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兵主神社の狛犬全員集合。総勢じゅういちにん。

兵主神社の狛犬ズ。

一。一の鳥居の狛さん




民家が映るので背景全てモザイク。


二。二の鳥居の狛さん。


平和な日常。


ほんとに幸せそうです。


三。本殿の神殿狛さんズと、ひとり。

正面向いて、阿吽が逆で。


とんだ災難。


いい顔と姿で、実はすごくお気に入り。


四。奥宮入口の親子狛さん

実に使える親子さんです。


お小遣い値上げ交渉


かーちゃん、最強。

この親子、大活躍してもらいました。





ちょっと勝ち気な顔をしているので、ちびくん、大活躍。




近衛信尹にも化けた。


五。鏡石のちびっこ狛さん


ほんとに、ちっちゃかった。





こちらのちびちゃんも、大活躍。




落ち込む狛犬さん、なかなかいない。


狛犬さんが生き生きとしていると、お社のお話も弾んでしまうのですねぇ。
兵主神社、おいしいお社でした。



いつも応援いただきありがとうございます。神社を訪れる楽しみ。お社の歴史、鎮守の森の深さと空気、社殿の彫刻、建築物としての価値、祭礼等多岐に渡りますね。しかしやはり、狛犬さん。まずは、狛犬さん。うひゃ、っと笑顔だと長居してしまうのです。うふふ。
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近衛信尹、薩摩で氷砂糖を食す。兵主神社へ里帰り

こんにちは。


黒井城主赤井直正の居館の一部に通称「近衛屋敷」を造ってもらった近衛さん。

今日は近衛前久の子、近衛信尹のお話。


【信長と僕】

1565(永禄8)年11月。近衛前久の子が誕生します。

「天正ノ此、波多野総七と云居娘近衛殿二奉公セシガ近エ殿ノ御子ヲ胎ス、此里に帰テ誕生ス男子也、九歳マデ養育セシガ」(『丹波志』1794年編纂)

この隣の船城郷稲塚村の波多野総七の娘が、近衛邸に女中奉公に上がり、前久の子を妊娠して故郷の稲塚村に帰り男子を出産。


それが、後の近衛信尹(これただ)。

1568(永禄11)年、織田信長が足利義昭を奉じ上洛。
義昭と不和であった父・前久は石山本願寺、丹波の赤井直正の元へ下向。

この時前久の関白職は解任となり、便宜上、まだ3歳であった信尹が家督を継ぎます。

1575(天正3)年。義昭を追放した信長の奏上により、父と帰洛。

1577(天正5)年。元服。


加冠の役は織田信長。
信長から一字を賜り信基と名乗ります。(ここでは信尹に統一します)

1580(天正8)年に内大臣、1585(天正13)年に左大臣。

1582(天正10)年。本能寺の変。


烏帽子親である信長のご他界。痛い。


【猿との争い】


欲深お猿、登場。(画像:丹波市柏原町の新井神社の猿)


(画像:兵主神社の絵馬)

関白の位をめぐり二条昭実と口論(関白相論)を起こし、結果的に豊臣秀吉に関白就任の口実を与えてしまい、さらに秀吉が秀次に関白位を譲ったことに立腹。



(画像:兵主神社の絵馬)

1592(文禄元)年。左大臣を辞します。


(画像:兵主神社の絵馬)

同年。朝鮮の役に随行しようと肥前国名護屋城へ。
後陽成天皇(女御に信尹の妹)はこれを危惧。


(画像:兵主神社の絵馬)

1594(文禄3)年4月に後陽成天皇の勅勘を蒙り、薩摩の坊津へ配流。


【薩摩時代はお勉強】

信尹は1594(文禄3)年から1596(慶長6)年に秀吉の上奏により赦免されるまで、薩摩に滞在。うち1年3ヶ月を坊津で過ごします。


イメージ。

「聞しにかはり人家も少なく人の往来もまれ」で「なにかにつけて不如意千万なる所」であり、「はてのはてのはて」であったと信尹は日記『三藐院記』『信尹坊津紀行記別記』(共に陽明文庫蔵)に記します。

住居は「人のすみあらしたるありさま」で、「うちこもり、ひき(低)く、せは(狭)くあれはてたる住居」でした。



信尹一行は「推量之外のありさま」に「目と目をみあはせ、とかくことの葉もなく、老たるも若もともに口惜くなみた(涙)」(『信尹坊津紀行記別記』)を流したといいます。


ここで、ちょっと考えてみます。なぜ坊津だったのか。


(画像:潮岬本之宮神社の狛犬)

薩摩・大隅・日向は「島津荘」という荘園で、藤原頼通が寄進を受け、島津家初代が荘園の管理者となっていた土地。

近衛家は藤原氏の嫡流。

本気で信尹に厳罰を処するなら近衛家と無縁の土地へ配流することも出来たはず。



不自由な中でも、島津義久の厚遇を得て、信尹は次第に坊津での生活を楽しむようになります。

異国への玄関口である坊津。
唐人から氷砂糖をもらったり、作詩を見物したり。

船遊びをしたり、カツオが網にかかるのを見たり。

鹿児島の連歌師・高城珠長(しゅちょう)と連歌を楽しんだり。

「岡左兵衛」「可因」と号して和歌、連歌、茶湯等の会を催し、詩歌や書に没頭したり。

「坊津八景」の和歌を詠んだのも信尹。



この坊津での日々が、都では得難い経験となり信尹の人生に大きな影響をもたらし、また反対に、薩摩の地方文化の隆盛に大きく寄与しました。


(画像:潮岬本之宮神社の狛犬)

父・前久と共に島津義久主従にはお世話になりました。

帰洛直前には島津義久は連日連夜の座敷能等で接待してます。


記録を見ても、ええ、ほんまに一週間ほど接待接待接待です。

義久は途中参加ではあるものの、わざわざおうちから出向いて接待。
お疲れ様なのです。


【僕、帰ってきたよ】

1596(慶長6)年に秀吉の上奏により赦免。帰洛。

1601(慶長6)年。再度、左大臣。

1605(慶長10)年。5月26・27日。信尹は厄年。
産土神である兵主神社に参詣。(『言経卿記』『時慶卿記』)


兵主神社。

この時の様子を『氷上郡志』が細かく記しています。

「近衛三藐院信尹公は、外戚の縁により、当社に対し崇敬厚かりしが、慶長十年五月二六日、心願の儀があり兵主山へ参詣あり、旧記に曰ふ、行列は『御長刀一振、御供廻り刀さし八人、立笠一、傘一、挟箱二(片挟箱廻りに金紋付)、鳥籠二、竹馬一荷』兵主山へ御入り、御別当被遊、此節寺に社坊無御座候、御公儀より御役人一頭、御出、御供六人都合七人御出被成御饗応有之候、自身番厳重御座候云々」(『丹波氷上郡志』)



また、兵主神社にはこの時に信尹が奉納した和歌を記した懐紙が残ります。

春日郡黒井の産神によみたてまつれる哥    信尹

いのるかひあるにつけても藤原に 

かかるちぎりや春日郡の郷

  来日可清書也
慶長十巳五月廿六日


和歌、連歌、書、絵画等に卓越した才を持った信尹。
特に書道においては、学んだ青蓮院流から発展。

独特の書体は信尹の号より「三藐院流」と称され、本阿弥光悦、松花堂昭乗と並び「寛永の三筆」の一人に数えられます。


同1605(慶長10)年。ようやく念願であった関白に就任。



1614(慶長19)年。没。50歳。
「長々不例也」(『義演准后日記』)であったといいます。

嗣子なく、後陽成天皇と中和門院(信尹の妹)との子(後陽成天皇第四皇子)信尋(のぶひろ)が養子となり、家を継ぎました。


ふぅー。長かったー。


参考文献
『春日町史』・『春日町の文化財』(春日町発行・編)
『近衛家と春日』(春日町歴史民俗資料館)
『流浪の戦国貴族―近衛前久』(谷口研語著 中公新書)

出演:兵主神社の狛犬たち

いつも応援いただきありがとうございます。父親の前久に勝るとも劣らない信尹の激動の人生、でした。薩摩の坊津での日々は、不本意ではあったけれど、長い目で見れば信尹にとって充電期間ともなったのでしょうね。そして、生まれ故郷の氷上郡の兵主神社へ参詣。いったいどんな心地であったのか。彼の哥が教えてくれるような気がします。
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戦国時代に孤軍奮闘。近衛前久と信長と猿と狸

こんにちは。


丹波市春日町の興禅寺。

春日局生誕地であり、赤井直正の黒井城の居館であり、近衛屋敷であったと思うと、とても面白いところ。

19歳で関白・左大臣・藤氏長者になり、上杉謙信と血盟を交わし関白のままで越後へ下り、関東平定を助けた近衛前久。

信長が連れてきた足利義昭と不和のため、石山本願寺と丹波へ下向し、数年間を過ごします。

ここまでが、前回。


この間の丹波の赤井直正は。

近衛前久の妹あるいは娘を内室に迎えます。

「妻近衛関白龍山公姫君」(『赤井系図』)
「龍山公殿下其姫君を直正に下したまふ」(『赤井家譜』陽明文庫所蔵)

特に陽明文庫の『赤井家譜』では、赤井直正の実父・時家が1563(永禄6)年に京都西院の近衛前久のもとに伺候してその息女を直正にもらい受けたとしています。

しかし、

「姫君天正三年八月廿一日黒井において逝したまふ、大梅山興禅寺に葬る。渓江院殿月下笑光と号」(『赤井家譜』陽明文庫所蔵)

せっかくお迎えした近衛前久の息女は、1575(天正3)年8月に逝去。



1570(元亀元)年。織田信長が台頭してきた頃。

直正は本家の赤井忠家と共に信長に降り、丹波奥三郡(氷上・天田・何鹿郡)の所領安堵を受けます(『寛永諸家系図伝』)。

1571(元亀2)年。氷上郡へ侵攻してきた山名祐豊を打ち破り、逆に山名氏が治める此隅山城・竹田城を占拠。

山名祐豊が信長に救援を頼みますが当時の信長は石山本願寺や三好三人衆や武田勝頼、浅井・朝倉と対峙し多忙。

この隙に赤井直正は反織田勢力の毛利・武田・石山本願寺と同盟を結び、信長包囲網を計画します。(『吉川家文書』『赤井家文書』『証如上人日記』)

1575(天正3)年6月、信長は光秀を丹波へ派遣。11月より本格的に黒井城攻めにかかります。


【いけいけ前久】



1575(天正3)年11月より光秀は本格的に黒井城攻めを開始。

これに先立つ3月。

丹波の赤井直正の動向を知っていたのか、薩摩の島津義久の家臣・喜入季久(きいれすえひさ)が、前久の警護の為に黒井城下に入ります。

1575(天正3)年6月。前久は不和になった義昭を追放した信長の奏上により帰洛。(『公卿補佐』『御湯殿上日記』)

以降、信長の下で外交・調停工作に奔走します。



1575(天正3)年。島津家の九州争乱の調停。

九州に下向し、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図ります。(ここはサラッといくww)


《メモ・近衛と島津》


(高野山奥の院・薩摩島津家墓所)



薩摩・大隅・日向の3国は「島津荘」という荘園でした。

これは藤原頼通が寄進を受けたのが始まりといいます。



この荘園の荘官(下司)として九州に下り勢力を拡大した惟宗某が、源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ「島津」を称したのが島津氏の始まりとされています。

突然、前久が九州へ下向したのではなく、近衛家と島津家にはかねてより繋がりがあった、と。



1580年(天正8)年。織田信長と本願寺の調停に貢献。
信長と石山本願寺との争いは10年にも及んでおり、落とし所を模索していた頃合。

義昭の征夷大将軍着任後、一時的に石山本願寺に身を置いていたこともある前久はまさに適任。

同年3月。正親町(おおぎまち)天皇の勅命として本願寺に講和が申し入れられます。

顕如等が大坂本願寺を退去することを条件に、籠城勢の命は保障するという内容であり、8月、ついに顕如は本願寺を出たのです。


実に11年間に渡る「石山戦争」の終結。

前久、頑張りました。


(画像:高野山奥の院・武田家墓所)

1582(天正10)年。織田信長の武田征伐(天目山の戦)に同行。

さあ、これから!というときに。

同年。本能寺の変。



変の当日、信長の嫡男・信忠の滞在していた二条御所に隣接した前久の屋敷から銃弾が撃ち込まれたことで、前久の事件への関与が疑われる事態に。

前久は身の潔白を訴えるため出家。「龍山」と号し、京都慈照寺の東求堂に隠棲。

改姓の労(松平から徳川へ)を執ったことから親しくなった徳川家康を頼り、浜松へ下向。

家康の取りなしにより、翌年、帰洛。

ところがどっこい。「小牧・長久手の戦い」


前久、しばらく奈良に滞在します。


【前久、猿との攻防】



秀吉は朝廷での官位を高めることで各地の大名を従わせる政権構想を立て(官位により自己政権の正当化を図ろうとした)、五摂家以外ではなれない関白への就任を望むようになります。

しばらくすれば、関白職は返上。近衛家には千石、他の4家にも五百石ずつの知行を贈る、と執拗だったお猿秀吉。

秀吉の強要に屈し、秀吉を猶子とすることで関白に就任させます。

しかし。

関白就任後、秀吉は豊臣の姓を創始して近衛家との関係を切り、甥の秀次に関白の位を譲ります。(「関白相論」)



1598(慶長3)年。秀吉死去。


1600年。関ヶ原の合戦。

前久は、敗軍となった島津家の落人を保護し、家康との和平交渉に奔走。
同年8月家康から島津領安堵の確約を取り付けます。


1605(慶長10)年7月。嫡男の信尹(のぶただ)が関白に任官。

1612年。77歳で他界。

まさに激動の時代を駆け回ったお公家さんでした。



参考文献
『春日町史』・『春日町の文化財』(春日町発行・編)
『近衛家と春日』(春日町歴史民俗資料館)
『流浪の戦国貴族―近衛前久』(谷口研語著 中公新書)


いつも応援いただきありがとうございます。さあ、これから!という時に毎回訪れる不幸。お気の毒。中でも本能寺の変は、心底ショックだったことでしょうね。丹波で見かけた前久は地味な印象だったんですが、なかなかスリルとサスペンス~(?)な人物だったんですね。
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戦国時代のエネルギッシュなお公家。近衛前久と丹波

こんにちは。

丹波市春日町。古くは春日神社(現・春日大社)の荘園で、春日部荘と呼ばれていました。

さて。


黒井城山麓の興禅寺。赤井直正の居館跡。

ここに、1568(永禄11)年11月から1578(天正3)年まで逗留した人物がいます。

それが、近衛前久。

「近衛家は五摂家のひとつ。
本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。

摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。」(wikipediaより)


【近衛前久・若気の至り】

1536( 天文5)年、関白太政大臣近衛稙家(たねいえ)の長男として生まれ、1554(天文23)年に関白・左大臣・藤氏長者。

19歳にして官位を極めたものの、朝廷に実権のない時代。お尻がむずむず。

1559(永禄2)年。越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛。


(画像:高野山奥の院 上杉謙信霊廟)

前久と景虎は意気投合。血書の起請文を交わします。

1560(永禄3)年。ここで何と前久は、関白の位のまま上杉謙信と共に越後へ下り、関東にも逗留。

目的は「京都政治の刷新にあり」謙信の関東平定を助けるためであったといいます。(近衛通隆「近衛前久の関東下向」『日本歴史』391号)

しかし。

1562(永禄5)年。関東平定すら為し遂げられられない現実に直面し、失意のまま帰洛。

1565年(永禄8)年。永禄の変(将軍足利義輝を暗殺)を起こした松永久秀と三好三人衆を許し、足利義栄の将軍就任にも関与。

ところがどっこい。


1568(永禄11)年。織田信長が足利義昭を連れて上洛し、義昭は征夷大将軍に。

前久は従兄弟の義昭との確執から、関白を罷免され大阪に出奔。
※「被違武命出奔」(『公卿補佐』)

近衛家は前久の子、信尹(のぶただ・3歳)が名義上の当主となりますが、将軍義昭は前久の屋敷を破壊して近江国との交通の要衝である勝軍地蔵山城再建の用材に使用する措置をとります。

庭石まで持ち出したとか。んまー。


【近衛前久・失脚と雌伏のとき】

前久は、義昭の追放までの7年間、流浪。


本願寺光佐を頼り大阪へ下向し反信長勢力に加わり、後に、丹波へ赴きます。

なぜ丹波?

「天正ノ此、波多野総七と云居娘近衛殿二奉公セシガ近エ殿ノ御子ヲ胎ス、此里に帰テ誕生ス男子也、九歳マデ養育セシガ」(『丹波志』1794年編纂)

「船城郷稲塚村の波多野総七の娘が、近衛邸に女中奉公に上がり、前久の子を妊娠して故郷の稲塚村に帰り男子を出産。

幼名を信輔と称し、波多野総七の元でしばらく育てられた後、近衛家に引き取られ「近衛信尹」と改めて、近衛家の家督を継ぐに至ったのである。」(『丹波戦国史』より抜粋)



波多野総七とは、兵主神社の隣村の稲塚村の土豪。

自分の子(近衛信尹)を産んだ「家女房」(『近衛家譜』)のいる丹波。

また、藤原氏の氏神である春日大社の荘園であった春日部荘ですから、近衛家とは全く無縁ではありません。

赤井直正の実父・時家は近衛前久の丹波下向に伴い、お住まいを整えます。

「氷上郡黒井といふ所に御館造りて仮の御所とす」(近衛本『赤井系譜』)

この「仮の御所の御館」とはどこか。

■『丹波志』では「今興禅寺ノ地也」と、現在の興禅寺に比定。
■『赤井悪右衛門尉伝記』では「今興禅寺の仏地となる」
■地元の伝承でも「近衛屋敷」という(冊子『大梅山興禅寺』)

上記の事から、興禅寺、つまり、黒井城の居館である土地に近衛屋敷が造られたと。



ここに逗留した人物、それは近衛前久でした。

そして、この地で生まれ、前久から近衛家の家督を継いだ近衛信尹。


兵主神社を産土神として崇敬し、ここに兵主神社と近衛家との深い繋がりが始まるのです。


やがて、信長と義昭は不和になり、近衛前久は帰洛。大活躍の始まりです。


近衛前久と近衛信尹。

この親子の戦国エネルギッシュなお話、続く。


赤井直正。

忘れとったー!



参考文献
『春日町史』・『春日町の文化財』(春日町発行・編)
『近衛家と春日』(春日町歴史民俗資料館)
『流浪の戦国貴族―近衛前久』(谷口研語著 中公新書)


いつも応援いただきありがとうございます。戦国時代は武将が走り回る時代ですが、上杉謙信と熱く燃え上がったり信長・秀吉・家康・島津と深く関わり、意地を見せた近衛前久のようなお公家さんもおじゃったわけで。面白いなー。にやり。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

うちのかわいい才丸がなにか?

こんにちは。

【兵主神社と赤井直正】


兵庫県丹波市春日町の兵主神社。


赤井直正の黒井城の麓に鎮

兵主神社には、赤井氏が深く信仰した証として、武運長久と子孫繁栄を願い赤井一族が寄進した直正の兜が残ります。


鉄地黒漆塗り5枚錣仕立ての野戦用。

実父の赤井時家から伝わり、直正が着用していたもので、兵主神社には寄進状も併せて現存しています。(※寄進状の「忠家」は直正の兄の子・直正の甥)


「寄進状」

御兜 壺従       伊賀守忠家殿相伝
            悪右衛門尉直正殿御着用

右我等一門之を重宝為すと難も当社明神は一族の信仰浅からざるに付
神庫へ奉納し心願成就 武運長久 子孫彰栄を祈り奉る者也
依て寄進状件の如し

  天正七巳辰正月十八日       荻野甚左衛門尉正光 花押
   神宮寺別当御中



寄進状から、兵主神社はかつて「明神」と呼ばれ、兵主神社に奉納するのには神宮寺の別当に宛てていることがわかります。


そんな兵主神社ですが、明智光秀の第二次丹波攻略で黒井城が落城するときの戦火により社殿が焼失。


【パパ時家と直正】

赤井時家(後谷城主)の次男として生まれた直正は、幼名を「才丸」といい、荻野十八衆と呼ばれる土豪の盟主として(養子に)迎えられ、黒井城南西の朝日城城主となります。


パパ時家の後谷城址。


直正とパパ時家については、面白い書状が残っておりまして。

夏の盛りに、才丸を養子に出した先の荻野一統へパパ時家が出したお手紙。

態令啓候、仍才丸其方へ遣之置候へ共、
伊与守殿承候間、
其方之同名中へ以
使者尋申處
尤可
然思召由返事候間其方へ参置候
然處近々可
御違変由風聞候、
雑説候へ共、
若於
事実者、
力儀候条涯分可申分候、
然者其方御同名中御覚悟之通具示給
其覚悟候、
併最前之節目無
相違御入魂可至望候  恐々謹言

 八月五日
              時家(花押)



「そちらの希望でうちの才丸を遣わしたが、近頃、才丸について不足の声が出ているらしいね。
どういう事だね。返答によってはこちらにも覚悟があるぞっ(怒)

赤井時家より」


ぷ。



「一度他家入ったからには、父と敵同士となってもためらうことなく父を討て(嫡男の宗茂を立花家へ送る際の言葉)」と教えた高橋紹運パパとは大違い。


あむぁーいパパですねぇ。


【赤井直正の交遊関係】

そんな直正ですが、はじめは甥の忠家と共に信長に服し、丹波奥三郡(氷上・天田・何鹿郡)の所領安堵を受けた(『寛永諸家系図伝』)ものの、突然氷上郡へ侵攻してきた山名祐豊と対抗するうちに山名氏が治める但馬の此隅山城・竹田城を占拠。

山名祐豊が信長に救援を頼みますが当時の信長は石山本願寺や三好三人衆や武田勝頼、浅井・朝倉と対峙し多忙。

この隙に赤井直正は反織田勢力の毛利・武田・石山本願寺と同盟を結び、信長包囲網を計画します。(『吉川家文書』『赤井家文書』『証如上人日記』)


武田勝頼から赤井直正への書状

十月十七日之芳翰十二月廿一日到着、則披閲、就中使者口説具聞届、
其意候抑対信長怨敵之色
段被
鉾楯之由候、
誠云
武勇戦功旁以無比類次第候
漸可
信濃境之雪消候之条
尾濃無二令乱入
手合
可御心安候、委曲従
釣楽齋跡部大炊助所申届候之間、
不能具候、恐々 謹言

二月六日      勝頼(花押)
 荻野悪右衛門尉殿



(こんな内容かしら)
「十月十七日付の書状を拝見し、使者の口上も詳しく聞き、直正君の気持ちよーくわかった。
織田信長に対して一戦を辞さない決意、よいぞよいぞ、がってんだ。武勇といい、戦功といい、直正君は比類ないもんね。
やがて甲州と信濃境の雪も消え始めるので、美濃・尾張へ攻め入ってやるから安心してね。
詳しいことは使者の跡部大炊助が言うよ。勝頼より。」


甲斐の武田勝頼から直正に宛てたお手紙。

信長に対抗すると決めた直正の決意と、彼の交遊関係の広さを示すひとつの資料。

結局誰も来てくれなかったけど。るるるー。




こんな素敵な赤井直正。

内室は、近衛前久の息女。(正室は波多野元秀の娘。死別)


興禅寺は赤井直正居館跡。

別名「近衛屋敷」


兵主神社のばかでかい扁額は近衛基前の筆。


次回。「(仮題)近衛家と直正くんと兵主神社」に続く。


参考文献
春日町史・春日町の文化財(春日町発行・編)


いつも応援いただきありがとうございます。やっと、兵主神社と黒井城と近衛家にたどり着きました。とてもマイナーな丹波ですが、ほじくると色々なものが出てきます。「赤井直正」は司馬遼太郎の『貂の皮』に出てきますのよー。って、これもマイナーか。えーっと、「『甲陽軍鑑』には『名高キ武士』として徳川家康、長宗我部元親、松永久秀らと共に、しかも筆頭として名が挙がっている」(wikipediaより)んですってよー。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

春日局生誕地、興禅寺。赤い尽くしの居館跡

こんにちは。


はいはい。(養父市養父神社の狛オオカミくん。びみょーに男の子)

悪右衛門とは、黒井城主赤井直正の通称。


光秀の丹波攻略の最中、城主赤井直正が病没し、弟の幸家では支えきれず、翌1579(天正7)年8月に落城した黒井城。

黒井城の麓に、お寺あり。

名は大梅山興禅寺。


惣門は、1626(寛永3)年、150mほど離れた場所にあった誓願寺をここへ移した際、黒井城の部材を用いて建てたといわれます。


赤井直正時代はお寺ではなく、黒井城城主の平素の居館であったと推定されています。

根拠は、水濠(80m)と高石垣(高さ5m)に、居館であった面影が残っている事とか。ふむ。

直正の黒井城入城の際、奥村屋敷跡を改修し利用。

黒井城落城後は戦後処理と氷上郡一円の統治のために、光秀の重臣の斉藤利三が入り、陣屋を構え、居住。

主の光秀の居城である亀山城(京都府亀岡市)との往復の日々を送ります。


正面付近は野面積。
他はびっちり積まれた切り込みハギで、後世の改変の可能性あり。

赤井直正の頃は、もっともっさりしていたのかなー。
白壁もないだろうし、戦国真っ盛りだし。


毎度おなじみ「禁軍酒入門」。

忘れてました。お寺へ来たのでした。えへへ。


楼門は宮津市の智源寺から移築された門。

創建年代は不明で、元禄年間改修の記録が残ります。

三間一戸、二階建て。
階上室内に観音像を安置。天井に龍の絵。禅宗山門様式。

両脇に仁王さん。


仁王像様。あー。


 仁王像様。んー。


ぎゅー。

赤井家居館に赤い楼門に赤い仁王像。これはもう、赤いすいせ・・・(もうええ)。


本尊は釈迦如来。

興禅寺の前身は誓願寺(開基は赤井直正)といい、黒井城落城50年後の1626(寛永3)年、少し離れたこの場所へ本堂等を移転。

宗派を真言宗から曹洞宗に、寺号を興禅寺と変えました。

・・・宗派も寺号も場所も変えたら、それは新しく創建なのでは。ヒソヒソ。


明智光秀の重臣の斉藤利三といえば。

そうです。春日局(お福)のパパですねー。

徳川家光の乳母となる春日局は、斉藤利三がここに陣屋を構え居住していた時代、1579(天正7)年末(黒井城落城は同年8月)に生まれ、3歳まで春日町で生まれ育ったといいます。

1582(天正10)年、お福4歳の時、本能寺の変。
父・斉藤利三は山崎の合戦で敗れ、六条河原で処刑。

お福は女子故に処刑されず、母方の祖母の実家である三条西公国に養育されました。

1594(文禄3)年、16歳で小早川秀秋家臣の稲葉正成に嫁ぎますが後に不和となり、美濃国谷口へ退き、26歳で家光の乳母になります。


お福腰掛け石。

偉い人は必ず石に座るジンクス。ふふ。


鐘楼。(大正2年改築。創建当時の姿のままという)

黒井城落城の折りはまだ9歳だった赤井直正嫡男・直義が、寛永年間に先祖供養のために寄進した鐘楼。

直義、藤堂家に仕えることとなり、余裕が出来たのかな。
でも、悲しいな。


だいぶ前の大河ドラマで「春日局」を取り上げた頃はさぞかし賑わったことでしょうね。

駐車場の脇にあった資料館はその頃のもののようで、なんというか、色褪せてわびしいものがありました。


興禅寺
《住所》兵庫県丹波市春日町黒井2263




参考文献
春日町史・春日町の文化財(春日町発行・編)
興禅寺案内パンフレット

いつも応援いただきありがとうございます。春日局というと、あまりいい印象ではないので・・・うーむ。興禅寺の背後に見えるこんもりした山々が、全て黒井城の縄張りとか砦とか、なのです。丹波の赤井直正、生まれた土地で一生懸命生きた、興味の尽きない面白い人物です。
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黒井城主・赤井直正と光秀の丹波攻略ファイヤー

こんにちは。


目下のお気に入り、養父神社の狛おおかみ。

さて。

兵主神社からほど近く。


丹波市春日町黒井の興禅寺。

背後に広がる山々は黒井城。



1335(建武2)年(1335)に春日部荘を領した赤松貞範が山頂に砦を築いたことに始まる黒井城。

応仁・文明の乱(1467~77年)頃からは荻野氏が居城。


さて一方。


丹波市全域(氷上郡)を治めていた赤井氏。

清和源氏頼季流井上氏(発祥は信濃国)の井上(源)家光が、1158(保元3)年、丹波芦田庄(兵庫県氷上郡青垣町芦田)へ配流され「芦田氏」を名乗りますが、1215年に赤井野へ移り「赤井」氏を名乗ります(『寛政重修諸家譜』赤井氏系譜)。

まあ、皆が「源氏の流れです」と主張する『寛政重修諸家譜』の事なので真偽のほどはどうなのでしょう。

元々氷上郡に居住していた土豪という説もあります。

何にせよ、春日町から氷上町の街を挟んでずいーっと西へ移動した白山麓の後谷城を本拠地としていた赤井氏は、1500年代には篠山市の八上城の波多野氏を上回る丹波で最大の領地をもつ家に発展。


後谷城址に建つ白山神社へ行こうとした私。


どえらい獣よけフェンスに阻まれました。


(クリックで拡大)しくしく。


時は流れ。

赤井時家の次男として生まれた「赤井直正」は、1542(天文11)年、同族の荻野家へ養子に入り「荻野直正」を称します。(荻野十八人衆の盟主)

1554(天文23)年、直正は叔父の黒井城城主・荻野秋清を殺害して黒井城主に。



「悪右衛門」(『悪』=『強い』の意味)と号し、勇猛ぶりから「丹波の赤鬼」と恐れられた「荻野直正」はやがて多紀郡を除く丹波国を支配。

赤井家当主の兄の遺児・忠家を後見して赤井一族も率いる事になった直正。荻野氏なのに「黒井城主・赤井直正」と呼ばれるのはこのため。



そして、1570(元亀元)年。織田信長が台頭してきた頃。

直正は本家の赤井忠家と共に信長に降るものの、翌年に氷上郡へ侵攻してきた山名祐豊を打ち破り、逆に山名氏が治める此隅山城・竹田城を占拠。

山名祐豊が信長に救援を頼んだことが、やがて1575(天正3)年の赤井直正討伐を名目にした「織田信長の丹波攻め」に繋がります。

現場担当は明智光秀。


ファイヤー・柏原八幡神社。


ファイヤー・篠山市


ファイヤー・大原神社

第一次丹波攻略では、赤井直正は光秀を撃退。
反織田勢力の毛利・武田・石山本願寺と同盟を結び対抗。

1577(天正5)年10月から、第二次丹波攻略開始。


ファイヤー・櫛石窓神社


光秀は、翌年3月、八上城と氷上城の包囲を完成。

この最中、なんと赤井直正が病没。


直正の嫡男・直義はまだ九つ。

赤井家は直正の弟の幸家が代わって統率しますが、丹波国人衆は離反し、光秀側へ降ります。


ファイヤー・甲ヶ峰城
 
1579(天正7)年5月に氷上城が落城、6月1日に八上城が落城。
光秀は7月に再び丹波に入国して、最後の城、黒井城の攻城を開始。


兵主神社もファイヤー。

8月。黒井城落城。

嫡男・直義は京都へ逃亡。
(1610年より藤堂高虎に1000石で仕えます)

戦後処理と氷上郡一円を治めるために、光秀は黒井城南山麓に重臣の斎藤利三を居住させます。


それが、斉藤屋敷の伝承が残る興禅寺。

なのでした。

※各神社焼失画像(?)は年代順ではありません


いつも応援いただきありがとうございます。丹波地方のお社巡りをしていると高確率で遭遇する「光秀の丹波攻めの戦火で焼失」事件は、まだまだあちこちにあります。赤井直正嫡男・直義は藤堂高虎に仕えますが、ご子孫により「赤井家住宅」は平成10年に伊賀市へ寄贈されています。ずーっと続いていたんですね。
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式内社兵主神社の磐座

こんにちは。


丹波市の兵主神社。一畳分もある扁額が重たそう。


聖武天平18年(746年)に兵庫(つわものくら・武器庫)の守護神として鎮座した丹波国氷上郡の式内社。


あ、そうそう。


本殿前にはおっちゃん神殿狛犬さんがいます。


奥宮に向かおうとして・・・


ちびちゃんズに邪魔されて


鏡石のお話になりましたが。

正面に真っ直ぐ視線を移せば


「厄除神社」となっておます。


なぁにー?また、石?

拝殿の後ろへ回ってみると


きゃー。


磐座ですな。

古来より「影向石」と称された周囲25m、高さ3.6mの巨石です。


かつて兵庫県史蹟名勝天然記念物の指定を受けた「大欅樹」(ケヤキ)の巨大な根っこが巨石をとりまいていたそうですが、枯れて腐って今は跡形もなく。

「蚣竜の球をつかめるのはこのようなものか」(『春日町史』)と言わしめるほどの巨木だったようで。残念。


磐座のある光景、好き。


この「欅(ケヤキ)」を「疱瘡の神」とみなしたのか、兵主神社は戦国時代には疱瘡(天然痘)にご利益があるとして、黒井城主赤井氏並びに近衛家の崇敬を受けました。

この巨大な磐座の周囲は


いい感じ。

境内の西側には


どこかしら。前方後円墳の稻塚と陪塚。

この境内の古墳、鉄鏃や馬具が出土しているようで。ふむふむ。

また、別の見方をすれば


砦を探すのに地面を見つめていては意味がないとわかってはいるものの。


兵主神社の場所が黒井城の近所で。


支城だか砦群だかに囲まれておりますもので。



兵主神社
《住所》兵庫県丹波市春日町黒井2956


いつも応援いただきありがとうございます。もしゃっとした草むらの向こうに行きたいものの、神社の奥宮ですし、神域ですし、遠慮しました。視点を変えるといろいろなものが見えるもんなんだなーっと、お馬鹿な頭で必死に考えてみました。
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兵主神社のこうごう石と女の鬼「般若」とは

こんにちは。

とっ散らかしてしまいましたが、兵主神社の続きです。

兵主神社なんだっけ?


黒井城の近くに鎮座して。


近衛家から贈られた扁額がタタミ一畳分もあって。


幸せな狛犬さんがいて。


しだれ桜が咲いて


彫刻がいっぱいで。


ぷりっちりと見つめるオヤジ狛犬さんがいて。


お客様をお呼びして。


お馬鹿親子がいて。


ちびちゃんズがいたとこ。

です。

さてこのちびちゃんズ、何を守護する狛犬様かというと。


「鏡石」

むかーしむかし、兵主神社や黒井城のある黒井町内の小間物問屋にとある夫婦がおりました。

ある日、夫が商売の帰路の途中で具合が悪くなり


ぷりーずへるぷみー。(画像:馬見岡綿向神社の稲荷社)


助けてくれたのは娘さん。(画像:馬見岡綿向神社の浅間神社)


夫はその娘さんの家に出入りするようになってしまいます。
(画像:馬見岡綿向神社の浅間神社)

その噂は妻の耳にも届き、喧嘩が絶えず。


商売も疎かになります。(画像:たつの市の脇坂神社)


妻は兵主神社に「祈り釘」の願を立て、毎夜大杉に釘を打ち込みます。
(画像:丹波市の高座神社修復工事の釘)


嫉妬にかられた妻。(能楽『鉄輪』うわなり打ちの姿)

いよいよ満願の日。

大杉に向かう途中で


「こうごう石」に映る自分の浅ましい姿を見てしまい。


我に返り、打ち込んだ釘を全て抜き取り、夫に謝ります。


夫も懺悔して、もとの鞘におさまり。


小間物問屋の商売は益々繁盛しましたとさ。


そして、「こうごう石」は「鏡石」と名付けられ、全ての邪心を祓う奇石として祀られるようになりました。

そんな、兵主神社の鏡石のお話でした。(『丹波叢書第三集』より)


待てい。・・・邪心って。悪いのは鼻の下伸ばした夫の方でしょー?
よこしまなこころ、は、男の方じゃんねー。ぶーぶー。

能楽では、男の鬼は「強がって」力んだ顔をしていますが、女の鬼(特に六条御息所など高貴な女性の鬼)に用いる「般若」の面(おもて)は、目元に男に裏切られた「悲しみ」、口元と角でどうにもできない「怒り」を表します。

このイラストは「M/Y/D/S イラスト素材百科」の「M/Y/D/S」様より利用規約に基づきお借りしています。イラストの転載はできません。

角が生えるのは女の鬼だけ。

一方、「鉄輪」に用いる「橋姫」の面は、素朴な女の怒りから鬼となったという解釈から、髪は乱れ眉間に皺を寄せただひたすら「怒る」顔で、あまりお品がいいとは言えない形相。



ちびちゃんズ、はた迷惑。








ほんとにちっちゃいちゃんな狛犬さんなのです。

なので、本気で守護させるなら


こんな勇ましい狛犬さんじゃないと。(画像:丹波市の白鹿神社)


え?


駄目かぁ。

では、同じ兵主神社の奥の宮の狛犬さんでは?


えー?


ほんとだー。


ちびちゃんズは不満たらたらなのでした。


兵主神社
《住所》兵庫県丹波市春日町黒井2956


いつも応援いただきありがとうございます。あっちこっちに話が飛んでおりますが、兵主神社の続きです。ちっちゃい狛犬さん、実はとっても大切なものを守護しているようです。「鏡石」さんに邪心を祓っていただいても、煩悩はえんどれす。今宵も酒がうまいです。
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ちっちゃいちっちゃい狛犬。

こんにちは。

狛犬さん、どーこだっ。


こちらでした。

危うく蹴飛ばすところ。


見つけちゃったぁー。


えへん。


狛犬のお仕事に励んでおります。


明日から連休の方も多いかと。

道中に神社があったら、ぜひお立ち寄りあそばして。


わくわくしながら待ってる子達がいるかもしれません。



兵主神社
《住所》兵庫県丹波市春日町黒井2956


いつも応援いただきありがとうございます。んまー、暑い一日でしたねー。このまま真夏になったらどうしようかと思うほど。さて、明日から連休ですね。皆様おでかけでしょうか。私はおうちで地味に過ごしま・・・
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