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狛犬は珍獣ではなく神獣です。三重県御浜町の八幡神社

こんにちは。


古座川の滝の拝脇の 金ぴらさん の、丸い石


おんなじような丸い石があったと書いた、尾鷲市の 九木神社

記事を書いた後で、ふと思い出しました。


神社の奥の山を歩いていた時に


こんな真ん丸の岩があったことを。直径1メートル以上。


見事な真ん丸具合ですが、自然石です。


三重県熊野市の 花の窟神社 の真ん丸石も、山の中にあったのかしら?

丸い石つながりで、今日は狛犬日和。


三重県南牟婁郡御浜町の八幡(やはた)神社。



【由緒】創立年代不詳。

古来、市木川中流域に鎮座し、元は源氏の落人向井氏一族が奉祀。
元和3年(1617)市木村の産土神となる(『南紀神社録』)。

江戸時代には「中森八幡宮」と称し、明治期に八幡神社と改称。

明治40年11月18日。

①境内社の西宮(神功皇后)
②上市木字森首の上森神社(面足命)
③長通の下森神社(仁徳天皇)
④岡地の中山神社(稲倉魂命)※安政5年(1858)伏見稲荷大社より勧請。
⑤上地の上ノ神社(天照皇大神)

以上5社を当社に合祀。

よって、祭神は、元々の八幡神社(中森八幡宮)+5社=6柱となり、

譽田別命、神功皇后、面足命、仁徳天皇、稲倉魂命、天照皇大神

(以上三重県神社庁「八幡神社」より)
http://kyoka.mie-jinjacho.or.jp



明治の神社合祀は一村一社の号令のもと、全国で明治39年(1906)から大正3年(1914)までに約20万社あった神社のうち、7万社が廃されました。

特に三重県は苛烈で、県下全神社のおよそ9割が廃されています。


うわぁお。


なんだこりゃ?


あはは、こんにちは♪


・・・えーっと、筆舌に尽くしがたし?


んじゃ、ポット。


おちりです。


ある意味、かわいいです。


男前なことを言うじゃないか。


はいはい。


珍獣だもん。


しっぽがはり付いております。


丸い石のお話でした。まる。


八幡神社
《住所》三重県南牟婁郡御浜町大字上市木2294



いつも応援いただきありがとうございます。
九木神社の奥の山にあった真ん丸の岩。もののみごとにまんまるちん。とっても不思議でした。さて、御浜町の八幡神社の狛犬さんですが、まー、びっくり。顎や耳からお手手が生えて。後ろ姿はもう、愛でるしかありません。うふふふふ。

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飛鳥神社(3)新宮市の阿須賀神社とのつながりと由緒

こんにちは。


尾鷲市曽根町の飛鳥神社。

境内には、クス・スギの巨木やシマクロキ・バクチノキ・ムクロジ等の亜熱帯性と温帯性の植物が混生。

中には樹齢千年のものもあり、境内の樹叢は、県天然記念物に指定。



創祀は、不詳。社伝によれば熊野新宮の阿須賀神社の末社として創祀されたと伝わります。


【阿須賀神社と飛鳥神社】

《阿須賀神社》

阿須賀神社は、和歌山県新宮市、熊野川河口付近に鎮座。



【主祭神】事解男命 熊野速玉大神 熊野夫須美大神 家津美御子大神
【配祀神】黄泉道守命 建角身命

熊野三山のひとつの熊野速玉大社の境外摂社。

社伝によれば紀元前423年に創建。


阿須賀神社については、下の記事をご覧ください。

⇒⇒⇒由緒
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-236.html

⇒⇒⇒阿須賀神社の主祭神「事解男之命」の本地仏は、大威徳明王。と、徐福の宮
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-237.html

⇒⇒⇒阿須賀稲荷神社とみけつかみ
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-238.html


この阿須賀神社は蓬莱山を神奈備として鎮座。

蓬莱山からは古代祭祀跡(『新宮本社末社総目録』)、

蓬莱山を含む一帯に「阿須賀神社境内弥生式竪穴住居跡」(新宮市文化財)。

弥生時代から古墳時代の大規模な集落の存在が発掘調査により明らかにされています。(境内説明板とwikipediaより)

熊野三山の神々が熊野那智大社、熊野速玉大社、熊野本宮大社へ移る前にこの阿須賀神社の地へ降り立ったなど、熊野発祥の地だとの話もあり。(『熊野権現垂迹縁起』や社伝。諸説あり)



熊野参詣が華やかであった頃には、阿須賀王子が置かれるなど、熊野三山と密接な関係。


青いシートの下の復元物は台風で壊れ、今は撤去されてます。


《熊野市の飛鳥神社》

三重県の熊野地域には、阿須賀神社より勧請した「飛鳥神社」(江戸時代まで「飛鳥明神社」)が複数存在。

明治の神社合祀以前は、五郷(大井谷、寺谷)・飛鳥(神山、小阪、大又)両地区に5社の飛鳥神社。

飛鳥神社(寺谷)は、

新宮の阿須賀神社から大野御子と称する者を通じて当地に勧請(『中野文書』貞享元年(1684)「氏神飛鳥大明神勧請之事」)。

寺谷の飛鳥神社から、神山、小阪、大又の順で分祀されたと伝わります。

特に、飛鳥町小阪の飛鳥神社は、弥生式土器などが出土。
境内は古代からの祭祀跡と推定。

(上記、和歌山県神社庁より)
http://kyoka.mie-jinjacho.or.jp/shrine/飛鳥神社/


さて、曽根町の飛鳥神社へ戻りまして。


ここもまた、江戸時代には「飛鳥明神社」。


狛ちゃん、やっほー。



縄文から弥生、古墳時代に渡る出土品が確認された曽根遺跡に隣接し一部は境内。

祭祀跡の確証はありませんが、何かはあったんでしょうね。


拝殿。


わからない。



【祭神】速玉男命、事解男命、譽田別命、素盞嗚尊、木花咲夜姫命

【由緒】創建不詳。

社伝によれば熊野新宮の阿須賀神社の末社として創祀。

現存している寛永15年(1638)の棟札(尾鷲市最古)に「此宮仁無年歴代々校見来者七百余古宮也」。

近世には、産土神阿須賀大明神として曽根を中心に賀田、梶賀、古江の四郷の崇敬を受ける。

末社2社、大政所・小政所。(※『紀伊続風土記』)

明治4年(1871)村社、同39年(1906)神饌幣帛料供進社。


(緑文字は、三重県神社庁教化委員会「飛鳥神社」より引用)
http://kyoka.mie-jinjacho.or.jp/shrine/飛鳥神社-3/


棟札の年代「1638年」に、「7百年続く古い神社」。
少なくとも1千年前から、ここにお社があったと。

延喜式神名帳は、延長5年(927)当時に「官社」に指定されていた神社の名簿であり、政治色が濃いので延喜式内社でなくとも、「それがどうした」。


ねー。

そういえば。


社務所らしき建物から聞こえてきた太鼓の音。

ちょうど終わられたようなので、ご挨拶。

交代で太鼓のお稽古をさせてもらっているんだよ、と、氏子のおじさま。

「今の曲はね、『感謝』。来て下さってありがとう、神様ありがとう、の気持ちなのよ」

・・・車を停めてお詣りして、とことこと神門から出てくるまでずーっと続いていたのは、私をお出迎えして下さってた、と。

狛ちゃーん♪とか、うおー!おっきな木だー!とか、まぁるい石♪とか、もたもたしてすまないことをしたーっ。

身ぶり手振りで(←焦るとこうなる)謝意とお詫びをお伝えすると、

「お願い事が叶うかどうかは、神様次第ね」 by おじさま。

あうち。

「また来てね。みんな、待ってますよ」


おじさまの気持ちがとっても嬉しくて、スキップな心地。


来るよー。


・・・帰らせてください。


海辺のこじんまりとした神社ですが、とっても素敵なお社でした。

おしまい。


飛鳥神社(曽根町)

《住所》三重県尾鷲市曽根町610


いつも応援いただきありがとうございます。
ご心配をおかけして申し訳ないです。出ようかな、どうしようかな、と迷う蕁麻疹。夜になるとまだちょっと桃色ダルメシアンでした。さて、飛鳥神社。古代祭祀跡の神聖な場所に、阿須賀神社が勢力を伸ばしたかと感じる分布ですね。海辺に樹齢千年の木々が並ぶ境内は圧巻です。素敵な氏子のおじさまと出会えて、心はほこほこ。とても居心地のいいお社でした。

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飛鳥神社(2)樹齢千年の杜と曽根弾正や曽根遺跡。曽根町とは

こんにちは。


海際にこんもり。


樹齢1千年のクスの他、スギの巨木やシマクロキ・バクチノキ・ムクロジ等の亜熱帯性と温帯性の植物が混生するのは、

尾鷲市曽根町に鎮座する飛鳥神社。


《曽根町てどんなとこ?》


こんなとこ。(クリックで拡大)

曽根遺跡

縄文式各期(早・前・中・後・晩)、弥生式および古墳期を含む遺跡。

石刀三振・石剣一振・垂玉一個などが出土。

縄文時代から古墳時代の長期間に渡る遺跡は、熊野灘沿岸では例のないもの。

※飛鳥神社境内の一部も埋蔵地域の一部にかかっています。


曽根城跡と曽根弾正

曽根町の南、海抜180mの城山の山頂にある城跡。

近江国甲賀の佐々木宇右衛門が弘治年間(1555-1558)に築城。

盗賊や海賊から村を守るため、村人が六角氏に嘆願。

六角氏一族の佐々木宇右衛門が一族郎党を率いてお引っ越し。
曽根に入り、曽根弾正を名乗る。

南輪内四村(古江浦・賀田村・曽根浦・梶賀浦)の区域を治めた。

伊勢国司北畠氏→(北畠氏、信長に負け)→新宮の堀内氏善に従う。

曽根弾正の孫・久三郎は、関が原の戦で西軍。
敗戦後曽根を去り、二木島へ移住。

同族の向井氏(現在中野氏)が北座(宮座)として曽根浦の神事を統治し、弾正の墓地を祀る。

曽根町の東はずれの向井地墓地の室町末期の五輪塔一基(全高86cm)、江戸初期の五輪塔一基(全高101cm)、江戸初期の板石塔婆一基(全高95cm)が曽根弾正夫妻と長男のものと推定されている。


尾鷲市ホームページ「尾鷲市の文化財」より
http://www.city.owase.lg.jp/contents_detail.php?co=cat&frmId=12992&frmCd=33-9-1-0-0


熊野古道伊勢路の「曽根次郎坂・太郎坂」が背後の山にあります。

伊勢路は、お伊勢さんと熊野を結ぶ参詣道。
和歌山側の熊野古道と違い、多雨の気候のため石畳の道が多く、情緒たっぷり。

ただ、未整備の区間もあるので気をつけましょう。



サウナみたいなムシムシです。


木の大きさって伝わりにくいですが、ほーら、おっきい。


石段があったので、下りてみます。


港側へ来ました。


こちらが参道なのかしら。

祭礼時に禊するのかな。


石段を上がると、森の中。

境内の樹叢は、県天然記念物に指定。


むわーっと緑の香りがむしむし。


太い木全てがご神木なのかしら?


ご神木の邪魔です、石垣さん。


ヌシ様がいるよー。


拝殿が特に小さいわけではないです。


のびー


わき腹ものばしてー


あぶないです


無理です。嫌です。


話が進みませんが、

区切りがいいので本日はこれにて。えへ。


尾鷲市曽根町の飛鳥神社

《住所》三重県尾鷲市曽根町610


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出土品が縄文時代から古墳時代の長期間に渡る曽根遺跡は、それだけこの場所が食糧豊かで住みやすかったということを示しているのでしょうね。地図を見るとかなり深い入り江なので、台風でも大丈夫だったのかな。これだけの巨木が残っているんですもの。

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飛鳥神社(1)巨木並ぶまんまる石の石積。尾鷲市

こんにちは。


はーい。熊野ですよー。


おっきなおっきなわんこもいますよー。(獅子岩です)


三重県熊野市からちょっと東へ走り


名古屋(きしめん)と東紀州(さんま寿司)の融合点の尾鷲市へ。


しくしくしく。の、賀田湾。


海面に垂れ下がる木々がありまして。

こちらが、


もりっと木々が生い茂る飛鳥神社。


こーまちゃん♪


うおー。ぶっとい木がっ。


ちょっとぶちゃいくちゃんになってしまっていますが、笑顔ちゃんです。


狛犬の三つ指ご挨拶。まぁ、ご丁寧に。

・・・かわいいなー。やっぱ狛ちゃんが大好き♪


阿吽共に台座を囲むまんまる石。


珍しいなーと思います。


吽ちゃん、きばっ。牙が出てるよっ。


おおおーっ。ぶっとい木がー!


海辺にこんなおっきな木。


幅としては車が楽に通れる参道です。


近寄ると視界が木で埋もれます。


よちよちっと。


右側の社務所?の建物から、ずっと太鼓のどんどこという音が聞こえます。

祈祷か何かされてるならお邪魔なので、静かに静かに。


しぃーっ。


うふふ。うふふふふ。

やだ触んないでっとか、そっぽ向いちゃえーっとか、聞こえてきます。


まんまるに整えたのかなぁ。見事にボール。

狛犬さんの台座周りといい、こちらはまんまる石がお好みなのかなー。

それとも、名物なのかな。


上と社殿側は、平面です。


社殿側は普通の石積に見えます。でも外はまんまる。んふ。


わかったってば。


な、なんか、ヌシみたいなものがいるよっ。


いつも応援いただきありがとうございます。
ガラッと変わって、東紀州、熊野地域です。熊野市と尾鷲市を結ぶ自動車道が出来たので、今までの半分程度の時間で行けるようになりました。行きは山間を走る旧道を走りましたがすっかり寂れてしまって。便利にはなりましたが、正直、あまりの落ち込みぶりに驚きです。

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熊野から国道169号線で大阪へ。薬師湯立ち寄り

こんにちは。

昨日、新宮市から海沿いを走り、ついでに尾鷲市まで足をのばして。


飛鳥神社。

樹齢1000年という楠や杉の巨木が林立するけど、海辺の神社。


几帳面にまんまるの石が積まれてました。


熊野市でお泊まりしました。


この木製のおひつ、素晴らしいですね。

保温性あるし、湿気でべちょっとならないし。

・・・おかわり自由だしっ♪


えへえへ。


お刺身ぴっちぴち、酢の物甘め、塩辛うまうま。


椎茸、舞茸と焼きネギとうにゃぎ等を生卵につけていただきました。

旅館の豪華な懐石ではないですが、どれもとても美味しかったです。

お風呂で汗を流して、上げ膳据え膳お酒ごくごく。

夜はもちろん、ぱたんきゅう。

翌朝。ごはーん。


熊野市は三重県の西の端っこの辺り。東紀州とも。

東海と関西の文化が交わるところ。

いや、単に、名古屋と同じ赤味噌のお味噌汁に狂喜乱舞してるだけです。こほ。

お魚のみりん干し、美味しかったです。

そして、熊野市でお泊まりする楽しみが、こちら。


くぅぅぅー!この画像が見たかったのー!!(傘マークは見たくない)

東海地方の天気予報画面。

ずっとこれ見て育ったので、なーつかしーい♪


・・・で、これから帰る大阪の気温に、ドン引き。


腹ごなしにちょっと波打ち際まで。

七里御浜は小石の砂浜なので、ものすごく歩きにくいです。

そして、


ちょっくら獅子岩くんにご挨拶して、

国道169号線経由で大阪へ。えっちらほっちら。

途中の奈良県上北山村の「道の駅吉野路上北山」で。


川向かいにある、「上北山温泉薬師の湯」へ。

木造風の建物が日帰り温泉施設。
隣の立派な建物は「ホテルかみきた」ですが、今はおやすみ中。

今日は温泉でゆっくりしました。

にゅるすべのお湯で好きなんですが、いつもは道中を急ぐので立ち寄りできず。

二時間ぐらいうだうだしてましたが、女湯はずっとひとりぼっち。

お天気がよくなかったから、きっとたまたまです。うん。


ランチは道の駅で、きつねうどん。関西のおだし。

天かすも浮いてるので、ハイカラきつねうどん?


ずーっと視界が緑だらけ。

橿原神宮付近で外気温が、35度。ぐへぇ。


いつも応援いただきありがとうございます。
旅先では虫の音を聞いたのですが、大阪はまだ夏。それでも夜になると少し涼しい、涼しいかな、涼しいと思え!です。熊野から吉野付近までは雨が降ったり晴れたりと不安定でしたが、カンカン照りよりはるかにらくちんでした。走行距離は600キロ弱。山中でガス欠にならないよにちょこちょこと給油しましたが、いやはや、南紀はガソリンが高かったです。

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木本神社。熊野灘の水は飲めません。

こんにちは。


獅子岩。

紀伊半島南部では、熊野酸性岩という火成岩が熊野層群という堆積岩の中に貫入して、那智滝、鬼ヶ城、橋杭岩など特異な風景を作り出しています。


那智の滝。


橋杭岩。津波で一部崩落。


国の名勝鬼ヶ城。


鬼ヶ城は、流紋岩の大岩壁。


鬼ヶ城は数段の階段状になっていて、数回の地盤の隆起の跡と波蝕洞窟と天井の風蝕痕が段々畑のようになっています。

盛り上がっては削られ、盛り上がっては削られ。


その流紋岩は火山岩の一種。

熊野酸性岩と流紋岩のように、火山の影響が大きいのが紀伊半島南部の見所です。


この鬼ヶ城の付け根に鎮座するのが、


木本神社。


紀州藩直轄地のプライド。

【安政の村替騒動】

安政二年。木本方面の紀州藩領二十七ヶ村と有田方面の新宮藩領五ヶ村の知行替えに反対する木本の人々の一揆を防ぐため、江戸詰御勘定奉行の吉田庄太夫が熊野に来て説得にあたり、知行替えを行わないとの誓詞を独断で書き中止させるも、その責任を取り自害。


吉田庄太夫を祀る吉田大明神石祠。


今は平和なお社。

しかし、目の前はなんと。


堤防と国道。

向こう側に渡ると、


水門おーぷん。


うーみー。

っと、かくの如く目の前は海。また、木本の土地は砂礫層に覆われていて、水に恵まれず。

干ばつの時には、一荷なんぼ、と飲み水を販売していたといいます。



1712(正徳2)年。長年の水不足解消のため、木本浦の浜地太右衛門さんが水源地から町内四カ所(低地)に水を引くための工事を行います。

長い松の木を縦に割り、中をくりぬいたものを合わせて土の中に埋めて水を引く水道管を作り、「水槽石」に貯水。

木本の人々の飲料水としました。



当時四カ所に配置された水槽石は、木本神社の手水鉢を含め四個とも現存しています。

そんな木本の地。大変だったんだなぁ。


狛犬さんは笑顔。ほっこり。


笑顔でおねだり。最強。


お祭り?


おや、ビーバーの尻尾。かわいい。

阿吽で尻尾が違うとこ、お気に入り♪


お神輿だー。

毎年、神輿の渡御に付き添う形で「六方行列」が進む木本祭りは熊野市無形民俗文化財。


歴史の語り部。



木本神社
《住所》三重県熊野市木本町95





いつも応援いただきありがとうございます。目の前にお水はたっぷりあるけれど、海水では飲めず。木本神社には鎌倉時代のものとされる木像狛犬さんがいるのですが、貴重なものなので熊野市歴史資料館の画像で満足しました。この資料館のおじさまが、熊野市大好きな素朴で真面目な方で、この方にお会いするのも熊野通いの楽しみのひとつ。うふふ。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

新宮城と安政の村替騒動の木本神社。欲深さんは大嫌い

こんにちは。

紀州徳川家の治める親藩の紀州藩。


(高野山奥の院)

徳川家康の十男・徳川頼宣が紀伊国一国に南伊勢を加えた55万5千石で入部し、成立。お住まいは、和歌山城。

和歌山市から南伊勢(熊野一帯含む)を治めるのは広すぎる。


そこで、徳川頼宣の付家老・水野重仲(家康の母方の従兄弟)が新宮城城主となります。


紀州徳川家の重要な拠点。


1633年(寛永10年)第二代城主・重良の時に一応完成し、以降水野氏の居城として明治維新を迎えます。


小さいながらも、地元の熊野酸性火成岩を積み上げた優美な城との評判。


新宮城は熊野川河口に建ち、専用の港を持ちます。


「水の手郭」には港があり、軍港と共に経済的物流港の役割も果たしました。


港の横には炭納屋群の跡が19棟。江戸へ送る紀州備長炭の倉庫です。

新宮の紀州備長炭と鯨油を江戸へ販売。
紀州徳川藩の名を利用し、関税無料。



紀州藩新宮領は35000石でも、炭と鯨油の販売により、実質は数十万石もの力があったと評されたのでした。


桝形の虎口。

しかし、新宮領主水野家には、とても悔しいことがあります。

初代水野重仲が家康の母方の従兄弟であろうとも、新宮領がどんなに大富豪であろうとも、紀州藩付家老はあくまでも陪臣。

直参は1万石。水野家は35000石。決して少ない石高でもない。

9代城主の水野忠央は何とかして直参になりたくて、幕府内部へ身内を総動員する勢いで婚姻、養子縁組により入り込むも、失敗。強制隠居。

覚えておいてね「9代城主の水野忠央」




さて、熊野。ここも紀州徳川家が治める土地。


名勝鬼ヶ城の上には鬼ヶ城本城。

室町時代(1523年頃)に熊野有馬氏の有馬忠親が甥の忠吉に家督を譲り隠居城として山頂に築城したお城。


「おしおきだべぇー」・・・わかるあなたが大好きです(≧∇≦)


くるっと回れる遊歩道なんですが、太平洋の荒波の力は物凄い。


鬼ヶ城の西の端に鎮座するお社。


木本神社。



木本神社が鎮座する木本町は、江戸時代に紀州徳川家の本藩公領地として『奥熊野代官所』が置かれ、熊野川以東の熊野地方の中心地として栄えた町です。


小学校みたいでかわいいお社。

木本神社は、元は「若一王子権現」(「若一王子」=天照大神)といい、新田地区にあったものを現在地に遷座したと言われています。

熊野市歴史資料館に1608(慶長13)年の遷宮棟札(写し)があり、このお社のお話をお伺いして興味津々。

木本神社のポイントは。

新宮城城主水野さん、嫌だもんっ

・・・私の熊野うきうき旅を全否定するが如き衝撃。



覚えていますか「9代城主の水野忠央」

水野忠央(ただなか)は政治的権力と金力をもって、本藩の紀州藩を抑え、実権を握ります。35000石の水野家。石高充分、ひゃっはー。

初代水野重仲が家康の母方の従兄弟だろうが、新宮領がどんなに大富豪だろうが、紀州藩付家老はあくまでも陪臣でー。

これは我慢の限界!

何とかして直参になりたくて、幕府内部へ身内を総動員する勢いで婚姻、養子縁組により入り込み、幕府をも動かし、まずは多年の夢である村替を実施しようとしました。


交換にせよ、こんな魂胆見え見え。

安政2年。
木本方面の紀州藩領二十七ヶ村と有田方面の新宮藩領五ヶ村の知行替えが発表されると、税が重くなることを恐れた木本側による領地替え反対騒動が発生(安政の村替騒動)しました。

つまり、和歌山に近い有田の新宮藩領五ヶ村と、和歌山から遠い木本方面の紀州藩領二十七ヶ村を交換しましょ、と。

木本、紀州藩直轄から、新宮城主の配下となってしまう、ということで。



反対の理由

【表向】

「歴代藩主の御恩忘れ難く、村替されるのは母から裂かれる子のようなもの」と終始一貫して共同目標をかかげ嘆願し、ひたすら基本姿勢を崩さず続けました。


【本心包み隠さず】

「新宮側の財、税政に対する不信や猜疑心(年貢の引上げ等)」であり「木本方面の27ヶ村は本藩に属していた自尊心」があったことでしょう。


そこで登場するのが、江戸詰御勘定奉行の吉田庄太夫。

一揆を防ぐため、吉田自身が木本に来て説得にあたりますが、木本側は納得しません。

庄太夫は侍と百姓という身分を越え、人間と人間として命をかけて向き合い必死に説得。

しかし民意を動かす事が出来ないことを察し、庄太夫は藩命にそむき独断で「村替中止のことは身をもって引き受ける」と宣言し、有名な「村替据置」の誓紙を手交し、一揆を中止させます。

藩命にそむいた侍の責任の取り方は、死をもって償う「自決」。


5月15日早朝。
庄太夫の木本出立にあたり、「一期一会」になることを察し人々は、交代で庄太夫を担ぎ、前後に大明神幟をなびかせ、泊峠(松本峠)を越え大泊まで見送りました。


松本峠は鬼ヶ城の上を通る。


そして、大泊から尾鷲へ。

庄太夫は江戸に戻り、自身の言葉通り村替を中止させ、のちに江戸藩邸において自決。


吉田庄太夫を祀る吉田大明神石祠。

9代城主の水野忠央は幕府内部へ身内を総動員する勢いで婚姻、養子縁組により入り込むも、失敗。新宮へ強制隠居。


こんな歴史を見つめた木本神社なのでした。



いつも応援いただきありがとうございます。神々のおわす熊野の地といえども、ここに生きる生身の人々には幾度も豪族の戦いに巻き込まれたり、圧政に耐えかねることもあったわけで。その微妙な歴史の積み重ねがとても面白い熊野なのです。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

神話と熊野。イザナミの子達と花の窟神社のお綱。

こんにちは。


淡路島おのころ神社のせきれい石。


せきれい先生を覗き見して、子作りを知ったイザナギとイザナミ。


神生みを始めます。

ところが。


三重県熊野市。産田神社。

日本書紀に曰く。

「 一書曰伊弉冉尊、火神を生み給う時に灼かれて神退去(さり)ましぬ」


イザナミは火神カグツチを生む際に火傷。お亡くなりになりました。


「故(か)れ紀伊国 熊野の有馬村に葬(かく)しまつる」




三重県熊野市有馬町。花の窟神社。

「 土俗(くにびと)此神の魂(みたま)を祭るには 花の時に花を以って祭る 又鼓 吹幡旗(つづみふえはた)を用て歌い舞いて祭る」



「即ち当神社にして、其の由来するところ最も古く、花窟の名は増基法師が花を以て祭るより起これる名なり。」

花を供えて祀った岩屋。よって、花の窟神社。



「花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。」


「南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。」



さて、生まれるときに母伊弉冉尊の体の一部を焼いてしまった軻遇突智(カグツチ)。


父のイザナギに殺されてしまいました。

このとき用いたのが、十拳剣(とつかのつるぎ)の、天尾羽張(あめのおはばり)。

天尾羽張についた軻遇突智の血から、火・雷・刀に関する神が生まれます。


再び、花の窟神社。


イザナミ。

「此の窟の南に岩あり、軻遇突智(かぐつち)神の神霊を祀る。」


「此の神、伊弉冉尊の御子なれば王子の窟という」

イザナミのとカグツチの窟は向かい合わせに鎮座しています。

さて。



寂しいイザナギは、イザナミに会うため黄泉の国へ行き、


変わり果てたイザナミの姿を見て逃げ出します。


「不負於族(うがらまけじ・お前には負けないもんっ)」と言い捨て、お別れを切り出し、ぺっ、します。


唾から、速玉男之男神、誕生。熊野三山の祭神の一人。

古代、唾を吐くのは、魔除・祓い・契約を意味する行為とか。


それを掃きはらって、事解主之男神、誕生。

こうして生まれた二人のぼっちゃんは、共に穢れ・汚れを祓い清める力を持ちました。


黄泉の国とイザナミにお別れして、帰る父子。


黄泉の国の穢れを祓うため「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」で禊を行なうと、様々な神が生まれ。最後に。


アマテラス。


ツクヨミ。


スサノオ。

三貴神の誕生です。


イザナミの葬られた三重県熊野市・有馬の、花の窟神社。

ご神体は、イザナミ。

このご神体にかけられるのが「お綱」。


夕方撮影したので白黒です。


扇に挟まれた三つの飾りは、イザナミにアマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴神が奉納したとされています。




この飾りを付けたお綱は、年に一度、「お綱かけ神事」で新たにかけられます。

「かけ替え」ではないため、前回のお綱が残っている場合でもそのままにしておきます。

前の大祭のお綱が残っていることは、豊作を約束されたものとして喜ばれるといいます。(現地説明書)


7本の綱から出来ています。

古代米の稲藁で作られた7本の綱を1尋ごと(1.6m)に結束。

7本の綱が意味するものは、イザナミが生んだ自然神7柱。

①風の神・・・級長戸辺命[シナトベノミコト]
②海の神・・・少童命[ワタツミノミコト]
③木の神・・・句句廼馳[ククノチ]
④草の神・・・草野姫[カヤノヒメ]
⑤火の神・・・軻遇突智命[カグツチノミコト]
⑥土の神・・・埴安神[ハニヤスノカミ]
⑦水の神・・・罔象女[ミツハノメ]

面白いなぁ。


神内神社。

前回記事の神内神社の伝承では、ここでイザナミが一女三男を生んだといいます。


古神殿。

果たしてその子達は誰なのかな、とわくわくする週末なのでした。


いつも応援いただきありがとうございます。イザナミは何といっても八百万の神をお生みになりましたもの。神内神社で生んだの、だぁれ?と思っても古事記・日本書紀には記述がない。しかし、熊野一帯はどこも神話の世界の空気が漂っていて、あっちこっちにこのようなこぼれ話が存在していそうです。
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神内(コウノウチ)神社。神皇地に鎮座するお社

こんにちは。

和歌山県の南端から東に走り熊野川を渡ると、三重県。



ここは三重県紀宝町神内近石(ちかいし)958番地

今日は、いかにも熊野らしいお社を訪ねます。


巨木の立ち並ぶ社頭。


神内神社です。


「『明細書』に『当社の義は近石と申すところに逢初森(アイソメノモリ)というのがあり、そこにイザナギ・イザナミ、天降らせ一女三男を生み給う。

この神を産土神社(ウブスナジンジャ)と崇め奉る、よってこの村の名を神皇地(コウノチ)と称す。

いつの頃よりか神内村(コウノウチムラ)と改むと言い伝う』とあり。

近郷の人、子安の神、安産の神として参詣するもの多い。また豊漁の神として近隣の漁師の信仰厚い。」(現地説明板より)

創始は明らかではなく、上記は子伝承に依っています(三重県神社庁HP)。



安産?


石を飲み込むホルトノキでした。

この石は鎌倉時代に参道の両脇に並べられた石。
数百年が経過し木が成長。石を抱え込んでしまったようです。


木々に圧倒されて私は今、緑色かも。


神武天皇や明治天皇と並び、佐倉宗吾の宮があります。

【佐倉宗吾って誰】
江戸時代前期の人。佐倉藩領、公津村(現・千葉県成田市台方)の名主。
藩主堀田氏による苛政に苦しむ百姓のために1653(承応2)年、上野寛永寺に参詣する将軍徳川家綱に直訴。

その結果、藩主の苛政は収められたが、佐倉宗吾夫妻は磔となり、男子も死罪となります。

佐倉宗吾の物語は歌舞伎や講談などでも語られ、義民として知られるようになり、ここ神内神社では百姓の神として祭られるようになりました。(現地説明板より)


向かって左が神武天皇や明治天皇をお祀りする祠、その脇の岩屋に佐倉宗吾宮。


奥行きのある空間になっていました。


ぴしっと。


おっきな岩ねぇ。


「神内神社は、石英粗面岩(熊野酸性岩)の岸壁をご神体として祭った原始宗教の名残りのもので、多数の水蝕洞穴があり岩面には着生植物が多い。

神社の境内には着生植物、シダ植物を含めて約300種の植物が繁茂している。」(現地説明板)



お社の横に清流。禊の場所でしょうか。この階段は


真っ直ぐ本殿に通じています。


迫力に圧倒されて川に落ちそうです。


おや。狛犬さん。


はじめまして。


お手々はすすぎました。


なによっ。失礼なっ。


見張り番、お疲れ様です。


ぷ。


いやぁん。かわいい。

どうも違和感があると思ったら、阿吽が逆でした。


頭がっ。あたまっ。


そこまで申してはおりません。


狛犬さんの横のこちらで改めてきれいきれいに致しまして。



続きは次回。原始宗教と熊野の巻。のつもり。


いつも応援いただきありがとうございます。私、緑色になってるんじゃないかしら?っとわくわく。参道の山側(向かって右側)をよく見つめると、あちこちから巨大な岩が顔を出しています。大きすぎて画像に入らないです。くすん。
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九鬼水軍の故郷九木神社。隠れ住んだ尾鷲市九鬼町。

こんにちは。

熊野市に行く前にこちらに行きました。

三重県尾鷲市。

尾鷲市市街地から八鬼山トンネルを通ってようやくたどり着くのは

尾鷲市九鬼町。



1367年頃、伊勢国佐倉に居住していた九鬼中将藤原隆信は、家臣の平賀蔵人の謀逆により仁木義長に破れて従者悉く離散。


同年、この地にたどり着き直ちに城を築きます。
よって、この地を九鬼と呼ぶようになったといいます。


九木神社創祀は隆信の嫡子隆治の時。

宮内少輔九鬼隆治は永和年中(1375~1378)(南朝)、駒之原における戦の時、四方を敵に囲まれ「こりゃーもう自害しかなかとー!」という窮地に陥ります。


このとき北野天満天神に祈り、その加護を得て窮地を脱しました。


よって、宮内少輔九鬼隆治は九鬼城内の祠に天満天神を祀ります。
これを社伝では創祀であるとしています。


1662(寛文2)年に現在の鎮座地に遷座。


遷座の際に、この地の産土神として祀られていた若宮八幡・国柄明神を共に1社に祀られたと伝えられています。


古くから「天神」と称し近郷の人々の崇敬を集めてきた九木神社。
先代までは九鬼氏子孫さんが宮司でした。


しかし、九鬼氏が当地に居城したのは数年の間。

文和年中(1352~1356)(北朝)に隆良は「武名を天下に上げん!」と、壮士30余人を率いて海を渡り、志摩国英虞郡波切村に着き、そこで居を構えます。(「九鬼家々譜略」)

数年間でも、くっきーさんがいた土地、九鬼の町。そう思うと・・・

なのです。


三方を山に囲まれ、深い湾を有するこの土地に九鬼さんは敗走してたどり着いたなんて。ろまーん。


笑いがとまらん。


なのよ。


祭神は、菅原道真。天神さんなので、


もーもーさんがいます。


一人笑いを見られたらしい。


微妙に賢い牛だ。ち。


明治6年(1873)村社に列せられ、同39年(1906)神饌幣帛料供進社となっています。


ツボった。


かわいい。


ここは漁港の町。


神社の裏山に回ると、景色がいいと案内がありましたの。


なんだこりゃ。


おおー?








直径1mの砲弾じゃないよ。そんなもんどうやって飛ばすんだー。
ハロが化石になっちゃったんだよー。


さらに歩きまして。




外海から九鬼湾内に入る出入口になるようです。


背後は山々峰々。


灯台に遭遇。どうやら岬の先端に来たようで。


岬神社。そのまんまやん。


ここが終点。さ、戻りましょ。


九鬼さんも、きっと見たね。楽しいな。


いつも応援いただきありがとうございます。九鬼氏といえば信長につき、水軍を率いて勇猛に戦った志摩の九鬼の印象が強いのですが。かつては敗走してこの場所にひっそりと隠れ住んだのですねぇ。
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