蜂須賀農場。そして、洲本八幡神社へ

こんにちは。


皆、それぞれの思いがあって北海道へ。


稲田家主従が北海道へ移住するきっかけとなった庚午事変のもう一方の当事者、阿波徳島藩では。


最後の阿波徳島藩主・華族となった蜂須賀茂韶もまた、北海道の開拓に参加。

明治19年「北海道土地払下規則」公布。
これにより大土地所有が認められ、華族や政商・官僚・豪農達は競って大農場の開拓に乗り出します。

明治22年。皇室御料地として全道に200万haを設定。
華族組合農場へは未開地5万haが払い下げられます。

同年。払い下げを受けた公爵三條実美と侯爵蜂須賀茂韶・菊亭修季は、
「華族組合雨竜農場」を設立。

アメリカ式の大規模農場の開墾を目指しますが、難航。

明治24年、三条実美他界。
翌年、「華族組合雨竜農場」は解散。

蜂須賀茂韶は私財を投じ、小作経営に変更して雨竜を開拓。

これが「蜂須賀農場」で、耕作面積が4000haに及ぶ日本有数の大農場となります。

しかし、小作料を巡り大規模な小作争議が発生。

昭和22年。農地解放により、蜂須賀農場は解散。


残念。

雨竜町には、徳島から分霊された蜂須賀家政を祀る雨竜神社が残ります。


【再びの洲本】


淡路島の洲本城。大手口。


阿波徳島藩に蜂須賀家が入った後は使われなくなった山の上のお城。


お城からは、城代稲田家が政務を執った場所も、
北海道静内へ旅立った海岸も見渡すことが出来ます。

この麓に鎮座するのが、


洲本八幡神社。


創建は990年。淡路国国司代・藤原成家。

1526年に洲本城を築いた安宅治興以降、代々の洲本城主が崇敬。

江戸時代は、淡路国における徳島藩の代参所となり、
藩主蜂須賀氏及び家老洲本城代稲田氏の祈願所として崇敬を受けた神社。


ご不満な狛犬さん。

なぜなら。


文化六己年五月吉日。石工は、伊右衛門 長全。


庚午事変の時には既にここにいた狛犬さんです。


重いから。


あ、ごめんよー。


境内社のおきつね様。


この子達も、庚午事変の時には生まれておりました。

が、


一緒に海を渡ったのは、木製のかわいいかわいい狛犬さんでした。

この洲本八幡神社の境内に、


金天閣。

1641年に徳島藩主蜂須賀忠英(ただてる)が、
三熊山山麓の下のお城に建てた洲本御殿の一部。

洲本御殿の大部分は明治維新後に取り壊されましたが、
この玄関と書院だけが移築され残りました。

江戸時代初期の書院造の建築物として貴重。

数度の移築で改変の跡はあるものの、内部は当時のまま。
黒漆塗の折り上げ格天井に金箔が施されていることから、金天閣。


静内へ入植する際に移したのは、洲本八幡神社ではなく、
稲田家屋敷内に祀られていた稲基神社でした。

現在も静内に鎮座しています。

洲本八幡神社にはさらに。


国端彦(くにみずひこ)護国神社。

明治3年、庚午事変の後始末として、
徳島の国瑞彦(くにたまひこ)神社より御分霊を勧請した神社。

洲本八幡神社の旧別当寺龍宝院跡に明治10年に設立。



【祭神】
国端彦大神(蜂須賀家政)
最後の藩主・蜂須賀茂韶

《後に合祀》
筆頭家老洲本城代・稲田家一族
蜂須賀家三代有功臣、護国神と、洲本出身の英霊。




北海道へ移住するきっかけとなった庚午事変。

藩内の軋轢や明治維新時の思想の違い、家臣達の処遇の差で起きた騒動でした。



阿波徳島藩の藩主蜂須賀家と筆頭家老で洲本城代の稲田家。

洲本では、共に祭神として祀られている両家なのでした。



阿波徳島藩の庚午事変から、稲田家主従の静内移住のお話。

これにて、おしまい。


参考文献

徳島県立文書館
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/exhibition/k_020/04.htm

『北海道開拓と徳島の人びと』(徳島県立文書館/文書館開館十周年記念特別展)

『移住顛末』(稲田邦衛)
『北海道移住回顧録』(静内郷土史研究会・編)

洲本市郷土史料館、館内配布資料「庚午事変」

兵庫県神社庁「洲本八幡神社」


いつも応援いただきありがとうございます。稲田家主従の静内移住物語、長々とお付き合いいただきありがとうございました。温暖な淡路島から、寒い寒い北海道なんて、まぁたいへんっと思っておりましたが、静内の観光案内に「北海道の湘南」とありまして。太平洋に面して積雪が少なくて、北海道の中では温暖だということらしく。えー。頭の中が、大根の乱、大混乱。冬の北海道、行ってみたいなー。寒いかなー。
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あい、それは武器。徳島からの移住と開拓

こんにちは。


淡路島洲本から北海道静内へ、明治4年5月に上陸した稲田家主従。


必死に原野を耕し、道を作り、畑作に着手します。

上陸の翌月から試作したのが、


本藩・徳島藩の名産、阿波藍でした。

明治12年より本格的に藍の製造に乗り出した稲田家家臣団に対し、
北海道の開拓に力を注ぐ開拓使は、
殖産興業策の一環として藍業にも注目し補助金などにより支援。



藍作・製藍事業は北海道の開拓において、
稲作が普及する以前の有力な畑作物となります。

また、北海道は、藍作に必要な肥料「鯨〆粕」の生産地。


北前船で、北海道から徳島まで運ぶため、価格が時に高騰。

現地調達すれば安価で「鯨〆粕」を用いることが出来る目算もあり、
阿波藍の生産を得意とする徳島の人々が続々と移住し始めます。



◆仁木竹吉

藍作に必要な肥料「鯨〆粕」の現地調達にいち早く着目。
(開拓使に提出した『殖民ノ儀ニ付願』)

明治12年。徳島県の麻植・美馬・三好の農民117戸360余人を
余市原野に入植させ、翌13年、この地において藍作を開始。

竹吉はこの後も徳島県人の移住の手引きを行い、
移住民は仁木村が手狭になると各地に転住していきました。


◆阿部興人

明治3年、庚午事変に連座(終身禁固)。後に許され県の役人に。

明治14年、実兄・滝本五郎と徳島興産社を設立。
明治18年。札幌郡篠路村の興産社農場に製造所を設置。製藍事業を拡大。
明治23年、北海道セメントを設立して社長に就任。
以降、政財界で大活躍。


彼等をはじめ様々な人物の尽力により、特に、静内・余市・有珠・札幌などでは盛んに藍作が行われました。

明治28年頃には、北海道の藍は、阿波藍を圧迫するほどの生産量に達します。

しかし、やがて伝統的な製藍業は、化学染料の合成藍に押されて衰退。



これは北海道の藍作ばかりではなく、
徳島の主要産業である藍作にも、大打撃。



県内の景気低迷は著しく、徳島県内の有力者による積極的な移住組織の創設や農場設置により一層、北海道への移住人口が増加。

徳島県から北海道への移住人口は、
明治34年以降、全国の府県の中で常に10位前後を占め、
戦前までの移住人口は、7万人にも達したのでした。


【稲田家家臣団の果たした役割】



阿波徳島藩内の確執から生じた庚午事変により



朝廷により、稲田家家臣達は士族となるかわりに、北海道への移住と開拓を命じられ


住み慣れた温暖な淡路島の洲本から


原野の北海道静内へ向かいました。

これはぱっと見、酷いわねぇ~なのですが、
明治新政府の中で士族の存在を重視していた岩倉具視達の士族支援政策でもありました。

稲田家家臣団は、もはや帰る場所がない中で必死に開拓に励み、


現在の静内の礎を築いたのです。

これは結果として、後に続く徳島からの移住者達の先例となり、お手本となったのでした。


《私見》
しかし彼等は、朝廷の命により必死に開拓を行ったのであって、
後の藍の栽培と製造に着目してからの入植とは異なる気がします。



狛犬さんが喋ったらいいのになー。


参考文献

徳島県立文書館
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/exhibition/k_020/04.htm

『北海道開拓と徳島の人びと』(徳島県立文書館/文書館開館十周年記念特別展)

『移住顛末』(稲田邦衛)
『北海道移住回顧録』(静内郷土史研究会・編)

洲本市郷土史料館、館内配布資料「庚午事変」



いつも応援いただきありがとうございます。北海道を開拓するということ、とても筆舌に尽くしがたい苦労があったことと拝察します。徳島からの戦前までの移住人口が7万人にも達したとは驚きました。その徳島のお殿様、蜂須賀家もまた、新天地を求めて北海道の開拓に着手します。さぁて、どうなることやら。
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狛犬、海を渡る

こんにちは。


庚午事変をきっかけとして、洲本城代稲田家主従は


住み慣れた温暖な地、淡路島の洲本から船出して


北海道静内へ。


洲本八幡神社の狛犬さん。

残念ながら連れていってはもらえなかったようで。


同じく。


北海道静内へ渡った稲田家主従は、原野を拓き


火事や海難事故で家財道具や稲田家家宝を失いつつも、


心の拠り所となる神武天皇社を創建し、

開拓に励みました。

この旅路のお供をした、かわいい子達がいます。

それは


一対の狛犬。

この子達が、実にいい笑顔で。ちんまりしてて。

かわいいかわいい木製の狛犬さんです。

移民する時に稲田家家臣団が淡路島の洲本から、
稲田家の家紋付きの杯、等と一緒に持参したものと一緒に
新ひだか町の郷土館に展示されています。

他にもいろいろと持ってこなくてはいけないものはあったでしょうに、
かわいい狛犬さんを船に乗せてきた稲田家主従。



きっと、洲本のどこかのお社で、神様を護っていた子達。

移民先でも、神様を護ってくれるように願いを込めたのかもしれません。


今回の北海道の旅



ええ、このかわいい狛犬さんに会うために。

おほほほほ。


狛犬さん、徳島県立文書館の画像です。↓↓

徳島県立文書館「開館10周年特別展」
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/exhibition/k_020/13.htm

実物は、画像よりかわいいです。



いつも応援いただきありがとうございます。淡路島の洲本の郷土資料館で庚午事変について知ってから、あれこれ調べる中で出会った狛犬さん。淡路島からはるばる連れていった狛犬さんにどうしても会いたくて、私も海を渡った次第。大半のものは海の底に沈んでしまったためか、稲田家の持ち物はわずかしかありませんでしたが、その中で笑顔をふりまいている狛犬はとてもとてもかわいい子達でした。
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静内神社。北海道新ひだか町静内

こんにちは。


北海道日高郡新ひだか町静内御幸町に鎮座する静内神社。

9月21日は、お祭りでした。

なので


朝から準備で大忙し。一の鳥居の下は大騒動。


こんなに並ぶ屋台を見たのなんて、久しぶり。

地域の人達が楽しみにしているお祭りみたいです。


緑が豊かな境内です。


手水鉢。


おっはよー。


食べ過ぎないよにねー。


社殿は昭和40年改築。


北海道知事町村金吾、とある。



静内神社

【祭神】神武天皇・事代主神

【由緒】大正8年、蛭子神社と神武天皇社を合併して静内神社と称す。


《蛭子神社》

伝・寛政年間の創祀。

慶応3年の社記『志美茶理鎮守恵美須大神宮ノ縁起』によれば、

「昔未だ夷地開拓せざる時、土地人海中に網を曳けるに一躰の光明赫奕《かくえき》たるを得たり、其形人神の如し、土人尊信す、漁猟満足を祈るに必応験有。故に、漁業守護神として木幣を捧ぐ」

また、『静内新冠両郡戸長役場社寺明細帳』では、

「明治元年開拓使渡島国亀田郡函館商人佐野専左衛門なるもの静内郡一円の漁場を所有せし中、豊漁を祈らんが為漁神に勧請」


《神武天皇社》



明治4年5月に静内へ上陸した稲田家主従が、奉斎したお社。

勤皇派であった稲田家主従。

静内郡開拓の朝命を奉じて移住した際、
神武創業の古に復するという明治維新の趣旨を奉じ、
移民の守護神として奉斎したのが創祀です。

明治9年「神武天皇社」として郷社。


(淡路島の賀集八幡神社の狛犬)

移住先でも、淡路島でも、信じるものは変わらなかったんですねぇ。


目から塩水出ちゃうわ。


狛さん、水平移動中。


何よりだ~♪


ぼんじゅ~♪のこちらは、静内神社のおんまさんでした。


イカリに見えますが、なぜここに?


日々迷惑のようです。


稲田家主従が淡路島から移住して、
まずお祀りした「神武天皇社」を合祀した静内神社、
やっとお詣りすることができました。

よかったー。


いつも応援いただきありがとうございます。開拓を進めるにつれ、人々の心の拠り所や地域の象徴が必要となり、開拓地に小さな祠を建てたことから、北海道の多くの神社が始まります。稲田家主従は、まず、神武天皇社を建ててお祀りし、既存のお寺は不要だ、と学校にして。勤皇派であったため、素直に明治新政府の意向に添って進めていく家臣団の姿が思い浮かびます。
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日高のサラブレッドと稲田家家臣団の開拓。

こんにちは。


北海道の日高といえば、競争馬サラブレッドの産地。


数々の有名馬が生育される牧場が連なります。

「地場産業の振興ということで、役場の職員の机の上に競馬新聞が置いてあっても上司から咎められないというような町です。馬券の発売場も町の中にあります。」(「稲田家臣団の静内郡移住について」講演資料より)


さて。



明治4年5月に静内へ上陸した、稲田家家臣団の移住第一陣。



持参した大量の家財道具や冬用の衣類や布団を火事で焼失し



後続の移民団を乗せた平運丸が、紀州の周参見(すさみ)で座礁。

死者多数を出し、稲田家家宝が海の底に沈み。



それでも、背水の陣で挑む開拓を止めることはできません。

驚くことに、上陸した4か月後の9月には、
淡路島の洲本時代の学校「益習館」を、静内でも開校。

建物は、頓成寺。

稲田家移住前の静内は、増上寺が領有していたので建てられていたお寺です。

明治維新時、稲田家主従は「勤皇派」。
明治政府のスローガン「王政復古」。

稲田家主従は神道であって、葬儀も神式。
「お寺はいらない」(『北海道移住回顧録』)のでした。


全て人力で、木の根を起こし、道路を作り、開墾。

こんな大変な時に邪魔するのは、


おんまさん。



ぱっかぱっかと走り回り、苦労して耕した畑を荒らしてしまうので。


確保。

まとめてひとつの牧場に入れていたところへ出来たのが、

開拓使の新冠牧場。

これが後に、宮内省の御料牧場になります。



国が資金を投入して外国から優れた種馬を仕入れ、
馬の品種改良に努めました。

現在の日高地域が、競争馬の産地となった背景。

それが、御料牧場だったのでした。



宮内省の御料牧場ともなれば、政府の高官や皇室の方々も視察に来ます。

歓迎しなくっちゃー。

と、作ったのが、桜の名所「二十間道路の桜並木」。


桜の季節じゃないもので。おほほ。

現在の静内は、商業、漁業、農業等色々な産業がありますが、
なんといっても競争馬の産地。

よもや、邪魔な馬を集めてできた牧場がこうなるとは。


まさに、捨てる神あれば拾う神あり。


背水の陣で開拓に挑んだ稲田家家臣団。

彼等が北海道開拓の礎とも言われる訳は、一番最初に着手したからではなく、時代背景にあります。


1800年代半ば頃より南下してきたロシアに対し、江戸幕府も明治新政府も、
北海道の開拓を早急に行い、日本を防衛する事が急務であると認識しています。

明治新政府は、1869年7月に蝦夷地を分割して各藩に支配させる「分領支配」政策を決定。

しかし、財政上や気候の問題等で支配地を返上する藩が相次ぎ、
大部分が離脱。

1871年、廃藩置県実施。事実上の分領支配政策の廃止。

結局、この分領支配政策のもとで実績を上げたのは、
維新の動乱により苦境に陥っていた、

仙台藩・斗南藩(旧会津藩)・稲田家家臣団等

に過ぎなかったのでした。


稲田家主従、よく頑張りました。

「庚午事変」により、結果的に徳島藩蜂須賀家とは袂を分った筆頭家老の稲田家ですが、元々の所領は阿波の脇町。

阿波徳島といえば、江戸時代に日本を席巻した産業があります。

では、徳島市諏訪神社の狛犬さん達に紹介してもらいましょ。


わわわわ~♪


あ~いぃ~♪あ~いぃ~♪あぁ~~ぃ~~~♪

歌うのは、「あい」。

そう、・・・藍。

蜂須賀氏の阿波入部以降、徳島藩の保護奨励策によって「阿波藍」は、1700年代には日本市場を支配するほどに隆盛。

稲田家家臣団は、開拓にあたり、藍の栽培にも着手します。

これが後々の徳島からの大量移民に繋がります。


※思いっきりわたくしごとですが。


稲田家家臣団の開拓を、本藩・徳島藩の人々はどう思ったのかなぁ。

静内、新冠辺りは、稲田家に領有が移る前は、増上寺と本藩・徳島藩蜂須賀家の領有地だったわけですし。

蜂須賀はっちーと同じ愛知県出身者としては、フクザツで。
無論、無理で馬鹿な事は百も承知。


三重県尾鷲市で、きしめんを食べるという訳のわからん事をしでかすぐらいに、愛知県が好きです。

生まれ育った土地から離れると、尚更地元愛が増しますね。


次は、稲田家主従の故郷への思いが伝わったお話と、徳島のお話。


とあるお社のおんまさんに戻って

つづく。


※画像の馬は、川湯温泉近くの観光牧場のおんまさんなので、競争馬ではありません。


参考文献

徳島県立文書館
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/exhibition/k_020/04.htm

『北海道開拓と徳島の人びと』(徳島県立文書館/文書館開館十周年記念特別展)

『移住顛末』(稲田邦衛)
『北海道移住回顧録』(静内郷土史研究会・編)

洲本市郷土史料館、館内配布資料「庚午事変」


いつも応援いただきありがとうございます。日高といえば?競争馬!な、基幹産業であるおんまさん。ここのサラブレッドは大切な商品なので、神経質な馬を驚かさないように見学コースは決められています。日高山脈を借景に目の前に広がる牧場は見事。元御料牧場へ続く二十間道路の桜並木、いつか見に行きたいです。まーーーっすぐの道路と咲き誇る桜。きっとおばちゃんは泣いちゃうわ。
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稲田家家臣達を襲う二つの悲劇

こんにちは。

いよいよ北海道へと向かった稲田家家臣達。


(せめて画像は明るく・・・)

明治4年(1871年)2月。

先発隊47人(30人とも)が出発。


明治4年4月。

移住者本隊第一陣。137戸546人。

メンバーは稲田家家臣団の武士階級、半士半農の人々。

3隻の汽船に米・麦・農具・家具などを満載して洲本を出航。

明治4年5月、静内へ上陸。



5月の淡路島は初夏の日差しが降り注ぎますが、
北海道ではまだ、山には雪。うっすら、じゃなくて、真っ白。

静内へ海から入るときに日高山脈を見た移住者は、この雪を

「山に白い雲がかかったように見える」(『北海道移住回顧録』)

と記しています。

淡路島でも雪は降ります。
でも、山に雪が白く積もった景色は、そうそう見られるものではなくて。

実際、GWの北海道旅行は、レンタカーのタイヤはまだ、スタッドレス。
ふきのとうが顔を出して「こんにちは~」する気候。

静内上陸前に、「きゃー。綿入れ着なくちゃー」っと騒いだ人々の気持ち、わかるわかる、です。

フェリーから苫小牧港へ降りた瞬間、「さっぶ!」「うぅわ、さっぶ!」を連呼した関西からの乗客が多々。


(静内の南、三石の海岸。せめて画像は明るく・・・)

持参した家財道具等は、漁場の網を入れる倉庫などへ納めて、
とにかく開墾。

第一陣には農業の専門家も同行しましたが、先祖代々の田畑を耕すのとは訳が違います。


人力だけで、鬱蒼と生えた木々を倒し、根っこを掘り起こして除いてー。

っと、そこへ。

明治4年7月。

家財道具一式を入れていた倉庫が、全焼。



北海道は、淡路島と全く違う極寒の地、とは知っていたので、
綿入れの上着や着物、布団はしっかりとたくさん持参。

それが、全焼。

「折から西風激しく延々天を焦がし、
さしもに大なる倉庫もわずか数時間以内に灰燼に帰せり。
多数の移住民は追々寒天に向かい、
衣なく夜具なく、その惨状実に名伏すべからず。
その損害も莫大ならん」(『移住顛末』稲田邦衛)


ぼーぜん。

冬に備え、移住者達は開拓使からお金を借りて夜具などを補填しましたが、さぞかしショックだったことでしょう。


(せめて画像は明る・・・もぅ、ええ)

明治4年8月。

第二陣、出航。

船は「平運丸」。215人の移住者が乗船。

長さ90m、幅14m、2本の煙突に3本のマストの鉄船。
元は薩摩藩の軍艦という、立派なお船でした。


船は淡路島から紀州沖へ。



8月といえば、奥さん。


台風の季節ですな。(昨年の10月連休は台風到来)

紀州沖で暴風雨に遭った平運丸は、周参見(すさみ)の港へ向かいます。


周参見といえば、イノブーたん。

イノシシ+ぶた=イノブー。


植物園の温室でしか見たことなかった、ブーゲンビリアが咲く温暖な地。

紀伊半島、南紀白浜と最南端の潮岬の間。


お天気がよければ、こんなにのーんびり。

ひとたび暴風となると


こうなる。

海岸線には岩礁が連なる周参見ですから・・・

平運丸、「亀岩」という名の暗礁に、座礁。



乗船者215名のうち、87名が溺死。

この平運丸は、先発隊の移住者達へ届ける食料の他に、
稲田家伝来の大切な家宝ともいえる品々、を満載。

それを全て失ってしまったのです。

悲劇は移住者達だけではなく。

平運丸の船長は、周参見のお寺で割腹自殺。



稲田家主従の苦心惨憺の日々は、
やがて開拓の先駆者、そして成功例へと実を結びます。


・・・?


おんまさんがなにか?


つづく。


参考文献

徳島県立文書館
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/exhibition/k_020/04.htm

『北海道開拓と徳島の人びと』(徳島県立文書館/文書館開館十周年記念特別展)

『移住顛末』(稲田邦衛)
『北海道移住回顧録』(静内郷土史研究会・編)

洲本市郷土史料館、館内配布資料「庚午事変」


いつも応援いただきありがとうございます。開拓にあたった人々の筆舌に尽くしがたい苦労は、静内へ入植した稲田家家臣達だけではありません。しかし、彼等の主である稲田家の家宝の数々が海の底に沈んだことはひとつの時代が終わってしまったような感覚ではなかったかと思います。船長の割腹自殺は、名称こそ明治になれど、心はまだ切り替わらない切ない時代だったのだなぁと、悲しくなります。
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洲本城代稲田家主従、北海道開拓へ。静内上陸

こんにちは。


たまねぎ=淡路島。


本藩の阿波徳島藩とは鳴門海峡を挟んでおります。


筆頭家老の洲本城代稲田家の治めた江戸時代は、こちらの麓でお仕事。


ここから横断歩道を渡ったら、


大浜海岸。

明治初頭、この海から遥か彼方の土地を目指して出航した人達がいます。

それが


ポン太。

ちゃうわっ。


映画「北の零年」ご出演の皆様・・・の


稲田家主従でした。

「庚牛事変」を経て、改めて北海道の静内・色丹島への移住開拓を命じられた稲田家主従は、この洲本の大浜海岸の港から旅立ちました。


【「庚牛事変」おさらい】



阿波徳島藩は公武合体派であり、官軍に抵抗する始末。

これに対し幕末を勤皇派として動いた稲田家主従は、幕末明治を乗りきったのは、我々の活動あってこそと自負。

が、稲田家家臣は陪臣であるため士族に編入出来ず。
これは彼等の経済的な不安につながり。

不満が鬱積した稲田家主従は、徳島藩からの分藩、独立運動を展開。

これに対し、旧徳島藩士の一部は、稲田家主従の言動を、
知藩事蜂須賀茂韶(旧藩主)への背信行為であると強く反発。



明治3(1870)年5月13日。「庚牛事変」勃発。

蜂須賀家臣ら洲本在住の徳島藩青年武士800人、銃士100人と銃卒4個大隊、砲4門からなる部隊が、洲本下屋敷町の稲田家主従の屋敷等を襲撃。

無抵抗を貫いた稲田方の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人。別邸や益習館などが焼失。

結果。

《徳島藩側》
知藩事蜂須賀茂韶は監督不行届により謹慎。

主謀者10人は、斬首(のちに切腹)。
八丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数。

《稲田家側》
家臣達は士族籍を得ますが、

「稲田九郎兵衛並同人元家来へ北海道移住等御沙汰之義御達」
(『開拓使公文録』明治3年10月/北海道立文書館蔵)


朝廷は、兵庫県眷属稲田九郎兵衛(邦植。当時15才)に日高国の静内郡と志古丹島(千島列島の一つ色丹島)の開拓を命じます。

開拓費用は元の知行高1万4500石の10分の1を与えられ、
残りを10年間分の開拓費用に充てることが文書に書かれています。


のほほんっとした淡路島。

これに対し、当時の静内・色丹島の状況は。


《明治政府の腹の内》

東京芝の元将軍徳川家の菩提寺であった増上寺が管轄。

しかし、明治政府の意向に反し、開拓には成果を上げず。
そこでそれを引き揚げさせて、実際に移住して開拓にあたることを前提にする稲田家の支配地に変えたのでした。



《明治4年当時の静内》

静内の海岸沿いには江戸時代後期に静内場所が置かれ、
昆布・鯨・鮭・鱈・鹿皮などの産物が安定して産出されている土地でした。


静内(シベチャリ)川沿岸は、昔からアイヌの人々が住んでおり


沿岸の丘のチャシはシャクシャインの戦いの折の最後の戦場となりました。

しかし。



元々住んでいたアイヌの人たちは、
シブチャリ川(現静内川)沿岸に住み鮭や鹿肉などを常食するのみで耕作するものはなく。

全く耕作の手が入っていない原野が広がるのみ。


《静内へ》

まず、当主・稲田邦植は移住に先立ち、重臣の内藤弥兵衛・平田友吉の2名を事前調査に送ります。


地形はこんな感じ。海側。


内陸方面。

ふたりは、原野ではあるものの、静内(シベチャリ)川両岸には平地が広がり、将来極めて有望なる土地であることを報告。

これを受け、第一陣を組織。


(せめて画像は明るく・・・)

明治4年(1871年)2月。

先発隊47人(30人とも)が二手に分かれて出発。

①大阪から越前敦賀→日本海の航路を北上→函館→陸路で静内

②東海道を北上→陸路で青森→大湊付近から海路で静内に直行


明治4年4月。

移住者本隊第一陣。137戸546人。

3隻の汽船に米・麦・農具・家具などを満載して洲本を出航。

品川・金華山→太平洋航路で北上。

明治4年5月、静内へ上陸。


【業務連絡】《ついでにここもお願い》

先発隊と第一陣の間、3月15日。

太政官は、静内郡の隣の新冠郡の支配をを稲田九郎兵衛の増支配とします。
この新冠郡は、明治2年7月から徳島藩蜂須賀家が支配していた場所で、徳島藩の役人が詰めていましたが。

増上寺と同じく一向に成果があがらない徳島藩に業を煮やし。
それを家臣一同が移住し開拓する稲田家に支配するよう命じたのです。

だめだめじゃん。徳島はっちー。しっかりしてー。

※徳島藩が怠惰なのではなく、徳島藩のような方針は他にも多々。


【上陸したけど、どうするの、これ】

さて。静内へ上陸した稲田家家臣ご一行様。


大半は鬱蒼とした森林に覆われていた静内。

とりあえず荷物を静内場所の小屋に納めて、風雨をしのぎました。



平坦部はアイヌ民族の居住域。

移住者である自分達の居住空間を確保するためには、森林を切り開いていく以外にほかに方法なく。

まず、原野に道路を通さなくては。



下々方(しもけぼう)から、稲田家の屋敷が作られる目名(めな)に通じる道が開削され開拓の端緒がつけられました。

しかし、道路の開削、橋梁工事に時間を費やされ、土地の開墾は計画通りにはいきません。



苦心惨憺の稲田家主従に、さらなる悲劇が襲いかかります。

まさに、ふんだりけったり。


つづく。


参考文献

徳島県立文書館
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/exhibition/k_020/04.htm

洲本市郷土史料館、館内配布資料「庚午事変」


いつも応援いただきありがとうございます。初めて静内の地形を見たときに一番に思ったのが、「あれれ?洲本に似てるよー」っと。これは市街地になった後の景色の感想ですが。数百年の時間をかけて城下町として成熟した洲本市に対し、まだ百数十年しか経過していない静内の町並が追い付いたわけで。入植した人々がどれ程の苦労と尽力を注いだのか、柄にもなく、じぃ~んっとしたのでした。
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庚牛事変、勃発。悔しいですっ

こんにちは。


初代稲田植元は、蜂須賀正勝と義兄弟の契りを交わした間柄。

他の家臣とちょっと違う。ここ、ポイント。


蜂須賀家の筆頭家老で洲本城代の稲田家。

明治2(1869)年6月の版籍奉還、それに続く秩禄処分により。

稲田家は、一等士族となり1000石。
稲田家家臣は、陪臣であるため、四等士族より低い郷付銃卒。


(淡路島の賀集八幡神社の狛犬)

佐幕派であった阿波徳島藩に対し、
稲田家主従は尊皇攘夷派。討幕運動で活躍しました。

幕末を乗り切ったのは、この稲田家主従の働きがあったからこそ。


それなのに。それなのにっ。

終始佐幕派だった徳島藩士が士族となり秩禄支給を受けるのに、
命懸けで天皇の為に戦った自分達が、自分達が、


士族にも編入されないなんてー!


不満が鬱積した稲田家主従は、徳島藩からの分藩、独立運動を展開。

彼等が嘆願した相手は、


五百円札でした。

岩倉具視でした。

明治3(1870)年3月21日。

岩倉は、士族編入を認めるかわりに、稲田主従の北海道移住を命じます。



それに対して稲田家臣側は再び嘆願書を出し北海道移住を拒否。
さらに淡路の分藩を願い出ます。

これに、旧徳島藩士の一部は、稲田家主従の言動を、
知藩事蜂須賀茂韶(旧藩主)への背信行為であると強く反発。


稲田家家臣への長年の鬱憤もあったようで。



明治3(1870)年5月13日早朝。

蜂須賀家臣ら洲本在住の徳島藩青年武士800人
銃士100人と銃卒4個大隊
砲4門からなる部隊が。

襲撃します。



洲本下屋敷町の、家老・稲田邦植の別邸や益習館(稲田家の学問所)、
宇山の稲田武山邸や市中の稲田家臣の屋敷を。



無抵抗の者を殺傷し、火を放ち。



「庚牛事変」の勃発です。


無抵抗を貫いた稲田方の被害は

自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人。
別邸や益習館などが焼失。


さすがにこの件は中央政府にも届き、


太政官による事情聴取。

8月。中央政府から裁決が下ります。

知藩事蜂須賀茂韶は監督不行届により謹慎。

徳島藩側主謀者10人は、斬首(のちに切腹)。
八丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数。

中央政府からの裁決は予想以上に徳島藩側に厳しいものでした。



一方、稲田家側には。

まず、家臣達は士族籍を得ます。

が。

これと引換に

10月15日。朝廷から改めて、主人の稲田邦植以下、家臣全員に北海道の静内郡と色丹島(後に返上、現北方領土)への移住開拓が申し下されます。


そうだねぇ。


「稲田九郎兵衛並同人元家来へ北海道移住等御沙汰之義御達」
(『開拓使公文録』明治3年10月/北海道立文書館蔵)


兵庫県眷属稲田九郎兵衛(邦植。当時15才)に日高国の静内郡と志古丹島(千島列島の一つ色丹島)の開拓を命じた事を記した文書。

開拓費用は元の知行高1万4500石の10分の1を与えられ、
残りを10年間分の開拓費用に充てることが書かれています。

これは決して悪い条件ではなかったとか。


ちなみにこの時。淡路は徳島藩から分離されて兵庫県の管轄に変更。
徳島は淡路島を失ってしまいました。




北海道開拓を命じられた稲田家主従。

翌明治4年2月。

先発隊47人が北海道へ向けて出発します。



温暖な淡路島から、北の大地へ。



稲田家主従の艱難辛苦はこれからなのです。

つづく。



参考文献

徳島県立文書館
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/exhibition/k_020/04.htm

洲本市郷土史料館、館内配布資料「庚午事変」


いつも応援いただきありがとうございます。庚午の年に起きたので、庚午事変。明治維新に伴なう禄制改革で起きたのは、稲田家家臣を士族とするか卒族とするかという、武士の身分問題。それは経済問題に直結。これが原因。さぁて、舞台はやっと北海道の静内へ移ります。稲田家主従の本当の苦労と不幸、始まりはじまり。
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幕末と明治の阿波徳島藩。事件勃発前夜

こんにちは。


国生み神話が残り


たまねぎが美味しい淡路島。

1615年に淡路国が阿波徳島藩領となって以降、
蜂須賀家筆頭家老の稲田氏が明治維新まで、洲本城代。


山の上の洲本城の石積は


いないいないば・・・残念石、こら。


とっても見事な山の上の洲本城がありますが、


洲本城代・稲田氏の時代は、ふもとに政庁を設置。


初代・稲田植元の供養塔。

植元は、徳島藩の祖、蜂須賀小六正勝の盟友といわれます。

父・貞祐が讒言により切腹した後、9歳で父の友人である蜂須賀正勝に預けられ、後に義兄弟の契りを交わします。

豊臣秀吉の四国征伐の際は、正勝と共に功を立てますが、
秀吉によるおなじみ「大名として取り立てる話」を辞退。

蜂須賀家の阿波入部に追従しました。 


この関係が後々まで響きます。


稲田家の家紋は「丸に矢筈」。

二代・稲田示植の時に、淡路島由良城代。
手狭な由良から4年がかりで洲本へ引越し(由良引け)、洲本城代に。

以降、稲田家は代々、仕置職(警察、裁判、公事訴訟を司る)や洲本城代を務め、菩提寺は洲本の江国寺に。

蜂須賀家臣団5千余名のうち、約2千名(3千名とも)が稲田家家臣といわれるほどの勢力。



ここでポイント。

稲田家臣は、蜂須賀家と直接の主従関係にはありません。

藩主・蜂須賀家←家老・稲田家←稲田家家臣。


徳島市丈六寺。

例え初代が盟友であろうとも、稲田家家臣は、徳島藩士から「陪臣」「また者」などと呼ばれて差別され、両者の間には、常に感情的な対立があったといいます。

初代の頃はお互いにわかりあっていても、時の経過と共に「稲田家は他とは違う」意識だけが独り歩きしていったのでしょうか。


淡路島の賀集八幡神社の狛犬さんが笑っているうちに


時は流れ。


幕末。


第13代徳島藩主・蜂須賀斉裕の時代。(徳島市/興源寺。蜂須賀家墓所)

斉裕(なりひろ)は、将軍・徳川家斉の子(22男!)で、最後の将軍・慶喜の叔父。
幕府の陸海軍総裁に任じられ、且つ、天皇からの信任も厚かったとか。


徳島市/諏訪神社の狛犬ず。

藩主・斉裕の生い立ち等から、阿波徳島藩内は公武合体に統一。

一方、洲本の稲田家は、早くから主従ともに勤皇に努め、尊皇攘夷。

特に、稲田稙誠は行動的な尊皇派として知られ、
文久3(1863)年、積年の勤皇を賞され天杯を賜ります。

慶応4(1868)年。甥の稲田邦植は、錦旗護衛を命ぜられ、
有栖川宮総督東征下向に供奉。賞与を賜りました。
(同年、第13代徳島藩主・蜂須賀斉裕は死去。享年48)


ただ、本藩(阿波徳島藩)の許可無し。よって、厳しく非難されます。

明治2(1869)年6月。版籍奉還。続いて秩禄処分。




《秩禄処分とは》

旧藩主は

華族となり、禄高は藩高のおよそ十分の一。
旧藩主は知藩事(天皇が任命する官吏)として、引き続き旧領の統治を行う。

家臣達は

家老級が一等士族で、1000石
中老級が二等士族で、200石
物頭は三等士族で、100石
平士は四等士族で、50石


《稲田さんちの場合》

14500石を領していた稲田家は、家老なので一等士族、1000石。

稲田家家臣は、家老の家臣、つまり「陪臣」なので、四等士族より低い郷付銃卒。

士族にも入ることが出来なかったのです。


これ、端から見れば、そりゃそうでしょ、なのですが。

思い出してごーらん~♪

幕末の稲田家主従が討幕運動で大活躍した事を。

これによって、佐幕派であった阿波徳島藩と藩主・蜂須賀家は明治維新後も無事生き延びたようなもの。


稲田家家臣の心の内は、こうかしら。

稲田家家臣、徳島藩からの分藩・独立運動を展開します。



明治3(1870)年。「庚午事変」の勃発です。



つづく。


参考文献

徳島県立文書館
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/exhibition/k_020/04.htm

洲本市郷土史料館、館内配布資料「庚午事変」


いつも応援いただきありがとうございます。どこの藩にも何らかの確執はあったことでしょうが、淡路島の洲本城代の稲田家と家臣、本藩である阿波徳島藩主蜂須賀家と家臣との間の確執は、どえらい事態に陥ります。この事件をきっかけとして、淡路島は阿波徳島から、本州の兵庫県の所属になります。幕末明治は音痴のためぼちぼちとしか進みませんが、何卒お付き合いくださいませ。
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洲本城の変遷と蜂須賀家家老稲田氏

こんにちは。


炭火焼きあなご。


昨今漁獲高の落ち込みが懸念される生しらすどん。


オニオンでビーフなバーガー。


たまねぎ。

はい。たまねぎといえばー?


本州からこの橋を渡りたどり着く


淡路島。


熊野水軍の頭領の安宅治興が1526年に築城。


三好氏の重臣であった安宅氏は、最初に由良、洲本、他6箇所に築城。

治興の後は、養子安宅冬康(三好長慶弟だが兄に誅殺される)→信康(冬康長男)→清康(同・二男)。

1581年。秀吉の淡路攻略。

安宅信康は本拠地であった由良城を秀吉に明け渡し、 洲本城もこれに倣って開城。

その後の淡路国には、仙石秀久(高野山へ追放)→脇坂安治。


現存する石垣の大部分は、脇坂安治時代に造られたもの。


洲本城から見える由良城。


由良の高台から見渡せば、怪しい動きのお船も一目瞭然。

脇坂安治は慶長14年(1609)までの24年間、ここ洲本城に在城。

1609年。脇坂安治は伊予に移り、藤堂高虎が預り、城代を置きます。
1610年。池田輝政が淡路国を与えられ、三男・忠雄が、まず岩屋城に、そして、由良城に居城します。



1615年。淡路国は阿波徳島藩主である蜂須賀至鎮へ加増。
蜂須賀家家老の稲田氏一族が由良城代となります。

このとき、淡路島を領する者が、本州側から、四国側へと移ったことになります。

しかし、由良という場所はどうも使い勝手が悪い。


由良城を廃し、洲本城に再び本拠を移すことを決定。


「由良引け」と呼ばれる、由良城下をごっそり全部お引っ越しの作業です。

1631年から1635年、なんと4年間もかかりました。

この「由良引け」で由良城は廃城、洲本城が淡路政庁と定められ、明治維新まで稲田氏が洲本城代を務めることとなったのです。


やがて上のお城は廃され、麓に政庁機能を移します。

以降、上のお城が使われることはありませんでした。


今は、洲本市立文化史料館や裁判所が建ってます。


鳴門海峡を挟んで対岸は徳島。


徳島から見た淡路島。

蜂須賀家家老、稲田氏。


徳島県徳島市丈六町丈領にある、丈六寺。


「阿波の法隆寺」と呼ばれるほど寺宝の多い丈六寺には、
蜂須賀家の重臣達の供養塔や墓所が並びます。


初代家老の稲田種元の供養塔。


稲田氏の拠点、洲本。

彼らは後に、この港から旅立ちます。行き先は


シベチャリチャシ跡のある、北海道の静内。


アイヌの英雄シャクシャイン。


シャクシャインの拠点であるシベチャリチャシ跡。



なぜ温暖な淡路島から、はるばる北海道の静内へ向かったのか。

次回につづく。


いつも応援いただきありがとうございます。お久しぶりの淡路島。淡路島へ行くたびに、北海道の静内へ行きたくなっておりまして。やーっと先日、念願かなってほくほくです。淡路島といえば、たまねぎ。淡路島の美味しいものも、北海道と同じくらいだぞっと。何だろうな、やっぱり産地でいただくと何でも美味しいのかな。
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