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春日大社の飛火野。能「野守」と地獄

こんにちは。


春日大社へ向かう参道の傍らに広がるのは


アレって何だ。

古くは春日野とも呼ばれた飛火野は、古代祭祀の地と言われる場所。

能「野守」の舞台です。


ワキ:出羽国羽黒山の山伏
前シテ:野守の老人
後シテ:鬼神
舞台:大和国春日野(春日大社・飛火野付近)
作者:世阿弥


修験霊場の葛城へ行く途中に、南都を観光。春日野へ来た山伏。

「春日の野守」という通りすがりのじーさまに、観光案内してもらう。


この水溜まりを「野守の鏡だよ」と、じーさま。


「野守の鏡とは」

①野守が朝夕姿を映す「鏡」。

②野を守る鬼が持つ「鏡」。

能「野守」の前半は①を、後半は②を主題にしています。


じーさまいわく。

「箸鷹の野守の鏡得てしがな思ひ思はずよそながら見ん」(新古今集/読み人知らず)

は、この池を詠んだもの。

雄略天皇が春日野に狩をした際に逃げた、鷹。

その行方を野守に追わせたところ、鷹の姿が池の水に映っているのを見て探し当てた。



それ以来、この池は「野守の鏡」と呼ばれるようになった。
(平安末期の歌論書『奥儀抄』/藤原清輔撰)

とさ。

そう語った後、


じーさま、塚の中へ姿を消す。ここまでが前半。


《後半/中入後》

山伏、考える。

じーさまは、もしかして鏡を守る鬼神ではなかろか?と。

山伏、鬼神を呼ぶため、祈る。


ワキ(山伏)「鬼神の住みける塚の前にて。肝胆を砕き祈りけり。
われ年行の功を積める。その法力の真あらば。鬼神の明鏡現して。
われに奇特を見せ給へや。南無帰依仏」

後シテ(鬼神)「ありがたや。天地を動かし鬼神を感ぜしめ」
地謡「土砂。山河草木も」
シテ「一仏成道の法味に引かれて」
地謡「鬼神に横道(おうどう)曇(くもり)なく。野守の鏡は現れたり」
ワキ「恐ろしや打火輝く鏡の面に。映る鬼神の眼(まなこ)の光。
面(おもて)を向くべきやうぞなき」



ありがたや。お前の祈りは、天地を動かす。感動したー。
地面も山河草木も仏法の力で動かされ、鬼神に邪な曇りはない。

そう言いながら、鬼神 with 野守の鏡、登場!


(大きな鏡を持つ後シテの姿)

が。

炎に輝く鏡の面に映るのは鬼神の眼の光。
こわっ。めっちゃ、こわっ。


びびる山伏を見て、鬼神は帰ろうとします。


シテ「恐れ給はば帰らんと。鬼神は塚に入らんとす」
ワキ「暫く鬼神待ち給へ。夜はまだ深き後夜の鐘」
シテ「時はとら臥す野守の鏡」
ワキ「法味にうつり給へとて」
シテ「重ねて数珠を」
ワキ「押しもんで」



山伏「待ってー。修行開始の寅の刻(朝4時)まで時間があるのよー。仏の力でまだここにいてー。お願いっ」

と、数珠をじゃらじゃらと鳴らします。


地謡「台嶺(たいれい)の雲を凌ぎ。
台嶺の雲を凌ぎ年行の。功を積むこと一千余箇日。
しばしば身命を惜まず採果(さいか)。汲水(ぎっすい)に暇を得ず。
一(いち)矜伽羅(こんがら)二(に)制多伽(せいたか)。
三に倶利伽羅(くりから)七大八大金剛童子」



山伏は、高山にかかる雲よりもさらに高い所で千日余り、命を惜しまず厳しい修行をした。めげないぞー。

鏡には、矜伽羅童子・制多伽童子・倶利伽羅龍王、八人の金剛童子等の仏法の守護神が次々に映る。


ワキ「東方」
シテ「東方。降三世(ごうざんぜ)明王もこの鏡に映り」
地謡「又は南西北方を映せば」
シテ「八面玲瓏(れいろう)と明らかに」
地謡「天を映せば」
シテ「非想(ひそう)非々想(ひいそう)天まで隈なく」


鏡を東へ向けると降三世明王(東方の守護神)が、他の方位へ向けると各々の方角の守護神が映る。

鏡に映せば四方八方は明るく澄み渡る。

天を映せば、天界のてっぺん(有頂天)までくまなく映る。


すごいぞ、野守の鏡。


地謡「さて又大地をかがみ見れば」
シテ「まづ地獄道」
地謡「まづは地獄の有様を現す。一面八丈の浄玻璃(じょうはり)の鏡となつて。

罪の軽重 罪人の呵責。打つや鉄杖の数々。
悉く見えたりさてこそ鬼神に横道(おうどう)を正す。
明鏡(みょうきょう)の宝なれ。
すはや地獄に帰るぞとて。大地をかつぱと踏み鳴らし。
大地をかつぱと踏み破つて。奈落の底にぞ。入りにける」



大地を見ると、映ったのは六道の中で一番深い地獄の有り様。

「浄玻璃の鏡」(閻魔大王が生前の罪を見定めるのに使う)のように野守の鏡には、

罪の重さ、罪人が鉄棒で打たれ罰せられる姿。全てが映る。



山伏はその恐ろしさ故に、正しい仏の道を歩むことを鬼神に誓う。

善悪の道を正す鬼神が持つ、理非を明らかにする宝の鏡。 

こうして鏡を見せた鬼神は、大地を踏み破って、地獄の底へと帰っていったとさ。


そう。


飛火野の下には、鬼神の住む地獄がある。


でも、だいじょうぶ。



春日の神様は慈悲深い神様で、春日社に縁のあった人は、罪があっても普通の地獄には落とさず、 春日野の下に地獄を構えて、毎日罪人に水を注がれてその苦しみをやわらげられた。(『春日権現験記』)

この清流を春日大社では「お杯」と言い習わしています。(春日大社公式HPより引用)

・・・あれ?結局地獄には落ちるんだ。きゃ。


参考文献
観世流大成版『野守』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。
「飛火野は地獄につながっている」。これは中世において広く知られており、能「野守」の下地となっています。「鬼」は、春日大社に付属し活躍した大和猿楽が得意とした題材。幽玄を追求した世阿弥は「鬼」の芸を遠ざけたものの晩年には「鬼」へと回帰。能「野守」はその頃に書かれたと推測されています。久しぶりの能話。お付き合いいただきありがとうございます♪楽しかったー。 

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お手数をおかけ致します。ありがとうございます。

「真田丸」北条氏直の起請文。カラス文字の熊野牛王神符

こんにちは。

一週遅れなのですっとぼけたお話になりますが。

春日信達に海津城を渡すという、氏直の起請文が届きましたねー。


この場面の。


これ。

がっばーーーー!っと、またテレビにかじりついたわたくし。

カラス文字、きた♪



これは、熊野牛王符または宝印神符。

俗に「オカラスさん」とも呼ばれる「カラス文字」で書かれた熊野三山独特の御神符

「牛王」の名称は、牛の肝から得られる「牛黄(牛玉)」という密教の加持祈祷に用いる霊薬を印色として神符に用いた事から、「牛王宝印」と称するようになりました。

起源は明らかではありませんが、熊野本宮の主祭神である家津美御子(ケツミミコ)大神(スサノオ)と天照皇大神との高天原における誓約、あるいは、神武天皇東征の際の熊野烏の故事に由縁するとも。


熊野牛王神符の裏面を料紙として用いたときは、
誓約の内容を書き記し、それを熊野権現に対して誓うのです。


こらこら。


「真田丸」では、北条氏直は「春日信達に海津城を渡す」と信達にではなく、熊野権現に誓ったのですね。


鎌倉時代には「誓約書」、やがて「起請文」、江戸時代には「起誓文」の代わりとして用いられました。


なぜ熊野牛王神符を用いたのか。それは、



熊野権現への誓約を破るとどうなるか。

まず、熊野大神のお使いのカラスが1羽亡くなり



本人は、血を吐き、地獄におちる。



と、古くから信じられておりました。


やた殿&やた姫からのお願い(切実)。


まぁ、こんな物騒な用途だけではなく。

熊野牛王符は熊野信仰の人々をあらゆる災厄から護ってくれるもの。

・カマドの上(ガスの元栓)の上に祀れば火難を免れる
・門口に祀れば盗難を防ぐ
・懐中して飛行機、船にのれば、乗り物酔いと災難を免れる
・病人の床にしけば、病気平癒となる
・病気にはカラスを切り抜いて浮かべた水を飲むと効あり

ありがたや。

熊野三山の参拝後、熊野牛王神符と梛(なぎ)の葉を受けとる習わしがあり(梛は、熊野のご神木)、家々の神棚や入口等に奉斎しました。


全国には、熊野の修験者及び熊野比丘尼によって配付。

今も和紙に木版と墨で一枚ずつ手刷りです。
熊野牛王符(牛王宝印、烏牛王)の刷り初めが正月に行われます。


【熊野速玉大社】




「熊野寶(宝)璽(印)」カラス文字48羽。


【熊野本宮大社】




「熊野寶(宝)璽(印)」カラス文字88羽。

古く天武朝白鳳11年(約1300年前)はじめて熊野僧徒牛王宝印奉ると記されているのが初見。


【熊野那智大社】




「那智瀧寶(宝)璽(印)」カラス文字72羽。

1月1日には午前3時に那智の滝の奥の「秘所の水」を若水として汲み、1月2日にその水で烏牛王神璽摺初め式を行います。



いただいた護符は大切にしましょう。


参考文献
熊野速玉大社・熊野本宮大社・熊野那智大社牛王神符説明書


いつも応援いただきありがとうございます。
暖かくなるとおでかけしたくてお尻がむずむずしますねー。青い海が呼んでいるので熊野へも行きたいな。実はトータルしたら二年間で一ヶ月以上も熊野で宿泊してました。ほほほほ。どんだけ好きなの、熊野。

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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

「真田丸」信長の歌舞と、戦う猿楽師。梅若座の場合

こんにちは。

突然ですが、京都府南丹市日吉町殿田の


曹源寺。

丹波猿楽の梅若家の旧菩提寺です。

上林(現在の美山町宮脇)に居住していた梅若広長は美声で「妙音大夫」と呼ばれていました。

広長は、信長より「世木庄」500石を与えられています。(現・曹源寺)


【信長の歌舞】

「人間五十年、化天(下天)の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり 
ひとたびこの世に生を受け 滅せぬもののあるべきか」


これは信長が好んだ『敦盛』の一節ですが、これは能ではありません。

幸若舞の一節。


幸若舞の「敦盛」と能「敦盛」については、こちらに詳しく。

⇒⇒⇒信長の「敦盛」。幸若舞と能

http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-150.html


幸若舞は、室町時代に流行した、語りを伴う曲舞(くせまい)の一種。
中世から近世にかけて、猿楽と共に武家に好まれました。

信長は、特に幸若を好んだようで。

天正2年(1574)、信長が幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)に対し、越前朝日村周辺に100石、幸若領としての知行領地の朱印状を下賜しています。


【幸若太夫と梅若大夫】

天正10年(1582)。信長が安土の惣見寺に家康を招いた時のエピソード。

幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)の舞と梅若大夫(猿楽)の能を鑑賞。

梅若の能が不出来で折檻され、次の幸若で信長の機嫌が直り、黄金10枚を賜わったというお話。



様々な文書に記述があります。


「五□□(月十)五日 徳川、穴山安土へ爲御禮被罷上訖。十八日於安土惣見寺、幸若大夫久世舞まひ申候。其次ニ、丹波猿樂梅若大夫御能仕候。
幸若ハ一段舞御感にて金十枚當座ニ被下之。梅若大夫御能わろく候て、御機嫌ハあしく御座候つれども、これにも金十枚被下之。」(『宇野主水日記』)

「徳川上洛、一段信長公ノ御奔走ニテ、安土惣見寺ニテ、御能幸若舞などあり。」(『宇野主水日記』)

「五月十九日、安土御山惣見寺において、幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、次の日は、四座の内は珍しからず、丹波猿楽、梅若大夫に能をさせ、家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、見物させ申さるべき旨、上意にて、御桟敷の内、近衛殿・信長公・家康公・穴山梅雪・長安・長雲・友閑・夕庵。御芝居は御小姓衆・御馬廻・御年寄衆、家康公の御家臣衆ばかりなり。
(中略)
梅若大夫御能仕り候折節、御能不出来に見苦敷候て、梅若大夫を御折檻なされ、御腹立ち大形ならず」(『信長公記』)

「五月十九日 於安土惣見寺 参州之家康ニ御舞・御能見物させられ候、上様被成 御成、本堂ニ而御見物、城介様各御壹門ノ御衆、何モ被成 御出、舞能御見物、堺衆十人斗參候、始ニ而幸若八郎九郎兩三人、長龍露拂、本舞たいしよくわん、こいまひふしミ、ときわ、其芙已後、即、丹波梅若太夫御能仕候、 脇ノ能見もすそ、次ニめ□□さたといふ能いたし候、其時、
上様御氣色あしく候而、直ニしからしられ候、太夫罷歸候へ之由被 仰出候」(『宗及茶湯日記他會記』)



怒られた程度ならいいけれど。


この幸若舞の家に対しては、柴田勝家・丹羽長秀・豊臣秀吉らも信長に倣って知行安堵状を与えており、家康も踏襲。

1600年。幸若太夫(8代)八郎九郎(義門)に家康から知行230石が交付され、幸若流は舞曲諸流を管理する家として存在しました。


【戦う猿楽師~梅若座の場合~】

戦国時代には、武将の身近にいた猿楽師(能楽師)の中には、戦に出た人もいます。


例えば、前述した丹波猿楽「梅若」座。


菩提寺である曹源寺の背後の山には殿田城。

猿楽の家といえども舞い謡いしてるばかりでは立ち行かぬのが戦国時代。

本能寺の変。


(高野山奥の院。明智光秀墓所)

梅若家の家久(もしくは広長)は、丹波攻略によりこの地域を手中に治めていた明智光秀方に付いて山崎の合戦を戦います。

が、負傷し、ご他界。亡骸は曹源寺に葬られます。

光秀に付いた梅若家は、一時没落。

梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)が細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕え、世木庄の上稗生(現在の日吉町生畑上稗生)に百石を賜り、梅若中興の祖となりました。


(舞鶴市田辺城のゆうさいくん)

よかったよかった。


「丹波猿楽梅若家屋敷跡」の旧墓所。

日吉の領主となった梅若家は、日吉を本拠に丹波猿楽の梅若座を構え、後に観世流に合流して「観世流梅若家」となり、名手を輩出しています。

現当主の梅若玄祥先生の舞台は、機会があれば是非。ぜったい。


参考文献

『能・狂言なんでも質問箱』(山崎有一郎・葛西聖司著/檜書店)
『能・狂言事典』(西野春雄・羽田昶 編集委員/平凡社)
『能楽談叢 』(横井春野著/サイレン社/昭11)
『能楽全史』(横井春野著/わんや書店/昭11)


いつも応援いただきありがとうございます。
この家康を招いた宴には、穴山梅雪も参加しています。SNS等では、穴雪って呼ばれてたそうで。面白いですねー。私はあの低い低い美声の直江兼続様が、もー、もー、気になって仕方なくて~!あああ、耳に幸せが到来しました。うふふ。

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「真田丸」さらば上野国。滝川一益別れの宴と謡『羅生門』

こんにちは。

さて。前回では、群馬県の能楽事始めが滝川一益の能興行、のお話を致しましたが。

「真田丸」滝川一益、厩橋城で玉鬘を舞う。群馬の能楽事始め

http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-734.html


今回はその続き。


滝川一益、小鼓なう。

一益は上野国の諸将を従え、上野・武蔵国境の神流川の河原で、北条氏邦を先鋒とする北条軍と対決(神流川合戦)。

敗北した一益は碓氷峠を越え、信濃国小諸を経て本国伊勢へ引き返します。

大河ドラマでは草刈な真田昌幸さんと差しつ差されつ、ゆっくり語り合っていましたねぇ。

実は一益は、神流川合戦に敗れて小諸へ向かう際に、上野国の諸将を厩橋城に集め酒宴を開いています。


《別れの宴で謡う一益主従》

酒宴の席で。

一益が『羅生門』の一節を鼓に合わせて「武士の交り頼みある仲の酒宴かな」と謡うと、

倉賀野淡路守が『源氏供養』の一節「名残今はと鳴く鳥の」と返しました。


「『上野史談』小学校生徒用」より。


【『羅生門』と小謡】

一益の謡った『羅生門』とは。

源頼光と家来達が長雨のつれづれに開いていた酒宴。

その最中、「羅生門に鬼が出るとの噂がある」と言う平井保昌と、「この平和な御代に鬼の居場所はない」と反論する渡辺綱。

激しい口論の末、武士の意地にかけてその実否を確かめようと、綱は羅生門へ赴くこととなり、頼光から「行った証拠に立てる札」を賜り、酒宴の場から立ち去ります。

後半はその鬼退治の場面ですが、シテが一言も謡わない異色の曲です。


なぜ、『羅生門』の一節なのか。


「ともない語らう諸人に。御酒(みき)を勧めて盃を。
とりどりなれや梓弓。弥猛(やたけ)心の一つなる。
武士(つわもの)の交わり頼みある仲の酒宴かな」



この部分は、「武士の交わり」と呼ばれ、武士の間で盛んに謡われたものです。



このように、長い長い謡の一曲の中において、TPOに合わせて謡われる「小謡」と呼ばれる部分があります。


《小謡ってなんだー》

謡の中で特に詞章や音階の美しい箇所等を「謡いどころ聴きどころ」としてピックアップしたものを、「小謡(こうたい)」といいます。

江戸時代。能が武家の式楽となり、庶民には中々目にすることが出来なくなります。

ちょうどこの頃、本が写本から印刷になります。
出版が盛んになると謡本が爆発的に売れ、謡が普及します。

また、謡の普及の元には、寺子屋があります。

江戸時代の寺子屋では主に男子を対象に謡曲を教えています。

謡曲の詞章は、実用的な教育を重んじる寺子屋で、手軽に文字の読み書き、地理や歴史、和歌、道徳など様々な知識が得られる教材として重宝されたようです。(文化デジタルライブラリー「日本の伝統音楽・歌唱編」)

http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc8/deao/youkyoku/chusyaku.html


「歌麿筆寺子屋小謡図版画」(法政大学能楽研究所蔵)

おっきな口を開けて、謡のお稽古なう。


祝言、宴会、お葬式、法事、それぞれの場面に応じた小謡があります。

例えば、宴会や能の催しの最後に、『高砂』

「千秋楽は民を撫で。万歳楽には命を延ぶ。
 相生の松風。颯々(さんさん)の声ぞ楽しむ。颯々の声ぞ楽しむ。」


特に『高砂』は、結婚式でよく耳にする「高砂やこの浦舟に帆をあげて~」等、5ヶ所も小謡があります。めでたいめでたい。

追善の折に、『卒都婆小町』

「花を仏に捧げつつ悟りの道に入らうよ。悟りの道に入らうよ」

棟上げ式の祝言「鶴亀」「邯鄲」等。
法事の際の追善「融」「海士」等。
花見では、「桜川」「鞍馬天狗」等。

特に酒席で謡われるものを「肴謡」と呼び、これは数知れず。

いかに謡が庶民の生活の中で身近に楽しまれてきたかが窺えるかと。


【『源氏供養』】

倉賀野淡路守が謡った『源氏供養』。

石山寺へ参詣途中の安居院法印(澄憲)のもとに紫式部の霊が現れ、自分は源氏物語を書いたが、その供養をしなかったため成仏できないと訴えます。
法印が石山寺に到着し回向をしていると、紫式部が生前の姿で現れ、源氏物語の巻名を読み込んだ謡にあわせて舞い、実は式部は観世音菩薩の化身であったと明かして、おしまい。


仏教において、架空の物語を作ることは「嘘をついてはいけない」という五戒の1つ「不妄語戒」に反する、という当時の思想から、紫式部が源氏物語という人々を惑わす絵空事を描いたため、死後地獄に落ちてしまった、とする伝承が元にあります。(wikipediaより)



倉賀野淡路守が謡った「名残今はと鳴く鳥の」は、後半。

地「実に面白や舞人の。名残今はと鳴く鳥の。夢をも返す袂かな。」
シテ「光源氏の御跡を。弔ふ法の力にて。我も生れん蓮の花の宴は頼もしや。」
地「実にや朝は秋の光。」
シ「夕には影もなし。」
地「朝顔の露稲妻の影。何れかあだならぬ定なの浮世や。
よくよく物を案ずるに。よくよく物を案ずるに。紫式部と申すは。
かの石山の観世音。仮にこの世に現れて。かゝる源氏の物語。
これも思へば夢の世と。人に知らせん御方便げに有難き誓ひかな。
思へば夢の浮橋も。夢の間の言葉なり夢の間の言葉なり。」


紫式部の霊が舞ううちに聞こえた「名残今はと鳴く鳥」の声。

ここで、シテはふと我に返り、地謡により、紫式部は石山寺の観世音菩薩の化身であった事が明かされます。




【滝川一益、出立】



「ともない語らう諸人に。御酒(みき)を勧めて盃を。
とりどりなれや梓弓。弥猛(やたけ)心の一つなる。
武士(つわもの)の交わり頼みある仲の酒宴かな


と「武士の交わり」を謡った一益に続き、「名残今はと鳴く鳥の」と倉賀野淡路守が謡ったことにより、この地での交わりは「これまでなり」と、別れを告げる言葉となるのです。

まさに、別れの宴。

一益主従の謡への造詣の深さが伝わるお話でした。


参考文献

『能・狂言なんでも質問箱』(山崎有一郎・葛西聖司著/檜書店)

『能・狂言事典』(西野春雄・羽田昶 編集委員/平凡社)

群馬県立図書館デジタルライブラリー「上野史談」小学校生徒用
http://www.library.pref.gunma.jp/index.php?key=muz6uxudu-917

同上「上野史談」


いつも応援いただきありがとうございます。草刈昌幸様に「酒宴の支度をするよ」と一益が言ったとき、そらもう、がっばーっとテレビに食らいつきました。


わくわくどきどき。

二人きりでしたねー。ざんねん。まぁ、ここでいきなり謡われたら、昌幸とーちゃん、口あんぐりだったかもぉ。

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「真田丸」滝川一益、厩橋城で玉鬘を舞う。群馬の能楽事始め

こんにちは。

天正10年(1582)3月11日。
武田勝頼が甲斐国(山梨県)天目山で滅ぼされたことにより、武田氏滅亡。

信長により「関東管領職」の任と上野国と信濃国小県・佐久二郡を与えられ、信長秘蔵の脇差一腰と馬を携え入部したのは、滝川一益。

まず箕輪城(高崎市)に入り、厩橋城(前橋市)へ移り、厩橋城を拠点として上野国支配を図ります。


【滝川一益の能興行】

「真田丸紀行」に出ていた長昌寺。厩橋城の南に位置。

「境内に本格的な能舞台を作り人々を楽しませました」と語られておりましたが、実はここが群馬県における能発祥の地なのです。


天正10年(1582)5月。

一益は、厩橋城に上野国内の諸将を招き、能を演じます。



自ら『玉鬘(たまかずら)』を舞い、一益の嫡子・於長が小鼓を、岡田太郎右衛門が大鼓を打ったといいます。


《能楽メモ。大鼓ってなんだー》

嫡子・於長が打った小鼓(○こつづみ、×こづつみ)は、ポンポンと鳴らす皆様ご存じの鼓ですが、岡田太郎右衛門が打った大鼓(おおかわ)とは。


お雛様の五人囃子。

向かって左から、太鼓・大鼓・小鼓・能管・謡。

大鼓は、音としては、カーンカーンという、固く高い音。
馬のお尻の皮を張っています。


演能前に、炭火でかんかんにいぶって乾かします。

これによって、カーンという音が出ます。

私の習っている大倉流では、ドン、と、チョン、の「ちっちゃい音とおっきい音」の二つ。

かんかんに張った固い皮を素手で打つと、衝撃で手のひらではなく、手の甲がぽんぽんに腫れます。

そうねぇ。テーブルの角を手のひらで思いっきり打ち付ける感じ。

素手で打つと、ほんっとに痛いんだよー。
氷で冷やさないといかんほど、痛いんだよー。
初めて打った時は、ほんっとに手の甲が内出血したんだよー。

なので。


プロの方は、「指皮」という指サックとグローブもどきで保護。

指サックは、張り子のように米粉を水で溶いた糊と和紙を指に張り付け重ね、一番上を紅茶で着色した和紙を張り付けます。
乾燥させれば、こちこちになります。

全てオリジナルにするのは、自分の指の形にぴったりでないと、演奏中に飛んでいってしまうため。

演奏前に昔ながらのつぼに入った糊を滑りに用いて、ぎゅーっとはめ込みます。

グローブもどきの位置が大鼓の縁に当たります。


《『玉鬘(たまかずら)』という選曲》

『玉鬘(たまかずら)』は、『源氏物語』の玉葛(夕顔の娘)を題材とした曲で、作者は金春禅竹。

「げに妄執の雲霧の。迷いもよしや憂かりける。
人を初背の山颪。はげしく落ちて。露も涙もちりぢりに秋の葉の身も。
朽ち果てね恨めしや。」


と謡う、美しい女性がシテの曲です。

一益の選曲は、平家物語を題材とする修羅物(武将がシテ)ではなく、美しい女性がシテ。

なんでや。


ねー。

この時の一益の意図としては、織田家家臣ってのは、戦バカだけじゃないぞー、新しい城主は文武両道なんだぜーっと。


果して伝わったのかどうか。


なお、戦国時代の能舞台は、庭先に板を置いた可動式の簡素な物、あるいは、屋内の板敷の上で行っています。

現在のような「能舞台」が出来るのは、秀吉が能に耽溺する晩年以降。


《群馬県における初めての能興行》

6月2日。本能寺の変。


一益、6月7日にそれを知る。(『上野史談』)


6月11日。

一益は長昌寺で能興行を行います。

「能組十二番書立、舞台ヲ拵、瓶ヲ十二フセ」「総構ヲ大竹ニテ二重」(『石川忠総留書』等)

これが記録に残る群馬県で最初の演能とされています。

状況が状況ですから、長昌寺の「総構ヲ大竹ニテ二重」に厳重に囲んだ中での興行でした。

「能組十二番」

現在、午前11時開演、午後5時終了とすると、プログラムは能三番、狂言一番、仕舞数番です。

これでは能十二番なんてとても無理。

秀吉の晩年の演能記録など数々の資料から、戦国時代の能は、曲の全部を謡本通りに演能するのではなく、一部を取り上げるなどして、現在の半分ほどの演能時間であったと推定されています。

「舞台ヲ拵、瓶ヲ十二フセ」

能の型に、足拍子、があります。
足で床をトントンと踏み鳴らす所作ですが、この際の音を響かせるために、舞台床下に口を上に向けた龜や瓶を置きます。

屋根や柱の有無は不明ですが、庭先に板を置いただけのものが多い中、「本格的な能舞台」であると言えると思います。



太平記英勇伝35:滝川左近一益(wikipediaより引用)

滝川一益、小鼓なう。

これは、ポ、の手をしている図。いいのか、一益。のんびりしてて。


6月13日。山崎の合戦。


(高野山奥の院。豊臣家墓所)

周知の如く、光秀は秀吉の軍により、敗北・死亡。


(高野山奥の院。明智光秀墓所)


北条さんが不穏な動きを見せているし、滝川一益、さぁ、どうなる?


舞ってる場合か。


来週へつづく。


参考文献

『能・狂言なんでも質問箱』(山崎有一郎・葛西聖司著/檜書店)

『能・狂言事典』(西野春雄・羽田昶 編集委員/平凡社)

群馬県立図書館デジタルライブラリー「上野史談」小学校生徒用
http://www.library.pref.gunma.jp/index.php?key=muz6uxudu-917

同上「上野史談」


いつも応援いただきありがとうございます。甲斐国・武田信玄の家臣団の中に猿楽師五十余名がいたほどですから、大和猿楽が東へ普及していなかった事はないです。しかし、それが広く普及していることはなく、あくまでも大領主主従の話。滝川一益は上野国の諸将に見せた点が、ポイントです。

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「真田丸」内野家康使用の扇と戦国能楽事情。武田信玄の猿楽

こんにちは。

大河ドラマの「真田丸」。

東国にとんと疎いので、今年は記事に出来ないな~と思っておりました。
でも、私だって「真田丸」のお話がしたーい。

ら。

出た。

先週、穴山梅雪と徳川家康の対談の場面。



もしやーもしやー。



きゃっほー♪

観世流仕舞扇のご利用、まいどー♪


私のお稽古用扇なので、汚くてごめんなさい。

仕舞と謡の時に使用する扇を、仕舞扇、正確には「鎮扇(しずめおうぎ)」と称します。

観世・宝生・金春・金剛・喜多の各流派によって、扇の仕様が異なります。

観世流の仕舞扇の特徴として、


要がまぁるい。


親骨に三つ彫り。


三段の水巻の文様、いわゆる「観世水」が描かれています。

他の流派では。


宝生流。「宝生五雲」という5つの雲。


金剛流。「金剛雲」や「九曜星」という華やかな柄。


金春流は、5つの丸紋が描かれた「五星」


喜多流は、3つの雲が描かれた「三雲」。

細かく言えば骨の断面も異なるなどありますが、どうでしょう。
親骨に三つ彫りがあるのが観世流の扇だけなのが見えましたでしょうか?

(各扇の画像は京扇堂様のHPより拝借しました)
京扇堂様のHPはこちら。http://www.kyosendo.co.jp/shop/


ってことで、遅まきながら私もやるの、真田丸。


ええ、もちろん、能楽が出たら、です。ほほほほ。


【戦国時代と能楽】

猿楽を元にする能楽は、足利義満、豊臣秀吉、徳川家康など、時の権力者の庇護の下で発展し、江戸幕府において「武家の式楽」となり最盛期を迎えます。


(福知山市一宮神社の能舞台)


応仁の乱から戦国時代にもなると、能の最大の庇護者であった足利幕府の威光が失われます。

ぴーんちっ。

能役者たちは、一座を維持するために新たなパトロンを求め、畿内から地方に下ります。

・九州の大友氏  ← 金春禅竹の孫、金春禅鳳
・小田原の北條氏 ← 宝生座の宝生家
・浜松の徳川家康 ← 観世座の観世元忠
・越後の上杉謙信 ← 大鼓方の大蔵二助虎家

ほんの一例ですが、戦国武将達の群雄割拠の中で、都から地方へ能楽は流動したことの意味は大きく。

これは、後の安土桃山時代、江戸時代に能が隆盛する下地となりました。


【武田信玄と能楽】

甲斐国の武田信玄のもとへ流れてきた猿楽師がいます。



まず、武田信玄の家臣団の中で、猿楽師はどれ程いたのでしょう。


「観世大夫・大蔵大夫。両座あわせて(子役を入れて)五十一人。
大蔵大夫は名人といわれた。もっぱら、大蔵彦右衛門は脇、みますや弥右衛門は小鼓、こうの孫次郎、長命勘左衛門は狂言をした。そしていつもの客はもと美濃守土岐頼芸と旧近江の守護佐々木義賢の子、義治であった。この二人は国を追われて武田家に厄介になった。 」

(『甲州武田家臣団』土橋治重氏著)


これによると、シテ・ワキ・囃子・狂言方が揃い、金春に限らず観世もおり、かなりまとまった人員を抱えていたようです。

名人といわれた「大蔵大夫」が、「大蔵大夫十郎信安」。

この人が、武田信玄の元へ流れてきた猿楽師。

徳川家康の家臣で、石見銀山や佐渡金山開発に携わり、江戸幕府勘定奉行、老中となった大久保長安のパパ。



信安の父・大蔵道入は春日大社で奉仕する大和猿楽金春座の猿楽師。

金春座の支流のうち名家なのは、大蔵座。

共に秦氏を祖とし、その後も血縁関係にある金春家と大蔵家は、相互跡継(跡継ぎがない場合、片方より入る)の関係にもありました。

道入の子のうち道違と道智はそれぞれ小鼓方と大鼓方の祖(現在の大倉流)となり、末子が大蔵大夫となります。

これが「大蔵大夫十郎信安」で、大和国から播磨国大蔵、そして甲斐国へ。

甲斐武田家の猿楽大夫(武田信玄お抱えの猿楽師)として仕えたのでした。



参考文献

『能・狂言なんでも質問箱』(山崎有一郎・葛西聖司著/檜書店)

『能・狂言事典』(西野春雄・羽田昶 編集委員/平凡社)

『甲州武田家臣団』(土橋治重著/新人物往来社 )


いつも応援いただきありがとうございます。
ここまでせっせと書きながら聞いていた(後でゆっくり観るつもり)真田丸紀行。「境内に本格的な能舞台を建て・・・」って声が聞こえて、ぶおおおー!っとテレビにかじりついたら、まさかの滝川一益。かくん。堺から都への道中で、「ストップストップ」と家康が取り出した扇も、前回と同じ扇でした。にやり。

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源頼光と土蜘蛛退治。蜘蛛の糸が飛び交う能「土蜘蛛」

こんにちは。


葛城一言主神社の蜘蛛塚。

神武天皇の土蜘蛛退治はいわゆるヤマト対「まつろわぬ民」。

これを下地に本日は、能「土蜘蛛」のお話。


よろしくお付き合いください。


【能「土蜘蛛」】

作者不明

素材は『平家物語/劍の巻』

前シテ:僧
後シテ:土蜘蛛ノ精
ツレ:源頼光
ツレ:胡蝶・トモ:頼光の従者
ワキ:独武者・ワキツレ:独武者の従者


鬼退治で有名な源頼光、昼と夜の区別がつかぬほど重病。

典薬寮の長官からのお使いで薬を届けた胡蝶に「死期を待つだけなの」と情けない。

そこへ来たのが怪しい僧。


月清き。夜半(よわ)とも見えず雲切の・・・と謡いつつ登場。


僧 「いかに頼光。御心地は何と御座候ぞ。」
頼光「不思議やな誰とも知らぬ僧形の。深更に及んで我を訪ふ。
   その名は如何におぼつかな。」
僧 「愚かの仰せ候や。悩み給ふと我が背子が。来べき宵なりささがにの」
頼光「蜘蛛(くも)のふるまひかねてより。知らぬと言ふになほ近づく。
   姿は蜘蛛(ちちう)の如くなるが。」
僧 「懸くるや千筋の糸筋に。」
頼光「五躰をつづめ」
僧 「身を苦しむる」




僧は土蜘蛛の姿に変化し、蜘蛛の糸を頼光に投下。

病でへろへろの頼光ですが、枕元にあった刀「膝丸」で応戦。

土蜘蛛、手傷を負い、姿を消します。

そこへ駆け付けた頼光の家臣「独武者」。


頼光、事の次第を語って聞かせ。

ここで先程の僧が、七尺(約2.1m)の大きさの蜘蛛になったことが告げられます。

蜘蛛を追い払ったのは、ひとえに剱(つるぎ)の威徳。
「膝丸」を「蜘蛛切」と名付くべし。


膝丸は、源氏代々の宝刀。

床には、てんてんてん、っと土蜘蛛の血の跡。

独武者「この血をたんだへ。化生の者を退治仕らうずるにて候」

※「たんだへ」
探題(名詞)→尋ね探す動詞へ変換


追跡調査開始。

独武者「土も木も。我が大君の国なれば。何處(いづく)か鬼の。宿りなる」

※『太平記』巻十六。紀朝雄の歌より。


京都の北野東南で、土蜘蛛の塚を発見。


独武者の意気込み。天魔は、第六天魔王。


崩せや崩せ、と、独武者の激が飛びます。


地「下知に従ふ武士(もののふ)の。下知に従ふ武士(もののふ)の。
 塚を崩し。石を覆(かえ)せば塚の内より火焔を放ち。
 水を出すといへども大勢崩すや古塚の。
 怪しき岩間の陰よりも。鬼神の形は。現れたり。」




塚から火焔放射ふぁいやー。

それにめげずにさらに塚を崩すと、蜘蛛の巣が現れました。

中から声が聞こえてきます。



土蜘蛛ノ精「汝知らずやわれ昔。葛城山に年を経し。土蜘蛛の精魂なり。
 なほ君が代に障りをなさんと。
 頼光に近づき奉れば。却って命を断たんとや。」



神武天皇の葛城山に住む「土蜘蛛=まつろわぬ民」退治の故事から、「葛城山に年を経し」と。



蜘蛛の巣をばりばりと破り現れた土蜘蛛。

ふぁいっ。


舞台上では、糸を投げ散らす土蜘蛛(シテ)と、独武者達の打合(働・ハタラキ)が繰り広げられます。

蜘蛛の巣を投げかける土蜘蛛に対し、手足の自由を奪われた独武者達は苦戦。


独武者「然りとはいへども」

地「然りとはいへども神国王地の恵みを頼み。
 かの土蜘蛛を。中に取り籠め大勢乱れ。懸かりければ。
 剱乃光に。少し恐るる気色を便りに斬り伏せ斬り伏せ土蜘蛛の。
 首打ち落し。
 喜び勇み。都へとてこそ。帰りけれ。」



神国であり天皇の統治する国土であるから、神や君の御加護を頼んで、土蜘蛛に斬りかかる独武者達。

頼光の剱に斬られて苦しんでいた土蜘蛛は、独武者の剱の光を恐れる気配を示します。


独武者達は、ついに土蜘蛛の首を落とし。

意気揚々と都へ帰っていったのでした。

ちゃんちゃん。


《こぼれる話》

能「土蜘蛛」では土蜘蛛退治に向かうのは単に「独武者」とその従者達で、名前がありません。

『平家物語/劍の巻』では、頼光の元へ四天王が駆け付け、土蜘蛛退治に向かいます。
捕らえられた土蜘蛛は、頼光の命令で鉄の串に刺され、河原に立てて曝される羽目に。



うまく描けなかった土蜘蛛のおうち。
蜘蛛の巣は、毎回破るので和紙で手作り。

投げる蜘蛛の糸は、幅5mm程の紙テープを横に並べた土蜘蛛専用の小道具。

お稽古の時は、高価な本物を投げるわけにはいかず、包帯で代用。

投げては巻き、投げては巻き。


保健委員会のうた@忍たま乱太郎


ちなみに、投げられた糸は謡っている方にも容赦なく巻き付いて。


くすぐったくて死にそうです。


おしまい。


参考文献
観世流大成版「観世流初心謡本/『土蜘蛛』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。能「土蜘蛛」は、ぽんぽんぽんっと場面が変わり動きが多く、後の場面は舞台狭しと繰り広げられる土蜘蛛と武者達の争い。ぷわーっと広がる蜘蛛の糸の派手さもあって、楽しい能です。「幽玄」からは程遠いのでツウの人には軽視されがちな舞台ですが、「能の発展過程に於いて本曲のような趣向も求められた事は疑いようがなく」(観世流大成版「観世流初心謡本/『土蜘蛛』より)、現在も頻繁に上演される人気曲です。
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恥ずかしがりやの葛城の神、大和舞を舞う。能「葛城」

こんにちは。

能「葛城」の前段では。


葛城山は雪の中。山伏一行を自宅に案内した里の女。

山伏一行が夜の勤行を始めようとすると、
私も加持祈祷して欲しいと望みます。

何故なら「三熱の苦しみ」と「五衰の苦しみ」を身に受けて苦しみが絶えないのだ、と。

神のみが負う二つの苦しみを述べる事で、我が身は人ではないことを暗示し、

女「恥ずかしながら古の。法の岩橋架けざりし。
 その咎めとて明王の。索にて身を縛しめて。
 今に苦しみ絶えぬ身なり。」


役小角説話を持ち出して、一言主神を連想させて姿を消しました。(中入)


前後段の間に、間狂言(里のもの)から役小角と葛城の神の話を聞いた山伏一行は、あの里女こそ葛城の神の化身だと気付きます。


【能「葛城」・後(ノチ)】

山伏一行が「一心敬禮(いっしんきょうらい)」と仏を禮拝すると、
女神の姿をしたシテが現れます。

仏教の言葉で神様が顕れる。
何とも不思議な現象ですが、能が作られた時代には、不思議とも変とも思わなかったのですね。



頭上に天冠、大口(袴)、長絹or舞衣の装束は、女神の出で立ち。

前シテの地味な里女から一変。神々しい姿です。
しかし、他と違うのは、容貌が美しくないこと。


シテ「われ葛城の夜もすがら。和光の影に現れて。
 五衰の眠りを無上正覚の月に覚まし。
 法性真如の寳(たから)の山に。
 法味に引かれて来たりたり。よくよく勤めおはしませ。」


寳山とは、葛城山の別名。

仏教の手向に引かれて、神仏が衆生を救う光や悟りの月がぴかぴかする中、葛城山に来たのよ。よくよく勤行して下さいな。

と、「気高くスラリ」と謡いあげます。

しかしその姿は、美しい玉飾りをつけているのに身体には蔦葛が這い纏わる哀れな姿。


ぷれいではありません。


役小角の命で葛城山と大峰山に岩橋を架ける時、己の醜い姿を恥じて昼間は隠れた葛城の神・一言主神は


役小角の怒りに触れ、葛で縛られ谷底へ放置。

この時の葛が不動明王の索のように葛城の神の身を縛っているのです。


地「葛城山の岩橋の。夜なれど月雪の。
 さもいちじるき神體(しんたい)の。
 見苦しき顔ばせの神姿は恥ずかしや。
 よしや吉野の山葛。かけて通へや岩橋乃。高天の原はこれなれや。
 神楽歌始めて大和舞いざや奏でん。」

シテ「降る雪の。楚樹(しもと)木綿花(いうばな)の。
 白和幣(しらにぎて)」



夜なのに月や雪の明るさに露になる神の姿。
醜いお顔の葛城の神の姿は、恥ずかしいわ。
えーい、天岩戸の神話の舞台となったこの山で、
その時の神遊びの舞「大和舞」を、山伏たちに見せちゃるわー。

楚樹に降り積もった雪がまるで木綿花をつけた御幣みたいねー(*^^*)



そして、シテの葛城の神は「大和舞」に見立てた序之舞を舞います。

ここがこの曲の主題。ゆったりとした調べ。


ゆったりゆったり・・・ZZZ

ゆったりと舞った後は、さらっと明るく。

地「高天の原の岩戸の舞。高天の原の岩戸の舞。
 天乃香久山も向いに見えたり。
 月白く雪白く。
 いづれも白妙の 景色なれども。
 名に負ふ葛城の。神の顔がたち面(おも)なや面(おも)はゆや。
 はづかしや浅ましや。
 あさまにもなりぬべし。
 明けぬ前(さき)にと葛城の。
 明けぬ前(さき)にと葛城の夜の。
 岩戸にぞ入り給ふ岩戸の内に入り給ふ。」



ここでも葛城の神は、自分の容貌を恥じ、夜が明ける前に閉じ込められた葛城山の岩戸へと入っていくのでした。



《メモ》

小書(特別演出)の「大和舞」では、序之舞は「神楽」に変わり、
天岩戸の前で舞われた「大和舞」の趣が強くなります。

能管(笛)の対比

序之舞
オヒャーラー・オヒャイヒョォーイヒャーリウヒー

神楽
オヒャーラー・リーイヤーララー・リーイヤーラァラァラァァララー




謡曲「葛城」が作られた時代、天岩戸は大和国葛城山にあると考えられていました。

天岩戸に閉じ籠った天照大神に出てもらおうと天鈿女命が岩戸の前で舞った「大和舞」が神楽の初めであり、日本の芸能のはじまりだとされています。


以上、能「葛城」でした。

かづらき、ね。住所は、かつらぎ。


おしまい。


参考文献
観世流大成版『葛城』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。『古事記』『日本書紀』では雄略天皇と同じ容貌の男神だった葛城の神・一言主神。能「葛城」に見られるように、中世には女神だと考えられるようになります。これは「自らの容貌を恥じ」夜だけ顕れた事から来たようです。うーむ。微妙に失礼な。役小角説話と天岩戸伝説の舞台である葛城山。能「葛城」はこの二つをひとつの曲に仕上げたものなのでした。
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能「葛城(かづらき)」。神が受ける苦しみと古歌

こんにちは。


『古事記』では、雄略天皇に瓜二つな雄々しい姿の男神。

平安時代には、役小角に石橋を作らされ、


容貌が醜いのを恥じて昼しか働けなかったのに、怠慢な奴だー!っと呪縛され谷底へ放置されるはめに。

お気の毒な神様。


恥ずかしがり屋の一言主神。

しかし、一言主神の姿は、謡曲の世界でさらに変化します。

男神から、女神へ。

えー。


【能「葛城」】

地名では「かつらぎ」ですが、能の葛城は「からき」と読みます。

これが初めは頭がこんがらかり。

かつらぎ、かづらき、かづらぎ(違)、どれ?


師匠稽古でごまかし叱られる。


作者は世阿弥元清。
題材は『日本霊異記』『源平盛衰記』などの葛城山伝説。
季節は、冬。


葛城山。一面真っ白な雪景色に脳内変換。


葛城山へ来た羽黒山の山伏の一行。
吹雪に見舞われ難渋していると、近所の女が通りかかり。


お気の毒に、と、自宅に山伏一行を一夜泊めてあげることに。

彼女が手にしているのは、楚樹(しもと)。


葛城山で拾い集めた小枝を葛(かづら)で括ってまとめたもの。


その楚樹(しもと)を火にくべ、一行は古歌について語り合います。


「しもと結ふ葛城山に降る雪の 間なく時なく思ほゆるかな」
(読み人知らず・古今和歌集)


楚樹(しもと)を結う葛(かづら)は、同音の葛城山に寄せて枕詞としました。
それは、この「古い大和舞(やまとまい)の歌」にも詠まれているのだと、女は山伏一行に教えます。

※大和舞とは、大嘗祭や鎮魂祭で舞われる舞のひとつ。

やがて夜になり、山伏一行が夜の勤行を始めようとすると
女が勤行のついでに私も祈祷して助けてほしいと願います。


女「さなきだに女は五障の罪深きに。
 法(のり)の咎めの咒詛を負ひ。
 この山の名にし負ふ蔦葛(つたかづら)にて身を縛(いまし)めて。
 なほ三熱の苦しみあり。」

山伏「そも神ならで三熱の。苦しみと云ふ事あるべきか。」

女「恥ずかしながら古の。法の岩橋架けざりし。
 その咎めとて明王の。索にて身を縛しめて。
 今に苦しみ絶えぬ身なり。」

(中略)

地「明くるわびしき葛城の。
 神に五衰の苦しみあり 祈り加持して賜(た)び給へと。
 岩橋の末絶えて。神隠れにぞなりにける。神隠れにぞなりにける。」



※三熱の苦しみ

仏教では、龍に三熱の苦しみあり、と説きます。

熱風・熱砂に身を焼かれること、悪風が吹きすさんで住居・衣服を奪われること、金翅鳥 ( こんじちょう) に食われること。


恐ろしやー。


※五衰の苦しみ

最期を迎える天人に現れる五つの衰え。

衣裳垢膩・頭上華萎・身体臭穢・腋下汗出・不楽本座。(経により諸説あり)


字面から推量してあげて下さい。


これら二つを神にも転用しており、山伏は「神だけが負う苦しみを人間の貴女が負うことなんてないでしょ」と突っ込んだのです。

女の言葉には、役小角説話における一言主神の姿が、あちこちに伏線として語られていますが、回収出来るのでしょうか。

後半につづく。

参考文献
観世流大成版『葛城』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。謡曲で「かづらき」と読むのは、楚樹(しもと)を結う葛(かづら)から来るのかな、いや、葛は「かつら」とも言うし。かづらき!っと念を押しても、師匠稽古では本を見ずに謡うのが基本だったので、緊張すると、すっかーっと忘れてー。おほほほ。
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能「菊慈童」と菊の葉の水

こんにちは。

本日は、謡曲「菊慈童」のお話。

菊の季節によく上演される曲です。

素材は、『太平記』巻十三「竜馬進奏事」などの慈童説話。


金剛寺。菊慈童の屏風。


酈縣山(れっけんざん)の麓から薬の水がわき出たので、
魏の文帝の命により臣下が酈縣山の奥へ調査に。

なんと山奥には、菊の花。
そこで、周の穆王(ぼくおう)の寵愛を受けていた慈童と名乗る少年と出会います。

穆王がいたのは、七百年も昔。こは如何に?

慈童はある日、穆王の枕をまたいでしまい・・・



その罪で酈縣山(れっけんざん)に捨てられることに。

慈童は穆王から仏徳を讃える偈(げ)を記した枕を賜り、
それを忘れないように菊の葉に書き写しました。



具一切功徳慈眼視衆生(ぐいっさいくどくじげんじしゅじょう)
福聚海無量是故應頂禮(ふくじゅかいむりょうぜこおうちょうらい)

観音経(法華経普門品)の最後の部分。
観音経は、観世音菩薩の慈悲の心を信じて名前を唱えれば必ず救ってくれると説いたもの。


すると、この菊の葉の上に集まった露が薬水に。

その薬水を飲んで、慈童は不老不死になり、七百の齢を数えているのでした。

咲き乱れる菊の花の中、慈童は、御代を寿いで「楽(がく)」の舞を、時に菊の花に戯れるように軽快に舞います。

慈童が舞う楽は、太鼓が入り、笛は異国風の調べで、足拍子が多く華やか。



詞章(楽の舞のあと)

即ちこの文菊の葉に。即ちこの文菊の葉に。
悉く顕る。さればにや。
雫も芳ばしく滴りも匂ひ。
淵ともなるや谷陰乃水の。
所は酈縣(れっけん)の山の滴り菊水の流れ。



「淵ともなるや」
「我が宿の菊の白露今日ごとに 幾よ積つもりて淵となるらん」
清少納言の父である清原元輔の歌(『拾遺集』)。

菊の葉に書いた経文の功徳は、菊の葉に移り、
その雫からは菊の香りがただよい、やがて水がたまって渕となり、
谷陰から流れ落ち、酈縣山の菊水の流れとなっていたのでした。




泉は元より酒なれば。
汲みては勧め掬ひ(すくい)ては施し。
我が身も飲むなり飲むなりや。
月は宵の間その身も醉ひに。
引かれてよろよろよろよろと。
ただよひ寄りて枕を取り上げ戴き奉り。
げにもありがたき君の聖徳と岩根の菊を。
手折り伏せ手折り伏せ。敷妙の袖枕。
花を筵(むしろ)に臥したりけり。




シテ:元より薬の酒なれば。


残念なお知らせです。薬の酒は酔いつぶれません。


元より薬の酒なれば。醉ひにも侵されずその身も変わらぬ。
七百歳を保ちぬるも。この御枕乃故なれば。
いかにも久しき千秋の帝。萬歳乃我が君と。
祈る慈童が七百歳を。我が君に授け置き。
所は酈縣の山路の菊水。
汲めや掬(むす)べや飲むとも飲むとも。
盡きせじや盡きせじと。
菊かき分けて山路の仙家に。
そのまま慈童は。入りにけり。



観世流以外ではこの「菊慈童」を「枕慈童」と呼びます。

菊の薬水によって長寿と御代を寿ぐ内容で、格段難しいお話もなく、
慈童の舞を堪能する華やかな曲です。


おまけ。

謎の枕。


参考文献
観世流大成版『菊慈童』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)


いつも応援いただきありがとうございます。菊といえば、菊慈童。しずくぅもぉ~こぉばしくぅ~♪っとぶつぶつ謡いながら散策する怪しい人です。ふふふ。お話の内容にこだわらず、さくっと楽しむことが出来るので、人気曲です。9月9日の重陽の節句前後に演能が多いです。
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プロフィール

つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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◎画像と記事の無断使用厳禁!!
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