fc2ブログ

新しい能楽堂、西宮能楽堂へ行ってきた

こんにちは。

趣味がが能楽なんですが、お休みのときは出来るだけあちこちの舞台へお邪魔して、いろんな先生の舞台を拝見するようにしております。

能ってのは、謡本と型付があって、定められた規範のなかでしかできないと思われがちですが、実はふれきしぼー。

シテ(主役)の考え方、捉え方で、いろんな演出が出来るんですよ。

で。

今日はお休みいただいたんで、西宮市鳴尾に昨年末に新しくできた西宮能楽堂へお邪魔しました。


駅からほどなく、こんなもだーんな建物がありまして。


設計を担当された方がデザイン履歴にきっと載せる斬新な能楽堂。

お屋根のてっぺんの窓から自然の光が入るようになってます。


中から見るとこんな感じ。


おめめに眩しい新品ぴーん!な舞台です。


建物in建物が、能楽堂。

かつては屋外にあった能舞台。

武家の式楽から芸能へと変遷する中で、雨天でも決行できるように屋内へ入れました。公演の確保のためですね。

んで、建物in建物の形が増えました。

手前が目付柱。この柱付近を「角(スミ)」といい、目印になる柱です。

面を付けることで果てしなく限られる視界のなかではこの柱ってとっても大事。


何を叫んでるかと言うと、この金具。


歌舞伎でも有名な「道成寺」の鐘を釣るための金具なんです。

数百キロある大きな鐘を釣り上げ、シテにかぽんっと被せる、いや、シテが鐘に飛び込む道成寺は、シテ方にとって卒業証書といわれるたいへん重要な演目です。


某所の鐘のスケルトン

でっかくて重たい鐘を釣ったり落としたりするんですから、古い舞台では、天井がもたない、あるいは、舞台が抜けちゃうかも?な心配があって、道成寺を公演できる能舞台は限られているそうです。

それはさておき、新しい能楽堂。


わざと白い壁にして、プロジェクターで詞章や参考図面を写し出すことができるよーになってます。

国立文楽劇場では、舞台の上に字幕スペースがあり、詞章を字幕にして写し出しており、初心者にはわかりやすいです。(慣れると、邪魔だなぁと思う人もいます)



どうしたら初心者でも楽しめるのかなぁー?と、オペラや歌舞伎、文楽等で導入されてるのが、イヤホンガイド。



舞台の解説をしてくれるありがたいサービスですが、能の場合は数週間にかけて上演される前述の公演と異なり、たった一度限りの上演なんです。

そう、まさに「一期一会」。

イヤホンガイドでは通常、録音したものを繰り返し使用しますが、能ではそれができず、というか、一回限りなんで録音せずに生放送。贅沢ですね。


で、今日の演目は。


杜若でした。

藤原家の宝物の二条后をさらってカケオチしようとした業平が、事件発覚により咎められ、都から旅に出た(「伊勢物語」の東下り)道中、三河知立の八橋でのお話。


きつはた つつなれにし ましあらば るばるきぬる びをしぞおもふ

か、き、つ、は、た。

です。

このような言葉遊びの入ったものを「折句」「折句和歌」といいます。

で、「杜若」の主役は、杜若の精。

なんで杜若と業平が絡むのかというと。

業平は平安時代に既に「歌舞の菩薩」と称えられており、その功徳により杜若の精が成仏したというのが能「杜若」のお話。

シテのご当主は普段からとても朗らかで優しくて、大好きな先生なんです。お目目、ハートで拝見しました。うふふ。

とてもきれいなお姿で素晴らしかったです。また拝見したいです。


帰る間際にやっと気付きましたが、通常は松だけの鏡板が松竹梅になってました。
スポンサーサイト



おんな城主直虎・第5回。苦しみと悲しみの般若と笛の音

こんにちは。

今年の大河。今川ファミリーの芸能が楽しみです。


【高砂やぁ~】


瀬名の謎ダンス。

これは無論「仕舞」ではなく創作ダンスですが、

この背後に聞こえてきたものは、謡「高砂」。

高砂や。この浦舟に帆をかけて
この浦舟に帆をかけて
月もろともに出汐(いでしお)の
波の淡路の島影や
遠く鳴尾の沖過ぎて
はや住ノ江に着きにけり
はや住ノ江に着きにけり



祝言の席で仲人さんが謡う曲です。

友人が謡う時は、同じ「高砂」の「四海波(しかいなみ)しずかにて」の部分を謡います。


【能の面(おもて)・般若】

間違い探しです。


どこが違うでしょーか?

ヒント。


これは正解。

ち、ち、ち・・・


野村萬斎先生。


どうでしょう?

はい、そうです。瀬名の持っているものがもし能面なら、


べちょんっと持つのは、とんでもないこと。

で、この面(おもて)「般若」。

顔の上部分は苦しみと悲しみを、下は怒りを表しているとされます。


この面(おもて)を用いる代表曲は「葵上」。

シテは六条御息所。

思い知らずや 思い知れ

と、嫉妬に狂い鬼となりながらも、あさましい我が姿を恥じる複雑なおとめごころ。


ひとつの面(おもて)で相反するふたつの感情を表す点が、この般若の面以前に存在した「鬼女」と「般若」の大きな違い。

これは動くと一層鮮明に。

僧や山伏に立ち向かう時は顔を上げて「怒り」、祈り伏せられる時には顔を伏せ「悲しみ苦しむ」のです。

さらに。

能には男女の鬼が出てきますが


角が生えるのは、女の鬼のみ。


こうさせたのは、誰だ。


【笛の音は「唱歌」】


お囃子。向かって左から、大鼓(おおかわ)、小鼓、笛(能管)。

地謡があるときは言葉を聞いて動けばいいですが、時にはお囃子だけで、舞うことがあります。

ぴーひょろぴーひょろ、と聞こえる笛の音。

これは、楽譜になっています。

おひゃあらー、おひゃいひょーいひゃーりうひー

と、文字化された笛の音。「唱歌」です。


覚えないと舞えないよ。

この唱歌。

オーケストラの「楽章」に相当するのが、「段(だん)」。

第一楽章=一段目、第二楽章=二段目、な感じ。

中之舞は三段、神楽や楽(がく)は五段、というように基本的には長さが決まっています。

時には、三段+五段+五段=十三段、にする特殊演出(小書/こがき)なんてのもあり。



んでは、再放送前に。

「私はいき遅れましたが(むかー)」の台詞の直後。

はっ!

のあと。

笛の音、文字にしてみました。

おひゃらーり、ひういやらぁーり、
ひうーるーいひゃーりうひ、
おひゃーらーいほうほうひー、
おひゃいひょいひゃりうひ、
おひゃらりひういやらーり、ひうるーい・・・
ひー!

と、聞こえてくるのですわ。

すんごい早口で。


そう言わずに、れっつとらい。



いつも応援いただきありがとうございます。
ドラマ音痴なもので、瀬名を演じてるのが誰かも知らず。不思議な創作ダンスと地団駄でしたが、彼女の感情を表したんでしょね。唱歌は能に限りませんし、どの曲かもわかりませんが、一度聞いてみていただけたらと思います。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


いつもありがとうございます。励みになります。

おんな城主直虎・第3回。能「巴」汝は女なり。義仲との別れ

こんにちは。

「おんな城主直虎」第3回冒頭、能「巴」つづき。

曲の情緒を味わうのには、謡の原文(緑色の文字)をたどっていただけたらと存じます。



近江国粟津ヶ原。


小さな祠の前で泣いていた若い女は、実は巴の幽霊。

木曽出身の僧達が弔いのお経をあげていると


「落花(らっか)空(むな)しきを知る。
流水心無うして自づから。澄める心はたらちねの」


と謡いながら、長刀を手にした巴の幽霊が現れます。


巴が語るのは、ありし日の木曽義仲の姿。


治承4年(1180)。以仁王の下した平氏追討の令旨により、挙兵した木曽義仲。


地謡「さても義仲の。
信濃を出でさせ給ひしは、五万余騎の御勢くつばみを並べ攻め上る。
砺波山(となみやま)や倶利伽羅、志保の合戦に於いても。
分捕高名(ぶんどりこうみょう)のその数。
誰に面を越され、誰に劣る振舞の。
なき世語(よがたり)に、名ををし思ふ心かな」




出立時は五万余騎の大軍。諸々の合戦で勝利し都へ入った義仲。


シテ「されども時刻の到来」

地謡「運つき弓の引く方も、渚に寄する粟津野の。
草の露霜と消え給ふ。

所はここぞお僧たち。
同所の人なれば、順縁に弔はせ給へや。



しかし、時の運は残酷。
運尽き果てた義仲は戦に敗れ、琵琶湖湖畔の粟津ヶ原のこの場所(女が泣いていた祠)で、草の露と消えたのです。

僧よ、同じ木曽の出身なのだから、懇ろに弔って下さい。


そう願う巴。いよいよ義仲の最期の戦いを語り始めます。


地謡「さてこの原の合戦にて、討たれ給ひし義仲の。
最後を語りおはしませ」

シテ「頃は睦月の空なれば」

地謡「雪はむら消えに残るを。
ただ通ひ路と汀(みぎわ)をさして。
駒をしるべに落ち給ふが。

薄氷(うすごおり)の深田(ふかた)に駆け込み、
弓手(ゆんで)も馬手(めて)も、鐙(あぶみ)は沈んで。
下り立たん便りもなくて。
手綱にすがって鞭を打てども。
退く方も渚の浜なり、前後を忘じて控へ給へり。
こはいかに浅ましや。」



義仲の乗った馬が薄氷を踏み破り、両足を沼田に取られ絶体絶命。

なんてこったー!っと、巴は駆け寄りますが、

義仲は重傷。



地謡「かかりし所にみづから、駆け寄せて見奉れば。
重手(おもで)は負ひ給ひぬ、乗替に召させ参らせ。
この松原に御供し。
はや御自害候へ。巴も供と申せば。」



重傷を負った義仲に自害を勧め、私も供をすると言う巴。
しかし、義仲はそれを許しません。


地謡「その時義仲の仰せには。

汝は女なり。忍ぶ便りもあるべし。
是なる守(まもり)小袖を。木曽に届けよこの旨を。
背かば主従、三世の契り絶え果て。永く不興とのたまへば。

巴はともかくも、涙にむせぶばかりなり」




義仲の命は、生き延びて形見の刀と小袖を木曽へ届けよ、と。


かくて巴は義仲の前を辞し、


向かってくる大勢の敵に長刀で


ひとり、戦います。

巴の奮戦
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-1174.html


見事敵を追い払った巴。

されど今はこれまで、と、

義仲の元へ戻った巴が目にしたものは


自害した義仲の姿。

巴の手から音を立てて落ちる長刀。


シテ「今はこれまでなりと」

地謡「立ち帰り我が君を。見奉ればいたはしや。
はや御自害候ひて。
この松が根に伏し給ひ、御枕のほどに御小袖。
肌の守りを置き給ふを。

巴泣く泣く給はりて。死骸に御暇申しつつ。
行けども悲しや行きやらぬ。君の名残をいかにせん。
とは思へどもくれぐれの。御遺言の悲しさに。
粟津の、汀に立ち寄り。
上帯切り物の具、心静かに脱ぎ置き。
梨子打烏帽子同じく。かしこに脱ぎ捨て。」





ここで、シテは自ら烏帽子の紐をほどき、ほろり、と落とします。


指先に残る紐の端が、印象的な場面です。


地謡「御小袖を引きかづき。
その際までの佩添(はきぞえ)の。小太刀を衣に引き隠し。

所はここぞ近江なる。
信楽(しがらき)笠を木曽の里に。
涙と巴はただ一人、落ち行きし後ろめたさの、
執心を弔ひてたび給へ、執心を弔ひてたび給へ」




義仲の形見の小太刀と小袖を胸に、巴はひとり、木曽へ落ちたのでした。

最期の供を許されなかった執心をどうか弔ってください、と言い残し、巴の幽霊は姿を消し、舞台は終わります。


参考文献

観世流大成版『巴』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。
木曽義仲の乳兄弟で最期まで側にいた中原兼遠の子・今井兼平と巴。能「兼平」では、壮絶な兼平の最期が描かれます。供が許されなかった巴の悲しみを勇ましい姿を挿入することでさらに強く印象付ける能「巴」。素人でも情景を表しやすい曲ですが、名手の方の舞台はひとつひとつの型と謡が心に痛いほど突き刺さってきます。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


いつもありがとうございます。励みになります。

おんな城主直虎・第3回冒頭の能は「巴」

こんにちは。

恋バナな「おんな城主直虎」を見るかどうか迷い中な私。

録画をためておくのも何なので、見ました。

あらやだ。


第3回どしょっぱな、今川さんちのこれで鼻血ぷん。


(敵は)得たりと、切ってかかれば長刀柄長くおっ取り延べてっ♪

これは、これは、

巴じゃないかー!!

うひょー♪

現行曲二百番ほどの中で唯一、女性が長刀をぶんぶんする曲です。

能楽監修は誰かと探しても名前がなくて、あれ?と思ってたら


出演者のとこにお名前が。いや、確かにそうだけども。

(敬称略でごめんなさい)

坂真太郎・角当直隆(観世流シテ方)。藤田貴寛(森田流笛方)、田邊恭資(大倉流小鼓方)、柿原孝則(高安流大鼓方)。

いずれも若手でご活躍の先生方です。


【能「巴」あらすじ】


ところは、近江国粟津ヶ原(滋賀県大津市、琵琶湖のほとり)。

ここで木曽出身の僧達が出会ったのは、めそめそ泣く一人の女。


彼女は「これは木曽義仲を祀ってるの」と言い残し、姿を消します。

そう。

近江国粟津ヶ原は、木曽義仲最期の地。

土地の者からその女は巴だよ、と聞いた僧達が弔いのお経をあげていると


鎧兜を身につけた、巴の幽霊が現れ。

そして僧達に


義仲の自害のこと、そして、

汝は女なり。忍ぶ便りもあるべし。
この小袖を木曽へ届けよ、背かば主従、三世の契りは絶え果てるからな
、っと、義仲に言われて、義仲の最期の供を許されなかったことを、語ります。

それが、自らの執心となっている巴。

そして、同じ木曽の出身の僧達に


義仲の側での最後の戦いとなる「粟津ヶ原での合戦」の様子を再現します。

それが、大河ドラマ「おんな城主直虎」第3回冒頭の場面。

巴ちゃんが、うおりゃー!と長刀をぶんぶんして、敵を追っ払います。


かくて御前を立ち上がり。
見れば敵の大勢。あれは巴か女武者。
余すな漏らすなと。敵手繁くかかれば。
今は引くとものがるまじ。いで一軍嬉しやと。
巴少しも騒がず、わざと敵を近くなさんと。
長刀ひきそばめ。少し恐るる気色なれば。
敵は得たりと切ってかかれば。
長刀柄長くおっ取り延べて。
四方を払ふ八方払い。一所に当たるを木の葉返し。
嵐も落つるや花の滝波。枕をたたんで戦ひければ。
皆一方に切り立てられて。
跡も遥かに見えざりけり、跡も遥かに見えざりけり



この謡の部分は、巴が長刀を使う面白さから、曲の一部を切り取って舞う「仕舞」になっています。

びっくりするとこは、「四方を払ふ八方払い。一所に当たるを木の葉返し」

「飛び返り」直後に立ち上がって四つ拍子、します。

飛び返り、とは、飛び上がって一周(正確には半周)する型。


ふんっと踏み切る時に体をひねっておいて


足を踏み出し


踏み切って


飛んでます。


飛びながら回ってます。


着地。

すぐに立ち上がって構えて


足拍子(地団駄をご想像ください)を、とん、とん、ととんっと四つ。

お稽古し過ぎると、太股の上がぱんぱんになります。


また、長刀は軽そうに見えて、実はとんでもなく重いので


普段は扇しか持たない私には地獄。(鬘扇/女性が持つもの)


さて、この「巴」。

ビジュアル的な面白さもさることながら、ほんとにいいのは、この前後。

涙ほろほろ、悲しい巴の姿が謡われます。

つづく。と思う。


参考文献

観世流大成版『巴』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)

『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)


いつも応援いただきありがとうございます。
なんで今川ご一行様が「巴」を鑑賞してたのかは不明ですが、能ならなーんでも嬉しいぃぃぃー♪やはりちょろちょろと能の場面が出るなら、見ます。井伊直政を支えながらも、彦根の直孝ではなく直継に付けられた「井伊谷以来の家臣達」も気になります。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


いつもありがとうございます。励みになります。

能楽の面(おもて)の取扱い方法

こんにちは。


能の面(おもて)は、4~5百年前のものが使われています。

博物館のガラスケースの中に飾られるよりも、
面(おもて)は、舞台で使われてこそ生きるもの。


【能楽の歴史】


(福知山市一宮神社の能舞台)

まず勢力を伸ばしたのが、興福寺等に属し、祭礼に奉仕した大和猿楽四座。

外山座 →宝生座
坂戸座 →金剛座
円満井座→金春座
結崎座 →観世座

これに元和年間に金剛座から分かれた喜多流を加えた「四座一流」が現在の能楽シテ方五流です。


【能楽の受難】


(福知山市一宮神社の能舞台)

猿楽を元にする能楽は、足利義満、豊臣秀吉、徳川家康など、時の権力者の庇護の下で発展し、江戸幕府において「武家の式楽」となり最盛期を迎えます。

サラリーは雇い主である大名家等から得ていた能楽師達。

大名家が所有する面(おもて)、装束等の使用を認められていました。


ここで、明治となり、全てがひっくり返ります。


お金が必要となった元大名家が所有財産を質に入れ、あるいは売却。
雇用主を失った能楽師の中にも、商売道具を売らざるを得ない家もあり。

能楽師や旦那衆等が慌てて質流れ品を買い集めるなどしましたが、時既に遅し。

面(おもて)や装束等、数多くの貴重な品がこの時、散逸します。

よって、現在も舞台で使うことができる面(おもて)は、非常に貴重で大切なものです。


【面(おもて)の取扱方】

昔はお正月には、能や舞楽などの番組で楽しみましたが、昨今はすっかり減ってしまって残念至極。

と思ってたら、さんまのまんまの新春特別番組で、野村万斎先生が。


狂言師の野村万斎先生。

手にしているのは、面(おもて)を入れる面箱。

容易に触れてはならないものです。
私は面箱を見たら走り去ります。


面箱の中で滑らないように、木綿の布で包み


面(おもて)ひとつずつを、綿入れの布で作った袋に入れてます。


さらに、面(おもて)の装飾がされた表側は別の布(面あて)をあてており、


厳重に保護しています。

面袋と面あてには、古布を用いるので、時々すんばらすぃー生地に出会うことがあります。

昔の刺繍は手縫いで丁寧で、ほつれないんですよ。


ここから、面(おもて)の持ち方。


面袋と面あてを後ろへまわして、


こう持って、面(おもて)を眺めます。

装飾が人の手の脂で痛むので、紐を通す穴の部分だけを持ちます。
決してわしづかみにしてはならず。


真田丸第27回「不信」。


使用された面は、金春家に伝わる300年前の「天下一河内作の小面」。

http://ameblo.jp/yamaitsunao/entry-12178834390.html


べちょっと持つのは厳禁。これでよし、です。


本年もよろしくお願い申し上げます。お正月に、ぼやーんっとテレビを見ていたら、野村万斎先生がご登場。うふふ。本物の面を扱うところは撮影できないので、いいもの見ました。うふふふ。さて、週末は大阪でも雪の予報です。先週は徳島の旅でうきゃうきゃしたので、今週はおうちでのんびり。というより、金がないっ。給料日はまだかーっ!?
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


いつもありがとうございます。

能「翁」の面(おもて)は、顎が外れた

こんにちは。

とうとうたらりたらりらぁーっと不思議な言葉が並ぶ能「翁」。


さて、今日は面(おもて)の話。


【顎、はずれました】


真田丸第27回「不信」。


使用された面は、金春家に伝わる300年前の「天下一河内作の小面」。

http://ameblo.jp/yamaitsunao/entry-12178834390.html


とても美しい女性の面(おもて)です。


これは狂言の面。


(クラゲではござらん。下のは、あごひげです)

上記ふたつの面(おもて)のように、通常はひとつになってます。

が、翁専用に用いる白式尉(じょう)や黒式尉は、


顎が外れています。(・・・ほんとだもん)

ぽんぽん眉 ぼうぼう眉、と、アゴヒゲがある他に、

「切顎」といって、下顎が切り離されている点が大きな特徴。


(うーむ。へたぴー。)

上顎と下顎は紐で結ばれていますが、このように上下が分かれているのは、能「翁」で用いる翁の面のみ。

※特別演出(小書/こがき)の際に用いる父尉と延命冠者も切顎。


前記事で、能「翁」においては、面(おもて)そのものをご神体とする、と述べましたが、神社でも翁の面をご神体としているところもあります。

また、「尉(じょう)」とは、おじいちゃんのことを言いますが、おじいちゃんも千差万別。


ほんとは神様(『高砂』など)

若い女の人に惚れてストーカー(『恋重荷』)←すんごくねちこい


など、品格あるおじいちゃまから、庶民のじーちゃんまでいろいろいます。

そのなかで、能「翁」のおじいちゃんは、とても幸せな、うひゃっと笑顔。


京都府綾部市の阿須須岐神社(あすすきじんじゃ)の尉の面です

何だか幸せになりそうなお顔でしょ?

恐らく、ぼうぼう眉とお髭は欠損しているのかと思いますが、実際の翁の面の趣はあります。


【見えないので、目印を】



面(おもて)の内側。

これは狂言面ですが、おめめ全体があいています。

能「翁」の面も、同様。これも、翁面の特徴です。


ところが、ですな。

通常の面は、黒目のとこしかあいていません。

小指の先ほどの穴から、何が見えるか。


見えません。



ストローから覗くが如き、視界です。


だから、能舞台には、柱があります。



(福知山市一宮神社の能舞台)


能の型では柱を目指して歩みを進め、決められたポイントで何かの所作をすることの繰り返し。

よって、行き先を定めるのに、柱が必要。

各柱には、名前まで付いています。


一番たくさん目指すのは、目付柱(スミ柱)。

この柱の付近を「スミ」と呼び、必ず左足で止まるとか、スミ取りという型をするとか、ここだけ舞台の板が薄れるほど多く立ち止まります。

「シテ柱」は橋掛かりから入ってきたシテが曲がるとこ。
「笛柱」はこの横に能管(笛)の先生が着座しており、
「ワキ柱」はこの横にワキ方が着座します。


能「竹生島」後シテの龍神。と、ワキの勅使。

プロの先生は歩幅や足の向きを体が覚えていますから、それほど柱は重要ではないそうですが、素人にはこれがないとどこへ行ったらいいのやら。

観賞する側からしたら邪魔な柱ですが、客席と舞台を区切る働きと共に、演じる側にはないと困るもの、それが、能舞台の柱。


【上向け、上!】



再び、面(おもて)の内側。

口があいているのは、窒息するから。

じゃなくて、無論、声がこもらないためなのと、

通気孔の役目。


演能を終え、幕に入った途端、先生が

「上向け、上!!」

と叫びます。それは、


面の内側についた水分を目や口の穴からお外に出さないため。

面を外した後のお顔は、湯上がりほこほこ。

通気孔があってもこれですから、もしなかったらえらいことに。



謡も違えば、面(おもて)も違う。

そんな能「翁」、おすすめです。


面(おもて)のいろいろは、下記をご覧ください

公益社団法人能楽協会
http://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/whats/omote.html

国立能楽堂の面なので、大変よろしゅうございます。


いつも応援いただきありがとうございます。能面は舞台に用いるものでも数百年前のものが多く、大変大切なものです。面をかけると、お先真っ暗というか、一寸先は闇。これに重い装束を付けるので、ほんとに「体で覚え」ていないと身動き出来ないです。どんなにやってもやり過ぎではないのが、お稽古。素人はひとつの曲を仕上げるのに半年以上かけて、何度も何度も繰り返して体で覚えるしかありません。
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


いつもありがとうございます。

能「翁」とうとうたらりたらりらぁー

こんにちは。

今日は、謡のお話。


例えば、あなたはだぁれ?と尋ねられた天人の言葉

「げに御不審は、御理(おんことわり)。
今は何をか褁(つつ)むべき。
真(まこと)は我は天人なるが。花に引かれて来りたり。」
(『吉野天人』)

(意訳)

「あらやだ、変に思われても当たり前ねー。あのね、実はね、
ほんとは、わたし、天人なのー♪
お花がきれいなのでひかれて来ちゃった。」


一応、文章です。

ところが。

ひとつだけ、何がなんやらわからない言葉の並ぶ謡があります。

とうとうたらりたらりら。たらりあがりいららりどう。
ちりやたらりたらりら。たらりあがりららりどう





能では「翁(おきな)」、謡では「神歌(かみうた)」と呼ばれる曲です。

「翁」は、「能にして能に非ず」

と言われる特別な能で、

正式には「式三番(しきさんばん)」といいます。


「演劇としてのストーリーはなく、天下泰平・国土安穏を祈る祈祷の言葉が謡われ、役者が神に変身して祝福の舞を舞うという、神事芸能的な演目となっています。」(銕仙会「翁」より引用)


【能「翁」の構成】

能の上演としては、3部構成。

《シテ方》

1。千歳(せんざい)
面を付けず(直面/ひためん)舞われる若々しい舞。いわば露払い。

2。白い翁
舞台上で白い翁の面(白式尉/はくしきじょう)を着脱します。


《狂言方》

3。黒い翁
「三番三(三番叟)」と呼ばれる部分。

「揉みの段」と「鈴の段」の二部構成で、「鈴の段」では黒い翁の面(黒式尉/こくしきじょう)を付けます。


【神事としての「翁」】

能「翁」は、あくまでも神事。

楽屋(鏡の間)では「翁面」をご神体として祭壇に祀っており、
開幕前には、演者一同が御神酒と洗米を頂き、身を清めます。

次に、後見が火打ち石の切り火により舞台を清めます。

面箱を先頭に、翁(シテ)、千歳、三番三(三番叟)、囃子方等各役が順に舞台へ。


翁は、舞台中央に進み出て下座。
正面に向かって深々と礼をします。

神様へ向かっての礼で、客席にしているわけではありません。



翁(シテ)の前に面(おもて)が入った面箱(wikipediaより引用/観世流)

小鼓が三つ、また、面(おもて)を舞台の上で付ける点が特徴。

翁の面そのものがご神体であり、面を付けることで翁(シテ)が翁の神となるわけです。


【能「翁」に見る謡の面白さ】

まぁ、ご覧あそばして。


翁  とうとうたらりたらりら。たらりあがりいららりどう。
地  ちりやたらりたらりら。たらりあがりららりどう
翁  所千代までおはしませ
地  我等も千秋さむらはふ
翁  鶴と亀との齢(よわい)にて
地  幸(さいわい)心に任(まか)せたり
翁  とうどうたらりたらりら
地  ちりやたらりたらりら。たらりあがりららりどう



(謡うと、たらりぃーいあがりいーぃららぁらーりどー)


千歳 鳴るハ瀧の水。鳴るハ瀧の水日ハ照るとも
地  絶えずとうたり。ありうどうどうどう
千歳 絶えずとうたり。常にたうたり



千歳が立ち上がり、舞始めます。この間にシテが翁の面を付けます。


千歳 君の千年を經ん事も。
   天津をとめの羽衣よ。鳴るハ瀧の水日ハ照るとも
地  絶えずとうたり。ありうどうどうどう



白い翁の面を付けることで翁の神となったシテが進み出て、
両袖を広げ、天下泰平・国土安穏の祝福の言葉を唱え、舞います。


翁  総角(あげまき)やとんどや
地  ひろばかりやとんどや
翁  座して居たれども
地  まゐらふれんげりやとんどや
翁  千早振(ちはやふる)。神のひこさの昔より。久しかれとぞ祝ひ
地  そよやりちや
(略)
翁  千秋萬歳(せんしゅうばんぜい)の。喜びの舞なれば。
   一舞舞はう萬歳楽(まんざいらく)
地  萬歳楽
翁  萬歳楽
地  萬歳楽 



(画像/丹波篠山の春日神社)


舞い終えた翁は、舞台上で面を外し、翁と千歳は橋掛りより退出。
「翁帰り(おきながえり)」といいます。


次に、狂言方が務める直面(ひためん)の三番三(三番叟)が登場。

地謡との問答の後「ほぅほー、いやー、はっ」等と言いながら舞台の四方をとんとんとん、と踏み固め、激しく飛び上がる「揉(もみ)ノ段」を舞い、

次に黒式尉(こくしきじょう)の面をつけ、神事に見られる鈴(巫女が持つ鈴がいっぱいついたアレ)と扇を手にして、舞台四方を清める仕草をする「鈴ノ段」の舞を舞います。


この狂言方が行う部分は、各地の神社で見られる「三番三(三番叟)」が類似してますので、お近くで上演があるときは、ぜひ。


参考文献

観世流大成版『神歌』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)

『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)


本年もよろしくお願い申し上げます。
新春の能楽堂では、あちこちで「翁」が上演されています。カチカチと鳴る火打ち石の音に始まり、ぴーんっと張り詰めた空気は格別で、身が引き締まります。躍動的な千歳、重々しい白式尉、激しい動きで舞台を飛びはね、踏み鳴らす三番三の揉みの段など、とても面白い舞台です。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


いつもありがとうございます。励みになります。

真田丸。秀吉の負修羅扇と有楽斎の中啓。小道具に見る暗示

こんにちは。

【扇で暗示する豊臣の行く末】


第23話「攻略」

秀吉、酒宴でうきうき。


扇は、うっきー。

ひょうたん、桐、猿の扇は、きっと特注品。


第22話「裁定」信繁、本多正信、板部岡江雪斎の問答の場面で。

秀吉!あかんがな!その扇、だめよー!

と、こーふんしました。なぜなら秀吉が手にしているのは、


負修羅扇。図柄は「立波入り日」

能では、源平を主題にした曲が多いですが、主役(シテ)の大半は平家の公達。

ふらっと現れて「修羅道が辛いよぉ。供養してくれよぉ」と訴えます。

屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと続けて敗北し、海に消えた平家の公達を連想するような図柄です。

これと相対するのが、


勝修羅扇。図柄は「老松に旭日」

いつか家康が持つのかと楽しみにしてましたが、なかった。残念。


現行2百番を数える能の中で、主役(シテ)が勝利者であるのは、「田村」「箙」「八島/屋島」の3曲のみ。

これ以外は全て負修羅。

そんな扇。


第30話「黄昏」

吉野の花見で、秀吉が花咲か爺さんと化した話ですが、この時も


なぜ負修羅扇を持つのだ、秀吉!!

・・・小道具さんには、絶対に能好きがいる。


【扇とサスペンスぅ~】

サスペンスといえば、道ならぬ恋と謎解き。


第23話「攻略」利休の商品陳列部屋にて。


きれいな扇は、五本骨の蝙蝠扇(かわほり)。


茶々が選んだ扇。柄は、山吹ではなかろうか?


第19話「恋路」で、茶々が押し花にした山吹。

信繁が見つめていたら、きりに食われてしまったお花でした。


さてこの扇。刻印のお魚が


小田原城に秘蔵されていた鉛の刻印と一致。


お魚マークといえば、元はお魚屋さんの利休のマーク。

犯人は、お前だ!


この時は脱出できた利休でしたが、後はご存じの通り切腹。


【扇の一種、中啓】


第21話「戦端」

本多正信は年相応な地味な扇。渋い。

その一方、


第22話「裁定」板部岡江雪斎の扇。

きぃーっとなった江雪斎が広げてしまったのではなく。

これは「中啓(ちゅうけい)」という扇。

「中ば(なかば)啓く(ひらく)」、閉じても骨自体が外開きなので広がります。

笏(しゃく)の代用として、公家、武家共に儀礼用の持ち物として用いられましたが、現在でも神職さんやお坊さんが手にしています。

※細部は各々微妙に異なります


第46話「砲弾」織田有楽斎の扇も、中啓。

この扇を見たとき、感動したのー。
形式的とはいえ、出家姿でしょ、だけど趣味人でしょ。


さすが有楽斎。金地に松とお日様が描かれていそうなおしゃれさん。


なぜこんなに中啓でうきゃうきゃしたかというと。

能の装束のひとつとして、中啓は必需品なのです。



第27話「不信」 能「源氏供養」ワキの僧の手には、中啓。


前シテ。じーっと目を凝らしてご覧下さい。手に中啓。


後シテの手にも中啓。


通常用いる仕舞扇と見比べると


きれいな女の人が持つ鬘(かずら)扇。形は中啓。

骨が多く紙が狭い。細かく折り折りされたこれ。
持ちにくい上に、装束に引っ掛かって閉じてしまうので、四苦八苦。


【真田さんちと扇】

真田さんちの扇といえばかーちゃんがてんこ盛りにしてましたが、


第36話「勝負」やはりパパ幸でしょ。いざ関ヶ原。


・・・黒地に赤のお日様の軍扇だけ。えー。



第4話「挑戦」の「扇をわしづかむ家康」からスタートした真田扇丸。

楽しかったです。


いつも応援いただきありがとうございます。前記事の家康の出世と共に進化する扇と対照的に、豊臣の行く末を暗示するかのように、小田原攻めの頃から負修羅扇を秀吉に持たせるとは、すごいなー。小道具さん、尊敬しちゃうわー。細かな史実には無知でも、自分の知ってるものに注目してきゃいきゃい出来て、とっても楽しい1年間でした。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

真田丸。家康の出世と扇の変遷。小道具さんは能好きか?

こんにちは。

大河ドラマ「真田丸」、小道具さんに能好きがいるのではないかとわくわくして1年楽しみました。

きっかけは、


第4話「挑戦」


扇の特徴から、能の観世流の仕舞扇と気付いた時から。


仕舞と謡の時に使用する扇を、仕舞扇、正確には「鎮扇(しずめおうぎ)」と称します。

観世流の仕舞扇の特徴として、


要がまぁるい。


親骨に三つ彫り(3ヶ所、細長く穴が開いてる)。


三段の水巻の文様、いわゆる「観世水」が描かれています。

これは、お稽古や素謡(詞章だけうにゃうにゃと謡う)の時に用いる普段使いの扇で、観世・宝生・金春・金剛・喜多の各流派によって、扇の仕様が異なります。

はじめの頃の家康は、この扇をご愛用。


第5話「窮地」。ばりっばりの紺地観世水の仕舞扇。


ところが、家臣の本多忠勝はお日様きらきらの軍扇。


見えますかしら。

扇を閉じたら、通常は家康の持つ扇のように骨から紙がはみ出ますが、軍扇は骨で紙が隠れています。


また、地紙の金地は邪気を避けるもの。

一般的な軍扇の表はお日様(昼)、裏は三日月(夜)。


「昼間は、太陽側を表とする。骨を六つ開き、残り六つは畳んで使う。
夜間は、三日月側を表にし六つ開いて六つ閉じる。
合戦勝利後は、全部開く。」と作法が決められており、

「悪日に合戦する時、昼間は三日月側を表として使い、夜間は太陽側を表にして使う」(昼夜を扇で逆転させることにより、悪日を吉日とする)(『中原高忠軍陣聞書』主旨)そうです。



「昼間は、太陽側を表とする。骨を六つ開き、残り六つは畳んで使う」

忠勝、お行儀がよろしい。

このあとは伊賀越え。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる家康です。


さて、この違いをどうとるか?

無論ここは、普段から軍扇を構える忠勝と、よきにはからえばよい家康の立場の違い等を思うわけですが。

お金の話。


金の砂地(金の小粒が散りばめられた地)に観世水なら、1万円ほど。

家康が持っている扇に金砂地が見えないので、白地ならその半額以下。

質素です、家康。

忠勝の軍扇は、金地に日輪程度なら1万5千円前後。


・・・家康ぅ~(T▽T)

能(謡&仕舞)のお稽古を初めてすぐに購入する一番お手頃価格の白地に紺の観世水の扇から、話が進むにつれ、家康の扇は次第にグレードアップしていきます。


第28話「受難」。家康 Jr. 秀忠と正信 Jr. 正純の初対面。


扇の骨の色にご注目。


木肌のままから、黒骨に変化。

観世流の謡や仕舞ではほぼ用いませんので、価額不明。
ちょいと扇が出世したと表しているのかなー。

次記事にしますが、特殊な絵柄(修羅扇)では常に黒骨。
たまーに他のほののんっとした絵柄なのに黒骨だと、「いきってんなー」と思ったり。ごほん。


第37話「信之」。関ヶ原後、信繁親子とご対面。


九度山で死ね死ねと悪魔の家康です。

ここまで黒骨の扇でしたが、


第41話「入城」。扇が、金地に紺の線になりました。

金ですよ、金。

家康、いぶし銀ではなく、いぶし金に変身。

家康は秀吉が贔屓にした金春流ではなく、主に観世流(観世大夫)を重用します。これを踏まえての観世流仕舞扇の使用なら、すごいことです。


第44話「築城」。じーさま、昔とった杵柄。


戦の現場ですから、Jr.秀忠の扇は軍扇。


まぁた真田くんにいぢめられるんかっと怒る家康も、軍扇。

軍扇となるともはや、能の管轄外。

ですが、能や日舞の扇に特化した店等では、趣味の扇として手作り。

価額は、大御所様の格式から骨に彫刻などの細工があるとして、2万円弱。


最終回。伊賀越えの頃は自力で全力疾走してた家康、運ばれる。


潮目が変わった途端、えいえいおー with 軍扇。


信繁(幸村)とのご対面となり、西部劇の開幕。

最終回、ついでに。


べそべそ泣きながらも、狛犬さんのぷりっけつは気になりまして。


自分は動けないから、佐助にSOSな狛犬。

きっとね、このあとね、信繁(幸村)と佐助は、狛犬さんの背中に乗って、どこかへブーンっと駆け落ちしたのよ。


いつも応援いただきありがとうございます。一番はじめに使っていた白地のお稽古扇から、黒骨、金地へと変化していく家康の扇。家康の出世と共にグレードアップしていくのがとても面白かったです。他の面々は地図を指すときに軍扇を用いる程度で、家康の扇の使用頻度は傑出していました。小道具さんってすごいなー、細かいなー、マニアックだなーっと、1年間とても楽しかったです。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

真田丸最終回。大坂城の足の下には夢のまた夢なにわの宮

こんにちは。

真田丸、最終回。


そーしましょそーしましょで大坂城を裸にされて


楽しい仲間達がどんどんいなくなって。

そして。


狛犬・・・(T▽T)


ねぇ。

真田丸ロスになりそうです。


大手町交差点より。OBP(大阪ビジネスパーク)と乾櫓。

乾櫓は、元和6年(1620)建築(重文)。


オール徳川の大坂城。

大坂の陣後、元和6年(1620)~寛永6年(1629)。
二代将軍・秀忠により、大坂城はクラッシュ&ビルド。

以降、城主は徳川幕府の将軍。



明治には日本帝国陸軍が一帯を用地接収。


もっと言えもっと言え。

城内には陸軍司令部、東部には大阪砲兵工廠(こうしょう/最終は大阪陸軍造兵廠)が設置されます。

OBPを含む広大な敷地の大阪砲兵工廠は、アジア最大の規模を誇り、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点。

主に火砲・戦車・弾薬類を開発・製造。

太平洋戦争が終わるまで、存続。(以上wikipediaより)


さて、大坂城の南西へ向かいまして。


阪神高速の高架下を通ったら


ひろびろ広っぱです。

これが、


難波宮跡。

『日本書紀』等に記述はあるものの場所の特定がされておらず、第二次世界大戦後にその存在が確認された「難波宮」です。

日本帝国陸軍用地の時代を経て、昭和28年、この付近からの鴟尾(しび)の発見により本格的な発掘調査が行われたため、街のど真ん中ながらもこれだけの面積を確保出来ました。

前フリとして大正2年、数個の重圏文・蓮華文軒丸瓦(推定、奈良時代)の発見があり、一貫して、山根徳太郎(最終/大阪市立大学法文学部教授)が発掘に尽力。


奈良と京都と滋賀だけじゃないのだ。


【前期難波宮】


年号の暗記の言葉で年齢がわかるらしい。ぎょ。

皇極4年(645)飛鳥板蓋宮の大極殿にて、むしごめ炊いて「乙巳の変(いっしのへん)」。


乙巳の変の翌々日、皇極女帝が退位。
弟の軽皇子(かるのみこ)が孝徳天皇として即位。

中大兄皇子/皇太子、阿倍内麻呂/左大臣、蘇我倉山田石川麻呂/右大臣、中臣鎌足/内臣とする新政権が発足。

初めて立てられた年号が、「大化」


新しく即位した孝徳天皇が遷都したのが、


難波宮(難波長柄豊崎宮)。


白雉元年(650)10月。

将作大匠の荒田井直比羅夫(あらたいのあたい/ひらぶ)を遣わし、宮地の境界標を立てさせます。(難波長柄豊碕宮の造営開始/『日本書紀』)

白雉3年(652)9月、難波長柄豊碕宮、完成。

「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」(『日本書紀』)

言葉で言い表せないほどの、お見事な偉容を誇った宮だったと。



建物は全て掘立柱建物で草葺屋根。(画像/wikipediaより)


天武12年(683)天武天皇「複都制の詔」。

飛鳥とともに難波をとしますが、朱鳥元年(686)年正月。

難波の宮室が全焼(『日本書紀』)。


全域に火災の痕跡が残る難波宮跡。(大坂歴史博物館から)

発掘調査で明らかになったのは、柱痕跡の周囲の土が赤く焼けていた点。

これは、火災の際に柱が土中の部分まで焼けるほど火の勢いが凄まじかった事を示しており、朱鳥元年(686)の火災を記した『日本書紀』と一致しているそうです。(大阪文化財研究所「難波宮インフォメーション」)


そんな激しい火災の後、再建はされず。

ここまでを、「前期難波宮」といいます。

前期があるなら、後期がある。それが、

後期難波宮。


【後期難波宮】

神亀3年(726)聖武天皇。

藤原宇合を知造難波宮事に任命、難波京の造営に着手。


今度は、礎石建、瓦葺屋根。(画像/wikipediaより)

天平4年(732)頃完成しており、天平16年(744)2月、
恭仁京(山背国相楽郡/現・京都府木津川市加茂地区)から難波宮へ遷都。


現在難波宮跡に復元されている大極殿基盤は、後期難波宮のもの。


前期難波宮の大極殿は、北側の中央大通の下。


天平17年(745)1月1日、難波京から紫香楽宮へ
同年5月、平城京へ。

この間の右往左往は、聖武天皇。

延暦3年(784)長岡京へ遷都 by 桓武天皇。
この時、後期難波宮の大極殿や朝堂院の建物は、長岡京へ解体・移設。


なにわのことは夢のまた夢。


大河ドラマ「真田丸」で大坂城が映ったら、あー、あの南の地べたの下には、難波宮が埋まってるぅ~(T▽T) と思っていただけたら、これ幸い。


参考サイト
大阪文化財研究所「難波宮インフォメーション」
http://www.occpa.or.jp/ikou/naniwa_info/ikou_03.html

参考資料
大阪歴史博物館作成、館内資料


いつも応援いただきありがとうございます。
大阪城公園南西にある大坂歴史博物館からは、大阪城も難波宮跡も眺めることが出来ます。秀吉の時代も江戸時代も陸軍時代も、みんなここを踏んづけていたことでしょう。あ、今も公園だから踏んづけてるわっ。おほほほ。大阪城は、堀や石垣の素晴らしさに加えて、お向かいに難波宮があるところが面白いなーっと思います。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ


お手数をおかけ致します。ありがとうございます。
プロフィール

つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

◎画像の著作権は放棄しておりません。
◎画像と記事の無断使用厳禁!!
◎丸パクリには断固抗議する!!

◎リンク戴く際はご一報下さい。御礼させて戴きたく。
◎一言でもコメント戴ければすごーく嬉しいです。

尚、メールでのお返事は致しませんので、コメント欄をご利用ください。

宜しくお願いいたします。

参加してます♪
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
最新記事
カテゴリ
カレンダー
04 | 2023/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
月別アーカイブ
リンク
最新コメント
最新トラックバック
ブログ村さんに参加中
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR
ご来場御礼