FC2ブログ

丹生都比売神社(4)神仏分離②競売、破壊、破却

こんにちは。


現在の丹生都比売神社。ちなみに下が北。


天野社絵図(寛政5年(1793)墨書/高野山金剛峰寺蔵)

東から北にかけて(図の左下)多宝塔等が建ち並んでいます。



明治の神仏分離の波は丹生都比売神社にも容赦なく。


「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)

「是月、伊都郡天野村丹生都比売神社ノ両部混祭ヲ改正シ、・・・・・
其祀ル所ノ仏像ヲ悉ク之ヲ廃シ、・・・・其摂祀スル所ノ山王堂ヲ日枝神社ト改称シ、其他仏観規画ニ係ル祀殿、十二社王子ニ社・百二十蕃神一社、荒神社一社、堂御影堂、不動堂、塔多宝塔、経蔵等数宇ヲ毀撤シ、以テ社境ヲ一新セリ、・・・・ 」



【「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)の結果】

境内の仏像の多くは高野山に運ばれたようですが、翌年、翌々年に行われた競売で建物と共に売り払われたものもあり。

御影堂に安置されていた弘法大師坐像は、競売の後、大師堂とともに、檀上伽藍の塔頭・普門院へ移動。

建物は建て替えられ、一部建材が残るのみ。
弘法大師坐像は現存。


御影堂を初めとして、多宝塔、経堂、不動堂など多くの建物は競売に出され、売れ残ったものは破壊。



今日はクラッシュされたものを見てみます。

場所は、


楼門に向かって左側(東側)の


木々の向こう。


紀伊国名所図会(三編巻之4/天野社)

主だった建造物のみ見ていくと



《行者堂(長床)》
西の端に行者堂。役行者と義覺の像を安置。葛城先達の行所。

《不動堂》(略)

《山王堂》(本地堂、曼陀羅院)
空海の草創とも東三條院御願の堂とも伝わる。

四社明神の本地仏である、胎蔵界大日如來・金剛界大日如來・千手觀音・辨財天女を安置する。


現在、野となっております。



《多宝塔》
10世紀中頃建立。本尊・大日如來を祀る。

《御影堂》
1211年、北条政子による建立。弘法大師坐像を安置。


もしゃもしゃしてますが、目を細くしてご覧ください。


振り返って楼門方向を見ると、こんな感じ。


minaga様のサイトに、神仏分離で仏堂などが棄却される直前の絵図が掲載されていました。


天野社境内配置図

これは、神仏分離で仏堂などが棄却される直前に、当時の宮司丹生珍彦が記録のため作成したといわれる詳細図。

見ると、


今も流れる小川をはさんで、

多数の堂于が本殿側を向いて建ち並んでいます。

また、

楼門の右下(北西)に、楽屋と能舞台、鐘楼。


紀伊国名所図会(三編巻之4/天野社)の「天野社神事能」

図絵には「毎年6月17・18日興行」とあります。

大勢の見物客の中に、多数の僧侶の姿。


舞楽の時には、楼門下(本殿前)に大勢の僧侶達。

こんな光景が「珍しい!」と思ってしまうのは、それは違う。

これで、普通だったのです。



さらに、「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)では

「其他仏観規画ニ係ル祀殿」「十二社王子ニ社・百二十蕃神一社、荒神社一社」とあるように、神仏習合色のある境内のお社すら整理されました。


楼門と本殿は素晴らしい丹生都比売神社ですが、


これでは高野山との深い繋がりを説かれても、わかりません。

すっかすか。


なくなっちゃったんだよ。


残っているのは、板碑と卒塔婆。

つづく。


参考サイト
「がらくた置場」minaga様
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_amanosya.htm


いつも応援いただきありがとうございます。
丹生都比売神社は、何度も書いているように高野山との繋がりが深く、それがこのお社の大きな特徴であり魅力です。それが神仏分離により仏教色を一掃した結果、歴史的な意味も価値もへったくれもない現状になってしまいました。数百年も大切に守られてきたものを、いとも容易く破壊するとは、何とも愚かなことをしでかしたものですね。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

丹生都比売神社(3)神仏分離①法令

こんにちは。

【明治の神仏分離概要】

政治背景として、幕末より「神社の復興・廃仏」を唱えた後期国学者や復古神道家の台頭があり、彼等は性急に諸法令を布告させ、実行に移します。

神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われます。

祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などを急激に実施したために大混乱。

当初は「神道と仏教の分離」が目的で、仏教排斥を意図したものではなかったものの、結果的に廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまいます。

明治4年(1871)ごろ終熄したものの、あまりにも影響は大き過ぎたのです。


各法令を見てみましょう。


「王政復古の太政官布告」

【太政官布告】慶応四年三月十三日

「此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事
但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事」


まず、「王政復古・祭政一致」を宣言し、「神祇官」の再興が「太政官布告」の形で示されます。

明治政府は「古代の律令制に基づく官制」を目指し、太政官制を採用。
明治2年(1869年)6月には、神祇官は太政官から独立して、行政機関の筆頭に置かれます。

太政官布告により、全ての神社は、この神祇官に属することを定められます。

「王政復古・祭政一致」の宣言された新政府の下での神祇官は「太政官から独立した行政機関の筆頭」という存在として登場するのです。


「神祇事務局から諸社に対し、別当・社僧の復飾の達」

【神祇事務局ヨリ諸社ヘ達】 慶応四年三月十七日

今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也


復飾とは、僧侶が還俗すること。

神社に於ける僧職の復飾の命令が発せられます。


【神祇官事務局達】 慶応四年三月二十八日

一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被仰出候事



神祇事務局から命じた事は

一、権現号あるいは牛頭天王号(共に仏教語)の廃止(仏教語を神号とすることの禁止)
二、仏像を神体とすることの停止(禁止)
三、本地仏・鰐口・梵鐘・仏器などを取除くこと(禁止)


これに便乗して、滋賀県の日吉山王社のような過激な神仏分離が多発したため、
「【太政官布告】慶応四年四月十日」において、再度「神仏分離・神仏判然」の主旨を述べ、神仏分離の実施に当っては「穏ニ取扱べし」と命じています。


【丹生都比売神社の神仏分離】


母が地主で息子が案内人の、丹生都比売神社。

高野山の鎮守として崇敬を集めているお社です。

明治の神仏分離までは、天野社。あるいは、四社明神。


その名の通り、本殿は、第一殿から第四殿。


楼門と共に重文。


江戸時代。

多宝塔等の寺院建築が並びます。

ポイントは、ソフト面でもハード面でも、当時は当たり前であった神仏習合の姿であったこと。


紀伊国名所図絵より、天野社舞楽の図。

楼門(本殿前)に僧達が並び、神前に舞楽を奉納しています。


《近世(神仏分離前)の天野社の職掌》

第一殿から第四殿に対応した4人の祝と高野山からの下向僧である社務・院主・天野供僧・両壇行法師・郷供僧および神社側の社家・宮仕・神楽男などで構成。

これ等の関係者は社の周囲に屋敷を構えていました。

祝家:惣神主(一の祝)、ニの祝、三の祝、四の祝
宮仕:杉本坊、安養坊、花之坊、上之坊、三宝院?、里之坊
郷(さと)供僧:桜本坊、奥之坊、玉本坊、澤之坊、幣之坊、柳之坊
社家:森山など12家

このように、神職とそれより多数の僧達が奉仕していました。(※1)



楼門の東側に、木々の生い茂る所。


こちら側に、今は破却された建物群がありました。


紀伊国名所図会(三編巻之4/天野社)

左下の部分、御影堂・多宝塔・護摩堂・山王社等が並びます。



明治の神仏分離の波は丹生都比売神社にも及びます。


「丹生都比売神社の神仏分離につき達」(明治5年)

「是月、伊都郡天野村丹生都比売神社ノ両部混祭ヲ改正シ、・・・・・
其祀ル所ノ仏像ヲ悉ク之ヲ廃シ、・・・・其摂祀スル所ノ山王堂ヲ日枝神社ト改称シ、其他仏観規画ニ係ル祀殿、十二社王子ニ社・百二十蕃神一社、荒神社一社、堂御影堂、不動堂、塔多宝塔、経蔵等数宇ヲ毀撤シ、以テ社境ヲ一新セリ、・・・・ 」



悉く「毀撤シ、以テ社境ヲ一新セリ」された結果、


現在。すかっと。

それでも、何となく雰囲気が残っている場所はあるので、



つづく。


※1
「中世高野山における神仏関係-天野社・御社の造営を通じて-」太田直之(「『日本文化と神道3』」国学院大学/平成18年所収)
引用は「がらくた置場」minaga様より
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_amanosya.htm

参考サイト
「がらくた置場」minaga様
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_amanosya.htm


いつも応援いただきありがとうございます。
私にしては珍しく、文字がたくさんです。途中で気絶してしまいました。えへへ。それにしても今年は空気が乾燥しているのか涼しく感じますねー。毎晩、扇風機だけで過ごすことが出来て、快適です。いや、すごく快適ではないけど、エアコンなしでいられるのは体が楽ですね。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

丹生都比売神社(2)由緒と祭神

こんにちは。

丹生都比売神社その2。


あかーい。



【由緒】(丹生都比売神社HPより)

この天野の地へ鎮座したのは、今から1700年前のこと。

丹生都比売大神は、天照大御神の妹神で稚日女命(わかひるめのみこと)ともいい、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座。(『丹生大明神祝詞』天平時代)

神功皇后出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝。
これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進。(『播磨国風土記』)



【丹生の「丹」】(丹生都比売神社HPより)

「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱。

丹生都比売大神は、日本全国の朱砂を支配する一族が祀る神とされ、朱の鉱脈のある所に「丹生」の地名と神社。

全国に、丹生神社は88社、丹生都比売大神を祀る神社は108社、摂末社を入れると180余社。

ここ、丹生都比売神社は、その総本社。



楼門は、重文。


・・・お賽銭箱。


その前に、無数の盃状穴が穿たれた石。


見えません。


こっちへ行くと、本殿を拝見できる場所が設けられています。

きっと皆があっちこっちから覗くからですね。すみません。


丹生都比売神社、本殿。

(奥から)

第一殿 丹生都比売大神(丹生明神)

第二殿 高野御子大神(狩場明神)

第三殿 大食都比売大神(気比明神)

第四殿 市杵島比売大神(厳島明神) 

若 宮 行勝上人

※鎌倉時代に、行勝上人が、気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神を勧請。北条政子による社殿寄進。

現存本殿は、室町時代。
一間社春日造で、日本一の規模を誇る。重文。


くぅー、見事ですっ。


くううううーっ(見えない)。


【高野山と丹生都比売神社】


第一殿の丹生都比売大神が、空海に神領を貸した地主神様で、


第二殿の高野御子大神が、空海を高野山へ狩人に化けて導いた神様。

with白黒わんこ。

丹生・高野両明神は高野山の鎮守として永くその仏法を守護する存在となり、


高野山の壇上伽藍、御社にも祀られます。

ということは、

この神社と高野山との繋がりは、強い。


高野山参詣案内図(推定江戸期/高野山大学図書館蔵)

天野社は、旧社名。

空海の母を祀る慈尊院から、この天野社へおまいりして高野山へ。

案内図に多宝塔等が見えるように、天野社はかつて当たり前であった神と仏が共存する神仏習合の姿。

中世、丹生都比売神社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ、五十六人の神主と僧侶が守っておりました。


寛政5年(1793)墨書、高野山金剛峰寺蔵

多宝塔(10世紀中頃建立)、御影堂(1211年北条政子による建立)等多数の堂于が見えます。


そこへ、いつもの神仏分離です。

クラッシャーです。


現在。

・・・あーあ。

ちなみに、明治の神仏分離までは「天野社」と称していたものが、この時から「丹生都比売神社」に。

つづく。


画像引用
「がらくた置場」minaga様よりお借りしました。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_amanosya.htm


いつも応援いただきありがとうございます。
丹生都比売神社は、平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の「丹生都比売神社境内」として世界遺産へ登録されています。楼門、本殿の素晴らしさは表現しがたいものがありました。が、うーん。うーん。悩みつつ次へつづく。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

丹生都比売神社(1)高野山と白黒わんこ

こんにちは。

涼しい高野山から山を下り、あちーあちーとブツブツ言いつつ。

標高450mの盆地「天野」地域へ。


何だか微妙に暑苦しい風景ですが、鏡池。


どんっ。


鬱蒼とした森が正面に。


昔、ずりっと滑ったもので。ほほほ。


緑を越えたら、


二の鳥居と、遠くに楼門。


おはよー。


あら、かわいい。


この子達は平成5年の奉納です。

というのも、


先代さんは、戦争で供出され、戻らなかったそうです。


可哀想なお話です。


ほんとだね。ずーっといたいね。

興味をひかれたのは、こちら。


新しい狛犬さんを奉納した方々。

高野山金剛峯寺をはじめとする高野山の寺院、住職会、など。
(※天野社は丹生都比売神社の旧社名)



高野山の西の高台、天野に位置する丹生都比売神社は高野山と繋がりの深い神社。



密教の根本道場の地を求めていた空海。


白黒わんこに出会います。

飼い主は、狩人に化身して現れた、丹生都比売大神の子「高野御子大神」。


高野山へと導きます。

空海は、丹生都比売大神から「神領である高野山」を借受け、
真言密教の総本山高野山を開きました。

いわば、丹生都比売大神は地主さん。



お礼に空海は、


山上の大伽藍に


大神の御社(みやしろ)を建て守護神として祀ります。

一宮「丹生明神」、二宮「高野明神」、三宮「十二王子・百二十伴神」


御社の狛犬さんは、お供の案内犬・クロ&シロちゃん。


このような経緯により、御社は高野山の中で大変重要な場所。

その大神を祀る丹生都比売神社との繋がりが今でも非常に強い、という事を狛犬さんの銘板で改めて思いました。


いや、酒樽の銘柄は何かな?っと。ほほ。


いつも応援いただきありがとうございます。
高野山から山を下りるにつれぐんぐん上がる気温にびっくりでした。1枚目の画像は、うへぇー、あちぃーっと思いながらご覧ください。そして、楼門の画像が遠いのは、木陰から出たくないから。えへへ。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

蟻通神社(かつらぎ町)蟻通伝説と自然石のでっかい狛犬

こんにちは。


和歌山県かつらぎ町の蟻通神社。

高野山から九度山へ行く途中に立ち寄りました。


割拝殿と本殿の間に、茅の輪。


【由緒】

開化天皇の頃、当村字畑山(旧古宮山)に勧請。
旧志冨田の庄の総産土神として崇敬される。

崇神天皇の頃、天下疫病多く起ったため勅を以て天神地祗の祭場を設け、意冨多々泥古神を神主とし、拝祭。

故に古は、意冨多々泥古神を祭れるより意冨多村と称す、其後建武の頃より志冨多村と書き、初め明治の御代に至り、今の如く渋田と改称される。(おおた→しとた→しぶた)

天正9年(1581)。織田信長の高野攻めの際、兵火にかかり、本殿御輿庫社務所を焼失し、宝物、古文書類灰となる。

文禄2年(1593)正月、現在地に本殿脇社を建て遷座。


意冨多々泥古神

活玉依比売の末裔とされる意富多多泥古(おおたたねこ)。

崇神天皇のとき、天変地異や疫病が流行。
神孫の意富多多泥古を神主として、三輪山で大物主の御魂を祭らせたところ、天下の平安を得た。(『古事記』)

これが現在の大神神社で、『古事記』では、三輪大神は意富美和之大神。



こまちゃーん。


夏だねー。

夏と言えば、蟻さんだねー。

ってとこで。


《蟻通神社の名前の由来》

天武天皇の時代。

唐の高宗から「七曲りの玉」を献じられ、これに糸を通して返せと難題をかけられた。

1人の老人が現れ、蟻に糸を結びつけ、玉の穴の一端に蜂蜜を塗り、一端から蟻を通した。



蟻は蜜の香りにひかれて穴を通り抜け、見事、糸を通した。

人々は感嘆してその名を問えば「吾は紀の国蟻通の神」と言って姿を消した。

依って神人ならんと、この年、神号を「蟻通」と賜わり志富田(渋田)荘の氏神として崇め祀る。

高宗が使者を遣わして紀の国を探れば、当村に蟻通の神が祀られており、これより朝野の信仰が篤くなったと伝えられている。


《能「蟻通」》

能では、大阪府泉佐野市の蟻通神社が舞台。

神社の境内を馬に乗ったまま通ろうとし、馬がへこたれて困ったのは、

紀貫之。

宮守のじーさまに叱られ、お詫びに歌を詠みます。

「雨雲のたちかさなれる夜半なれば、ありとほしとも思ふべきかは」

この歌に感動した宮守のじーさまは、祝詞を奏し神楽を舞い、

実はわしは、蟻通明神なのだ~♪

と告げて、鳥居の笠木に姿を消したとさ。


貫之の和歌が神の怒りを鎮めたという、「和歌の徳」が主題。

会話の中に、蟻通の話が語られます。


こんなことを言ってはいけません。




【祭神】

(主祭神)思兼命 
※知恵の神様。諸神に知恵を授けて天照大神を天岩戸から誘い出した。

(配祀神)事代主命 市杵嶋姫命 大国主命 少彦名命



おや、絵にかいたような、わんこのおやつ。


隠れてないの。

この狛犬さんの相方は


本殿の前にいる、自然石のでかわんこ。

ほんとの相方は滝壺の中にいるらしいですが、行方不明。


そこで、新しくこの子がお迎えされたとか。

何でも、この子の足元をくぐると疫病にかからないそうですが


ほぼ、皆さん、無理です。


境内社のこちらに、


謎の石。

だめよ、こまちゃん。


そうかねぇ?んふふ。


蟻通神社の由緒と祭神は、和歌山県神社庁HPを引用しました。
http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=4028


いつも応援いただきありがとうございます。
能「蟻通」は紀貫之の歌が主題ですが、中で語られる蟻通の伝説がとても珍しくて、印象に残っています。また、本殿前の大きな狛犬さんは、おすわりして私の身長ぐらいの高さでした。滝壺の中にいるという相方さんは今ごろどうしているんでしょうね。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

下天野の八幡神社。彩飾豊かな社殿と神社合祀

こんにちは。


白黒わんこは、

密教の根本道場の地を求めていた空海の前に狩人に化身して現れ、案内した「高野御子大神」の飼い犬。


丹生都比売神社の祭神・丹生都比売大神の御子で祭神の一柱。


拝殿足元の石に、


これでもかっと穿たれた穴ぼこぼこ。

盃状穴です。


幾何学模様のように穴と穴を結ぶ溝が。

さて。

ここへ向かう道中で見かけたのが、


八幡神社です。


正面は渋い。


割拝殿の通路に、盃状穴の穿たれた石。



【由緒】

当神社の創立年月日は詳らかでないが『紀伊続風土記』の下天野に

「村中にあり、一荘の産土神にて、社壮麗なり、按ずるに天野社(丹生都比売神社)は大社にして、一荘の氏神となすべからざるにより、当神社を荘の氏神となす」と記されている。

文政6年(1833)遷宮が行われた記録がある。



なるほど、丹生都比売神社は大社で氏神とすることは出来ないので、この八幡神社を氏神とした、と。



文化12巳亥年は、1815年。



明治6年、村社。

明治41年、村内無格社5社を、当神社に合祀。



そして、やはり、神社合祀。ここは和歌山県。

これを念頭において見れば


【祭神】

(主祭神)誉田別命 
(配祀神)須佐之命 八王子命 美津波女命 市杵島姫命 丹生都比賣命


境内社 妙見神社・戎神社


【神社合祀に関する勅令】

「府県社以下神社神饌幣帛料供進ニ関スル件 (明治39年4月30日勅令第96号)」

⇒府県社、郷社、村社に対して公費で幣帛料を出す。

「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件(明治39年8月10日勅令第220号)」

⇒一村一社にまとめた残りの神社の財産は、神林を含めて処分。
その利益を以て神職の給与の原資とする。


結果、「しょーばいしょーばい!」な怪しげな者達により神社は簒奪されることとなり、


大阪毎日の記事による、明治44年6月25日現在の状況。(「神社合祀に関する意見」南方熊楠)

和歌山県では現存神社790、滅却神社2923。1/4.7に減少。

三重県では現存神社942、滅却神社5547。1/6.8に減少。

長野県では、1/1.2、埼玉県では1/2.1。


・・・。


悪口雑言が噴出しそうなので、おうすをたてて、一息ついて、っと。



暑いわ見えないわ。


ずーむっ。


明治年間に台風が度々あり大被害を受け、大修理を行っています。

大正15年、銅板屋根に葺き替え、
昭和62年、本殿の修理彩色、社務所の屋根替大修理。



きれいねきれいねー。


素朴な鳥居が素敵。


帰宅して気付いた怪しげな石。しまった。


そして、妙見神社の祭神「天ノ御中主神」に、今度は神仏分離のアレかよっとイラッと。



あちこちに配慮したら意味不明な由緒書になってしまったのであろう氏子の皆様のことを思うと、涙が出ちゃう。


境内地は、3,715,000㎡、境内山林は5,107,000㎡。

ひろっ。

現実的な話として、地域でおまもりしていくのは、大変だと思います。

そんな、八幡神社なのでした。


由緒・祭神等は和歌山県神社庁HPを引用しました。
http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=4036


いつも応援いただきありがとうございます。
和歌山県の神社巡りをするたびに神社合祀の事を言っていたらキリがありませんが、事実は事実。数としては少ない方ですが、合祀された側の氏子の方々の心中やいかに。また、今となっては合祀された側にはそれを残していく責任があり、それが大きな負担になっているのではなかろうかと思ってしまいます。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

高野山。山上に天神さん

こんにちは。



高野山某所。


背後に諸事情があり、鳥居に接近。


小田原天満宮です。


何かいる。


うふふふふ。


色鮮やかな社殿です。


側面に、鶴さん。


きれいでしょー。


上から、梅、梅とうぐいす、龍。


・・・うっ


ねー。でろでろだもんねー。


かわいい子達です。


高野山の南には野迫川温泉も龍神温泉もあるもんね。


か、かわいいしっぽー!!


いつも応援いただきありがとうございます。
とても細かな装飾が美しい社殿です。普段は周りの喧騒(高野山は観光客でいっぱい)をよそに静かな静かなお社ですが、年に一度の天神祭はとても賑わうそうです。とぼけたお顔の狛犬さん、こんな子が大好きです。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

丹生都比売神社と慈尊院と空海。かつらぎ町の謎の石

こんにちは。


まだまだたいしたことはないですよー。


こうやくん、自販機ばーじょん。


缶コーヒーっていっぱいあるのね。どれにしよう。

と、働くこうやくんがいるのは、


高野山の西の高台に位置する、丹生都比売神社。

弘法大師空海は、丹生都比売大神から「神領である高野山」を借受け、
真言密教の総本山高野山を開きました。

いわば、地主さん。

また、

丹生都比売大神の御子、「高野御子大神」は、密教の根本道場の地を求めていた空海の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、


高野山へと導きます。

お礼に空海は、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀ります。

それが、


高野山壇上伽藍の西塔地区に鎮座する


御社(みやしろ)。

一宮「丹生明神」、二宮「高野明神」、三宮(関係の深い)「十二王子・百二十伴神」を各々祀ります。


御社の狛犬さんは、お供の案内犬・クロ&シロちゃん。


よって御社は高野山においてとても大切な場所なのです。

次に。

高野山の麓、真田丸でどえらい賑わいの九度山には、


女人高野と言われる慈尊院。

空海の母が、息子を追ってきたものの、女人禁制の高野山には入ることが出来ずここに滞在。


空海は、母を訪問すること何度も何度も。

なので、「九度山」。


大きな木のそばに、鬼子母神。


どんな石仏様がいるのかなーっと近付いて、


あれれ?


あらやだ。


高野山の湯谷神社にあった


謎の石と、


・・・そっくり。

お姉さまー、お寺にもあったよー。


帰り道に蟻通神社に立ち寄れば


蟻通戎神社のこの木の根元。


なんだか、におった。


何ですか、これ。


鳥居だけが書かれているのは、これが多いですわね。


もしや、あなた・・・


ほんと?


いつも応援いただきありがとうございます。
高野山の面白いところは、山の上の伽藍だけではなく、周囲にも関連する神社や史跡が点在すること。特に、壇上伽藍の最高地(西側が上位)に「御社」が鎮座することから、空海がいかに丹生都比売大神や狩場明神を重要視したのかがよくわかります。・・・謎の石もあったので、はいてんしょーん♪で、灼熱の中をうろうろしました。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

高野山。神前で行う山王院月次問講と謎の石

こんにちは。


こうやくん、立体になりました。


えっほえっほとお坊さんを追いかけて


山王院へ。


山王院の奥には、御社(みやしろ)。

御社には、空海を高野山へ導いた狩場明神と、地主神の丹生都比売明神が勧請されています。


山王院は、御社の拝殿のようなもの。

この山王院で、僧侶達は毎月16日に「月次問講(山王院月並門徒問講)」という法楽論議を神様に奉納します。

高野山では空海から現在まで、狩場明神や丹生都比売明神を大切にしており、その神前で行われる「月次問講」は大変重要な行事だそうで。



第一部の通常のおつとめと、第二部の問講(Q&Aみたいだった)、合計三時間ほどですが、初めて全て拝見しました。

よかったですわぁ。


神様に拝礼する僧侶。

神仏分離が行われるまでは、日本のどこででも見られたのかな。

さぁて。


壇上伽藍から西へ進んだGSのある交差点。

バス停と高野山町石が並び立つ場所。

ぼーっと きりりっと正面に立ってるのが、町石。


画像に落書きしてから気付いた。

鳥居には湯谷弁財天、となってた。


じー。


おおおっ。これはもしかしてっ。

「鳥居をくぐって」様のところで話題、和歌山の神社「謎の石」。


手書きっぽい字で「鎮座社」。

あったー。姉さん、あったよー!初めて見たー!

で。

高野山近くの温泉宿で、お泊まり。(龍神温泉じゃない)


夜ご飯には、あまご定食。


塩焼き。

はい、頭からがぶり♪です。


とってもきれいなあまご様。


美味しくいただきました。


夏の友。

山の中のお宿では、虫除けが欠かせません。


いつも応援いただきありがとうございます。
三連休は混むに違いないっと早起きして、7時過ぎに高野山へ到着。早すぎたー。しかし、お昼頃にはものすんごい人出で、人疲れしそうでした。正直、今夜は寒いです。温泉に入ったのに、冷え込みの方が勝っております。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

故郷を救え。十津川郷士の奔走と天誅組エピローグ

こんにちは。

天誅組第6回。



文久3年(1863)。

8月13日。
尊王攘夷の断行を祈願するための孝明天皇の大和行幸の詔。

8月17日。
天誅組志士は一斉に挙兵。幕府の直轄地であった五條代官所を襲い、代官鈴木源内を殺害。櫻井寺を本陣として「五條新政府」を号します。


(五條市HPより)

8月18日。
攘夷派が敗れ、朝議は一変して大和行幸は中止(八月十八日の政変)。
天誅組の義挙はその大義名分を失ったのです。


8月20日。
天誅組、本陣を要害堅固な天の辻へ。

朝廷は、天誅組の挙兵が勅命によるものでないことを公布。

8月25日。
吉村寅太郎が十津川郷士に募兵を働きかけ、960人が天の辻に集合。
半ば脅迫に近い徴集で、十津川郷士の大半は「状況を確かめてから」という慎重論。

8月26日。
天誅組、高取城に侵攻するも総崩れ。
三総裁の一人、吉村寅太郎(土佐脱藩)他、負傷者多数。




前記事ではさらっと朝廷の勅旨により「変心」や「離脱」と述べましたが、現場の十津川郷士の葛藤はいかに。


【玉堀為之進】

玉堀為之進と数名は天誅組の作戦に抗議し、天誅組主将中山忠光達と半日議論するものの、遂に意見合わず。

玉堀為之進は「反逆者」とされ、天の辻本陣で斬首。


【野崎主計(かずえ)】

十川郷川津村の庄屋で、天誅組が五條に入り十津川に兵を募ると、主計は吉村寅太郎と会見、同志と共に天の辻に馳せ参じました。

しかし。

天誅組が高取城攻撃に敗れ、天誅組討伐令と十津川郷士脱隊の命が出されたのを知って、十津川に累が及ばぬよう自刃。

これにより、藤井織之助、前倉温理等が許されます。

若い頃より疾病の為歩行が出来なかった主計ですが、読書に励み地方第一の物識りであったといいます。享年39歳。


8月28日。
天誅組、本陣を十津川へ。

9月14日。
紀州・津(藤堂)の藩兵が天の辻を攻撃。
殿(しんがり)軍は、天の辻を放棄し、本陣のある十津川に退却。

9月15日。
天誅組の本陣、十津川村上野地に滞陣中。そこへ。



朝廷が中山忠光を逆賊とする令旨を下し、


京都や各地の十津川郷士が、急ぎ帰郷。


【丸田監物(けんもつ)】

ペリー来航以来、十津川の武備に努めた人物。

材木商用に託して江戸に行き実状調査。
帰郷後、郷中59ヶ村に十匁銃をはじめ槍、陣笠などを購入させ、また大坂の荻野正親を招いてみずからも荻野流砲術を習い、一子藤助や郷人にも練習させ、さらに十津川由緒復古のため大いに運動していました。

文久3年(1863)8月17日当時は、京都。

多数参加している十津川郷士を離脱させる目的で急ぎ帰郷。

天誅組の伴林光平、乾十郎と会見。
天誅組を十津川から退陣させます。

野崎主計の自刃を活かし、同志の罪を許し助命に尽力。
10月8日、渡辺相模守、東辻図書権助らを特使として十津川郷を鎮静化させました。




【上平主税】

医術を紀州松岡梅軒に学び、京都に出て国学を修め、安政年間、同郷の野崎主計らと梅田雲浜のもとに親しく出入り。

丸田監物らと脱党を説得。
天誅組の伴林光平達と会見して十津川郷の苦哀を訴え、天誅組の十津川退去を求めました。

横井小楠暗殺に関わり伊豆新島へ無期流刑。
明治12年特赦により帰郷。以後、玉置神社祠官。


【前田正之】

十津川郷風屋清右衛門の子。
文久3年(1863)4月。深瀬繁理らと上京して十津川郷由緒復古の願いを呈上。8月、禁裏守衛の任に。

文久3年(1863)8月17日当時は、京都。赴任ほやほやでした。

急遷、帰郷。
参戦している十津川の郷士を説いて天誅組から離脱させます。

天誅組壊滅後、正之はこの功によって藤堂藩から歓待をうけ銃器を貸与され、明治以降は十津川親兵人選方、青森口海軍軍監などを歴任。

宮内門監長、皇宮警部などに任ぜられ、25年病没。


【沼田龍】

十津川郷宮原。
安政6年(1859)、材木方総代。
新宮湊口銀の苛政を五條代官に上申し、文久3年(1863)には十津川由緒復古のため奔走。

文久3年(1863)8月17日当時は、京都。

急ぎ十津川に戻って十津川郷士の脱隊を薦めます。

その後、津(藤堂)藩を訪ね十津川の事情を陳述、藩主より六匁銃一梃を贈られました。

明治元年(1868)2月、十津川親兵人選方。
軍事監司など諸官を歴任し、同2年堺県に出仕し権大属。




この時なぜ十津川郷士達が多く京都にいたのか。


十津川村は、神武天皇御東征の際、山深い吉野の山中を先導した 「やたがらす」が祖先であるといわれる所。

壬申の乱(672)では、天武天皇(大海人皇子)の吉野御軍に参加。

この折の戦功により、三光の御旗と「とをつ川吉野の国栖いつしかと仕へぞまつる君がはじめに」という御製を賜り、さらに租税を免じられ、以降も継続。

よって、代々勤皇の気風が強い十津川です。

十津川郷士には、天誅組の変の前年に、禁裏守護の令旨が下されています。



この折、五條代官の鈴木源内(天誅組に討たれた)は「名誉なことだよー。すごいねー」と十津川郷士達に道中手形を与えています。

この鈴木源内さん。温厚篤実な人物であったようです。
お気の毒なのは、着任が討たれる前年だったこと。


無論、十津川郷士の間に、葛藤はありました。

同じ「勤皇」の志を持つ者ですから、天誅組に参加するだけでなく、一ヶ月弱の間、天誅組が十津川に陣を置くことを許しています。


谷瀬の吊り橋の袂に、天誅組本陣の石碑が残ります。


当初は、半ば脅しに近い誘いであっても、志は同じと天誅組へ参加した十津川郷士。

しかし、武装の貧相さや、組織内の未完成さに嫌気が差したのも事実。


【久保成吉 】

天誅組に参加、各地に転戦。
久保が活躍するのは、天誅組が敗れ、追討の諸藩が十津川に入った時。

紀州藩より「十津川郷の民が我が陣に降伏すれば、永く紀州藩に従属させ、その筋へはよろしく計らう」との申し入れに対し。

久保達は、「我が十津川郷は朝廷直轄地。他に従属することはない」と答え、その使者を追い返しました。

後、京都守護。明治22年、十津川村初代の村長に就任。



今後、十津川が生き残るためには、少しでも早く天誅組と手を切る事が重要だったのです。


9月19日。十津川郷士の変心と離脱により、中山忠光は遂に天誅組を解散。

9月24日。鷲家口の戦い。天誅組、壊滅。



天誅組の変からわずか5年後。


明治維新。


いささか早すぎる蜂起でありました。

おしまい。



《おまけ》

ざっくり地図。数字は国道。
国道425号線は、別名「酷道」。絶対に通ってはいけません。



参考文献

十津川村HP
http://www.vill.totsukawa.lg.jp/www/contents/1109301190312/index.html
十津川村観光協会HP
http://totsukawa.info/joho/kanko/3Historical_Museum.html

十津川村歴史民俗資料館リーフレット


いつも応援いただきありがとうございます。天誅組に参加した十津川郷士には他にも、後に吉野郡書記を勤めた松実富之進(後に漏器と改名)がいます。紀和変災のため北海道に移住し、現地で他界。さて。天誅組の変ですが、十津川にとっては、とんだ災難だったのではないでしょうか。あちこちから寄せ集まった人が突然現れて人材募集するわ、おうちに陣取るわ、お上から叱られるわ、散々です。故郷を救うために必死に説得した面々がいなければ、どうなっていたことやら。
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ



ぽちぽちぽち、ありがとうございます。応援、励みになっております。
プロフィール

つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

◎画像の著作権は放棄しておりません。
◎画像と記事の無断使用厳禁!!
◎丸パクリには断固抗議する!!

◎リンク戴く際はご一報下さい。御礼させて戴きたく。
◎一言でもコメント戴ければすごーく嬉しいです。

尚、メールでのお返事は致しませんので、コメント欄をご利用ください。

宜しくお願いいたします。

参加してます♪
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
最新記事
カテゴリ
カレンダー
02 | 2021/03 | 04
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
月別アーカイブ
リンク
最新コメント
最新トラックバック
ブログ村さんに参加中
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ご来場御礼