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柏原藩主織田家廟所と建勲神社

こんにちは。


柏原は、藩主が織田家。


どっちからでも行けました。


菩提寺の徳源寺は廃寺のため、廟所だけ残っています。




お気の毒なことに。


柏原藩主織田家廟所。


代々の五輪塔が並びます。


建勲神社は、祭神が織田信長。




拝殿・本殿と、シーソーがひとつ。


寂しいので、境内のツツジをご覧ください・・・。


気を取り直して、柏原八幡神社の山の中腹の五社稲荷神社。


うふふふ。


丹波といえば、中井権次一統の彫刻群。

ここは、中井権次君音による動物三昧な社殿です。

賑やかです。


めぇめぇさんかしら?

連休も人がいないところばかりを散策してます。ほほほほ。



いつも応援いただきありがとうございます。
柏原の町並み散策は、徒歩で充分まわることができます。五社稲荷神社の彫刻群を拝見するだけでも幸せな気分。あまりに数多くて、ここでコンデジのバッテリーを使い果たしました。丹波というと京都府のイメージですが、ここは兵庫県。自分でカテゴリ作りながら、「あれ?」です。えへ。

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仏塔の礎石と柏原八幡神社

こんにちは。


拝観でおくつを脱ぐときに気を付けないといけない季節になりました。

ついったで聞いたら、げじげじの子供ですと。ぎゃー。

連休ですが、今年も関西をうろちょろしてます。


あんきんたん、です。

元禄8年(1696)大和宇陀より2万石で移封された織田家の行き先。


織田家廟所がある、

兵庫県丹波市の柏原(かいばら)へ。


せっせと登った先には、


丹波の名工・丹波佐吉の狛犬さん。

柏原八幡神社へ再び。


何度でも来ます~\(^o^)/

後ろにいるのは、


さすが八幡さん。鳩胸くるっぽーの狛犬さん。


実は尻尾が麗しい。

で、この狛さんが見飽きたのが、


神社に、お寺の象徴の鐘楼と三重塔。

柏原八幡神社も、元は神仏習合。

そこへやって来た明治の神仏分離。


えらいこっちゃえらいこっちゃ、よいよいよーい。

三重塔は、仏塔。あらやだ、どうしましょ。


ここが思案のシドコロ。

出したお返事は、


えっ。


ここは「八幡文庫」なんです。仏塔ではありません。


と、生き延びました。

さて。ここへ来たのは佐吉狛犬さんに会いたかったのもありますが。


郡里廃寺跡の塔基壇跡に残る礎石に関連して。

塔の礎石ってどんなんなーん?っと。

まぁ、白鳳時代の郡里廃寺の塔と1800年代建築の三重塔では、離れすぎておりますが。

見たかったんだもん。んふ。


よーいしょっ。


礎石の上に、八角形の柱。

全体は固められた基壇になっています。ベタ基礎ですね。


こんな感じで、郡里廃寺の塔の柱も立っていたのかな。

ついでに。


高野山の金剛三昧院の多宝塔。1223年建立。


自然石の上に、柱。


書写山圓教寺の食堂。


丸い柱がずらーっと並んでいます。

寺社の建物の床下も、きれいだったりゴッチャゴチャだったり、面白いですよー。うふふ。


柏原八幡神社の歴史と丹波佐吉について

⇒⇒⇒丹波国柏原八幡神社。光秀ファイヤー、猿が再建

⇒⇒⇒丹波佐吉渾身の傑作。柏原八幡神社の狛犬物語

⇒⇒⇒三重塔サバイバル。神仏分離を乗り越えた柏原八幡

⇒⇒⇒狛犬ぽっぽー、こーまいぬぽー。柏原八幡神社

宇陀からなぜ織田家は柏原へ来たのか

⇒⇒⇒柏原陣屋。織田といえども外様の悲哀



いつも応援いただきありがとうございます。
今日の丹波は曇天の上に台風のような強風でしたが、油断したらすっかり日焼け。しまったー。宇陀から移封された織田家の廟所ですが、菩提寺の徳源寺は廃寺となっており、ここだけがぽつん、っと残っていました。寂しいなぁ。

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北山稲荷神社。丹波佐吉の麗しいお狐様

こんにちは。


ここは丹波国柏原、大新屋。


新井神社も、大新屋。

丹波佐吉が養父であり師匠でもある初代・難波金兵衛と暮らした大新屋。



金兵衛に実子が生まれた後、自ら旅の石工となり丹波を離れます。



金兵衛の死を知り、丹波へ戻りました。

既に「日本一(by孝明天皇)」の石工の名を得ていた佐吉。

子供の頃に読み書きを教えてくれた柏原大新屋の庄屋・上山孝之進の依頼により、稲荷神社に納めるお狐様を彫り上げました。


佐吉のお狐様がいるなんて、わくわくのどきどきです。


きゃー。きゃー。


大切にされています。


され過ぎて、見えませぬ・・・(T_T)


なんて華奢なんでしょう。

飴ちゃんのお礼に、私のお肉を差し上げたい。


品定めは、およしになって。


稲荷神社・本殿。

【祭神】受母智之神

【由緒】

創立は明暦2申年(1656)8月8日。
田原市三郎が京都の吉田殿(吉田神社)に於て御神体を懇請し、同月28日に遷官鎮祭。

元禄11年(1698)2月再建。

そして、安政5年(1858)8月。


丹波佐吉のお狐様、奉献。

明治6年10月。村社。
明治37年10月12日。境内136坪の官有地+278坪の上地林を編入。
境内地が498坪に。

昭和30年。社殿を大修理。


境内社。なんか、いる。



・・・なんだこりゃ。


境内に、鐘楼。



宝暦年間の鐘があったものの、戦争中に供出させられ。
再度鋳造したと鐘に刻まれています。


狐ちゃん、時代の変遷を見てきたのね。


逆光ですが、狐ちゃんのお手々をご覧ください。

微妙な動き。軽くついた手先。


同じようなお手々の摩気神社の狛犬さん。


「作師 照信(花押)」は、丹波佐吉の銘。


艶かしいお狐ちゃん、です。

この狐ちゃん、初代・難波金兵衛が柏原大新屋に居を構える事を決意させた石材で出来ています。

加工しにくいものの、手を加えれば加えるほど美しくなる石だとか。

丹波・丹後・出雲地域の狛犬に多い砂岩は、加工が容易な反面風化しやすく、阿の下顎が落下したり、


このようになってしまっている子が多いです。

頑張れ!こまちゃん!


丹波佐吉作のお狐ちゃんだと知らなくても充分きれいな子です。

でも。

初代・難波金兵衛の死を知り丹波へ帰り、成長した二代目金兵衛(初代の実子)と共に石を彫るとき。

佐吉はどんな思いだったのかなぁと考えながら見ると、また趣が変わってくる気がします。


ほんとに、きれいなきれいなお狐ちゃん。

お座りした後ろ足は細かく毛並みが彫られており、


柏原八幡神社の狛犬さんと似てます。


おなかいっぱい。

帰り道、鳥居の銘を見て、びっくり。


平成17年5月に建立された鳥居は、


なんと、6代目難波金兵衛さんの手によるもの。

おばちゃん、目から鼻水。

お狐ちゃんの台座は、


初代金兵衛の実子、二代目金兵衛でしたもの。



鳥居の両脇の石灯籠が初代難波金兵衛の高灯籠に似ている気もします。

うわーん。

すごいぞ、北山稲荷神社ー!

っと、かくの如く。

難波金兵衛と丹波佐吉を堪能できる、大新屋の稲荷神社なのでした。


参考サイト

新井自治協議会
http://www.niinosato.jp/akimaturi/akimaturi.html#ni-j

(北山)稲荷神社
現地説明板


いつも応援いただきありがとうございます。
稲荷神社のお狐ちゃん。画像では屋根付きのおうちに阻まれて見えにくいですが、ほんとにふんわりとした美しい姿をしていました。鳥居を納めた6代目難波金兵衛さんは、現在も大新屋の新井神社近くに店舗を構え、佐吉の作った「石の尺八」を再現してみるなど、ご活躍です。狛ちゃんのレプリカとか、ないかなぁ。もしあったら、小躍りどころか、ものすごく躍りながらお邪魔するのになー。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

柏原の名工・丹波佐吉の生涯。佐吉と愉快な仲間たち

こんにちは。

丹波国の柏原(かいばら)といえばー?


・・・ちびちゃん、痛いとこ突いてくるわねっ。

そう。江戸時代は、織田家が治める柏原藩でした。

今回は、それは置いといて。


柏原八幡神社のねぇ~、


そう、どっこいしょーで~す。

・・・ちゃう。


あひゃ~、じゃないっ。

名工・丹波佐吉だー!!


見よ、この深くて細かい彫りを!

石を彫って透かし彫りみたいになるなんて、すんばらすぃ~(*^_^*)


【丹波佐吉の生い立ち】

文化13年(1816)。朝来郡和田山町竹田生まれ。

幼少時に両親を亡くし、製糸業を営んでいた「若松屋」に預けられ。

文政3年(1820)、5歳のとき。
ワタリの石工(旅稼ぎの石工職人)としてこの地を訪れていた初代難波金兵衛の養子に。

文政5年(1822)春。
金兵衛は、石戸山から出る良質の石を求め、丹波市春日町野村から柏原町大新屋に移り、居を構えます。


天保7年(1836)。初代難波金兵衛作の高灯籠。高さ5m強。

てっぺん(宝珠)の先端、請花と笠石の四隅の反りが、きゅっと鋭角。
火袋の隅柱が非常に細く、竿石はきゅーっと柳腰。
よく折れず倒れず、いてくれたことよ。


全体が端正で精緻な作りの高灯籠は、丹波市指定文化財。


金兵衛のもとで、ちびっこ佐吉、頑張る。

ところが。

天保8年(1837)。金兵衛に長男・義継が誕生。

翌年、金兵衛の反対を押し切り自らワタリの石工となります。
時に佐吉、23歳。

実子が生まれたことで、遠慮したのでしょうか。




佐吉は大和・淀・伏見・大阪と各地を廻り、やがて名工・佐吉の名は 遠く離れた故郷の丹波にも聞こえるようになります。


指先の爪ひとつひとつまで細かく彫られています。


やがて10年の時を経て。

大阪の「石為」に滞在していた佐吉。
同業の間で技比べで作ったものが、「石の尺八」。

その見事な仕上がりに孝明天皇から「日本一」との賞賛を賜ります。


安政3年(1856)。
養父で師匠の初代難波金兵衛が死去。

佐吉はそれを知り、丹波大新屋に戻ります。


文久元年(1861)。
柏原大新屋の上山孝之進と柏原北山の田口金次が柏原八幡神社に寄進する狛犬を製作。

庄屋の上山孝之進は佐吉が幼い頃に読み書きを教えてくれた人。
寄進にあたり、佐吉に狛犬の製作を依頼したのでした。



柏原八幡神社の狛犬の台座。

「作師 村上源照信(花押)」

これが、丹波佐吉の銘。


佐吉の円熟期の逸品です。


再び丹波を去った佐吉が丹波へ戻ったのは、6年後。

慶応2年(1866)年。佐吉は一体の不動明王像を完成させ、ひっそりと丹波の地を去り、二度と戻ることはありませんでした。

不治の病に侵されていたという佐吉のその後の行方は定かではありません。


【柏原町大新屋の稲荷神社】


北山稲荷神社。


例え丹波を離れていようとも、師匠の金兵衛の恩を忘れず、 故郷を問われる度に「丹波大新屋」と答えたという佐吉。



稲荷神社は、丹波市柏原町大新屋に鎮座。

ここには、


佐吉の彫り上げた一対のお狐様が、います。


養父で師匠の初代難波金兵衛の死を知り丹波へ戻った佐吉が、
安政5年(1858)8月に納めたお狐様です。

稲荷神社の鎮座地は、柏原大新屋の庄屋・上山孝之進の自宅裏。

上山孝之進は前述したように、佐吉が子供の頃に読み書きを教えてくれた人。


願主は、柏原北山の田口金次昌栄。

上山孝之進と田口金次昌栄は、このお狐様の数年後に、柏原八幡神社へ狛犬を寄進するコンビ。



お屋根のあるおうちで大切にされています。



このお狐ちゃん。

師匠の実子・義継と、佐吉の合作なのです。


狐の下の銘。

「安政五年八月作之 朝来郡竹田産 石工 源照信(花押)」

丹波佐吉の銘です。佐吉、43歳。

佐吉の生まれは、朝来郡和田山町竹田。


「奉献」の文字がある台座の銘。

「大新屋村 石工金兵衛 藤原義續」

「石工金兵衛」は、佐吉が養子となった後に生まれた、初代難波金兵衛の実子・義継です。この時、22歳。


二代目金兵衛の台座の上に、丹波佐吉のお狐様が乗っている。

じいーん。


この二代目金兵衛もまた、非凡な人で。

「大和長谷寺の観音を丹波佐吉に命じて彫らしめたが、中途病に罹りて遂に其の成功を見ず寺僧大いに惜んで佐吉に其の後継者を物色させた。
慶応三年(1867)の頃同寺狛の前足を踏める手毬を透彫した時、同業者の嫉を受けて毒を羞められ為に久しく四肢の自由を失ったが帰郷快復後益々斯業に精励した」
(『新井村誌』)


この話は佐吉が最後に丹波を出た後かと思われます。

作品に対しては執念とも思われる程の彫りを見せる佐吉ですから、義継が初代難波金兵衛の実子だからという理由ではなく、彼の腕を認めていた故に、後継者として指名したのでしょうね。

何しろ同業者に毒を盛られるぐらいですもの。


(徳島市諏訪神社境内の稲荷神社の狐ちゃん)


「日本一」(by孝明天皇)の石工・丹波佐吉の弟子、綿貫重吉の狛犬が丹波市青垣の高座神社にいます。


あれ?


まぁ、なんて個性的~(*^^*)


・・・うふふ。


丹波佐吉と北山稲荷神社、つづく。


参考サイト

新井自治協議会
http://www.niinosato.jp/akimaturi/akimaturi.html#ni-j

柏原八幡神社説明板



いつも応援いただきありがとうございます。
丹波佐吉は、その作品の素晴らしさは言うまでもなく。彼の生い立ちを重ねることで一層深みが増す気がします。彼の原点「丹波柏原の大新屋」を訪れて、稲荷神社のお狐様に会う。なんて贅沢なのかしらー。いひひひひ。この「難波金兵衛」親子と丹波佐吉とその弟子達の作品群、少しずつ追いかけていきたいです。一気に巡るのはもったいない。うふふふふ。好物は最後に食べる方です。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

新井神社と山王権現。猿が残った神仏分離

こんにちは。


丹波国氷上郡式内社十七座の一座、新井神社。

欽明天皇の頃(6世紀半ば)の創立と伝わります。


天正7年(1579)の明智光秀による第二次丹波攻略の時に。

高見城攻めの類焼により焼失。


元の鎮座地より移動し、再建したのが現存する社殿。



【祭神】高皇産靈神(たかみむすびのかみ)

「『古事記』では高御産巣日神、『日本書紀』では高皇産霊尊と書かれる神。

天地開闢の時、最初にアメノミナカヌシが現れ、その次にカミムスビと共に高天原に出現した(『古事記』)とされる、いわゆる『造化三神』。」(wikipediaより)

・・・なんだかよくわからないです。


そんな神様が祀られているお社に、なぜ、おさる?

それは。

寛文年間(1661~1673年)に比叡山延暦寺の守護神「日吉神社」の分霊を迎えたため。



日吉神社は俗に「山王権現」とも呼ばれ、山王の使者はお猿さん。


ここは、ちっちゃな三猿ですが、神殿狛犬ならぬ神殿お猿さんが構えています。


構えてください。ねぇ。ももまん~♪は、置いといて。


やがて、

文政時代(1818~1830年)になると神宮寺の名称「日吉山王鎮護寺」と呼ばれ、社僧が主体となり、地域の崇敬を集めます。

これは、明治の「神仏分離」まで続きました。

神仏分離令により、神社が神宮寺より独立。


式内社「新井神社」の名称を復活させます。

この時に祭神も、高皇産靈神に戻ったのかしら。
(日吉神社の祭神は山王権現で、延暦寺の鎮守神)

そして、お猿だけ残った、と。


明治6年10月村社。
明治37年4月13日、「境外上地林」弐反四畝廿五歩を境内に編入。


「上知令」については、こちら

→→→→「神仏分離と社寺上知令でずたぼろ」
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-445.html

実例

→→→→但馬妙見日光院のリベンジ。全ては裁判で明らかに

http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-454.html


大正14年7月31日、兵庫県幣帛料供進指定。

同15年5月郷社昇格。式内社の確認を得て、大新屋四箇の庄五箇村(大新屋・田路・鴨野・挙田+北山村)の産土神に。


境内社。1、2。


これも、境内社。3。


三柱。4、5、6。

【境内社】
稲荷神社・八幡神社・日枝神社・愛宕神社・風天神社・石見神社 

誰がどちらかわからなかったけれど、数は合う。



本殿は建物の造りから、江戸時代中期のものと推定されており、
兵庫県指定文化財となっています。


本殿の外回りや、他の建物は黒っぽくなっています。


お詣りする位置には、丹波地域で見かける扇形の石。


壁一面の巨大な絵の額。


自力で脱出してください。


左右から「ぺたん」っと挟まれたような龍。


苔むした境内と、茅葺の本殿。



ちなみに、お向かいには、


當勝稲荷さん。

と、


再現不可能な宝篋印塔。


パーツが揃えばこうなる。(名月姫の宝篋印塔)

その横は、


もしゃもしゃ狛犬さんがいる、


石見神社です。


「石見神社と狛犬」について

→→→→「石見神社」のもしゃもしゃ狛犬
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-511.html



ご近所付き合いは大事。


とても気持ちよく散策出来た素敵なお社でした。


はいはい、にぃ~神社ね。


新井神社

《住所》兵庫県丹波市柏原町大新屋514-1 





参考サイト

新井自治協議会
http://www.niinosato.jp/akimaturi/akimaturi.html#ni-j

新井神社・現地説明板


いつも応援いただきありがとうございます。
境内全体を見ると、昔、神宮寺の建物があったのかな?と思う場所があります。お猿がいるのに日吉神社ではない。祭神も違う。おかしいなぁー?っととても不思議だったので、現地説明板で由緒を見て納得。神仏分離令によるねじれ現象といいますか、おかしな事になってしまって。せっかく中井権次正貞が素敵なお猿さんを作り上げたのにね。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

丹波国氷上郡式内社・新井神社と明智光秀丹波攻略

こんにちは。


中井権次正貞の彫刻。うっきぃ。


毛並みや顔の細かい造作が、きらりん♪っと光ります。


そんな二人のお住まいが


新井神社。


そうそう。にひぃ~ にいじんじゃ。


苔こけコケの中にひっそり。


こちらの建物。


能舞台かと思ったら、


神様がおいでになるようで。


神前で祭事をするのかなぁ。


胸躍る風景。わくわく。


徒歩でござる~(^_^;)


丹波国氷上郡内の延喜式内十七社の一座。

欽明天皇(29代。父は継体天皇)の頃(6世紀半ば)に創立と伝わります。
延喜式に名がある事から、平安時代には既に存在していたと推察。



巨大なご神木のここをまたぐと、子供が授かるそうな。

・・・スルッとスルー。


現在の社殿は、当初の鎮座地から移動して、再建されたもの。

元は現在地よりも奥、標高150mの「瀧が谷」に鎮座。

なにがあったのか。

丹波といえば?



・・・あのね。


「ふぁいやーby明智光秀」でーす。


新井神社は、天正7年(1579)。高見城落城の時に類焼、焼失。


【高見城】

嘉暦2年(1327)。丹波国守護・仁木頼章が築城。
戦国時代には氷上町新郷の豪族赤井家清が城主に。

天正7年(1579)。赤井忠家が高見城主の時、明智光秀配下の四王天政孝の兵火によって落城(第二次丹波攻略時)。


【光秀の丹波攻略】

第一次丹波攻略では、黒井城主・赤井直正(忠家の叔父)は光秀を撃退。
反織田勢力の毛利・武田・石山本願寺と同盟を結び対抗。

天正5年(1577)10月。光秀、第二次丹波攻略開始。


光秀は、翌年の天正6(1578)年3月、八上城と氷上城の包囲を完成。

この最中、なんと黒井城主・赤井直正が病没。


黒井城遠景。

直正の嫡男・直義はまだ九つ。

赤井家は直正の弟の幸家が代わって統率しますが、丹波国人衆は離反し、光秀側へ降ります。
 
天正7年(1579)年5月に氷上城、6月1日に八上城、落城。

光秀は7月に再び丹波に入国。


黒井城麓付近の兵主神社もファイヤー。

最後の城・黒井城は8月に落城。



明智光秀書状(wikipediaより)

「この書状は黒井城落城15日後の8月24日もので、戦勝祈願した京都の威徳院へ送ったものになる。

内容は、勝利することができたので約束どおり200石を奉納すると伝えている。また、文中には赤井忠家の居城であったと思われている高見城がまもなく落城し、一両日中には和田方面に進軍すると報じている。

神仏を重んじ生真面目な光秀の性格を伺わせる書状となっている。書状の中段に『高見之事、執詰陣候、』という記載が見受けられる。」
(wikipediaより引用)


この書状にある高見城が落城した時、新井神社旧社殿が類焼により焼失。

ちなみに、高見城攻めを行った「四王天政孝」は光秀の丹波入国前後に配下となり、第一次丹波攻略時から参戦。

元は丹波国氷上郡柏原庄平井村の人。

・・・ご近所さん。

本能寺の変後の山崎の戦いで戦死。



新井神社は焼失後、現在地の旧地名「湯の森」で再建。


それが、現存している社殿です。


もこもこくんが飽きてしまったので、

つづく。


新井神社

《住所》兵庫県丹波市柏原町大新屋514-1 




地図、南西方向の高見城山に、高見城がありました。
城跡は、柏原町指定文化財。


参考サイト

新井自治協議会
http://www.niinosato.jp/akimaturi/akimaturi.html#ni-j

新井神社・現地説明板


いつも応援いただきありがとうございます。
古来より神社仏閣が多く存在した丹波地域ですが、どこへ行っても遭遇するのは、「ふぁいやーby明智光秀」。確かに現地をドライブすると、八上城や氷上城、黒井城と連係する支城は数知れず。これを攻めるためには広範囲に及ぶ攻略が必要であったと実感します。でも、燃やさんでもいいじゃーん、っととても残念になるのも事実。しくしく。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

暑い夏には、もしゃもしゃ狛犬さん。丹波市石見神社

こんにちは。

暑いですね。はい、もう一度。暑いですね。


こんな髪型いかがでしょう?


汗で頭が蒸れる季節。


火照って仕方がないです。

首筋には、愛すのん アイスノン。


嗚呼、暑い。この子は昭和生まれのまだまだひよこちゃん。


抜け毛対策。


ちょっと大きくないかねぇ?


転ばないようにね。

このお尻の感じ、とある人に似てます。


もしゃもしゃさんから車で十数分の、柏原八幡神社の丹波佐吉の狛犬。

おしり、ふさーっと。


もしゃもしゃちゃんがお出迎え。

ここは、丹波市柏原町大新屋の石見神社。

大新屋は、親を亡くした佐吉が養子になった石工・難波金兵衛の居住地。
そう。佐吉の第二の故郷なのでした。


(クリックで拡大)由緒です。


上に載ってるのが普通の碁盤。でかー。


しっかりしてー。


隣の芝生はよく柿食う芝だ。


あっちは式内社だからね。でも狛犬さんがいないのよ。


お猿さんならいるけど。うふ。


ここ、石見神社は、新井神社の境内社なのでした。


石見神社・新井神社
《住所》兵庫県丹波市柏原町大新屋514-1


いつも応援いただきありがとうございます。あまりの暑さに、さすがにへこたれております。夜になってもじめじめあちあち。こんなもしゃもしゃ狛犬さんが近くにいたら、バリカンで、ぎゅわーーーっとしてあげたいです。夏はサマーカットで。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

丹波猿楽の面影。式内社狭宮神社の舞堂と玉乗りこまちゃん

こんにちは。


京都府南丹市日吉。


丹波猿楽の「梅若座」旧菩提寺。


梅若座一門は、丹波一帯に広がっていたため、お社に伝わる祭礼の舞等に猿楽の影響が残ります。

京都府南丹市から西に移動し、兵庫県へ。


兵庫県丹波市山南町和田の狭宮神社。

【由緒・祭神】

創立年代不詳。延喜式内社。
往古、和田村下河原に鎮座。

天正13年(1585)、社殿を再建。
江戸時代、柏原藩主織田平季、今の宮山に遷座し奉る。

元禄13年(1700)、白川神祇伯王より八幡宮を勧請し、相殿に祀り、狹宮八幡宮と称す。

薬草の里山南町和田に鎮座する古社で、既に平安時代には国から幣帛を頂く延喜式内社に列格し、古来より通称「さみやさん」で親しまれています。

主祭神に若沙那売命、相殿神に八幡大神を奉斎。

若沙那売命は稲(いね即ちいのちの根)を司っておられ、早乙女の様にお若くて清らかな少女神様で、八幡神と共に、健康長寿を始め五穀豊穣・厄除・交通安全・心願成就の守護神として広く崇敬されています。 (兵庫県神社庁HPより引用)


八幡宮のお約束、鳩ぽっぽー。


車は鳥居をくぐって、駐車場へ。ほんと?ほんと?っと何度も降りて確認。


確認しつつ、撮影。


階段。げー。


(クリックで拡大)


狭宮神社、拝殿と本殿遠景。


はい、何でしょう。


あら、上手♪


自然石のままの台座に乗った狛犬さん、私には珍しくて。


とても丁寧に彫られた狛犬さんです。


はいはい。


いやぁん。まんまるのお手々がたまりません。


後ろ髪も尻尾も、ぴょん、としたお耳も、かわいいなー。


やぶ蚊、襲う、私。うおおおお。


本殿。


なんかおる。


食うなー。

で。

境内には、


(クリックで拡大)ここは中井権次一統の作品ではないようです。

丹波猿楽の舞堂が再建されているようで。

どこ?


どっち。


本殿の向かい側にありました。

神様に奉納するので、この向きは納得。


縦三間×横四間。

能舞台の三間四方に比べると横に長く。「舞堂」、なるほど。

検索してみたら、ここの舞台での能の上演記録がありました。
地域に密着したお社と舞台って、いいなぁ。



以上、甘えん坊な狛犬さんのいる狭宮神社でした。


ちなみに、能舞台ってどんなものなのか、ご参考までに。


これは、京都府亀岡市の生身天満宮の能舞台。


能舞台は三間四方が基本。

右奥の小さな戸は「切戸」。地謡や後見が出入りします。




三間四方の舞壺と、橋掛かり。

狭宮神社の舞堂をもう一度見ると


左奥の切れ目が橋掛かり、右奥は階段の先の板の取り外しが出来、切戸になっているのがわかります。

あとは、鏡板に松があれば・・・。


こちらは彦根藩の正式な舞台。(舞壺の四隅の柱と柱の間が三間四方。)

どこの舞台でも、演能しているところを見たいなぁ。


狭宮神社
《住所》兵庫県丹波市山南町和田138

参考サイト
兵庫県神社庁HP
http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6308207.html


いつも応援いただきありがとうございます。狭宮神社は明るい境内で、とても気持ち良いお社でした。本殿周囲は、広い境内に比べてぎゅぎゅっと凝縮され、狭い 濃厚な空間です。玉乗りこまちゃんに会えてとっても嬉しかったです♪
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白鹿神社。布団屋台に遭遇

こんにちは。


丹波市山南町の白鹿神社。

同じ丹波市でも、山南町は、兵主神社の春日町から柏原町を挟んだ南部。

丹波竜の化石が出てきた町です。


訪問日は4月29日。白鹿神社の春の祭礼でした。


鳥居の扁額は「大歳神社」となっており、間違えたかと思ったら、こんな配置で。


こちらは、大歳神社。


この子はここの子でした。


あー、そんな事言ったら・・・


あーあ。


助けてやれよー、とーちゃん。


小ぶりながら、素晴らしい社殿だなーっと、うっとり。


祭神は、大歳神。


彫刻は中井権次一統の、中井清次郎正実。


いただいてはいけません。



祭壇が設置されていたので、横から失礼。

本来は瑞鹿(しろしか)神社。
白鹿神社は通称で、御祭神は天香具山命。


この白鹿神社の由緒物語。

1746(延享3)年のある春の日。


(画像:大原野神社の鹿さん)

右脚に傷を負った美しい白い鹿が太田の里に下り、川に落ちて流され、 助けた村人の手厚い介護もむなしく死んでしまいました。


(画像:柏原陣屋)

時の柏原藩主織田公からはお供え物を賜わり、 吉祥として白鹿をねんごろに葬れとのお言葉があったそうです。

村人は瑞鹿(しろしか)神社として祀り、以来足の病に霊験あらたかといわれ、お祭には沢山の参拝者が訪れます。(丹波竜の里HPより引用)


周囲を歩いていたら、お神輿発見。


丹波市では「太鼓神輿」と呼びます。

これ、大阪へ来て初めて見たんですよねぇ。


太鼓を乗せて担ぐ祭礼山車は「太鼓台」といい、大阪、兵庫から四国、中国、九州地方に見られ、特に瀬戸内海沿岸地域に多く分布。

瀬戸内海沿岸地域の太鼓台は基本的にこの「布団屋台」で、布団を重ねた屋根を基本形とします。

地域によって、布団の数や装飾が異なりとても多様。

播州では「屋台」、淡路島では「布団ダンジリ」、大阪では「布団太鼓」と呼ぶ地域があり、四国の香川県や徳島県では「チョウサ」と呼ぶ地方も多いとか。



布団の四隅が反り、平屋根なのがわかります。


ペロペロキャンディー(違)。


味わい深いです。


(クリックで拡大)太鼓歌だそうで。


暗記している人も少なくなったのかな。


間違えてます。太鼓神輿です。

素敵なものを拝見できました。


白鹿神社
《住所》兵庫県丹波市山南町太田590


参考文献
現地説明書・兵庫県神社庁HP・丹波竜の里HP(http://www.kamikuge.com/guide.html)



いつも応援いただきありがとうございます。祭礼には、礼装に身を包んだ方々が参拝されていて、小汚ない格好の私はとても場違い。境内の外で待機しました。その後、氏子の方からいろいろなお話をお伺い出来て、楽しかったです。やはり、中井権次一統の彫刻群は、昨今注目を集めており、「いいでしょ、ここのお社」と皆様とても誇らしげでした。
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兵主神社と近衛と島津。歴史は綿々と続く。最終回の巻

こんにちは。


丹波市春日町黒井の兵主神社。

【祭神】大己貴大神・少名彦大神・天香山神
(合祀)惠比須大神
『神祗志料』兵主大明神



【由緒】
746(天平18)年  兵庫(つわもののくら)の守護神として鎮祭
927(延長5)年   「延喜式神名帳」に丹波国一社として登載
1579(天正7)年  黒井城(保月城)落城の際に兵火で焼失
1605(慶長10)年  5月26日近衛信伊參籠
1656(明暦2)年  造営
1729(享保14)年  造営
1814(文化11)年   近衛基前扁額を寄進


【黒井城主・赤井直正】


戦国期の黒井城城主は赤井直正。丹波国の氷上郡を支配。

丹波赤井氏は、清和源氏・源頼季流の井上家光(源頼季の孫)が、1158(保元3)年、丹波芦田庄(兵庫県丹波市青垣町東芦田)へ配流されたことに始まる「芦田氏」の支流。

戦国時代には、氷上郡を支配し、赤井直正が黒井城を拠点に戦国大名化。
兵主神社への崇敬厚く、赤井直正所用の兜と寄進状が兵主神社に現存。


【近衛家第16代・近衛前久】

近衛前久は、戦国時代を生きた公家。



上杉謙信と血盟を交わし関東へ下向するも、挫折感を味わい帰洛。



足利義昭と不和になり丹波へ下向し、赤井直正の居館の「近衛屋敷」に逗留。

信長に促され、帰洛。

後に信長の外交官として活躍。



石山本願寺との和議・島津氏と九州諸勢との和議等に尽力。


【近衛家第17代・近衛信尹】

近衛前久の子で、丹波市春日町黒井で生まれ、父・前久と共に戦国時代を生き抜いた公家。

烏帽子親は織田信長。



関白相論を起こし、反発。秀吉に関白の位を取られる結果となり、薩摩の坊津へ配流。



島津義久の厚遇を受け、この滞在期間中に自身の和歌、連歌、絵画、書を極める。
特に独特の書体は信尹の号より「三藐院流」と称され、本阿弥光悦、松花堂昭乗と並び「寛永の三筆」の一人となる。


父・前久と二代続く滞在が、島津家と近衛家との繋がりのきっかけともなった。


許されて帰洛。

1605(慶長10)年5月26日。産土神である兵主神社へ参詣。



「近衛三藐院信尹公は、外戚の縁により、当社に対し崇敬厚かりしが、慶長十年五月二六日、心願の儀があり兵主山へ参詣あり、旧記に曰ふ、行列は『御長刀一振、御供廻り刀さし八人、立笠一、傘一、挟箱二(片挟箱廻りに金紋付)、鳥籠二、竹馬一荷』兵主山へ御入り、御別当被遊、此節寺に社坊無御座候、御公儀より御役人一頭、御出、御供六人都合七人御出被成御饗応有之候、自身番厳重御座候云々」(『丹波氷上郡志』)



信尹が兵主神社へ奉納した和歌。

春日郡黒井の産神によみたてまつれる哥   信尹

いのるかひあるにつけても藤原に かかるちぎりや春日郡の郷

  来日可清書也
慶長十巳五月廿六日




黒井城下の近衛屋敷で生まれ育った信尹が、兵主神社を産土神としたことが、後々まで続く兵主神社と近衛家との繋がりのきっかけとなる。


【近衛家第25代・近衛 基前】

1814(文化11)年。近衛 基前(もとさき)は兵主神社に鳥居額の揮毛「兵主社」を寄進。



「此の時京都より沿道の村々庄屋人夫を出し、当地より国領迄、御迎二十人御供致し、八月二十一日御着の由云々」(『丹波氷上郡志』)


大は小を兼ねすぎ。


【近衛家第26代・近衛忠煕】

近衛 忠煕(ただひろ)は、基前の子。

正室は島津興子 ( 薩摩藩主・島津斉興の娘 ※実妹)。

養女に徳川家定正室・天璋院篤姫。


幕末混乱期に孝明天皇の信任が厚かったものの、将軍継嗣問題で一橋派に属し、戊午の密勅のために献策したため、安政の大獄により失脚し、落飾謹慎。

「後三藐院」(※三藐院は信尹)と称し翠山と号する。


1849(嘉永2)年。春。忠煕の子・忠房が疱瘡になる。



近衛家と繋がりが強く、疱瘡の神として著名であった兵主神社に祈祷を頼む。

ほどなく忠房は、快癒。



同年6月。文台(松島の景)と硯箱(宮島の景)を寄進。
翌年5月。狩野養信筆の牡丹図と吉村孝敬筆の雌雄鹿図(衝立)を寄進。

他にも数々の至宝を寄進(兵主神社に現存)。

忠煕は和歌を好み、懐紙や短冊等の遺墨が多く兵主神社に残る。

明治維新後は、官職を退き悠々自適な日々。
上野の津梁院に葬られた後、京都の大徳寺に改葬される。


【近衛忠房】

近衛忠熙の四男。

11歳で疱瘡になったとき、父の忠熙が兵主神社に祈祷を頼む。
ほどなく快癒。

正室は島津斉彬の養女・貞姫(実父は島津久長)。





島津との繋がりが強く、1863(文久3)年の八月十八日の政変では薩摩藩に協力し長州藩を京都より追放、1866(慶応2)年の第二次長州征伐時には、征討を強行する幕府と、長州藩を擁護する薩摩藩の仲介を務めた。

明治維新で藤波家の世襲が廃止された伊勢神宮の祭主となるが、1873(明治6)年、父に先立ち36歳の若さで死去。


【最終回です】



近衛前久が丹波黒井城主・赤井直正親子を頼り、ここで生まれた信尹が兵主神社を産土神として以来、綿々と続く兵主神社と近衛家の繋がり。

長々と続けて参りましたが今回で最終回。

よもやこれほど長く続くとは自分でもびっくりです。
前フリ回収率100パーセント。


これも狛犬さん達のおかげです。


兵主神社
《住所》兵庫県丹波市春日町黒井2956

参考文献
『春日町史』・『春日町の文化財』(春日町発行・編)
『近衛家と春日』(春日町歴史民俗資料館)
『流浪の戦国貴族―近衛前久』(谷口研語著 中公新書)

special thanks
時乃★栞様
真摯に研究をされているのに威張る事なく謙虚で素敵な方です。

→→→九州戦国史~室町末期から江戸時代初期まで~



いつも応援いただきありがとうございます。兵主神社、最終回です。ここまで長々と書くことができたのは、支えてくださる皆様あってこそ。本当にありがとうございます。あほーな私は調子こいて、兵主神社から薩摩の島津義久に話が飛んだり、上杉謙信や織田信長、猿と狸が出てきたり、っとあひょーあひょーっと長々と続けてしまいました。んふふふ。兵主神社は狛犬さんに会いに行っただけのはずなのになー。うふふふ。
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