無理を通せば由緒がぐだぐだ。志度の多和神社最終回
こんにちは。

志度の多和神社。

今日は多和神社の由緒書きから見てみます。

《① 創建》
祭神:速秋津姫命
「社伝では、『神代のむかし、速秋津姫命が多和の郷に来たりまして、この水門は潮いと深くして我が心澄みと宣い、とどまり給う。去るに及んで土人大久支、子久支、古老に真澄の鏡を授け給いて、これを我が御魂と取り託して多和の水門を祓戸と定め、国人ここに集いて祓いせば、犯せる罪もおのずから失わせむ。また朝夕に沖行く五百船、千船を守らむと宣いき。ここにその御鏡を御霊代として多和大神と鎮めましき。』とあり、祓いの神として現在に至っています。」
これは、『讃岐國官社考證』の「神代に速秋津姫尊、多和鄕の渚に來まして、此水門は、甚深くて、よき須美戸なりと宣ひて、鎭座るを、後世に、鄕名を以て、多和神社と稱奉りて」の部分。
『讃岐國官社考證』の著者は、ここ、志度の多和神社の宮司・松岡調(みつぎ)(幕末~明治)。

《② 延喜式内社》
【相殿の祭神】大鞆和氣命 帶仲津彦命 天照大日孁命 息長帶姫命 大雀命 倭武尊
「相殿については、寛平元年己酉(八八九)冬十二月に、大祝正六位讃岐朝臣春雄が神明の託宣によって前記六柱の神を勧請して多和八幡宮と称え、産土神として尊崇してきました。延喜式内社であり、元慶元年(八七七)には従五位のうえに叙せられました。」
これは、「『三代実録』元慶元年(877)3月4日の条」の、
「讃岐国従五位下多和神社に従五位上を授く」などを引用。
「讃岐国式内社二十四座」の中の「寒川郡一座・多和神社」の説明です。
《③ 遷座の経緯》
「当時の鎮座地は現在の志度寺の境内にありまして、社頭は志度寺伽藍とともに度々の荒廃があり、殊に戦国時代の文明十一年(一四七九)の兵火かかってからは小社でありましたが慶長十九年(一六一四)に当時の領主である生駒近矩により再興され、社頭も寄進されました。
寛文十一年(一六七一)六月に当時の讃岐国高松藩主松平頼重が志度寺再興に際しまして、今の鎮座地に社殿を新営いたしまして遷宮されたのが現在の本殿であります。」
これは、志度寺から遷座してきた「多和八幡宮」の由緒。
式内社多和神社のものではありません。
《④ なんのこと?》
「その後、明治にいたっては郷社讃岐三ノ宮として広くあがめられています。」
讃岐国の一宮は、田村神社(式内社)。
二宮は、大水上神社(式内社)。
三宮以下は不詳。
「一宮」の成立時期については諸説ありますが、少なくとも明治ではありません。
《まとめ》
①創建の説明をするものの、出典は当社の宮司である松岡調の著書。
②式内社多和神社の話
③当社の前身である多和八幡宮の話
④格付け?
以上の如く、当社を「式内社であり三宮である」とするための切り貼りした由緒書となってしまっています。
これがなければ、「志度寺から来たお社なのねー」と素直に思えるものを。ざんねん。

式内社だけが神社ではありません。

延喜式制定時に、鎮座していただけの話。
その後行方不明になった神社は数知れず。

本殿に向かう参道と枝分かれする小道の先の鳥居。

石の祠の集団。新しい。

本殿へ続く参道脇の石の祠とは趣が違います。
明治の神社合祀?

讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)
伽藍配置は随神門の向きを除けば今も同じ。

図絵にある御手洗池も、現存。
しかし、石の祠群は見当たりません。

重厚感のある社殿です。

奉献されている日本酒「金陵」
三百年以上に渡りこんぴらさんのご神酒を造っている西野金陵株式会社のお酒。
明治初期の多和神社の宮司・松岡調は、こんぴらさんの禰宜を兼任。

飲みたかったー(T_T)

悔しいなーと思いつつ、お詣り。

本殿にもたくさんのお酒。じゅるるるる。

さぁて。
かーえろ。

あああ、かわいい。またねー。

ここへお詣りして、松岡調という人物を知ることが出来ました。
讃岐の神社を巡るうちに、再会するかもしれないなー。
楽しみだなー。

海が見える神社っていいなー。
志度の多和神社、おしまい。
いつも応援いただきありがとうございます。
地味な画像ばかりですが、とてもきれいに掃き清められた清々しい神社でした。ご近所の方がのんびりとお散歩しながらお詣りするお社というよりは、背筋を伸ばして改まってお詣りするような神社という感じがしました。うふふ。私は狛犬さんがいれば、それだけで幸せ。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

志度の多和神社。

今日は多和神社の由緒書きから見てみます。

《① 創建》
祭神:速秋津姫命
「社伝では、『神代のむかし、速秋津姫命が多和の郷に来たりまして、この水門は潮いと深くして我が心澄みと宣い、とどまり給う。去るに及んで土人大久支、子久支、古老に真澄の鏡を授け給いて、これを我が御魂と取り託して多和の水門を祓戸と定め、国人ここに集いて祓いせば、犯せる罪もおのずから失わせむ。また朝夕に沖行く五百船、千船を守らむと宣いき。ここにその御鏡を御霊代として多和大神と鎮めましき。』とあり、祓いの神として現在に至っています。」
これは、『讃岐國官社考證』の「神代に速秋津姫尊、多和鄕の渚に來まして、此水門は、甚深くて、よき須美戸なりと宣ひて、鎭座るを、後世に、鄕名を以て、多和神社と稱奉りて」の部分。
『讃岐國官社考證』の著者は、ここ、志度の多和神社の宮司・松岡調(みつぎ)(幕末~明治)。

《② 延喜式内社》
【相殿の祭神】大鞆和氣命 帶仲津彦命 天照大日孁命 息長帶姫命 大雀命 倭武尊
「相殿については、寛平元年己酉(八八九)冬十二月に、大祝正六位讃岐朝臣春雄が神明の託宣によって前記六柱の神を勧請して多和八幡宮と称え、産土神として尊崇してきました。延喜式内社であり、元慶元年(八七七)には従五位のうえに叙せられました。」
これは、「『三代実録』元慶元年(877)3月4日の条」の、
「讃岐国従五位下多和神社に従五位上を授く」などを引用。
「讃岐国式内社二十四座」の中の「寒川郡一座・多和神社」の説明です。
《③ 遷座の経緯》
「当時の鎮座地は現在の志度寺の境内にありまして、社頭は志度寺伽藍とともに度々の荒廃があり、殊に戦国時代の文明十一年(一四七九)の兵火かかってからは小社でありましたが慶長十九年(一六一四)に当時の領主である生駒近矩により再興され、社頭も寄進されました。
寛文十一年(一六七一)六月に当時の讃岐国高松藩主松平頼重が志度寺再興に際しまして、今の鎮座地に社殿を新営いたしまして遷宮されたのが現在の本殿であります。」
これは、志度寺から遷座してきた「多和八幡宮」の由緒。
式内社多和神社のものではありません。
《④ なんのこと?》
「その後、明治にいたっては郷社讃岐三ノ宮として広くあがめられています。」
讃岐国の一宮は、田村神社(式内社)。
二宮は、大水上神社(式内社)。
三宮以下は不詳。
「一宮」の成立時期については諸説ありますが、少なくとも明治ではありません。
《まとめ》
①創建の説明をするものの、出典は当社の宮司である松岡調の著書。
②式内社多和神社の話
③当社の前身である多和八幡宮の話
④格付け?
以上の如く、当社を「式内社であり三宮である」とするための切り貼りした由緒書となってしまっています。
これがなければ、「志度寺から来たお社なのねー」と素直に思えるものを。ざんねん。

式内社だけが神社ではありません。

延喜式制定時に、鎮座していただけの話。
その後行方不明になった神社は数知れず。

本殿に向かう参道と枝分かれする小道の先の鳥居。

石の祠の集団。新しい。

本殿へ続く参道脇の石の祠とは趣が違います。
明治の神社合祀?

讃岐国名勝図絵(嘉永7 《1854》年刊)
伽藍配置は随神門の向きを除けば今も同じ。

図絵にある御手洗池も、現存。
しかし、石の祠群は見当たりません。

重厚感のある社殿です。

奉献されている日本酒「金陵」
三百年以上に渡りこんぴらさんのご神酒を造っている西野金陵株式会社のお酒。
明治初期の多和神社の宮司・松岡調は、こんぴらさんの禰宜を兼任。

飲みたかったー(T_T)

悔しいなーと思いつつ、お詣り。

本殿にもたくさんのお酒。じゅるるるる。

さぁて。
かーえろ。

あああ、かわいい。またねー。

ここへお詣りして、松岡調という人物を知ることが出来ました。
讃岐の神社を巡るうちに、再会するかもしれないなー。
楽しみだなー。

海が見える神社っていいなー。
志度の多和神社、おしまい。
いつも応援いただきありがとうございます。
地味な画像ばかりですが、とてもきれいに掃き清められた清々しい神社でした。ご近所の方がのんびりとお散歩しながらお詣りするお社というよりは、背筋を伸ばして改まってお詣りするような神社という感じがしました。うふふ。私は狛犬さんがいれば、それだけで幸せ。



ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。