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重文はもう充分。三井寺の唐院と観音堂まで

こんにちは。

三井寺にはなんと、広報僧なる人がいます。

その名は、べんべん。


頭には、弁慶の引き摺り鐘。

特技は、ほら貝を吹くこと。ぱぉ~。

さて。


毛利輝元が山口の国清寺から移築した一切経蔵を出て、参道へ戻ります。


「唐院」への入口。

開祖・智証大師円珍の廟所として最も神聖な場所。


右手に三重塔。

「唐院」は、三井寺の開祖・智証大師円珍が天安2年(858)、入唐求法によって請来した経典や 法具を、貞観10年(868)に内裏の仁寿殿を下賜されてそこに納め、 伝法潅頂の道場としたことに始まります。 (三井寺HPより引用)


唐院潅頂堂は、桃山時代の建築。重文。

大師堂と四脚門にはさまれて建ち、大師堂の拝殿としての役割を備えています。
伝法潅頂(密教の伝承)を行う場所。内部は前室と後室に分かれます。
(三井寺HPより引用)


地味・・・。

仁寿殿下賜の当時のまま、縁を廻らせ、蔀戸などをしつらえており、装飾の少ない堂です。 (三井寺HPより引用)


三重塔。重文。室町時代。

文禄3年(1597)。大和比曽寺の東塔を、豊臣秀吉が伏見城下に移築。
慶長6年(1601)。それを、徳川家康が伏見より三井寺へ移築。

一層目の須弥壇には、木造・釈迦三尊像が安置されています。
軒深く、三重の釣合よく、相輪の水煙などに中世仏塔の風格をよく伝えています。
(三井寺HPより引用)


三井寺の興味深い点は、秀吉により壊された後、各地の古刹より移築された建物を一度に見ることが出来ること。

この三重塔は、元は大和比曽寺(現・曹洞宗世尊寺)の東塔。


現・世尊寺の一帯は、国指定の史跡「比曽寺跡」。

吉野川の北側、南下すると吉野、の辺り。大淀町。


比曽寺は、推古天皇の頃に聖徳太子が草創したと寺伝。

境内から出土した瓦や現存する基礎石から、飛鳥時代に堂塔が建立、
奈良時代に東塔と西塔を構える薬師寺式伽藍が整備されたと推定されています。

当時は、法興寺(飛鳥寺)・四天王寺・法隆寺と共に「四大寺院」とされた程の寺院。

荒廃と再建を繰り返し、宝暦3年(1753)曹洞宗により再興、
「霊鷲山世尊寺」と改号し、伽藍が整い現在に至る。


比曽寺に納められた「十一面観音菩薩立像」は奈良時代の仏様。

「推古三年夏四月。沈水漂着於淡路嶋。其大一圍。嶋人不知沈水。以交薪約於竃。其烟気遠薫。」(『日本書紀』巻二十二)

595年に淡路島へ流れ着いた芳香を放つ香木から彫られたもの。


淡路島の漂着地には、枯木神社が鎮座しています。


枯木神社のご神体は漂着した沈水という香木。

枯木神社。香木漂流地はお香の産地
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-337.html


比曽寺東塔は、聖徳太子が父・第31代用明天皇のために建立し、鎌倉時代に改築されたことが礎石の一部等によって判明しています。

それが、今は三井寺に。


二層・三層目の窓にはひし形の格子。

一層目の須弥壇には、木造・釈迦三尊像を安置。


桜の季節はきれいだろうなー、ここ。


素敵な石積。


おなかすいたー。


おやつにしよ・・・としたわけではなく、ここが一番紅葉がきれいだったもので。


毘沙門堂は、元和2年(1616)の建築。重文。


The・桃山建築。


宝物庫兼資料館。

国宝・勧学院客殿の襖絵や貴重な仏像を展示しながら、保管。
むふふふふ。素敵なものがてんこ盛り~(≧∇≦)


火災で焼失した後、元禄2年(1689)再建。

西国十四番目札所。本尊は如意輪観音。33年後毎の開扉。

この一帯は、観音堂を中心にした伽藍配置。


なんかもう、盛りだくさんで、頭が破裂寸前。

観月舞台は、嘉永3年(1849)建築。舞台造。


ふらぁ~っといきそう。きけんきけん。


何の受取人だ、こら。


三井寺、おしまい。


参考文献

「新修大津市史」古代・中世(大津市/1983年)

三井寺ホームページ
http://www.shiga-miidera.or.jp/index.htm


いつも応援いただきありがとうございます。比曽寺跡がある大淀町は、大和四座(観世座・宝生座・金春座・金剛座)とともに活躍していた吉野猿楽(桧垣本猿楽座・栃原猿楽座・巳野座・延命大夫座・宇治猿楽座)のひとつ、桧垣本猿楽座が活動していた地域だと伝わりますが、吉野猿楽は大和四座へ吸収され、桧垣本猿楽座は縁戚の観世座に吸収されて、江戸時代に江戸へ引っ越します。が、「桧垣本」の名前はシテ方ではなく笛方の森田・藤田・一噌各流派の系譜に見られるのでー・・・あ、別の機会にしましょ。お寺の境内には、うーむ。礎石が並んでいた気がするんで、またいつか。
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三井寺で大内文化を堪能。一切経蔵。

こんにちは。


秀吉が三井寺に「闕所」の命を下した後、死去前日に撤回した三井寺は、再建ラッシュ。


金堂は、ねねさん。

うはうはしながら次に訪れたのは、一切経蔵。



「一切経蔵は、仏教のすべての経典、つまり一切経(大蔵経ともいう)を納める施設のことで、この経蔵には版木の一切経が収められています。

この経蔵は、桁行一間、梁間一間、一重、宝形(ほうぎょう)造、檜皮葺の禅宗形式をもった建物ですが、裳階(もこし)を付けているため柱間が三間三間、屋根が二重に見えます。

内部には一切経を納めた八角形の輪蔵(回転書架)を据えています。
全体におだやかな感じをもち、禅宗様経蔵の古い例として貴重なもので、室町時代中期を降らぬ建物とされます。

なお、この経蔵は、もと山口県の国清寺にあったものを毛利輝元によって慶長7年(1602)に移されたものといわれています。
明治39年(1906)4月に国の重要文化財になりました。」
(現地説明板より)


毛利輝元が山口県の国清寺より移築。


毛利といえば日頃お世話になっている「安芸の夜長の暇語り」のトロロヅキ様。

トロロヅキ様の国清寺の記事、みーつけた♪


国清寺のあらましと、現地に残る一切経蔵の基礎など詳細に、
わかりやすく書かれています。

山口・洞春寺~足利義満が最も恐れた人物~
http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-500.html#comment1174

トロロヅキ様、ありがとうございました。


「山口県の国清寺」とは、現・山口市の洞春寺の場所にあったお寺。

移築したのは輝元ですが国清寺は毛利氏以前には大内氏に縁のお寺。

大内義弘、という人物がいます。
足利義満に応永の変で敗れますが、大内家を飛躍的に大きくしました。

義弘の弟、大内盛見(もりみ・もりはる)。

義弘亡き後、盛見は他の弟二人を殺して家督相続。
周防・長門・豊前・石見守護に任じられます。

盛見は、両親と兄・義弘の菩提を弔うために、国清寺を建立。

盛見が筑前で討死した後は、盛見の菩提寺として葬られました。

大陸文化をふんだんに取り入れた「大内さんちの美」。

ご堪能ください。



屋根の先がきゅっとなっていて優美な曲線です@トロロヅキ様

天台宗の三井寺のなかで、禅宗様の一切経蔵は異彩を放っています。

さぁて、内部です。


どうだー!

八角形の輪蔵(回転書架)。

これをくるくるさせると、経を読んだのと同じご利益があるとされます。


内部には往時の装飾が残ります。


大内氏が輸入したと推測される大蔵経(だいぞうきょう)の全巻を安置。

大蔵経は、仏典の集大成で、約7000巻の量。
当時の日本には版木がなく、全てが朝鮮からの輸入品。
それが、この中に、ある。



移築した毛利輝元は、関ヶ原の合戦の敗戦直後。

どうやって費用を捻出したのやら。

彼は関ヶ原前より金堂の再建にも援助しており、
負けたからという理由だけで移築させられた訳ではなさそうですが、
「どんどん使えお前の金(by家康)」で追加になったかもしれないし、
詳細は推測に過ぎません。



山口の大内文化を三井寺で堪能することができました。
輝元さん、ありがとう。


参考文献

「新修大津市史」古代・中世(大津市/1983年)

三井寺ホームページ
http://www.shiga-miidera.or.jp/index.htm


いつも応援いただきありがとうございます。弊社は皆様のコメントや記事に支えられて成り立っております。ありがとうございます。三井寺は各地から移築された建物を一度に見ることが出来る点で、とても興味深いです。大内氏について述べると長くなるので割愛しますが、今も現地には素晴らしいものが残っています。まー、行きたくなっちゃうわ。
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三井寺のクラッシュ&ビルド。秀吉の尻拭い

こんにちは。


三井寺。

・・・いや、これを見て「三井寺だよ」ってのはおかしいんですが。


お寺にお邪魔するときもやはり身を清めましょね、って思って。

神社と違って、ほぼ全員がスルーしてたの。


では、三井寺のつづき。


もんきー・秀吉、登場。


文禄4年(1595)年11月。

秀吉は突如として、三井寺に「闕所」の命を下す。
秀吉五十八歳、第一次朝鮮出兵(文禄の役)のあとで、戦線が膠着状態を呈していた時でもあった。

「闕所(けっしょ)」とは境内堂舎さらには所有する所領を没収する処罰のことで、三井寺の堂塔はまたたく間に解体される。現在の比叡山延暦寺の西塔・釈迦堂はこの時解体された三井寺の金堂を移築したものである。 
(三井寺HPより引用)


この「闕所」の命の原因は「?」で、秀次事件に連座した明石某を三井寺の某が泊めた(『園城寺古記』)とか、伏見へ移植予定の桜を伐採しちゃったー(『駒井日記』)とか。


あらびつくり。

この「闕所」の命が三井寺側にとって「?」なのは、
秀吉が三井寺を根絶やしにしようとしたわけではないこと。


「本尊の弥勒菩薩像、不動明王像(黄不動尊)、御骨大師、中尊大師など、三井寺の信仰の根幹に関わる尊像がすべて道澄(1544~1608)のもとに遷されている」(三井寺HPより引用)

道澄(1544~1608)は、かつて聖護院門主として三井寺の長吏職(トップof三井寺)を勤めた人。

仏像と共に三井寺の僧侶達も道澄に預けられ、咎めなし。



慶長3年(1598)年。秀吉の死の前日。


「闕所」解除。


「為政者なるものの為すことは実に理解に苦しむことが多い。三井寺も時の権力者の思惑によって翻弄されるが、多くの人々の篤い信仰に守られて、今も生き続けている。『不死鳥の寺』といわれる所以である。」(三井寺HPより引用)




さー、れっつ再建!


では、仁王門からてくてく。


慶長6(1601)年、徳川家康により甲賀の常楽寺から移築・寄進。

元は宝徳4年(1452)建立。重文。


門を入って右側に、釈迦堂。


釈迦堂は、室町初期建築。重文。(伝・清涼殿を移築)

「園城寺境内古図」には、大門を入ってすぐ右手に食堂が描かれており、 この堂も食堂として移築されたものと思われますが、 現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されています。(三井寺HPより引用)


室町建築らしい質実剛健な感じの建物。

まー、釈迦如来像も素敵でしたのよー。

口を開けて見上げていたらしく、「そんなに好きなら帰りに歴史博物館に行ったらええよ~♪」と見知らぬおっちゃんに笑われる始末。

でへ。


鐘楼。重文。

慶長7年(1602年)建築。


梵鐘。鐘楼と同年作。県指定文化財。

近江八景「三井寺の晩鐘」で知られる音色が美しい梵鐘。

ぽちん、っと付いている玉は「乳」といい、
25個×4面+上部8個=108個。

百八煩悩に因んだ数の乳を持つ梵鐘の在銘最古遺品に当たります。

三井寺には「弁慶の引き摺り鐘(重文)」の名の奈良時代の梵鐘が残りますが、これはその形を模しているとか。

(弁慶の~は、すごい数の見学者で撮影忘れた)



「どえらいあらけねぇ事をしてまったがね。」by北政所。

真っ先に北政所によって再建されたのが、金堂。

内部は外陣・中陣・後陣に別れ、内陣以外の床は全て板敷とするのに対して、 内陣は土間のまま。

伝統的な天台系本堂の形式をよく伝えているとか。

ここの仏像が、もう、奥さん。

素晴らすぃ~(≧∇≦)

大津市歴史博物館の展示も素晴らしかったのですが、やはり仏様はあるべき場所で「こんにちは」するのが一番だと思い知る次第。

本尊弥勒菩薩は、絶対本尊。
目にした人はいません。

百済から用明天皇の時に日本に渡来し、 天智天皇が崇拝したという弥勒様です。

三井寺の創建は、天智天皇の孫でしたね。


金堂正面の「園城寺金堂無名指灯籠」。

大化の改新で蘇我入鹿と一族を誅した天智天皇(中大兄皇子)。

「蘇我一族を滅した罪障消滅のため、天智天皇は自らの左薬指を切り落とし、この灯籠の台座下に埋め納めたと伝わります。」(現地説明板)

左薬指=無名指


まぁ、伝承ですから。


金堂奥に閼伽井屋。重文。慶長5年(1600年)建築。

ここに湧く水が、天智・天武・持統天皇の産湯に使われたことが三井寺の名前の由来。


正面上部に、伝・左甚五郎作の龍。

金堂に向かって左へ進むと。


池。

そして、


一切経蔵。重文。

三井寺には珍しく禅宗様の建物。
室町時代の建築で、元は山口県の国清寺の経蔵。

慶長7年(1602年)、毛利輝元により、移築。

国清寺は、山口市内にあった禅宗寺院。毛利氏との縁の深いお寺。


内部、すごいです。

つづく。


参考文献

「新修大津市史」古代・中世(大津市/1983年)

三井寺ホームページ
http://www.shiga-miidera.or.jp/index.htm


いつも応援いただきありがとうございます。焼かれて奪われて滅んで再建。無名指灯籠は伝説に過ぎないでしょうが、国宝の金堂に負けず劣らず、興味津々。体を傷付けるって、そんな意味もあったのかしらねぇ。こわー。ねねさんの建てた金堂だと思うと、ほっとするのはなぜかしら。淀殿と秀頼寄進のものは、切羽詰まった感じがするんです、私。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。


11月20日追記
コメントに、時乃★栞様より考察をいただきました。
感想はぜひ時乃★栞様のブログへ。
私はお返事できません~。
↓↓↓
九州戦国史~室町末期から江戸時代まで~
http://siori20120901.blog.fc2.com

父・大友皇子の菩提を弔った三井寺。比叡山延暦寺との抗争

こんにちは。


来年は、うっきぃ。

大津市歴史博物館でへとへとになったけれど、ついでに隣の三井寺へ。


今年もあと一ヶ月半。来年のお猿をゲットして、


鬼瓦に笑われる。

境内の・・・何かの建物の屋根。


南東角は、龍がいた。


そんな三井寺は、園城(おんじょう)寺の別名。

古くは天智天皇が造営した近江宮(大津宮)があった場所に程近く。


天智天皇亡き後、壬申の乱で子の大友皇子が没し、弟の天武天皇が即位。

朱鳥元年(686年)。

大友皇子の子・大友与多王は、父の菩提を弔うため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願。

天武天皇はこの寺の建立を許可。

大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする心意気を買い、「園城寺」の寺号を与えました。

元は壬申の乱で大津宮が滅んだ頃に大友村主家によって建立(672年頃)されていた寺院が「園城寺」となり、大友氏氏寺となったと寺伝。

出来すぎたお話じゃなくて?


伝・左甚五郎作の龍。

下手くそか?という疑問を抱く龍がいるのは、


国宝・金堂横の閼伽井屋。

ここに湧く水が天智・天武・持統天皇の産湯に使われたことが三井寺の名前の由来。

この付近から奈良時代の古い瓦が出土していること、大友氏との関連を示す史料の存在から、寺伝はまったくの創作ではないとされています。


今も現役。

三井寺は時勢の変遷により一時衰退しますが、円珍により再興。

この円珍、比叡山で修行後、大峯山や熊野三山、さらに唐へ渡り修行を重ねます。


熊野那智大社の奥の阿弥陀寺にある道標。

めっちゃ遠い~のに、何で園城寺(三井寺)がー?って思ってまして。
円珍の修行繋がり?


貞観元年(859年)。
円珍が大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」を設置。

貞観10年(868年)。
第五代天台座主となった円珍が三井寺を賜り、唐より請来の経籍を唐坊に収納。

円珍死後、比叡山延暦寺(山門)と三井寺(寺門)は、対立。

長久2年(1041)年。
三井寺戒壇設立の可否を朝廷が諸宗に尋ねた際は、延暦寺のみ反対。
この「戒壇問題」が以降の激しい紛争の原因となります。



文永元年(1264)年。
「三井寺、創建以来、堂塔の焼亡、今に至るまで十度」(『吾妻鏡』)

小競り合いは数十回。僧兵による武力対決。

・・・何やってんだ。

平安時代には藤原道長・白河上皇達朝廷や貴族が、中世以降は源氏など武家が深く崇敬したとか、公暁は園城寺育ちだとか、そんなものがぶっ飛ぶ程、ふぁいやー&ふぁいやー。

記録を見ても「燃やされた、建てた、燃やされた、(たまに出張)」。

やがて、三井寺最大のピンチがやって来ます。



人のものなら何でも好物の秀吉登場。

つづく。


三井寺
《住所》滋賀県大津市園城寺町




参考文献

「新修大津市史」古代・中世(大津市/1983年)

三井寺ホームページ
http://www.shiga-miidera.or.jp/index.htm


いつも応援いただきありがとうございます。今年はまだ冷え込まないからなのか、紅葉がばっちい色で。このまま落葉したら寂しいぞ。延暦寺というと強訴じゃ強訴じゃー!っと山から僧兵が駆け降りてくるイメージが強くて。地図を見ればわかりますが、比叡山を西へ下山すれば、そこは都。南下すると園城寺。武力充実の国がひとつ山上にあるようなもんですねぇ。前記事で比叡山の仏様に感動しておきながら、何を言っているのだ、私。
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大津市歴史博物館「比叡山ーみほとけの山ー」見てきた

こんにちは。


めぇめぇさんも、あと一ヶ月半。早いなー。


日曜日は、滋賀県大津市へ。生ぬるくて暑かったです。


大津市歴史博物館の開館25周年記念企画展。

「比叡山ーみほとけの山ー」

いつもいろいろ教えて戴いている「しばやんの日々」様の記事でこの展示を知りましたの。しばやん様、ありがとうございました。


「しばやんの日々」様の記事はこちら

国宝・新羅善神堂近辺の散策の後、大津市歴史博物館で比叡山ゆかりの古仏を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-418.html#comment985


比叡山は「平安仏教の根本道場として山上に多くの堂舎や山坊が林立し、膨大な数の仏像や仏画が造像、安置されました。
さらにはその山上に加え、広範囲にわたる山麓にも里坊や関連寺院が多く建立され、巨大な霊地を呈していました。お膝元の坂本や仰木、堅田、さらには比良山や京都側にも、今なお比叡山にゆかりの深い仏像や史料などが多く伝来しています。」
(大津市歴史博物館HPより引用)

この広範囲にわたる地域に伝わる仏像や仏画、
特に比叡山の「叡山文庫」の古文書や絵図などが展示されています。


諸般の事情により寺院名を伏せることを条件に出品されているもの、
また、特に初出品のものが多かったです。
(この辺りの説明はしばやん様の記事がお詳しいです)


何百年も人々の信仰の対象であった仏様に言うのはおかしいですが、
とても初々しくて生き生きとしているように感じました。

今まで見たことない不思議な仏様も。あ、神像もありました。

まー、ばらえちーに富んだものばかりで。


ちょっとご覧になって、奥さま♪

大津市歴史博物館「比叡山ーみほとけの山ー」
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/1510.html


博物館の仏像展示って、大抵途中で飽きてくるんですが、
あれ、もっかい見たいぞー、あれれ?これ、さっきのと一緒かな?おやおや、ちょっと違うぞー♪っと。

滞在すること三時間。

途中で図録を買って、それにメモしながら、うはうは。

今回特に不動明王様が多くて、いろんな姿を拝見出来ました。
男前だったり、ぷくぅ~ってしてたり。



不動明王は八大童子と呼ばれる眷属を従えていますが、仏像や絵画では、矜迦羅(こんがら)童子、制多伽(せいたか)童子が代表して左右にいることが多いです。


謡曲「野守」より
「一(いち)矜羯羅、二(に)制吒迦、三に倶利伽羅、七大八代金剛童子」

野守の持つ鏡に、矜迦羅(こんがら)童子、制多伽(せいたか)童子、倶利伽羅(くりから)竜王、金剛童子など仏法の守護神が次々に映る場面。

つい謡いそうになって。あぶない。



私の背と同じ高さの神殿狛犬さんもいました。

※木造獅子・狛犬(東本宮)/桃山時代/日吉大社蔵

かわいかったー(≧∇≦)


いつも応援いただきありがとうございます。結局狛犬さんかよって言わないで~。大きかったんですもの、とにかく。絵図にも狛犬さんがいて、みんなあばら骨が出る姿をしてました。昨年見た「獅子と狛犬」展でもちらりと思ったのですが、古い子はやせてるのかしら。あ、釈迦涅槃図。生き物達も泣いているんですが、ゲシゲジや蛇も来ていて、興味深かったです。企画展は23日までです。
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