硫黄山(4)安田善次郎と釧路鉄道。硫黄採掘事業でうはうは
こんにちは。

硫黄山(アトサヌプリ)採掘事業のお話。
さて、安田善次郎。
安田財閥の創始者。
富山藩下級武士(足軽)安田善悦の子。
安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士。
安政5年(1858)奉公人として江戸に出て、玩具屋、鰹節屋兼両替商に勤めました。(wikipediaより)
安田善次郎は、幕末・維新の経済混乱、外国での銀価の下落、太政官札の買い占め等に手腕を発揮。
司法省・農商務省等をはじめとする莫大な官金を無利息で預り、これをライバルの少ない地方で高利で貸付け、巨額の富を築きました。
明治19年。安田善次郎は北海道庁と現金取扱方を契約。
明治20年2月末、山田慎より硫黄山採掘権を十ヶ年の借鉱契約で取得。
硫黄山の鉱山経営が、安田善次郎へ移ります。
【安田善次郎の硫黄事業】
山田慎の時代、釧路集治監の囚人達を硫黄採掘に就役させますが、余りに悲惨であったため、安田の時は硫黄採掘には就労させず。
しかし、釧路鉄道の建設、釧路川の浚渫(しゅんせつ)、道路開削等には囚人が就役しており、集治監より労働力を調達する形は変わらず。
《釧路鉄道の敷設》
安田善次郎といえば、北海道で3番目の鉄道「釧路鉄道」敷設。

明治19年。跡在登(硫黄山付近)⇔標茶間の38kmが開通。
工期わずか7ヶ月。

アメリカから購入した蒸気機関車2台「長安」「進善」。
汽車ポッポですから、ごはんは石炭。
ここで安田善次郎は「釧路春採炭坑」を開発。
安田炭坑、太平洋興発(三井財閥傍系)の前身となる炭坑です。
明治24年(1891)「釧路鉄道」設立。
翌年、内務省から鉄道布設免許状と補助金2万円を受け、同年9月8日から運営。

硫黄の運搬だけでなく、次第に増えた開拓民を旅客として乗せるように。(客貨事業として認可)
《さよならです》
次第に採掘量が減少。採り尽くしました。
明治29年、硫黄山の採掘中止。標茶精錬所も操業中止。

明治20年2月末、硫黄山採掘権を十ヶ年の借鉱契約で得てからわずか9年です。短いです。
元々安田自身が
「三、四年ノ継続ノ見込ハ必ズアルベシ。要スルニ販路販価次第ニテコノ山ノ命脈ヲ伸縮スベキノミ」
と考えており、硫黄山採掘事業は彼には短期事業に過ぎなかったと。

もうけに来はったのね。
硫黄山は山田慎へ。
精錬所と釧路の炭鉱は安田へ、渡ります。
さらに、安田が17万円の投資で敷設し、硫黄の運搬に利用した釧路鉄道は、北海道鉄道敷設法の制定に伴い、明治30年6月に20万円で北海道庁へ売却。
※現在のJR釧網線の一部は釧路鉄道の軌道を利用。
安田善次郎が得たものは、
投資額17万円(34億円)、売却額20万円(40億円)。
単純にみて、3万円(6億円)の差額。
この他に硫黄採掘事業で得た莫大な利益。

安田善次郎の勝ちです。
明治期らしい「資本家を利用した(された)国家の近代化」話です。
《町の衰退、標茶の場合》
標茶は硫黄精錬所があり、また、釧路集治監が置かれた町。
明治29年の安田の硫黄採掘事業撤退に続き。
明治30年の英昭皇太后崩御により維新後初めての大赦。
多くの長期囚が放免され、その後も、囚徒の数は減少し続け。
明治34年(1901)
政府は、空知と釧路の集治監を廃監。釧路は網走分監に吸収。
設置されてから17年。
最高時(明治23年)には1千409人の囚人、官吏280名がいた釧路集治監がなくなることは所在地の標茶町には死活問題。
明治27年(廃止前最盛期)381戸5千591人
明治36年(廃止後) 140戸600人
人口激減。
後に軍馬補充地となったことで持ち直し、また、釧網線が通り、交通の要衝として現在まで続いています。
《硫黄山所在の弟子屈町のその後》
硫黄山採掘が中止となった明治29年。
北海道内陸部の農業開拓政策が実施され、明治30年。
弟子屈村の原野の殆どが皇室御料地に編入。

左から、硫黄山、帽子山、兜山。
計画的な植民移住が推進され、翌年より富山県より第1次移民50戸が入植。
明治45年までに208戸(うち41戸は放棄)。
御料局は移民による農業開拓と共に官地の森林資源を払い下げ。
釧路への富士製紙進出をきっかけとして、弟子屈・屈斜路地域に林業が発展。
釧路川を使って流した材木は釧路港で貯蔵され、販売。
(貯木場は平成26年老朽化により閉鎖)
大正時代には、飛騨(岐阜)や日田(大分)より専業の杣夫や筏師が入り、製紙用の針葉樹・輸出枕木材の広葉樹(価格は針葉樹の3倍)の取引が農業開拓を進める間、収入を支えます。

今は牧草地や広大な畑が広がります。
《硫黄山採掘事業のその後》
昭和6年(1931)跡佐登鉱業株式会社設立。操業再開。
昭和19年(1944)企業整備令により休山。
昭和26年(1951)跡佐登鉱業は野村鉱業(野村財閥系列。旧イトムカ鉱山を経営)の子会社となり、再開。
昭和38年(1963)採掘事業終了。
昭和45(1970)閉山。

・・・ちーん。

ほぼ採り尽くした硫黄山。

現在は観光地。

今は気持ちいい道が通ります。

硫黄山の形は溶岩ドーム状。

山の中央に数百年前に水蒸気爆発を起こした『熊落し』という火口。

盛んに噴煙活動中。
大小1500ヶ所以上の噴気孔から火山性ガスを含んだ水蒸気が噴出。
この火山性ガスには硫黄成分が含まれているため、硫黄山の周囲は硫黄の匂いがぷんぷん。

噴気孔の周辺の黄色いものは、硫黄の成分が結晶化したもの。

まだまだ増えそう。

硫黄山周辺にはハイマツ層。

少し離れてイソツツジ層。(下にみっちり生えているやつ)

寒くなると真っ赤に色づき、6月には白い花が一面に咲きます。

摩周湖、屈斜路湖にも近いです。

硫黄山近くに川湯温泉。
硫黄山を熱源とした硫黄泉。
この硫黄泉は泉源が非常に浅く、地下数十mを流れているとか。
pHは2前後と強酸性。五寸釘も温泉のカランも溶けてしまうほど。

川湯神社。

かけ流しの手水は、強酸性の硫黄泉。ぴりっ。

ぼろもうけした人がいるけどね。

大きなお水を見てストレス発散。
参考文献
「釧路川紀行」(佐藤尚著/釧路新書2/釧路市史編纂事務局/1977)
「標茶町史考」(標茶町史編纂委員会編/1966)
網走行刑資料館展示資料、標茶町HP内「標茶町の歴史」閲覧
いつも応援いただきありがとうございます。
資本家による国家の近代化のひとつ「硫黄採掘事業と釧路」。当初は港の規模等で釧路港よりも厚岸港が勝りますが、背後に優秀な資源である硫黄と材木があること、釧路川があることから、釧路港が発展します。硫黄採掘事業で得た利益は安田善次郎には微々たるものかもしれませんが、内陸部の硫黄山周辺と釧路港、道中の地域の発展には大いに貢献したということですね。



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

硫黄山(アトサヌプリ)採掘事業のお話。
さて、安田善次郎。
安田財閥の創始者。
富山藩下級武士(足軽)安田善悦の子。
安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士。
安政5年(1858)奉公人として江戸に出て、玩具屋、鰹節屋兼両替商に勤めました。(wikipediaより)
安田善次郎は、幕末・維新の経済混乱、外国での銀価の下落、太政官札の買い占め等に手腕を発揮。
司法省・農商務省等をはじめとする莫大な官金を無利息で預り、これをライバルの少ない地方で高利で貸付け、巨額の富を築きました。
明治19年。安田善次郎は北海道庁と現金取扱方を契約。
明治20年2月末、山田慎より硫黄山採掘権を十ヶ年の借鉱契約で取得。
硫黄山の鉱山経営が、安田善次郎へ移ります。
【安田善次郎の硫黄事業】
山田慎の時代、釧路集治監の囚人達を硫黄採掘に就役させますが、余りに悲惨であったため、安田の時は硫黄採掘には就労させず。
しかし、釧路鉄道の建設、釧路川の浚渫(しゅんせつ)、道路開削等には囚人が就役しており、集治監より労働力を調達する形は変わらず。
《釧路鉄道の敷設》
安田善次郎といえば、北海道で3番目の鉄道「釧路鉄道」敷設。

明治19年。跡在登(硫黄山付近)⇔標茶間の38kmが開通。
工期わずか7ヶ月。

アメリカから購入した蒸気機関車2台「長安」「進善」。
汽車ポッポですから、ごはんは石炭。
ここで安田善次郎は「釧路春採炭坑」を開発。
安田炭坑、太平洋興発(三井財閥傍系)の前身となる炭坑です。
明治24年(1891)「釧路鉄道」設立。
翌年、内務省から鉄道布設免許状と補助金2万円を受け、同年9月8日から運営。

硫黄の運搬だけでなく、次第に増えた開拓民を旅客として乗せるように。(客貨事業として認可)
《さよならです》
次第に採掘量が減少。採り尽くしました。
明治29年、硫黄山の採掘中止。標茶精錬所も操業中止。

明治20年2月末、硫黄山採掘権を十ヶ年の借鉱契約で得てからわずか9年です。短いです。
元々安田自身が
「三、四年ノ継続ノ見込ハ必ズアルベシ。要スルニ販路販価次第ニテコノ山ノ命脈ヲ伸縮スベキノミ」
と考えており、硫黄山採掘事業は彼には短期事業に過ぎなかったと。

もうけに来はったのね。
硫黄山は山田慎へ。
精錬所と釧路の炭鉱は安田へ、渡ります。
さらに、安田が17万円の投資で敷設し、硫黄の運搬に利用した釧路鉄道は、北海道鉄道敷設法の制定に伴い、明治30年6月に20万円で北海道庁へ売却。
※現在のJR釧網線の一部は釧路鉄道の軌道を利用。
安田善次郎が得たものは、
投資額17万円(34億円)、売却額20万円(40億円)。
単純にみて、3万円(6億円)の差額。
この他に硫黄採掘事業で得た莫大な利益。

安田善次郎の勝ちです。
明治期らしい「資本家を利用した(された)国家の近代化」話です。
《町の衰退、標茶の場合》
標茶は硫黄精錬所があり、また、釧路集治監が置かれた町。
明治29年の安田の硫黄採掘事業撤退に続き。
明治30年の英昭皇太后崩御により維新後初めての大赦。
多くの長期囚が放免され、その後も、囚徒の数は減少し続け。
明治34年(1901)
政府は、空知と釧路の集治監を廃監。釧路は網走分監に吸収。
設置されてから17年。
最高時(明治23年)には1千409人の囚人、官吏280名がいた釧路集治監がなくなることは所在地の標茶町には死活問題。
明治27年(廃止前最盛期)381戸5千591人
明治36年(廃止後) 140戸600人
人口激減。
後に軍馬補充地となったことで持ち直し、また、釧網線が通り、交通の要衝として現在まで続いています。
《硫黄山所在の弟子屈町のその後》
硫黄山採掘が中止となった明治29年。
北海道内陸部の農業開拓政策が実施され、明治30年。
弟子屈村の原野の殆どが皇室御料地に編入。

左から、硫黄山、帽子山、兜山。
計画的な植民移住が推進され、翌年より富山県より第1次移民50戸が入植。
明治45年までに208戸(うち41戸は放棄)。
御料局は移民による農業開拓と共に官地の森林資源を払い下げ。
釧路への富士製紙進出をきっかけとして、弟子屈・屈斜路地域に林業が発展。
釧路川を使って流した材木は釧路港で貯蔵され、販売。
(貯木場は平成26年老朽化により閉鎖)
大正時代には、飛騨(岐阜)や日田(大分)より専業の杣夫や筏師が入り、製紙用の針葉樹・輸出枕木材の広葉樹(価格は針葉樹の3倍)の取引が農業開拓を進める間、収入を支えます。

今は牧草地や広大な畑が広がります。
《硫黄山採掘事業のその後》
昭和6年(1931)跡佐登鉱業株式会社設立。操業再開。
昭和19年(1944)企業整備令により休山。
昭和26年(1951)跡佐登鉱業は野村鉱業(野村財閥系列。旧イトムカ鉱山を経営)の子会社となり、再開。
昭和38年(1963)採掘事業終了。
昭和45(1970)閉山。

・・・ちーん。

ほぼ採り尽くした硫黄山。

現在は観光地。

今は気持ちいい道が通ります。

硫黄山の形は溶岩ドーム状。

山の中央に数百年前に水蒸気爆発を起こした『熊落し』という火口。

盛んに噴煙活動中。
大小1500ヶ所以上の噴気孔から火山性ガスを含んだ水蒸気が噴出。
この火山性ガスには硫黄成分が含まれているため、硫黄山の周囲は硫黄の匂いがぷんぷん。

噴気孔の周辺の黄色いものは、硫黄の成分が結晶化したもの。

まだまだ増えそう。

硫黄山周辺にはハイマツ層。

少し離れてイソツツジ層。(下にみっちり生えているやつ)

寒くなると真っ赤に色づき、6月には白い花が一面に咲きます。

摩周湖、屈斜路湖にも近いです。

硫黄山近くに川湯温泉。
硫黄山を熱源とした硫黄泉。
この硫黄泉は泉源が非常に浅く、地下数十mを流れているとか。
pHは2前後と強酸性。五寸釘も温泉のカランも溶けてしまうほど。

川湯神社。

かけ流しの手水は、強酸性の硫黄泉。ぴりっ。

ぼろもうけした人がいるけどね。

大きなお水を見てストレス発散。
参考文献
「釧路川紀行」(佐藤尚著/釧路新書2/釧路市史編纂事務局/1977)
「標茶町史考」(標茶町史編纂委員会編/1966)
網走行刑資料館展示資料、標茶町HP内「標茶町の歴史」閲覧
いつも応援いただきありがとうございます。
資本家による国家の近代化のひとつ「硫黄採掘事業と釧路」。当初は港の規模等で釧路港よりも厚岸港が勝りますが、背後に優秀な資源である硫黄と材木があること、釧路川があることから、釧路港が発展します。硫黄採掘事業で得た利益は安田善次郎には微々たるものかもしれませんが、内陸部の硫黄山周辺と釧路港、道中の地域の発展には大いに貢献したということですね。



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
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