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無理を通せば由緒がぐだぐだ。志度の多和神社最終回

こんにちは。


志度の多和神社。



今日は多和神社の由緒書きから見てみます。




《① 創建》

祭神:速秋津姫命

「社伝では、『神代のむかし、速秋津姫命が多和の郷に来たりまして、この水門は潮いと深くして我が心澄みと宣い、とどまり給う。去るに及んで土人大久支、子久支、古老に真澄の鏡を授け給いて、これを我が御魂と取り託して多和の水門を祓戸と定め、国人ここに集いて祓いせば、犯せる罪もおのずから失わせむ。また朝夕に沖行く五百船、千船を守らむと宣いき。ここにその御鏡を御霊代として多和大神と鎮めましき。』とあり、祓いの神として現在に至っています。」


これは、『讃岐國官社考證』の「神代に速秋津姫尊、多和鄕の渚に來まして、此水門は、甚深くて、よき須美戸なりと宣ひて、鎭座るを、後世に、鄕名を以て、多和神社と稱奉りて」の部分。

『讃岐國官社考證』の著者は、ここ、志度の多和神社の宮司・松岡調(みつぎ)(幕末~明治)。




《② 延喜式内社》

【相殿の祭神】大鞆和氣命 帶仲津彦命 天照大日孁命 息長帶姫命 大雀命 倭武尊

「相殿については、寛平元年己酉(八八九)冬十二月に、大祝正六位讃岐朝臣春雄が神明の託宣によって前記六柱の神を勧請して多和八幡宮と称え、産土神として尊崇してきました。延喜式内社であり、元慶元年(八七七)には従五位のうえに叙せられました。」

これは、「『三代実録』元慶元年(877)3月4日の条」の、
「讃岐国従五位下多和神社に従五位上を授く」などを引用。

「讃岐国式内社二十四座」の中の「寒川郡一座・多和神社」の説明です。


《③ 遷座の経緯》

「当時の鎮座地は現在の志度寺の境内にありまして、社頭は志度寺伽藍とともに度々の荒廃があり、殊に戦国時代の文明十一年(一四七九)の兵火かかってからは小社でありましたが慶長十九年(一六一四)に当時の領主である生駒近矩により再興され、社頭も寄進されました。

寛文十一年(一六七一)六月に当時の讃岐国高松藩主松平頼重が志度寺再興に際しまして、今の鎮座地に社殿を新営いたしまして遷宮されたのが現在の本殿であります。」


これは、志度寺から遷座してきた「多和八幡宮」の由緒。
式内社多和神社のものではありません。


《④ なんのこと?》

「その後、明治にいたっては郷社讃岐三ノ宮として広くあがめられています。」


讃岐国の一宮は、田村神社(式内社)。
二宮は、大水上神社(式内社)。
三宮以下は不詳。

「一宮」の成立時期については諸説ありますが、少なくとも明治ではありません。


《まとめ》

①創建の説明をするものの、出典は当社の宮司である松岡調の著書。
②式内社多和神社の話
③当社の前身である多和八幡宮の話
④格付け?

以上の如く、当社を「式内社であり三宮である」とするための切り貼りした由緒書となってしまっています。

これがなければ、「志度寺から来たお社なのねー」と素直に思えるものを。ざんねん。



式内社だけが神社ではありません。



延喜式制定時に、鎮座していただけの話。
その後行方不明になった神社は数知れず。



本殿に向かう参道と枝分かれする小道の先の鳥居。


石の祠の集団。新しい。


本殿へ続く参道脇の石の祠とは趣が違います。

明治の神社合祀?


讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)

伽藍配置は随神門の向きを除けば今も同じ。


図絵にある御手洗池も、現存。

しかし、石の祠群は見当たりません。


重厚感のある社殿です。


奉献されている日本酒「金陵」

三百年以上に渡りこんぴらさんのご神酒を造っている西野金陵株式会社のお酒。

明治初期の多和神社の宮司・松岡調は、こんぴらさんの禰宜を兼任。


飲みたかったー(T_T)


悔しいなーと思いつつ、お詣り。


本殿にもたくさんのお酒。じゅるるるる。


さぁて。

かーえろ。


あああ、かわいい。またねー。



ここへお詣りして、松岡調という人物を知ることが出来ました。

讃岐の神社を巡るうちに、再会するかもしれないなー。

楽しみだなー。



海が見える神社っていいなー。

志度の多和神社、おしまい。


いつも応援いただきありがとうございます。
地味な画像ばかりですが、とてもきれいに掃き清められた清々しい神社でした。ご近所の方がのんびりとお散歩しながらお詣りするお社というよりは、背筋を伸ばして改まってお詣りするような神社という感じがしました。うふふ。私は狛犬さんがいれば、それだけで幸せ。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

志度の多和神社宮司の松岡調とこんぴらさんの神仏分離

こんにちは。

一般に「式内社」を自ら名乗りながらも根拠に乏しい神社は、式内社の「論社」「比定社」とされています。



明治にいきなり


今日からうちが「式内社多和神社!」と言い出した志度の多和神社。

ここも、「式内社多和神社」の論社のひとつではありますが、他と違うのは、「式内社である」とされている点。


ではなぜ、明治にいきなり式内社を名乗り、それが現在通じているのか。

幕末から明治にかけて、ここの宮司は松岡調(みつぎ)。

彼を調べると何やらにおう。


違うってば、狛ちゃん。


【背景、幕末の高松藩】

藩主は松平氏。

幕末期の動乱の中では親藩であり、藩主・松平 頼聰(よりとし)は徳川慶喜と縁戚関係にあり(従兄弟)、当初は佐幕派。

慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府方に就いたため、朝敵となりますが、結論から言えば、その後は、新政府にひたすら恭順。


【キーパーソン・松岡調】

まずは、松岡調の略歴(wikipediaより抜粋・引用)

高松藩藩士佐野正長の次男。

友安三冬(良介)から国学、中村尚輔から和歌、森良敬から絵画を学ぶ。

嘉永3年(1850)。多和神社社家の松岡寛房の養子となり、祀官に。
慶応2年(1866)。養父の後を継いで同社の神主となる。
明治2年(1869)。高松藩の藩校の皇学寮の教授に就任。

同年。高松藩の命により、新政府の神仏分離令を実施するための「讃岐国の寺社の実態調査」を行う
(※高松藩は「新政府にひたすら恭順」時代)

この結果、讃岐国内の神社の来歴などが明らかになる。

明治5年(1872)。金刀比羅宮の禰宜を兼務する。以降23年間、禰宜。

明治27年(1894)。従八位下。

明治28年(1895)。金刀比羅宮を巡る不祥事(日清戦争に際し、朝鮮半島や遼東半島に独自に神道布教を図った問題)に巻き込まれて金刀比羅宮禰宜を解任される。


(北海道の羅臼神社。明治28年に金刀比羅宮より分祀)


【松岡調が神社を調べる】

「尊王攘夷」を理念として成立した明治政府は、まず、「王政復古・祭政一致」を宣言。

その理念の裏づけとなった思想は「水戸学や後期国学や復古神道」ですから、「神社」の存在を重要視。


詳細は→→→「神仏分離の実施。法令で確認」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-444.html


既存の神社に対し、布告を出し、全国津々浦々の神社を社格制定の為に調べ上げます。

【太政官布告】 第七百七十九(布)太政官 (明治3年)閏10月28日 
今般国内大小神社之規則御定ニ相成候条於府藩縣左之箇条委細取調当12月限可差出事
 某国某郡某村鎮座
某社
 1.宮社間数 並大小ノ建物
 1.祭神並勧請年記 附社号改替等之事 但神仏旧号区別書入之事
 1.神位
 1.祭日 但年中数度有之候ハゝ其中大祭ヲ書□スヘシ
 1.社地間数 附地所古今沿革之事
 1.勅願所並ニ宸翰勅額之有無御撫物御玉?献上等之事
 1.社領現米高 所在之国郡村或ハ?米並神官家禄分配之別
 1.造営公私或ハ式年等之別
 1.摂社末社の事
 1.社中職名位階家筋世代 附近年社僧復飾等之別
 1.社中男女人員
 1.神官若シ他社兼勤有之ハ本社ニテハ某職他社ニテハ某職等の別
 1.一社管轄府藩縣之内数ヶ所ニ渉リ候別
 1.同管轄之庁迄距離里数


この一連の作業の中で、当然「式内社」の存在を調査。



松岡調が明治2年(1869)に高松藩の命により、新政府の神仏分離令を実施するための「讃岐国の寺社の実態調査」を行ったのは、この布告の事前調査でした。

よって、彼は讃岐国内の式内社に当時最も精通している人物であったのではないでしょうか。


【松岡調とこんぴらさん】

「金刀比羅宮」という神社は、皆様ご存じの、こんぴらさん。



しかし、ここは元々、真言宗の「象頭山松尾寺金光院」というお寺。
神仏習合で「象頭山金毘羅大権現」と呼ばれていました。


「金毘羅参詣名所図絵」金堂・多宝塔の文字が見えます。

江戸時代中期より盛んになった「こんぴらふねふね~♪」の「こんぴら信仰」は、この「象頭山金毘羅大権現」に対する信仰。

何があったのか。


よくできました~。

はい。明治の神仏分離・廃仏毀釈ですね。

お寺をクラッシュ、神社をビルド。


「金毘羅大権現」の「こんぴら」の音は長年親しまれています。

そこで、新しく作った神社の名は「金刀比羅宮」としたのでしょう。

しかしここに金毘羅大権現はおらず、祭神は、大物主神と崇徳天皇。



こんぴらさんの門前町として栄えた「那珂郡金毘羅村」は、
明治6年(1873)11月27日に、諸官省布達により「琴平村」と改称。

そこまでせんでも・・・。

こんぴらさんの神仏分離・廃仏毀釈のポイントは、別当職の僧宥常が還俗して「琴陵宥常」と改名し、「金刀比羅宮」の宮司となった点。


(画像:書写山園教寺の捨てられ朽ち果てた仏像)

詳細は省きますが、松岡調はこの真っ只中に禰宜に就任。

既存の「象頭山松尾寺金光院」を廃し「金刀比羅宮」という神社を新たに作り上げる時の、神社側の責任者です。

彼の立場を物語る象徴的な地位かと思います。


【集めに集めて多和文庫】

幼少より国学・和歌・絵画を学び、古典考証学や考古学に精通していた松岡調は、藩政時代に『讃岐国名勝図会』の製作に協力しています。


讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)の、ここ。


自分で「八幡宮」って書いとるがな。
(※「協力」だから知らないかもしれませんが・・・)

日本各地の典籍・書画・考古遺物の蒐集・調査、讃岐郷土史の研究に熱心だった松岡調。

著作に『古事記刪定』『古語拾遺刪定』『新撰姓氏録刪定』『国土考』『讃岐国官社考証』『新編讃岐国風土記(未完)』。

自身の日記である『年々日記』(文久4年(1864)~)が、「地方における廃仏毀釈・神道国教化の動きを知る」のに貴重であることは簡単に推察出来ますが、多和文庫は「一般には公開しておりません」(多和神社説明書)。

研究を待つ。


明治18年(1885)。自宅敷地に蔵「香木舎(かきのや)」を新築。


(随神門の向きが現況とは90度違います)

古文書、古写本、書画、文献、考古学上の発掘物など、五千点余に及ぶ資料が収蔵されています。

それが、「多和文庫」。

「東大寺写経文書」(天平勝宝6年(754)と天平宝字2年(758))と「讃岐国山田郡弘福寺領田図」は国の重文。

(その他に何があるかは、検索ください。)


今もお住まいなので画像はこれ。

明治28年(1895)。金刀比羅宮の禰宜を解任された松岡調ですが、

明治35年(1902)兵庫県の伊和神社(式内社)宮司
明治37年(1904)香川県の田村神社(式内社)宮司

を歴任しました。


志度の多和神社。

これほどの人物が宮司である志度の多和神社が、明治に「うちが式内社」と言えば、例え数百年来「式内社多和神社」と称されていようとも裏付けとなる史料に乏しければ、強く反論出来なかったでしょうね。



いつも応援いただきありがとうございます。
養子に入った負い目でもあったのでしょうか。自身が宮司である志度の多和八幡宮を式内社としたことは。自力で培った知識を生かした著作の数々、熱心に集めた膨大な諸資料、どれをとっても貴重なもので、松岡調の生涯に渡る努力の結果だと思います。しかし、いきなり「式内社」とするには無理がありました。次記事に、つづく。

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「式内社」て何。讃岐国式内社の多和神社、行方不明

こんにちは。


志度の多和神社。


今日は式内社のお話から。


【『式内社』(しきないしゃ)】

「延喜式」の神名帳(官社を記載登録した名簿)にその名が記載されている神社。2861社。

特に由緒のある神社とされ、毎年の祈年祭に幣帛が供えられ、災害や全国的な疫病蔓延などに際しては公の祈願が行われました。


【「延喜式」とは】

905年(延喜5年)。醍醐天皇の命により藤原時平・藤原忠平等が編纂に当たった格式(律令の施行細則)。全50巻。

927年(延長5年)に完成、967年(康保4年)より施行。

巻8に祝詞を掲載。巻9・10は神名帳(神社の一覧表)となっており、祈年祭で奉幣を受ける2861社の神社が記載される。


延喜式撰修前後に「存在していた」神社。ここ、ポイント。


藤原時平・忠平兄弟が編纂に当たったので、中臣氏(※藤原氏)と共に宮中祭祀を掌ってきた忌部氏の裔・忌部広成が「官社は中臣氏が欲しいままに選定した」(『古語拾遺』)と、愚痴っています。


藤原時平イメージ。


式内社は、官社制の形骸化と共に中世には実態が失われました。

しかし、名称自体は、千年以上の歴史と伝統を持つ古い神社であることを示す社格の一種として残ります。


【式内社の多和神社】

讃岐国式内社二十四座の寒川郡の一座として、「多和神社」は延喜式神名帳に登載されています。

「『三代実録』元慶元年(877)3月4日の条」に「讃岐国従五位下多和神社に従五位上を授く」とあるので、それ以前に既に「従五位」の官社ではありました。

しかし、その後は国史に登場することはなく。

延喜7年(907)から乾元元年(1302)までの400年間に5回(延喜7・治暦4・治承2・弘長2・乾元元)遷宮が行われた(『長尾宝蔵院古暦記』)記録はあるものの、鎮座地は不明。


つまり、延喜式が完成した延長5年(927)当時は、讃岐国に「多和神社」が存在していたものの。

他の多くの式内社と同様に以降は、行方不明になったのでした。



現在、「式内社多和神社」は、さぬき市の中で、志度の多和神社、前山の多和神社、鶴羽の鶴羽神社、鶴羽の大森神社の四社が「論社」となっています。


【前山の多和神社】


讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)


『讃岐国名勝図絵』には、「延喜式内社」の記載。


「当社ははじめ未詳。この辺りを大田尾と称するため、『多和の音に似ているところから』大田尾神社(明神社)を修理して多和神社と唱えた。
旧社地は川向かい二十丁にあったのを移した。
祭神は、大己貴命。」



前身は大田尾神社という明神社であったものを、「大田尾」と「多和」の音が似ているから「多和神社」にした、のですねー。

ただ、「前山の多和神社」は、『玉藻集』『三代物語』『新撰玉藻集』『讃岐国名勝図絵』『生駒記』などの郷土史には全て「式内社」として記載。

少なくとも江戸時代以前から、「式内社の多和神社は前山に鎮座」の認識があり。




しかし、明治になって、いきなり志度の多和八幡宮が式内社だと主張し始め、それが認められてしまいます。


讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)の志度の多和八幡宮。


「延喜式内社」の記載はなく、ただ「八幡宮」と記されているけれど。


前山の多和神社では、それに反論するだけの江戸時代以前の式内社の根拠となる史料に乏しかったのでしょうね。

が、志度の多和神社でもそれは同じ。

つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。
昨日の大河「真田丸」で、信繁義兄のヒゲの濃い~ぃ小山田信誠くんが、縁側で妻とお揃いのポプリをにこにこしながら作って、しかもそれを握りしめて幸せそうに寝てましたねー。信長も光秀もぜんぶぶっ飛んでしまいました。ポプリ・・・ポプリ・・・。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

石の祠がいっぱい。多和八幡宮が式内社多和神社に変身

こんにちは。

讃岐の多和神社(志度)。


振り返れば海が見える素敵な場所。


ですが、おばはんには辛い。


狛ちゃんに笑われつつ、中へ。


ちょっと失礼。


あら。珍しくかわいい神馬さんです。


さあて。どっこいしょ。


参道の石段の途中に並ぶ石の祠。


土に埋もれかけてお気の毒です。


ずらーり。


無人ならいいのですが。


こちらは、別格なのかなー。


裏には池のようなものが。


これも別格なのかな。摂社かな。


こちらは大きな石の祠。


振り返ると、素敵な参道。


当地には、元々、連岳神社という小祠がありました。
祭神は大山咋命。

境内社「連岳神社」として残ります。

「連岳神社今在二寒川郡一在二多和神社域内一称二山。王権現一旧号連岳明神蓋是 」(『大日本史神祇志』)


そこへ、兵火に罹災(文明11年(1479))した志度寺から遷座。

時期は諸説あり。

①元和9年(1623)。by 志度寺住職圓養。
②寛永21年(1644)。by 高松藩主・松平賴重。志度寺造営時。

志度寺からここへ遷座した当時は、「多和八幡宮」と称していました。



讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)のここ。


讃岐国名勝図絵にも「八幡宮」と記されています。


多和神社の拝殿。


祭神:速秋津姫命

①「社伝では、『神代のむかし、速秋津姫命が多和の郷に来たりまして、この水門は潮いと深くして我が心澄みと宣い、とどまり給う。去るに及んで土人大久支、子久支、古老に真澄の鏡を授け給いて、これを我が御魂と取り託して多和の水門を祓戸と定め、国人ここに集いて祓いせば、犯せる罪もおのずから失わせむ。また朝夕に沖行く五百船、千船を守らむと宣いき。ここにその御鏡を御霊代として多和大神と鎮めましき。』とあり、祓いの神として現在に至っています。」(現地説明板より)


速秋津姫命(はやあきつきひのみこと)は、

『古事記』では速秋津比古神・速秋津比売神。

イザナギ・イザナミから生まれた男女一対の神で、にこいちで「水戸(みなと)神」と称されます。

「水戸(みなと)神」はその名の通り、港(古代では河口)の神。

川に穢(けがれ)を流す意味から、祓除の神ともされますから、社伝はまるで教科書のような、よーでけたお話です。



さあ?どうでしょう。


【相殿の祭神】大鞆和氣命 帶仲津彦命 天照大日孁命 息長帶姫命 大雀命 倭武尊

②「相殿については、寛平元年己酉(889)冬12月に、大祝正六位讃岐朝臣春雄が神明の託宣によって前記六柱の神を勧請して多和八幡宮と称え、産土神として尊崇してきました。」(現地説明板より)


以上①②の由緒は、『讃岐國官社考證』に記されています。


ところが、だ。




明治になって、いきなり多和八幡宮は、



讃岐国式内社二十四座のひとつ、「式内社多和神社」を名乗るのです。

「式内社の多和神社」は、当時、前山に鎮座する多和神社でした。


讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)の多和神社(前山)


はっきりと「延喜式内社」と明記されています。

今、私がいる「多和神社(志度)」とは場所も姿も異なります。


当時の宮司は、松岡調(しらべ)

高松藩藩士の次男として生まれ、国学等を学び、多和神社社家である松岡寛房の養子となり、多和神社の祀官から神主となった人物。

明治2年(1869)、高松藩の命により新政府の神仏分離令を実施するために讃岐国の寺社の実態調査を実施。

明治5年(1872)、金刀比羅宮の禰宜を兼務。

そして、多和神社の由緒を記した『讃岐國官社考證』の著者。


何やらきなくさいですねー。


狛ちゃん、ちがうから、それ。


つづく


いつも応援いただきありがとうございます。
様々な形の石の祠を見ることができて、面白いです。単純に屋根と壁だけのものもあり、柱や屋根の造りが精巧なものもあり。ひとつひとつ見るフリをして、こっそり休んでいたのは、内緒です。へへへ。

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多和神社(志度)の狛犬ちゃん

こんにちは。


志度寺から車で数分。

かつて志度寺境内に鎮座していたという多和神社へ向かいます。


階段。

ふぅー。


ぜーはー。


志度寺からも見ていた海。


きっとあの車は階段を上ることができるのねっ。


かわいい~って言おうと思ったけど、やーめた。


しつれいせんばん。


何かしら。


うんうん。


面白い形のしっぽ。

さすが海の近くの狛ちゃん(違)。


うふふふ。やっぱり、かわいい。


あれ?


可哀想に、お耳が取れて足元に置かれています。

で、お知らせって何でしょう?


あ、そ。


ご立派な門です。

志度寺から遷座した経緯には二説あります。

①文明11年(1479)。兵火に罹災。元和9年(1623)志度寺住職圓養によって遷座。

②寛永21年(1644)。志度寺造営の際に高松藩主・松平賴重によって遷座。

当地には、元々、連岳神社という小祠があったとのこと。


門をくぐって右折して見た光景。


教えてください。


いつも応援いただきありがとうございます。
石段をよいしょよいしょと登った先で車を見つけると、一気に落ち込みますねー。狭い道が通っているようでした。くそぉ。こちらの狛犬さん、体の大きさに比べ、お座りしている場所が広々としていて、なんとも優雅な子達です。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

平賀源内の墓所と志度寺

こんにちは。


屋根のお魚。ぴーんちっ。


お魚の逆襲。


四国八十八箇所霊場の第八十六番札所、志度寺。

お遍路さんが大勢お参りされていました。


讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)の志度寺。


名勝図絵には、細かい描写があって、生き生きとしています。

この、お掃除なう、の人がいるお寺は自性院(じしょういん)。

志度寺の元・御影堂(大師堂)跡地で、天正年間に志度寺の塔頭として開基されたお寺。

ここには、


「平賀源内の墓」があります。

平賀源内は、ここ、志度が生まれ故郷。

志度にある平賀源内記念館では、源内の遺品や杉田玄白との書簡等が展示されています。

讃岐国寒川郡志度浦の白石家の三男として生まれた平賀源内。

「白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)。

『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文5年(1536)11月に平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされ、奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。

源内の代で姓を白石から先祖の姓の平賀に改めている。」(wikipediaより)

エレキテルを修理してみせたり、鉱山開発したり、浄瑠璃を作ったり、多方面で活躍した平賀源内。

東京の総泉寺の移転前の台東区橋場の敷地に墓所がありますが、こちら讃岐の志度の自性院はもともと平賀家の菩提寺。


源内の義弟が建てたと伝わります。


向かって右側が自性院。

さて、そろそろ帰ろうかなーっと駐車場へ向かう途中。


片隅に、鳥居。


ぼく、鳥居。ひゃくすうじゅっちゃい。


名勝図絵にも描かれている弁天社でした。


今は拝殿とおぼしき建物はなく、お社とそれを囲む池が残ります。


だいじょーぶ。お正月のお飾り、ちゃんとあるよー。

あ、もう一度お参りしとこー。


海士の墓。


帰りに見たら、顔出ししたくなりました。ほほほ。


志度寺に憧れ続けること四半世紀。

やっとお参りすることができました。

嬉しいなー。


志度寺の横には、海。

満足満足。おしまい。


志度寺
《住所》香川県さぬき市志度1102



ふたつ西側の駅は、「房前」なりぃ~★


いつも応援いただきありがとうございます。
能楽「海士」の玉之段に憧れたことから舞台となった志度寺にも憧れ。まんぞくぅ~(*^_^*)な心地で海を眺めて、しばらく放心。海はいいなぁ。あ、おへそが出てるような山は五剣山です。第八十五番札所の五剣山八栗寺があるところで、その向こうは屋島。
海を眺めて腑抜けになって、体が冷えきったところで、次の神社へ向かいました。ぶるるる。

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志度寺の由緒と、謎の石像集団

こんにちは。


四国八十八箇所霊場の第八十六番札所、志度寺。

詳名は補陀洛山清浄光院志度寺。
本尊は十一面観音。


寺伝では。

開創は、推古天皇33年(625)。

志度浦にたどり着いた霊木。



凡園子尼(おおしそのこに)がこの霊木で、十一面観音像(本尊)を彫り、精舎を建てたのが始まりとされます。

ちなみに。

推古天皇3年(595年)には、淡路島に大きな流木が漂着。


島の人が知らずに薪と共に竈で炊いたら、遠くまで良い香りを漂い。

推古天皇へ献上し、仏像となりました。

この辺りの海流には、素敵な木がどんぶらこっこしているのかしら。

さて志度寺。



龍王にとられた「面向不背の珠」を探して志度浦に来たのは、藤原不比等。

海人との間に、房前が誕生。



珠を取り戻したら我が子房前を不比等の後継者・大臣にすると不比等と約束し、命を捨ててそれを果たした海人の伝承。

ただの伝承かと思いきや、不比等・房前親子が志度寺に関わります。



天武天皇10年(681)。
藤原不比等、海士の墓を建立し、堂宇を増築。

「志度道場」と名付けます。


「学問の」道場です。

持統天皇7年(693)。
房前が、行基とともに堂宇を拡張。

母の供養の為に千基の石塔を建立。


海士の墓と法華経石塔。

その後繁栄するも、藤原氏の衰退と共に寺力は減退。
また、度重なる戦禍にも遭遇。

文禄4年(1595)に讃岐国17万1,800石で入封した生駒親正の支援を得て少し回復。

志度寺の説明板では、「『藤原氏末裔』生駒親正」とあり。


境内墓所に、「生駒親正の墓」があります。

生駒親正の墓所は他に、高松市の弘憲寺、京都市の妙心寺塔頭玉龍院。


本堂と太子堂。

仁王門と併せて国の重文。


太子堂の木鼻の龍さん。でかい。


たくますぃ~上半身です。


讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)の志度寺。

現在もほぼこの図絵の伽藍配置です。

ただ、ですな。植栽が多くて森のようになっていたり、「工事中」でごちゃっとしてまして。


調べてみたら、どうも「工事中」が長く続いているようで。

少しずつ直しているのかな。お寺の維持もたいへん。


本堂には十一面観音様。


あれ?


なんといっていいのやら。


この方々はここにいて正解なのか、工事完了待ちなのか。


一人ずつ姿の違う、きれいな像です。


なんだろうなぁ。

皆で説法を聞いている光景、を表しているのかどうなのか。

ちょいともやもやした気分なのでした。


志度寺
《住所》香川県さぬき市志度1102



ふたつ西側の駅は、「房前」なりぃ~★



いつも応援いただきありがとうございます。
曲水式庭園(室町時代。四国管領の細川氏による造営)も荒れ気味でして。四国八十八箇所霊場のお寺でも、維持していくのは大変なんでしょうね。お寺の方の苦労は予想以上なんだろうなぁと余計なお世話な事を考えながらお参りしました。

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南海目指す補陀落渡海と四国。志度寺の山号「補陀落山」

こんにちは。



珠を取り戻したら我が子房前を不比等の後継者・大臣にすると不比等と約束し、命を捨ててそれを果たした海人の伝承は能楽「海士」で描かれます。

志度寺の海人伝承その1。能楽「海士」

hhtp://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-710.html


その海人の墓と、房前が長じて後に納めた千基の石塔(一部)が志度寺にあります

それがこちら。


・・・なんだこりゃ。


お参りもできねぇ。

隙間から失礼しまして。


中央が海人の墓、左右が法華経を納めた石塔。

画像では小さく感じますが、高さは160cm以上かと。威圧感。

左右の法華経を納めた石塔、たぶん、体操座りしたら、私、入れます。


経筒って土に埋めるんじゃないのかと思いつつ、初めて見る石塔群にぞわぞわわくわく。

しかし、林立する枕木のような無粋な棒のせいで、とおーーーーーい。

海人の墓と石塔群に会いたくてはるばる来たのになーっと、うろうろ。

てへ。


裏へ回ったら、お参り可能。


千基も石塔が並んでいる様は、さぞかし異世界のようだったでしょうね。

駐車場から入ったらお寺の横っちょだったので、まずは正面へ。


四国八十八ヶ所霊場の第八十六番札所、志度寺。


仁王門。

寛文10年(1671)12月20日上棟の仁王門は、讃岐高松藩・松平家初代の松平頼重の再建。

でぇだらぼっちが履くかの如き大きなわらじがかかっています。


伝・運慶作の仁王様。


香川県指定の重文にすぎないのは、運慶作の裏付けがないからかな。

惜しい。


補陀洛山?おおお。懐かしい。

覚えておいででしょかー?

ふだらく、といえば、補陀洛渡海。


【補陀洛渡海、ちょっと復習】

「補陀洛渡海」といえば、


これ。補陀洛渡海に用いたお船(復元)。

主な出発地は、


和歌山県那智勝浦町の補陀洛山寺。

山号は白華山。本尊は十一面千手観音。天台宗。


【ふだらくとかいって、何だー?】



観音菩薩のいる浄土である「補陀洛」を目指し、小船にのり大海に身を預ける捨身行が補陀洛渡海。


【ふだらくって、どこだー?】

こんなとこ。


滋賀県彦根市の龍澤寺「ふだらくの庭」

「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住む浄土のこと。(wikipediaより)


(龍澤寺「ふだらくの庭」)

「中央の島が補陀落山、一番中央の石が観音様の立姿、その右横の船の形をした石が僧侶慧萼が渡った船(現実世界と仏の世界の渡し船)、白砂は大海、砂紋はさざ波、奥の杉垣が水平線、さらに奥の生垣が雲海を表す石庭」(龍澤寺「ふだらくの庭」パンフより抜粋・引用)

この南海の彼方の補陀落を目指して船出するのが「補陀落渡海」。



「熊野那智参詣曼陀羅」(16世紀頃)に描かれた補陀洛渡海へ出航する光景。


那智の浜からの補陀落渡海は、平安前期の868年/貞観10年の慶龍上人から江戸中期の1722年/亨保7年の宥照上人まで25人。

平安時代に5人。鎌倉時代に1人。室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)。安土桃山時代に1人。江戸時代に6人。



補陀落渡海の名のもと、入水するためこの那智勝浦の海へ出たのは、

平維盛。


太刀を落としました。


確かに、那智勝浦からならば、南の海は近い。


【補陀落渡海と四国】

ここ、四国にも補陀落渡海を行ったとされる霊場が複数あります。

室戸岬と足摺岬です。



室戸には二十四番最御崎寺、足摺には三十八番金剛福寺があり、両寺とも「補陀落東門」と呼ばれ、補陀落浄土への入口とされているとか。

いずれも那智勝浦の補陀落渡山寺のように、南へひらけた海に面しています。


例えば高知の足摺岬。

「あやしくて忍びて見送るに、岬に至りぬ。一葉の舟に棹さして、南をさして行く。坊主泣く泣く、『われを捨てていづくへ行くぞ』といふ。小法師、『補陀落(ふだらく)世界へまかりぬ』と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて、舟の艫舳(ともへ)に立ちたり。心憂く悲しくて、泣く泣く足摺りをしたりけるより、足摺の岬といふなり。岩に足跡とどまるといへども、坊主はむなしく歸りぬ。」(『とはずがたり』久我雅忠女/南北朝期)


弟子の小法師が師の坊主に先だって補陀落浄土へ渡海することになり、二人の小法師を見送る師の坊主が泣き悲しんで足摺りをした。
そのためこの地を足摺岬と呼ぶようになった、と。


山号に「補陀落山」の号が付くのは、ここ、八十六番志度寺と八十七番長尾寺。

いずれも海辺のお寺。


讃岐国名勝図絵(※嘉永7 《1854》年刊)の志度寺。

境内のすぐそばまで、海。


海人の墓も、仁王門も、この図絵の位置にありました。


お絵描きの背景に使った景色は、志度寺の目の前の海。


(道の駅那智のジオラマ/補陀落渡山寺からの渡海)

志度寺の目の前の海からもこのように旅立っていったのかなぁ。

外海に面し荒々しい熊野の太平洋と、のーんびりした趣の志度寺前の海をついつい見比べてしまいました。


次回。さすがのあたくしもこりゃ困った、の巻。

つづく。


志度寺
《住所》香川県さぬき市志度1102



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あー、でぇだらぼっち、って、浜乙女って海苔のCMで見慣れた名古屋ローカルなのかも。全国的には、だいだらぼっち。池や山を作った巨人です。
熊野古道も四国八十八ヶ所霊場も、巡礼の道。根底にある信仰については長くなるので省きますが、現地に残る伝承や史跡について追えば追うほど頭脳は混乱、感覚は「すげー!行きたーい!」。しかし、室戸岬も足摺岬も、大阪からは(も?)近くてとおーーーーい土地なのです。十数年前まではフェリーがあったんですが、廃止。下道で室戸岬と足摺岬なんて、気絶しそうです。

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乳の下をかき切り珠を押し籠めた房前の母。仕舞「玉之段」

こんにちは。


志度寺に残る海女の墓所と、法華経を納めた石塔。

周囲には息子房前が納めた千基の石塔の一部。



志度寺。ここは、能「海士」の舞台。


【能楽「海士」みどころ】

この曲は、世阿弥以前の時代からある古作の能です。


頭上に上げた手の扇を、ことん、と倒す所作。

これだけで「神はあがらせ給ふ」や「我ながら浅ましや」とか「首を落とし」を表現するほど、余計な所作を省く「世阿弥の能」。

この形が完成するより以前の「大和猿楽」は、まだ庶民の中にあり、より分かりやすく「写実的な演出」が特徴でした。

この「写実的な演出」が「玉之段」に残っており、能「海士」の一番のみどころです。


《謡の言葉》

下記では緑色の文字が詞章ですが、シテの激しい動きを語るため、非常に言葉が詰まっていることがわかります。

どれくらい詰まっているかというと。

「筒井筒 井筒にかけし まろがたけ」と「南無や志渡寺の観音薩唾の力を合はせて賜び給え」を比べてみます。

手を10回たたく間に。(○は半拍)


○つーつーいーぃーづぅーつーうーぅぅ。つー(ついづつ)
○なむやしどじのかんのんさったのちからをあ(わせて)


なまむぎなまごめなまたまご、です。





【「玉之段」詞章と所作】

不比等が龍王にとられた「面向不背の珠」



これを取り返せば我が子房前を大臣にする、との不比等の約束を信じ、海人は海の底の龍宮へ。


その時人々力を添へ。引き上げ給へと約束し。
ひとつの利剱(りけん)を抜き持って。

かの海底に飛び入れば。空はひとつに雲の濤(なみ)。
烟(けむり)の浪をしのぎつつ。海(かい)漫々と分け入りて。
直下と見れども底もなく。ほとりも知らぬ海底に。
そも神変はいさ知らず。取り得んことは不定なり。



合図があったら引き上げてね、と約束し。
ひとつの利剱を抜き持ち、海人は深い深い海の底へ潜ります。


かくて。龍宮に到りて。宮中を見ればその高さ。
三十丈の玉塔に。かの珠を籠め置き。
香花(こうげ)を供え守護神は。
八龍なみ居たり。その外(ほか)悪魚(あくぎょ)鰐(わに)の口。




ようやくたどり着いた龍宮。


何を見た。

「面向不背の珠」の周りには八大龍王や、コワモテの魚、サメ(鰐/わに)等が厳重な警戒体制を敷いていたのです。




逃れ難しやわが命。さすが恩愛の故郷の方ぞ悲しき。
あの波の彼方にぞ。我が子はあるらん。父大臣もおはすらん。
さるにてもこのままに。
別れ果てなん悲しさよと涙ぐみて立ちしが。



とても生きては帰れまいと覚悟を決めるものの、ふと胸に浮かぶのは、不比等や我が子房前と別れる悲しみ。



しかし、いつまでも悲しんでばかりはいられません。


また思い切りて。手をあはせ。
南無や志渡寺の観音薩唾(さった)の力を合はせて賜び給えとて。
大悲の利剱(りけん)を額に当て龍宮の中に飛び入れば。





思いきりをつけ、手を合わせて海人は、
「南無や志渡寺の観音薩唾の力を合はせて賜び給え」と唱え、
「面向不背の珠」のある龍宮へ飛び込みます。

驚いて四方へ散らばる龍王やコワモテの海の生き物たち@龍宮


左右(そう)へばっとぞ退いたりけるその隙(ひま)に。
宝珠を盗みとって。逃げんとすれば。
守護神追っかく かねて企みし事なれば。
持ちたる劍(つるぎ)をとり直し。
乳の下をかき切り珠を押し籠め剱を捨ててぞ伏したりける
龍宮の習ひに死人を忌めば。あたりに近づく悪龍なし。




シテの動きは詞章に合致。

※実際に珠を持つことはなく、あるように所作します。


「面向不背の珠」を守護していた八大龍王達が追いかけてきて。

海人、ぴーんちっ。

そこで。


乳の下を剱でかき切り、


「面向不背の珠」を体の中へ押し籠めて、

死んだふり。



死人を忌む習わしの龍宮。誰も近付きません。


そこで縄を動かすと約束通り、海上の人々が引き上げました。


ここまでが、「玉之段」。

この後は

かくて浮かみは出でたれども。悪龍の業と見えて。
五體(ごたい)もつづかず朱(あけ)になりたり。
珠も徒(いたづら)になり。主も空しくなりにけるよと。


浮かび出たのは海人の血だらけの体。
嘆く不比等に、海人は苦しい息の下で「乳の辺りを見て」と伝えます。


我が乳の辺りを御覧ぜとあり。
げにも剱の当たりたる痕あり。
その中より光明赫奕(こうみょうかくやく)たる珠を取り出す。


血で朱に染まった海人の体の中にあったのは、光り輝く珠。
海人は我が子の為に命を捧げたのでした。



能楽「海士」のお話、おしまい。



参考文献
観世流大成版『海士』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


マニアックな記事に応援いただきありがとうございます。
この「玉之段」を舞台にあげるお許しが出るのは、幾年もお稽古してから。いつやらせてもらえるのかなー?っという憧れが、この伝承の地である志度寺への憧れに繋がっておりました。動きが多いと無機質なロボットがチャカポコと走り回るだけのようになるので、「ちゃう!」っと師匠の 罵声 指導の声がぶっ飛び。丁寧にやると「しつこい!」・・・頭がまっちろです。玉之段は謡も難しくて。早口だからと字面だけなぞってしまえば「走っとる!あっほー!」と叱られます。悔し涙で号泣です。くそぉ。

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苦心惨憺艱難辛苦のわたくしにぽちぽちぽち、ありがとうございます。

藤原房前母、珠を奪いに龍宮へ。能「海士」と法華経と志度寺

こんにちは。


四国八十六番「志度寺」。

ここ、ずっと来たかったのー。

とってもとっても見たいものがありまして。

それがこちら。




・・・あいーん。


気を取り直して。


奈良の栄山寺は、藤原不比等の長男・武智麻呂のお寺。


讃岐の志度寺は次男・房前に所縁のお寺。


潮騒の音が聞こえるほど、海の近くの

志度寺に残るのは、房前と「海女」の悲しい伝承。

それが、能楽「海士(あま)」。


【能楽「海士」あらすじ】


奈良時代。藤原房前(13歳)が母が亡くなった讃州志度浦を訪れる。

一人の海人(シテ)が現れ、「房前は藤原不比等がこの浦の賤しい海人と契ってできた子である」と話し出す。

房前は母の事を知らず、家臣に尋ねても
「母君は讃州志度浦のあまっ、あまり申せば畏れ多い」と誤魔化されていた。



唐の妃となった不比等の妹。唐の高宗皇帝から興福寺に三つの宝物が贈られた。そのうちのひとつに「面向不背の珠」(釈迦の像が必ず正面にみえる不思議な宝珠)がある。


ちゃう。

が、不比等、珠を竜王に取られる。


ちっがーう。

不比等は志度へ来たものの、取り返せず海人と契る(こら)。
この時出来たのが、房前。



房前の母は不比等から約束をとりつける。

「珠を取り戻したら、この子を世継ぎとする」と。

彼女は、決意する。


「さては我が子ゆえに捨てん命。露ほども惜しからじ」と。




海人は、房前の母が、命と引き替えに海へ潜って取り返した様子(「玉之段」)を動きを交えて語り、「自分こそその母の霊である」ことを明かして姿を消す。


房前は、海人の残した手紙を見る。


披きて見れば魂黄壌に去って十三年。
骸(かばね)を白砂に埋んで日月の算を経。
冥路昏昏(めいろこんこん)たり。
我をとむらふ人なし。
君孝行たらば我が冥闇(めいあん)を濟(たす)けよ。



母の手紙には、「死後十三年が経っても弔う人がない。苦しい。助けて下さい。」とあった。

房前が母のために供養の法華経をよみ始めると、龍女に変身した母の霊(後シテ)が現れる。



母の霊は、法華経の功徳によって救われたことを喜び、舞う(早舞)。

龍女成仏 さてこそ讃州志度寺と号し。
毎年八講。朝暮の勤行。仏法繁昌の霊地となるも。この孝養と承る。


龍女は成仏した。

こうして「讃州志度寺」と号し、毎年の法華経読誦の法要や朝夕の勤行をする仏教の盛んな霊地となるのは、房前の親孝行のおかげなのだ、

と伝え、舞い納め、能は終わります。




さて。房前がよんだ法華経の詞章。

五逆の達多(だった)は天王記別を蒙り(こおむり)。
八歳の龍女は南方無垢世界生に生を受くる。
なほなほ転読し給ふべし。

深達罪福相(じんだつざいふくそう)
偏照於十方(へんじょうごじっぽう)
微妙浄法身(みみょうじょうほっしん)
具相三十二(ぐそうさんじゅうに)
以八十種好(いはちじゅっしゅこう)
用荘厳法身(ようしょうごんほっしん)
天人所載仰(てんにんしょたいごう)
龍神咸恭敬(りゅうじんげんくきょう)




がまんがまん。

これを無本で謡う身にもなってください。死ぬ。


で、これは『妙法蓮華経 提婆達多品(だいばだったほん)第十二』。

龍王の娘が世尊と多宝如来の前に忽然と現れて礼拝し、詩歌をもって仏を讃えます。

いわく、

如来は深く罪福の相を達して遍く十方を照らす。
微妙(みみょう)の淨き法身、三十二相・八十種好を以て荘厳せり。
天・人の載仰する所、龍神も咸く恭敬し一切衆生の宗奉せざる者なし。



うんうん、それでいいのよー。


これは、「法華の教えの功徳」によって、八大龍王である沙伽羅(しゃから)龍王の八歳の娘(蛇身)が、『畜生+女人の身』でありながらその場で成仏し、南方無垢世界へと飛び去った、という部分。

なぜ詞章において、くどくどと法華経を述べるかというと。

この経典の記述を受けて、本作のシテも、法華経の力によって竜女の姿となり、そして成仏する存在なのだった、と描こうとしているわけです。

『畜生+女人の身』でありながら、成仏した、と。そゆこと。




母が命がけで「面向不背の珠」を取り返したことで、約束通り、房前は不比等の後継者、大臣になることが出来ました。



房前は千基の石塔を志度寺に建て、母の菩提を弔います。

それが


志度寺に残る海女の墓と伝わる五輪塔(中央)と石塔群。

左右のでっかいものは、法華経塔。
この中に法華経が納められているとか。



房前が建てた石塔群と海女の墓に会いたくて、讃岐への旅に出たわたくし。

ああ、こうして記事にすることができて、幸せ。

しあわせしあわせしあわせ・・・(*^_^*)



たとえこんな変なことになっていようともっ!!

・・・あいーん(T_T)


次回。乳の下をかき切る房前の母の巻。つづく。


志度寺
《住所》香川県さぬき市志度1102



ふたつ西側の駅は、「房前」なりぃ~★


参考文献
観世流大成版『海士』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。お稽古を始めると謡の詞章に出てくる土地を訪ねたくなるもので。京阪神なら何とか学生でも行けますが、四国となるとちょいと大人の世界。お稽古を始めて四半世紀。やーーーーっと憧れの志度寺に、しかも自分の愛車(←大事)で行けたので、とってもとっても嬉しかったです。不比等のヘタレっぷりも素敵で、きゃっほーい♪なのです。
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