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橋杭岩と潮岬本之宮神社。景色はお天気次第

こんにちは。


串本の橋杭岩。


夕日の橋杭岩。


台風前日。


夜明け。


海辺から見えるのは、こちら半分。


実は沖合へ延々と続いております。


真ん中に、弁天島。


遠くから見ても端が切れるほど。


柱状の岩が起立してます。


足元は、たてたてよこよこ。


青い海の向こうに紀伊大島。

紀伊大島といえば、


伊勢海老天丼どーん。


丸ごと一尾の天丼どんと、お味噌汁に半身。

満腹になったところで、


潮岬本之宮神社。


雨上がりの狛ちゃん。


晴れの狛ちゃん。

青い空、青い海、白い狛犬。


むっちり。


これほど色白とは予想だにせず。


この子も。


雨上がり。


晴れ。


むっちり。


こちらも秋のお祭りのようで。


境内が賑やかです。


どんなお祭りなのかな。


ご神木。


あちこちが飾りつけられ


華やいでます。

そして。


前回、こう書いていたお社が


恵比須神社でした。大間違い。

大変失礼致しました。


氏子さんが東西南北の四組で、それぞれの奉納の旗がたなびいていました。


今も賑やかなのは、こちらも嬉しくなります。


ご機嫌さんで何よりです。


潮岬本之宮神社については、こちらをご覧くださいまし。

潮岬本之宮神社。熊ちゃんじゃなくてワンコです
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-343.html

潮岬本之宮神社。柏槙の巨木が串本町の由来。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-344.html



いつも応援いただきありがとうございます。子熊ちゃんのような潮岬本之宮神社の狛犬さん。阿ちゃんが真っ白な子だったので、驚きました。橋杭岩の遠景は、橋杭岩海水浴場からの眺め。青い空青い海を眺めているだけで幸せです。ぼーっとするだけで一日が終わってしまいそう。旅先でも、ぐだぐだのなまけものです。おほほほ。
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勝浦八幡神社。例大祭は神事です

こんにちは。


那智勝浦に来たら、生マグロ丼どん。


那智勝浦港。いつもおごちです♪


那智勝浦といえば、忘帰洞のある、こちらの巨大なほてーる。

館内で祖母が「もう歩けせん」と言い出し、おんぶした思ひ出。


こちらは、漁港。

山の向こうは


こんな景色。


いわ。


あそこまではたどり着けないのが残念。


最高の遊び場です♪

いえーい、と言っている沖合の島。

維盛が「これもり、参上」と書き記し、入水した場所。


この磯遊びの岩場の端からは


補陀落渡海の出発地の浜辺が見えます。

そんな那智勝浦に鎮座するのが


勝浦八幡神社。


神社のふちに、石標。


海海海。


すかっと気持ちのいいお天気。


こちらのお社、台風等の被害が大きく。

社叢は、

昭和34年。伊勢湾台風により樹齢300年近き杉十数木が倒れる。
平成2年。台風19号により椎ノ木の巨木でなる森が全滅。
御社殿近くの椰ノ木(樹齢推定400年)と境内の楠ノ木(昭和天皇御大典記念樹)を残すのみとなる。

平成御大典記念事業として馬目樫1,200本、杉桧等1.300本を植樹。

建物は、

昭和58年4月1日。突風による大樹倒木山崩れの直撃を受け御社殿は全壊。
平成御大典記念事業として平成2年6月2日、勝浦護国神社として復元御造営成る(総桧銅板葺)。

(和歌山県神社庁HPより)



拝殿。

【主祭神】応神天皇 
【配祀神】事代主神 少彦名神 八百萬神 猿田彦神 皇大神 保食神


海のお社らしく、ガラス玉を網で包んだもの(?)があります。

【由緒】(和歌山県神社庁HPより)

「当村鈴木某祖先より鎮守として崇敬せしところ、弘安年中(1278―1287)村民等同氏に恊議し氏神と為すと」いう(『神社明細帳』)。

古くは大勝宮と称せしとの伝承あり。

「慶長十五(1610)年の本殿上棟式に始まり、新しくは明治四十三年本殿御造営の棟札あり」(『神社財産登録台帳』)。





【合祀】(和歌山県神社庁HPより)

明治44年9月15日。町内字祭渡島海中の岩上に鎮座無格社祭渡神社(祭神猿田彦神、由緒往昔備後国靹浦渡ノ神社より勧請すと云う)を本殿に合祀。

明治10年8月15日、村内字神明に鎮座神明宮を本社境内へ移転。
(祭神皇大神、保食神の2神)

由緒不詳だが、

「上鏡天和癸亥(1683)当神社神主三代末高橋杉太夫藤原実次代と銘記の御神鏡あり、当社神主四代高橋右近藤原実晴貞享三(1686)年より代々村社八幡神社の両社に奉仕す」とあり、『高橋文書』又町名にも神明、神角が残されており古き勧請なり。

いずれも、本社に合祀。



生マグロと太平洋。那智勝浦の夜は、よよいのよい。


「勝浦に過ぎたもの三つある、お寺と祭りと三水米」

例祭では、神輿渡御行列、還御舟行列を始め大黒天の黒塗り、櫂伝馬、徒士山伏、餅搗、獅子神楽、船謡等々多彩な伝統行事が行われます。


櫂伝馬行事と神輿海中神事。

入水した神輿に対し、祭りを終わらせてないわよっと神輿に近づき、沖へと運ぼうとする5隻の櫂伝馬(カイレンマ)と、神輿の駆け引きです。


舟渡御。

櫂伝馬がやがて駆け引きを諦めると、
神輿は、専用の小舟に乗せられて、舟謡の声と共に神社へ帰ります。

海路還御は、櫂伝馬・高砂舟・猩々舟・恵美須舟・鳩舟・神楽舟・大黒天舟・山伏舟・謡舟・御船の順。


この海で行われます。

また、この神事に関わるものは、社宝。

神船(1艘) 大黒天像(1体) 高砂寿老人像(1体) 鳩像(1体) 蛭子像(1体) 猩々像(1体)

海上遷御は、那智勝浦町の指定無形民俗文化財。



普段はとても静かな勝浦八幡神社なのでした。


参考文献

和歌山県神社庁「勝浦八幡神社」
http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=8017

和歌山県ふるさとアーカイブ「勝浦八幡神社の例大祭」
http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/matsuri/katuura.html

那智勝浦町「勝浦八幡神社例大祭」
http://www.town.nachikatsuura.wakayama.jp/forms/info/info.aspx?info_id=9446


いつも応援いただきありがとうございます。那智勝浦町の指定無形民俗文化財に指定されたことで、年々観客が増えているとのこと。しかし、この一連の行事は、勝浦八幡神社の神事ですので、那智勝浦町HPでは、「神輿を2階など上から見下ろさない慣わしがありますのでご協力お願いします。」と注意しています。お祭りだー!っとはしゃいでしまったり、夢中で撮影したりしがちですが、神社のお祭りは神事だということ、忘れてはいかんですね。

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八咫烏神社。八咫鏡野の八咫鏡失敗作と神社合祀

こんにちは。


青い海が眩しい那智勝浦の海岸に


八咫烏さん。


ちょいと焼かれております。じゅー。


熊野那智大社の鎮座する那智勝浦町の


太地町と隣接する場所に。


「八咫鏡野(やたがの)」という地名があります。

これがですなー、「咫」の字が常用漢字じゃないのか読めないのか、
標識等の地名表記が「八尺鏡野」となっていて。

はっしゃく、て読んでしまいますわ。これ、どうなの。

とほほ。



その「八咫鏡野」の八咫烏神社。

地名は、三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉)の「八咫鏡」で、
神社は、神武天皇の道案内をした「八咫烏」。

はて?


黄泉の国から戻り禊をしたイザナギの左目から産まれた天照大神。

「天照大神がイシコリドメノ命に鏡を作るようにと下界に赴かせ、
着いたのが八咫鏡野であった。
イシコリドメノ命は懸命に鏡を打ち、完成したが、
かすかな傷のために作り直しを命じられ、
新しく完璧な鏡を作り、天照大神に献上した。
その鏡が伊勢神宮の御神体の八咫鏡となった。」
「神武天皇大和進入経路」より引用)

傷のある鏡は、八咫鏡野の八咫烏神社に残されましたが、
あるときに盗まれて行方不明になったといいます。

※イシコリドメノ命
『古事記』では伊斯許理度売命、別名 櫛石窓神、豊石窓神、
『日本書紀』では石凝姥命または石凝戸邊命と表記



『紀伊續風土記 巻之七十一・牟呂郡大田荘』では
「八咫鏡野村」の「八咫宮」について

「村中にあり。一村の氏神なり。八咫烏を祀るといふ。八咫烏は熊野に縁あれとも村に因るときは八咫鏡を祀れることを伝へ誤りしならむ」と
記されています。

八咫鏡と八咫烏。混同があったようですね。


この八咫烏神社と太田川を挟んだ対岸に鎮座するのが


下里神社。

【創建】
1564(永禄8)年6月23日創建。
元諏訪神社と称し、下里村の鎮守として字牛渕に祀られていました。

1761(宝暦11)年の大洪水で流失して現位置に鎮座。



【祭神】
(主祭神)健御名方神 

(配祀神)誉田別命 青彦命 豊宇気毘売命 市杵嶋姫 健角身命 表筒男命 中筒男命 底筒男命 火産霊命

【由緒】

明治6年4月村社。
明治43年、神社制度改正により各集落の鎮守である下記を合祀。

八幡神社 大字下里字藪鎮座無格社
明神社  大字下里字久保坂鎮座無格社
稲荷神社 大字下里樋ノ元鎮座無格社
住吉神社 大字下里字高芝鎮座村社
厳島神社 大字下里字高芝鎮座無格社
若宮神社 大字粉白字口地鎮座村社
秋葉神社 大字粉白字口地鎮座無格社
姫宮神社 大字粉白字口地鎮座無格社
八咫烏神社 大字八尺鏡野字中地鎮座村社
天神社  大字下里字天満鎮座村社

この時に、傷のある八咫鏡を祀った「八咫鏡野の八咫烏神社」は下里神社に合祀されています。

※天神社(字天満鎮座村社)は、氏子崇敬者の要望により、昭和20年6月25日、旧社地へ遷宮。

同1910(明治43)年、社名を「下里神社」と改称。
大正元年9月幣帛供進神社に指定されます。


元々の元諏訪神社に9社を合祀したので、ぎゅーぎゅーです。


《メモ・神社合祀》

1906(明治39)年の勅令により神社合祀政策が始まります。

全国で1914年までに約20万社あった神社のうち、7万社が取り壊され、合祀されます。

特に合祀政策が甚だしかったのは三重県。
県下全神社のおよそ9割が廃されることとなります。

和歌山県も三重県同様、神社合祀が非常に多く進められました。
龍神村の皆瀬神社は合祀すること37社。

皆瀬神社と神社合祀
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-530.html


と、いうことで。

「八咫鏡野の八咫烏神社」は下里神社に合祀され、
現在は跡地に祠が建つのみ、と。


しかし、境内はきれいに清められております。


政策により合祀となったものの、氏子の崇敬はこちらなのかな。


長い年月、八咫鏡野の村の氏神様として鎮座していたのですもの。

ちなみに、この八咫烏神社の付近は


河口がすぐそばで、田んぼの中に小さな丘が点在する地形。

大地震の際はすぐに


某さんの畑へ逃げましょう。

大震災以来、この看板が気になるようになりました。


下里神社の詳細と狛犬さんはこちら

八咫鏡と下里神社
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-255.html?sp


下里神社近隣には本州最南端の古墳があります。

本州最南端の前方後円墳。下里古墳。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-256.html


参考資料

和歌山県神社庁「下里神社」
http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=8024



いつも応援いただきありがとうございます。「八尺鏡野」の交差点表記を何度見ていても、やたがの、とは読めませんでした。下里神社に多くの神社が合祀されているように、和歌山県と三重県は政策的な神社合祀が極端に行われた経緯があります。しかし、参詣には遠くなって不便ですし、代々の氏神様は地元でお祀りしたいと、旧社地へ遷宮されたお社も多く。お仕着せの政策なんて、人心掌握まではできないもんですね。
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こんにちは。



青い空青い海。



昨日は、那智勝浦の海でゆっくり。



いつもの挨拶。



オプションです。

ここは


補陀落渡海の船が出た浜辺。


感慨無量です。



いつも応援いただきありがとうございます。昨夜は、帰宅してそのまま寝てしまいました。高速道路を走るのは、単調で退屈ですねー。途中で何度か仮眠しました。あー、眠かったーっとゴロンッと横になったが運のつき。気づけば夜明け。は、は、は。
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嵐が過ぎて・・・

こんにちは。

台風11号の影響は、最接近した時よりも過ぎた後の方が大きくて。

昨夜は降雨がひどくて、積算雨量オーバーにより高速は通行止めやら、電車は立ち往生するわで。

今朝の関西は麻痺してました。


JRが、えらいことに。今は解除されつつ。

と、昼間の酒はよくまわるぜーっと、おうちでぐだぐだする連休。

ほんとはー、十津川温泉で過ごし、熊野本宮大社へ行く予定だったのですが、ちょっと残念だけどキャンセルしたものでー。(※開通しました)


十津川温泉の役場前の川。


こうなる。十津川村役場twitter(@tptsukawago)より。

結局、川上の「風屋ダムの放水と、業平土砂ダムの越流」でどえらく増水するらしくて。ダム、いるかー?

熊野方面には何度も行ったのですが、結構、シュールな体験してまして。


大雨で山から滝、横の川は増水して道すれすれ、とか。

道が落ちたので迂回して、残り150kmのところが残り300kmに増えたり、とか。

夜中に外を見たら、お宿の前の川の水面がありえへん高さに迫っていた、とか。


今回、また熊野川の氾濫がありました。普段はこんな感じなのにな。


氾濫した熊野川。NHKニュース(@nhk_newsより)


雨上がりの河口付近の熊野川。(昨年の画像)


今年も不安な季節になったと、地元の方々は不安だろうなぁ。
せっせと観光に行って、少しはお手伝いになるようにしまーす。

今回は、残念だけど、いいもん。
関西だもん。近いも・・・近くは、ない。決して。



いつも応援いただきありがとうございます。実は名古屋の親友ちゃんが、只今、那智勝浦へ向かって爆走中。私と違ってお利口さんなので、決して山には向かわないと思うのですが。あの熊野川の画像を見て、今度は海沿いの道が浸水してはいないかとドキドキしてます。
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谷瀬の吊り橋遠景とお猿くん

こんにちは。

台風11号、今日のニュースで平成23年台風12号と同じコースが予想されると言っていました。
この台風、全国、特に紀伊半島に甚大な大水害をもたらしました。
昨年の訪問時にもまだまだ復興工事を行っており、被害の深刻さを実感したものです。

くるんっとUターンして、よそに行かないかなぁ。

さて。


奈良県五條市から和歌山県新宮市まで、紀伊半島を縦断する国道168号線。
最終的には熊野灘へ注ぐ熊野川に沿って走る道。


所々ちょっと狭いので、時間がかかるものの、気持ちのいい道です。


道中の猿谷ダムの横には、こんな子が。


反対側から見ると、あーん、してます。


この子とデートするのも、ドライブの楽しみ。ふふ。


十津川村の谷瀬の吊り橋。

十津川村は奈良県最南端の村。


恐ろしいので、私、渡りません。

ここからほどなく。


十津川警察庁舎。

・・・道の駅の写真を撮ろうとしたんだと思うの。


全湯かけ流し宣言をした十津川温泉郷。とても優しいお湯です。

ここからずーっと南下すると、熊野本宮大社。



今は国道168号線が通じているので一直線に南下できますが、熊野詣の時代には紀伊半島西側を南下し、田辺から東へ向かう中辺路がいわゆる熊野詣の一般的なルート。

他に、高野山から向かうルート、奥吉野の大峯山から向かう修験道のルート。



北陸方面での大敗により、軍勢の大半を失った平家一門。


木曽義仲が都へ進軍してきたら、どうしましょ。

いよいよ、平家一門の都落ちです。


富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦い等一連の合戦の総大将であった「桜梅少将」平維盛。


熊野灘へ身を投じるまで、彼はどのように生きたのか。

『平家物語』維盛めそめそ編、はじまりまーす。おほほー。


いつも応援いただきありがとうございます。実盛じいさまのお話でうっかり自分の世界に浸かってしまったので、今日はさらっとさくっと・・・実は、風呂あがりに寝落ちてうっかり寝冷え。お鼻の両方から鼻水がどどどどーっと落下中。皆様、お気をつけあそばして。
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ふだらくさんじ。漢字って難しい

こんにちは。


補陀洛渡海の


補陀洛山寺。ふだらくさんじ。


外から釘を打たれた小舟に閉じ籠り


この那智勝浦の海を曳航されて


熊野灘をひとり漂い


目指すは、南方にあるという補陀洛の世界。

西国三十三箇所観音場巡りのひとつ、茨木市の総持寺の山号も補陀洛山。

はじめ「ほだらく」と読んでおりました。

なぜなら、


愛知県の三河で、そうだね、の意味。ほだらぁ。

そうか、奥の深い言葉だったんだ!っと、勝手に勘違い。



こほん。

ただいま、土曜日の朝をぽけーっと満喫中。


いつも応援いただきありがとうございます。『吾妻鏡』を引っ張り出したので、昨夜は久々に鎌倉三昧な夜を過ごしてしまいました。気づけば、夜明け。夏の夜は短いですねー。・・・っと、少し誤魔化し。只今次記事をぽちぽちっと製作中。へへへ。
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『吾妻鏡』の補陀洛渡海。鎌倉武士というもの

こんにちは。


那智権現の末寺のひとつ、補陀洛山寺。本尊は十一面千手観音。


観音菩薩のいる浄土である「補陀洛」を目指し、小船にのり大海に身を預ける捨身行が補陀洛渡海。


「熊野那智参詣曼陀羅」(16世紀頃)に描かれた補陀洛山寺と熊野三柱大神社と補陀洛渡海へ出航する光景。


那智の浜からの補陀落渡海は、平安前期の868年/貞観10年の慶龍上人から江戸中期の1722年/亨保7年の宥照上人まで25人。

平安時代に5人。鎌倉時代に1人。室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)。安土桃山時代に1人。江戸時代に6人。

この、「鎌倉時代の1人」である智定房(ちじょうぼう)のお話が『吾妻鏡』に記されています。



※『吾妻鏡 5』 (岩波文庫 )より引用

【 『吾妻鏡』天福元(1233)年5月27日条】
 
「武州(※執権・北条泰時)御所に参り給う。一封の状を帯し御前に披覧せらる。
 
申せしめ給いて曰く、去る三月七日、熊野那智浦より、補陀落山に渡る者有り。智定房と号す。これ下河辺六郎行秀法師なり。

故右大将家下野の国那須野の御狩の時、大鹿一頭勢子の内に臥す。幕下殊なる射手を撰び、行秀を召出して射る可きの由仰せらる。仍って厳命に従ふと雖も、其の箭中(あた)らず、鹿勢子の外に走り出づ。小山四郎左衛門尉朝政射取り畢んぬ。

仍って狩場に於いて出家を遂げて逐電し、行方を知らず。近年熊野山に在りて、日夜法華経を読誦するの由、伝へ聞くの処、結句此の企てに及ぶ。憐れむ可き事なりと云々。
 
而るに今、披覧せしめ給ふの状は、智定、同法に託して、武州に送り進ず可きの旨申し置く。紀伊の国糸我庄より之を執り進じて、今日到来す。

在俗の時より出家遁世以後の事、悉く之を載す。周防前司親實之を読み申す。

折節祇候の男女、之を聞きて感涙を降す。

武州は昔弓馬の友たるの由、語り申さると云々。

彼の乗船は、屋形に入るの後、外より釘を以て皆打ち付け、一扉も無く、日月の光を観るも能わず。只だ燈に憑る可し。三十箇日の程の食物並びに油等、僅かに用意すと云々。」
(引用終わり)



意訳します。


天福元(1233)年5月27日。(承久の乱の2年後)
 
執権・北条泰時(1183~1242)のもとに紀伊国糸我荘より一通の書状が届く。
泰時は将軍・藤原頼経(1218~1256)の前で周防前司親実に読み上げさせた。


 
3月7日、熊野那智の浜より補陀落山に向け渡海した智定房は、元は下河辺六郎行秀という御家人であった。



かつて、下野国・那須野での狩りの際、勢子に取り囲まれた一頭の大きな鹿がいた。

源頼朝は特に上手な射手である行秀を呼び、大鹿を射るように厳命。



ところが、行秀が放った矢は命中せず、大鹿は勢子の外に走り出してしまった。
行秀に代わり、小山四郎左衛門尉朝政が討ち取った。



頼朝の前で失態を演じた行秀はその場で出家し、行方不明に。



近年、行秀は智定坊と名乗り、熊野山で日夜、法華経を読誦していることは噂で聞いていた。

その彼が、最終的に補陀落山への渡海に及んだというのだ。



まことに憐れむべきことである。


 
この書状は渡海前の智定坊が、泰時に送り届けるよう規則に従って言い置いたもので、紀伊の国糸我庄より今日、届いたものである。


そこには在俗の時より出家遁世以後のことが、事細かく記されていた。

周防前司親実が読み上げると、周囲の人々は感涙し、泰時は昔、行秀とは弓馬の友であったと語り憐れんだという。


 
智定坊の乗った船は屋形に入った後、外から釘を打ちつけられて一つの扉も無いものだった。



そこには日月の光が入ることもなく、燈火だけを頼りとした。
三十日程の食料とわずかばかりの油を積んでいたそうである。
 


以上、『吾妻鏡』による、元御家人・下河辺六郎行秀の補陀落渡海のお話でした。


参考文献
『熊野検定テキストブック』(編集・発行/田辺商工会議所)
『仏教民俗辞典』(仏教民俗学会(編)/新人物往来社)
『吾妻鏡』 (岩波文庫 )


いつも応援いただきありがとうございます。みなさーん、鎌倉幕府の良心、北条泰時ですよー♪・・・すみません。とーちゃんの義時は永井路子さんの小説『炎環』の台詞「私じゃ駄目ですか」の一言で心臓を鷲掴みにされたのですが、地味に頑張る金剛くん=泰時も好物です。深謀遠慮の彼がわざわざ傀儡の将軍・藤原頼経の前でこのお手紙を披露したのは、鎌倉武士というものを教えようとしたのかな、と思ったり。鹿を射損ねた恥ずかしさで出家して、補陀落渡海。極端な例ではあるような。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

補陀洛渡海の補陀洛山寺。補陀洛浄土へいざ出航

こんにちは。


補陀洛山寺。

山号は白華山。本尊は十一面千手観音。
本尊は国の重要文化財に指定され、伝・平安後期の作。
天台宗。

仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹。



「補陀洛山寺」の初見は京都の青蓮院の12世紀から15世紀にかけての記録を集大成した『門葉記』。

この中の『妙香院荘園目録』(961年/応和元年6月5日付)に「補陀落寺領」とあります。

那智権現の末寺のひとつで、明治の神仏分離の際は、那智山の仏像仏具類は、この補陀洛山寺に移されました。

今はかなり内陸になっていますが、昔は渚がすぐそば。


お寺の前にある、浜の宮跡。


復元ながら、ぞわーんっとする、補陀洛渡海に用いたお船。


【ふだらくとかいって、何だー?】



観音菩薩のいる浄土である「補陀洛」を目指し、小船にのり大海に身を預ける捨身行が補陀洛渡海。

那智の浜からの補陀落渡海は、平安前期の868年/貞観10年の慶龍上人から江戸中期の1722年/亨保7年の宥照上人まで25人。

平安時代に5人。鎌倉時代に1人。室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)。安土桃山時代に1人。江戸時代に6人。


妙法山阿弥陀寺の


火生三昧もまた、捨身行。

こちらは上照上人が衆生の為に身を犠牲にしたお話でした。


【ふだらくって、どこだー?】

こんなとこ。


滋賀県彦根市の龍澤寺「ふだらくの庭」

「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住む浄土のこと。(wikipediaより)

『華厳経』では、インドの南端。日本では、南の海の果て。


確かに、南の海の果ては、那智勝浦から行くのが近いですな。


(龍澤寺「ふだらくの庭」)

「中央の島が補陀落山、一番中央の石が観音様の立姿、その右横の船の形をした石が僧侶慧萼が渡った船(現実世界と仏の世界の渡し船)、白砂は大海、砂紋はさざ波、奥の杉垣が水平線、さらに奥の生垣が雲海を表す石庭」(龍澤寺「ふだらくの庭」パンフより抜粋・引用)

この南海の彼方の補陀落を目指して船出するのが「補陀落渡海」。

那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などもまた、補陀洛渡海の霊場。


【補陀落山寺の補陀落渡海】

補陀落山寺における補陀落渡海の始まりは、「熊野年代記」によれば「清和(天皇) 貞観十(年) 戊子 十一月三日、慶龍上人補陀落に入」とあり、868年/貞観10年以降。

補陀洛山寺は補陀洛渡海へ向かう僧達の拠点となっていました。


「熊野那智参詣曼陀羅」(16世紀頃)に、補陀洛山寺と熊野三柱大神社と補陀洛渡海へ出航する光景が描かれています。


補陀洛渡海のお船。出航の時は白帆を立てます。

渡海僧は、小さな屋形の中へ、30日分の食料と灯火のための油と共に乗りこみます。


遊覧船ではないので、窓もなし。


そして、出て来られないように扉には外から釘を打ち込みます。

4つの鳥居は「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の四門。


『修験道無常用集』(1745/延享2年)

墓地における葬場の見取り図ですが、葬場の四方にそれぞれ鳥居門が設置され、それぞれ、発心門(東)・修行門(南)・菩提門(西)・涅槃門(北)。

つまり、補陀落渡海は船自身が渡海する者の葬場であった、と。



渡海船は、白綱で繋いだ伴船が曳航し、沖の綱切島辺りで綱を切られます。

あとは広い広い海を漂い、風に流され、波に揺られ、そして・・・。


これが、平安から鎌倉までのお話。

続く。



参考文献
『熊野検定テキストブック』(編集・発行/田辺商工会議所)
『仏教民俗辞典』(仏教民俗学会(編)/新人物往来社)


いつも応援いただきありがとうございます。あっけらかーんっとした、浜の宮跡から補陀洛山寺に入り、真っ先に向かったのがこの補陀洛渡海に用いた再現のお船。見たかったのー。波浪注意報で横倒しになって沈没してしまいそうな小さなお船。途中で恐怖にかられ、開けてー、出してー!っと泣き叫んだ人もきっといるはず。焚身とは異なり、じわーじわーっと押し寄せる恐怖。想像するだけで怖いです。
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浜の宮王子跡。熊野三所大神社と丹敷戸畔命

こんにちは。


とおーくに見える砂浜が、那智の浜。


日帰り温泉もある那智駅の裏側は


すぐに海。

ここから徒歩5分ほどのところに鎮座するのが、


くまのさんしょおおみわやしろ

・・・読めへんわっ。

渚宮、三所権現とも呼ばれていたお社です。


かつてはここに、浜の宮王子が鎮座。

熊野詣が盛んだった頃には、浜の宮王子とも渚宮王子、錦浦王子とも呼ばれた熊野九十九王子のひとつで、中辺路(田辺~本宮)・大辺路(海沿い)・伊勢路(熊野~伊勢)の分岐点。


那智山参拝前にはこの王子で潮垢離を行って、身を清めたといわれています。


割拝殿の形。


【由緒】
(和歌山県神社庁ホームページより引用 http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=8010)

社殿創立については、明細帳に「上古祭場の遺跡につき、欽明天皇ノ御宇に社殿創立せしものなりと伝ふ」、『熊野年鑑』に「欽明天皇二十四(563)癸未年熊野浜ノ宮成」とあり、又、『熊野年代記』に「欽明天皇二十四(563)癸未年浜ノ宮宮殿出現」とある。

本社古伝に依れば「往古は唯祭壇のみ在り、社殿造立は前記時代を創始とす」とある。

社殿造営は、社宝の棟札によれば、慶安元(1648)年の再建と伝えられる。(引用終わり)



本殿。

祭神は、夫須美大神 家津美御子大神 速玉大神

中は三間に分かれ、三神の神像が祀られており、巾子冠を戴く男神像は家津御子、宝冠像は速玉大神、女神像は夫須美神とされています。

彦火火出見命、大山祇命、天照大神の三神が祀られていた記録もありますが、和歌山県神社庁によると、


「昭和62年1月神社庁の認可により、中央神は夫須美神、右側神は家津美御子神、左側神は速玉神となり、神社名は大神社から熊野三所大神社と改名された。」


ということで。どちら様も熊野十二所権現の方で。


なぜ縦に並べたのかしら。痛いじゃないの。


境内社。三狐神(みけつかみ)。食物の神様。


境内社。丹敷戸畔命(にしきとべのみこと)。地主の神様。

「戸畔」とは、女性の首長のこと。

丹敷戸畔命は『日本書紀』の神武天皇の東征の折の記述に登場します。


境内にある石碑。

「神武天皇は、皇子の手研耳命(たぎしみみのみこと)と進軍し、熊野荒坂津(丹敷浦)に至り、丹敷戸畔という者を誅した。そのとき神が毒気を吐いて人々を萎えさせた。このため皇軍はまた振るわなかった。」

とか。


この熊野三所大神社。

お隣さんは


補陀洛山寺。右側の木々の中に神社。

明治の神仏分離で、補陀洛山寺から神社が独立。

熊野信仰は、神道や仏教や修験道が混然一体となり発展してきた経緯がありますが、明治の神仏分離・廃仏毀釈により、熊野でも多くの寺院が排され、神道化。
その中で、神仏習合の名残を見ることができる点が面白いです。

そして、補陀洛山寺といえば。



補陀洛渡海の出発地なのです。


続く。


過去にこんな記事を書きました。

◇神武天皇の東征と抵抗する戸畔のお話
祭神すら怪しげな、名草神社
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-457.html

◇三狐神ってどちら様で?
みけつかみへ怨敵退散祈願。三狐神と茶吉尼天、シュールな出会い
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-238.html

◇↑があるのは、熊野速玉大社の境外摂社の阿須賀神社
阿須賀神社と大威徳明王。狛犬はネックレスでおめかし。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-237.html

◇熊野詣に四苦八苦したお話
「後鳥羽院熊野御幸記」藤原定家へろへろ日記
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-467.html



参考文献
『熊野検定テキストブック』(編集・発行/田辺商工会議所)
和歌山県神社庁ホームページ http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=8010


いつも応援いただきありがとうございます。那智駅の敷地内には道の駅と、日帰り温泉があります。その名も「丹敷(にしき)の湯」。神武天皇に抵抗した女性の首長の名前です。那智大社へ行く前に、ここで潮垢離ならぬ湯垢離を行って身を清めてはどーお?と観光案内にありました。いやぁ、出来たら帰りに汗を流したいですなぁ。
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