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真田丸第30話「黄昏」醍醐の花見と秀吉の負修羅扇

黄昏。


道東のたそかれ。

「誰そ彼」

あなたはだぁれ?

親から言われた一番残酷な言葉でしたが、こんにちは。

今回は秀吉の醍醐の花見等でした。

慶長3年(1598)3月15日。

今日太閤御所渡御せらる。女中御成あり、終日花御遊覧す。路次茶や以下の結構、筆舌に尽くし難し。一事の障害なく無為に環御せらる。(『義演准后日記』)


ドラマでは花咲か爺さんと化した秀吉ですが、

今回のヒットはこちら。



「なんで負修羅扇やねんっ!」

負けとるがな、あかんがな、とほほほ。

・・・なんのこと?

秀吉が手にしている扇。

実は、能で用いられる扇の図柄のひとつ、「負修羅扇」。


【能の曲目分類】

能は、シテ(主役)の性格で「神男女狂鬼」の五つに分類されます。

上から順に、一番目物、二番目物・・・五番目物。

《神》「脇能」シテ:神。
別格の「翁」の脇に演ずるから脇能。天下泰平国土安穏を寿ぐ曲。

《男》「修羅能」シテ:武将
勝修羅と負修羅がある。修羅道の苦しみを主に訴える曲。

《女》「鬘能」(かづら/かつら)シテ:女人、公達、天人等。
いわゆる「能らしい」曲。

《狂》「雑能」物狂・執心・怨霊等、他に分類出来ない雑多な曲の何でも箱。
芸尽くし『花月』、斬合『夜討曽我』、巫女『巻絹』etc.

《鬼》「切能」シテ:鬼・天狗・天神・雷神・龍神など。
一度のプログラムで数曲ある時、最後に演じられる曲。

別名、鬼畜物。←情緒のない私、お稽古は今ここ。


例えば


吉野の花見で演じられた「源氏供養」は

シテが紫式部。《女》「鬘能」三番目物。


竹生島の龍神と弁財天が現れる「竹生島」は

後シテが神様なので、《神》「脇能」一番目物。


安宅の関を通る義経一行を描いた「安宅」は

武人だけど生身なので修羅道に落ちておらず、何でも箱の雑能。四番目。


飛火野の鬼神を描く「野守」は、そのまんま。《鬼》「切能」五番目物。


【修羅物ってなんだー】

修羅物のシテ・武人が行うのは戦。

戦には勝者と敗者があり、それぞれ「勝修羅物」と「負修羅物」。


「勝修羅物」

「田村」「箙」「八島/屋島」の三曲のみ。これ以外は全て負修羅。

用いる扇は、


勝修羅扇。図柄は「老松に旭日」


「負修羅物」

能は「平家物語」を題材にした曲が多い。
するとシテは、死後に修羅道に堕ちた源平の武将となります。


修羅道の苦しみと悲しみを訴える曲です。



『朝長』『実盛』『頼政』『忠度』『俊成忠度』『清経』『通盛』『敦盛』『生田敦盛』『知章』『経政』『兼平』『巴』。

どうでしょう。皆、「平家物語」の源平双方の敗者です。

用いる扇は、


負修羅扇。図柄は「立波入り日」

屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと続けて敗北し、海に消えた平家の公達を連想するような図柄ですね。


こんな背景があったので、今日の大河で私が突っ込んだ


と、なるのでした。


いつも応援いただきありがとうございます。
ストーリーもぶっ飛ぶツボでしたが、思うに、大河の小道具さんに能の好きな人がいるのではなかろうかと。家康が持つ扇が、観世流の仕舞扇から勝修羅扇に変化したらビンゴです。しかしまぁ、顔色がいいね、っと安心していた三成達をどん底へ落とした茶々さんの「無邪気」。これは何なのでしょうねぇ。怖いわぁ。

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真田丸第28話「受難」。秀吉と秀次と高野山

こんにちは。


秀吉の吉野の花見は、

文禄3年(1594年)2月27日(新暦4月17日)。

秀吉の生母、天瑞院の三回忌法要を執り行う高野山への参詣途上でした。


「豊公吉野花見図屏風」(重文、細見美術館蔵)



能に夢中になった秀吉。



自分の功績を題材とした「豊公能」「太閤能」と呼ばれる作品群を創作。

有名な曲では、「吉野詣」「高野参詣」「明智討」「柴田」「北條」。

謡作詞は、法橋・大村 由己(秀吉御伽衆)。
節割り・型付けは、金春大夫安照(金春流六十二世宗家)。

その中の一曲「高野参詣」は、



母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に、大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行をたたえるというお話。


誰かの幽霊が現れて喋って舞って帰っていくのは、能の定番ですが、普通は仏の功徳を讃えたり、修羅道の苦しみを訴える(平家物語を題材にした曲)ものです。

かーちゃんが息子をほめまくるなんて、聞いたことがない。

いやまぁ、・・・だからこそ「天下人」ってとこかしら。



先週の秀次くんの勇姿。

今回は、「秀次悪くない」でしたね。よかったなぁ。

秀次が自害したのは、今の「高野山・金剛峯寺」。



秀吉は、高野山攻めの際に、秀吉と高野山を仲介した木食応其上人に帰依するようになり、寺領を寄進。


応其上人は。

天正18年(1590年)。興山寺建立。
お財布は、諸国を勧進した施財と秀吉からの一千石の寄進。

この隣に建立したのが、「青巌寺」。

「青巌寺」は、秀吉が母の菩提のための建立。

お財布は、秀吉の、米を一万石と白銀三千枚の寄付。

明治2年(1869年)3月29日。
青厳寺・興山寺の二寺を合併。

金剛峯寺と呼ばれるように。

※興山寺は、山縣玄浄僧正が稲葉氏の協力を得て大分の臼杵に寺号、寺宝を移しました。



正門は、金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)再建。

高野山は度々の落雷による火災で、多くの堂于が焼失&再建を繰り返しています。


金剛峯寺の主殿。

文久3年(1863年)の再建。

この中に、文禄4年(1595年)、秀次が自害したと伝わる「柳の間」があります。


あれ?

・・・当時のままに復元したということで。


大玄関。

正門・大玄関は、本来は天皇・皇族や高野山重職のみ出入り可。


秀次に思いを馳せようにも、文久3年(1863年)の再建ではねぇ。

ざんねん。

「金剛峯寺」は、元来は高野山全体を指す名称でしたが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称しているそうです。(wikipediaより)


壇上伽藍へ。


他より高い位置にあります。


高野山は「一山境内地」と称し、高野山全体がお寺の境内地。

高野山の本堂は、壇上伽藍にそびえる「金堂」。

山内に点在するお寺は、塔頭寺院。
現在では117ヶ寺が存在。(金剛峯寺HPより)


宿坊も、塔頭寺院になります。


中門は、昨年再建。

壇上伽藍は、空海が在世中に堂宇を営んだ場所なので、聖地。


・・・。


金堂を挟んで、反対側はガラリと雰囲気がかわります。


こちらにあるのが、山王院と


御社。


雰囲気がよく、人が少ないのがとてもいいです。


いつも応援いただきありがとうございます。
金剛峯寺の内部は再建ながらピカピカ、あ、いや、えーっと、見事な美しさです。あっけらかーんっとした金堂の東側と、鬱蒼とした森の残る西側の対比は、焼失したか否かの違いのようで。戦でファイヤーではなく、落雷。これほど歴史ある高野山内で国宝建造物が少ないのは、これが原因。自然って怖いなー。

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真田丸第27回「不信」(4)武士となった大和猿楽四座

こんにちは。

興福寺等に属し、祭礼に奉仕した大和猿楽四座。

外山座 →宝生座
坂戸座 →金剛座
円満井座→金春座
結崎座 →観世座

これに元和年間に金剛座から分かれた喜多流を加えた「四座一流」が現在の能楽シテ方五流。


金春安照に師事した秀吉の贔屓は、金春座。

金春流は、豊臣政権公認の流儀として各地の武将たちが追随。


秀吉が能に没頭したのは晩年の10年程ですが、猿楽の歴史においてこの時期は、まさに、革命期。

①外国との貿易による「新しい織物」の登場→装束の変化
②常設の能舞台の設置
③猿楽4座への扶持米支給


③猿楽4座への扶持米支給


秀吉は、大和猿楽四座(観世・宝生・金春・金剛)の役者達に給与(配当のお米)を与え、保護。


秀吉朱印状『観世座支配之事』(観世文庫所蔵)

能役者の給与(配当米)は金春座以外、各大名が分担して出費。

これは観世座の分で、家康が500石分負担するなど決められています。

秀吉ご贔屓の金春座は秀吉に直接保護され、領地も与えられています。

その領地は江戸時代も存続。


金春札(法政大学能楽研究所所蔵)

領内で有効なお札「金春札」が発行されていました。




このように能役者の生活は公的に保護されるようになった点が、秀吉前との大きな違い。

その反面、金春・観世・金剛・宝生の大和猿楽四座は、それまでの自由な身分から武家に従属する形に。


【江戸時代の保護政策】

猿楽四座への保護政策は家康の江戸幕府にも受け継がれます。

このおかげで能は今日まで続くことができたともいえます。


家康もはじめは金春大夫安照をご贔屓。
見るのは好きでしたが、秀吉ほど猿楽にのめりこむことはなく。

家康は金春座ではなく、観世座を用います。

秀忠は金剛座から喜多流を独立させる程の喜多贔屓。
続く家光も、喜多好き。

これに倣って各大名は喜多流を重んじるようになり、発祥は新しくとも全国に一気に広まります。


舞台正面

また、能が幕府の公式行事で演じられる「式楽」として定着したのは、三代・家光、四代・家綱の時代。

(※各座の大夫は、家康の時代に江戸へ移されています。)



猿楽座大夫の身分は、武士。

幕府や大名より俸禄を与えられて生活は安定。

しかし、老中や若年寄といった官僚制度の下で、能役者は上演演目が管理され、政治的な影響を強く受けるようになってしまいました。



秀吉前には大和猿楽以外にも丹波猿楽や山城猿楽も活動していました。

が、秀吉と江戸幕府の大和猿楽への保護政策により、大和猿楽以外の猿楽は解体・吸収され。


《大和猿楽四座以外のその後》


例えば、丹波猿楽「梅若」座。


菩提寺である曹源寺。


(高野山奥の院。明智光秀墓所)

梅若家の家久(もしくは広長)は、丹波攻略によりこの地域を手中に治めていた明智光秀方に付いて山崎の合戦を戦い、戦傷がもとで他界。

光秀に付いた梅若家は、一時没落。

梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)が細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕え、世木庄の上稗生(現在の日吉町生畑上稗生)に百石を賜り、梅若中興の祖となりました。


「丹波猿楽梅若家屋敷跡」の旧墓所。

日吉の領主となった梅若家は、日吉を本拠に丹波猿楽の梅若座を構えます。

後に観世流に合流して「観世流梅若家」となり、名手を輩出しています。


◎まとめ◎



幕府の中に武家として組み込まれたことで、自由な創造は制限されますが反面、既存の曲目は成熟化。

また。

大和四座の中に組み込まれなかった地域密着で地域色の強いものは、各地に残る「神事能」として残り伝えられることとなりました。

演能はお上のものとなってしまったものの、謡本は歴史の教科書、手習いのお手本、謡は旦那衆の教養科目や趣味として、庶民の間にも浸透していきました。


(高野山奥の院。豊臣家墓所)

長くなりましたが、このように猿楽の歴史は、秀吉前と秀吉後とで大きく変換したのです。

おしまい。


参考文献

『能楽談叢』(横井春野著/サイレン社/昭和11)
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257024

『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)

『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』(天野文雄著/講談社)


いつも応援いただきありがとうございます。
真田丸の舞台シーンから始まった猿楽のお話、長々とおつきあいいただきありがとうございました。装束、舞台、また演能時間など様々な変化があった秀吉前後の時代。そのなかで一番大きな影響を受けたのがこの扶持米の支給による猿楽座の武家化と四座以外の淘汰。秀吉はただ猿楽に耽溺したのではなく、政策面においても多大な遺産を猿楽に残したのでした。

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真田丸第27回「不信」(3)秀次達の能装束と舞台の桃山革命

こんにちは。

妙なエンジンがかかってしまいました。

だって、ほんとにほんとに良かったのですもの。
大河の能の場面。


小鼓の先生も、お芝居してます。うふ。

さて。

秀吉が能に没頭したのは晩年の10年程ですが、猿楽の歴史においてこの時期は、まさに、革命期。

れぼりゅーしょんは、大きくみっつ。

①外国との貿易による「新しい織物」の登場→装束の変化
②常設の能舞台の設置
③猿楽4座への扶持米支給


①外国との貿易による「新しい織物」の登場→装束の変化


シテの装束は、若い女性の常の姿「紅入唐織着流出立」。

能装束は今でこそきらびやかなイメージですが、秀吉前はさほどでもなく。

足利時代は、良質の生糸は輸入に頼り、国内の織物の技術が未熟でこれも輸入。
よって、豪華な唐織物は大変高価。

余程有力なパトロンがいない限り、無理っ。

そこへ現れたのが、贅沢な絹織物を好んだ信長・秀吉。

南蛮貿易による生糸・絹織物の輸入と並行し、養蚕と国産織物の生産を奨励。



応仁の乱で堺へ避難していた織物工達が西陣へ戻り、輸入品に劣らない良質の絹織物を生産。

秀吉好みの桃山文化。

建築、庭園等と共に、能装束にも桃山風の華やかさが表れます。


刺繍と摺箔(すりはく)で着物全体に模様を表した縫箔(ぬいはく)。

「唐織」は、縫箔でこさえた装束の総称。

絹織物の技術は、江戸時代にさらに発展。
各大名の庇護下で能装束は、絢爛豪華なものに。

各地の博物館や美術館の展示で目にする、能装束の出来上がり。


ちなみに。

これは現在のものですが


装束・面・持ち物は、各曲で定められています。


勢揃い。


同じワキ方でも、ワキとお供のワキツレでは中の着物が違います。


これ、お坊さんの定番です。

大口とは、見ての通りの幅が非常に広くて固い装束。袴の仲間。

楽屋口を通る時は正面向いては入れないので、先生に「カニさんっ(横歩きっ)」と言われます。

新しい能楽堂では、大口を付けた人がぶつからずにすれ違うことができる幅に通路が設計されている所があります。(名古屋能楽堂など)


前シテ。赤と白の地が互い違い。刺繍と摺箔で着物全体に模様。

わかりやすいように「唐織・紅白段○○○○(模様の形。短冊桔梗源氏車、など)」と呼びます。

「源氏供養」の前シテは若い女なので、紅白。
安逹原など、おばちゃんの場合は、赤ではなく青とか緑とか。地味。

片方を肩から外すと、物狂いの姿。蝉丸の姉など。
両方外すと、裸。羽衣の前シテで、衣を取られた時はこの姿。

では、舞台を見てみましょ。


お坊さんと若い女のにらめっこ、に見えましたねー?うふふ。


後シテの紫式部。


長絹(ちょうけん)もまた、能装束独特の呼称。


亀甲と桔梗の模様が金で描かれています。


大口を白に、頭上を天冠にすると、天女に変身。

隅っこに座るワキ方は勅使一行なので装束が豪華。


夏になると能楽師の先生の各家で虫干しが行われ、舞台や客席に一斉に装束が広げられる光景は壮観です。


②常設の能舞台の設置


吉野の花見では、吉水神社に設けられた舞台での演能。


秀吉以前は、能舞台は屋外で、中庭等に土を盛り、その上に板を敷いた仮設の簡素なものでした。

奈良の春日若宮御祭の後宴の能では今も、この造りの舞台です。

それが室町後期より公家宅に常設の能舞台が現れはじめ、


シテやワキが登場する「橋掛り」が定着。

秀吉の能好きにより盛んに演じられるようになった桃山時代からは、


このように常設の能舞台の形に。ただし、屋外。

江戸時代になると各大名が城内や神社等に設置。


切戸は地謡や後見が出入りする場所。

能舞台に壁が出来たことで必要となった扉です。

この他、舞台寸法や地謡座などの細かい点が整ったのは江戸時代。


現在のような、屋根の下に屋根、の形は明治以降。

能を武家の式楽として庇護した徳川幕府の崩壊により、能楽師達も武士と同じように自力で生活しなくてはならず。

演能で収益をあげるには、お天気に左右されるのは困ります。

能舞台をホールの中に移すことで、お天気を気にせずいつでも公演することが出来るようになりました。


③猿楽4座への扶持米支給

今夜のお酒がなくなったので、つづく。


参考文献

『能楽談叢』(横井春野著/サイレン社/昭和11)
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257024

『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)

『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』(天野文雄著/講談社)


いつも応援いただきありがとうございます。
各能楽師のおうちに伝わる面(おもて)や装束は、数百年前のものもザラ。文化財の宝庫ですが、指定を敢えて受けないのは、受けたら舞台に使えない(使いにくい)から。舞台で使用してこそ、生きるもの。それが能装束であり、面なのですね。秀吉のご贔屓の金春流ではこの桃山時代の素晴らしい装束が数多く伝わります。それはもう、とっても素敵。

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真田丸第27回「不信」(2)秀吉の金春贔屓と手猿楽

こんにちは。


このお稽古風景、鼻血が出るほど懐かしくて。

たいへんツボった真田丸第27回「不信」。


特にこの面の持ち方にも、感動。

金春流シテ方の山井綱雄先生のご指導の賜物かと。


シテは曲を終えて舞台より幕に入ったら、一度我が姿を幕と楽屋の間の鏡の間の鏡に映す。

下を向いたら汗が落ちるから、上向き加減にして、面を外す。

このとき、

手の脂が付くので、決して決してべちょんっと持ってはいけないのです。


【能楽の歴史】


(福知山市一宮神社の能舞台)

猿楽を元にする能楽は、足利義満、豊臣秀吉、徳川家康など、時の権力者の庇護の下で発展し、江戸幕府において「武家の式楽」となり最盛期を迎えます。


(福知山市一宮神社の能舞台)

その前に。

まず勢力を伸ばしたのが、興福寺等に属し、祭礼に奉仕した大和猿楽四座。

外山座 →宝生座
坂戸座 →金剛座
円満井座→金春座
結崎座 →観世座

これに元和年間に金剛座から分かれた喜多流を加えた「四座一流」が現在の能楽シテ方五流です。


応仁の乱から戦国時代にもなると、能の最大の庇護者であった足利幕府の威光が失われ、各座は一座を維持するために新たなパトロンを求め右往左往。

・小田原の北條氏 ← 宝生座の宝生家
・浜松の徳川家康 ← 観世座の観世元忠 など
・大坂本願寺 ←各座(最大のパトロン化)


そんな中に現れたのが、「手猿楽」。

手猿楽の「手」は、手料理の「手」。

いわゆる座付きの猿楽師ではない、「素人役者」です。

これが戦国期に流行し、権力者に限らず一般の人々による猿楽の流行をもたらします。

さ、そこで、秀吉です。


【秀吉の能好き、金春贔屓】

秀吉は、肥前名護屋に金春安照はじめ四座の役者や手猿楽(素人役者)を呼び寄せて演能させたり、

文禄2年(1594)に「禁中能」を催しています。



(高野山奥の院。豊臣家墓所)

秀吉の能好きの発端は、手猿楽との出会い。


手猿楽の有名人としては、この二人。共に金春座系。


①下間少進仲孝

金春大夫喜勝に師事。

大坂本願寺坊官の下間少進家の一人で、対信長戦では本願寺側の軍事責任者。

天正16年(1588 )頃から活発な演能を展開。

山科に存在した頃より芸能と繋がりの深かった本願寺では、財政的な豊かさも手伝って猿楽が盛ん。

本願寺内での演能記録、大坂寺内町での勧進猿楽が細かく『天文日記』に記されています。

挨拶に来た猿楽大夫が本願寺証如に請われて演能するなど、面白いです。

また、少進は演能記録「能之留帳」を、天正16年(1588)2月24日(摂津天満の舞台)より、以後元和元年(1615)11月2日まで、実に293回もの演能の場所・曲目・シテや三役・観客が誰か、を克明に記しています。

そして、この下間少進仲孝の舞台が、秀吉の能好きのきっかけに。


②暮松新九郎

金春座系。師匠不詳。秀吉の師匠となった人物です。


こんなお稽古じゃなくて


こうにちがいない。お上手お上手。

暮松新九郎(金春系)に能の手ほどきを受けた秀吉。

彼は、金春大夫喜勝の後継者である
「金春大夫安照(金春流六十二世宗家)」に師事します。


(金春流の5つの丸紋が描かれた「五星」の扇)

金春流は、豊臣政権公認の流儀として各地の武将たちが追随。

秀吉、猿楽に没頭。


さるはおだてりゃ調子にのる。

既存の作品を演じるだけでは飽き足らなくなり。

10番におよぶ新作能を創作。

それが新作能「豊公能」「太閤能」と呼ばれる作品群。

自分の功績を題材とした曲で、秀吉58歳のころに作られたと言われています。

有名な曲では、「吉野詣」「高野参詣」「明智討」「柴田」「北條」。

謡作詞は、法橋・大村 由己(秀吉御伽衆)。
節割り・型付けは、金春大夫安照(金春流六十二世宗家)。



「吉野詣」

吉野に参詣した秀吉に蔵王権現が現れ、秀吉の治世を寿ぐ祝言もの。



「高野参詣」

母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に、大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行を称える曲。


「明智討(討伐)」「柴田(退治)」「北條(征伐)」は、
題名のまんま。秀吉の戦功を称えたものです。


秀吉のえらいところは、謡って舞って、しゃららら~♪だけではなかった点。


猿楽の歴史において秀吉晩年のこの時期は、まさに、革命期。

つづく。


参考文献

『能楽談叢』(横井春野著/サイレン社/昭和11)
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257024

『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)

『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』(天野文雄著/講談社)


いつも応援いただきありがとうございます。
秀吉の能好きは、没頭して他がなにも見えなくなる、というより、無邪気に楽しんでいる感じがします。せっかく天下人になったのですから、自分を主役にした武勇伝を創作してみたかったんだろうなー。おのぼりさんだなーっと暖かい目で見てあげましょう。

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お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

真田丸第27回「不信」(1)秀次の能「源氏供養」と吉野の花見

こんにちは。

役者さんへ能の指導と監修、能場面でのシテの中の人は、金春流シテ方山井綱雄先生でした。


主将は、宇喜多秀家。


先輩の言うことはさっぱりわからなくて、


動けないのは、お稽古あるある。

この足の運びを「運足(うんそく)」と言います。


ずーっと踏み込む足、「踏足(ふんそく)」だと思ってました。へへ。

嬉しかったのは、鏡の間での「お調べ」場面。

「お調べ」とは、能が始まる直前に行うチューニングのようなもの。


左から、大鼓(おおかわ)、小鼓(こつづみ)、能管。

かーんかーんって音を鳴らすために、皮の張りが大切なのでぎゅっぎゅっと締める大鼓。

反対に皮の湿り具合が大切なので、皮に息をあてている小鼓。


使用された面は、300年前の「天下一河内作の小面」。

http://ameblo.jp/yamaitsunao/entry-12178834390.html


お庭に作られた能舞台で演じられたのは、

「源氏供養」でした。

耳の穴かっぽじって聞き取りました。


「源氏供養」

作者は不明
素材 『源氏供養草子』
場所 近江 石山寺
季節 春
分類 三番目物

石山寺を参詣に訪れた安居院の法印に声をかけた女は実は、自分が書いた『源氏物語』の主人公光源氏を供養しなかったために成仏できずにいる紫式部。

式部は光源氏の供養と、自分を弔うことを法印に頼み、巻物を渡した、というお話。

根底にあるのは、この曲ができた時代の思想。

物語は狂言綺語(きょうげんきぎょ:道理に合わず、大げさに飾り立てられた言葉)を描いており、これは仏法の教えに反する。
よって、その作者は地獄に堕ちる、というもの。

こわーっ。

この曲は、詞章のあちこちに〈桐壷〉〈夕顔〉など、『源氏物語』の巻名が出てくる点が特徴。


ドラマの場面は、こんな感じ。



シテ「恥ずかしや。色に出づるか紫の」

地謡「色に出づるか紫の。

(ここから)
   雲も其方(そなた)か夕日影さしてそれとも名のり得ず
   かき消すやうに。失せにけり。かき消すやうに失せにけり」



謡の言葉に合わせたかのような、夕日。

女は夕日の中、名乗らずに姿を消しました。(前半終わり)

法印は、女の依頼に応じて光源氏の供養をして紫式部の菩提を弔おうと思うものの、女の言葉が本当とも思えず、いぶかしく思い、供養を躊躇。

これが、


信繁君が頑張った箇所。

ワキ「とは思えども徒し(あだし)世の。とは思えども徒し世の。
   夢に移ろふ紫の。色ある花も一時の。あだにも消えし古の。
   光源氏の物語。聞くにつけてもその誠(まこと)頼み少なき。
   心かな頼み少なき心かな」

シテ「松風も。散れば形見となるものを。思ひし山の下紅葉」
地謡「名も紫の色に出でて」
シテ「見えん姿は。恥かしや」



次はいきなり最後の場面(キリ、といいます)。



地謡「よくよく物を案ずるに。よくよく物を案ずるに。
   紫式部と申すは。
   かの石山の観世音。仮にこの世に現れて。かゝる源氏の物語。
   これも思へば夢の世と。人に知らせん御方便(ほうべん)

(ここから)
   げにありがたき誓ひかな。
   思へば夢の浮橋も。夢の間の言葉なり夢の間の言葉なり」



さて。演能があったのは、

文禄3年(1594年)2月27日(新暦4月17日)。

秀吉の生母、天瑞院の三回忌法要を執り行う高野山への参詣途上で催された、

吉野の花見。


「豊公吉野花見図屏風」(重文、細見美術館蔵)

徳川家康や伊達政宗、前田利家等の重臣、公家や茶人など約5千人が参加。

ちなみに秀吉最晩年の「醍醐の花見」は、約1千3百人。


修験道場の吉野山は、源義経が追っ手から逃れ、後醍醐天皇が落ちのびて南朝を開いた土地。

そんな吉野で。

秀吉は、5日間にわたって、中千本の吉水神社を拠点に歌会や茶会。

吉野の花見で秀吉が詠んだ歌。



「とし月を 心にかけし 吉野山 花の盛りを 今日見つるかな」


この吉野の花見で、秀吉は自ら、「吉野詣」「源氏供養」「関寺小町」を舞います(『駒井日記』)。

最初に演じたのは、「吉野詣」。



吉野を詣でた秀吉を蔵王権現が迎え、吉野の天女の舞(宮中大嘗祭の五節舞の起源)と共に秀吉の治める天下を言祝ぐ内容。

秀吉が、吉野の花見のために創作したおニューの曲(新作能)です。

謡作詞は、法橋と大村由己(秀吉御伽衆)。
節割り・型付けは、金春大夫安照(金春流六十二世宗家)。


秀吉が能に没頭したのは晩年の10年程ですが、

既存の作品を演じるだけでは飽き足りず、10番に及ぶ新作能を創作。

それが「豊公能」「太閤能」と呼ばれる作品群。


秀吉の贔屓は、金春座。


(金春流の5つの丸紋が描かれた「五星」の扇)

今回の能楽場面で、金春流シテ方山井綱雄先生が中の人となり、役者さんに芸能指導をしたのは、なるほどなるほどです。


ピンチ極まりない豊臣秀次も、
文禄4年(1595 )に金春流の102番を対象曲とし、五山の僧らに『謡之抄』の編纂を命じています。


参考文献

観世流大成版『源氏供養』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)

『能楽談叢』(横井春野著/サイレン社/昭和11)
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257024

『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)

『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』(天野文雄著/講談社)


いつも応援いただきありがとうございます。
先週の予告で能装束の秀次を見て、ずーっと楽しみにしてました。お稽古場面に爆笑し、演能場面ではがっつりポイントをおさえた映像の連続で、うはうはです。私は観世流をお稽古しているので金春流の謡が聞き取りにくく、信繁君の大きなお声でやっとわかりました。えへへ。

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お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

「真田丸」北条氏直の起請文。カラス文字の熊野牛王神符

こんにちは。

一週遅れなのですっとぼけたお話になりますが。

春日信達に海津城を渡すという、氏直の起請文が届きましたねー。


この場面の。


これ。

がっばーーーー!っと、またテレビにかじりついたわたくし。

カラス文字、きた♪



これは、熊野牛王符または宝印神符。

俗に「オカラスさん」とも呼ばれる「カラス文字」で書かれた熊野三山独特の御神符

「牛王」の名称は、牛の肝から得られる「牛黄(牛玉)」という密教の加持祈祷に用いる霊薬を印色として神符に用いた事から、「牛王宝印」と称するようになりました。

起源は明らかではありませんが、熊野本宮の主祭神である家津美御子(ケツミミコ)大神(スサノオ)と天照皇大神との高天原における誓約、あるいは、神武天皇東征の際の熊野烏の故事に由縁するとも。


熊野牛王神符の裏面を料紙として用いたときは、
誓約の内容を書き記し、それを熊野権現に対して誓うのです。


こらこら。


「真田丸」では、北条氏直は「春日信達に海津城を渡す」と信達にではなく、熊野権現に誓ったのですね。


鎌倉時代には「誓約書」、やがて「起請文」、江戸時代には「起誓文」の代わりとして用いられました。


なぜ熊野牛王神符を用いたのか。それは、



熊野権現への誓約を破るとどうなるか。

まず、熊野大神のお使いのカラスが1羽亡くなり



本人は、血を吐き、地獄におちる。



と、古くから信じられておりました。


やた殿&やた姫からのお願い(切実)。


まぁ、こんな物騒な用途だけではなく。

熊野牛王符は熊野信仰の人々をあらゆる災厄から護ってくれるもの。

・カマドの上(ガスの元栓)の上に祀れば火難を免れる
・門口に祀れば盗難を防ぐ
・懐中して飛行機、船にのれば、乗り物酔いと災難を免れる
・病人の床にしけば、病気平癒となる
・病気にはカラスを切り抜いて浮かべた水を飲むと効あり

ありがたや。

熊野三山の参拝後、熊野牛王神符と梛(なぎ)の葉を受けとる習わしがあり(梛は、熊野のご神木)、家々の神棚や入口等に奉斎しました。


全国には、熊野の修験者及び熊野比丘尼によって配付。

今も和紙に木版と墨で一枚ずつ手刷りです。
熊野牛王符(牛王宝印、烏牛王)の刷り初めが正月に行われます。


【熊野速玉大社】




「熊野寶(宝)璽(印)」カラス文字48羽。


【熊野本宮大社】




「熊野寶(宝)璽(印)」カラス文字88羽。

古く天武朝白鳳11年(約1300年前)はじめて熊野僧徒牛王宝印奉ると記されているのが初見。


【熊野那智大社】




「那智瀧寶(宝)璽(印)」カラス文字72羽。

1月1日には午前3時に那智の滝の奥の「秘所の水」を若水として汲み、1月2日にその水で烏牛王神璽摺初め式を行います。



いただいた護符は大切にしましょう。


参考文献
熊野速玉大社・熊野本宮大社・熊野那智大社牛王神符説明書


いつも応援いただきありがとうございます。
暖かくなるとおでかけしたくてお尻がむずむずしますねー。青い海が呼んでいるので熊野へも行きたいな。実はトータルしたら二年間で一ヶ月以上も熊野で宿泊してました。ほほほほ。どんだけ好きなの、熊野。

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「真田丸」信長の歌舞と、戦う猿楽師。梅若座の場合

こんにちは。

突然ですが、京都府南丹市日吉町殿田の


曹源寺。

丹波猿楽の梅若家の旧菩提寺です。

上林(現在の美山町宮脇)に居住していた梅若広長は美声で「妙音大夫」と呼ばれていました。

広長は、信長より「世木庄」500石を与えられています。(現・曹源寺)


【信長の歌舞】

「人間五十年、化天(下天)の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり 
ひとたびこの世に生を受け 滅せぬもののあるべきか」


これは信長が好んだ『敦盛』の一節ですが、これは能ではありません。

幸若舞の一節。


幸若舞の「敦盛」と能「敦盛」については、こちらに詳しく。

⇒⇒⇒信長の「敦盛」。幸若舞と能

http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-150.html


幸若舞は、室町時代に流行した、語りを伴う曲舞(くせまい)の一種。
中世から近世にかけて、猿楽と共に武家に好まれました。

信長は、特に幸若を好んだようで。

天正2年(1574)、信長が幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)に対し、越前朝日村周辺に100石、幸若領としての知行領地の朱印状を下賜しています。


【幸若太夫と梅若大夫】

天正10年(1582)。信長が安土の惣見寺に家康を招いた時のエピソード。

幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)の舞と梅若大夫(猿楽)の能を鑑賞。

梅若の能が不出来で折檻され、次の幸若で信長の機嫌が直り、黄金10枚を賜わったというお話。



様々な文書に記述があります。


「五□□(月十)五日 徳川、穴山安土へ爲御禮被罷上訖。十八日於安土惣見寺、幸若大夫久世舞まひ申候。其次ニ、丹波猿樂梅若大夫御能仕候。
幸若ハ一段舞御感にて金十枚當座ニ被下之。梅若大夫御能わろく候て、御機嫌ハあしく御座候つれども、これにも金十枚被下之。」(『宇野主水日記』)

「徳川上洛、一段信長公ノ御奔走ニテ、安土惣見寺ニテ、御能幸若舞などあり。」(『宇野主水日記』)

「五月十九日、安土御山惣見寺において、幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、次の日は、四座の内は珍しからず、丹波猿楽、梅若大夫に能をさせ、家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、見物させ申さるべき旨、上意にて、御桟敷の内、近衛殿・信長公・家康公・穴山梅雪・長安・長雲・友閑・夕庵。御芝居は御小姓衆・御馬廻・御年寄衆、家康公の御家臣衆ばかりなり。
(中略)
梅若大夫御能仕り候折節、御能不出来に見苦敷候て、梅若大夫を御折檻なされ、御腹立ち大形ならず」(『信長公記』)

「五月十九日 於安土惣見寺 参州之家康ニ御舞・御能見物させられ候、上様被成 御成、本堂ニ而御見物、城介様各御壹門ノ御衆、何モ被成 御出、舞能御見物、堺衆十人斗參候、始ニ而幸若八郎九郎兩三人、長龍露拂、本舞たいしよくわん、こいまひふしミ、ときわ、其芙已後、即、丹波梅若太夫御能仕候、 脇ノ能見もすそ、次ニめ□□さたといふ能いたし候、其時、
上様御氣色あしく候而、直ニしからしられ候、太夫罷歸候へ之由被 仰出候」(『宗及茶湯日記他會記』)



怒られた程度ならいいけれど。


この幸若舞の家に対しては、柴田勝家・丹羽長秀・豊臣秀吉らも信長に倣って知行安堵状を与えており、家康も踏襲。

1600年。幸若太夫(8代)八郎九郎(義門)に家康から知行230石が交付され、幸若流は舞曲諸流を管理する家として存在しました。


【戦う猿楽師~梅若座の場合~】

戦国時代には、武将の身近にいた猿楽師(能楽師)の中には、戦に出た人もいます。


例えば、前述した丹波猿楽「梅若」座。


菩提寺である曹源寺の背後の山には殿田城。

猿楽の家といえども舞い謡いしてるばかりでは立ち行かぬのが戦国時代。

本能寺の変。


(高野山奥の院。明智光秀墓所)

梅若家の家久(もしくは広長)は、丹波攻略によりこの地域を手中に治めていた明智光秀方に付いて山崎の合戦を戦います。

が、負傷し、ご他界。亡骸は曹源寺に葬られます。

光秀に付いた梅若家は、一時没落。

梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)が細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕え、世木庄の上稗生(現在の日吉町生畑上稗生)に百石を賜り、梅若中興の祖となりました。


(舞鶴市田辺城のゆうさいくん)

よかったよかった。


「丹波猿楽梅若家屋敷跡」の旧墓所。

日吉の領主となった梅若家は、日吉を本拠に丹波猿楽の梅若座を構え、後に観世流に合流して「観世流梅若家」となり、名手を輩出しています。

現当主の梅若玄祥先生の舞台は、機会があれば是非。ぜったい。


参考文献

『能・狂言なんでも質問箱』(山崎有一郎・葛西聖司著/檜書店)
『能・狂言事典』(西野春雄・羽田昶 編集委員/平凡社)
『能楽談叢 』(横井春野著/サイレン社/昭11)
『能楽全史』(横井春野著/わんや書店/昭11)


いつも応援いただきありがとうございます。
この家康を招いた宴には、穴山梅雪も参加しています。SNS等では、穴雪って呼ばれてたそうで。面白いですねー。私はあの低い低い美声の直江兼続様が、もー、もー、気になって仕方なくて~!あああ、耳に幸せが到来しました。うふふ。

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「真田丸」さらば上野国。滝川一益別れの宴と謡『羅生門』

こんにちは。

さて。前回では、群馬県の能楽事始めが滝川一益の能興行、のお話を致しましたが。

「真田丸」滝川一益、厩橋城で玉鬘を舞う。群馬の能楽事始め

http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-734.html


今回はその続き。


滝川一益、小鼓なう。

一益は上野国の諸将を従え、上野・武蔵国境の神流川の河原で、北条氏邦を先鋒とする北条軍と対決(神流川合戦)。

敗北した一益は碓氷峠を越え、信濃国小諸を経て本国伊勢へ引き返します。

大河ドラマでは草刈な真田昌幸さんと差しつ差されつ、ゆっくり語り合っていましたねぇ。

実は一益は、神流川合戦に敗れて小諸へ向かう際に、上野国の諸将を厩橋城に集め酒宴を開いています。


《別れの宴で謡う一益主従》

酒宴の席で。

一益が『羅生門』の一節を鼓に合わせて「武士の交り頼みある仲の酒宴かな」と謡うと、

倉賀野淡路守が『源氏供養』の一節「名残今はと鳴く鳥の」と返しました。


「『上野史談』小学校生徒用」より。


【『羅生門』と小謡】

一益の謡った『羅生門』とは。

源頼光と家来達が長雨のつれづれに開いていた酒宴。

その最中、「羅生門に鬼が出るとの噂がある」と言う平井保昌と、「この平和な御代に鬼の居場所はない」と反論する渡辺綱。

激しい口論の末、武士の意地にかけてその実否を確かめようと、綱は羅生門へ赴くこととなり、頼光から「行った証拠に立てる札」を賜り、酒宴の場から立ち去ります。

後半はその鬼退治の場面ですが、シテが一言も謡わない異色の曲です。


なぜ、『羅生門』の一節なのか。


「ともない語らう諸人に。御酒(みき)を勧めて盃を。
とりどりなれや梓弓。弥猛(やたけ)心の一つなる。
武士(つわもの)の交わり頼みある仲の酒宴かな」



この部分は、「武士の交わり」と呼ばれ、武士の間で盛んに謡われたものです。



このように、長い長い謡の一曲の中において、TPOに合わせて謡われる「小謡」と呼ばれる部分があります。


《小謡ってなんだー》

謡の中で特に詞章や音階の美しい箇所等を「謡いどころ聴きどころ」としてピックアップしたものを、「小謡(こうたい)」といいます。

江戸時代。能が武家の式楽となり、庶民には中々目にすることが出来なくなります。

ちょうどこの頃、本が写本から印刷になります。
出版が盛んになると謡本が爆発的に売れ、謡が普及します。

また、謡の普及の元には、寺子屋があります。

江戸時代の寺子屋では主に男子を対象に謡曲を教えています。

謡曲の詞章は、実用的な教育を重んじる寺子屋で、手軽に文字の読み書き、地理や歴史、和歌、道徳など様々な知識が得られる教材として重宝されたようです。(文化デジタルライブラリー「日本の伝統音楽・歌唱編」)

http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc8/deao/youkyoku/chusyaku.html


「歌麿筆寺子屋小謡図版画」(法政大学能楽研究所蔵)

おっきな口を開けて、謡のお稽古なう。


祝言、宴会、お葬式、法事、それぞれの場面に応じた小謡があります。

例えば、宴会や能の催しの最後に、『高砂』

「千秋楽は民を撫で。万歳楽には命を延ぶ。
 相生の松風。颯々(さんさん)の声ぞ楽しむ。颯々の声ぞ楽しむ。」


特に『高砂』は、結婚式でよく耳にする「高砂やこの浦舟に帆をあげて~」等、5ヶ所も小謡があります。めでたいめでたい。

追善の折に、『卒都婆小町』

「花を仏に捧げつつ悟りの道に入らうよ。悟りの道に入らうよ」

棟上げ式の祝言「鶴亀」「邯鄲」等。
法事の際の追善「融」「海士」等。
花見では、「桜川」「鞍馬天狗」等。

特に酒席で謡われるものを「肴謡」と呼び、これは数知れず。

いかに謡が庶民の生活の中で身近に楽しまれてきたかが窺えるかと。


【『源氏供養』】

倉賀野淡路守が謡った『源氏供養』。

石山寺へ参詣途中の安居院法印(澄憲)のもとに紫式部の霊が現れ、自分は源氏物語を書いたが、その供養をしなかったため成仏できないと訴えます。
法印が石山寺に到着し回向をしていると、紫式部が生前の姿で現れ、源氏物語の巻名を読み込んだ謡にあわせて舞い、実は式部は観世音菩薩の化身であったと明かして、おしまい。


仏教において、架空の物語を作ることは「嘘をついてはいけない」という五戒の1つ「不妄語戒」に反する、という当時の思想から、紫式部が源氏物語という人々を惑わす絵空事を描いたため、死後地獄に落ちてしまった、とする伝承が元にあります。(wikipediaより)



倉賀野淡路守が謡った「名残今はと鳴く鳥の」は、後半。

地「実に面白や舞人の。名残今はと鳴く鳥の。夢をも返す袂かな。」
シテ「光源氏の御跡を。弔ふ法の力にて。我も生れん蓮の花の宴は頼もしや。」
地「実にや朝は秋の光。」
シ「夕には影もなし。」
地「朝顔の露稲妻の影。何れかあだならぬ定なの浮世や。
よくよく物を案ずるに。よくよく物を案ずるに。紫式部と申すは。
かの石山の観世音。仮にこの世に現れて。かゝる源氏の物語。
これも思へば夢の世と。人に知らせん御方便げに有難き誓ひかな。
思へば夢の浮橋も。夢の間の言葉なり夢の間の言葉なり。」


紫式部の霊が舞ううちに聞こえた「名残今はと鳴く鳥」の声。

ここで、シテはふと我に返り、地謡により、紫式部は石山寺の観世音菩薩の化身であった事が明かされます。




【滝川一益、出立】



「ともない語らう諸人に。御酒(みき)を勧めて盃を。
とりどりなれや梓弓。弥猛(やたけ)心の一つなる。
武士(つわもの)の交わり頼みある仲の酒宴かな


と「武士の交わり」を謡った一益に続き、「名残今はと鳴く鳥の」と倉賀野淡路守が謡ったことにより、この地での交わりは「これまでなり」と、別れを告げる言葉となるのです。

まさに、別れの宴。

一益主従の謡への造詣の深さが伝わるお話でした。


参考文献

『能・狂言なんでも質問箱』(山崎有一郎・葛西聖司著/檜書店)

『能・狂言事典』(西野春雄・羽田昶 編集委員/平凡社)

群馬県立図書館デジタルライブラリー「上野史談」小学校生徒用
http://www.library.pref.gunma.jp/index.php?key=muz6uxudu-917

同上「上野史談」


いつも応援いただきありがとうございます。草刈昌幸様に「酒宴の支度をするよ」と一益が言ったとき、そらもう、がっばーっとテレビに食らいつきました。


わくわくどきどき。

二人きりでしたねー。ざんねん。まぁ、ここでいきなり謡われたら、昌幸とーちゃん、口あんぐりだったかもぉ。

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「真田丸」滝川一益、厩橋城で玉鬘を舞う。群馬の能楽事始め

こんにちは。

天正10年(1582)3月11日。
武田勝頼が甲斐国(山梨県)天目山で滅ぼされたことにより、武田氏滅亡。

信長により「関東管領職」の任と上野国と信濃国小県・佐久二郡を与えられ、信長秘蔵の脇差一腰と馬を携え入部したのは、滝川一益。

まず箕輪城(高崎市)に入り、厩橋城(前橋市)へ移り、厩橋城を拠点として上野国支配を図ります。


【滝川一益の能興行】

「真田丸紀行」に出ていた長昌寺。厩橋城の南に位置。

「境内に本格的な能舞台を作り人々を楽しませました」と語られておりましたが、実はここが群馬県における能発祥の地なのです。


天正10年(1582)5月。

一益は、厩橋城に上野国内の諸将を招き、能を演じます。



自ら『玉鬘(たまかずら)』を舞い、一益の嫡子・於長が小鼓を、岡田太郎右衛門が大鼓を打ったといいます。


《能楽メモ。大鼓ってなんだー》

嫡子・於長が打った小鼓(○こつづみ、×こづつみ)は、ポンポンと鳴らす皆様ご存じの鼓ですが、岡田太郎右衛門が打った大鼓(おおかわ)とは。


お雛様の五人囃子。

向かって左から、太鼓・大鼓・小鼓・能管・謡。

大鼓は、音としては、カーンカーンという、固く高い音。
馬のお尻の皮を張っています。


演能前に、炭火でかんかんにいぶって乾かします。

これによって、カーンという音が出ます。

私の習っている大倉流では、ドン、と、チョン、の「ちっちゃい音とおっきい音」の二つ。

かんかんに張った固い皮を素手で打つと、衝撃で手のひらではなく、手の甲がぽんぽんに腫れます。

そうねぇ。テーブルの角を手のひらで思いっきり打ち付ける感じ。

素手で打つと、ほんっとに痛いんだよー。
氷で冷やさないといかんほど、痛いんだよー。
初めて打った時は、ほんっとに手の甲が内出血したんだよー。

なので。


プロの方は、「指皮」という指サックとグローブもどきで保護。

指サックは、張り子のように米粉を水で溶いた糊と和紙を指に張り付け重ね、一番上を紅茶で着色した和紙を張り付けます。
乾燥させれば、こちこちになります。

全てオリジナルにするのは、自分の指の形にぴったりでないと、演奏中に飛んでいってしまうため。

演奏前に昔ながらのつぼに入った糊を滑りに用いて、ぎゅーっとはめ込みます。

グローブもどきの位置が大鼓の縁に当たります。


《『玉鬘(たまかずら)』という選曲》

『玉鬘(たまかずら)』は、『源氏物語』の玉葛(夕顔の娘)を題材とした曲で、作者は金春禅竹。

「げに妄執の雲霧の。迷いもよしや憂かりける。
人を初背の山颪。はげしく落ちて。露も涙もちりぢりに秋の葉の身も。
朽ち果てね恨めしや。」


と謡う、美しい女性がシテの曲です。

一益の選曲は、平家物語を題材とする修羅物(武将がシテ)ではなく、美しい女性がシテ。

なんでや。


ねー。

この時の一益の意図としては、織田家家臣ってのは、戦バカだけじゃないぞー、新しい城主は文武両道なんだぜーっと。


果して伝わったのかどうか。


なお、戦国時代の能舞台は、庭先に板を置いた可動式の簡素な物、あるいは、屋内の板敷の上で行っています。

現在のような「能舞台」が出来るのは、秀吉が能に耽溺する晩年以降。


《群馬県における初めての能興行》

6月2日。本能寺の変。


一益、6月7日にそれを知る。(『上野史談』)


6月11日。

一益は長昌寺で能興行を行います。

「能組十二番書立、舞台ヲ拵、瓶ヲ十二フセ」「総構ヲ大竹ニテ二重」(『石川忠総留書』等)

これが記録に残る群馬県で最初の演能とされています。

状況が状況ですから、長昌寺の「総構ヲ大竹ニテ二重」に厳重に囲んだ中での興行でした。

「能組十二番」

現在、午前11時開演、午後5時終了とすると、プログラムは能三番、狂言一番、仕舞数番です。

これでは能十二番なんてとても無理。

秀吉の晩年の演能記録など数々の資料から、戦国時代の能は、曲の全部を謡本通りに演能するのではなく、一部を取り上げるなどして、現在の半分ほどの演能時間であったと推定されています。

「舞台ヲ拵、瓶ヲ十二フセ」

能の型に、足拍子、があります。
足で床をトントンと踏み鳴らす所作ですが、この際の音を響かせるために、舞台床下に口を上に向けた龜や瓶を置きます。

屋根や柱の有無は不明ですが、庭先に板を置いただけのものが多い中、「本格的な能舞台」であると言えると思います。



太平記英勇伝35:滝川左近一益(wikipediaより引用)

滝川一益、小鼓なう。

これは、ポ、の手をしている図。いいのか、一益。のんびりしてて。


6月13日。山崎の合戦。


(高野山奥の院。豊臣家墓所)

周知の如く、光秀は秀吉の軍により、敗北・死亡。


(高野山奥の院。明智光秀墓所)


北条さんが不穏な動きを見せているし、滝川一益、さぁ、どうなる?


舞ってる場合か。


来週へつづく。


参考文献

『能・狂言なんでも質問箱』(山崎有一郎・葛西聖司著/檜書店)

『能・狂言事典』(西野春雄・羽田昶 編集委員/平凡社)

群馬県立図書館デジタルライブラリー「上野史談」小学校生徒用
http://www.library.pref.gunma.jp/index.php?key=muz6uxudu-917

同上「上野史談」


いつも応援いただきありがとうございます。甲斐国・武田信玄の家臣団の中に猿楽師五十余名がいたほどですから、大和猿楽が東へ普及していなかった事はないです。しかし、それが広く普及していることはなく、あくまでも大領主主従の話。滝川一益は上野国の諸将に見せた点が、ポイントです。

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