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神社は地域密着。翻弄された熊野信仰と昔話。色川神社

こんにちは。


色川神社、まだやってます。


色川神社に咲いてたお花。


知ってるお花は、桜、梅、チューリップ、ひまわり、朝顔。


【熊野と自然信仰】

色川神社は大正3年の神社合祀の為に社殿が建てられるまで、
建物はなく、対岸の岩壁を拝していました。


視界が一面、岩。


あっちこっち向いて、お詣り。


【神社合祀】

1町村1社を原則とする神社合祀令。

1906年(明治39年)の勅令によります。

明治政府は記紀神話や延喜式神名帳以外の神々を排し、
「神道の純化」を狙いました。

経済面では、合祀して神社の数を減らし経費を集中させれば、
「神社の威厳」を保つ事ができる、と。

1914年までに、全国に約20万社あった神社の7万社が取り壊されます。

特に三重県は突出しており、県下全神社のおよそ9割が廃されました。
和歌山県や愛媛県も、数として三重県に続きます。



明治初期の神仏分離令、それに続く神社合祀令は、熊野に壊滅的なダメージを与えます。

熊野信仰は、古来の自然崇拝に仏教や修験道などが混交して成り立っているため、まさに格好のターゲット。

神社合祀は、村のお社だけではなく、上皇達も熊野御幸の道中に参詣した王子社すらも対象になりました。

中辺路では、二十数社のうち八上王子と滝尻王子以外は廃社に。

廃社となった神社の森は伐採。払い下げられたり安価で売られたり。
これに立ち向かったのが、南方熊楠でした。


【色川神社の神社合祀】



【祭神】
(主祭神)伊弉諾命 伊弉冉命
(配祀神)天照大神 金山毘古神 平経盛 平盛氏

【合祀した神社】
鎮座 村社 地主神社。
大字直柱鎮座 無格社 地主荒神神社。
大字大野鎮座 無格社 金毘羅神社および境内神社維盛神社。
大字大野鎮座 無格社 大神社および境内神社稲荷神社。
大字大野鎮座 無格社 剣神社。
大字大野鎮座 無格社 風ノ宮神社。
大字大野鎮座 無格社 大塔神社。
大字田垣内鎮座 無格社 水本神社。
大字田垣内鎮座 無格社 地主神社。
大字田垣内鎮座 無格社 大神社。
大字坂足鎮座 無格社 星帝神社。
大字樫原鎮座 無格社 王子神社。
大字熊瀬川鎮座 村社 藤本神社。

※和歌山県神社庁のHPより。
※《私見》
配祀神に「平経盛」とありますが、これは平維盛だと思います。
維盛が色川に隠れ住み子孫を残し、清水氏・色川氏となった伝承と、維盛が維盛大明神として祀られた維盛神社を合祀している事から、突然平経盛が湧いて出るのは整合性がありません。


【色川神社・祭神など】

伊弉諾命・伊弉冉命・天照大神は、明治にお祀りしたのでしょう。


《金山毘古神》

鉱山の神として信仰される神様。

神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生。


三重県熊野市の熊野灘。獅子岩から、程近くの


産田神社。イザナミがカグツチを生んだ場所。

日本書紀に曰く。


「 一書曰伊弉冉尊、火神を生み給う時に灼かれて神退去(さり)ましぬ」


「故(か)れ紀伊国 熊野の有馬村に葬(かく)しまつる」


「花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。」

イザナミを「葬しまつる」所が、熊野市の花の窟神社。


鉱山の神、金山毘古神が色川に祀られているのは、


妙法鉱山に連なる円満地鉱山があったこの地域ですから、納得です。


《大字樫原鎮座 無格社 王子神社》

熊野の伝説的な英雄、狩場刑部左衛門の屋敷跡に鎮座しておりました。
『紀伊続風土記』にも由来の記述があります。


昔「ひとつだたら」という盗賊が熊野三山の宝物を盗むなどの悪行を働くも、誰もこれを捕らえることができず。
色川の樫原にすむ狩場刑部左衛門という勇猛な男に頼み、ようやく討伐に成功。
刑部左衛門は那智山から寺領の山林三千町歩(約3000ha)を恩賞として受けますが、自分のものとせず、色川郷18カ村に譲り、長く郷民の助けとしました。

刑部左衛門の死後、郷民はその徳をたたえ、屋敷跡を整備して王子権現と称し、地域の氏神として祀ったのでした。


(「和歌山県ふるさとアーカイブ」より)


ひとつだたら、或いは、ひとつ目タタラ(書きにくいから検索してね)。鉱山との繋がりが深いものです。

永享7年(1435年)。室町時代の出来事で、刑部は平家の一族と言い伝えられています


《平経盛 平盛氏》※平経盛は平維盛の前提

維盛と子孫の平盛氏が、共に祀られています。


色川に隠れ住んだ平維盛。

氏を清水と改め郷士となり、子を成しました。
その子孫を色川一族といい、建武の頃、色川左兵衛尉平盛氏が南朝に奉仕して軍功をあげたのでした。



色川神社・境内の石


色川神社・境内の石


色川神社・境内の祠。右側はお稲荷さんかな。


明治19年の刻印と、正面にこの形の彫りがありました。


色川神社・境内の祠

さて。色川神社を漫喫したので、そろそろ帰ろう。


じゃーねー、狛ちゃん。


ザ・熊野って感じの


清々しいお社でした。


色川神社、来てよかったなー。

熊野へお越しの際は、ぜひ。


参考文献

和歌山県ふるさとアーカイブ「ひとつだたら」
http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/minwa/44.html

和歌山県神社庁・色川神社
http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=8018


いつも応援いただきありがとうございます。色川神社、いろいろな伝承、歴史の流れ等がぎゅーぎゅーに詰まった面白いお社でした。前夜の雨で全体がしっとりしているのも、いい雰囲気。狛犬さんはかわいいし、満足ほこほこ。この日は色川の探索に終始し、あとはホテルで温泉三昧、生マグロ三昧、お酒でへろへろ、しました。熊野の旅はゆっくりがいいです。
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色川神社の色川はうろ色のうろ川。熊野鉱脈と妙法鉱山

こんにちは。


ご機嫌狛ちゃんのいる


色川神社。


巨大な岩壁が往古のご神体。


太田川の上流に鎮座する色川郷の総氏神。

「色川」・・・あー、川に色がついてたのかしら?と思いますよね。


『紀伊續風土記』より

雲取の峰の谷合から出て荘中を貫き、小色川に至り、大田荘に入って大田川となり、同荘下里村に至って海に入る。

色川の名前の意味を考えると口色川の南11町余り、荘中の産土神深瀬明神を祀っている所は両山石巌が15、6丈そそり立つ。両山の間はわずかに1丈余りで、溪水がその間を流れる。
色は虚(うろ)で、渓流がうろの中を流れるので「うろ川」といったのを転じて「いろ川」となったのだ。土地の人もまたこの明神の地を色川の根本と言い伝える。村名・郷名みなこれから出た。




色川神社横を流れる、うろ川。


うろ色?


うろ色?

色、ついでに。


色川神社社頭の道を挟んだ法面に


雨水排水口付近に、緑色の結晶が見えます。


緑青です。

緑青って、なんだー。


色川郷のさらに奥にヒント。


『紀伊續風土記』より


鳴滝・入道滝・比丘尼滝・三重滝(上20間ばかり、中30間ばかり、下23間ばかりなたれ滝である)・仙人滝(30間ばかりなたれ滝である)。
上記の5つの滝はみな色川郷の奥にある。
鳴滝は赤川という谷の奥にある。赤川は渓に銅気があって水色が赤い。ゆえにその名がある。那智四十八滝の内である。



ほほぉー。銅、とな。

見たかったけれど、とても奥までは行けませんでした。道が道が、、


川のお水はとってもきれい。


緑青(ろくしょう)とは、銅が酸化されることで生成する青緑色の錆です。

大仏さんの色ですねー。

日本では昭和後期まで緑青には強い毒があると考えられ、一部の教科書や辞書類にも猛毒であると書かれていましたが、厚生省の見解では
「緑青の主成分である塩基性炭酸銅の毒性は、さほど強い物とは考えられない」(1984年8月6日研究報告)とのこと。


これもまた、熊野地域とは不可分の鉱脈のお話に。



海から見た色川方面(左奥)と、那智の山々。

亡者のひとつ鐘の妙法山阿弥陀寺や那智大社は、色川の東南部。


亡者のひとつ鐘。妙法山阿弥陀寺
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-476.html


那智勝浦町から熊野川、そして三重県紀和町にかけて南北に広がる地帯は、鉱脈が走っており、鉱山跡のトロッコを利用した温泉施設等もあります。

妙法山一帯には、古くから大小さまざまに、いくつもの鉱山がありました。
「妙法鉱山」の発見は古く、数百年前から銅を産出していたと伝わります。

鉱石は黄銅鉱・黄鉄鉱を主とし、昭和初期までは手作業で細々と採掘。

那智川の支流、金山谷川の付近に中央選鉱場があり、
帝国鉱発が軍部の要請を受け、那智に建設。しかし焼失。
後に石原産業㈱が整備拡張します。

昭和19年。石原産業㈱が井筒鉱業より「色川鉱山」を買収。
「円満地鉱山」「和加鉱山」と合わせ「妙法鉱山」と称します。

昭和23年。藤田組より「那智鉱山」を買収。

昭和29年。三菱金属鉱業㈱に所有権移転。毎月10000tの出鉱。
昭和37年より出鉱規模を縮小し、昭和42年には毎月5000tの出鉱。

※紀州では、明治4年に九十九商会(三菱商会の前身)が紀州新宮藩の炭鉱を租借し、鉱業部門に進出しています。

※三菱金属鉱業㈱は、現・三菱マテリアル



色川神社の南側から見た、ご神体の岩壁がある岩山。

これは円満地オートキャンプ場から撮影。

このオートキャンプ場が、昭和47年に閉山した円満地鉱山の跡地。

尚、銅山ですが、現在も排水処理は継続されているそうです。



鉱山の閉山。


昔は子供がいっぱいいたんだろうなーと、きゅんとします。


参考文献

三菱マテリアル
https://www.mmc.co.jp/corporate/ja/03/01/02-index.html

鉱山事業所リスト
http://www.miningjapan.org/mine/datacell_k/list4.html

色川の鉱山跡
http://open.mixi.jp/user/19500344/diary/1922968465

↑実際に色川の鉱山跡を当時働いていた方と歩いておいでです。

緑青(wikipedia)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/緑青

和歌山県神社庁・色川神社
http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=8018


いつも応援いただきありがとうございます。那智勝浦は和歌山県ですが、ここから三重県の熊野市まで続くのが熊野の鉱脈。鉱山に纏わるひとつ目タタラの伝説や神社が点在しているのもまた熊野の特色。ただ、産出する鉱石によっては市町村議会の議題になるほど、観光案内や地方史誌に明記するか否かで葛藤されています。検索すれば次から次に記事が閲覧できる時代ですので、法に従いきちんと処理しているのなら、隠す事はかえってよくないのではないかと思います。
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色川神社。熊野の自然信仰と狛犬さん

こんにちは。


平維盛が身を隠し子孫を残した伝承のある那智勝浦の色川郷。


和歌山県と三重県は神社合祀による神様のシェアハウスが多く。


強引な政策であったとしても過疎化等が顕著な今となっては、
誰もお世話することなく朽ち果てるよりは・・・と迷いもしますが


ご神体がそびえる場所に立つと、
人ならぬものを感じた先人達の気持ちがわかるような気がします。


ちなみに、パワーなんちゃらは苦手です。


色川神社のご神体とされる岩壁、裏側からの遠景。


神社合祀の為に建てられた社殿と古来からのご神体、
どっちをお詣りしたらいいのか迷う羽目に陥っております。


賽銭箱のあるのは、こっち。


大きな大きな岩の壁。


奉納の燈籠は、ご神体の岩壁を臨む場所に。


1843年。天保の大飢饉前年。


1910年。幸徳事件など。

天保14年の奉納の燈籠は他にもあり、前年から雲行きが怪しかったのかな。
反対に、豊作で余裕があったのかな。


社殿に向かって左、建物によって岩壁と隔離されてしまった燈籠達。

文政、天保、明治年間奉納。


なぜ自然石を奉納したのかなー。丸いから?


社殿前には、文政7年奉納の燈籠。1824年。

かといって社殿が文政年間のものというわけではなく。


大正3年合祀のため社殿が建てられるまでは、今の社殿の下辺りに神籬を設けて行われ、古老の話によれば、神籬を設ける場所に「大」の文字を掘りつけた角石を常置していたという。(和歌山県神社庁HPより)



うーむ。


どこだろう。


じぃーっと。


どこだー。


かしら?


これじゃないでしょうけど、なんか好き。

そもそも角石って、どんな石だー。


・・・すみません。沢遊びしてました。


ら?


あ、狛犬さんだー。


んふふふ。


ご機嫌です。


相方さんは、真面目ちゃん?


吽ちゃんのストレートなご意見。


あ。


かわいそう。

いいのよ、今は社殿にいっぱいの神様が同居してるんだから。


もっちゃり尻尾と垂れ耳がかわいい二人です。


前夜の雨で、空気すっきり。

つづく。


参考資料

和歌山県神社庁・色川神社
http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=8018


いつも応援いただきありがとうございます。川の水はとてもきれいで冷たくて気持ちがよかったです。そして狛犬さん。阿ちゃんは笑ってるのか吠えてるのか、のどかなお顔。吽ちゃんには小さな角があって、少し唇を噛み締めるようなお顔。二人ともとってもかわいかったです。周囲から隔離されたようなパリッとした空気のお社の中でかわいい狛犬さんに会うと、ほっこりしますね。
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平維盛、神になる。色川神社と神社合祀

こんにちは。


総大将となった富士川の戦いでは、源氏の軍勢に怯え


平家一門の中で唯一家族を都に残して都落ち。


世俗の姿だ今一度家族に会いたいと切望しつつ、出家し


補陀落渡海の道中、太刀を落としてしまう愛すべき維盛。

ニュースです。

維盛、神になりました。


口色川から


川を下り


太田川として合流するこの辺りは


鮎の住む清流。


ぽちょん。


色川神社。


県道脇に、社頭。


とりあえず県道から石段を下りると、ただならぬ気配。


我が身ながら小汚ないので、


川岸へ。


樹皮は剥いてある木の鳥居。

鳥居をくぐって、割拝殿。


いざ、本殿へ。


色川神社・本殿。

『紀伊續風土記』

「深瀬明神森」  
境内森 東西70間、南北25間

村の南禅宗11町余り、溪水の合流する所にある。
挺立している巌壁を祀って社はない。
ここは険しい山が両方から迫って切通しのようである。
巌壁はその高さ14.5丈ばかり。はなはだ雄偉である。



色川郷中の産土神で京師深草明神を勧請したと言い伝える。
考えるに深草明神を祀るということは覚束ない。

深瀬はすなわち色川の深瀬で川の神を祭っているのであろう。
色川の名もここから起こっていることも思うべし。




宝暦9(1759)年10月の『牟婁郡神社号覚書上』によれば、
色川7ヶ村の惣氏神でした。

もとは深瀬明神あるいは深草神社といい、
京都深草より勧請されたとも伝えられますが、創祀年代は明らかではありません。



この深瀬の岩壁は、社殿のある今も拝礼が真っ先に行われ、
祭礼日には川辺に賽銭箱が設けられます。

大正3年に神社合祀のために社殿が建てられるまでは、
無社殿神社でした。


よって、社殿が建てられた今、参詣が変なことに。


和歌山県神社庁HPによれば、

明治43年12月23日許可をうけ大正3年4月18日、村内15社の神社を合祀し、大正3年11月4日許可を得て、今の名に改めた。

合祀した神社は、次の15社である。

大字高野鎮座 村社 地主神社。
大字直柱鎮座 無格社 地主荒神神社。
大字大野鎮座 無格社 金毘羅神社および境内神社維盛神社。
大字大野鎮座 無格社 大神社および境内神社稲荷神社。
大字大野鎮座 無格社 剣神社。
大字大野鎮座 無格社 風ノ宮神社。
大字大野鎮座 無格社 大塔神社。
大字田垣内鎮座 無格社 水本神社。
大字田垣内鎮座 無格社 地主神社。
大字田垣内鎮座 無格社 大神社。
大字坂足鎮座 無格社 星帝神社。
大字樫原鎮座 無格社 王子神社。
大字熊瀬川鎮座 村社 藤本神社。



維盛は那智勝浦の海から入水したのではなく、この郷に隠れ住んだという伝承の残る口色川から程近く。


川のせせらぎだけが聞こえるここ、大野の地で。

維盛は、維盛大明神として祀られておりました。

が。


神社合祀により、シェアハウスで暮らしております。


往古からのご神体は、こちらなんですけど。



・・・維盛って・・・(T_T)


色川神社、つづく。


参考資料

和歌山県神社庁・色川神社
http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=8018

熊野・難陀龍王の滝(垣内高彦/文芸社)
https://books.google.co.jp/books?id=zboSo7WGSCsC&pg=PA161&lpg=PA161&dq=維盛神社+那智勝浦&source=bl&ots=tr_Ms00oPM&sig=AfZaLaG6VWQRigFOUNCVHgPnGsc&hl=ja&sa=X&ved=0CDQQ6AEwCWoVChMIx7q667_gyAIVw9imCh1LpgAT#v=onepage&q=%E7%B6%AD%E7%9B%9B%E7%A5%9E%E7%A4%BE%20%E9%82%A3%E6%99%BA%E5%8B%9D%E6%B5%A6&f=false


いつも応援いただきありがとうございます。熊野の特徴に、那智の滝のように、古くからの自然信仰の姿が残る点があげられます。色川神社は、対岸の岩山をご神体とする信仰形態に、近世になり、神社合祀のための社殿が建てられ、近隣の神社を合祀するという熊野におけるお社の典型でした。維盛、大明神となってもやはり微妙に運がないというか。ぎゅーぎゅー。
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飛鳥神社と平維盛「太刀落としました」。太地町

こんにちは。


おっとびっくり。


これでも風力発電。


さらば~地球よぉ~♪ぱららら~♪


しかし船は宇宙へ旅立たないのであった。


こんな大きな骨の


大きなほ乳類の町、太地町。


町の中心部に鎮座する飛鳥神社。

訪問したのは10月12日。
宵宮祭が10月14日、例大祭は翌15日とのことで、
お宮全体が華やいでいました。


寄水、って初めて見た。

目の前は


・・・漁協。

漁に出た船が戻って来ない時、家族親族は飛鳥神社に集まり、
夜通し火を焚いて無事を祈り続けたといいます。
太地の人が「宮様」という神社。


飛鳥神社。

【祭神】予母津事解男神(よもつことさかのおのみこと)

【由緒】(和歌山県神社庁HPより)

当社は、寛永元(1624)年8月に現新宮市熊野地に鎮まり坐す阿須賀神社より勧請。

棟札に「寛永元年子八日、太地諸衆等時の庄屋和田金右衛門」とある。

『紀伊風土記』には「飛鳥神社本社、拝殿、末社、村中浜辺にあり、村中の産土神なり云々」とあるが、それ以前より氏神が祀られていたことは、天慶5(881)年陽成天皇の頃の丁未記に「辛丑五年六日、高倉上人、氏神復興、事解男命を祭る、旧九月八日縁日」と記載されていることから、うかがうことができる。



和田氏とは、太地古式捕鯨の創始者で、太地町内に4、5千坪もある屋敷を構えていました。

阿須賀神社の主祭神は、事解男之命。



おっ。勇ましい狛犬さん。


あらやだ。


ぶたっぱな。かわいい。


うふふふ。

さて、こちらの飛鳥神社。

本殿が元禄3年10月建築の総漆塗で、太地町指定文化財なのです。

が。


・・・そぉ~お?

っと疑問で、去年は記事にせず。

今年、事実が判明。奥の建物が、覆屋でした。


ドア、オープン♪


これぞ、本殿。

例大祭前で、拝殿の扉が開かれていましたのよー。

わーい♪


元禄3年10月建築の総漆塗の本殿です。

太地古式捕鯨が盛んであった頃の繁栄が想像出来ますねぇ。


渋いです。細かいです。


黒い柱には、龍の模様。

貴重なものを拝見申しました。



飛鳥神社に伝わる社宝に「太刀落島(通称)」があります。

たちおとしました?



お隣の那智勝浦の海から補陀落渡海の名のもと、
入水するため海へ出た平維盛。


太刀落としました。

・・・維盛~(T_T)



「太刀落島(通称)」(たちおとしました

和歌山県神社庁HPより

長さ4尺8寸の薙刀のような太刀。

太地町沖合で、往昔海老網にかかったのを漁師が神社に奉納したと伝えられている。海水の為、相当腐蝕している。
平維盛が海中に投じた太刀であるとの説である。



『紀伊續風土記』

神殿に平維盛の大刀というのを納める。
刀身の長さ2尺、柄と合わせて3尺のものが2振りある。
目釘の所から2つに折れており、無銘。
この刀を古くから村の中で伝えてきた事は『寛文雑記』にもある。



和歌山県神社庁の解説では微妙にニュアンスが異なりますが、
飛鳥神社や太地町の伝承等をあれこれ見ると、落とした、ようです。

このように太地町でも、維盛は那智勝浦の海から入水したのではなく、
入水したと見せかけ沖合の山成島から太地の水ノ浦に渡る途中、
海中に太刀を落としたが、無事熊野の山奥へ身を隠した。
という伝承として残っているのでした。



維盛ってば、ほんとにもう。


まったく。憎めないお子です。


飛鳥神社の社宝には他に、三十六歌仙の扁額(年代作者奉納者等不詳、明治3年の暴風雨の時、散逸し26枚現存)が伝わります。



飛鳥神社の前の海。

静かな静かな町のはずなのです。



いつも応援いただきありがとうございます。飛鳥神社のお祭りは、地域の方々が大切に伝えてきたもので、獅子舞は各家を一軒一軒廻るそうです。それにしても維盛。平家物語でも伝承でも、ドジっ子というか、微妙に運がないというか。まわりの従者達は、大丈夫かしらこの子・・・と、さぞかし心配であっただろうと思うのでした。
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清水氏館跡。平維盛子孫と色川郷

こんにちは。


太田川を源流に向かって遡り


この辺りでは「小色川」となった川を渡り色川の郷へ。


この辺りは、「口色川」。

色川の源流となるのに入り口を意味する「口」が付くのは、
南西になる那智から見て、近い側なので。(『紀伊續風土記』)


平維盛が隠れ住んだという、色川。


正面にあるのが、清水氏館跡。

『紀伊續風土記』によれば、平維盛の子孫が清水氏だと伝わります。


『紀伊續風土記』

「平族が亡んだ後、三入(三位中将)維盛卿が当郷に来奔した。
この土地の著姓等は密かに迎えた。

維盛は大野村の奥、藤綱の要害に匿われ、その3年後に当村に移り、氏を清水と改め郷士となり村の著姓と婚を通した。
その子孫を色川一族という。
応永年中に書いた色川清水家由緒書に詳しい。」(口語訳)



※応永年間は、1394年から1427年までの期間。
この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。
室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。


都へ残した家族を想い、心ここにあらず、な維盛でしたが。

色川に姿を隠した維盛は、

「清水」と名を換え子供をこさえ。

・・・こら。



「清水氏館跡」(那智勝浦町指定文化財)

この館跡は間口29.1メートル、奥行き21.2メートルあり、三方を石垣で囲まれています。
邸宅は約180平方メートルあり、他に馬屋、土蔵などの建物がありました。

近くには平維盛の子孫と言われている清水家の菩提寺の宝泰寺や墓地跡もあり、地方の豪族にふさわしい館であったことを想わせます。(現地説明板より)


現況、よそ様のお宅の敷地です。

維盛の子とされる「盛広」も清水姓を名乗り、
その一族がしだいに勢力をもち、
土豪として南北朝や戦国時代を通じ「色川一党」として活躍します。



『紀伊續風土記』

「建武の頃。色川左兵衛尉平盛氏という者。
南朝に奉仕して軍功があり、建武3年、法勝寺宮から日高郡岩代荘を賜わり、また、その子盛忠の軍忠を賞し、兵衛大夫に任命される。
延元年中の盛氏の注進状に、浜ノ宮村・佐野荘・新宮などで尊氏の一族と戦って忠を尽くし、山城国山崎の向明神の林などで合戦があったことを書いてある。」


色川氏が台頭したのは、南北朝時。
南朝に尽くしていることが記されています。

また、色川氏は戦国時代には、紀伊国人衆として名を連ね、
熊野の統一を目指す堀内氏と、戦いを繰り返します。
秀吉の紀州攻めの際には、堀内氏と共に秀吉に従い、所領安堵。

江戸時代は、紀州藩新宮城主の水野家に仕えます。



『大日本史』を編纂した徳川光圀。
紀州を調べるにあたり、家臣佐々宗淳(助さん♪)を紀州へ派遣。

この時に調べたものが、庄屋の清水家に伝わる「色川文書」。

新宮城主の家来が色川に行き、
清水家第19代盛成(覚太夫)と共に佐々宗淳の元へ「色川文書」を届けています。


清水氏館跡背後の山から茶畑を見つめていたら。

古い古い形の墓所がありました。


誰のものかはわかりません。


実は清水氏館跡を探してうろうろしまして。


棚田でした。


棚田でした。


ほんとに見事な石積の棚田なのでした。


地図と全然違うのに、ここだー!っと思い込んだ、よそ様のお宅。

こ、これは、間違えてもいいですよね・・・?


と、こんな急傾斜地の棚田が美しい



維盛の子孫が住んだという伝承の残る口色川なのでした。



参考文献
『紀伊續風土記』
http://www.keyspot.info/fudoki/irogawago.html

「色川氏」について

武家家伝・色川氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/irokawa.html

wikipedia色川氏
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/色川氏


いつも応援いただきありがとうございます。維盛が隠れたという色川郷には、平家の紋である揚羽蝶のついた旗が、古式の面と共に伝わるとか。室町時代には熊野三山詣の人々へ色川のお茶を供していた地域。色川清水家由緒書の編纂はその頃ですね。維盛の時代より数百年後です。ぽわーっと、そうなのかぁー、っと思っておくのがよろしいかと。
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熊野の山々と伝承に囲まれた色川の集落

こんにちは。


わんこと戯れ、さらに


山奥へ進みます。


太田川。

前夜の雨で濁ってるかなー?と思いましたが、きれい。


水を見ると、石を投げ入れるのは、お約束。うふ。


いかにも上流の趣を増した川沿いにさらに奥へ。


庚申塔。


お、お気の毒な有り様です。

道路拡張で後退させたら埋まった、のかな。

ここは色川の集落の入り口。


那智大社方面への道が合流してます。


チキンな私の心臓では、運転、むり。


木材を運ぶために私財を投じて太田川の底を掘った人がいたとか、
なんとか?な、道標。


色川のあちこちに広がるのは、茶畑。


《色川茶》
紀伊山脈の南端斜面に位置する那智勝浦町色川地域で栽培されており、温暖多湿の気候を活かして良質な茶葉が生産されている。
山高く谷深い、空気のきれいな色川地域で作られたお茶は熊野名産「色川茶」として知られている。
(和歌山県HPより。http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/130700/chiikishinko/collection_irokawatya.html)

色川茶の栽培は、室町時代まで遡り、
そのお茶は、熊野三山詣の人々に供されました。



ここは、上流から二つの川が合流し太田川になる付近。

小川になった太田川?を渡り、目の前に広がるのがこの光景。


こここそ、平家の公達、平維盛が隠れ住んだという伝承の残る色川。

色川の東側と北側に連なる山々が、

熊野三山詣での難所、大雲取越え・小雲取越えのある山々です。


藤原定家が熊野詣の折りに前後不覚になった場所。

位置的には、熊野那智大社や阿弥陀寺の北西。


妙法山阿弥陀寺には


焼身自殺火生三昧された場所が残ります。

そして、このお寺には


亡くなった人が必ず登り


鐘をひとつついて、黄泉への道へと向かう「亡者のひとつ鐘」。

ここで鐘をついた亡者は、大雲取越の道を通り黄泉へ。

さらにこの道には、ダルちゃんがいます。



熊野の山道を歩いていると急に脱力感に襲われ、意識が朦朧とし、歩くこともできなくなり。

これは険しい山道で餓死した無縁仏の亡霊(ダル)が山中をうろつき、通りすがりの人に取り憑くのだとか。


そんな険しい山々の間にある集落、色川。


日本の村、だなぁー。


山合のわずかな平地を耕して、生きてきたんだろうなー。


棚田が連なる日本の美しい光景が見られます。


あ。維盛までたどり着けなかったー。つづく。



関連した記事も書いております。
熊野はとても不思議で面白いところですね。


ダルちゃんのお話

熊野古道で取り憑く、ダル。或はヒダル
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-475.html

妙法山阿弥陀寺のお話

亡者のひとつ鐘。妙法山阿弥陀寺
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-476.html

火生三昧。日本初の焼身往生。妙法山阿弥陀寺
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-477.html

妙法山阿弥陀寺。死者と繋がる絶景の古寺
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-478.html


藤原定家と上皇達の熊野詣

「後鳥羽院熊野御幸記」藤原定家へろへろ日記
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-467.html

↑↑「絵巻」と言われた回です。こほ。



いつも応援いただきありがとうございます。色川の集落へ向かう道はもっと狭い狭い道かとドキドキしましたが、地域の方々の生命線ですから、入り口までは二車線分はある県道でした。太田川のきれいな流れを眺めつつ寄り道して、のんびり。記事も、のんびり。えへへ。
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わんこと維盛

こんにちは。


八咫鏡野の八咫烏神社からさらに山奥へ向かいまして。

まず出会ったのがこちら。


大阪だよー。

きゃー。

カメラを置いて、この子を受け止め、ぺろぺろ攻撃に腰砕け。

さて、両者落ち着いたところで、ご挨拶。


ものすごく人懐こい子で~♪

って、いくら私の手が丸いからといってたこ焼きの味はしないのよ。


あらやだ。

このあと、再びカメラを置いて、わちゃわちゃーっと撫でまくり。
ぺろんぺろぉ~んっと舐めまわされ。

至福。

ほんとに、幸せ。

端から見たら阿呆でも、むきゃー!っと戯れる幸せ。

わんこー!!


とーちゃんと、わんこ。

とーちゃんとは、ぺろぺろも撫でまくりも致しませんが、
とても笑顔が人懐こい方で、会話が弾み。

この、リードなしでお散歩する二人。

いいなぁ。

と、車の通らない道を通って目指したのは


わんこ。

あ、違った。


那智勝浦町色川。


ここに身を隠した平家の公達がいます。

それは


那智勝浦の海から入水した


平維盛。

おおお、我ながら懐かしい。

維盛、復習。

維盛は、清盛の嫡男重盛の跡を継ぎますが、その頃には父は他界。
有力な後ろだてのないまま、孤軍奮闘。


木曽義仲に富士川や倶利伽羅峠の戦い等で


けちょんけちょんに負けた、平家の総大将。


都落ちの際は、平家一門の中でただ一人、家族を都へ残し西海へ。

有力な後ろだてもなく、平家の中で孤立した維盛は、
わずかな従者と共に離脱。

高野山の滝口入道を訪ね出家をしようとしますが


世俗の姿でもう一度家族に会いたいと迷いながらも


滝口入道により、出家。

彼は『平家物語』ではこのあと熊野へ赴き、補陀落渡海の地へ。
そして、那智勝浦の海へ身を投げるのですが。

熊野では、それは源氏の追討から身を隠し生き延びるためであり、
那智勝浦の山あいの色川で子孫を残したという言い伝えがあります。

そんな色川を今回の熊野旅の中心にしました。んふふふ。


※もしよろしければ、カテゴリの「『平家物語』の人々と能楽」をご覧いただけたら幸甚に存じます。

維盛の出家までのどたばた、熊野と平家の公達のお話等を精魂込めて書いたのです。が、ちょいと暑苦しいかしらー。


いつも応援いただきありがとうございます。実はしつこく維盛を追いかけておりまして、色川の集落へ向かい。まず最初に出会ったのが、わんこ。たたたた~♪っと駆け寄ってきて、きゅーっと甘えてくる人懐こい子でした。もう、お姉さんは腑抜けのふにゃふにゃになりながら、なで回しましたわー。
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平維盛、青海波を舞う。野迫川村の資料館にて。

こんにちは。



後白河法皇50歳の祝賀(1176年/安元2年3月4日)で、烏帽子に桜の枝、梅の枝を挿して「青海波」を舞う平維盛。

花も恥じらう18歳。ぴかぴか。


わずか4年後。1180年。富士川の合戦。


その3年後。1183年。北陸方面、倶利伽羅峠の戦い。


よもや連戦連敗の平家軍の総大将になろうとは。


家族大好きな維盛は、やる気もなく。屋島からこっそり抜け出して


滝口入道を訪ねた高野山。


未練たらたらでしたが結局、


出家。

「平家物語」の維盛はこれから熊野へ向かい、補陀落へと旅立つのですが。


奈良県野迫川村の平(たいら)地区。

維盛は、熊野・吉野の山中を流浪の末、ここ野迫川村でその生涯を終えたと伝えられています。


維盛塚のあるこんもりした丘。


てっぺんには、維盛塚。

「平維盛歴史の丘」として整備され、資料館もありました。

今日は、そこで見た、青春真っ只中の維盛。

院の前で「青海波」を舞う場面の再現のようです。


これもりたん、じゅうはっちゃい。


踏んではいけません。


「青海波」の舞といえば、光源氏と頭中将の相舞の場面が印象的ですね。

どうやらこの曲と装束は、美しい若者をさらに美しく見せる魔法の力を持っているようです。


雲行きが怪しい維盛。でも、美しい、のだ。ふふふ、ふふ。


しっかりしろ、維盛!


「平家物語」では烏帽子に桜と梅の枝を差し、と記述があります。

これは、鳥兜(とりかぶと)。

舞楽の装束で用いる、頭に被る装飾品の一種。


野草のトリカブトではない。

鳳凰の頭部を真似たものと言われますが、鶏のトサカみたいですよね。こけー。

能の装束では、この鳥兜を付けるときは「楽人」を表します。


維盛、頑張れってば。



ものすごく充実した野迫川村の資料館の展示なのでした。うふふ。



いつも応援いただきありがとうございます。維盛はその容姿と悲しい生涯の為か、あちこちに「実はここで生きていた!」伝承が残ります。そのひとつが野迫川村。気絶しそうな蒸し暑さでしたが、維盛のためなら我慢がまん。しかし、実は、カメラを防水にしてよかったと思うほど汗が流れておりますの。
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『平家物語』桜梅中将維盛の出家。変わらぬ姿を今一度

こんにちは。


屋島から脱け出し、高野山へたどり着いた維盛。

顔見知りの滝口入道の先達で奥の院を巡り、


維盛、滝口入道に憧れてうっとりしつつ、夜を明かします。

明朝。

東禅院の智覚上人という聖をお呼びして、かねてよりの望み通り、出家へ。



屋島を抜けるときに同行したのは、与三兵衛重景と石童丸と、舎人の武里。


「維盛こそ人知れぬ思ひを身に添へながら、道狭う遁れ難き身なればいかにも成るといふとも、この比は世にある人こそ多けれ。
我いかにも成りなん後、急ぎ都へ上つて各が身をも助け、且つは妻子をも育み、且つは維盛が後世をも弔へかし」と宣へば、二人の者共涙に咽び臥して暫しはとかうの御返事にも及ばず。


与三兵衛重景と石童丸を呼んで、維盛は、
「僕はもう逃れられない運命なの。でも、お前達は結婚して、妻子を養って、僕の後世を弔ってね」と。

重景と石童丸はびいびい泣き伏しました。


そこの二人。泣き伏して下さい。


この重景。幼名を『松王』といいました。



生後50日の祝いの日。重景を抱いた父が維盛の父・重盛の前に出ると重盛は、
「この家は『小松』というから、お祝いに『松』をやろう」と付けてくれた名前なのです。

松王(重景)が2歳の時。

父・与三左衛門景康は重盛の供をしていた平治の乱の時、討死。

松王(重景)が5歳の時。母も他界。

身寄りがない松王(重景)を、重盛は「あれは我が命に替はりたる者の子なれば」と手元で育てます。



重盛の実子・維盛が9歳で元服した日の夜。

重盛は、同い年の松王(重景)も元服させます。

「私の名前の重盛のうち、『盛』は平家の字なので五代(維盛)に付ける。お前には『重』の字をやろう」と言い、松王は重景となりました。

そして、臨終の時。重景を呼び出して、重盛は告げます。


「あな無慙。汝は重盛を父が形見と思ひ、重盛は汝を景康が形見と思ひてこそ過ぐしつれ。
今度の除目に靱負尉に成して、父景康を呼びしやうに召さばやとこそ思し召しつるに、空しうなるこそ悲しけれ。相構へて少将殿の御心に違ひ参らすな」



「ああ残念だ。お前は私を父・景康の形見と思い、私はお前を景康の形見と思って生きてきた。
今回の除目で靱負尉(※ゆぎへのじょう。御所を警護する衛門府の役人)に就かせ、お前の父・景康を呼んでいたように呼びたいと思っていたのに、それができないのが悲しい。決して維盛の心に背くことはするなよ」


こう言われた重景ですから、誠心誠意、維盛に仕えていたのでしょう。

ところが肝心の維盛から「じゃ、ばいばい」と言われたに等しい重景は、

「僕の事を『殿を見限って逃げる者』と思っていたなんて。そのお心が残念で情けなくてっ」と告白。



世の情勢を見れば、栄えていくのは源氏ばかり。
このまま生きていたとしても・・・とは平家に連なる者ならば誰しも思うこと。


「君の神にも仏にも成らせ給ひなん後、楽しみ栄え候ふとも、千年の齢を経るべきか。
たとひ万年を保つとも、終には終り無かるべきかは。これに過ぎたる善知識何事か候ふべき」とて手づから髻切つて、泣く泣く滝口入道に剃らせける。


「殿が神にでも仏にでもおなりになった後に、我が身だけが栄えても、千年も生きることは出来ません。
たとえ万年を生きたとしても、いつか終わりの時は来ます。
今以上に出家に良い機会はあるでしょうか、いや、ありませんっ」と、


自ら髻を切り。


泣く泣く滝口入道に剃らせました。


石童丸もこれを見て本結際より髪を切る。
これも八つより付き参らせて重景にも劣らず不便にし給ひしかば、同じう滝口入道にぞ剃られける。


石童丸もこれを見て、本結の際から髪を切りました。
彼も八歳のときから仕え、重景にも劣らずかわいがられていたので、同じく時頼入道に剃ってもらいました。




さあ、お供の二人が髻をばっさり切って、滝口入道にじょりじょりしてもらうのを見て、維盛はいかに?

僕も一緒に!ですよねー!?


・・・ちょっと、あなた。


これらがかやうに先立ちて成るを見給ふにつけても、いとど心細うぞなられける。
「変はらぬ姿を今一度恋しき者共にも見もし見えて後、かくならば思ふ事あらじ。」と宣ひけるこそせめての事なれ。


・・・んんんん?

彼らがこのように先立って僧形になるのを見て、維盛はとても心細くなりました。
「今の姿をもう一度恋しい者たちに見てもらってからなら、思い残すことはないのだが」と言うのが精一杯でした。



こらー!!


滝口入道、他2名、心の中では総突っ込みだったことでしょう。


さてしもあるべき事ならねば

「流転三界中恩愛不能断棄恩入無為真実報恩者」

と三反唱へ給ひてつひに剃り下ろし給ひてけり。

三位中将と与三兵衛は同年にて今年は二十七歳なり。石童丸は十八にぞ成りける。


しかしそうしてばかりもいられないので

「流転三界中恩愛不能断棄恩入無為真実報恩者(三界の中に流転し、恩愛は断つを能わず、恩を棄てて無為に入るは、真実恩に報ゆる者なり)」

と三遍唱えると、ついに髪を剃り下ろしました。

維盛殿と重景は同い年で今年は二十七歳。石童丸は十八歳でした。




ぜーぜー。


参考文献
新日本古典文学大系『平家物語 』(梶原正昭・山下宏明 校注 岩波書店)
※平家物語巻十『維盛出家』



いつも応援いただきありがとうございます。お待たせしました。やっと維盛くんの出家です。桜梅の中将と呼ばれていた事が嘘のような、ヘタレくんな維盛。従う人達も大変ですねー。でも、憎めない子です。さぁ、頭もスッキリしたところで、次はいよいよ熊野へ旅立ちます。ええ。ヘタレてますけど。
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史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

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