丹生都比売神社(4)神仏分離②競売、破壊、破却
こんにちは。

現在の丹生都比売神社。ちなみに下が北。

天野社絵図(寛政5年(1793)墨書/高野山金剛峰寺蔵)
東から北にかけて(図の左下)多宝塔等が建ち並んでいます。

明治の神仏分離の波は丹生都比売神社にも容赦なく。
「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)
「是月、伊都郡天野村丹生都比売神社ノ両部混祭ヲ改正シ、・・・・・
其祀ル所ノ仏像ヲ悉ク之ヲ廃シ、・・・・其摂祀スル所ノ山王堂ヲ日枝神社ト改称シ、其他仏観規画ニ係ル祀殿、十二社王子ニ社・百二十蕃神一社、荒神社一社、堂御影堂、不動堂、塔多宝塔、経蔵等数宇ヲ毀撤シ、以テ社境ヲ一新セリ、・・・・ 」
【「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)の結果】
境内の仏像の多くは高野山に運ばれたようですが、翌年、翌々年に行われた競売で建物と共に売り払われたものもあり。
御影堂に安置されていた弘法大師坐像は、競売の後、大師堂とともに、檀上伽藍の塔頭・普門院へ移動。
建物は建て替えられ、一部建材が残るのみ。
弘法大師坐像は現存。
御影堂を初めとして、多宝塔、経堂、不動堂など多くの建物は競売に出され、売れ残ったものは破壊。

今日はクラッシュされたものを見てみます。
場所は、

楼門に向かって左側(東側)の

木々の向こう。

紀伊国名所図会(三編巻之4/天野社)
主だった建造物のみ見ていくと

《行者堂(長床)》
西の端に行者堂。役行者と義覺の像を安置。葛城先達の行所。
《不動堂》(略)
《山王堂》(本地堂、曼陀羅院)
空海の草創とも東三條院御願の堂とも伝わる。
四社明神の本地仏である、胎蔵界大日如來・金剛界大日如來・千手觀音・辨財天女を安置する。

現在、野となっております。

《多宝塔》
10世紀中頃建立。本尊・大日如來を祀る。
《御影堂》
1211年、北条政子による建立。弘法大師坐像を安置。

もしゃもしゃしてますが、目を細くしてご覧ください。

振り返って楼門方向を見ると、こんな感じ。
minaga様のサイトに、神仏分離で仏堂などが棄却される直前の絵図が掲載されていました。

天野社境内配置図
これは、神仏分離で仏堂などが棄却される直前に、当時の宮司丹生珍彦が記録のため作成したといわれる詳細図。
見ると、

今も流れる小川をはさんで、
多数の堂于が本殿側を向いて建ち並んでいます。
また、
楼門の右下(北西)に、楽屋と能舞台、鐘楼。

紀伊国名所図会(三編巻之4/天野社)の「天野社神事能」
図絵には「毎年6月17・18日興行」とあります。
大勢の見物客の中に、多数の僧侶の姿。

舞楽の時には、楼門下(本殿前)に大勢の僧侶達。
こんな光景が「珍しい!」と思ってしまうのは、それは違う。
これで、普通だったのです。

さらに、「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)では
「其他仏観規画ニ係ル祀殿」「十二社王子ニ社・百二十蕃神一社、荒神社一社」とあるように、神仏習合色のある境内のお社すら整理されました。

楼門と本殿は素晴らしい丹生都比売神社ですが、

これでは高野山との深い繋がりを説かれても、わかりません。
すっかすか。

なくなっちゃったんだよ。

残っているのは、板碑と卒塔婆。
つづく。
参考サイト
「がらくた置場」minaga様
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_amanosya.htm
いつも応援いただきありがとうございます。
丹生都比売神社は、何度も書いているように高野山との繋がりが深く、それがこのお社の大きな特徴であり魅力です。それが神仏分離により仏教色を一掃した結果、歴史的な意味も価値もへったくれもない現状になってしまいました。数百年も大切に守られてきたものを、いとも容易く破壊するとは、何とも愚かなことをしでかしたものですね。



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

現在の丹生都比売神社。ちなみに下が北。

天野社絵図(寛政5年(1793)墨書/高野山金剛峰寺蔵)
東から北にかけて(図の左下)多宝塔等が建ち並んでいます。

明治の神仏分離の波は丹生都比売神社にも容赦なく。
「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)
「是月、伊都郡天野村丹生都比売神社ノ両部混祭ヲ改正シ、・・・・・
其祀ル所ノ仏像ヲ悉ク之ヲ廃シ、・・・・其摂祀スル所ノ山王堂ヲ日枝神社ト改称シ、其他仏観規画ニ係ル祀殿、十二社王子ニ社・百二十蕃神一社、荒神社一社、堂御影堂、不動堂、塔多宝塔、経蔵等数宇ヲ毀撤シ、以テ社境ヲ一新セリ、・・・・ 」
【「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)の結果】
境内の仏像の多くは高野山に運ばれたようですが、翌年、翌々年に行われた競売で建物と共に売り払われたものもあり。
御影堂に安置されていた弘法大師坐像は、競売の後、大師堂とともに、檀上伽藍の塔頭・普門院へ移動。
建物は建て替えられ、一部建材が残るのみ。
弘法大師坐像は現存。
御影堂を初めとして、多宝塔、経堂、不動堂など多くの建物は競売に出され、売れ残ったものは破壊。

今日はクラッシュされたものを見てみます。
場所は、

楼門に向かって左側(東側)の

木々の向こう。

紀伊国名所図会(三編巻之4/天野社)
主だった建造物のみ見ていくと

《行者堂(長床)》
西の端に行者堂。役行者と義覺の像を安置。葛城先達の行所。
《不動堂》(略)
《山王堂》(本地堂、曼陀羅院)
空海の草創とも東三條院御願の堂とも伝わる。
四社明神の本地仏である、胎蔵界大日如來・金剛界大日如來・千手觀音・辨財天女を安置する。

現在、野となっております。

《多宝塔》
10世紀中頃建立。本尊・大日如來を祀る。
《御影堂》
1211年、北条政子による建立。弘法大師坐像を安置。

もしゃもしゃしてますが、目を細くしてご覧ください。

振り返って楼門方向を見ると、こんな感じ。
minaga様のサイトに、神仏分離で仏堂などが棄却される直前の絵図が掲載されていました。

天野社境内配置図
これは、神仏分離で仏堂などが棄却される直前に、当時の宮司丹生珍彦が記録のため作成したといわれる詳細図。
見ると、

今も流れる小川をはさんで、
多数の堂于が本殿側を向いて建ち並んでいます。
また、
楼門の右下(北西)に、楽屋と能舞台、鐘楼。

紀伊国名所図会(三編巻之4/天野社)の「天野社神事能」
図絵には「毎年6月17・18日興行」とあります。
大勢の見物客の中に、多数の僧侶の姿。

舞楽の時には、楼門下(本殿前)に大勢の僧侶達。
こんな光景が「珍しい!」と思ってしまうのは、それは違う。
これで、普通だったのです。

さらに、「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)では
「其他仏観規画ニ係ル祀殿」「十二社王子ニ社・百二十蕃神一社、荒神社一社」とあるように、神仏習合色のある境内のお社すら整理されました。

楼門と本殿は素晴らしい丹生都比売神社ですが、

これでは高野山との深い繋がりを説かれても、わかりません。
すっかすか。

なくなっちゃったんだよ。

残っているのは、板碑と卒塔婆。
つづく。
参考サイト
「がらくた置場」minaga様
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_amanosya.htm
いつも応援いただきありがとうございます。
丹生都比売神社は、何度も書いているように高野山との繋がりが深く、それがこのお社の大きな特徴であり魅力です。それが神仏分離により仏教色を一掃した結果、歴史的な意味も価値もへったくれもない現状になってしまいました。数百年も大切に守られてきたものを、いとも容易く破壊するとは、何とも愚かなことをしでかしたものですね。



お手数をおかけ致します。ありがとうございます。