうか。


かれこれ5年間、待ちぼうけ。


そこへ凶報。

天文元年(1532)6月。後見人の三好元長が幕僚同士の勢力争いに敗れ、顕本寺で自害。


この時、お腹から中身を取り出して天井へ投げつけたとか。



三好氏の本拠地・勝瑞城跡に建つ見性寺境内に墓所がありましたね。


三好一族(之長・元長・義賢・長治達)の墓所。


頼みとしていた三好元長の死。


足利義維(義冬)、しょーっく。

三好一族と共に阿波へ帰国。


迎えたのは、阿波守護・細川之持でした。



ところがどっこい。

つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。
「あちょー」等でたびたび登場するちび狛犬さんは、兵庫県丹波市春日町黒井の兵主神社の子です。阿波公方なんて馴染みの薄い人のお話には、せめて狛犬劇場で楽しく楽しく・・・。暖かくなり凍結の心配がなくなったので、狛犬さんに会いに行かなくちゃ♪とわくわくしてたら、花粉症が来ました。うおー。

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阿波細川家の菩提寺、丈六寺。元親の血天井

こんにちは。



義稙亡き後、足利義維(よしつな・後に義冬)(1507-1573)は亡父の意思と執念を継承し、阿波平島の地に亡命政権『阿波公方』を樹立。


とーちゃんの遺志を継ぎ。

京都の室町御所で第十二代征夷大将軍となっていた実兄の足利義晴と対立する道を選び、その将軍位を虎視眈々と狙い始めます。


そんな義維の後ろ盾は、阿波国を代表する二人の権力者。

阿波守護職・細川之持(ゆきもち)と、その右腕・三好元長。


今日は阿波の細川さんちのお話少し。(一部過去記事使用)


【細川家の菩提寺、丈六寺】


丈六寺。

丈六寺は、室町幕府相伴衆、阿波国・三河国・讃岐国の守護の細川成之(しげゆき・之持の祖父)(1434-1511)が、中興開基。

阿波細川家の菩提寺です。


徳島県下最古の木造建築物。丈六寺の山門。

細川成之は、応仁の乱で東軍の副総大将。

しかし、成之以降は若年の当主が続き、家宰の三好氏が台頭。


丈六寺・徳雲院。

細川持隆(之持の子)が瑠璃殿として寄進。

永禄6年(1563)に細川真之(さねゆき・持隆の子)が改築し自身の法名である徳雲院に改称した建物。


経蔵は、1568年、細川真之の寄進。


細川持隆は、天文22年(1553)に三好実休により見性寺で殺害され。


現在は勝瑞城跡にある見性寺。

真之が後を継ぐも、細川家は三好実休とその子の長治が実権を握ります。

真之は新たに台頭してきた土佐の長宗我部元親と手を結び、長治を滅ぼしますが、天正10年(1582)に長治の実弟の十河存保(そごうまさやす)に攻められて自刃。


丈六寺本堂の背後の山に、細川成之、持隆、真之の墓所があります。


【長宗我部元親と丈六寺】

丈六寺の南東に牛岐城があります。


丈六寺の裏山より南方面遠景。


牛岐城は、細川氏の家臣・新開氏の居城。

三好義賢が守護細川持隆を倒した後は、義賢との間に主従関係を結び、三好氏の南方における軍事及び政治上の重要な領国支配の一端を担っていました。


四国ざっくり図。


丈六寺・本堂(蜂須賀時代)

長宗我部元親の侵攻に対し、牛岐城周辺の諸城はすべて落城。
しかし、牛岐城の新開遠江守道善だけは最後まで抗戦。

元親の阿波侵攻の最大の障害はこの新開道善。



天正7年(1579)。中内兵庫を大将とした元親軍が新開氏を攻撃。

道善、敗北。

翌年、新開道善は元親の軍門に降り、牛岐城は香曽我部親泰の支配下へ。


阿波・一宮城の小倉丸。

道善の降伏を聞き知った一宮城主の一宮成助も、その直後に降伏。


天正10年(1582)。
長宗我部元親と敵対する十河氏を支援し、四国侵攻を画策していた織田信長が本能寺の変で死去。


長宗我部元親は、23000の軍勢で阿波に侵攻。

一宮城主の一宮成助と新開道善は長宗我部の軍の先鋒として奮戦。

中富川の戦いで十河軍に潰滅的打撃を与えました。


十河存保は本拠地・勝瑞城館から退却。


長宗我部元親は四国をほぼ制圧。

元親が次にしたことは。

阿波諸将のうち謀叛の疑いのあるものの排除。


元親に降伏したとはいえ、道善の牛岐城は難攻不落の城であり、道善自身がいつ裏切るかもわからない。三好康長に通じている気配もある。


元親は、「今後の攻略会議」のため、新開道善を丈六寺へご招待。

(若しくは「四国平定の際には阿波のうち勝浦郡を与え、富岡城を安堵する」と提示。寺伝による)


生まぐろが出たかは不明。


よよいのよ~い♪な新開主従。

床下に隠れていた元親の刺客に襲われ、死亡。



この時、床板に、新開道善主従の血痕が飛び散り、拭っても拭っても落ちない。

そこで、供養のため床から外し天井板にしました。これが、

丈六寺の徳雲院の「血天井」

手の跡、足の跡。







徳雲院前の回廊。白い三角の垂れ壁間の天井板です。


説明板。(クリックで拡大)


「元親記」では新開道善は切腹させたと記述があり、真相は謎。

道善の嫡子実成は桑野付近で自害したといわれ、新開氏は長宗我部元親の阿波侵攻によって滅亡。

長宗我部元親。してやったり、の巻。

元親はその後、弟の長宗我部(香宗我部)親泰を牛岐城に配置し、阿波南方の守備をさせましたとさ。



中富川の戦いで土佐勢の先鋒として活躍した一宮成助もまた、三好康長に通じたとの理由で夷山城にて長宗我部元親の家臣により謀殺され。

元親は旧三好方の阿波の諸将を次々に排除(「元親記・中」)。

阿波における元親、感じわるーい、のです。



蜂須賀家一門と重臣の墓が立ち並ぶ観音堂の一角。

阿波国守護細川家により手厚く保護された丈六寺は、阿波徳島藩主となった蜂須賀家が引き続き寺領200石を給し保護。


1567年、細川真之の寄進の観音堂。

足利義冬も来たのかな。


おしまい。


いつも応援いただきありがとうございます。
阿波細川家の菩提寺の丈六寺。室町末期から戦国時代の阿波の歴史をぎゅぎゅっと凝縮したようなお寺ですね。また行きたいなー。若葉か紅葉の季節に・・・。元親の阿波征服の頃になると肝心の後見人である細川・三好両氏は激しく衰退。阿波へ来たのはいいけれど、足利さんちはさぞかしがっくりきたかと。

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