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東大寺焼失。百年野晒しの大仏様と公慶勧進。金がない

こんにちは。


重源達の奮闘により無事復興した東大寺。

が。

永禄10年(1567)三好・松永の乱。


大仏殿・廻廊・講堂・三面僧房・食堂・八幡宮・東塔・戒壇院・大湯屋・上院閼伽井屋・東南院・尊勝院・真言院など中心伽藍の殆どが焼失。

創建当初の建物は、三月堂・二月堂・転害門だけに。


えらいこっちゃえらいこっちゃよいよいよーい。

しかし、時は戦国。

朝廷は諸国勧進の推進や、織田信長や武田信玄に協力を命じますが、それどころじゃない。

頼りとする相手もなく、大仏様は、120年間ずーっと雨ざらし。

実は


大仏様、頭部を欠いた姿。


そこへ。登場したのが、公慶。


公慶の父は丹後京極家藩士・鷹山弥次右衛門頼茂。
南都水門郷へ移住し、後に現在の生駒市へ。

公慶は13歳で東大寺に入り、大喜院を預かります。


貞享元年(1684)。公慶、江戸幕府へ大仏殿の再興と諸国勧進を訴え。

翌年、寺社奉行より許可が下りますが、「勧進は勝手次第」

(『龍松院上人公慶大仏殿再興発願興隆略記』並びに『龍松院公益・公俊・庸訓代々諸興隆略記』。以下『興隆日記』)


つまり、幕府の援助なし。(『興隆日記』)

公慶、全国勧進行脚を実践。

奈良町の町衆はもちろん、江戸浅草の長慶寺を拠点に大仏講を設置。


重源の勧進、リバイバル。

公慶は、住まいの大喜院が手狭になったので。


大仏殿跡の西側に一寺を建て「龍松院」と称し引っ越し。
(画像は大仏殿の西側/子安神社付近)


大仏再興の事務を全て行う「東大寺勧進所」と名称変更。(現存同名)

この大仏殿跡西側一帯が、再建のための本拠地に。


大仏殿の図面(指図と呼ぶ)を展示するお堂、指図堂。

寛政3年(1791)倒壊、嘉永5年(1852)頃再建。


さて、大仏様。

元禄5年(1692)3月8日~4月8日。

「大仏開眼供養」(導師:東大寺別当勧修寺宮二品済深法親王)


東大寺「開眼供養屏風」

勅使参列、僧侶は1万2899名、一般の参詣20万5303名(『大仏殿再建記』)。

幕府から奈良奉行の大岡美濃守忠高が参列。町中を与力同心が警護。


金は出さずにのこのこのこのこ。

しかし、まだまだこれから。


大仏様の次は、おうちが必要。

見積書「18万両」・・・きゃー。

元禄6年(1693)。転機が訪れます。

公慶は、知足院隆光の取持ちで、桂昌院、
側用人柳沢出羽守保明を通じて、将軍綱吉に拝謁。


手のひら返し。

公慶が幕府から得たものは

「南都大仏殿再興勧進之状」

これで幕府公認の口上書を得たことになり、寄付のお願いをする対象が庶民から諸大名へ拡大。


よっしゃー。

しかし、この寄付の対象は、「一家に一名」12銭。
つまり、一家で12銭。

足りません。

元禄10年(1697)。幕府は「一名12銭」の「人別奉加」へ拡大。

これにより、

東大寺独自の勧財方式から離れ、幕府&奈良奉行所の直轄管理に。

最高責任者は、勘定奉行・荻原近江守重秀。
現場責任者は、奈良奉行・妻木彦右衛門頼保。
さらに、勘定方南都代官・大柴清右衛門を派遣。

図面確認、見積書の作成、入札を幕府方で行います。

幕府の面子に関わるため、勧進を待たずに着手。


公慶は引き続き勧進に勤しむも、たぁりぃなぁぁぁい。


幕府は、天領と大名領から10万両の拠出を決定。
(『大仏殿再建記』・『興隆日記』)

それでも、



さらに、桂昌院は柳沢吉保を通じ、

「南都大仏殿修造金高百石に付壱分」を決定。

江戸屋敷の家老達を呼び寄せて命じます。


もはや、国家事業です。

最終的な費用は、12万1294両壱分。
うち、公慶が用意できた額は、1万1206両。残りは幕府負担。

公慶個人での勧進がいかに困難であったか、よくわかります。

それでも、創建当初の規模に復興することは出来ず、

大仏殿の間口は、11間から7間に縮小。


つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。
鎌倉時代は、重源を源頼朝が支援。江戸時代は、公慶を江戸幕府が支援の後、国家事業に。東大寺の再建には共に、武家が大きな役割を果たしていた、と。この時、幕府側に桂昌院がいたことが非常に大きいと思います。 そして、大仏様よりも大仏殿の再建が、実はえらいこっちゃー!なのでした。つづくよー。

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東大寺炎上。大勧進職・重源の再興と能「安宅」。弁慶の勧進帳

こんにちは。


東大寺。

正式名称は、「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」。


《ざっくり歴史》

神亀5年(728)11月。「金鍾山寺」建立。
一歳に満たず夭折した基親王の菩提追修のため、聖武天皇により建立。

天平13年(741)。「大和金光明寺」へ昇格。
国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔。
金鍾山寺が昇格し、「大和金光明寺」となる。

これが東大寺の前身。

天平勝宝4年(752)4月。「大仏開眼供養会」

講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂造営。

延暦八年(789)3月。造東大寺司を廃止。整備に区切り。


以降、東大寺は鎮護国家の寺院として歴代天皇の崇敬を受け続け。


鎮護です。

斉衡2年(855)の大地震で大仏様の頭が落っこちたり、失火等で焼失したり、なかなかシュールな繰り返し。

燃えては造り、壊れては造り。

そんな中迎えた、治承4年12月28日(1181年1月15日)。


平重衡ら平氏軍による南都焼討。

東大寺(←歴代天皇)、興福寺(←摂関家)は各々独自に僧兵を持ち、既得権威を侵す清盛に対抗しており、


やっちまったな、平家の諸君っ。

東大寺は、法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外を焼失。

清盛は、東大寺・興福寺の荘園・所領を没収、伽藍再建を認めず。



しかし、清盛死去後、平宗盛は全て撤回。

大勧進職に任命された俊乗房重源、復興事業に着手。

この時既に還暦越え。おじいちゃま、ふぁいとっ。


まずは先立つものから。

勧進聖や勧進僧を組織し、資金集め。


突然ですが、ここで、能「安宅」

頼朝から追われた義経一行。

安宅の関で正体がばれそうになった時。
とっさに弁慶が名乗ったのは、


勧進の山伏一行ですよーっと。


能「安宅」より『勧進帳』(難しいので先生の許可が必要な部分)

もとより勧進帳はあらばこそ。
笈の中より往来の巻物一巻取り出だし。勧進帳と名づけつつ。
高らかにこそ読み上げけれ。

それつらつら惟(おもんみ)れば大恩教主の秋の月は。
涅槃の雲に隠れ。生死長夜の長き夢。驚かすべき人もなし。

ここに中頃。帝おわします。
御名をば。聖武皇帝と名づけ奉り最愛の。夫人に別れ恋慕やみ難く。
涕泣眼(ていきゅうまなこ)に荒く。
涙玉を貫く思いを。善途に翻して。廬遮那仏を建立す。

かほどの霊場の。絶えなんことを悲しみて。
俊乗坊重源、諸国を勧進す。

一紙半銭の奉財の輩(ともがら)は。
この世にては無比の楽に誇り当来にては。数千蓮華の上に坐せん。
帰命稽首(きみょうけいしゅ)。敬って白(もう)すと天も。響けと読み上げたり。



弁慶が読んだ巻物に本当は勧進帳は書かれておらず。

とっさに作文してみせるところがこの曲の眼目です。



みんなが頑張る一方、重源だって必死。


重源自身も後白河法皇や九条兼実、源頼朝などに浄財寄付を依頼。

結果、特に頼朝の支援を取り付け。


文治元年(1185)「大仏開眼供養」(導師:後白河法皇)

文治2年より、周防国が東大寺造営料所に当てられ再建に弾み。

建久6年(1195)「大仏殿落慶供養」

建久7年(1196)には、


南宋の石工「伊行末」(いぎょうまつ)作の石獅子が完成。


石獅子が住む南大門は、

正治元年(1199)上棟、建仁3年(1203)竣工。


中国から取り入れた当時最新の建築様式「大仏様」で建造。


天井を張らず、ずぼーんっと抜けた構造。


同年完成の運慶・快慶ら慶派仏師集団の造像になる仁王像。


ところが。

永禄十年(1567)三好・松永の乱。

二月堂や法華堂、西大門や転害門、正倉院や鐘楼など僅かな建物を残して、

大仏殿・廻廊・講堂・三面僧房・食堂・八幡宮・東塔・戒壇院・大湯屋・上院閼伽井屋・東南院・尊勝院・真言院など中心伽藍の殆どが焼失。


えらいこっちゃ。


いつも応援いただきありがとうございます。
重源の再興によるもので現存するのは、南大門、開山堂、法華堂礼堂(法華堂の前面部分)。木造は焼けてしまうので残るのが難しいんだなーっとつくづく思います。「安宅」での勧進帳の読み上げは、能を題材に歌舞伎にもなりました。それぞれを見比べてみるのも楽しいですよー。

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東大寺講堂跡。延喜元年「解除会」と夏越の祓

こんにちは。


大仏殿の北側、です。


土塁と堀かよっとぶうぶうしつつよじ登る。


まぁ、素敵な日本庭園ねー。


今は礎石だけが残る、東大寺の講堂跡です。

講堂跡を、東から西へ移動しまーす。


「大仏殿北方地区の調査現地説明会資料」より(奈良市教育委員会/2011)

かつて、大仏殿(東大寺金堂)の北側は、講堂を中心に東西・北を僧房(三面僧房)が囲んでいました。


《講堂の履歴》

講堂は、僧侶たちが集まり説法や講義を行う場所。

延喜17年(917) 失火で焼失→再建
治承4年(1180)平重衡の兵火(南都焼討)で焼失→再建
永正5年(1508)焼失→再建されず


現在は講堂の礎石のみ露出。

僧房は、平成23年7月に公共下水道築造工事の事前調査で初めて遺構を確認。

その際に

「大仏殿と講堂の間には東大寺造営以前からある深い谷が平安時代まで残っていたことも確認できました。

この谷の底には、奈良時代の大仏鋳造時の遺物を含む層が堆積しており、木炭、鞴(ふいご)の羽口、溶銅、銅滴、銅滓、木簡、檜扇・転用 硯などが出土しました。出土木簡には(表面)「 □守 受韊侖 一口 」・(裏面)「九月九日」 と記された大仏の銅を溶かす鞴(ふいご)に関わるものもあります。」(「大仏殿北方地区の調査報告」奈良市教育委員会/2011)


今は車道が通り平地になっていますが、谷があったとはびっくり。


礎石の大きさは、鹿さんと比較下さい。

ずっと「ぽー」と言ってます。ふふ。


つん、しないでー(T_T)

ところで。


六月晦日は「夏越の祓」があちこちの神社で行われますね。


夏越の祓、即ち「大祓」の初見は、『古事記』仲哀天皇の段。

延喜式に定められた「天つ罪」「国つ罪」を祓う宮中の年中行事でした。

応仁の乱による都の退廃で400年以上中断しましたが、明治4年(1871)、明治天皇が宮中三殿賢所の前庭にて大祓を復活。
翌年の太政官布告により「大宝律令」以来の旧儀の再興を命じます。


一方、東大寺で行われる「解除会(けじょえ)」。


かつては、講堂で行われた仏会です。


【東大寺「解除会」と夏越の祓】

(以下、東大寺HP「解除会」より引用)
http://www.todaiji.or.jp/contents/function/07kezyoe.html)

「解除会」は、わが国で古来より行われていた六月の晦(みそか)の「夏越の祓」や「水無月祓」と深い閑係がある仏会。

延喜元年(901)3月。

東大寺別当律師道義が秋の始めに毎年流行する疫病を防ぐため、奈良の諸大寺に呼びかけ

同年6月28日より法会開始。

七大寺(※南都七大寺/興福寺・東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺・大安寺・法隆寺)の僧240~50人、楽人60余人を講堂に集めて行われたと伝えられる。

当初は観音の画像を新写して除疫を祈願し、解除と大書した御幣を二本作って講堂の前庭に立てたといわれる。



東大寺の講堂が焼失してからは、一時は食堂(じきどう)で、或いは大仏殿内の如意輪観音を本尊として勤められてきた。

この解除会は、応仁・文明の乱以後一時中絶したものの、江戸時代に再興。
今日では毎年7月28日、大仏殿で盧舎那仏(大仏さま)を本尊として勤められている。

(以上引用終わり)


ここ、講堂で行われた「解除会」。

大祓と表裏一体のような仏会ですね。


ぽっちん、したらどうなるかしら。ふふふふふ。


礎石の大きさ、どうでしょう。


気を付けないと、落ちます。


大仏殿へは向かわず、お散歩続行。


いつも応援いただきありがとうございます。
神社で行われる茅の輪くぐりを見慣れているので、お坊さんが茅の輪くぐりをしている光景にちょいとびっくり。しかし、東大寺において綿々と受け継がれてきた仏会です。講堂の礎石、この辺りでランチをした青春時代が懐かしいです。きれいな芝生ですが、鹿さんの落とし物がてんてんてんてん。要注意です。

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東大寺転害門。天平時代唯一の遺構門と盃状穴

こんにちは。


奈良公園の鹿 on 自分の落とし物。


東大寺てくてく。

大仏殿の北西に向かって、てくてくてくてくてくて。


大仏殿北側の講堂跡や


大仏池を通りすぎ


正倉院の森を曲がって、西向きにてくてく。

そして。


境内西北にある転害門。内側。

天平時代は、東大寺と平城宮を結ぶ最も重要な一条南大路の東端の基点にあたる転害門です。

往時は偉い人達の別荘が建ち並んだ一条南大路の別名は、景勝地を意味する「佐保路」。

佐保路の終点なので、佐保路門、とも呼ばれた門。

「東大寺山堺四至図」(756年創建直後か)に佐保路門の名で存在。


「東大寺山堺四至図(江戸期模写本)」

創建直後にはまだ南大門はありません。



どーん。

三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門。
平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構である。

(東大寺公式サイトより)
http://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance9.html


このななめの屋根が翼みたいでお気に入り。


大門地蔵講。


「転害門」とは、吉祥の位置で害を転ずる意味から。


鎌倉時代の改変はあるものの、基本的には奈良時代の建物。

この転害門は、


手向山八幡宮の祭礼である転害会(てがいえ・10月5日)の御旅所。

東大寺建立の際に宇佐八幡宮から勧請。
平重衡の兵火後に北条時頼により現在地へ移った東大寺の鎮守社。

八幡神は一条通から、この転害門を通って東大寺に入ったといわれ、それが「転害会」の由来。


その際に神輿を置く基壇。基壇 on 基壇。

転害門の基壇は、鎌倉時代の大改修時に創建時の奈良・二上山の松香石(凝灰岩)から、強固な花崗岩に取り替えられています。
(『国宝東大寺転害門調査報告書』/2003)


柱の礎石は、花崗岩。


転害門の基壇最上部に面白いもの、あります。


盃状穴。はいじょうけつ。

古墳等にも見られるこの盃状のあなぼこ。
名称こそ近年の研究により名付けられたものですが、あなぼこ自体は全国、さらには海外でも見られるもの。


但馬の酒垂神社では、本殿下のここに


ぽこぽこ。


舞鶴のお寺でも


いっぱいぽこぽこ。

この穴を穿って、何かをお祈りしたのかな。

転害門に戻り


無数にぽこぽこ。

浅いものも含めて、数十箇所ありましたのよ。


東大寺の門にこんなに。今なら捕まる。

面白いのは、東大寺の中ではこの転害門でしか見られないこと。
どうして本殿や本堂、他の建物じゃなくて、門なんだろう。

東大寺の二度の戦禍を生き延びた事に関連するのかしら。


なんで、柱の礎石にもあるんだー。

と。

まぁ、ここまでは外から内へ向いているので、あー、転害門と東大寺を拝んだのかしら?と思うのですが。

ががが。


なんで門の内側にまであるんだー。

やはり、転害門が信仰の対象なのか?

・・・うーむ。こんなときは、


笑っておこう。へへ。


いつも応援いただきありがとうございます。
転害門まで来ると観光客は皆無で、静かに静かに拝見出来ました。ほっとしましたー。東大寺の西隣が平城京になるので、この転害門が往時は一番近い玄関になります。東大寺の境内には、それこそ神も仏も神社もお寺もわんさかとあるのに、なぜ転害門だけに盃状穴があるのか。とても不思議で面白いなと思います。

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東大寺南大門。日本最古の石獅子、1196年生まれ

こんにちは。


奈良といえば、一刀彫。


そして今はバンビちゃんの季節。


お約束の東大寺大仏殿。

皆様ご存じの通り、ファイヤーされてはふっかーつ、の歴史。


治承4年(1180)。平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失。

復興担当は、俊乗房重源(役職は大勧進)

鎌倉幕府(特に源頼朝)が全面協力、文治元年(1185)に後白河法皇を導師として「大仏開眼供養」。

永禄10年(1567)。三好・松永の乱。

二月堂や法華堂、西大門や転害門、正倉院や鐘楼など僅かな建物を残して、大仏殿・廻廊・講堂・三面僧房・食堂・八幡宮・東塔・戒壇院・大湯屋・上院閼伽井屋・東南院・尊勝院・真言院など中心伽藍の殆どが焼失。

本尊盧舎那大仏は約120年間雨ざらし。

復興担当は、公慶上人(17世紀後半)。

江戸幕府の支援を取り付け、元禄5年(1692)に「大仏開眼供養」



わちゃわちゃした大仏殿には行かず、


南大門。

「天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊した。

現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。

正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣工した。

入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっている。また屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもある。大仏殿にふさわしいわが国最大の山門である。」


(東大寺公式HP「南大門」より引用)
http://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance8.html



南大門内側。

重源自身が当時の中国から移入した当時の、最新の建築様式大仏様(だいぶつよう)の代表建築。


木組のすばらすぃことといったら。


あああ、美しい。


仁王さま。

運慶・快慶ら慶派仏師集団の造像。


その上部。

天井がないから味わえる醍醐味。


今はもう、こんな巨大な木材はないんじゃなかろうか。


会いたいのは、こっち。


「日本最古」とされる石像の狛犬「石獅子」(重文)くんです。


南都焼討からの復興に尽力した重源が日本に招いた、南宋の石工「伊行末」(いぎょうまつ)の作。

生まれは1196年。


春日大社の神殿狛犬さんと同年代の、はっぴゃくちゃい。


とても若々しく見えますが、はっぴゃくちゃい。

ネックレス(綬帯)がおされさん。
髪飾りと共に、動いたらシャラシャラいいそう。


狛犬が赤ちゃんに抱きついているみたいに見えるのは、気のせいだな。

台座の一番下の雲の文様「祥雲文」が細かいです。


反対側は、雌らしいのですが


その前にサービスしょっと。


勇ましいじゃないかー( 〃▽〃)♪♪

こちらは足先に欠損があるものの、極めて美麗。


現代の中国狛犬はどえらいことになっとりますが(和歌山県新宮市の徐福公園)

1196年当時の流行は、お上品だったのかしら。


あらやだ、まーしかく。うふふふ。

こちらの貴重な石獅子さんですが、

仁王様は皆が注目。こちらはスルー。

はっぴゃくちゃいなのに。仁王様と同年代なのに。

教科書に載ってないせいに違いない。


南大門の内側の、ここにいるよー。

ぜひ、機会があれば会ってあげて下さいね。

ねっ?


聞いてないでしょ。


いつも応援いただきありがとうございます。
異国の観光客さん達で大にぎわいで、多い多いとは聞いてはいたものの、まー、ほんっとに驚きましたとも。南大門の石獅子さん達は昔は中門にいたそうで。ずっと屋根の下だったからきれいに残ったのかな。西洋風の装飾がとても細かく、異国情緒あふれる子達です。

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春日大社「御出現!春日大社の神獣展」獅子と狛犬

こんにちは。


今はバンビちゃんの季節。


いっちょまえにかきかきしてます。

鹿といえば、


あんにゅいな鹿さんの水口ぴゅーがあるのは、

・・・春日大社。


必死。


いつ見ても、うぷぷっとなります。

突然奈良へ来たのはこちら。


今月末までの「春日大社の神獣展」へ駆け込みましたー。


本殿として武甕槌命(たけみかづちのみこと)など4柱の祭神をまつる四つの社殿がある春日大社。

それぞれに獅子・狛犬が置かれていますが、社殿は皇族や神職しか立ち入れないため、非公開でした。

今回の式年造替(ぞうたい)を機に約800年ぶりに新調されることになり、
宝物庫へ移動する前に、初めて一般に披露されました。


すきっぷする勢いで突入。


四柱の祭神を祀る四つの本殿。

第一殿・第二殿の獅子と狛犬、第三殿・第四殿の獅子が、鎌倉時代。

くぼんだお目目と広い胸元、がっちり体型がこの時代の特徴。

第三殿・第四殿の狛犬は、室町時代。


第一殿の獅子と狛犬。

鎌倉時代生まれ。はっぴゃくちゃい。


どっちりおすわり。

州浜(おすわりする台座)が岩場のようなごつごつ。


第二殿。ぶたっぱなのおちゃめさん。


この子達も鎌倉時代。はっぴゃくちゃい。

首をかしげたり、強がったり、かわいいぞ。


第三殿。強烈な個性。

獅子くん、写真写りがお気の毒。あおーんってしててかわいかったのに。


ワレワレハコマイヌナノダ。パンダじゃないノダ。


第四殿。怖い狛犬とかわいい獅子。


獅子がわんこ。よーしよしよし。


詳しくは、⇒⇒⇒春日大社式年造替サイト
http://www.kasuga-houshuku.jp/special/koma/
※期間限定サイトかもしれません。


この子達がいたのは、


こんな場所ですから、(画像は手向山神社)

屋根があるとはいえ長年の風雨にさらされ彩色が落ちてしまいました。

元は金色+緑のたてがみ等、とても色鮮やかな姿。
それは数々の絵巻等に描かれています。



春日大社では、獅子と狛犬について、式年造替の度に寸法・色・形を記録に残しており、今回それに基づいたものが新調されるとのこと。

我々が直接見ることはかないませんが、
新しい子達も何百年の長い年月、神様とお社を守っていくんですね。


聞いてる?


これこれ。あなた、春日大社の神の使いですよー。


いつも応援いただきありがとうございます。
とてもとても見ごたえのある展示でした。8体のポストカードを買ってきたので、うっとりと眺めています。みんなそれぞれとても個性的で、生き生きとしていました。名のある仏師の作ではないかと説明を受けましたが、宇宙から来たような狛犬さんをどんな顔で生み出したのやら。うふふふ。

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大切な文化遺産を維持するということ。世尊寺(その8)

こんにちは。

三井寺の三重塔の故郷、比曽寺(現・世尊寺)を訪ねて、一番の「よかった」は、住職さんにお会いできたこと。

訪問日はたまたま法事が行われていたので、お手がすく時間に再訪問しました。

まずは、


三井寺へ移築された東塔や


南北朝期に焼失した西塔の礎石をつぶさに眺めたり、


鎮守社の狛ちゃんと遊んだり、


金堂跡の礎石から往時の大きさを想像したり、


本堂を囲む講堂の礎石とお話しました。


本堂からもれ聞こえてくる読経の朗々たるお声にうっとり。


文珠堂跡の小さな礎石にもごあいさつ。


太子堂では、屋根瓦のくりくり~(*^_^*)に、なんだこれ?と思い。

一旦ここを離れて、吉野川や国栖を探索。


岩神神社等をお詣りして過ごしました。

この間に思ったのは、国の史跡に指定されている世尊寺の維持管理は、いったいどうしているのかな、ということ。

周知の如く、文化財指定を受けると所有者の意向に沿わない管理体制を求められるのが、今の文化財保護法。

やれ耐火建物に入れろだの、触るな出すな見せるな、だの。

西洋のように石造ならまだしも、木造が主流の日本では、燃やさないことが重要なのはわかっておりますが、しかし。

コンクリートに箱詰された仏様に何の意味があるのかな。


そう思いつつ、再び世尊寺へ。


ご本尊阿弥陀如来様の前で、住職さんのお話をゆっくり聞くことができました。

世尊寺の歴史については過去記事で述べましたので割愛しますが、
こちらではかつて檀家がなく、先代が苦労されたとのこと。

日々の暮らしのために今の住職さんは学校の先生を定年まで勤め、文化財指定を受けている制限の中で手探りで維持されています。

京都市内や奈良市内の観光地ならば、拝観料をとることも容易でしょうが、世尊寺では仏像拝観を希望したときだけ。

マンツーマンでお話させて戴いて、申し訳なさに身が縮こまります。


聖徳太子像が年末まで出されているのは、少しでも多くの人にお参りいただきたいからとのこと。

そのお気持ちがとても嬉しいです。


住職さんが修行時代の師から言われた言葉。

「お花の咲くお寺になさい。」

桜、ツツジなどはどこのお寺にもあるから、他にはないお花を咲かせたいといろいろなお花の木を境内に植えておいでです。

一本一本に名前と説明を記した名札が付けられていました。

晩秋の殺風景な時季に訪れてしまったので、次は春に来たいです。


史跡・比曽寺跡は、境内だけでなくその周囲にも及びます。

これは、往時は現在の本堂以北を含む広大な土地に複数の塔頭が並ぶ大伽藍であったため。

今は耕作地となり、お寺から地元の人が借り受けて、耕作。
昔は「年貢」の形でお寺へ納められていました。

ここへきて問題が。

それは、各地に見られる高齢化による耕作人不足。
もう農作が出来ないのでお返しします、との申し出が相次ぐけれど、返されてもお寺でも人手がない。

細々でいいから、使ってくださいな、と言っているそうですが、それがいつまで続くのやら。

また、以前、数日間本堂で展示した後に文化財指定を受けてしまった絵巻は、展示不可となってしまい、住職さんが見せたくても見せられなくなり、何のために持っているのかしらね、と苦笑しながらもとても悲しそうでした。


境内にある遺跡や太子堂等の建物は古くからの寺社建築を学ぶのに貴重なものです。

仏像もまた、奈良時代のものでとても素晴らしいお姿です。


鐘楼が二階建てなのは、遠くまで音色が届くようにするため。

しかし、住職さんのお声はどこまで届いているのでしょう。


巷では、※●◇遺産やら何やら不思議な名前の遺産が増えていますが、観光誘致の為の名称と本当に価値のあるものは違うと思います。

大型バスで乗り付けるだけ、わーっと来てわーっと帰っていくだけ、の観光を重視するようでは、本物の史跡が衰退し、維持管理出来なくなり、荒廃していくのではないでしょうか。

所有者個人や地元の好意だけで出来ることは限られています。

日本の文化、有形であれ無形であれ、遠くない将来に滅びていくものが各地に無数にある現実をもっと知らないといかんなぁと思います。



帰りは日暮れも日暮れ。

途中で真っ暗になってしまいました。えへ。


世尊寺の住職さんとゆっくりお話ができたこと。

今年一番の出会いであり、一番の思い出になりました。


世尊寺シリーズ、おしまい。


世尊寺(史跡・比曽寺跡)
《住所》奈良県吉野郡大淀町比曽762




いつも応援いただきありがとうございます。巨大で立派なお寺よりも、ひっそりとした所の雰囲気が個人的に好きなのもありますが、ここはこれからどうするんだろう?と思う場所もしばしば。世尊寺は静かながら隅々までお手入れが行き届いており、住職さんの日々のご苦労と前向きな姿勢に頭が下がりました。ほんとに、素晴らしいお寺です。お近くにお越しの際はぜひ、お立ち寄りくださいませ。
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父上を見守る聖徳太子十六才孝養像と太子堂。世尊寺(その7)

こんにちは。


淡路島に漂着した香木で作られたという伝承のあるのは、


比曽寺(現・世尊寺)の「十一面観音菩薩立像」(下の画像・右側)。


画像の左は、「聖徳太子十六才孝養像」(世尊寺パンフより)。


「高さ1m、寄木作、金泥彩色の十六才孝養像で、柄香炉を持つ。
太子十六才の折に、天皇が御病気になられ、日夜傍らに侍して看病、食事を供されたうえ香炉をささげて平癒を祈られた故事によるものである。」

「頭髪を『みずら』に結び、体に袍を着たうえに袈裟をかけ沓をはき、右手を前に左手をその後に添えて柄香炉を持っておられる」
(世尊寺パンフレットより)


製作年代は、鎌倉から室町時代とされる像。



山岸涼子さんの『日出処の天子』を愛読していた身にはおなじみの髪型。


親を思う心はいつの世でも変わらないですね。
どんな姿でもいいから、生きていて欲しいものです。

病の父に付き添っていた聖徳太子。

彼が父・31代用明天皇のために建立したのが、ここ比曽寺の


東塔でした。


もうおなじみの、三井寺の三重の塔。


「聖徳太子十六才孝養像」は、


普段は聖徳太子を本尊として建立された太子堂に安置されています。


毎年4月29日(かつては4月22日)に行われる聖徳太子の会式(おたいっさん)の時にしか会えないのかなぁと思っていたら。


ご本尊の阿弥陀様の横においでになりました。

せっかくだから、皆さんにお会いしてもらおうと思ってねぇ、と住職さん。

年末までご本尊の側にいらっしゃるそうです。

意思の強そうな目元に比べ、まだ成長しきっていない体つきからは少年期特有のアンバランスさと、父の病を心配しているとても心細そうな不安な感じを受けました。

さて、太子堂。


屋根の瓦には、後醍醐天皇が命名した「栗天奉寺(りってんほうじ)」の、栗。



「角屋の鬼瓦に享保7年(1722)、同9年(1724)の瓦銘があり、内部の虹梁絵様、蟇股等の細部様式等と考えあわせて18世紀前期頃に建てられたと考えられている。」(世尊寺パンフレットより)


おや。なんかいる。


かわいい龍さんでした~。

おんまさんみたいなお手手です。うふ。

これじゃ珠をつかめないでしょうに。
どうするのかなー。ドラえもんみたいに、くっつけるのかなー?


おいでおいで~(*^_^*)


ざんねん。

ちなみに、馬のあんよ(蹄)の龍がいるのは、播磨の室津に鎮座する賀茂神社の表門。


「馬足の龍」です。

・・・蛇足でした。


太子堂の建物としての特徴は、


寄棟のお堂(法堂)の後ろに入母屋の張り出し部(角屋)がある点。

この張り出した角屋は、内部では仏壇部分に当たります。


角屋が突き出す形は、奈良県内でもあまり例がない建築様式だそうです。


江戸時代に往時の姿を描いた境内図。

「聖徳太子十六才孝養像」の製作年代が鎌倉から室町時代であり、太子堂はこれを本尊として創建された点から、もともとの太子堂の創建は少なくとも江戸時代より遥か前。

境内図の西側にひとつだけ東を向いた建物が見えますが、これがかつての太子堂かと思われます。

18世紀前期頃に建てられたと推定される太子堂の屋根に、後醍醐天皇の命名した「栗天奉寺」の名を記した軒瓦が残る点も興味深いです。



次回、住職さんのお話より。

伝えたいこと。

最終回。のつもり。


参考

現地説明板(大淀町教育委員会)
世尊寺パンフレット
住職さんのお話


いつも応援いただきありがとうございます。立派な三井寺ではいまいちピーンとこなかったのですが、三重の塔の故郷を訪ねてみよー!っとお気楽に来たはずのここでは鬼太郎みたいに髪の毛が逆立つほどピーンピーンとなりまして。鼻の穴と毛穴とお口が開きっぱなし。ふごー。目にするものひとつひとつがとても興味深くいとおしく、忘れられないお寺になりました。その要因のひとつに、住職さんのお人柄があります。好好爺然とした中に、お寺へ向ける情熱がひしひしと伝わるとても素敵な方でしたのよー。
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淡路島に漂着した香木で十一面観音菩薩立像。世尊寺(その6)

こんにちは。


淡路島の西側にある、


枯木神社。


「推古三年夏四月。沈水漂着於淡路嶋。其大一圍。嶋人不知沈水。以交薪約於竃。其烟気遠薫。」(『日本書紀』巻二十二)



推古天皇3年(595年)。淡路島に大きな流木が漂着。


島の人が知らずに薪と共に竈で炊いたら、遠くまで良い香りを漂わせました。

不思議に思って、推古天皇へ献上。

流木は「沈水(じみ)」という香木だったのでした。

この「『日本書紀』巻二十二」の記述が、日本における「香木」の初出。


沈水(じみ)の大きい方は献上しましたが、

小さい方を薪にしようと鋸でひこうとしたところ障りが起きたので、海に捨てます。

が、何度海へ捨てても戻ってくる。

そこで、地元の人々はお社を建てて、香木をご神体として祀りました。

それが、


淡路島西海岸の中程、一宮にある枯木神社。

日本最古の香木伝来伝承地とされています。


近年、古びた祠を現在の社殿に建て替える折にご神体を数百年ぶりに開いたところ。

確かに、香木であったそうです。


【比曽寺の十一面観音菩薩立像】


さて一方、淡路島から推古天皇へ献上された沈水(じみ)の流木。

聖徳太子の奏上により、この香木から仏像が彫られます。

それが、


比曽寺(現・世尊寺)に伝わる


「十一面観音菩薩立像」だというのです。(※画像右側)(世尊寺パンフより)

ここまでは、伝承。


高さ約2.18mの大きな観音様。

「奈良時代の作と伝えられ、菩薩の立像である。頭部は一見して鎌倉期の後補とわかるが、体部は古様の切れ味のいい刀の冴えを見せる一本彫刻である。
胸を張った胴長、腰長の変わった体形の大像である。」
(世尊寺パンフレットより)


奈良県教育委員会の調査では、この仏像が奈良時代(8世紀)に造られ、鎌倉時代と江戸時代に、頭部や腕の一部を補修していることが確認されました。

木造の十一面観音としては、吉野地域でもっとも古いものだとか。


調査結果だけを見ると香木の伝承はぶっ飛んでしまいますが、
いいの。伝承なんだもん。
住職さんのお話でも、この淡路島の香木のお話が出たもん。ぷぅ。


ところで。

何を見るにもぽかーっと口が開くわたくし。


「十一面観音菩薩立像」にお会いすると、つい、お顔を数えてしまいます。

ぽかーん。おほほ。


「十一面観音菩薩立像」を見ると、右手が長くなっています。
また、横から見ると前のめりになっている像もあります。

これは、より多くの衆生を救うため。


十一面観音様は一生懸命なのです。

何だか申し訳ないなぁ~。


【国宝「龍首水瓶」と比曽寺】


本堂北側。


「壇上桜」と呼ばれている山桜があります。
(晩秋で枝しかなかったので、イメージです~)

元は、十一面観音菩薩立像の前の壇上に置かれた「水瓶」に差してあった一本の桜の枝が根付いた「聖徳太子お手植えの桜」でした。

桜を差していた「水瓶」。

はくらいひんのいっぴん、でした。

が。

なんと、奈良時代に比曽寺に20年間滞在していた中国の学僧・神叡が法隆寺に移ったとき、その水瓶を持ち出してしまったのです。

こらー。だから異国の(自主規制)。

水瓶の胴部の墨書の銘「比曽丈六高一尺六寸□□」により、水瓶が比曽寺にあったことを証明しているのですが。

なんとー。

明治11年(1878)。この水瓶は法隆寺献納宝物の一つとして、法隆寺から皇室に献納されてしまいました。
現在は国宝の指定を受け、東京国立博物館の法隆寺宝物館に。


国宝「龍首水瓶(りゅうしゅすいびょう)」

高さ49.9cm、 胴径18.9cm。
ササン朝ペルシャに源流をもつ、一般に「胡瓶(こへい)」と称される形。


住職さんは、十一面観音菩薩立像の前に「龍首水瓶」が置かれた往時の姿を復元したくて関係各所に掛け合ったものの、貸出の許可が得られなかったそうです。

悲しそうでした。きゅん。


まだつづく。


参考

現地説明板(大淀町教育委員会)
世尊寺パンフレット
住職さんのお話


いつも応援いただきありがとうございます。比曽寺の十一面観音菩薩立像となったと伝わる淡路島に漂着した香木。うふふふ。淡路島の枯木神社で「どんな仏像になったのかなー?」と、わくわくした時から数年を経て、ようやく巡り会う事が出来ました。嬉しかったです。鼻の穴ひろげて、ふごー!って顔をしていたかと。住職さん、苦笑い。へへへへへ。
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比曽寺の歴史と本尊「阿弥陀如来坐像」。世尊寺(その5)

こんにちは。


比曽寺(現・世尊寺)の本堂。


周りを、旧講堂の礎石が囲みます。


往時の比曽寺の伽藍配置。

聖徳太子建立の48ヶ寺の一つと伝えられ、出土する瓦や伽藍配置などから、飛鳥時代の7世紀後半には寺院が存在していたとされるお寺です。

時代により、比(曽)蘇寺、吉野寺、現光寺、栗天奉寺、世尊寺と宗派や名称の変遷を経ながらも往時の伽藍配置が残る貴重な存在。


【奈良時代の比曽寺】

飛鳥時代末期から奈良時代は「吉野寺」と称します。

金峯入峯前に役行者がここで修行をしたので、寺は「行者道分道場」とも呼ばれました。

確かに通り道といえば、通り道。

また、中国の学僧(神叡・道叡)も滞在。

唐僧の神叡ははじめ元興寺へ赴き、比曽寺に20年間こもって虚空蔵菩薩を本尊として修行しました。

空海や最澄がこの地に足を運び、神叡に求聞持法の伝授をお願いしたとか。

この神叡、後々出てきますのでお楽しみに。


【平安時代から中世】

壷阪寺から比曽寺を経て金峯山寺へ詣でる「吉野詣」の古道に位置する比曽寺(当時は「現光寺」)。

56代清和上皇、59代宇多上皇、更に藤原道長も参詣。

法興寺(飛鳥寺)・四天王寺・法隆寺とともに「四大寺院」と称されるほど大いに栄えた時代です。


96代後醍醐天皇が、小野文観を先達として行幸。
自ら「栗天八一山『栗天奉寺(りってんほうじ)』」の山号・寺号を与え、勅願寺とします。


太子堂の屋根瓦に、


くり。


違う。ぜったい違う。

これは、『栗天奉寺(りってんほうじ)』の、栗。

古いものには、「栗天奉寺」の名が記されているそうで。
探したけど、わからず。ざんねん。


ところが、南北朝期の動乱により、護摩堂など多数の建物、さらに西塔を焼失。

東塔は、慶長2年(1597)、秀吉により伏見へ移築されてしまいます。(現存。三井寺三重塔)

その後、無住時代も続き荒廃。


【江戸時代】

宝暦元年(1751)。
「龍門城」の城主・中之坊兵庫守(詳細不詳)が、河内国の大道寺より雲門即道(うんもんそくどう)禅師を迎え、縮小はするものの、伽藍を再建。

この時、現在の曹洞宗となり、現在の住職さんで第20代です。

また、「中之坊兵庫守」は、本尊様の後ろに祀られています。


世尊寺山門にかかるのは


雲門即道禅師による「日国 最初 洞窟」の額。


ぎゃー。意味を聞き忘れたー。日本で最初の洞窟ってなに?


【ご本尊「阿弥陀如来坐像」】

『日本書紀』第十九巻。欽明天皇十四年(553)

「夏五月、茅渟(ちぬ)の海の海中に、雷(いなずち)のような音を出して、光輝くものがある。天皇はあやしんで臣(おみ)の溝辺(いけべ)直(あたい)に命じて海上を探させると、クスの大木の輝くのを発見した。天皇は感じて仏師に仏像二躯を造らせた。今、吉野寺に光を放つ樟木の像なり」

※同様の記述は『日本霊異記』(平安時代)等にも見られます。



「茅渟(ちぬ)の海」とは、大阪湾。

この、海中に光り輝いていた楠(クス)の木で欽明天皇が作らせた仏像は、はじめ、飛鳥の豊浦寺(飛鳥は比曽寺の北方)に祀られます。

欽明天皇十四年(553)といえば、仏教伝来の翌年。
まだ日本は神様が広く祀られていた時代。

その後、物部氏・蘇我氏の間で崇仏廃仏論争が起こり、戦火によりお堂が焼失。

焼失を免れた仏像は比曽寺(当時は「吉野寺」)へ安置。

これが、比曽寺のご本尊「阿弥陀如来坐像」。

海中で光り輝いていた事から、別名を「放光樟像」と称します。

この際、戦禍を逃れるため仏像を
「ひそかに稲の中に隠したれば、現光寺を窃寺(ひそでら)というなり」(『今昔物語』)といいます。

さて。

ご本尊「阿弥陀如来坐像」。

こちらです。


ご本尊「阿弥陀如来坐像」(世尊寺パンフレットより)。

クスの一木造りで、像高は145cm。

その名も「吉野路の心ときめく微笑仏」。

後の時代のものよりも細めで、優しく微笑んでいて、とても美しい阿弥陀如来様です。

二度ほど火災に遭遇したそうで黒く煤けているものの、それがまた味わい深いものになっていました。


《素朴な疑問》

阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏する、という浄土信仰の伝来は、7世紀前半。

ご本尊の作られた時代が比曽寺の伝承通りの欽明天皇十四年(553)なら、仏教伝来直後であり、まだ浄土信仰は伝わっていないはずですが、ご本尊は阿弥陀如来様。

お手手が結ぶ印は「阿弥陀定印」ですし、「阿弥陀如来像です」となっていれば「そっかぁ」で。

同時代の仏像はお釈迦様が多いので、お釈迦様じゃないのがなんとなーく不思議でした。

でも、そんな事を聞けるほど多くの仏像を拝見したわけでもないし。
もんもんもん。


まだつづく。

次回


なぜ淡路島。

と、世尊寺。


世尊寺(史跡・比曽寺跡)
《住所》奈良県吉野郡大淀町比曽762




参考

現地説明板(大淀町教育委員会)
世尊寺パンフレット
住職さんのお話


いつも応援いただきありがとうございます。本堂拝観はご本尊の前で住職さんが説明してくださいますが、あらかじめ予約の電話を入れた方がよろしいかと。檀家のなかった世尊寺では、現住職さんは定年まで学校の先生をされていたとのことで、わかりやすく楽しくお話くださいます。馬鹿な質問にも笑って答えて下さり、大好きになってしまいました。また好きな方が出来てしまって、困ってしまうわ。えへへ。春のお花の季節にまた行くの。だって日本で最初の洞窟ってなに?と、何故お釈迦様じゃないの?って聞かなくちゃー。
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