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おんな城主直虎・第5回。苦しみと悲しみの般若と笛の音

こんにちは。

今年の大河。今川ファミリーの芸能が楽しみです。


【高砂やぁ~】


瀬名の謎ダンス。

これは無論「仕舞」ではなく創作ダンスですが、

この背後に聞こえてきたものは、謡「高砂」。

高砂や。この浦舟に帆をかけて
この浦舟に帆をかけて
月もろともに出汐(いでしお)の
波の淡路の島影や
遠く鳴尾の沖過ぎて
はや住ノ江に着きにけり
はや住ノ江に着きにけり



祝言の席で仲人さんが謡う曲です。

友人が謡う時は、同じ「高砂」の「四海波(しかいなみ)しずかにて」の部分を謡います。


【能の面(おもて)・般若】

間違い探しです。


どこが違うでしょーか?

ヒント。


これは正解。

ち、ち、ち・・・


野村萬斎先生。


どうでしょう?

はい、そうです。瀬名の持っているものがもし能面なら、


べちょんっと持つのは、とんでもないこと。

で、この面(おもて)「般若」。

顔の上部分は苦しみと悲しみを、下は怒りを表しているとされます。


この面(おもて)を用いる代表曲は「葵上」。

シテは六条御息所。

思い知らずや 思い知れ

と、嫉妬に狂い鬼となりながらも、あさましい我が姿を恥じる複雑なおとめごころ。


ひとつの面(おもて)で相反するふたつの感情を表す点が、この般若の面以前に存在した「鬼女」と「般若」の大きな違い。

これは動くと一層鮮明に。

僧や山伏に立ち向かう時は顔を上げて「怒り」、祈り伏せられる時には顔を伏せ「悲しみ苦しむ」のです。

さらに。

能には男女の鬼が出てきますが


角が生えるのは、女の鬼のみ。


こうさせたのは、誰だ。


【笛の音は「唱歌」】


お囃子。向かって左から、大鼓(おおかわ)、小鼓、笛(能管)。

地謡があるときは言葉を聞いて動けばいいですが、時にはお囃子だけで、舞うことがあります。

ぴーひょろぴーひょろ、と聞こえる笛の音。

これは、楽譜になっています。

おひゃあらー、おひゃいひょーいひゃーりうひー

と、文字化された笛の音。「唱歌」です。


覚えないと舞えないよ。

この唱歌。

オーケストラの「楽章」に相当するのが、「段(だん)」。

第一楽章=一段目、第二楽章=二段目、な感じ。

中之舞は三段、神楽や楽(がく)は五段、というように基本的には長さが決まっています。

時には、三段+五段+五段=十三段、にする特殊演出(小書/こがき)なんてのもあり。



んでは、再放送前に。

「私はいき遅れましたが(むかー)」の台詞の直後。

はっ!

のあと。

笛の音、文字にしてみました。

おひゃらーり、ひういやらぁーり、
ひうーるーいひゃーりうひ、
おひゃーらーいほうほうひー、
おひゃいひょいひゃりうひ、
おひゃらりひういやらーり、ひうるーい・・・
ひー!

と、聞こえてくるのですわ。

すんごい早口で。


そう言わずに、れっつとらい。



いつも応援いただきありがとうございます。
ドラマ音痴なもので、瀬名を演じてるのが誰かも知らず。不思議な創作ダンスと地団駄でしたが、彼女の感情を表したんでしょね。唱歌は能に限りませんし、どの曲かもわかりませんが、一度聞いてみていただけたらと思います。

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おんな城主直虎・第3回。能「巴」汝は女なり。義仲との別れ

こんにちは。

「おんな城主直虎」第3回冒頭、能「巴」つづき。

曲の情緒を味わうのには、謡の原文(緑色の文字)をたどっていただけたらと存じます。



近江国粟津ヶ原。


小さな祠の前で泣いていた若い女は、実は巴の幽霊。

木曽出身の僧達が弔いのお経をあげていると


「落花(らっか)空(むな)しきを知る。
流水心無うして自づから。澄める心はたらちねの」


と謡いながら、長刀を手にした巴の幽霊が現れます。


巴が語るのは、ありし日の木曽義仲の姿。


治承4年(1180)。以仁王の下した平氏追討の令旨により、挙兵した木曽義仲。


地謡「さても義仲の。
信濃を出でさせ給ひしは、五万余騎の御勢くつばみを並べ攻め上る。
砺波山(となみやま)や倶利伽羅、志保の合戦に於いても。
分捕高名(ぶんどりこうみょう)のその数。
誰に面を越され、誰に劣る振舞の。
なき世語(よがたり)に、名ををし思ふ心かな」




出立時は五万余騎の大軍。諸々の合戦で勝利し都へ入った義仲。


シテ「されども時刻の到来」

地謡「運つき弓の引く方も、渚に寄する粟津野の。
草の露霜と消え給ふ。

所はここぞお僧たち。
同所の人なれば、順縁に弔はせ給へや。



しかし、時の運は残酷。
運尽き果てた義仲は戦に敗れ、琵琶湖湖畔の粟津ヶ原のこの場所(女が泣いていた祠)で、草の露と消えたのです。

僧よ、同じ木曽の出身なのだから、懇ろに弔って下さい。


そう願う巴。いよいよ義仲の最期の戦いを語り始めます。


地謡「さてこの原の合戦にて、討たれ給ひし義仲の。
最後を語りおはしませ」

シテ「頃は睦月の空なれば」

地謡「雪はむら消えに残るを。
ただ通ひ路と汀(みぎわ)をさして。
駒をしるべに落ち給ふが。

薄氷(うすごおり)の深田(ふかた)に駆け込み、
弓手(ゆんで)も馬手(めて)も、鐙(あぶみ)は沈んで。
下り立たん便りもなくて。
手綱にすがって鞭を打てども。
退く方も渚の浜なり、前後を忘じて控へ給へり。
こはいかに浅ましや。」



義仲の乗った馬が薄氷を踏み破り、両足を沼田に取られ絶体絶命。

なんてこったー!っと、巴は駆け寄りますが、

義仲は重傷。



地謡「かかりし所にみづから、駆け寄せて見奉れば。
重手(おもで)は負ひ給ひぬ、乗替に召させ参らせ。
この松原に御供し。
はや御自害候へ。巴も供と申せば。」



重傷を負った義仲に自害を勧め、私も供をすると言う巴。
しかし、義仲はそれを許しません。


地謡「その時義仲の仰せには。

汝は女なり。忍ぶ便りもあるべし。
是なる守(まもり)小袖を。木曽に届けよこの旨を。
背かば主従、三世の契り絶え果て。永く不興とのたまへば。

巴はともかくも、涙にむせぶばかりなり」




義仲の命は、生き延びて形見の刀と小袖を木曽へ届けよ、と。


かくて巴は義仲の前を辞し、


向かってくる大勢の敵に長刀で


ひとり、戦います。

巴の奮戦
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-1174.html


見事敵を追い払った巴。

されど今はこれまで、と、

義仲の元へ戻った巴が目にしたものは


自害した義仲の姿。

巴の手から音を立てて落ちる長刀。


シテ「今はこれまでなりと」

地謡「立ち帰り我が君を。見奉ればいたはしや。
はや御自害候ひて。
この松が根に伏し給ひ、御枕のほどに御小袖。
肌の守りを置き給ふを。

巴泣く泣く給はりて。死骸に御暇申しつつ。
行けども悲しや行きやらぬ。君の名残をいかにせん。
とは思へどもくれぐれの。御遺言の悲しさに。
粟津の、汀に立ち寄り。
上帯切り物の具、心静かに脱ぎ置き。
梨子打烏帽子同じく。かしこに脱ぎ捨て。」





ここで、シテは自ら烏帽子の紐をほどき、ほろり、と落とします。


指先に残る紐の端が、印象的な場面です。


地謡「御小袖を引きかづき。
その際までの佩添(はきぞえ)の。小太刀を衣に引き隠し。

所はここぞ近江なる。
信楽(しがらき)笠を木曽の里に。
涙と巴はただ一人、落ち行きし後ろめたさの、
執心を弔ひてたび給へ、執心を弔ひてたび給へ」




義仲の形見の小太刀と小袖を胸に、巴はひとり、木曽へ落ちたのでした。

最期の供を許されなかった執心をどうか弔ってください、と言い残し、巴の幽霊は姿を消し、舞台は終わります。


参考文献

観世流大成版『巴』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。
木曽義仲の乳兄弟で最期まで側にいた中原兼遠の子・今井兼平と巴。能「兼平」では、壮絶な兼平の最期が描かれます。供が許されなかった巴の悲しみを勇ましい姿を挿入することでさらに強く印象付ける能「巴」。素人でも情景を表しやすい曲ですが、名手の方の舞台はひとつひとつの型と謡が心に痛いほど突き刺さってきます。

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おんな城主直虎・第3回冒頭の能は「巴」

こんにちは。

恋バナな「おんな城主直虎」を見るかどうか迷い中な私。

録画をためておくのも何なので、見ました。

あらやだ。


第3回どしょっぱな、今川さんちのこれで鼻血ぷん。


(敵は)得たりと、切ってかかれば長刀柄長くおっ取り延べてっ♪

これは、これは、

巴じゃないかー!!

うひょー♪

現行曲二百番ほどの中で唯一、女性が長刀をぶんぶんする曲です。

能楽監修は誰かと探しても名前がなくて、あれ?と思ってたら


出演者のとこにお名前が。いや、確かにそうだけども。

(敬称略でごめんなさい)

坂真太郎・角当直隆(観世流シテ方)。藤田貴寛(森田流笛方)、田邊恭資(大倉流小鼓方)、柿原孝則(高安流大鼓方)。

いずれも若手でご活躍の先生方です。


【能「巴」あらすじ】


ところは、近江国粟津ヶ原(滋賀県大津市、琵琶湖のほとり)。

ここで木曽出身の僧達が出会ったのは、めそめそ泣く一人の女。


彼女は「これは木曽義仲を祀ってるの」と言い残し、姿を消します。

そう。

近江国粟津ヶ原は、木曽義仲最期の地。

土地の者からその女は巴だよ、と聞いた僧達が弔いのお経をあげていると


鎧兜を身につけた、巴の幽霊が現れ。

そして僧達に


義仲の自害のこと、そして、

汝は女なり。忍ぶ便りもあるべし。
この小袖を木曽へ届けよ、背かば主従、三世の契りは絶え果てるからな
、っと、義仲に言われて、義仲の最期の供を許されなかったことを、語ります。

それが、自らの執心となっている巴。

そして、同じ木曽の出身の僧達に


義仲の側での最後の戦いとなる「粟津ヶ原での合戦」の様子を再現します。

それが、大河ドラマ「おんな城主直虎」第3回冒頭の場面。

巴ちゃんが、うおりゃー!と長刀をぶんぶんして、敵を追っ払います。


かくて御前を立ち上がり。
見れば敵の大勢。あれは巴か女武者。
余すな漏らすなと。敵手繁くかかれば。
今は引くとものがるまじ。いで一軍嬉しやと。
巴少しも騒がず、わざと敵を近くなさんと。
長刀ひきそばめ。少し恐るる気色なれば。
敵は得たりと切ってかかれば。
長刀柄長くおっ取り延べて。
四方を払ふ八方払い。一所に当たるを木の葉返し。
嵐も落つるや花の滝波。枕をたたんで戦ひければ。
皆一方に切り立てられて。
跡も遥かに見えざりけり、跡も遥かに見えざりけり



この謡の部分は、巴が長刀を使う面白さから、曲の一部を切り取って舞う「仕舞」になっています。

びっくりするとこは、「四方を払ふ八方払い。一所に当たるを木の葉返し」

「飛び返り」直後に立ち上がって四つ拍子、します。

飛び返り、とは、飛び上がって一周(正確には半周)する型。


ふんっと踏み切る時に体をひねっておいて


足を踏み出し


踏み切って


飛んでます。


飛びながら回ってます。


着地。

すぐに立ち上がって構えて


足拍子(地団駄をご想像ください)を、とん、とん、ととんっと四つ。

お稽古し過ぎると、太股の上がぱんぱんになります。


また、長刀は軽そうに見えて、実はとんでもなく重いので


普段は扇しか持たない私には地獄。(鬘扇/女性が持つもの)


さて、この「巴」。

ビジュアル的な面白さもさることながら、ほんとにいいのは、この前後。

涙ほろほろ、悲しい巴の姿が謡われます。

つづく。と思う。


参考文献

観世流大成版『巴』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)

『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)


いつも応援いただきありがとうございます。
なんで今川ご一行様が「巴」を鑑賞してたのかは不明ですが、能ならなーんでも嬉しいぃぃぃー♪やはりちょろちょろと能の場面が出るなら、見ます。井伊直政を支えながらも、彦根の直孝ではなく直継に付けられた「井伊谷以来の家臣達」も気になります。

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真田丸。秀吉の負修羅扇と有楽斎の中啓。小道具に見る暗示

こんにちは。

【扇で暗示する豊臣の行く末】


第23話「攻略」

秀吉、酒宴でうきうき。


扇は、うっきー。

ひょうたん、桐、猿の扇は、きっと特注品。


第22話「裁定」信繁、本多正信、板部岡江雪斎の問答の場面で。

秀吉!あかんがな!その扇、だめよー!

と、こーふんしました。なぜなら秀吉が手にしているのは、


負修羅扇。図柄は「立波入り日」

能では、源平を主題にした曲が多いですが、主役(シテ)の大半は平家の公達。

ふらっと現れて「修羅道が辛いよぉ。供養してくれよぉ」と訴えます。

屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと続けて敗北し、海に消えた平家の公達を連想するような図柄です。

これと相対するのが、


勝修羅扇。図柄は「老松に旭日」

いつか家康が持つのかと楽しみにしてましたが、なかった。残念。


現行2百番を数える能の中で、主役(シテ)が勝利者であるのは、「田村」「箙」「八島/屋島」の3曲のみ。

これ以外は全て負修羅。

そんな扇。


第30話「黄昏」

吉野の花見で、秀吉が花咲か爺さんと化した話ですが、この時も


なぜ負修羅扇を持つのだ、秀吉!!

・・・小道具さんには、絶対に能好きがいる。


【扇とサスペンスぅ~】

サスペンスといえば、道ならぬ恋と謎解き。


第23話「攻略」利休の商品陳列部屋にて。


きれいな扇は、五本骨の蝙蝠扇(かわほり)。


茶々が選んだ扇。柄は、山吹ではなかろうか?


第19話「恋路」で、茶々が押し花にした山吹。

信繁が見つめていたら、きりに食われてしまったお花でした。


さてこの扇。刻印のお魚が


小田原城に秘蔵されていた鉛の刻印と一致。


お魚マークといえば、元はお魚屋さんの利休のマーク。

犯人は、お前だ!


この時は脱出できた利休でしたが、後はご存じの通り切腹。


【扇の一種、中啓】


第21話「戦端」

本多正信は年相応な地味な扇。渋い。

その一方、


第22話「裁定」板部岡江雪斎の扇。

きぃーっとなった江雪斎が広げてしまったのではなく。

これは「中啓(ちゅうけい)」という扇。

「中ば(なかば)啓く(ひらく)」、閉じても骨自体が外開きなので広がります。

笏(しゃく)の代用として、公家、武家共に儀礼用の持ち物として用いられましたが、現在でも神職さんやお坊さんが手にしています。

※細部は各々微妙に異なります


第46話「砲弾」織田有楽斎の扇も、中啓。

この扇を見たとき、感動したのー。
形式的とはいえ、出家姿でしょ、だけど趣味人でしょ。


さすが有楽斎。金地に松とお日様が描かれていそうなおしゃれさん。


なぜこんなに中啓でうきゃうきゃしたかというと。

能の装束のひとつとして、中啓は必需品なのです。



第27話「不信」 能「源氏供養」ワキの僧の手には、中啓。


前シテ。じーっと目を凝らしてご覧下さい。手に中啓。


後シテの手にも中啓。


通常用いる仕舞扇と見比べると


きれいな女の人が持つ鬘(かずら)扇。形は中啓。

骨が多く紙が狭い。細かく折り折りされたこれ。
持ちにくい上に、装束に引っ掛かって閉じてしまうので、四苦八苦。


【真田さんちと扇】

真田さんちの扇といえばかーちゃんがてんこ盛りにしてましたが、


第36話「勝負」やはりパパ幸でしょ。いざ関ヶ原。


・・・黒地に赤のお日様の軍扇だけ。えー。



第4話「挑戦」の「扇をわしづかむ家康」からスタートした真田扇丸。

楽しかったです。


いつも応援いただきありがとうございます。前記事の家康の出世と共に進化する扇と対照的に、豊臣の行く末を暗示するかのように、小田原攻めの頃から負修羅扇を秀吉に持たせるとは、すごいなー。小道具さん、尊敬しちゃうわー。細かな史実には無知でも、自分の知ってるものに注目してきゃいきゃい出来て、とっても楽しい1年間でした。

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真田丸。家康の出世と扇の変遷。小道具さんは能好きか?

こんにちは。

大河ドラマ「真田丸」、小道具さんに能好きがいるのではないかとわくわくして1年楽しみました。

きっかけは、


第4話「挑戦」


扇の特徴から、能の観世流の仕舞扇と気付いた時から。


仕舞と謡の時に使用する扇を、仕舞扇、正確には「鎮扇(しずめおうぎ)」と称します。

観世流の仕舞扇の特徴として、


要がまぁるい。


親骨に三つ彫り(3ヶ所、細長く穴が開いてる)。


三段の水巻の文様、いわゆる「観世水」が描かれています。

これは、お稽古や素謡(詞章だけうにゃうにゃと謡う)の時に用いる普段使いの扇で、観世・宝生・金春・金剛・喜多の各流派によって、扇の仕様が異なります。

はじめの頃の家康は、この扇をご愛用。


第5話「窮地」。ばりっばりの紺地観世水の仕舞扇。


ところが、家臣の本多忠勝はお日様きらきらの軍扇。


見えますかしら。

扇を閉じたら、通常は家康の持つ扇のように骨から紙がはみ出ますが、軍扇は骨で紙が隠れています。


また、地紙の金地は邪気を避けるもの。

一般的な軍扇の表はお日様(昼)、裏は三日月(夜)。


「昼間は、太陽側を表とする。骨を六つ開き、残り六つは畳んで使う。
夜間は、三日月側を表にし六つ開いて六つ閉じる。
合戦勝利後は、全部開く。」と作法が決められており、

「悪日に合戦する時、昼間は三日月側を表として使い、夜間は太陽側を表にして使う」(昼夜を扇で逆転させることにより、悪日を吉日とする)(『中原高忠軍陣聞書』主旨)そうです。



「昼間は、太陽側を表とする。骨を六つ開き、残り六つは畳んで使う」

忠勝、お行儀がよろしい。

このあとは伊賀越え。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる家康です。


さて、この違いをどうとるか?

無論ここは、普段から軍扇を構える忠勝と、よきにはからえばよい家康の立場の違い等を思うわけですが。

お金の話。


金の砂地(金の小粒が散りばめられた地)に観世水なら、1万円ほど。

家康が持っている扇に金砂地が見えないので、白地ならその半額以下。

質素です、家康。

忠勝の軍扇は、金地に日輪程度なら1万5千円前後。


・・・家康ぅ~(T▽T)

能(謡&仕舞)のお稽古を初めてすぐに購入する一番お手頃価格の白地に紺の観世水の扇から、話が進むにつれ、家康の扇は次第にグレードアップしていきます。


第28話「受難」。家康 Jr. 秀忠と正信 Jr. 正純の初対面。


扇の骨の色にご注目。


木肌のままから、黒骨に変化。

観世流の謡や仕舞ではほぼ用いませんので、価額不明。
ちょいと扇が出世したと表しているのかなー。

次記事にしますが、特殊な絵柄(修羅扇)では常に黒骨。
たまーに他のほののんっとした絵柄なのに黒骨だと、「いきってんなー」と思ったり。ごほん。


第37話「信之」。関ヶ原後、信繁親子とご対面。


九度山で死ね死ねと悪魔の家康です。

ここまで黒骨の扇でしたが、


第41話「入城」。扇が、金地に紺の線になりました。

金ですよ、金。

家康、いぶし銀ではなく、いぶし金に変身。

家康は秀吉が贔屓にした金春流ではなく、主に観世流(観世大夫)を重用します。これを踏まえての観世流仕舞扇の使用なら、すごいことです。


第44話「築城」。じーさま、昔とった杵柄。


戦の現場ですから、Jr.秀忠の扇は軍扇。


まぁた真田くんにいぢめられるんかっと怒る家康も、軍扇。

軍扇となるともはや、能の管轄外。

ですが、能や日舞の扇に特化した店等では、趣味の扇として手作り。

価額は、大御所様の格式から骨に彫刻などの細工があるとして、2万円弱。


最終回。伊賀越えの頃は自力で全力疾走してた家康、運ばれる。


潮目が変わった途端、えいえいおー with 軍扇。


信繁(幸村)とのご対面となり、西部劇の開幕。

最終回、ついでに。


べそべそ泣きながらも、狛犬さんのぷりっけつは気になりまして。


自分は動けないから、佐助にSOSな狛犬。

きっとね、このあとね、信繁(幸村)と佐助は、狛犬さんの背中に乗って、どこかへブーンっと駆け落ちしたのよ。


いつも応援いただきありがとうございます。一番はじめに使っていた白地のお稽古扇から、黒骨、金地へと変化していく家康の扇。家康の出世と共にグレードアップしていくのがとても面白かったです。他の面々は地図を指すときに軍扇を用いる程度で、家康の扇の使用頻度は傑出していました。小道具さんってすごいなー、細かいなー、マニアックだなーっと、1年間とても楽しかったです。

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真田丸最終回。大坂城の足の下には夢のまた夢なにわの宮

こんにちは。

真田丸、最終回。


そーしましょそーしましょで大坂城を裸にされて


楽しい仲間達がどんどんいなくなって。

そして。


狛犬・・・(T▽T)


ねぇ。

真田丸ロスになりそうです。


大手町交差点より。OBP(大阪ビジネスパーク)と乾櫓。

乾櫓は、元和6年(1620)建築(重文)。


オール徳川の大坂城。

大坂の陣後、元和6年(1620)~寛永6年(1629)。
二代将軍・秀忠により、大坂城はクラッシュ&ビルド。

以降、城主は徳川幕府の将軍。



明治には日本帝国陸軍が一帯を用地接収。


もっと言えもっと言え。

城内には陸軍司令部、東部には大阪砲兵工廠(こうしょう/最終は大阪陸軍造兵廠)が設置されます。

OBPを含む広大な敷地の大阪砲兵工廠は、アジア最大の規模を誇り、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点。

主に火砲・戦車・弾薬類を開発・製造。

太平洋戦争が終わるまで、存続。(以上wikipediaより)


さて、大坂城の南西へ向かいまして。


阪神高速の高架下を通ったら


ひろびろ広っぱです。

これが、


難波宮跡。

『日本書紀』等に記述はあるものの場所の特定がされておらず、第二次世界大戦後にその存在が確認された「難波宮」です。

日本帝国陸軍用地の時代を経て、昭和28年、この付近からの鴟尾(しび)の発見により本格的な発掘調査が行われたため、街のど真ん中ながらもこれだけの面積を確保出来ました。

前フリとして大正2年、数個の重圏文・蓮華文軒丸瓦(推定、奈良時代)の発見があり、一貫して、山根徳太郎(最終/大阪市立大学法文学部教授)が発掘に尽力。


奈良と京都と滋賀だけじゃないのだ。


【前期難波宮】


年号の暗記の言葉で年齢がわかるらしい。ぎょ。

皇極4年(645)飛鳥板蓋宮の大極殿にて、むしごめ炊いて「乙巳の変(いっしのへん)」。


乙巳の変の翌々日、皇極女帝が退位。
弟の軽皇子(かるのみこ)が孝徳天皇として即位。

中大兄皇子/皇太子、阿倍内麻呂/左大臣、蘇我倉山田石川麻呂/右大臣、中臣鎌足/内臣とする新政権が発足。

初めて立てられた年号が、「大化」


新しく即位した孝徳天皇が遷都したのが、


難波宮(難波長柄豊崎宮)。


白雉元年(650)10月。

将作大匠の荒田井直比羅夫(あらたいのあたい/ひらぶ)を遣わし、宮地の境界標を立てさせます。(難波長柄豊碕宮の造営開始/『日本書紀』)

白雉3年(652)9月、難波長柄豊碕宮、完成。

「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」(『日本書紀』)

言葉で言い表せないほどの、お見事な偉容を誇った宮だったと。



建物は全て掘立柱建物で草葺屋根。(画像/wikipediaより)


天武12年(683)天武天皇「複都制の詔」。

飛鳥とともに難波をとしますが、朱鳥元年(686)年正月。

難波の宮室が全焼(『日本書紀』)。


全域に火災の痕跡が残る難波宮跡。(大坂歴史博物館から)

発掘調査で明らかになったのは、柱痕跡の周囲の土が赤く焼けていた点。

これは、火災の際に柱が土中の部分まで焼けるほど火の勢いが凄まじかった事を示しており、朱鳥元年(686)の火災を記した『日本書紀』と一致しているそうです。(大阪文化財研究所「難波宮インフォメーション」)


そんな激しい火災の後、再建はされず。

ここまでを、「前期難波宮」といいます。

前期があるなら、後期がある。それが、

後期難波宮。


【後期難波宮】

神亀3年(726)聖武天皇。

藤原宇合を知造難波宮事に任命、難波京の造営に着手。


今度は、礎石建、瓦葺屋根。(画像/wikipediaより)

天平4年(732)頃完成しており、天平16年(744)2月、
恭仁京(山背国相楽郡/現・京都府木津川市加茂地区)から難波宮へ遷都。


現在難波宮跡に復元されている大極殿基盤は、後期難波宮のもの。


前期難波宮の大極殿は、北側の中央大通の下。


天平17年(745)1月1日、難波京から紫香楽宮へ
同年5月、平城京へ。

この間の右往左往は、聖武天皇。

延暦3年(784)長岡京へ遷都 by 桓武天皇。
この時、後期難波宮の大極殿や朝堂院の建物は、長岡京へ解体・移設。


なにわのことは夢のまた夢。


大河ドラマ「真田丸」で大坂城が映ったら、あー、あの南の地べたの下には、難波宮が埋まってるぅ~(T▽T) と思っていただけたら、これ幸い。


参考サイト
大阪文化財研究所「難波宮インフォメーション」
http://www.occpa.or.jp/ikou/naniwa_info/ikou_03.html

参考資料
大阪歴史博物館作成、館内資料


いつも応援いただきありがとうございます。
大阪城公園南西にある大坂歴史博物館からは、大阪城も難波宮跡も眺めることが出来ます。秀吉の時代も江戸時代も陸軍時代も、みんなここを踏んづけていたことでしょう。あ、今も公園だから踏んづけてるわっ。おほほほ。大阪城は、堀や石垣の素晴らしさに加えて、お向かいに難波宮があるところが面白いなーっと思います。

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真田丸第47回「反撃」大坂城外堀を埋めた鉱山の職人

こんにちは。

慶長19年(1614)大坂冬の陣。

大坂冬の陣で徳川軍は佐渡・石見・但馬・甲斐・伊豆から金堀職人を集めて天王寺口の三ヶ所から掘って城に入ろうとした。しかし土が悪くてうまくいかなかった。(『難波戦記』要旨)


銀山のような岩盤ならいざ知らず(画像/生野銀山坑道)

堀底トンネル案、失敗。

そこへ登場するのが、間宮新左衛門直元



生野銀山は豊臣直轄でしたが、関ヶ原後の慶長5年(1600)、徳川家康が直轄地とし、「但馬金銀山奉行」を配置。

初代「但馬金銀山奉行」が、間宮新左衛門直元

間宮一族の後裔には、樺太探検で有名な間宮林蔵、『解体新書』の杉田玄白(杉田間宮氏)等がいます。(『武家家伝/間宮氏』より)


慶長19年(1614)。
間宮は、生野銀山より町役人・下財(坑夫)100人余を引連れ大坂冬の陣に参加。


大阪城を攻めるのに「外堀の水抜き」を提案。



間宮は、生野銀山に加え多田銀山や近くの鉱山から集めた坑夫達によって大阪城の堀の水を抜き、川を堰き止め、塹壕を堀り。

が、12月15日。

間宮新左衛門直元、大阪冬の陣で、没。享年39。


間宮の推挙で家老の山川庄兵衛が二代奉行に就任。


12月18日。徳川の阿茶局&豊臣の常高院、和睦交渉。

19日講和条件合意、20日誓書が交換され和平が成立。


大蔵のおばはん(大蔵卿局)がやらかした「埋めてしまいましょー」「埋めてしまいましょー」。


真田丸も外堀も、埋めまーす。

普請奉行:松平忠明、本多忠政、本多康紀

家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を全て埋めた後、1月より二の丸も埋め立て。


冬の陣後の「外堀埋めちゃえ作戦」に貢献したのは、

初代「但馬金銀山奉行」間宮新左衛門直元率いる生野銀山の面々や、石見銀山等の職人達。


埋める時に立ちはだかる堀の水。

まずは、これを抜かねば。

生野銀山の面々は、大阪城の堀の水を抜き、川を堰き止め。


生野銀山では、手作りポンプで排水。


地下を掘れば湧水は常につきもの。


大がかりな排水も行っていますので、得意分野(画像/石見銀山)


かくして、大坂城ははだかんぼー。


この水抜きには、

石見銀山からも、竹村丹後守(竹村九郎右衛門嘉理(嘉政)/石見銀山の奉行)が堀子達3百人を連れて出陣し、外堀の水抜き作戦の功で感状を与えられています。(『島根県歴史人物事典』)

生野銀山では?


そう、かぶをもらいま

・・・「加奉」です。


大阪城の外堀の水抜き工事は、落城に大きく貢献。


生野の坑夫の親方(地親)達(特に奥地域)は馬に乗り、奉行に従い、時には奉行の代わりに指揮をとりました。

地親は元々、奉行の下で町方支配や銀掘りの指図をしていましたが、
この大阪城での功により彼等を「奉行に加わる」を意味する「加奉行(かぶぎょう)」と呼ぶようにと沙汰が下ります。

ご本人達は、加奉行とは畏れ多いと謙遜し、「加奉」と唱えるように。(『銀山旧記』)


以降、生野銀山での地役人は独自の役職名として庄屋・名主ではなく、年寄、加奉、年行事等と称し、殆どが世襲。

これは明治維新まで継続します。


※間宮は生野だけでなく統治範囲の他の但馬の鉱山からも集めており、地親から「加奉」となった記録は中瀬(養父市関宮町)、明延(養父市大屋町)にもあります。




また、翌年5月の大阪城落城後。

生野の「加奉」達は戦場での働きを賞され、次の事を許されます。(『難波戦記』『藤垣家文書』)

①孫の代まで名字帯刀

②各自・先祖の名を町名として付ける事



特に、大坂城の外堀の「西横堀」「道頓堀」「長堀」の三か所の町名に水抜き御用に手柄のあった奥地区代表の名前を付けることを許されます。

大坂の町名に残った奥地区代表の名

小 野  藤右衛門、平右衛門、権右衛門、助右衛門
新 町  次(治)郎兵衛、九郎右衛門、久左衛門、茂左衛門
奥銀屋  吉左衛門、七郎右衛門、宗右衛門
相 沢  孫左衛門


(「生野史談会・一里塚12号『大阪のど真中に町名を残した銀山の加奉たち』」/ 佐藤文夫著/平成19年)


「長堀次郎兵衛町」「長堀平右衛門町」は長堀川界隈に明治5年まで存在。
「助右衛門」は西横堀川にかつて助右衛門橋が架かっていた。
「宗右衛門町」「久左衛門町」「吉左衛門町」「久郎右衛門町」は道頓堀に。


知らなかったねぇ。

※宗右衛門町の由来は17世紀中頃に「町年寄」を務めた“山ノ口屋宗右衛門”の名に因んだものとの説もあるなど諸説あります。


☆☆☆本日の団右衛門☆☆☆


名刺整理中。

このあと、

「うるちゃーーーいっ」 by 毛利勝永(岡本健一@男闘呼組)

・・・ぷ。


いつも応援いただきありがとうございます。
兄上のお気の毒な膝枕の話、面白かったですねー♪今回の大河、大坂の陣の結末を知っていても、何とかあれこれひっくり返して幸村(信繁)に勝たせたくなります。あ、大坂城の画像は無論現在のもの。つまり、大坂の陣で埋めて壊れた後に徳川が威信を示すために再築した姿です。

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真田丸第46話「砲弾」塙団右衛門末裔、松江藩鉄師頭取役とたたら

こんにちは。

真田丸第42話「味方」


ためて~


破裂音で、自己紹介。んん…ばんっだんえむぉん、と覚えましょう。

塙団右衛門は、出自・半生は不明ですが、「真田丸」で自己紹介したように加藤嘉明に仕えます。

加藤嘉明は、


賤ヶ岳七本槍の一人(メンバーは諸説あり)

団右衛門は朝鮮の役で功あり、鉄砲大将となるも関ヶ原後に出奔。

理由は諸説ありますが、立つ鳥あとを濁しまくった出奔だったようで、加藤嘉明は


「奉公構」を出し、団右衛門の再就職を妨害。


※「奉公構」
大名が、出奔した家臣又は改易した者について、他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すこと(wikipediaより)


その後の団右衛門は、

小早川秀秋(嘉明よりも格上なので関係なし)→松平忠吉(家康の子で井伊直政娘のだんな・関ヶ原後死去)→福島正則に仕えますが、

福島正則に対し加藤嘉明が「奉公構」を主張。
団右衛門、クビ→略して「ぷーたろー」→大坂城へ。


よろしくね♪の笑顔が奥深い。


几帳面な文字ですな。


まずは満足な団右衛門。


真田丸第46話「砲弾」

11月17日。団右衛門は


蜂須賀至鎮の陣へ夜襲を仕掛けます。(徳島市興源寺蜂須賀家墓所)


(徳島市諏訪神社境内社・稲荷神社のお狐様♪)


夜襲の場所は本町橋。オフィス街のど真ん中です。


大将クラスがほいほいと先頭に出てはいけませんが、そこはドラマ。


団右衛門の大坂冬の陣での見せ場です。

この時の自分の名前を書いた木札をばらまかせたお話は有名。


団右衛門はボランティアで戦に来ているのではありません。

手柄をあげて、大名になれるもんならなりたい。
強く強く自己アピールします。

が。

団右衛門は大坂夏の陣「樫井の戦い」で浅野長晟と対戦、討死。


【団右衛門の末裔達】

団右衛門の末裔は、現在も地方の名士として続いておいでです。


(右:塙団右衛門所有具足)無論、武将ではありませぬ。

ポスターのすみに見えるゆるキャラ(?)は、


いろいろと大丈夫か心配なダンえもん。

ほにゃ次元ポケットから名刺をどんどん出して、頭はふぁいやー。

ダンえもんの頭上にあるのは、


たたら製鉄の炉。


そう、たたらと関わりがあるおうちになるのです。


団右衛門を祖とするのは、


松江藩 鉄師頭取役 櫻井家。


《団右衛門長男、第2代直胤(なおたね)(1592-1652)》

大坂の陣後、安芸広島藩主の福島正則に仕えます。

しかし数年後に正則が転封となり、代わって城主となったのが、樫井の合戦で団右衛門と敵対した浅野氏。



直胤(なおたね)は身に危険が及ぶことを恐れ、母方の旧姓「櫻井」を名乗り、「櫻井平兵衛直胤」と名を変え浪人に。

「櫻井平兵衛直胤」は、可部郷(現・広島市可部付近)へ移り、やがて高野(現在の広島県庄原市/古代たたら製鉄の遺跡あり)で製鉄業を始めます。


※「櫻井」の名だけを見れば直胤が初代ですが、櫻井家では塙団右衛門を初代と数えているので、それに準じます。


《第3代櫻井三郎左衛門直重(1619-1679)》


ここは奥出雲。奥出雲といえば、たたら製鉄の地。

第3代直重の時、現在の島根県奥出雲町上阿井呑谷へ。


屋号を「可部屋」(第2代直胤が移り住んだ「可部郷」より命名)とし、「菊一印」の銘鉄を作り出し。


《第5代櫻井源兵衛利吉(1699-1773)》

松江藩より地域の製鉄をとりまとめる「鉄師頭取役」の要職を与えられます。

おうちは、


奥出雲「松江藩鉄山師頭取」の櫻井家屋敷




塙団右衛門を初代、長男・櫻井平兵衛直胤(なおたね)を第2代とする松江藩鉄山師頭取櫻井家のお話、つづく。


参考文献
可部屋集成館展示資料
可部屋集成館図録


いつも応援いただきありがとうございます。
ずっと頭にもやもやと残っていた硫黄山のご紹介を終えて、さっぱりしたところで戻ってきました、たたら製鉄。塙団右衛門については、ほんとは大坂夏の陣まで待てばネタバレにならないのですが、その頃には真田丸ロスになっていそうです。名刺をどんどん配る団右衛門がかわいくて、うはうはな日曜日の真田丸。もう待ちきれないわー♪っと出してしまったばんだんえもん。どっぷりつかったたたら話によろしくお付き合いくださいまし。

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真田丸第31話「終焉」神となった秀吉と高野山豊臣家廟所

こんにちは。



慶長3年(1598)8月18日、秀吉死去。

9月7日。木食応其上人により、方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に鎮守「八幡大菩薩堂」と称する社が建築開始(『義演准后日記』慶長3年9月7日条)。

慶長4年(1599)。
4月13日。秀吉の遺骸を伏見城から阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬
4月16日「豊国大明神」の神号付与
4月18日「遷宮の儀」、八幡大菩薩堂は「豊国神社」に改称。



木食応其上人とは、秀吉の高野山攻めの折の仲介者であり、秀吉が帰依した高野山の僧。


【秀吉、神となる】



慶長4年(1599)4月16日。
自身を八幡神(新八幡/いまはちまん)として神格化するよう遺言した秀吉に与えられた神号は、「豊国大明神」。

この理由としては、八幡神は皇祖神であるから勅許が下りなかったとする説や、吉田神道による運動の結果とする説があるそうで。

ちなみに「大明神」とは、吉田神道では最高の神格

吉田神道とは、貞観元年(859)藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したことに始まる吉田社を中心とし、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝した神道。


吉田神道について詳しくはこちら

⇒⇒⇒吉田神道とは?
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-697.html

⇒⇒⇒吉田神道の戦国・桃山時代
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-698.html

⇒⇒⇒梵瞬とサルとタヌキと大僧正
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-700.html

⇒⇒⇒吉田神道の江戸時代
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-705.html

⇒⇒⇒神社商売と伊勢のリベンジ
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-695.html



「都名所図絵(天明6年(1786)版)」より、吉田社(吉田神社)。

細川幽斎の従兄弟にあたる吉田兼見は、

織田信長の推挙により堂上家(家格は半家)の家格を獲得。
近衛前久に家礼として仕えたり、明智光秀と深い親交があったり。

豊臣秀吉の庇護のもと、弟・吉田梵舜と共に豊臣家の宗教顧問としてあちこちで活躍。

ここで、キーマンとなるのは、弟の吉田梵舜(ぼんしゅん)

吉田家の次男は氏寺の「神龍院」に入る習わしに従い、梵舜も仏門に入りました。

梵舜が天正11年(1583)から最晩年の寛永9年(1632)まで綴った『梵舜日記』(別名『舜旧記』)は、豊臣から徳川へ移り変わる時代の資料として貴重。



洛中洛外図の一部。

方広寺大仏殿と豊国社(豊国神社)
大仏殿の後ろに秀吉の慰霊を祭る豊国廟と参道

※「廟」は墓ではなく神を祀るところ。
 秀吉は、「豊国大明神」になったので、ここ。

豊国社の社務職は、吉田兼見の孫で養子の萩原兼従。
豊国社の神宮寺の別当は、吉田兼見の弟・梵舜




神となった秀吉「豊国大明神」を祀る豊国社ですが、


元和元年(1600)大阪の陣により、豊臣家が滅亡。

徳川家康の意向で後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪。
秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」と名を変えられ以後仏式で祀ることなります。(wikipediaより引用)

そして、豊国社は、

「元和五年九月十八日梵舜、取毀を神璽に告げ、終に神社を妙法院に引き渡す。爾来荒廃して叢となる」(『豊国神社誌』青山重鑒/大正14年)

という、徹底的な迫害を受けます。

詳しくはこちら⇒⇒⇒梵瞬、天海と勝負
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-700.html


天明6年(1786)版「都名所図絵」。

方広寺大仏殿図に、豊国社の形は見えません。


大仏殿の片隅に「秀吉公塔」と記された石塔があるのみです。


【秀吉と高野山】


高野山奥の院。


右端に見えるのが、大師廟へ続く「御廟橋」。


大師廟に近い一等地です。

もう少し拡大。


「太閤秀吉」と記された五輪塔。

左から、大納言北方(?)、大光院殿、秀吉、春巌院□□、秀次公。

「大光院殿」は、弟の大納言秀長。

「春巌院□□」は、母の大政所の法名?

そして、右側に、石田三成。


現在は、「豊臣家廟所」として整備されています。


背後の大きなものは、昭和14年に京都の豊国廟から霊土を移して建立された秀吉の五輪塔。

名所図絵には「太閤秀吉」と書かれていますが、この新しい五輪塔が出来るまでは「高野山に秀吉の墓所はない」ことになっています。

何故なのかしらねぇ?


向かって右端に並ぶ2基は、弟の「大納言秀長」夫妻とか。

秀長は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」

妻の供養塔に「大納言北方 慈雲院芳室紹慶 逆修 天正十九年五月七日」。

そしてなぜか、図絵では右隣にあった三成の供養塔はここにはなく。


豊臣家廟所から、大師廟と反対側へずーっとずーっと


中の橋を越えて、


石田三成の「逆修墓」です。

「天正十八庚寅/宗応逆修/三月十八日」の銘。

「宗応」とは石田三成の法名。この時三成、三十歳。

天正18年(1590)3月といえば、小田原征伐の開戦直前。


関係ないですが、すぐ近くに「伝・明智光秀墓所」

しかし、何でここ。
豊臣家と引き離されたのかしら?


可哀想に。


「都名所図絵」
国際日本文化センター/都名所図絵データベース
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html

「紀伊国名所図絵」
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563500

その他参考文献は各々の記事に明記済


いつも応援いただきありがとうございます。
吉田神道のお話を、香川県の白鳥神社のところでせっせと書いていたので、自分のブログながら行方不明。ほほ。検索しちゃった。おほほほほ。そしていつまでたっても高野山から離れられないでおりますの。奥の院の地図と名所図絵とにらめっこ。まぁ、信長の墓所も最近発見されたそうですし、時代によって隠したり表に出したりと奥の院も案外落ち着かないものなんですね。

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真田丸第30話「黄昏」苦悩する三成の内緒話 in 高野山

こんにちは。


大河では苦悩する姿がたまらない三成です。

今日は、三成と高野山のお話。


【天正18年(1590)3月】

小田原征伐の開戦直前。


高野山奥の院。

中の橋の程近くに。


石田三成の「逆修墓」。

「天正十八庚寅/宗応逆修/三月十八日」の銘。

「宗応」とは石田三成の法名。この時三成、三十歳。


奥の院の石塔は、江戸期の大型の五輪塔が立ち並びますが、

本来は、総高60cm程度の五輪塔や、方柱状の一石の石柱を五輪塔形にした40cmから60cm程の一石五輪塔の造立が主流でした。


そこへ、この三成の石塔です。

当時ではこの五輪塔が一番大きかったとのこと(高野山大学図書館館長談)。



紀伊国名所図絵では、奥の院に近い秀吉達の供養塔の隣にある三成の逆修墓ですが、


現在は何故か徒歩数分の離れた場所に。


【文禄3年(1594)】


吉野の花見が催された年。


大河では能「源氏供養」のシテは秀次(史実では秀吉)。

秀次が自害したのは、


青巌寺。

秀吉が亡母の菩提を弔うため建てたお寺。

秀吉の高野山攻めの折の仲介者であり、秀吉が帰依した木食応其の建立。

応其上人は。

天正18年(1590)興山寺建立。
お財布は、諸国を勧進した施財と秀吉からの一千石の寄進。

この隣が「青巌寺」で秀吉が母の菩提を弔うために建立。
お財布は、秀吉の、米を一万石と白銀三千枚の寄付。


青巌寺+興山寺=現在の高野山金剛峯寺。明治2年(1869)に合併。


この年、三成にゃんは


高野山奥の院、御廟橋。この先の大師廟の隣に、

三成は母の菩提を弔うため、経堂を建て、一切経を奉納。

しかし、翌々年焼失。


【慶長3年(1598)】

3月15日。醍醐の花見。


花咲か爺さん by 秀吉。


決して秀吉を殴っているのではありません。

落下する秀吉ではなく、枝を受け止めた三成(違)。


この慶長3年(1598)8月18日、秀吉死去。

9月7日。木食応其上人により、方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に鎮守「八幡大菩薩堂」と称する社が建築開始(『義演准后日記』慶長3年9月7日条)。

翌慶長4年(1599)。
4月13日。秀吉の遺骸を伏見城から阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬
4月16日「豊国大明神」の神号付与
4月18日「遷宮の儀」、八幡大菩薩堂は「豊国神社」に改称。

三成、えらいこっちゃの連続ですが、


【慶長4年(1599)3月】

三成、焼失した経堂を再建。

経蔵の内部は、本尊文殊菩薩騎獅像を正面に、八角形の回転式輪蔵となっており、高麗版一切経6285帖(現存・重文)が納められました。


奥之院経蔵は弘法大師御廟に向って右(矢印部分)。

経蔵の正面に掲げられれる扁額銘には、



當輪蔵造営同
一切経奉納之
近江国坂田郡
石田治郎小輔
藤原朝臣三成
為慈母菩提也

扁額の裏面には



本願木食興山上人深覚房応其
金剛峯寺奥院経蔵之銘
慶長四己亥年三月二十一日記之


この銘から、三成の経蔵建立に木食応其上人が関わっていたことがわかります。

三成が木食応其上人と知己を得ているのは、秀吉と木食応其上人の関係から容易に推測できることでもありますね。

ほんとはそれどころじゃない三成ですが、裏ではお母さんのためにこんなことしてたんだなー。


照れなくてもいいのに。


いつも応援いただきありがとうございます。
高野山のあちこちをポケーッと見ていたら、三成もこそっと足跡を残していることにやっと気付きまして。おほほ。焼失した経蔵の再建計画は、秀吉死後のごたごたの前からあったとは思いますが、タイミングの悪さがお気の毒です。木食応其上人も「あちゃー」っと思ったことでしょうね。

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