丹生官省符神社(2)空海創建の三社と高野山開山の神々

こんにちは。


ええ、もう、ほんとに。


丹生官省符神社、閑散。


日影、どこ?


紀伊国名所図絵(江戸時代後期)と見比べると、

お寺の建物だけでなく、神社側の社殿も減少しているのがわかります。

もとはこの四神に太神宮(天照大御神)、八幡宮(誉田別大神)、春日明神(天児屋根大神)の三社と、神宮寺の神通寺をあわせた「神通寺七社明神」とも。


石燈籠に、七社大明神の名称が残ります。

慈尊院丹生高野明神、丹生七社大明神、丹生神社と呼ばれ繁栄したものの、神仏分離により境内の寺院を排除。

明治43年(1910)。九度山、入郷、慈尊院の諸社を合祀。
昭和21年(1946)。丹生官省符神社の社号に改称。


拝殿まで来るのに青息吐息。


三つの本殿。


ぐぐぐぐー。


【主祭神】

丹生都比売大神(地主神)

高野御子大神(狩人に化身して空海を高野山へ案内)

大食都比売大神

市杵島比売大神


【丹生都比売神社の祭神】


丹生都比売神社、本殿。

(奥から)

第一殿 丹生都比売大神(丹生明神)
第二殿 高野御子大神(狩場明神)

第三殿 大食都比売大神(気比明神)
第四殿 市杵島比売大神(厳島明神) 
若 宮 行勝上人

※鎌倉時代に、行勝上人が、気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神を勧請。北条政子による社殿寄進。


くぅー、見事ですっ。


【御社(みやしろ)】

高野山壇上伽藍に鎮座する御社。


御社にも、地主神の丹生都比売明神と案内神の高野御子大神が勧請されています。


山王院は、御社の拝殿。


御社は、今でも高野山壇上伽藍の一番の聖地。


このように、



空海が創建した各所に共通するのは、高野山開山に重要な役割を果たした神様である、


高野山に神領を貸した地主・丹生都比売大神と


空海を導いた高野御子大神。


いかに空海が二柱の神様を大切にしたか、よくわかります。

そんな丹生官省符神社。

最後に


狛ちゃーん♪


いつも応援いただきありがとうございます。
今日は、山の日。新しい祝日ですね。ぼーっとしてたので、普段通りに仕度してからテレビを見て気付きました。おほほ。そそくさと化けの皮を落としてうーだうーだとしまーす♪関西の渋滞もえげつないので、お盆休みが明けてから、おでかけするんだ~。

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丹生官省符神社(1)高野山金剛峯寺の官省符荘鎮守

こんにちは。

高野山山麓、紀の川南北に広がるのは、高野山金剛峯寺の官省符荘、つまり荘園。

寛弘元年(1004)に、寺田としての領有と臨時雑役免除の太政官符が出された事に始まる官省符荘は、金剛峯寺が直接治めます。

広大な官省符地を管轄したのが慈尊院に置かれた政所(後に高野山山上へ移動)で、官省符荘の鎮守として置かれたのが、現在の「丹生官省符神社」。


紀伊国名所図絵「慈尊院」(江戸時代後期)


慈尊院の多宝塔(名所図絵では「大日」)横の石段の上に鎮座してます。

官省符荘は天正18年(1590)に豊臣政権により一時没収されますが、改めて「寺領」としてほぼ同地が与えられ江戸時代も存続。


まずは、慈尊院の多宝塔から。


かわいい。


昨年の高野山開山1200年を機に大規模修繕されています。

さて、石段だんだん。


1700年代に作られたそうな。


鳥居を見るふりして、休憩。


神社合祀によって移築された鳥居です。

この横に、


高野山町石。壇上伽藍までの180町、180個ある町石のスタート。


119段の石段は、夏には辛い。


汗が吹き出るうちは、大丈夫なんだろうな。


なぜか閑散。


紀伊国名所図絵に描かれた「現・丹生官省符神社」

本地堂、大黒堂等のお寺の建物が並んでいますが、これは明治の神仏分離時に除却。

よって、閑散。


右側が、本地堂があった付近。

弘仁7年(816)弘法大師(空海)による創建。

慈尊院丹生高野明神社、丹生七社大明神、丹生神社、と名称は変遷したものの、高野山金剛峯寺の官省符荘の鎮守総社として栄えました。

現在の「丹生官省符神社」の名称は、明治以降。


鳥居には、「丹生神社」


石燈籠には、「丹生七社大明神」


あちあちです。


手水鉢が池の中に。あらびっくり。


明治の神仏分離等により、天文10年(1541)再建の本殿のうち三棟のみが、現存。重文。

祭神の丹生都比売大神は、高野山の地主。

高野御子大神は丹生都比売大神の子で、空海を導いた神様。


東寺から出発し、白黒わんこ連れの狩人(高野御子大神の化身)の案内で高野山という土地に出会った空海。


その瞬間の図。


紀州犬かしら?


・・・こら。


こらっ。

たびたびご登場のまるまる白黒わんこは、丹生都比売神社のおみくじです。

あ、そういえばおみくじを見てないっ。



いつも応援いただきありがとうございます。
夏の盛りに石段を上るのは、暑さ百倍ですねー。飲み物持参でお詣りしないと、きけんきけん。度重なる川の氾濫により、慈尊院は創建当初よりも高台に移動しています。こんもりと育った木々で視界が遮られていますが、名所図絵のままの慈尊院と丹生官省符神社の配置にわくわくしました。

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高野山の官省符荘と九度山の真田信繁。お腹痛いの

こんにちは。

さて。高野山と丹生都比売神社(旧・天野社)と慈尊院。


三つを結ぶものは無論、空海の高野山開山ですが、


この人もいます。

関ヶ原後に高野山へ飛ばされた信繁親子。

女人禁制の高野山を降り、麓の九度山に移り住みます。


ものすごく山の中かというと、そうでもない。

北に紀の川が流れ南に高野山があり、わりとぺたんことした地形が細長く続きます。

九度山は、高野山金剛峯寺の官省符荘、つまり荘園。

寛弘元年(1004)に、寺田としての領有と臨時雑役免除の太政官符が出された事に始まる官省符荘は、金剛峯寺が直接治めます。

広大な官省符地を管轄したのが慈尊院に置かれた政所(後に高野山山上へ移動)で、官省符荘の鎮守として置かれたのが、現在の「丹生官省符神社」。


慈尊院の多宝塔横の石段の上に


鎮座してます。

官省符荘は天正18年(1590)に豊臣政権により一時没収されますが、改めて「寺領」としてほぼ同地が与えられます。

これは、江戸時代にも残りました。

そんな九度山に暮らした真田親子。


その地に残る、通称「真田庵」。


真田地主大権現の横に、父・昌幸の墓所。


紀伊国名所図絵「九度山地蔵堂/真田の旧跡」

矢印が、昌幸の墓所。

九度山に暮らした真田信繁の書状が、真田家ゆかりの蓮華定院所蔵のものとして高野山霊宝館に保管されています。


こんなお約束をしていたようですが、


真田幸村書状「天野社詣り断り状」

内容は、お約束してた天野社(現・丹生都比売神社)への参詣について、ぽんぽん痛くて行けないの、というもの。


・・・子供かっ。


天野社が鎮座する地もまた、官省符荘。



霊宝館の展示で見たとき、あまりにかわいい内容なので、にやにやしてしまいました。

「天野社詣り断り状」は現在、真田丸の特集展示でどこかを廻っているようですが、「焼酎のふたはしっかり閉めてね」の書状と共に、高野山霊宝館での展示が多いです。


いつも応援いただきありがとうございます。
信繁が九度山へ来るのはドラマではまだ先のことですが、既に九度山は盛り上がっております。高野山開山に係わり、素晴らしい社殿が残る天野社と丹生官省符神社ですが、この機会にもっともっとたくさんの方が訪れたらいいなーっと思います。

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高野山と周辺のお手頃ごはん

こんにちは。

もう、凶器のような気温です。

奥さん、ベランダが41度になりました。


ぐったりです。


暑い暑い暑いあつーーーい!


こうやくん、頑張る。


壇上伽藍のお外には、ファミマやお菓子屋さんなどがありまして。

昔ながらの喫茶店あります。
聞こえる会話は、金剛峯寺の人事異動。


高野山といえば、精進料理をいただくのも楽しみですが

毎回それでは破産するので、


笹寿司が好きです。

椎茸や海老の佃煮が美味しいです。

これは龍神温泉に宿泊した時のものですが、お酒のアテにもなります♪

ごまとうふ、は、いろいろなものがありますが、やはり、生が一番美味しい♪

龍神温泉といえば、


こんな場所。


龍神温泉の上御殿は、紀州の殿様のお宿。

龍神温泉に来たときは


このお店の


鮎定食が楽しみなのです。


龍神温泉まで南下せずに、南東へ行くと


野迫川村。


夜はあまご定食とか


朝食にあまごの一夜干し。


野迫川村にコンビニはないので、お宿の朝ごはん。

山菜の佃煮、美味しかったなり。



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土曜日に京都国立博物館に丹後の仏様を見に行ったら、灼熱。もう、写真を撮るとかどこかへ立ち寄るなんて余裕は一切なくて、友人と「へい!タクシー!」。駅と博物館の往復だけして、帰ってきました。それでもぐったりです。

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九度山の慈尊院(2)鎌倉時代の石塔や板碑と信仰の形

こんにちは。


高野山案内犬ゴンちゃん。


慈尊院から高野山まで20数キロを歩いていたわんこ。


境内の片隅、大きな木の後ろに


石仏様がいっぱい。




謎の石。


いろいろと足りない五輪塔。


こちらは、弥勒堂西側の玉垣内にある鎌倉時代の五輪塔。

承安元年(1171)に慈尊院が全焼した後、灰塚として建てられたもの。


高野山奥の院、江戸期の五輪塔より地味。


多宝塔の奥にある板碑。

材質は緑泥片岩で、高さ2m弱。


左から文禄4年(1595)、元禄9年(1696)年等。

上の円三つは、阿弥陀三尊(勢至・阿弥陀・観音)の種子。

中央の「南無阿弥陀仏」の両側に「慈尊院六斎念佛結縁衆」の氏名。

※六斎(ろくさい)念仏

踊念仏の一種。
8・14・15・23・29・30の6日(六斎日)に行っていたもの。

特に、高野山山麓の下天野、九度山等付近の六斎念仏は、高野山と密接に関わる念仏信仰を今に伝えるものとして和歌山県の無形民俗文化財に指定。

多人数で鉦をたたきながら「南無阿弥陀仏」の文言を多様な旋律で唱えるもので、声明の古い形態を残しています。


中央は、明暦2年(1656)不食講結集の逆修供養板碑。

※不食講とは、不食供養を行う講。
不食供養とは、毎月1日の不食(断食)を3年3ヶ月あるいは千日行えば現世は安穏で、往生できるという信仰。


高野山百八十町石五輪卒塔婆/文永9年(1272)

慈尊院から高野山大塔まで180基ある町石の、最初の石。

この180町石から、カウントダウンしながら高野山へ向かう参道が高野山町石道。

町石は、五輪卒塔婆の形。


高野山山の上。町に溶け込んでおります。


紀伊国名所図絵にも、ほら。

慈尊院~高野山大塔、180町に180基
大塔~奥の院大師廟、36町に36基。


供養塔と混在。


ぼーっとしてると、貴重なものを見逃してしまう慈尊院。

ジソンインgo。


参考サイト
「石仏と石塔」様より「慈尊院」の頁
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/7460/wakayama-jisonin.htm


いつも応援いただきありがとうございます。
慈尊院は数度の焼失と川の氾濫により移築再建された歴史がありますが、様々な時代と多様な遺構があるので油断大敵。高野山町石は高野山へ向かう車道の脇に突然現れてびっくりすることも。高野山上では町のあちこちに信号機のように点在し、奥の院では、供養塔と混在。これを見ると、あー、高野山へ来たのねーっと実感します。

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九度山の慈尊院(1)下乗石と案内犬ゴン

こんにちは。


暑くてご機嫌ななめですが、

空海を高野山へ案内した狩場明神 with 白黒わんこと


神領を高野山へ貸した丹生都比売大神が祀られているのは


天野社。現在の丹生都比売神社。


「紀伊国名所図絵」の高野山周囲(下が北)

雨引山麓にあるのは、慈尊院。



弘仁7年(816)。空海による創建。

高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(寺務所)を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とした。(wikipediaより引用)



空海の母・阿刀氏(伝承では玉依御前)が、讃岐国多度郡(現:香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来ました。

が、当時の高野山は7里四方が女人禁制。

あらやだ、入れない。

よって、麓にあるこの政所に滞在。


高野山から20数キロあるにも関わらず、空海は頻繁に母を訪ねました。


それが、慈尊院から始まる高野山町石道。


一ヶ月に九度(=頻繁に)訪ねたので、「九度山」と名付けられたこの地。


そう。もうすぐこの人達がやって来る、九度山です。


ごめんください。


素朴な壁です。


門の側に、下乗石。「下」しか見えませんが、


神社やお寺で見かける、これです。

「紀伊国名所図会」に「下乗/法務権僧正定海」「建立/保延2年(※1136)」と記されている板碑。

定海は、平安時代末期の高野山座主。

天文9年(1542)の大洪水で流失した旧慈尊院の南門に建てられていたものの、現況は下半分を欠損。

定海僧正が保延2年(1136)に作らせたものであれば県内最古ですが、欠損のため確認出来ず。


危険です。


何か、いる。


高野山案内犬の、ゴンちゃんです。

平成元年頃から、空海が日々通った高野山町石道を案内したという元野良犬。

その距離、20数キロ。


慈尊院の鐘の音が好きだったので、ゴン。


やはり高野山はわんことご縁がありますねー。


いつも応援いただきありがとうございます。
いやぁ、暑いですねぇ。呼吸すると肺が痛いぐらいです。慈尊院を訪問した7月の連休も暑かったですが、日影に入ると涼しく感じました。今はもう、どこにいてもあつーいです。毎日20数キロを歩いていたゴン君ちゃんは、老衰のため平成14年に他界。野良犬だったので正確な年は不明ですが、十数年を慈尊院で過ごしています。

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高野山奥の院の石塔。搬入方法と高麗陣敵味方戦死者供養碑

こんにちは。


高野山奥の院。中の橋。


「紀伊国名所図絵」で数頁に渡って同じような絵が続くほど


無数の供養塔が立ち並んでおります。

図絵でも現地でも、松平、松平、松平。

素朴な感想「松平ってほんっとに全国にいるのねー」。


肥前島原松平家。


奥の院の供養塔は、江戸期の大名家が大半。

「藩の数は徳川家、御三家を含め259ありますが、そのなかの109の大名が高野山に供養塔を建てています」(「わかやま観光情報」)



石の裏側に刻まれた石屋の名前から、大阪16、泉州3、江戸2。


紀伊国名所図絵。「大石塔を運ぶ」図。

巨石に担い棒をくくりつけ、前後36人、合計72人で運んでいます。

これはたいへん。


【慶長3年(1598)】

3月15日。醍醐の花見。


花咲か爺さん by 秀吉。

8月18日、秀吉死去。

9月7日。方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に鎮守「八幡大菩薩堂」と称する社が建築開始(『義演准后日記』慶長3年9月7日条)by 木食応其上人。


異国の地では。


10月15日。秀吉の死を秘匿したまま五大老による帰国命令の発令。

同命令を受け、小西行長は明軍と無血撤退の約束を取り付けるも、海上封鎖による妨害を受け苦戦。

島津軍の引き揚げ船団の合流(露梁津の戦い)後、帰国。


【慶長4年(1599)3月】

三成、亡き母の菩提を弔うため焼失した経蔵を再建。


奥之院経蔵は弘法大師御廟に向って右(矢印部分)。

経蔵の内部に、本尊文殊菩薩騎獅像と八角形の回転式輪蔵、高麗版一切経6285帖(現存・重文)。

この頃、都では。

4月13日。秀吉の遺骸を伏見城から阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬
4月16日「豊国大明神」の神号付与
4月18日「遷宮の儀」、八幡大菩薩堂は「豊国神社」に改称。


6月。

帰国した島津義弘・忠恒(家久)父子。

高野山奥の院へ、敵味方の双方の戦没者の霊を慰めるために供養碑を建立。


「高麗陣敵味方戦死者供養碑」

島津家墓所の一角。

石材は琉球石。
高野山にあるはずのないこの石は、島津家が運び入れたもの。


いろいろな感想があるでしょうから、碑文は各々で読んでくだされ。



戦の最中は敵味方に分かれて戦っても、死した後は敵味方の区別なく同じように極楽往生されるという「怨親平等」とは、仏教の教え。

再び注目されたのは、明治。西南戦争の頃。

明治20年(1887)発足の日本赤十字社の前身「博愛社」の設立趣旨

博愛社設立趣旨(規則第4条)
「敵人ノ傷者ト雖モ救ヒ得ヘキ者ハ之ヲ収ムへシ」

に繋がるものとして、この供養碑は、国際赤十字社に加盟する際の加入根拠として利用されました。

⇒⇒⇒敵味方供養碑と赤十字
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-248.html

「博愛精神」なる西洋的なものに、神仏分離と廃仏毀釈に苦しむ仏教界が「それなら、昔からありますよ」と光明を見出だした感じがしないでもない。


いつも応援いただきありがとうございます。
2年前に記事にした時は碑文がわからなかったので、再び書いてみました。前記事を読むと、今より素直な私がいる。はずかしー。供養碑と碑文については、まあ、いろいろな解釈があるので、私見は控えます。

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紀伊国名所図絵と高野山

こんにちは。


丹生都比売神社等で引用してきた「紀伊国名所図絵」。


現存建造物と比較するとよくわかります。


当時の神事等が描かれていたり、


丹生都比売大神が空海に神領を貸す由緒があったり、楽しいです。


蟻通神社の自然石の狛犬さんは、


ほんとにでっかいなーとか、観音堂と鐘楼があったんだーとか。


残るもの失われたもの、いろいろです。


紀伊国名所図絵は、江戸時代後期に和歌山城下の書肆・帯屋伊兵衛(高市志友)によって企画された紀伊国全体に関する地誌。

紀伊藩領だけでなく高野山寺領についても掲載があります。

初編と二編(高市志友編)は文化9年(1812)
三編(加納諸平編)は天保9年(1838)
後編(加納諸平・神野易興編)は嘉永4年(1851)の刊行。

広範な地名や寺社について掲載しており、『紀伊続風土記』とならび、江戸時代後期の紀州に関する基本的文献の一つに数えられています。(文化遺産オンライン「紀伊国名所図絵」より引用)



全体像を把握するのにも便利。


不動坂の女人堂。禁煙じゃないらしい。

女人禁制の高野山ですから「高野七口」(七つの参道の入口)に設置。

白黒わんこがいるのは、もしかして


この子達をちょっと入れてみたのかしら。うふふ。


壇上伽藍の山王院にも、わんこ。


現存建造物と比較すると、非常に緻密に描かれていることがわかります。


高野山奥の院の一部。

ひとつずつに氏名が記されています。

徳川家が高野山大徳寺に東照宮を勧請し廟所を設けたことから、これに倣えと各大名家がこぞって奥の院に供養塔を建てたのが、今の奥の院の光景。

無論、それ以前のものも多数ありますが、名所図絵で奥の院を見ると、松平や譜代の多さが目立ちます。


画像、中央上に見える大きな五輪塔が、


お江(崇源院)の墓所。画像だと大きさが伝わりません(泣)。


お江のそばに、千姫(天樹院)墓所。

徳川全盛の中で、豊臣家のものはどうなっていたのか、つづく。


紀伊国名所図絵は、国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563500


いつも応援いただきありがとうございます。
名所図絵は紀伊国の他にも各地あり、あちこちの神社等の画像を眺めていたらエンドレス。由緒等も記載があるので、さらにエンドレス。高野山は奥の院から大門までの道に沿ってまるで地図のような図絵が並んでいます。天秤棒を担いだ人や馬を連れた人が往来し、お掃除する僧侶にちょこちょこ現れるわんこ。面白いです。

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丹生都比売神社(6)合祀された境内社の佐波神社

こんにちは。

さぁて。神仏分離の後に来るのは、神社合祀です。

丹生都比売神社境内にも、あります。


それが、楼門に向かって左側の佐波神社。

二つ鳥居は、高野山町石道と天野社(丹生都比売神社)との分岐点。


もしゃもしゃの中。



明治時代に、上天野地区のお社を合祀したそうです。


何柱が合祀されたのかはわかりませんが、かわいいお社です。


もし、毎日「こんにちは♪」とご挨拶している神様が、無理矢理合祀されてしまったら。

空洞になった元のお社の鎮守の杜は二束三文で売り払われて、社殿はどこかで薪になってしまったら。

悲しいな。

それが、神社合祀というものです。


あ、狛ちゃん?


こ、こ、こ、こまぶーさん?


木像のかわいい子です。


やけ酒ですか?


素朴なのに、見る角度によって表情が変わる気がします。


きゃっ。


えーっと。山犬?



狛犬さんがどこから来たのか、あるいは新しく作られたのかは不明ながら、ちゃんとお社と神様をお守りする狛犬さんがいるのは、何だか安心。


あっちこっちにセミの脱け殻、の季節です。

さて、上天野地区の合祀先がここなら、下天野地区は八幡神社。


明治41年、村内無格社5社を、当神社に合祀。


⇒⇒⇒記事はこちら→→下天野の八幡神社
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-958.html



二つ鳥居は、

慈尊院から始まる高野山町石道より丹生都比売神社へ至る分岐点。

下天野の八幡神社は、かつては本地堂・神宮寺があるお社だったようです。



明治の神仏分離で本地堂・神宮寺は廃され、仏像などは下天野延命寺に遷座し、現存するそうです。

阿弥陀如来坐像(平安前期):下天野八幡社本地堂旧仏と推定(「八幡寺旧蔵仏像仏具移転目録」、「本地堂古仏修復勧化帳」元禄17年)

十一面観音立像(平安前期):下天野八幡社神宮寺旧仏と推定(「八幡寺旧蔵仏像仏具移転目録」)

観音菩薩立像(平安前期):下天野八幡社神宮寺旧仏と推定(「八幡寺旧蔵仏像仏具移転目録」)

持国天・多門天立像(ニ躯、平安前期):下天野八幡社神宮寺旧仏と推定(「八幡寺旧蔵仏像仏具移転目録」)

「がらくた置場」minaga様より引用
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_amanosya.htm


いつも応援いただきありがとうございます。
思いがけずかわいいちっちゃな狛犬さんに出会えて、とっても幸せ。素朴な可愛らしさが何とも言えない、味わい深い子達でした。分離前の下天野の八幡神社神宮寺にまつられていた仏様達がご無事なのは何よりです。しかし、個人で、集落で守っていく難しさは今後もっと現実的になっていくと思います。せっかく難を逃れた大切な仏様の保護を真剣に考えなくてはならないけれど具体的にどうするのか。大きな課題です。

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丹生都比売神社(5)修験道の交差点。五輪卒塔婆と光明真言板碑

こんにちは。


神仏分離クラッシュの後に残ったもの。

何があるのかな。


一番奥に、ぽつん。


この一角に並ぶ石塔群が、丹生都比売神社に残る唯一の仏教色。

左が光明真言板碑。4本の五輪卒塔婆。


光明真言板碑は、名所図絵とほぼ同じ位置。


寛文2年(1662)高さ 240cm。

光明真言曼荼羅碑、ともいうそうです。


中心の梵字は、向かって中央・下・左・上・右、と読む五つの梵字(地・水・火・風・空の五大種子)で、

大日如来の報身真言である、
五字真言(अ वि र, हूं खां、a vi ra hum kham、ア・ビ・ラ・ウン・ケン)。

大日如来は密教で一番大切な仏様。


高野山奥の院の五輪塔にも

下から、五つの梵字(地・水・火・風・空の五大種子)。

※種子
種子(しゅじ)とは密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)(wikipediaより引用)



周りを囲む円形の部分は、中央下(6時の位置)から時計回りに光明真言24梵字。

オーン 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ
オン アボキャ ベイロシャノウ 
唵 阿謨伽 尾盧左曩

偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ
マカボダラ マニ ハンドマ
摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽

光明を 放ち給え フーン (聖音)
ジンバラ ハラバリタヤ ウン
入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽

(wikipediaより引用)

だそうな。


「ボローン(一字金輪)」と「キリーク」


ええ、私もよくわかりませんが、

・・・「光明真言」を刻んだ「板碑」ってことで。



天野社絵図(寛政5年(1793)墨書/高野山金剛峰寺蔵)

左下の長い建物は神仏分離時に失われましたが、

《行者堂(長床)》
西の端に行者堂。役行者と義覺の像を安置。

葛城先達の行所でした。

高野山の三つの構成員「学侶・行人・聖」のうちの「行人」から修験が育まれます。

特にここ、天野社(現・丹生郡比売神社)の「長床」を拠点とした「長床衆」と呼ばれる修験者は「葛城先達」として知られていました。

丹生都比売神社が位置するのは、

北へ行けば、葛城修験道の場所。
東へ行けば、山上ヶ岳を中心とする大峰修験道の場所。



右側2本は五輪上部が落ちてますが、五輪卒塔婆。

4本の五輪卒塔婆は大峰修験者が大峰入峯に際し建立。(現地説明板より)

ここから大峯山系へは険しい山々を越えて東へ。


修験道との繋がりを示す遺構です。


五輪卒塔婆には、先達と参加人数。

右から(現地説明板による)

延元元年(1336)。南北朝時代初期。花崗岩。「泰助」他30名

正安4年(1302)。鎌倉後期。花崗岩。「定慶」他170名

ひとつおいて、

正応6年(1293)。鎌倉後期。安山岩。「幸明」他90名

文保3年(1319)。鎌倉後期。花崗岩。「覚祐」他180名



一番右の五輪卒塔婆正面上部に刻まれているのは出典不詳の、偈(げ)。

《偈(げ)》

「我今依於大教主(がこんえおだいきょうしゅ)
 遍照如来成道法(へんじょうにょらいじょうどうほう)
 若能依此勝義修(にゃくのうえししょうぎしゅ)
 現世得成無上覚(げんせとくじょうむじょうがく)」

『我れ今、大教主(大日如来)により、遍照如来の道法を成ず。
もしよく此の勝義を修ずれば、現世に無上覚(悟りをひらくこと)を成じうる 』

※出典/「石仏と石塔」様より「丹生都比売神社五輪卒塔婆群と板碑」
http://www.geocities.jp/kawai24jp/wakayama-niutuhimejinjya.htm


元は、黄色の丸の場所に立っていました。

が、明治の神仏分離の際に現在地へ移動。

白丸の場所、鳥居の足元には1対、ふたつの護摩鉢。


ここへ移動されてます。


多宝塔の礎石かと思ったら、護摩鉢。

元は1対。

保存されてます、と言いたいところですが、放置気味。


脇ノ宿石厨子。

元は脇ノ宿にあり、役行者を祀った石祠。寛政2年(1790)の銘。


役行者は、修験道の始まりの人。


自然石板碑。

中央上部に大きく「वं」、金剛界大日如来の種子。


石仏様。


隅っこに追いやられてますが、大切な遺構です。

大きな石塔は、神仏分離の時に競売でも売れず破壊するのも面倒だから残った、のかも。

不幸中の幸い、かな。


石段にされることもなくよかったよかった、と言ってあげましょう。


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多宝塔等が建ち並んでいた一角に並ぶ石塔卒塔婆群。画像では小さく感じますが、高さ2mを超える大きなものでした。ここの位置が葛城山系と大峯山系の中間点にあたり、双方の修験者達が交差した所が面白いです。それにしても、文保3年(1319)の大峰修験者の一行が180名の団体さんだとは、びっくりです。先達さんの気苦労やいかに?

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