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十津川温泉のこまちゃん♪こーまこまこま♪

こんにちは。いつもありがとうございます。

芸術の秋の真っ盛り。おかげさまで、死にそうな忙しさでございます。


たまには遠出し・し・しても、こーゆーとこ。



あああ、温泉行きたい。



で、前回からの続きです。

十津川温泉へ行ったのは9月。早いなぁ、月日が走ってます。

さて、お休みの3日目は、もちろん。


こまたーん♪


帰る前にもう一度、滝の湯へ入りたくて。

その道中に立ち寄りまし


こーふんが押さえられないです。あああ、素敵なお社。


いわゆる「大阪の狛犬」なこまちゃん。


かわいいなぁー。


もみじ饅頭なしっぽ、かわいいなぁー。

さてー、おまいりしましょー。


試練試練試練。

つづくっ。
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十津川温泉郷で、つるんどぼん

こんにちは。

今月、転職してはじめて2泊3日で遠出しました。

目的地は、大阪市内からトコトコ走って、野を越え山越え3時間の、


そう、十津川警部のお宅訪問。

ちゃうわっ。


奈良県最南端の、十津川村♪


長さ297メートル高さ54メートルの谷瀬の吊り橋があります。


十津川村は、壬申の乱(天武天皇の吉野挙兵・672年)で出陣した十津川の人々があげた功績により、諸税勅免地となったと伝わります。

それは、天正15年(1587年)の郡山城主豊臣秀長による検地以後も保持され、明治6年の地租法改正で有租地となるまで、続きました。


何を目当てにはるばる十津川村へ来たかというと、


おいしいモーニングね♪

・・・ちゃう。


ぼーっと赤い橋を渡って


こまたんも、スルーして


小さな滝の横に、


おんせーーーーーん♪


十津川温泉郷は、湯泉地温泉(単純硫黄泉)、十津川温泉(ナトリウム炭酸水素塩泉)、上湯温泉(ナトリウム炭酸水素塩泉)の3つの温泉地で構成されており、みんな源泉かけ流し。


ということで、今回の旅の目的は。

「温泉三昧して、ぼーっとしたいのよ、わたくしっ!!」

です。

ここは、湯泉地温泉の滝の湯。ほんのり硫黄のかほりただようさっぱり湯です。


見て~見て~!(画像:十津川村観光協会HPより)

そりゃもう極楽極楽♪

た、た、た、たとえ、帰りは階段70段を登ることになろうともっ。

ぜーぜー。汗びっしょ。



風呂上がりに、道の駅十津川郷の2階でお蕎麦。


関西では酷道で有名な国道425号をすこーしだけ。


道端には、あちこちに天然冷え冷えシャワー。


こっちの川はきれいなお水。

というのも


お宿の前


その横

訪問前に台風21号が通過した影響で、お水がまっちゃっちゃでしたの。
このダム湖では、水を抜いてきれいな支流から取水して、水を入れ替えている最中でした。

お宿は、十津川温泉。

お湯がにゅるにゅるで、ずるっとツルッと滑って、湯舟には、おちりからダイブ。

貸切露天風呂でよかったわっ。えへへへへ。

とっても濃い~ぃ温泉で、まったりゆったりして


食っちゃ寝開始。

お宿の自慢は、大将自ら釣ってくる鮎やジビエ料理でしたが、申し訳ないことに、ジビエなものが苦手なので、素泊まり。


近所のお店で炊きたて釜飯を仕入れ。

自家製のおつけものも、たいへんおいしゅうございました。

テレビもつけず、静かぁな夜。

持参した本を荷物から出すひまもなく、夜8時には、ぐーすかぴぃー。

・・・飲みすぎたんじゃないの。疲れてたの。

野迫川村の北今西勝手神社。神社合祀と南方熊楠

こんにちは。


山やまヤマの、野迫川村。


お宿に着いて、まずはおまいり。


割拝殿を見ると、和歌山へ来たなーっとおも・・・

野迫川村は、奈良県でした。へへ。


川(及び道路)と山の間に細長くのびたわずかな土地に鎮座。


ここは、野迫川村北今西地区。


足元に白い玉砂利。


【由緒】

応永20年(1413)に吉野より遷座したと伝えられる勝手神社。

明治42年に弓手原春日神社に合祀され、大正元年に合祀取り消し。
合祀時、旧村社。

祭神は彦火瓊々杵命。


さぁ、ここで、「神社合祀」です。


【神社合祀】

1町村1社を原則とする神社合祀令。

1906年(明治39年)の勅令によります。

明治政府は記紀神話や延喜式神名帳以外の神々を排し、
「神道の純化」を狙いました。

経済面では、合祀して神社の数を減らし経費を集中させれば、
「神社の威厳」を保つ事ができる、と。

1914年までに、全国に約20万社あった神社の7万社が取り壊されます。

特に三重県は突出しており、県下全神社のおよそ9割が廃されました。
これに和歌山県や愛媛県が続きます。


(和歌山県色川神社)

明治初期の神仏分離令、それに続く神社合祀令は、熊野に壊滅的なダメージを与えます。

まず古来の自然崇拝に仏教や修験道などが混交して成り立っていた熊野信仰は、神仏分離令の格好のターゲット。

次に襲った「神社合祀」は、上皇達も熊野御幸の道中に参詣した王子社すらも対象になります。

中辺路では、二十数社のうち八上王子と滝尻王子以外は廃社に。

廃社となった神社の森は伐採。払い下げられたり安価で売られたり。

これに立ち向かったのが、熊野の山々を拠点に研究に励んでいた、南方熊楠でした。


【「神社合祀に関する意見」ー南方熊楠ー】


「神社合祀に関する意見」の冒頭で、合祀令の内容と現況を簡単に述べた後、熊楠は細かく事例をあげつついかに合祀令が愚かであるかを痛烈に批判しています。


「最初、明治三十九年十二月原内相が出せし合祀令は、一町村に一社を標準とせり。ただし地勢および祭祀理由において、特殊の事情あるもの、および特別の由緒書あるものにして維持確実なるものは合祀に及ばず、その特別の由緒とは左の五項なり。

(1)『延喜式』および『六国史』所載の社および創立年代これに準ずべきもの

(2)勅祭社、準勅祭社

(3)皇室の御崇敬ありし神社(行幸、御幸、奉幣、祈願、殿社造営、神封、神領、神宝等の寄進ありし類)

(4)武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬ありし社(奉幣、祈願、社殿造営、社領、神宝等の寄進ありし類)

(5)祭神、当該地方に功績また縁故ありし神社。

神社には必ず神職を置き、村社は年に百二十円以上、無格社は六十円以上の報酬を出さしむ。ただし兼務者に対しては、村社は六十円、無格社は三十円まで減ずるを得。

また神社には「基本財産積立法」を設け、村社五百円以上、無格社二百円以上の現金、またこれに相当する財産を現有蓄積せしむ、とあり。

つまり神職もなく、財産、社地も定まらざる廃社同前のもの、また一時流行、運命不定の淫祠、小祠の類を除き、その他在来の神社を確立せしめんと力つとめたるもののごとし。

(中略)

かつ合祀の処分は、一にこれを府県知事の任意に任せ、知事またこれを、ただただ功績の書上かきあげのみを美にして御褒美に預らんとする郡長に一任せしより、他方の官公吏は、なるべくこれを一時即急に仕上げんとて氏子輩に勧めたるも、金銭は思うままに自由ならず。

よって今度は一町村一社の制を厳行して、なるたけ多くの神社を潰すを自治制の美事となし、社格の如何いかんを問わず、また大小と由緒、履歴を問わず、五百円積まば千円、千円積まば二千円、それより三千円、和歌山県ごときは五千円、大阪府は六千円まで基本財産を値上げして、即急に積み立つる能わざる諸社は、強いて合祀請願書に調印せしむ。」

「青空文庫『神社合祀に関する意見・南方熊楠』」より引用)


奈良県野迫川村より南下した和歌山県龍神村の皆瀬神社は、合祀すること37社。⇒⇒⇒皆瀬神社のシェアハウス
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-530.html

和歌山県那智勝浦の色川神社は15社⇒⇒⇒色川神社「由緒」「合祀」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-602.html
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-607.html


【北今西勝手神社の場合】


上部は、銅板で巻いてるのかしら?


明治42年に、ここより南西の野迫川村弓手原地区に鎮座する「春日神社」に合祀された北今西勝手神社。

車でえっちらおっちら走らないといけない距離です。


神社合祀は、決して氏子さん達の本意ではないこと。

おまいりに不便極まりない上に、地元にあれば大切に大切におまもりしていた我が神様が、合祀先では「その他大勢」のひとつに過ぎず、祭礼での屈辱感たるや、筆舌に尽くしがたく。(熊楠の書簡より)

合祀を取り消し、再び元の場所へ戻す神社も出てきます。



ここ、北今西勝手神社もそのひとつ。


「大正元年に合祀取り消し」とは、そういうこと。


【境内社】稲荷神社・若宮神社・池神社


社殿等が新しいと少し残念な気がする時も往々にしてありますが、

「なぜ新しいのかな?」

と、疑問に思うことも必要ではなかろうかと思います。



こまこまと騒ぐ私が言うのもなんですが。


家出した?

しくしくしく。


違う、あなたじゃない。

本殿と境内社の厳島神社の間に、この石。何だろう?


向かって左の社殿に、発見。


かわいい顔をしてそうな。

くぅー。


こんなお社、大好きです。

なので、


風呂上がりにさんぽ。


こんな遅くに静かな神社へ来ることもないですもの。


素敵なお社の向かいに、お宿。


◎はじめて、利用した施設の紹介です◎

「ホテルのせ川」さんです。
http://hotel-nosegawa.jp

なぜ掲載したかというと、

野迫川村へ来てください。お願いだから。

な、気持ち。

美味しいごはんに、ぬくぬくな温泉。至福でした。


※弓手原地区と北今西地区は、奈良県の無形民俗文化財指定を受けているオコナイが行われている地域です。


参考文献

底本:「南方熊楠コレクション第五巻 森の思想」(河出文庫、河出書房新社)
底本の親本:「南方熊楠全集 第七巻」(平凡社/1971年8月9日)

青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)のうち、「『神社合祀に関する意見』ー南方熊楠ー」http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/525_47860.htmlから引用。


北今西勝手神社の由緒は、「奈良の寺社」様からお借りしました。
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2015/09/post-6bf8.html


いつも応援いただきありがとうございます。
場所柄、もっと神社があってもおかしくない地域なのに見当たらないお社の姿。やっと見つけた神社に立ち並ぶ数多くの祠、あるいは、やたらと多い祭神の名前。そんな経験は皆様にもあろうかと存じます。神仏分離と廃仏毀釈は折々に記事にしておりますが、神社合祀に伴う暴挙についても追々調べていくつもりです。・・・熊野へ行かなくちゃ♪

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お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

奈良県野迫川村の旅。ミムラ姉さんな狛犬

こんにちは。

連休は奈良県野迫川村の温泉宿で2泊しました。


高野山から高野龍神スカイライン経由で野迫川村。


渋い鳥居が並ぶ立売荒神社や


南朝の長慶天皇陵があったり、


実は平維盛が隠れ住んだという土地です。


野迫川村の平地区。


桜の木の下に、維盛塚。


ここまでは、昨年、平維盛を追いかけた時のもの。

今年は、温泉でゆっくりしたくてやって来ました。


風呂上がりに部屋でこそこそっとひっかけて、


素知らぬ顔して、ぐびぐびして、


あまご、うめー!っと叫びつつ、他にもぐびっとして


おかずをツマミにするのんべさんの食べ方になりかけて踏みとどまり、

部屋で般若湯をきこしめして撃沈したのは、

内緒にして下さいね。

さてさて。


某所。ここには素敵なものたちがいました。


ぎょ。


ミムラ姉さん@楽しいムーミン一家


のっぺらーん。


狛犬くんだと思うのだが、このヒゲは・・・。


にゃぁー。肉球なのにゃ~。


素晴らしかったです。

宿泊したのは、野迫川村の温泉。

お宿の部屋の窓から見える景色は、これ↓↓ズームなし。


滝の下には、


清流。あまごがいるのよ。


朝食は、あまごの一夜干しでした。

美味しかったにゃり。


お宿前の道路を挟んだお向かいの神社。

風呂上がりのさんぽ。


狛ちゃん、出ておいでー(≧▽≦)


◎野迫川村◎

昨年の記事ですが、とても興味深い土地です。

⇒⇒⇒弓手原地区の「第98代長慶天皇」陵
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-513.html

⇒⇒⇒平地区の維盛塚と維盛物語
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-514.html

⇒⇒⇒立売荒神社。空海、大伽藍より先に荒神を祀る
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-515.html

⇒⇒⇒我はこれ荒神ヶ岳に住む神也。荒神社由緒と空海
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-516.html


いつも応援いただきありがとうございます。
関西は梅雨明けしました。ただ、気温は高くても湿気が少ないので、日影に入ればまだ何とかやり過ごせます。野迫川村は、高野山からゆっくり走れば一時間ほど。高野龍神スカイラインから脇道を入りますが生活道路なので、絶望する細道でもなく、山々を感じながら快適なドライブです。いいとこ見つけました。

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東大寺二月堂。お水を送る若狭の鵜の瀬と神宮寺の閼伽井戸

こんにちは。


二月堂。

ここで行われるのは、「修二会」。

(以下、東大寺修二会HPより引用)

「東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)は、天平勝宝4年(752)、大仏開眼の年より、東大寺開山良弁僧正(ろうべんそうじょう)の高弟、実忠和尚(じっちゅうかしょう)によって始められたと伝えられます。

この法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われていますが、もとは旧暦の2月1日から行われていましたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」と呼ばれるようになりました。また二月堂の名もこのことに由来しています。

『修二会』の法要は、正しくは『十一面悔過(けか)』といい、十一面観世音菩薩を本尊とし、

『天下泰平』『五穀豊穣』『万民快楽』などを願って祈りを捧げ、人々に代わって懺悔の行を勤めるものです。前行、本行をあわせてほぼ1ヶ月、準備期間を加えれば3ヶ月にも及ぶ大きな法要となります。」

「行中の3月12日深夜(13日の午前1時半頃)には、「お水取り」といって、若狭井という井戸から観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式が行われます。また、この行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、夜毎、大きな松明に火がともされ、参集した人々をわかせます。このため「修二会」は「お水取り」・「お松明」とも呼ばれるようになりました。
(以上引用終わり)


752年の大仏開眼の年より綿々と続き一度も絶えたことがないといいます。

3月2日。in若狭。

お水取りの10日前の3月2日にお水送り神事が執り行われます。

(現地案内板より)

根来八幡の神人と、神宮寺の僧が執り行う神仏混合の行事です。


若狭。鵜の瀬。

ここから奈良の東大寺まで水脈が続き、10日後に二月堂の若狭井へ到着。

若狭から地下を通って遥々奈良まで届けられた閼伽水。
東大寺二月堂のご本尊様にはこのお水をお供え。


若狭から見れば、お水を送るから、お水送り。


【お水送りのはじまり】

時は大仏開眼の年。

まず、行が無事に納められるよう、願います。


2月初日から「神名帳」を読み上げ日本全国の神々を招待。

行の加護と成就を願います。

しかし、皆が参列したのに、若狭遠敷明神が来ない。


2月12日午前1時ようやく参列。修二会はあと2日で終わるってのに。

何をしてたかというと、釣り。


修二会行事に遅れたお詫びに

毎年、二月堂の本尊の十一面観音に供える閼伽水(あかすい)を送ると約束。


そのとき、二月堂の地下から白黒の鵜が飛び出て

その穴から泉が湧きました。

その送る側の場所が若狭の水中洞穴。
よって、東大寺二月堂の井戸は「若狭井」と名付けられました。


この岩の下。


この穴から鵜が潜っていったので、この川淵は「鵜の瀬」と呼ばれるようになりました。


【送るお水はどこの水?】

東大寺へ送る水は特別な水。




若狭神宮寺の閼伽井戸から汲まれるお水。


山号霊応山。天台宗。
若狭一の宮の神願寺として成立。

神願寺とは神仏習合が許されていた江戸時代以前、神社に付属しこれを管理した寺のこと。(神宮寺または別当寺と同じ意味)


寺伝によれば

元正天皇の勅命により和銅7年(714)に泰澄大師の弟子沙門滑元が創建。

鎌倉初期、若狭彦神社別当寺神宮寺と改名。

七堂伽藍二十五坊を誇りましたが、豊臣時代に寺領を没収され。
さらに明治初期の廃仏毀釈によって衰微。

本堂は、室町時代末期、天文22年(1553)越前守護朝倉義景が再建。
建築様式は、和様を主体の折衷様。国の重文。


お寺の本堂に注連縄。


若狭彦大神の本地仏として薬師如来様がご本尊。

本地仏とは、若狭彦大神はほんとは薬師如来様でしたーってこと。


本堂の背後には広大な森。


こんなとこのお水はさぞかし美味しいだろうなー。


で、ここ。


こぽこぽと水が涌く、閼伽井戸。

3月2日のお水送りの際は、このお水を汲みます。

汲まれた「閼伽水」は、修二会(薬師悔過法)により「香水」に変身。


お水送り当日夜、大護摩法要を行います。


【お水送りの場所・鵜の瀬】


川原の聖地。鵜が潜って行ったから、鵜の瀬。







3月2日当日はこんな光景。

(現地案内板より)


ちゃぽん、っと注がれたお香水。




水中洞窟の入口


かっちり10日後に、奈良へ到着。

鵜の瀬の横には、東大寺修二会に遅刻した若狭遠敷明神が降臨した場所である白石神社が鎮座。




覆屋の中に本殿。


天保拾年。1839年生まれの狛犬。


苔むした神社の境内で、今日ものんきに過ごす狛犬さんでした。


若狭の鵜の瀬から「お水送り」し、地下を通って奈良にたどり着いた閼伽水を「お水取り」してご本尊にお供えする儀式。

それが「東大寺二月堂のお水取り」なのでした。

※過去記事に加筆しました



いつも応援いただきありがとうございます。
お水を送る若狭の鵜の瀬と閼伽井戸のある神宮寺。どちらもとても清々しい場所でした。ここから東大寺二月堂までかっちり10日間。潜った白と黒の鵜ちゃんは真っ暗な地下を通って、さぞかしビクビクしたことでしょうね。

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東大寺二月堂への裏参道。しっとりおとな道

こんにちは。


「ぜーったいに火気厳禁」の大仏殿周辺は黒山の人だかり。

げっちょり疲れたので、さっさと移動。


大仏殿と二月堂の、「殿」と「二」を結ぶ二月堂裏参道をてくてく。


やはりでかい大仏殿の東隣には、


長池です。

堀の名残かと思いがちですが、「大和名所図会」(1791年5月発行)にもこの形で描かれています。


「大和名所図会/巻之1-6 /秋里舜福 著/竹原信繁 画 」

二月堂へ向かう裏参道、緩やかな上りですが、人がいなくていいです。


足音は、コツコツ、と。

ぺたぺたどすどす、では似合わない雰囲気。

とことこ。けっつん(←躓いた)。


昔はあちこちに点在していたんでしょうね。


どこも偉そうに見えてしまう貧相な私。


二月堂の供田(くでん)です。

ご飯のお米ではなく、もち米。

秋に収穫したもち米は、お正月の鏡餅や修二会(お水取り)のお供え餅(壇供)になります。

東大寺学園の中学生と東大寺幼稚園の園児が一緒に田植えや稲刈りをした光景が、たまに関西ローカルニュースで流れます。

(・・・ただ、田植え時に。そのままでは稲が育たないので、後でこっそり植え直してるのは、内緒。)


振り返ると、所々にこんな分岐。

階段もあるので、車は通れません。

ぺたぺた。ずるっ(←滑って)あちょー(←変な踊り)。


道端に、バンビちゃん。

小鹿は敏感で、お鼻をずびっとしただけで脱兎の如く走り去ります。

あまり見つめると、かーちゃんが襲ってくるので要注意です。


見えてきたのは、二月堂。

道端の水路は朝方までの雨で、なかなかの流れ。


さて、二月堂。

東大寺を襲った


治承4年(1180)平重衡の兵火


永禄10年(1567)三好・松永の乱

で、伽藍ことごとく焼失する中で、類焼をまぬがれました。

が。


寛文7年(1667)、修二会の最中の2月13日に失火で焼失。

2年後に再建したのが現存建物。国宝。

そんな、ちょっとおとぼけさんの、二月堂。


修二会(お水取り)時期じゃない二月堂、お久しぶり。

人がいなくて、びっくりです。

つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。
普段、ほんとに人がいない場所ばかりを放浪しているので、東大寺大仏殿付近の人混みには、げっちょりうんざり。そんな時は回避するに限りますねー。ご近所の方々ととっても気持ちよく「おはよございます」の声を交わしつつ、ゆっくりお散歩することが出来ました。

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お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

東大寺南大門の石獅子と青岸渡寺山門の狛犬。うりふたご

こんにちは。


東大寺南大門の内側にいる、


石獅子くん。

そういえば、よく似た子達がいたなー。


大阪府箕面市の勝尾寺の山門の


とっても奥まったところに、いた。あはははは。


那智山の、やた殿&やた姫ちゃん。

お久しぶりの、


熊野那智大社。

隣接するのは、


西国第一番札所の青岸渡寺。


床下の基礎。節がそのままの材木が荒々しいです。


本堂正面のこまちゃん。


かわいそうに。そっちが風下だねー。


・・・風上。こら。


だれ。あなた、だれ。


青岸渡寺の防災道路(誰でも通行可。有料)で上まで来てしまったので


山門が眼下に。ありゃ。

青岸渡寺の山門自体は昭和8年の再建。

元は、大門坂のてっぺんにあり、「大門」と称していました。


きゃ。こーまちゃん♪


おしゃれちゃーん。


縦ロールな髪、素敵な首飾り、四角いお口、体にくっついた尻尾。


東大寺南大門。同じ「向かって右側」の、石獅子くん。

あら。そっくり。


派手な子だったのねー。


笑いすぎです。


お鼻の穴がどすこいっ。


東大寺南大門「左側くん」の口元が欠けていたので、代打・右側くん。


いいお顔してます。


東大寺南大門。同じ「向かって左側」の、石獅子くん。

姿もアクセサリーも、あらやだ、そっくり。

唯一、この子は男の子ですが、


ふんわりストレートな髪がお似合いなこの子は、ついてないようで。


今でもとてもきれいな子です。


南大門。石獅子くんの背後には、かの有名な仁王様ズ。


青岸渡寺の山門も、狛犬さんの背後に仁王様。

参道を進んでくるとまず、仁王様に会い、その奥に狛犬。

相違点は、仁王様が向かい合っていない事ぐらいでしょうか。


仁王様右。


仁王様左。



那智山青岸渡寺の山門の狛犬は、東大寺南大門の石獅子を模した、と言われています。

こうして並べると一目瞭然なのでした。


いつも応援いただきありがとうございます。
そういえば、青岸渡寺によく似た子達がいたと思い出して見比べてみましたら、まぁ、そっくり。南大門の石獅子には彩色の形跡は見られなかったのですが、青岸渡寺山門では鮮やかな色が残っていました。南大門の石獅子が素晴らしいので、真似したのかな。類似形は他にも見られるようです。

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お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

東大寺戒壇堂。「戒壇外相」重要な場所は結界で

こんにちは。


ビール会社は酒樽がないので、ビールケースを奉納。

そんな事に気付く私はお酒好き。

お寺へお参りする時には、


徳島県丈六寺。

「不許葷酒(くんしゅ)入山門」(葷酒山門に入るを許さず)。

「葷」とは、葱やニラのような匂いの強い野菜、肉や魚等の生臭いもの。
「酒」は、私の命のお水。

そんなものを飲食した人は入っちゃだめよ、と。


どきどき。


飲んでいるわけではありませんが


なんとなく、どきどき。

「ここからは聖域です」と伝える、一種の結界石。

さて、


東大寺。


大仏殿の西側をちょろちょろして


勧進所の門を眺めつつ


勧進所の壁沿いにてくてく。

正面が、戒壇堂。

戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていたものの、3度火災で焼失。
戒壇堂と千手堂のみ復興。

かいだんどう。

かいだんって、何だー。


聖武天皇の詔により諸国に国分寺が置かれ、各寺に官僧が配されますが、「僕、今日からおぼーさん」と自称した国家公務員に過ぎず。

税を逃れるための出家もあり。無法地帯。


これではいかん。


聖武天皇は、正式な僧侶となるための「受戒の制」の導入を切望。

天平14年(742)。授戒が出来る高僧を求め、栄叡と普照が渡海。

天平勝宝6年(754)4月。

鑑真、東大寺へ。

大仏殿前に設置された戒壇において、

聖武上皇、光明皇太后、娘の孝謙天皇をはじめ、約440人もの人々が鑑真より戒を授かります。

そして、翌年。

前年の受戒で使用された砂を運び、日本初の正式な戒壇院、建立。

鑑真が唐招提寺に移ると、東大寺の戒壇院は受戒の場として特化。

後に筑前国の観世音寺、下野国の薬師寺にも戒壇を設置。
僧になるにはその三戒壇のいずれかでの受戒が必須に。




「受戒」とは僧侶として守るべき事を必ず行う、と、仏前に誓う厳粛な儀式。

「戒壇」とは受戒の行われるところ。

つまり、正式な僧侶としてスタートするための重要な「受戒」の儀式を行う戒壇堂は、当然とても大切な場所。


では、画像の中の矢印にご注意ください。


これ。「大界外相」。


勧進所と戒壇堂の間。


門前の石段下。

平地に伽藍が立ち並ぶように見える東大寺ですが、意外と高台にあるんだなーっと思いつつ。

なぜこんな画像かといえば、


右見て左見たら、もうすっかり忘れてたので。うう。

あるのは、「大界外相」。


戒壇堂の門。「大界内相」。


戒壇堂の正面。


・・・違います。

「戒壇外相」。


戒壇堂を囲むのは、砂の空間。

東大寺の中でも特に聖域である戒壇堂。

とても厳重にまもられているお話。


この辺りの風情も、いいですよー。



いつも応援いただきありがとうございます。
戒壇堂には、天平時代の国宝仏像「四天王立像」が納められています。手を伸ばせば届くところで拝見出来るのはとてもありがたいです。でも、四天王は、普段の私達の事をよーく見ていて、帝釈天に「あのねあのねー」っとお話しているそうです(『金光明経四天王品』)。「バカめー、アホーめー」っと言われた気がします。どきどき。

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お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

東大寺境内「子安神社」。初代別当・良弁と、かーちゃん

こんにちは。

鎌倉時代は重源、江戸時代は公慶が東大寺再興に尽力。


再興の寺務所であった、東大寺勧進所。

この向かいに、公慶が図面(指図という)を展示した


指図堂。

寛政3年(1791)倒壊、嘉永5年(1852)頃再建。


指図堂から見た大仏殿。

ちろっと見えているのが、白壁の土塀に囲まれた子安宮・子安明神と呼ばれる小社。


スロープ側を歩いたもので、えびぞりして撮影。

子安神社というと、安産や子授け・子育てを神仏に祈願する子安信仰。

それがなぜ東大寺に?


(以下、現地説明書を引用)

東大寺の古図には、この子安宮の位置に神社が描かれていて「富貴社」と注記され、「フキのやしろ」と呼ばれていたらしい。

平成元年に当社の解体修理が行われた際、社殿内より寛文11年(1671)9月24日と文久2年(1862)の日付の還宮の棟札2枚が発見された。

そこから中門堂衆の文殊院によって既に改築されていたことが明らかになり、子安宮の称号が17世紀に遡ることも判明した。

二月堂神名帳には、「子安大明神・穴師大明神」と子安明神の名がみえるが、この子安神は他国の明神である。


(引用終わり)


ひとつ目の棟札の「寛文11年(1671)」の頃とは?


寛文の頃は、丁度二月堂の焼失と再建が江戸幕府の尽力で行われ、二月堂観音信仰を通じて、良弁・実忠2人の祖徳が顕揚された時期でもある。(現地説明書)

良弁は、開山・初代別当。
実忠は、二月堂の修二会(お水取り)を始めたとされる人。


二月堂の焼失とは。


東大寺ファイヤーは、


治承4年(1180)平重衡の兵火


永禄10年(1567)三好・松永の乱

二月堂はこれらの兵火では類焼をまぬがれています。

が。

寛文7年(1667)、修二会の最中の2月13日に失火で焼失。


あーあ。


二月堂は、その直後の寛文9年(1669)、江戸幕府の援助を得て、従前の規模・形式を踏襲して再建。これが現存建物。

子安神社のひとつ目の棟札の「寛文11年(1671)」は、ちょうどこの頃。


二月堂再建時の将軍は、家綱。延宝8年(1680)没。

継いだのが、綱吉 with 桂昌院。

東大寺大仏殿再興に対してははじめはケンモホロロ。


貞享元年(1684)の公慶の陳情には、「勧進は勝手次第」

それが


となり、

宝永6年(1709)3月21日から18日間の「落慶法要」



このあとも、18世紀後半まで東大寺伽藍は順次復興されました。


ところで。

東大寺の開山・初代別当の良弁にはこんな伝承があります。


野良作業中の母が目を離した隙に鷲にさらわれて、


二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵(元正・聖武期の高僧)に助けられ、

僧として育てられて東大寺の前身に当たる金鐘寺に住みました。


後に全国を探し歩いた母とは、30年後、再会。


(以下、現地説明書を引用)

享保年間(1716-1735)の「東大寺諸伽藍略録」によると、良弁(開山・初代別当)僧正の母を祭祀したと言い、「相模国からこられた母がここに住し、良弁は孝養を尽くした」旨の説明がなされ、「孝養社」と言ったとも記されている。

寛文の頃は、丁度二月堂の焼失と再建が江戸幕府の尽力で行われ、二月堂観音信仰を通じて、良弁・実忠(修二会を始めた人)2人の祖徳が顕揚された時期でもある。

安産と子孫繁栄を願う社として「富貴社」より改称されたものらしい。
(以上、引用終わり)




鷲にさらわれた良弁のかーちゃんが住み、祀られた子安神社なのでした。


いつも応援いただきありがとうございます。
いやぁ、暑くなりましたねー。東大寺は6月下旬に訪れましたがこの時は涼しくて、てくてくするのが苦にならず。まるで幻のようです。小さな祠のような子安神社ですが、実はこっそり二月堂等と同じ時代のもの。あらびっくり。

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東大寺再興。幕府主導の国家事業。ついに落慶法要

こんにちは。


東大寺、江戸時代の再興話続き。


大仏殿の再建に必要な莫大な費用。


諸大名からも集金することで、何とか調達。


次に困難を極めたのは、材木確保。

いくら縮小したとはいえ、あの大仏殿に用いる材木です。
特に、大仏殿の大屋根を支える2本の大虹梁用松材が、ない。

元禄初年より探し続け、薩摩の請負人により、霧島山系白鳥山で発見。

・・・白鳥神社の境内。

薩摩藩と奈良奉行を通して公慶に報告があり、


公慶は現場へ飛んで、確認。

元禄17年(宝永元年/1704)正月に切り出し。

鹿児島津(鹿児島港)を出港し、兵庫津(神戸港)まで7日間。


船頭も驚く順風満帆、でした。(『興隆日記』)

鹿児島から兵庫までは船に乗せた虹梁材は、
兵庫津で下ろし、以降は船で引きます。

大阪の伝法川口で幕府の見分。

淀川と木津川を上り、8月10日木津で上陸。



8月19日より、台車にのせた虹梁材は陸路を東大寺へ。

9月2日と5日にようやく東大寺普請所へ搬入。

これが、「大仏殿虹梁木曳」

8月19日から9月5日までの木曳には、

地元奈良町から延べ1万7963名、
奈良周辺からは、木津村1400名を筆頭に延べ2601名が参加(『大仏殿再建記』)。

この間、幕府役人もそれぞれの地でそれぞれの役目の人間が警固。

公慶は、鹿児島から東大寺までずっと付き添っていました。



棟梁・塀内満政(正利)の指揮により大綱で上げられたのは、宝永2年(1705)3月。


宝永2年(1705)閏4月10日。「大仏殿上棟式」

大仏殿の棟札中央には

「卍奉再造東大寺大仏殿 大勧進沙門龍松院上人公慶敬阿弥陀仏」

南大門前で能六番、狂言五番が催されるなど、盛大に行われました。


上棟式を済ませた公慶はすぐに江戸へ。


宝永2年(1705)6月22日。

大仏殿再興を支えた桂昌院、逝去。

続いて。

宝永2年(1705)7月12日。

公慶上人、逝去。享年58。



大仏殿の完成を見ることなく、江戸の地で。

・・・。

遺骸は幕府の特別許可を得て箱根の関所を越え、東大寺まで運ばれ、近在の五劫院に埋葬。

翌年、遺弟公盛は勧進所内に御影堂を建立し、仏師性慶と公慶の弟子即念が製作した御影像を安置。

現在の公慶堂と公慶上人坐像です。


大仏殿再興は、次の大勧進・公盛が引き継ぎ、いよいよかんせ・・・

宝永6年(1709)1月10日。

五代将軍綱吉、逝去。


大仏殿再興に尽力した公慶、桂昌院、綱吉が皆この世を去り。

ようやく。

宝永6年(1709)3月21日から18日間、「落慶法要」



初日(3/21)華厳会。導師道恕前大僧正/勅使万里小路尚房
2日目(3/22)仏餉。公盛上人
3日目(3/23)三論宗論義(東大寺)
4日目(3/24)東本願寺派
5日目(3/25)鴎1霊 山正法寺
6日目(3/26)西本願寺派・南都三か寺・丸山安養寺・東山長楽寺・南都郡山四か寺并末寺14人出仕

以降、河内太子無量寿院、 梵網会/唐招提寺、薬師寺、拈香/智積院ほか、知恩院代如来寺、法隆寺、知恩院派大坂衆僧、百万遍知恩寺派、西大寺、融通念仏宗河州平野大通上人、黒谷金戒光明寺

18日目(4/8)東大寺最勝会

この時の受斎僧は9500名、受斎俗は1万1200名。
盛大な法会でした。(『大仏殿再建記』)


しかしこの場に、公慶の姿はなく。


一目でいいから、見て欲しかったですね。


以降も細かな復興は続き、

18世紀後半までには、中門・東西廻廊・東西楽門・両脇侍などの巨像も造立され、現存の寺観が整います。



永禄10年(1567)三好・松永の乱で焼失してから
宝永6年(1709)大仏殿落慶法要まで、

実に142年もの月日を要したのでした。


現在は費用も木材も集まらないでしょうから、火気厳禁。


勧進所付近から見た大仏殿。

公慶が最後に見たのは上棟の頃。まだ骨組み。


貞享3年(1686)。公慶が復興の拠点とした勧進所。

勧進所内には、同年建立の阿弥陀堂のほか、国宝僧形八幡神像を祀り、八幡殿や公慶上人を祀る公慶堂があります。

通常は中には入れませんが、10月5日の転害会の折には、国宝僧形八幡神像が開扉され、五刧思惟阿弥陀如来像、公慶堂公慶上人像と共に、拝観することができるそうです。


以上、江戸時代の東大寺大仏殿の再興話でした。


いつも応援いただきありがとうございます。
資金調達に目処が着いた後は、用材探し。鹿児島まで飛んでいって、一緒に奈良まで帰ってきた公慶。ほんとに嬉しかったのでしょうね。戦禍による焼失はとても残念なことですが、重源(鎌倉時代)と公慶(江戸時代)の尽力による再興の過程もまた、東大寺の長い歴史のひとつなのでしょうね。

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