硫黄山(4)安田善次郎と釧路鉄道。硫黄採掘事業でうはうは

こんにちは。


硫黄山(アトサヌプリ)採掘事業のお話。


さて、安田善次郎。

安田財閥の創始者。

富山藩下級武士(足軽)安田善悦の子。
安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士。

安政5年(1858)奉公人として江戸に出て、玩具屋、鰹節屋兼両替商に勤めました。(wikipediaより)

安田善次郎は、幕末・維新の経済混乱、外国での銀価の下落、太政官札の買い占め等に手腕を発揮。

司法省・農商務省等をはじめとする莫大な官金を無利息で預り、これをライバルの少ない地方で高利で貸付け、巨額の富を築きました。

明治19年。安田善次郎は北海道庁と現金取扱方を契約。


明治20年2月末、山田慎より硫黄山採掘権を十ヶ年の借鉱契約で取得

硫黄山の鉱山経営が、安田善次郎へ移ります。


【安田善次郎の硫黄事業】

山田慎の時代、釧路集治監の囚人達を硫黄採掘に就役させますが、余りに悲惨であったため、安田の時は硫黄採掘には就労させず。

しかし、釧路鉄道の建設、釧路川の浚渫(しゅんせつ)、道路開削等には囚人が就役しており、集治監より労働力を調達する形は変わらず。


《釧路鉄道の敷設》

安田善次郎といえば、北海道で3番目の鉄道「釧路鉄道」敷設。



明治19年。跡在登(硫黄山付近)⇔標茶間の38kmが開通。
工期わずか7ヶ月。


アメリカから購入した蒸気機関車2台「長安」「進善」。

汽車ポッポですから、ごはんは石炭。

ここで安田善次郎は「釧路春採炭坑」を開発。
安田炭坑、太平洋興発(三井財閥傍系)の前身となる炭坑です。


明治24年(1891)「釧路鉄道」設立。
翌年、内務省から鉄道布設免許状と補助金2万円を受け、同年9月8日から運営。



硫黄の運搬だけでなく、次第に増えた開拓民を旅客として乗せるように。(客貨事業として認可)


《さよならです》

次第に採掘量が減少。採り尽くしました。

明治29年、硫黄山の採掘中止。標茶精錬所も操業中止。



明治20年2月末、硫黄山採掘権を十ヶ年の借鉱契約で得てからわずか9年です。短いです。

元々安田自身が

「三、四年ノ継続ノ見込ハ必ズアルベシ。要スルニ販路販価次第ニテコノ山ノ命脈ヲ伸縮スベキノミ」

と考えており、硫黄山採掘事業は彼には短期事業に過ぎなかったと。


もうけに来はったのね。

硫黄山は山田慎へ。

精錬所と釧路の炭鉱は安田へ、渡ります。


さらに、安田が17万円の投資で敷設し、硫黄の運搬に利用した釧路鉄道は、北海道鉄道敷設法の制定に伴い、明治30年6月に20万円で北海道庁へ売却。

※現在のJR釧網線の一部は釧路鉄道の軌道を利用。

安田善次郎が得たものは、

投資額17万円(34億円)、売却額20万円(40億円)。
単純にみて、3万円(6億円)の差額。

この他に硫黄採掘事業で得た莫大な利益。


安田善次郎の勝ちです。

明治期らしい「資本家を利用した(された)国家の近代化」話です。


《町の衰退、標茶の場合》

標茶は硫黄精錬所があり、また、釧路集治監が置かれた町。

明治29年の安田の硫黄採掘事業撤退に続き。

明治30年の英昭皇太后崩御により維新後初めての大赦。
多くの長期囚が放免され、その後も、囚徒の数は減少し続け。

明治34年(1901)
政府は、空知と釧路の集治監を廃監。釧路は網走分監に吸収。

設置されてから17年。

最高時(明治23年)には1千409人の囚人、官吏280名がいた釧路集治監がなくなることは所在地の標茶町には死活問題。

明治27年(廃止前最盛期)381戸5千591人
明治36年(廃止後)   140戸600人

人口激減。

後に軍馬補充地となったことで持ち直し、また、釧網線が通り、交通の要衝として現在まで続いています。


《硫黄山所在の弟子屈町のその後》

硫黄山採掘が中止となった明治29年。

北海道内陸部の農業開拓政策が実施され、明治30年。

弟子屈村の原野の殆どが皇室御料地に編入。


左から、硫黄山、帽子山、兜山。

計画的な植民移住が推進され、翌年より富山県より第1次移民50戸が入植。

明治45年までに208戸(うち41戸は放棄)。

御料局は移民による農業開拓と共に官地の森林資源を払い下げ。
釧路への富士製紙進出をきっかけとして、弟子屈・屈斜路地域に林業が発展。

釧路川を使って流した材木は釧路港で貯蔵され、販売。
(貯木場は平成26年老朽化により閉鎖)

大正時代には、飛騨(岐阜)や日田(大分)より専業の杣夫や筏師が入り、製紙用の針葉樹・輸出枕木材の広葉樹(価格は針葉樹の3倍)の取引が農業開拓を進める間、収入を支えます。


今は牧草地や広大な畑が広がります。


《硫黄山採掘事業のその後》

昭和6年(1931)跡佐登鉱業株式会社設立。操業再開。
昭和19年(1944)企業整備令により休山。
昭和26年(1951)跡佐登鉱業は野村鉱業(野村財閥系列。旧イトムカ鉱山を経営)の子会社となり、再開。
昭和38年(1963)採掘事業終了。
昭和45(1970)閉山。


・・・ちーん。


ほぼ採り尽くした硫黄山。


現在は観光地。


今は気持ちいい道が通ります。


硫黄山の形は溶岩ドーム状。


山の中央に数百年前に水蒸気爆発を起こした『熊落し』という火口。


盛んに噴煙活動中。

大小1500ヶ所以上の噴気孔から火山性ガスを含んだ水蒸気が噴出。

この火山性ガスには硫黄成分が含まれているため、硫黄山の周囲は硫黄の匂いがぷんぷん。


噴気孔の周辺の黄色いものは、硫黄の成分が結晶化したもの。


まだまだ増えそう。


硫黄山周辺にはハイマツ層。


少し離れてイソツツジ層。(下にみっちり生えているやつ)


寒くなると真っ赤に色づき、6月には白い花が一面に咲きます。


摩周湖、屈斜路湖にも近いです。


硫黄山近くに川湯温泉。

硫黄山を熱源とした硫黄泉。

この硫黄泉は泉源が非常に浅く、地下数十mを流れているとか。
pHは2前後と強酸性。五寸釘も温泉のカランも溶けてしまうほど。


川湯神社。


かけ流しの手水は、強酸性の硫黄泉。ぴりっ。


ぼろもうけした人がいるけどね。


大きなお水を見てストレス発散。


参考文献

「釧路川紀行」(佐藤尚著/釧路新書2/釧路市史編纂事務局/1977)
「標茶町史考」(標茶町史編纂委員会編/1966)
網走行刑資料館展示資料、標茶町HP内「標茶町の歴史」閲覧

いつも応援いただきありがとうございます。
資本家による国家の近代化のひとつ「硫黄採掘事業と釧路」。当初は港の規模等で釧路港よりも厚岸港が勝りますが、背後に優秀な資源である硫黄と材木があること、釧路川があることから、釧路港が発展します。硫黄採掘事業で得た利益は安田善次郎には微々たるものかもしれませんが、内陸部の硫黄山周辺と釧路港、道中の地域の発展には大いに貢献したということですね。

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硫黄山(3)釧路集治監と囚人達

こんにちは。


硫黄山(アトサヌプリ)

明治9年、釧路の漁場持(網元)・佐野孫右衛門、試掘を出願。
翌年より5万坪の借区の認可を受け、採掘開始。


山林原野に道を作り、馬で運び。


ちょっとあなた。


しかし、採掘量が優秀でも、やはりネックは輸送路。経営を圧迫。

明治18年。函館の銀行家・山田慎が買収。

山田慎。函館銀行の経営にあたると同時に、第四十四国立銀行支配人。

第四十四国立銀行の立て直しのため、山田慎は、私財である硫黄山を担保に、安田善次郎へ整理を依頼。

硫黄山での硫黄採掘に着目した安田善次郎は、17万円を投資。
現在の貨幣価値に換算すると、17万円×2万円=34億円。ひゃー。



明治29年まで安田善次郎との共同経営。


【釧路集治監】

硫黄山を山田慎が買収した年、明治18年。

標茶に、「釧路集治監」が創設されます。

明治18年開設、明治21年「釧路監獄署」、明治23年「釧路集治監」、明治24年「北海道集治監釧路分監」と数度名称を変え、明治34年に閉鎖、網走分監(現在の網走刑務所の前身)へ移されます。


《釧路集治監建設までの背景》

《集治監とは?》

明治6年の改正律令発布で、「懲役制」採用。

明治7年佐賀の乱、明治8年西南の役。
国事犯、政治犯の激増。収用施設の不足と不備が顕著。

ひとまず、

明治12年。宮城と東京小菅に監獄を新設。集治監開庁。

管轄の内務省は元老院へ「北海道への監獄の新設」を継続上申。


○○需要○○

幕末より北方警備の重要性、それに伴う開拓の必要性がアップ↑↑

明治政府は禄を失った士族を移民させ開拓に従事させますが、これには国よりお金を与えており、つまり金がかかる。

どこかに無償で働く人手はないかしら?


○○供給○○

伊藤博文内務卿の上申、太政官決裁により、北海道へ監獄を新設することが決定。

「本道二囚徒ヲ移シ開拓ノ功二従事セシメ国家ノ経綸二沿ハン」

北海道では、樺戸集治監(明治14年/月形町)、空知集治監(明治15年/石狩)、釧路集治監(明治18年)、釧路集治監網走分監(明治26年)を新たに設置。


無償の人手を求める北海道の開拓と、人手が有り余る集治監。
需要と供給がぴたっと。

かくして、北海道開拓の担い手に「お金のかからない人手」である囚人が加わります。


【硫黄山と釧路集治監】

明治18年11月10日。標茶町に囚徒700名を収容する釧路集治監創設。

収容されたのはいずれも全国の監獄から送られてきた刑期10年以上の重刑囚。

明治18年の囚人は、192人。

明治29年には1千371人。
内訳は有期徒刑695人、無期徒刑649人、有期流刑12人、懲役終身者65人。
行刑官史も最低190人から最高280人を数える大規模な集治監でした。


囚人のお仕事は、硫黄山での硫黄の採掘と、道路の開削工事。

明治19年。硫黄山に外役所(がいえきしょ)を設置。


外役所は、採掘現場から数十mの場所に作られました。

同年、硫黄山共同経営者の安田善次郎は、鉄道建設を開始。
作業に従事したのは、300名の人夫と300名の囚人。

明治20年。跡在登(硫黄山の付近)から標茶までの38キロを完成。

標茶には、近代的な製錬所を建設。



これにより、硫黄は、鉄道で標茶まで輸送し、製錬。
標茶から釧路までの72キロは釧路川を船で輸送。

これが北海道で3番目に敷設された「釧路鉄道」です。


《硫黄山でのお仕事》

山田慎は経営改善策のひとつとして、積極的に硫黄山採掘を釧路集治監の囚人達にも行わせます。

標茶町史及び標茶町HPに記述があるので引用します。


「採掘作業は、硫黄の粉と亜硫酸ガスに目を犯されない者はいないという悲惨なもので、栄養失調も重なって、両眼を失明する者が相次ぎました。
また、看守も囚徒も硫黄によって頭の働きが異常になり、朦朧としたりイライラして起こる殺傷事件も続出したり、逃走者も絶えなかったといわれています。
こうして操業が始まってからわずか半年間に、囚徒300名余りのうち、45人が病み、42人が死亡しています。」



現在でも硫黄が露出し、ガスが絶えず噴出しています。


鉱山的には、地上に露出した鉱石を採掘する「露頭掘り」となるのかな。


見学可能場所でさえ、足元注意です。


地下水じゃなく熱湯が噴出する危険な所です。


「明治30年になって、合葬する為この地(※標茶墓地)を掘り起こしたところ、出てきた遺骨は300体にもなり、その中には手錠をかけられたままの白骨もあったということです。

このような囚人苦役の状況は、内地にある仮留監の囚徒にも聞こ
え『北海道に行けば熊に食われるか斬り殺される』と怯えられ、北海道への移送を拒み、反抗する気配まであったといわれます。」


このように困難を極めた硫黄山での硫黄採掘。


さすがに釧路集治監は、明治20年11月に硫黄採掘の労役を中止。

以降、釧路集治監の囚人達は、

釧路川浚渫、標茶⇔厚岸間道路、標茶⇔釧路間道路、硫黄山⇔網走間道路、厚岸屯田兵舎、大津⇔伏古間道路、網走⇔上川間中央道路などの土木建築や、

釧路集治監から釧路郡役所まで16里の電話線の架設などのお仕事へ従事します。



※参考文献はシリーズ最後にまとめて記載


いつも応援いただきありがとうございます。
悲しい辛いことですが、北海道開拓の担い手がこうした人々であったことは事実。隠すことはかえって失礼でしょう。硫黄山は採掘が終わった現在では観光地として賑わっています。しゅぽしゅぽする岩場を見るときには、少しだけでもここで命を落とした人がいたということをもっと知るべきだと思います。

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硫黄山(2)釧路の網元佐野孫右衛門、硫黄を掘って運ぶ

こんにちは。



今でこそ屈斜路湖、摩周湖、川湯温泉、そして広大な農地があり、北海道の醍醐味を思う存分味わうことができる素晴らしい観光地ですが、古くは本州から見ると最果ての地。それでも

屈斜路湖湖畔には、アイヌの集落・アイヌコタンがあり。


祭祀を行うヌササン。立つのは、イナウ(幣)。

安政5年(幕末)当時、8戸のアイヌコタンが点在(『久摺日誌』)


子熊を育てるエペレセッ。熊はカムイ(神様)。



毛皮を求める商人や鉱山師(やまし)の往来はあるものの、硫黄山(アトサヌプリ)周辺は、その成分のために草木は生えず、荒涼。

にわかに活気づくのは、明治。

キーワードは、安田善次郎。

安田財閥の創始者です。


【背景・硫黄って何だー?】

マッチや染料、花火、殺虫剤、さらに火薬の原料として需要あり。


(東もこと乳酪館のもーもー親子)

特に、明治政府の外貨獲得のために各地で採掘。


【鉱山のはじまり】

明治5年(1872)釧路の漁場持(網元)・佐野孫右衛門。

硫黄山(アトサヌプリ)の硫黄の質の良さと含有量の多さに着目。


明治9年、試掘を出願。
翌年より5万坪の借区の認可を受け、採掘開始。

ここでネックになるのが、輸送路。

目的地は、各地へ船で輸送するために釧路港ですが、

「孫右衛門発見ノ時『アトサノホリ』近傍ノ道ハ『テシカガ』(※アイヌ集落)ヨリ『クッチャロ』(同)二通ズル一線ノ外ハ絶エテ是ナク(略)」(『北海道鉱山略記』)な状況。


《孫右衛門の功績。道を拓く》

ポイントは、屈斜路湖から釧路まで続く釧路川。
釧路湿原を貫通する川です。



釧路から弟子屈まで釧路川右岸沿いに曳き船を引く人道を開削。
距離23里(1里=3.9km。89.7km)。

船は自力で川を遡ることが出来ないので、人が引っ張らないといけません。よって、川沿いに人道が必要。


遠いぞー。

弟子屈から跡佐登(硫黄山周辺地名)までは、陸路。


山林原野に輸送の馬が通る道を開削。


跡佐登(硫黄山周辺地名)⇔弟子屈は、馬。弟子屈⇔釧路は、釧路川でお船。

鬱蒼とした山林原野と、89.7kmもの長い長い距離に人道を開削。

はじめに着手した孫右衛門達の苦労は、お金のためとはいえ、並大抵のものではなかったろうと思います。


ねー、すごいよねー。


《操業》

硫黄の製錬法は、

鋳鉄製の「ズク竃」に採掘した硫黄混じりの石を入れて溶かす

鋳物の「冷やし竃」に流し込み少し冷やす

柄杓で桶に汲み入れて、土砂等と硫黄を沈殿分離

ちょー原始的。

しかし、硫黄山の硫黄含有量は非常に優秀。



明治16年には、硫黄採掘高は9万2千石。北海道第1位に。


【金がない】

採掘量が優秀でも、やはりネックは輸送路。経営を圧迫。

明治18年。函館の銀行家・山田慎が買収。


【銀行家の登場】

山田慎。函館銀行の経営にあたると同時に、第四十四国立銀行支配人。

当時北海道で手広く展開していた第四十四国立銀行。
しかし、多額の資産を持ちながらも破綻寸前に。

山田慎は、私財である硫黄山を担保に、安田善次郎へ整理を依頼。
安田善次郎との共同経営を行うも、
さらに、銀行の債権回収が行き詰まり、最終的には。


(東もこと乳酪館の子)

明治20年2月末、安田と硫黄山採掘権を十ヶ年の借鉱契約で契約。
硫黄山の鉱山経営が、安田善次郎へ移ります。


うーむ。ほんとだねぇ。


で、安田善次郎って何する人。

つづく。


☆☆☆本日の狛ちゃん☆☆☆

北海道斜里郡清里町の清里神社

⇒⇒⇒清里神社でエゾリーに会う

⇒⇒⇒清里神社。巻き毛がお菓子な狛犬さん


※参考文献はシリーズ最後にまとめて記載


いつも応援いただきありがとうございます。
時は明治ですから、生野銀山ではトロッコ等が登場する時代です。しかし、硫黄山ではまず原野に道を作り、輸送路を確保するところから始まりました。銀山家とか財閥とか、いかにも「明治」な人が出揃ったところで次回ですが、北海道の辛い面が中心になります。調べていても悲しいです。

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硫黄山(1)川湯温泉駅前の光景。道東へ

こんにちは。


突然ですが、北海道の摩周湖です。


1年ぶりに登場、くまぼっこ。


ほほぉ。


アイヌ語の、「アトゥサ」(裸)+「ヌプリ」(山)に由来。

この硫黄山の向こう側に


美幌峠からの屈斜路湖の眺め。


屈斜路湖は、屈斜路カルデラの中にできたカルデラ湖。

屈斜路カルデラは、日本最大のカルデラ。東西約26km、南北約20km。


大きすぎて全体を見渡すこと能わず。


硫黄山は屈斜路カルデラの最後の大噴火(約3万年前)以後に出来た火山。


釧網(せんもう)線(釧路⇔網走)の川湯温泉駅。

撮影は2015年9月。


2016年夏に台風が連続して北海道へ襲来。

摩周⇔知床斜里間(58.4km)が湿地帯のため、一部冠水。
数日間運休していましたが、9月中旬に運行再開しています。

が。

「今夏の台風7、11、9、10号などによる一連の大雨被害はインフラや農業などの被害総額が計2786億円に上ることが北海道と国土交通省の集計で分かった。水害による被害額では1981年8月の『56水害』(2704億円)を上回り、過去最大となった。」(日本経済新聞/2016.9.28配信記事より引用)

4つの台風災害は一括して激甚災害指定を受けましたが、交通網が寸断された箇所、農地などいったいいつ復興出来るのかを思うと胸が痛みます。


いりません。


熊さん、来たよ。電車、来たよ。


おおお。しれとこ、だよー。


ちょっとあなたっ。


別に知り合いが乗ったわけじゃないけど、見送るのは寂しいものが。


お向かいの線路でははたらくおじさん。


雪を払いのける電車?突撃する電車?初めて見たっ。

夏の間は牽引車両のお仕事するのかなぁ。


川湯温泉駅構内には、「オーチャードグラス」


ここではいつも、ビーフシチュー♪

カレーも、ハンバーグもピザもデザートも美味しいです。


味わい深い店内は、落ち着きます。


ホームから見ると、こんな感じ。


すかーーーっとしてますが、穴場なカフェとか温泉がある駅前。


トイレです。


川湯温泉駅から見た硫黄山。


フルカラーでございます。

さて。

硫黄山と呼ぶからには、当然ここにあるものは、


硫黄ですな。

兵庫の生野銀山、島根の石見銀山、奥出雲と岡山のたたら製鉄に続く「いつのまにやら鉱山シリーズ」の第4弾の、


もうすぐ冬ごもり。

ちゃうわっ。


硫黄山(アトサヌプリ)の物語の始まりです。



いつも応援いただきありがとうございます。
鳥取県の川六狛犬(まんまるちんはまた今度♪)と山陰の旅話は一旦お休み。このままお蔵入りかと諦めていた硫黄山へ飛びます。画像は昨年のものなので現況とは異なる箇所があろうかとは存じますが、こちらも「あたたかくなったら旅してね、お金を落としてこようね」の気持ちを込めて。

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アイヌの豊かな暦と祭祀。農耕とのつながり

こんにちは。

陰暦の日本と太陽暦の西洋との間に生じるズレにより、四旬節とお正月が被ってしまった布教当時のキリスト教。

宣教師が四苦八苦して、お正月優先になりました。

アイヌの暦はどんなんかなー?



自然の中で独自の生活形態を続けている中で、彼等が使っていた暦は、どうやら自然暦だったようです。

初雪が降れば、もうすぐ冬だなー。と思う。そんな暦。



アイヌは居住地域による独自性が豊かで暦の呼称も様々なので、言葉の持つ意味を並べると。


1月 日がそこから長くなる月   
2月 鳥が出て鳴く月   
3月 ひめいずいを取り始める月(「ひめいずい」はユリ科の植物)
4月 ひめいずいを盛んに取る月   
5月 ハマナスを取り始める月   
6月 ハマナスを盛んに取る月   
7月 木の葉の初めて落ちる月   
8月 木の葉の盛んに落ちる月   
9月 足の裏が冷たくなる月   
10月 松明で魚をとる月   
11月 弓が折れるほど狩りをする月   
12月 海が凍る月  



9月のハマナスは実がついてました。

弥生、葉月、霜月等と同じようにそれぞれの季節を表していますね。
自然の様子を用いて季節を表し、とても生活に密着してます。

実用的だなー。



阿寒アイヌのおうち、チセ。


「アイヌの正月の行事といっても、暦といふものもなく、従って旧年と新年と即ち一年と一年との限界をはっきりさせる事もなく、又生活環境上その必要もなかった。」
(『アイヌ民族の文学と生活』久保寺逸彦/草風館/2004)


同上『アイヌ民族の文学と生活』の中で、松浦武四郎の聞き取りが記されています。

「古老のコントランは博識で故事をよく知っており、土用や彼岸、冬至や夏至など、暦がないため1日、2日のズレはあるけれど、3日、4日のちがいはない。またアイヌ語の12ヶ月を次のように答えた。1月いのみちゆつふ、2月はふらふ、3月もきうた、……というのである。」

※コントランのような博識はまれな例であって、これを以て全般を推すことはできないかもしれないと久保寺氏は述べています。



チセ内の炉端。

季節の節目に何か祭祀を行うことはなかったのかな?


炉端の上のイナウ。神様の宿るもの。

松前藩の場所請負制度が発展した江戸時代以降、広く深く和人が入りこみ、アイヌの生活も変化します。


祭祀を行う神聖な場所、ヌササン。


「カムイ・ノミは、特定の日に行われるという事がなかったが、特に心を入れてこれが行われたのは、次の時期においてである。

一、和人の旧正月を祝うころ。
二、山へ狩猟に出る前の、春彼岸にかけてのころ。
三、熊送りの際、及び熊送りに来た他部落からの礼拝者を送り返す際。
四、農収穫の日をめぐる秋の時期」
(稚内市:柏木べん氏)。

(『アイヌの民俗』早川昇/岩崎美術社/1970)



祭祀に用いるイナウ。


「この儀式(カムイ・ノミ)をわれわれがしますのは、正月や盆の外にも、春先の稲の播種前とか、畑作の好収穫を祈りたい時とか、病気の家族で困ってます時とかにです。」(むかわ町:宇南山久太郎氏)。

(『アイヌの民俗』早川昇/岩崎美術社/1970より)




「和人の旧正月」等は暦によるものの、その他は折々に祭祀を行っていたようです。

その祭祀が農耕のスケジュールと結び付いている事も面白いです。


豊作だといいね。


参考文献

『アイヌ民族の文学と生活』(久保寺逸彦/草風館/2004)

『アイヌの民俗』早川昇/岩崎美術社/1970


いつも応援いただきありがとうございます。今年の汚れは今年のうちに何がなんでも落としたいわたくし。ただいま、格闘しております。もっと早くから始めればよかったよー(T_T)・・・と、毎年泣いております。スケジュールを組むことが苦手です。とほほ。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

津軽藩士、七割が斜里に散る。『松前詰合日記』最終回

こんにちは。

斉藤勝利の記した『松前詰合日記』の表紙。

「此一冊は 他見無用 

   松前詰合日記 

 永く子孫江と伝」




流氷に覆われたオホーツク海。

何もないながらも、お年始挨拶を交わした斜里場所の津軽藩士達。


2月上旬、公儀御役人の交代があります。

田沼意次時代に蝦夷地調査を行った経験豊富な最上徳内は、斜里から紋別・宗谷を経由して松前へ。

代わって宗谷から岩間哲蔵が入ります。


《2月6日~3月6日》

ほぼ毎日のように死者が出ます。

宗谷・松前での養生を希望し出立しても、皆、途中の網走、常呂、紋別で死亡。


《3月15日~4月2日》

3月15日、三御長屋御人数残らず病気となり、病死の者も多く出たので、なんとなく物淋しくなり、なおまた食事の世話をする者、水汲みの者もなくなり、枕を並べて寝伏している有様は、見るからに哀れな光景となった。

いよいよ無事な者がいなくなり、アイヌの「弁慶」という青年を飯炊き、水汲み、薪作り等に雇います。


4月2日(陽暦4月27日)になって大海の氷が解け始めたので、やがて船も通うようになるだろうと喜び合った。
それにしても、生魚は去年の9月に食べてから現在まで口にしていない。7ヶ月間いっさい食べず、その姿すらみたこともない。



宗谷から藩船で米・味噌等は運び入れており、
日記の中に「ひもじい。食べるものがない」といった記述も見られない事から、彼等を苦しめたのは飢餓ではないようです。

津軽藩士達を襲ったのは、「浮腫の病」。

オホーツク海を一面覆う流氷。

これにより生魚や昆布等を得られなかった事が、
彼等の病の原因と考えられています。


《5月2日》

松前城下から御飛脚として2名が斜里に到着。
松前城下の様子などを語り合ったが、久しぶりのこととて非常に珍しく感ぜられ、楽しかった。


5月18日。最後の死者が出ます。


《閏6月24日》

昼過ぎ、当地の沖合いに帆掛船が現れます。
これが、「当初引き払い命令」の御用状を持参した船だったのです。

450石積み千歳丸到着しだい引き揚げよとのことで、これを皆々に伝えたところ大いに喜び、このことを公儀御役人衆へ報告し、それから準備に着手した。

長屋3ヶ所、物置所、稽古所の建物は全て残置し、斜里場所支配人へ引き継ぎ。

米・味噌・塩の類は公儀で買い上げの予定なので、それぞれ計量。
その代金57両(約400~500万円)。

(※この事からも米の備蓄は充分あったことが判ります。)


いよいよ斜里を離れる日が来たのです。

そこで。

斜里で死亡した者達の墓所へ。

「桧で高さ2間・7寸角1本の墓標」に「病死者72名の俗名を席次順に書き記し」、墓所に立てます。


それから墓所の土を少しずつ死者の数だけ紙に包み、名前を書き記して箱に入れ、それを七島莚(むしろ)で包み、帰国のさい斎藤文吉の宿元へ持参のうえ、各自の宿元へ届けることにした。

迎えの船「千歳丸450石」が到着し、風向き次第で出立となったことを墓前に伝え、各自へ水を供えたのであるが、思わず涙にむせんだのである。



遺骨の代わりに、墓所の土を家族のもとへ届けるのです。
生き残った者には、まだまだ辛いお役目が残ります。

宗谷から斜里へ集まった津軽藩士は、105名。
うち、斜里の墓所に眠るのは、72名。


《閏6月26日(陽暦8月17日)》

生き残りの17名は、ようやくお役目を終え、斜里の地を後にしたのでした。




現在、斜里の町では、毎夏にねぷた祭が催されます。

それは、津軽藩士の故郷、弘前のねぷたの形。



斜里町立博物館には、ねぷたが展示されています。


以上、斉藤勝利の記した『松前詰合日記』のお話でした。


おしまい。


参考文献
「知床博物館第13回特別展図録『近世の斜里』」
「知床博物館第3回特別展図録『斜里—下町の歴史散歩—』」(斜里町立知床博物館刊)

斜里町HP「町のあゆみ」
https://www.town.shari.hokkaido.jp/20syokai/20rekishi/10ayumi/

サイト「斎藤文吉の『松前詰合日記』を考える」
→→斎藤文吉の「松前詰合日記」を考える
http://island.geocities.jp/pghpnit1/saitohbunkichi.html

※記事中の緑文字は上サイト中『松前詰合日記』より引用

北海道大学北方関係総合目録『松前詰合日記』
http://www2.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?id=0A030250000000000


いつも応援いただきありがとうございます。津軽藩士達が斜里町に残したものは、仲間の亡骸を埋葬した墓所。帰国しても労いの言葉こそあったでしょうが、大勢の死者を出したことは藩の汚点として箝口令が敷かれたに等しい状態。生き残った者達の心情は如何に。一方、斜里町には、日記の発見後に彼等の記念碑が建てられました。毎年夏に催されるねぷた祭で彼等を偲んでいます。
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『松前詰合日記』流氷が来てお正月

こんにちは。

斉藤勝利の記した『松前詰合日記』の表紙。

「此一冊は 他見無用 

   松前詰合日記 

 永く子孫江と伝」



斜里に流氷が着岸した11月中旬。

斉藤勝利の記した『松前詰合日記』には、日々死んでいく仲間達の名前が並び始めます。


《寒いよ寒いよ~》(『松前詰合日記』より)

11月14日(陽暦12月12日)から吹雪が強く、寒気もいよいよ厳しくなったので、外出を禁止。
しかし、井戸がないので川水を使用しているが、大荒れになったので浪高く、川口に潮水が混入し、水汲みの者どもは非常に難儀した。

また陣屋内で話合いをしても、浪音が高くて言葉も聞き取りかねた。



故郷の弘前よりも「綿入れ2枚ぐらい重ねたい」程の寒気に震え、
海岸の流氷の山に驚く一同。

井戸がなく、水汲みの為に川へ行かなくてはならない環境は、
この後も藩士達にとって負担になります。

いよいよ厳冬となる中でも、津軽藩士達は外国船から国を守るための勤番を命ぜられた為に、公儀役人の武芸検分の要請に応えています。


11月22日。

作事請払役工藤文作・勘定人加勢田中才八郎・勘定人笹森寛蔵の連名で、
津軽藩三御長屋賄方宛に「尚、切組帳早々に申し出られるよう」と要請。

1.克己守格太刀 表一本 土岐専司  同ニ本目 葛西善弥 
  同三本目 藤田伊三郎 同四本目・五本目 斎藤文吉
  右打方 田中才八郎

右はこのたびご検分につき出仕する者の名前である。以上。

武芸検分に出場する者達は、午前8時うちに揃って出仕するよう御申達があった。


・・・この頃までは、元気な人もいたんだなー(T_T)

「希望の者は精々訓練に励むようにとの御申達があるよ、きっと」とも記していますが「しばらく武芸検分はやめとこうか」との知らせが届きます。

それどころじゃないのです。


オホーツク海の流氷


《死亡者の記録》(『松前詰合日記』より)


日記によれば、11月中旬頃より詰合御人数の大部分が浮腫病に罹患。

はじめは「水汲み、飯炊き、薪作りなど」を残る健康な者が行うものの、やがて軽症者も手伝わなくてはならなくなり、役分に関係なく従事する事態に。


11月25日
最初の死者が出ます。

11月25日~12月12日の間に8名が死亡。

死因は「浮腫病」。

12月末までの2週間に10名が死亡。
この間に、斜里詰合公儀・金井泉蔵も死亡。


病状の悪化した者の中には、宗谷での養生を希望した者が多くいました。


(1807年当時は東西蝦夷地は幕府直轄領)

松前から宗谷へ入り、オホーツク海を南下した津軽藩士達の認識は
「斜里は宗谷より更に77里の奥蝦夷地」(7月16日の日記)。

また、宗谷には津軽藩士が数多く詰めています。

しかし、彼等は途中の網走や紋別で死亡。

アバシリ(網走)は斜里より9里。
「蝦夷家は30軒ある。ここに甲岩があり、小廻船の停泊するところ」

紋別は網走から宗谷の途中。
「公儀の会所があり、紋別川では鱒・鮭の漁獲があり、船付き場所でもある。蝦夷家は35、6軒ある。」


『松前詰合日記』は個人的性格よりも「公的な日記」であることは前記事で述べました。

斜里で死亡した者の氏名・死亡日を克明に記録することは、論功行賞や死亡者家族への対応等事後に予想される様々な事態に備えるのに必要な事項。

現地での対応も記述されます。

浮腫病(壊血病)にかかり病死したのでこれを上役へ報告したところ、足軽目付桜庭又吉ならびに同役の者どもが立会いのうえ、死者の所持品を点検して帳面に記し、目付の者が封印して荷物とし、物置所へ保管した。

日記とは別の「帳面」の存在が判ります。

文中に記された目付。なんと肝心の目付自身が後日、病死。


《それでも礼節は保ってるよ》(『松前詰合日記』より)

こんな状況下でも、お正月はささやかながら。


(お鏡餅はありませんでした)

12月28日。松飾の日となったが、雪中のこととて松・竹・ゆずり葉・海老の類はないので、松のかわりにトドの木に笹の飾りをつけて、ともかくも大晦日の年越しをした。
別段料理ごともなかった。

文化5年(1808年)1月1日(陽暦1月28日)~1月29日

文化5年辰年となった。

辰の正月元日(陽暦1月28日)となり、めでたく挨拶の遣い初めをして祝儀は整った。

公儀御役人衆へ年始のお祝いとして、笹森寛蔵、田中才八郎および医者石井隆仙が参上した。その他の大筒役黒石三郎兵衛・鳴海八弥・佐々木直八、作事受払役工藤文作ら主だった者は病気のため同行できなかった。さて三御長屋諸組の者どもは、上御長屋へ平服で御祝に参上、それからほかの御長屋にも挨拶に回った。

正月4日、松飾を引き締め、これでお祝儀は済んだ。



津軽藩士達は、一番隊・二番隊・三番隊の三隊で斜里へ赴任。
それぞれ上中下の長屋に居住します。

三隊各々の管理職3名が年始挨拶のため公儀御役人衆(斜里詰合公儀・金井泉蔵は既に死亡)へ参上。

三つの長屋もお互いに年始挨拶。

この松の内の間にも5名が死亡。

以降1月末日までに死亡したのは、22名。
相次ぐ病死は残りの病人達の気力を奪ったことは言わずもがな。


ともに哀れを催したことであった。(『松前詰合日記』より)


つづく。


参考文献
「知床博物館第13回特別展図録『近世の斜里』」
「知床博物館第3回特別展図録『斜里—下町の歴史散歩—』」(斜里町立知床博物館刊)

斜里町HP「町のあゆみ」
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サイト「斎藤文吉の『松前詰合日記』を考える」
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※記事中の緑文字は上サイト中『松前詰合日記』より引用

北海道大学北方関係総合目録『松前詰合日記』
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いつも応援いただきありがとうございます。「トドの木に笹の飾り」というあまりにささやかな松飾り。病人が多数出る中、新年を迎えたんだよ、と伝える気遣いなのでしょうか。次々に罹患する彼等のおかれた環境は、生木の長屋にすきま風、暖をとる為にくべる薪も生木で煙がもうもう。目前の海を覆う流氷と浜辺の長屋を襲う強風。春はまだかまだか。
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『松前詰合日記』の発見と津軽藩士殉難事件の発端

こんにちは。


宗谷より斜里場所の警護のために移動した津軽藩士105名。

文化4年(1807)7月より翌6月まで駐留。
その間の死者、実に72名。

幕命により斜里場所警備に就いた津軽藩。
この多数の死者を出した件は、藩にとって「恥ずかしい事」だったのか、長くこの案件は秘されておりました。

ところが、昭和29年(1954)。
北大教授の高倉新一郎が偶然、東京の古本屋で一冊の日記を発見します。

その名前は、『松前詰合日記』。

記したのは、斉藤勝利。
当時22歳、禄高16石の諸手足軽(鉄砲隊隊員)の津軽藩の下級武士。
斜里場所へ赴任した津軽藩士の生き残りです。

※現・北大図書館蔵。

日記の原本を見ることが出来ます。

北海道大学北方関係総合目録『松前詰合日記』
http://www2.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?id=0A030250000000000


『松前詰合日記』の表紙。

「此一冊は 他見無用 

   松前詰合日記 

 永く子孫江と伝」



日記には、弘前から斜里までの往復と現地での詰合(警備)活動が詳細に記されています。


《業務的な記録》
管理職名での武芸稽古の通知、薪作りの指示、蝦夷人家屋の戸数、村落間の距離など。

《現地で起きたこと》
厳寒の地での苦労と悲惨な浮腫病の状況。

特に、死亡した隊員(武士だけでなく町大工、鳶、郷夫など全員)の個人名と死亡日を一人ずつ記録。

これは、論功行賞や死亡者家族への対応等事後に予想される様々な事態に備えるのに必要な事項。

個人的な日記というより「派遣中の公式記録」ですね。


昭和29年(1954)の発見までこの日記の存在すら知られていなかった原因は、詳細過ぎる内容によるもののようです。

表紙の「此一冊は 他見無用 永く子孫江と伝」の文字の意味。

重いものだと思います。


この日記の発見によりもうひとつ明らかとなったものがあります。


日記発見の前年である昭和28年(1953)。
斜里町内の曹洞宗禅龍寺で「シャリ場所死亡人控」が発見されました。

照合すると、『松前詰合日記』と人名が一致。

事件の直後に作成された「津軽藩士死没者過去帳」だと判明します。

この過去帳は、和紙二つ折り7枚綴。
内容は、戒名・俗名併記の津軽藩士70人、同松前藩士1人、同シャリ場所従事者4人、俗名のみの藤野家2人。



※斜里町立知床博物館で複製を展示。


【『松前詰合日記』より】

《おうちを建てた》(『松前詰合日記』より抜粋)

7月29日に斜里へ一番隊が到着。
警備兵は漁場にあった三間、九間の魚小屋を仮の宿舎にして番屋を設置。

8月11日までに二番隊、三番隊も到着。

仮陣屋を建てる為、8月7日から準備。

上長屋は、三間に十二間。用材は松前で切組んだものを運び建てた。
屋根も松前から柾を持ってきて葺いた。

中長屋は、三間に十間。上長屋と同じように松前から持ってきた柾屋根であるが、用材は斜里で伐り出したトドマツ材(生木)を用い、土台石は朱円付近から持ってきた。

下長屋は、三間に十間。用材は山から伐り出した生木。
屋根は萱葺き。

他にも武器や食糧など、国元から送られてきた運送品を入れる倉庫。
更に剣道の稽古場一ヶ所。
これらは下長屋と同じ構造。

11月中頃までには引越しも終わり越冬の用意は出来た。

ーーーーーーーーーーーーーーー


上中下の長屋は身分別ではなく、一番隊、二番隊、三番隊の別に入居。
松前で用意した上長屋以外は現地で調達した生木を利用。

初めての僻地での越冬ということもあり、津軽藩の医者も同行。

それがなぜ、74名もの死者を出したのか。

原因のひとつに、宿舎とした長屋の場所と構造。


①斜里陣屋を建てた場所

斜里の陣屋(長屋)はオホーツク海に面した海辺の砂地に建設。

ロシア船監視のためには適した位置ですが、流氷を運ぶ北東風を直接受ける場所です。

田沼意次時代に蝦夷地を探検し冬の厳しさを熟知していたであろう「公儀御役人調役下役最上徳内殿」が斜里にいながら、ロシア船監視の任務の為には致し方なかった事なのか、とても残念な事です。


②構造材に生木を利用

木材が乾燥していくと縮み、すきま風が入ります。

また、薪を斜里で調達しています。
乾燥していない生木を燃やすと、大量の煙が発生。

津軽藩士の多くがまず、目を病みました。


《お薬がきた》(『松前詰合日記』より抜粋)

10月26日。松前表から御飛脚が参着。
公儀から医学館製の「加味平胃散」という薬を一人につき5袋ずつ下し置かれ、そのほか詰合御人数一同に重い御口達書をもって、御酒一升・御肴料37文、計167文を、一人ずつに下賜された。

1.山嵐不正の気を除く
1.脾胃を調ふ
1.水土を伏せずして泄吐するによし
(新しい環境で水が合わず嘔吐した時に効く)

お薬上包みの効能書きにはこのように書かれていた。
よって上役のところへ参りお礼を申し上げた。

ーーーーーーーーーーーーーーー


この加味平胃散。
ネットで調べると今でも漢方薬として販売されています。

松浦漢方株式会社「加味平胃散」
http://www.matsuura-kp.co.jp/product/67_12h.html



「製品の紹介」(松浦漢方株式会社HPより)

O-67 加味平胃散エキス〔細粒〕 12包
本方は、平胃散に神麹、麦芽、山査子を加えたもので、胃がもたれるタイプの人の食欲不振、消化不良などに奏効する胃の薬です。

「効能・効果」
体力中等度で、胃がもたれて食欲がなく、ときに胸やけがあるものの次の諸症。
急・慢性胃炎、食欲不振、消化不良、胃腸虚弱、腹部膨満感


《海に氷の山が出来たー(T_T)》


9月のオホーツク海は、のほほん。

が。


日記でいう11月中旬は現在の12月中旬。

オホーツク海に流氷が到達。

流氷見学を観光化した現在では、オホーツク海にいつ流氷が着岸するかどうかで毎年やきもきしています。

早くて12月下旬。

1807年の頃は、ほぼ14世紀半ばから19世紀半ばにかけて続いた寒冷な期間(小氷河時代、ミニ氷河期ともいう)にあり、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、小氷期を「期間中の気温低下が1℃未満に留まる、北半球における弱冷期」と記述しているそうです。(wikipedia「小氷期」より)

日本においても東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は幕藩体制の崩壊の一因となりました。


斜里での津軽藩士の事態は悪化の一途を辿ります。

つづく。



参考文献
「知床博物館第13回特別展図録『近世の斜里』」
「知床博物館第3回特別展図録『斜里—下町の歴史散歩—』」(斜里町立知床博物館刊)

斜里町HP「町のあゆみ」
https://www.town.shari.hokkaido.jp/20syokai/20rekishi/10ayumi/

サイト「斎藤文吉の『松前詰合日記』を考える」
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いつも応援いただきありがとうございます。厳寒のオホーツク海の海辺に住むなんて、まるで自殺行為のような気がします。お役目に忠実であった結果なのでしょうか。公儀から届いたお薬、微妙です。結果を知る身から見ると、ありがたいけどそこじゃない、感じ。ひそひそ。
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フヴォストフ事件(文化露寇 )と津軽藩の蝦夷地警備

こんにちは。


1801年頃の蝦夷地。

頻繁に姿を現すロシアに対する防衛のため、

幕府は寛政11年(1799)、東蝦夷地を幕府の直轄地とします。


《津軽藩と蝦夷地》

蝦夷地に近い津軽藩は、幕府より度々出兵の命が出され、
海岸線を守るための台場(砲台)を設営するなど、
北方警備における重要な役割を担っていました。



寛政5年(1793)。

幕府より津軽藩に蝦夷地への出兵命令。310余名が出兵。 (盛岡藩は420名)


寛政8年(1796)。 

イギリス船が松前・蝦夷地沖へ渡来。 

津軽領内にも、沿岸に異国船が出現。
沿岸防備に力を入れ、砲台場を増設。
藩の財政を圧迫し、領民には税・労役の負担増。


寛政10年(1798)。

津軽藩は幕命により、箱館警固へ。 
将兵およそ300名を派遣。(一年交代で二年間) 




寛政11年(1799)。

東蝦夷地は幕府の直轄地に。

津軽藩は、浦河以西の東蝦夷地の警衛を命じられます。
箱館・サワラ・アブタ・モロラン・シラオイ・択捉島に兵を配置(一カ所に50人程)。


文化元年(1804)。

ロシアの使節ニコライ・レザノフが幕府に通商を求め長崎来航。

半年待たせた後、幕府は拒否。

危機感を抱いた幕府は、津軽・南部藩に東蝦夷地の通年警備を命じます。

択捉島へ着任した津軽藩兵は30名。
冬から春にかけて、浮腫により11名死亡、9名重傷。


文化2年(1805)。

津軽藩四万六千石から七万石に加増。 
北方警備の功で藩祖為信以来二百年ぶりの加増・昇格でした。


一方のロシアのニコライ・レザノフ。


(wikipediaより借用)

こけにされた形で、ぷんぷん。

報復。

部下のフヴォストフが率いる武装商船2隻がやって来ます。

文化3年(1806)。

10月。樺太の松前藩出張所を襲撃・略奪・日本人4人を拉致しカムチャッカにて抑留(~翌年6月)。


文化4年(1807)。

3月。危機感を抱いた幕府は、蝦夷地全域を幕府直轄とします。


4月。丁卯(でいぼう)事件。

択捉島へ上陸したフヴォストフ等は会所を襲撃・略奪。
一時撤退するも夜襲で南部藩・津軽藩を敗走させ、6人が捕虜に。



5~6月。礼文利尻周辺の船を襲撃。利尻島にも上陸。
それぞれで略奪・拉致。

一連の襲撃は「フヴォストフ事件」「文化露寇」といわれます。
各地で拉致された日本人は10人。
利尻で8人が釈放。ロシアから幕府への書簡を松前藩に届けます。


幕府、さらに北方警備を強化。


5月。東北地方の諸藩に北方警備を命じます。
会津藩・秋田藩・仙台藩・弘前藩など、合計3000人が出兵。

南部藩は692名、秋田藩591名、庄内藩319名、会津藩・秋田藩・仙台藩・弘前藩など、合計3000人が出兵。

津軽藩は当初の箱館警備から配置替えとなり、
宗谷・オホーツクの警備強化のために330名を増員。計750名。

7月9日に宗谷到着。宗谷で陣屋を建設した直後。

105名が斜里警備の為に宗谷から移動します。


《津軽藩士、斜里へ行く》


「着替荷物をそれぞれ包みにし、各自の名前を書いた木札をつけ、藩船八幡丸に御武器のほか米、味噌や酒も少々積め入れて廻送した。」(『松前詰合日記』より)


斜里に到着したのは、

7月29日。田中才八郎率いる一番隊35名
8月1日。笹森寛蔵率いる二番隊31名。
8月11日。クナシリ警備にあたっていた三番隊25名。

その他14名を含む105名。


「斜里には、公儀御役人調役下役最上徳内殿、金井泉蔵殿の両人が在勤」(『松前詰合日記』より)

この「最上徳内」
老中の田沼意次による天明5年(1785)の蝦夷地の調査団に下人として加わり、蝦夷地の専門家として貧農の出ながら幕府に取り立てられて武士になった人物です。


冬のオホーツク。

斜里のアイヌ達でさえ、内陸部へ移動し越冬する気候です。

網走ではマイナス25度になるほどの極寒の地。
津軽の弘前においてさえ経験したことのない世界でした。

そして。

流氷。

海一面を覆う流氷は、新鮮な魚等を得ることを阻みます。

彼等は藩船八幡丸に米、味噌や酒を積載して持参しており、飢餓に喘いだ訳ではありませんでした。

しかし、結論から言うと。


帰還命令が出される文化5年(1808)8月までに72人が病死。
帰国の途に着いたのは、わずか17人。


文化元年(1804)に択捉島へ着任した津軽藩兵は30名。
冬から春にかけて、11名死亡、9名重傷。

この時と同じ「浮腫の病」が彼等を襲ったのです。


つづく。


参考文献
「知床博物館第13回特別展図録『近世の斜里』」
「知床博物館第3回特別展図録『斜里—下町の歴史散歩—』」(斜里町立知床博物館刊)

斜里町HP「町のあゆみ」
https://www.town.shari.hokkaido.jp/20syokai/20rekishi/10ayumi/

サイト「斎藤文吉の『松前詰合日記』を考える」
→→斎藤文吉の「松前詰合日記」を考える
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いつも応援いただきありがとうございます。私にしては珍しく文字ばかりで失礼しております。雪景色の画像がございませぬ~(T_T)。「ロシアの南下」の中に「文化露寇」という名称があることは今回調べていて初めて知りました。幕府の対応にニコライ・レザノフ、怒ったんですねぇ。でもねぇ、ロシアってねぇ。・・・イラッとするのですわ。
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江戸幕府とロシア南下。のらりくらり

こんにちは。


北海道、らぶ。

慶長9年(1604)、松前慶廣に徳川家康より黒印の制書(黒印状)が与えられたことにより、蝦夷地に松前藩が成立。

蝦夷地では稲作が出来ないため、黒印状では松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていました。



17世紀末。清とネルチンスク条約を結んだロシアは、その進出の方向をシベリアに向け、やがてカムチャッカ半島に到着。

18世紀に入って千島列島に沿って南下し始めます。

ロシア人が千島のアイヌに課した毛皮税は過酷で、同地のアイヌは南に逃れ始め、ロシア人もそれを追って南下。

宝暦9年(1759)、厚岸場所に赴いた松前藩士湊覚之進は、同地のアイヌからロシア人の南下の情報を得て、松前藩に報告します。

しかし、松前藩はロシア人活動を秘密にし、幕府には報告しませんでした。


【『赤蝦夷風説考』】

ロシアの情勢を仙台藩医工藤平助が記した書物。

カムチャツカから蝦夷地の間の島々を経てロシアが南下しつつあること、そして松前藩がロシアと密貿易をしている事実を指摘。

赤蝦夷風説考の論旨は,ロシアと貿易して国力を高め,蝦夷地を開拓して国も守りを固めるというものでした。
(※当時は鎖国中です。)


これを見た田沼意次は、蝦夷地の大々的な調査に乗り出します。

第一陣は、天明5年(1785)。

ところが。

天明6年(1786)8月25日。将軍家治死去。

8月27日。田沼意次は病により(表向き)、老中職を罷免。
10月28日。「蝦夷地一件」は差止めとなります。

あらー。

寛政4年(1792)、ロシアの使節アダム・ラクスマンが女帝エカテリーナの国書を携えて、日本に交易を求め、根室沖に姿を現します。
翌年、ラックスマンは厚岸を経由して松前に上陸。
幕府の使節と交渉を持ちます。

この他にも度重なる外国船来航に苦慮した幕府は、
寛政10年(1798)、近藤重蔵、最上徳内らを中心とする巡察隊を派遣。



1801年頃の蝦夷地。


寛政11年(1799)、東蝦夷地を幕府の直轄地とします。

目的は、ロシアに対する防衛。

ここで幕府は、東蝦夷地の拠点である厚岸のアイヌの懐柔策を取りました。

厚岸町史によれば、

対ロシア防衛という明確な目的を持つ幕府の直轄支配では、現地のアイヌの心を日本に引き留めることが重要視された。幕府は千島や択捉でロシア人によるキリスト教布教が進んでいることを憂慮し、元禄5年(1692年)に出した『新寺建立禁止令』を自ら破って、文化元年(1804年)、将軍家斉の命によって官営国泰寺を建立することを決定。また、場所請負商人による著しい搾取が、クナシリ・メナシの戦いの原因となったことから、場所経営は幕府が直轄することとなり、アイヌの経済的な環境も幾分改善された。

とあります。

のらりくらりとロシアを待たせた幕府は、
鎖国を大義名分として交渉を断ちます。

ロシア、ぷんぷん。


文化3年(1806)年頃。
ロシア通商使節のニコライ・レザノフの海軍がロシア皇帝の許しなく樺太や北海道の漁村で略奪を行ったり、番屋が襲われて放火されたりという事件が頻発。

このような襲撃に備え、幕府は文化4年(1807)に西蝦夷地を追加し、蝦夷地全島を幕府直轄地としました。

さらに、仙台・会津・南部・秋田・庄内の各藩に蝦夷地警備と出兵を命じます。

南部藩は692名、津軽藩500余名、秋田藩591名、庄内藩319名が出兵。

さらに、津軽藩は宗谷・オホーツクの警備強化のために330名を増員。

このうち100名が斜里警備の為送られます。

これが斜里町における「津軽藩士殉難事件」となるのです。


冬のオホーツクは、何が来るでしょう?

つづく。



参考文献
「知床博物館第13回特別展『近世の斜里』」(斜里町立知床博物館刊/1992)


いつも応援いただきありがとうございます。田沼意次が引き続き政権の中央にいれば、ロシアとの交渉もまた違ったものになったであろう事は、彼の蝦夷地に対する素早い行動からも推察されます。しかし、鎖国を大義名分とする幕府の対応は後手後手に。斜里町ではねぷた祭が行われます。その由縁、次回につづく。
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