こんにちは。

山やまヤマの、野迫川村。

お宿に着いて、まずはおまいり。

割拝殿を見ると、和歌山へ来たなーっとおも・・・
野迫川村は、奈良県でした。へへ。

川(及び道路)と山の間に細長くのびたわずかな土地に鎮座。

ここは、野迫川村北今西地区。

足元に白い玉砂利。
【由緒】
応永20年(1413)に吉野より遷座したと伝えられる勝手神社。
明治42年に弓手原春日神社に合祀され、大正元年に合祀取り消し。
合祀時、旧村社。
祭神は彦火瓊々杵命。
さぁ、ここで、「神社合祀」です。
【神社合祀】1町村1社を原則とする神社合祀令。
1906年(明治39年)の勅令によります。
明治政府は記紀神話や延喜式神名帳以外の神々を排し、
「神道の純化」を狙いました。
経済面では、合祀して神社の数を減らし経費を集中させれば、
「神社の威厳」を保つ事ができる、と。
1914年までに、全国に約20万社あった神社の7万社が取り壊されます。
特に三重県は突出しており、県下全神社のおよそ9割が廃されました。
これに和歌山県や愛媛県が続きます。

(和歌山県色川神社)
明治初期の神仏分離令、それに続く神社合祀令は、熊野に壊滅的なダメージを与えます。
まず古来の自然崇拝に仏教や修験道などが混交して成り立っていた熊野信仰は、神仏分離令の格好のターゲット。
次に襲った「神社合祀」は、上皇達も熊野御幸の道中に参詣した王子社すらも対象になります。
中辺路では、二十数社のうち八上王子と滝尻王子以外は廃社に。
廃社となった神社の森は伐採。払い下げられたり安価で売られたり。
これに立ち向かったのが、熊野の山々を拠点に研究に励んでいた、南方熊楠でした。
【「神社合祀に関する意見」ー南方熊楠ー】「神社合祀に関する意見」の冒頭で、合祀令の内容と現況を簡単に述べた後、熊楠は細かく事例をあげつついかに合祀令が愚かであるかを痛烈に批判しています。
「最初、明治三十九年十二月原内相が出せし合祀令は、一町村に一社を標準とせり。ただし地勢および祭祀理由において、特殊の事情あるもの、および特別の由緒書あるものにして維持確実なるものは合祀に及ばず、その特別の由緒とは左の五項なり。
(1)『延喜式』および『六国史』所載の社および創立年代これに準ずべきもの
(2)勅祭社、準勅祭社
(3)皇室の御崇敬ありし神社(行幸、御幸、奉幣、祈願、殿社造営、神封、神領、神宝等の寄進ありし類)
(4)武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬ありし社(奉幣、祈願、社殿造営、社領、神宝等の寄進ありし類)
(5)祭神、当該地方に功績また縁故ありし神社。
神社には必ず神職を置き、村社は年に百二十円以上、無格社は六十円以上の報酬を出さしむ。ただし兼務者に対しては、村社は六十円、無格社は三十円まで減ずるを得。
また神社には「基本財産積立法」を設け、村社五百円以上、無格社二百円以上の現金、またこれに相当する財産を現有蓄積せしむ、とあり。
つまり神職もなく、財産、社地も定まらざる廃社同前のもの、また一時流行、運命不定の淫祠、小祠の類を除き、その他在来の神社を確立せしめんと力つとめたるもののごとし。
(中略)
かつ合祀の処分は、一にこれを府県知事の任意に任せ、知事またこれを、ただただ功績の書上かきあげのみを美にして御褒美に預らんとする郡長に一任せしより、他方の官公吏は、なるべくこれを一時即急に仕上げんとて氏子輩に勧めたるも、金銭は思うままに自由ならず。
よって今度は一町村一社の制を厳行して、
なるたけ多くの神社を潰すを自治制の美事となし、社格の如何いかんを問わず、また大小と由緒、履歴を問わず、五百円積まば千円、千円積まば二千円、それより三千円、和歌山県ごときは五千円、大阪府は六千円まで基本財産を値上げして、即急に積み立つる能わざる諸社は、強いて合祀請願書に調印せしむ。」
(
「青空文庫『神社合祀に関する意見・南方熊楠』」より引用)
奈良県野迫川村より南下した和歌山県龍神村の皆瀬神社は、合祀すること37社。⇒⇒⇒
皆瀬神社のシェアハウスhttp://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-530.html
和歌山県那智勝浦の色川神社は15社⇒⇒⇒色川神社
「由緒」・
「合祀」http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-602.html
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-607.html
【北今西勝手神社の場合】

上部は、銅板で巻いてるのかしら?
明治42年に、ここより南西の野迫川村弓手原地区に鎮座する「春日神社」に合祀された北今西勝手神社。
車でえっちらおっちら走らないといけない距離です。
神社合祀は、決して氏子さん達の本意ではないこと。
おまいりに不便極まりない上に、地元にあれば大切に大切におまもりしていた我が神様が、合祀先では「その他大勢」のひとつに過ぎず、祭礼での屈辱感たるや、筆舌に尽くしがたく。(熊楠の書簡より)
合祀を取り消し、再び元の場所へ戻す神社も出てきます。

ここ、北今西勝手神社もそのひとつ。

「大正元年に合祀取り消し」とは、そういうこと。

【境内社】稲荷神社・若宮神社・池神社
社殿等が新しいと少し残念な気がする時も往々にしてありますが、
「なぜ新しいのかな?」
と、疑問に思うことも必要ではなかろうかと思います。

こまこまと騒ぐ私が言うのもなんですが。

家出した?
しくしくしく。

違う、あなたじゃない。
本殿と境内社の厳島神社の間に、この石。何だろう?

向かって左の社殿に、発見。

かわいい顔をしてそうな。
くぅー。

こんなお社、大好きです。
なので、

風呂上がりにさんぽ。

こんな遅くに静かな神社へ来ることもないですもの。

素敵なお社の向かいに、お宿。
◎はじめて、利用した施設の紹介です◎
「ホテルのせ川」さんです。
http://hotel-nosegawa.jp
なぜ掲載したかというと、
野迫川村へ来てください。お願いだから。な、気持ち。
美味しいごはんに、ぬくぬくな温泉。至福でした。
※弓手原地区と北今西地区は、奈良県の無形民俗文化財指定を受けているオコナイが行われている地域です。
参考文献
底本:「南方熊楠コレクション第五巻 森の思想」(河出文庫、河出書房新社)
底本の親本:「南方熊楠全集 第七巻」(平凡社/1971年8月9日)
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)のうち、「『神社合祀に関する意見』ー南方熊楠ー」http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/525_47860.htmlから引用。
北今西勝手神社の由緒は、
「奈良の寺社」様からお借りしました。
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2015/09/post-6bf8.html
いつも応援いただきありがとうございます。
場所柄、もっと神社があってもおかしくない地域なのに見当たらないお社の姿。やっと見つけた神社に立ち並ぶ数多くの祠、あるいは、やたらと多い祭神の名前。そんな経験は皆様にもあろうかと存じます。神仏分離と廃仏毀釈は折々に記事にしておりますが、神社合祀に伴う暴挙についても追々調べていくつもりです。・・・熊野へ行かなくちゃ♪


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。