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真田丸第47回「反撃」大坂城外堀を埋めた鉱山の職人

こんにちは。

慶長19年(1614)大坂冬の陣。

大坂冬の陣で徳川軍は佐渡・石見・但馬・甲斐・伊豆から金堀職人を集めて天王寺口の三ヶ所から掘って城に入ろうとした。しかし土が悪くてうまくいかなかった。(『難波戦記』要旨)


銀山のような岩盤ならいざ知らず(画像/生野銀山坑道)

堀底トンネル案、失敗。

そこへ登場するのが、間宮新左衛門直元



生野銀山は豊臣直轄でしたが、関ヶ原後の慶長5年(1600)、徳川家康が直轄地とし、「但馬金銀山奉行」を配置。

初代「但馬金銀山奉行」が、間宮新左衛門直元

間宮一族の後裔には、樺太探検で有名な間宮林蔵、『解体新書』の杉田玄白(杉田間宮氏)等がいます。(『武家家伝/間宮氏』より)


慶長19年(1614)。
間宮は、生野銀山より町役人・下財(坑夫)100人余を引連れ大坂冬の陣に参加。


大阪城を攻めるのに「外堀の水抜き」を提案。



間宮は、生野銀山に加え多田銀山や近くの鉱山から集めた坑夫達によって大阪城の堀の水を抜き、川を堰き止め、塹壕を堀り。

が、12月15日。

間宮新左衛門直元、大阪冬の陣で、没。享年39。


間宮の推挙で家老の山川庄兵衛が二代奉行に就任。


12月18日。徳川の阿茶局&豊臣の常高院、和睦交渉。

19日講和条件合意、20日誓書が交換され和平が成立。


大蔵のおばはん(大蔵卿局)がやらかした「埋めてしまいましょー」「埋めてしまいましょー」。


真田丸も外堀も、埋めまーす。

普請奉行:松平忠明、本多忠政、本多康紀

家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を全て埋めた後、1月より二の丸も埋め立て。


冬の陣後の「外堀埋めちゃえ作戦」に貢献したのは、

初代「但馬金銀山奉行」間宮新左衛門直元率いる生野銀山の面々や、石見銀山等の職人達。


埋める時に立ちはだかる堀の水。

まずは、これを抜かねば。

生野銀山の面々は、大阪城の堀の水を抜き、川を堰き止め。


生野銀山では、手作りポンプで排水。


地下を掘れば湧水は常につきもの。


大がかりな排水も行っていますので、得意分野(画像/石見銀山)


かくして、大坂城ははだかんぼー。


この水抜きには、

石見銀山からも、竹村丹後守(竹村九郎右衛門嘉理(嘉政)/石見銀山の奉行)が堀子達3百人を連れて出陣し、外堀の水抜き作戦の功で感状を与えられています。(『島根県歴史人物事典』)

生野銀山では?


そう、かぶをもらいま

・・・「加奉」です。


大阪城の外堀の水抜き工事は、落城に大きく貢献。


生野の坑夫の親方(地親)達(特に奥地域)は馬に乗り、奉行に従い、時には奉行の代わりに指揮をとりました。

地親は元々、奉行の下で町方支配や銀掘りの指図をしていましたが、
この大阪城での功により彼等を「奉行に加わる」を意味する「加奉行(かぶぎょう)」と呼ぶようにと沙汰が下ります。

ご本人達は、加奉行とは畏れ多いと謙遜し、「加奉」と唱えるように。(『銀山旧記』)


以降、生野銀山での地役人は独自の役職名として庄屋・名主ではなく、年寄、加奉、年行事等と称し、殆どが世襲。

これは明治維新まで継続します。


※間宮は生野だけでなく統治範囲の他の但馬の鉱山からも集めており、地親から「加奉」となった記録は中瀬(養父市関宮町)、明延(養父市大屋町)にもあります。




また、翌年5月の大阪城落城後。

生野の「加奉」達は戦場での働きを賞され、次の事を許されます。(『難波戦記』『藤垣家文書』)

①孫の代まで名字帯刀

②各自・先祖の名を町名として付ける事



特に、大坂城の外堀の「西横堀」「道頓堀」「長堀」の三か所の町名に水抜き御用に手柄のあった奥地区代表の名前を付けることを許されます。

大坂の町名に残った奥地区代表の名

小 野  藤右衛門、平右衛門、権右衛門、助右衛門
新 町  次(治)郎兵衛、九郎右衛門、久左衛門、茂左衛門
奥銀屋  吉左衛門、七郎右衛門、宗右衛門
相 沢  孫左衛門


(「生野史談会・一里塚12号『大阪のど真中に町名を残した銀山の加奉たち』」/ 佐藤文夫著/平成19年)


「長堀次郎兵衛町」「長堀平右衛門町」は長堀川界隈に明治5年まで存在。
「助右衛門」は西横堀川にかつて助右衛門橋が架かっていた。
「宗右衛門町」「久左衛門町」「吉左衛門町」「久郎右衛門町」は道頓堀に。


知らなかったねぇ。

※宗右衛門町の由来は17世紀中頃に「町年寄」を務めた“山ノ口屋宗右衛門”の名に因んだものとの説もあるなど諸説あります。


☆☆☆本日の団右衛門☆☆☆


名刺整理中。

このあと、

「うるちゃーーーいっ」 by 毛利勝永(岡本健一@男闘呼組)

・・・ぷ。


いつも応援いただきありがとうございます。
兄上のお気の毒な膝枕の話、面白かったですねー♪今回の大河、大坂の陣の結末を知っていても、何とかあれこれひっくり返して幸村(信繁)に勝たせたくなります。あ、大坂城の画像は無論現在のもの。つまり、大坂の陣で埋めて壊れた後に徳川が威信を示すために再築した姿です。

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真田丸第46話「砲弾」塙団右衛門末裔、松江藩鉄師頭取役とたたら

こんにちは。

真田丸第42話「味方」


ためて~


破裂音で、自己紹介。んん…ばんっだんえむぉん、と覚えましょう。

塙団右衛門は、出自・半生は不明ですが、「真田丸」で自己紹介したように加藤嘉明に仕えます。

加藤嘉明は、


賤ヶ岳七本槍の一人(メンバーは諸説あり)

団右衛門は朝鮮の役で功あり、鉄砲大将となるも関ヶ原後に出奔。

理由は諸説ありますが、立つ鳥あとを濁しまくった出奔だったようで、加藤嘉明は


「奉公構」を出し、団右衛門の再就職を妨害。


※「奉公構」
大名が、出奔した家臣又は改易した者について、他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すこと(wikipediaより)


その後の団右衛門は、

小早川秀秋(嘉明よりも格上なので関係なし)→松平忠吉(家康の子で井伊直政娘のだんな・関ヶ原後死去)→福島正則に仕えますが、

福島正則に対し加藤嘉明が「奉公構」を主張。
団右衛門、クビ→略して「ぷーたろー」→大坂城へ。


よろしくね♪の笑顔が奥深い。


几帳面な文字ですな。


まずは満足な団右衛門。


真田丸第46話「砲弾」

11月17日。団右衛門は


蜂須賀至鎮の陣へ夜襲を仕掛けます。(徳島市興源寺蜂須賀家墓所)


(徳島市諏訪神社境内社・稲荷神社のお狐様♪)


夜襲の場所は本町橋。オフィス街のど真ん中です。


大将クラスがほいほいと先頭に出てはいけませんが、そこはドラマ。


団右衛門の大坂冬の陣での見せ場です。

この時の自分の名前を書いた木札をばらまかせたお話は有名。


団右衛門はボランティアで戦に来ているのではありません。

手柄をあげて、大名になれるもんならなりたい。
強く強く自己アピールします。

が。

団右衛門は大坂夏の陣「樫井の戦い」で浅野長晟と対戦、討死。


【団右衛門の末裔達】

団右衛門の末裔は、現在も地方の名士として続いておいでです。


(右:塙団右衛門所有具足)無論、武将ではありませぬ。

ポスターのすみに見えるゆるキャラ(?)は、


いろいろと大丈夫か心配なダンえもん。

ほにゃ次元ポケットから名刺をどんどん出して、頭はふぁいやー。

ダンえもんの頭上にあるのは、


たたら製鉄の炉。


そう、たたらと関わりがあるおうちになるのです。


団右衛門を祖とするのは、


松江藩 鉄師頭取役 櫻井家。


《団右衛門長男、第2代直胤(なおたね)(1592-1652)》

大坂の陣後、安芸広島藩主の福島正則に仕えます。

しかし数年後に正則が転封となり、代わって城主となったのが、樫井の合戦で団右衛門と敵対した浅野氏。



直胤(なおたね)は身に危険が及ぶことを恐れ、母方の旧姓「櫻井」を名乗り、「櫻井平兵衛直胤」と名を変え浪人に。

「櫻井平兵衛直胤」は、可部郷(現・広島市可部付近)へ移り、やがて高野(現在の広島県庄原市/古代たたら製鉄の遺跡あり)で製鉄業を始めます。


※「櫻井」の名だけを見れば直胤が初代ですが、櫻井家では塙団右衛門を初代と数えているので、それに準じます。


《第3代櫻井三郎左衛門直重(1619-1679)》


ここは奥出雲。奥出雲といえば、たたら製鉄の地。

第3代直重の時、現在の島根県奥出雲町上阿井呑谷へ。


屋号を「可部屋」(第2代直胤が移り住んだ「可部郷」より命名)とし、「菊一印」の銘鉄を作り出し。


《第5代櫻井源兵衛利吉(1699-1773)》

松江藩より地域の製鉄をとりまとめる「鉄師頭取役」の要職を与えられます。

おうちは、


奥出雲「松江藩鉄山師頭取」の櫻井家屋敷




塙団右衛門を初代、長男・櫻井平兵衛直胤(なおたね)を第2代とする松江藩鉄山師頭取櫻井家のお話、つづく。


参考文献
可部屋集成館展示資料
可部屋集成館図録


いつも応援いただきありがとうございます。
ずっと頭にもやもやと残っていた硫黄山のご紹介を終えて、さっぱりしたところで戻ってきました、たたら製鉄。塙団右衛門については、ほんとは大坂夏の陣まで待てばネタバレにならないのですが、その頃には真田丸ロスになっていそうです。名刺をどんどん配る団右衛門がかわいくて、うはうはな日曜日の真田丸。もう待ちきれないわー♪っと出してしまったばんだんえもん。どっぷりつかったたたら話によろしくお付き合いくださいまし。

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真田丸第31話「終焉」神となった秀吉と高野山豊臣家廟所

こんにちは。



慶長3年(1598)8月18日、秀吉死去。

9月7日。木食応其上人により、方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に鎮守「八幡大菩薩堂」と称する社が建築開始(『義演准后日記』慶長3年9月7日条)。

慶長4年(1599)。
4月13日。秀吉の遺骸を伏見城から阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬
4月16日「豊国大明神」の神号付与
4月18日「遷宮の儀」、八幡大菩薩堂は「豊国神社」に改称。



木食応其上人とは、秀吉の高野山攻めの折の仲介者であり、秀吉が帰依した高野山の僧。


【秀吉、神となる】



慶長4年(1599)4月16日。
自身を八幡神(新八幡/いまはちまん)として神格化するよう遺言した秀吉に与えられた神号は、「豊国大明神」。

この理由としては、八幡神は皇祖神であるから勅許が下りなかったとする説や、吉田神道による運動の結果とする説があるそうで。

ちなみに「大明神」とは、吉田神道では最高の神格

吉田神道とは、貞観元年(859)藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したことに始まる吉田社を中心とし、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝した神道。


吉田神道について詳しくはこちら

⇒⇒⇒吉田神道とは?
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-697.html

⇒⇒⇒吉田神道の戦国・桃山時代
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-698.html

⇒⇒⇒梵瞬とサルとタヌキと大僧正
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-700.html

⇒⇒⇒吉田神道の江戸時代
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-705.html

⇒⇒⇒神社商売と伊勢のリベンジ
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-695.html



「都名所図絵(天明6年(1786)版)」より、吉田社(吉田神社)。

細川幽斎の従兄弟にあたる吉田兼見は、

織田信長の推挙により堂上家(家格は半家)の家格を獲得。
近衛前久に家礼として仕えたり、明智光秀と深い親交があったり。

豊臣秀吉の庇護のもと、弟・吉田梵舜と共に豊臣家の宗教顧問としてあちこちで活躍。

ここで、キーマンとなるのは、弟の吉田梵舜(ぼんしゅん)

吉田家の次男は氏寺の「神龍院」に入る習わしに従い、梵舜も仏門に入りました。

梵舜が天正11年(1583)から最晩年の寛永9年(1632)まで綴った『梵舜日記』(別名『舜旧記』)は、豊臣から徳川へ移り変わる時代の資料として貴重。



洛中洛外図の一部。

方広寺大仏殿と豊国社(豊国神社)
大仏殿の後ろに秀吉の慰霊を祭る豊国廟と参道

※「廟」は墓ではなく神を祀るところ。
 秀吉は、「豊国大明神」になったので、ここ。

豊国社の社務職は、吉田兼見の孫で養子の萩原兼従。
豊国社の神宮寺の別当は、吉田兼見の弟・梵舜




神となった秀吉「豊国大明神」を祀る豊国社ですが、


元和元年(1600)大阪の陣により、豊臣家が滅亡。

徳川家康の意向で後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪。
秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」と名を変えられ以後仏式で祀ることなります。(wikipediaより引用)

そして、豊国社は、

「元和五年九月十八日梵舜、取毀を神璽に告げ、終に神社を妙法院に引き渡す。爾来荒廃して叢となる」(『豊国神社誌』青山重鑒/大正14年)

という、徹底的な迫害を受けます。

詳しくはこちら⇒⇒⇒梵瞬、天海と勝負
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-700.html


天明6年(1786)版「都名所図絵」。

方広寺大仏殿図に、豊国社の形は見えません。


大仏殿の片隅に「秀吉公塔」と記された石塔があるのみです。


【秀吉と高野山】


高野山奥の院。


右端に見えるのが、大師廟へ続く「御廟橋」。


大師廟に近い一等地です。

もう少し拡大。


「太閤秀吉」と記された五輪塔。

左から、大納言北方(?)、大光院殿、秀吉、春巌院□□、秀次公。

「大光院殿」は、弟の大納言秀長。

「春巌院□□」は、母の大政所の法名?

そして、右側に、石田三成。


現在は、「豊臣家廟所」として整備されています。


背後の大きなものは、昭和14年に京都の豊国廟から霊土を移して建立された秀吉の五輪塔。

名所図絵には「太閤秀吉」と書かれていますが、この新しい五輪塔が出来るまでは「高野山に秀吉の墓所はない」ことになっています。

何故なのかしらねぇ?


向かって右端に並ぶ2基は、弟の「大納言秀長」夫妻とか。

秀長は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」

妻の供養塔に「大納言北方 慈雲院芳室紹慶 逆修 天正十九年五月七日」。

そしてなぜか、図絵では右隣にあった三成の供養塔はここにはなく。


豊臣家廟所から、大師廟と反対側へずーっとずーっと


中の橋を越えて、


石田三成の「逆修墓」です。

「天正十八庚寅/宗応逆修/三月十八日」の銘。

「宗応」とは石田三成の法名。この時三成、三十歳。

天正18年(1590)3月といえば、小田原征伐の開戦直前。


関係ないですが、すぐ近くに「伝・明智光秀墓所」

しかし、何でここ。
豊臣家と引き離されたのかしら?


可哀想に。


「都名所図絵」
国際日本文化センター/都名所図絵データベース
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html

「紀伊国名所図絵」
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563500

その他参考文献は各々の記事に明記済


いつも応援いただきありがとうございます。
吉田神道のお話を、香川県の白鳥神社のところでせっせと書いていたので、自分のブログながら行方不明。ほほ。検索しちゃった。おほほほほ。そしていつまでたっても高野山から離れられないでおりますの。奥の院の地図と名所図絵とにらめっこ。まぁ、信長の墓所も最近発見されたそうですし、時代によって隠したり表に出したりと奥の院も案外落ち着かないものなんですね。

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真田丸第30話「黄昏」苦悩する三成の内緒話 in 高野山

こんにちは。


大河では苦悩する姿がたまらない三成です。

今日は、三成と高野山のお話。


【天正18年(1590)3月】

小田原征伐の開戦直前。


高野山奥の院。

中の橋の程近くに。


石田三成の「逆修墓」。

「天正十八庚寅/宗応逆修/三月十八日」の銘。

「宗応」とは石田三成の法名。この時三成、三十歳。


奥の院の石塔は、江戸期の大型の五輪塔が立ち並びますが、

本来は、総高60cm程度の五輪塔や、方柱状の一石の石柱を五輪塔形にした40cmから60cm程の一石五輪塔の造立が主流でした。


そこへ、この三成の石塔です。

当時ではこの五輪塔が一番大きかったとのこと(高野山大学図書館館長談)。



紀伊国名所図絵では、奥の院に近い秀吉達の供養塔の隣にある三成の逆修墓ですが、


現在は何故か徒歩数分の離れた場所に。


【文禄3年(1594)】


吉野の花見が催された年。


大河では能「源氏供養」のシテは秀次(史実では秀吉)。

秀次が自害したのは、


青巌寺。

秀吉が亡母の菩提を弔うため建てたお寺。

秀吉の高野山攻めの折の仲介者であり、秀吉が帰依した木食応其の建立。

応其上人は。

天正18年(1590)興山寺建立。
お財布は、諸国を勧進した施財と秀吉からの一千石の寄進。

この隣が「青巌寺」で秀吉が母の菩提を弔うために建立。
お財布は、秀吉の、米を一万石と白銀三千枚の寄付。


青巌寺+興山寺=現在の高野山金剛峯寺。明治2年(1869)に合併。


この年、三成にゃんは


高野山奥の院、御廟橋。この先の大師廟の隣に、

三成は母の菩提を弔うため、経堂を建て、一切経を奉納。

しかし、翌々年焼失。


【慶長3年(1598)】

3月15日。醍醐の花見。


花咲か爺さん by 秀吉。


決して秀吉を殴っているのではありません。

落下する秀吉ではなく、枝を受け止めた三成(違)。


この慶長3年(1598)8月18日、秀吉死去。

9月7日。木食応其上人により、方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に鎮守「八幡大菩薩堂」と称する社が建築開始(『義演准后日記』慶長3年9月7日条)。

翌慶長4年(1599)。
4月13日。秀吉の遺骸を伏見城から阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬
4月16日「豊国大明神」の神号付与
4月18日「遷宮の儀」、八幡大菩薩堂は「豊国神社」に改称。

三成、えらいこっちゃの連続ですが、


【慶長4年(1599)3月】

三成、焼失した経堂を再建。

経蔵の内部は、本尊文殊菩薩騎獅像を正面に、八角形の回転式輪蔵となっており、高麗版一切経6285帖(現存・重文)が納められました。


奥之院経蔵は弘法大師御廟に向って右(矢印部分)。

経蔵の正面に掲げられれる扁額銘には、



當輪蔵造営同
一切経奉納之
近江国坂田郡
石田治郎小輔
藤原朝臣三成
為慈母菩提也

扁額の裏面には



本願木食興山上人深覚房応其
金剛峯寺奥院経蔵之銘
慶長四己亥年三月二十一日記之


この銘から、三成の経蔵建立に木食応其上人が関わっていたことがわかります。

三成が木食応其上人と知己を得ているのは、秀吉と木食応其上人の関係から容易に推測できることでもありますね。

ほんとはそれどころじゃない三成ですが、裏ではお母さんのためにこんなことしてたんだなー。


照れなくてもいいのに。


いつも応援いただきありがとうございます。
高野山のあちこちをポケーッと見ていたら、三成もこそっと足跡を残していることにやっと気付きまして。おほほ。焼失した経蔵の再建計画は、秀吉死後のごたごたの前からあったとは思いますが、タイミングの悪さがお気の毒です。木食応其上人も「あちゃー」っと思ったことでしょうね。

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真田丸第30話「黄昏」醍醐の花見と秀吉の負修羅扇

黄昏。


道東のたそかれ。

「誰そ彼」

あなたはだぁれ?

親から言われた一番残酷な言葉でしたが、こんにちは。

今回は秀吉の醍醐の花見等でした。

慶長3年(1598)3月15日。

今日太閤御所渡御せらる。女中御成あり、終日花御遊覧す。路次茶や以下の結構、筆舌に尽くし難し。一事の障害なく無為に環御せらる。(『義演准后日記』)


ドラマでは花咲か爺さんと化した秀吉ですが、

今回のヒットはこちら。



「なんで負修羅扇やねんっ!」

負けとるがな、あかんがな、とほほほ。

・・・なんのこと?

秀吉が手にしている扇。

実は、能で用いられる扇の図柄のひとつ、「負修羅扇」。


【能の曲目分類】

能は、シテ(主役)の性格で「神男女狂鬼」の五つに分類されます。

上から順に、一番目物、二番目物・・・五番目物。

《神》「脇能」シテ:神。
別格の「翁」の脇に演ずるから脇能。天下泰平国土安穏を寿ぐ曲。

《男》「修羅能」シテ:武将
勝修羅と負修羅がある。修羅道の苦しみを主に訴える曲。

《女》「鬘能」(かづら/かつら)シテ:女人、公達、天人等。
いわゆる「能らしい」曲。

《狂》「雑能」物狂・執心・怨霊等、他に分類出来ない雑多な曲の何でも箱。
芸尽くし『花月』、斬合『夜討曽我』、巫女『巻絹』etc.

《鬼》「切能」シテ:鬼・天狗・天神・雷神・龍神など。
一度のプログラムで数曲ある時、最後に演じられる曲。

別名、鬼畜物。←情緒のない私、お稽古は今ここ。


例えば


吉野の花見で演じられた「源氏供養」は

シテが紫式部。《女》「鬘能」三番目物。


竹生島の龍神と弁財天が現れる「竹生島」は

後シテが神様なので、《神》「脇能」一番目物。


安宅の関を通る義経一行を描いた「安宅」は

武人だけど生身なので修羅道に落ちておらず、何でも箱の雑能。四番目。


飛火野の鬼神を描く「野守」は、そのまんま。《鬼》「切能」五番目物。


【修羅物ってなんだー】

修羅物のシテ・武人が行うのは戦。

戦には勝者と敗者があり、それぞれ「勝修羅物」と「負修羅物」。


「勝修羅物」

「田村」「箙」「八島/屋島」の三曲のみ。これ以外は全て負修羅。

用いる扇は、


勝修羅扇。図柄は「老松に旭日」


「負修羅物」

能は「平家物語」を題材にした曲が多い。
するとシテは、死後に修羅道に堕ちた源平の武将となります。


修羅道の苦しみと悲しみを訴える曲です。



『朝長』『実盛』『頼政』『忠度』『俊成忠度』『清経』『通盛』『敦盛』『生田敦盛』『知章』『経政』『兼平』『巴』。

どうでしょう。皆、「平家物語」の源平双方の敗者です。

用いる扇は、


負修羅扇。図柄は「立波入り日」

屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと続けて敗北し、海に消えた平家の公達を連想するような図柄ですね。


こんな背景があったので、今日の大河で私が突っ込んだ


と、なるのでした。


いつも応援いただきありがとうございます。
ストーリーもぶっ飛ぶツボでしたが、思うに、大河の小道具さんに能の好きな人がいるのではなかろうかと。家康が持つ扇が、観世流の仕舞扇から勝修羅扇に変化したらビンゴです。しかしまぁ、顔色がいいね、っと安心していた三成達をどん底へ落とした茶々さんの「無邪気」。これは何なのでしょうねぇ。怖いわぁ。

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真田丸第28話「受難」。秀吉と秀次と高野山

こんにちは。


秀吉の吉野の花見は、

文禄3年(1594年)2月27日(新暦4月17日)。

秀吉の生母、天瑞院の三回忌法要を執り行う高野山への参詣途上でした。


「豊公吉野花見図屏風」(重文、細見美術館蔵)



能に夢中になった秀吉。



自分の功績を題材とした「豊公能」「太閤能」と呼ばれる作品群を創作。

有名な曲では、「吉野詣」「高野参詣」「明智討」「柴田」「北條」。

謡作詞は、法橋・大村 由己(秀吉御伽衆)。
節割り・型付けは、金春大夫安照(金春流六十二世宗家)。

その中の一曲「高野参詣」は、



母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に、大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行をたたえるというお話。


誰かの幽霊が現れて喋って舞って帰っていくのは、能の定番ですが、普通は仏の功徳を讃えたり、修羅道の苦しみを訴える(平家物語を題材にした曲)ものです。

かーちゃんが息子をほめまくるなんて、聞いたことがない。

いやまぁ、・・・だからこそ「天下人」ってとこかしら。



先週の秀次くんの勇姿。

今回は、「秀次悪くない」でしたね。よかったなぁ。

秀次が自害したのは、今の「高野山・金剛峯寺」。



秀吉は、高野山攻めの際に、秀吉と高野山を仲介した木食応其上人に帰依するようになり、寺領を寄進。


応其上人は。

天正18年(1590年)。興山寺建立。
お財布は、諸国を勧進した施財と秀吉からの一千石の寄進。

この隣に建立したのが、「青巌寺」。

「青巌寺」は、秀吉が母の菩提のための建立。

お財布は、秀吉の、米を一万石と白銀三千枚の寄付。

明治2年(1869年)3月29日。
青厳寺・興山寺の二寺を合併。

金剛峯寺と呼ばれるように。

※興山寺は、山縣玄浄僧正が稲葉氏の協力を得て大分の臼杵に寺号、寺宝を移しました。



正門は、金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)再建。

高野山は度々の落雷による火災で、多くの堂于が焼失&再建を繰り返しています。


金剛峯寺の主殿。

文久3年(1863年)の再建。

この中に、文禄4年(1595年)、秀次が自害したと伝わる「柳の間」があります。


あれ?

・・・当時のままに復元したということで。


大玄関。

正門・大玄関は、本来は天皇・皇族や高野山重職のみ出入り可。


秀次に思いを馳せようにも、文久3年(1863年)の再建ではねぇ。

ざんねん。

「金剛峯寺」は、元来は高野山全体を指す名称でしたが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称しているそうです。(wikipediaより)


壇上伽藍へ。


他より高い位置にあります。


高野山は「一山境内地」と称し、高野山全体がお寺の境内地。

高野山の本堂は、壇上伽藍にそびえる「金堂」。

山内に点在するお寺は、塔頭寺院。
現在では117ヶ寺が存在。(金剛峯寺HPより)


宿坊も、塔頭寺院になります。


中門は、昨年再建。

壇上伽藍は、空海が在世中に堂宇を営んだ場所なので、聖地。


・・・。


金堂を挟んで、反対側はガラリと雰囲気がかわります。


こちらにあるのが、山王院と


御社。


雰囲気がよく、人が少ないのがとてもいいです。


いつも応援いただきありがとうございます。
金剛峯寺の内部は再建ながらピカピカ、あ、いや、えーっと、見事な美しさです。あっけらかーんっとした金堂の東側と、鬱蒼とした森の残る西側の対比は、焼失したか否かの違いのようで。戦でファイヤーではなく、落雷。これほど歴史ある高野山内で国宝建造物が少ないのは、これが原因。自然って怖いなー。

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真田丸第27回「不信」(4)武士となった大和猿楽四座

こんにちは。

興福寺等に属し、祭礼に奉仕した大和猿楽四座。

外山座 →宝生座
坂戸座 →金剛座
円満井座→金春座
結崎座 →観世座

これに元和年間に金剛座から分かれた喜多流を加えた「四座一流」が現在の能楽シテ方五流。


金春安照に師事した秀吉の贔屓は、金春座。

金春流は、豊臣政権公認の流儀として各地の武将たちが追随。


秀吉が能に没頭したのは晩年の10年程ですが、猿楽の歴史においてこの時期は、まさに、革命期。

①外国との貿易による「新しい織物」の登場→装束の変化
②常設の能舞台の設置
③猿楽4座への扶持米支給


③猿楽4座への扶持米支給


秀吉は、大和猿楽四座(観世・宝生・金春・金剛)の役者達に給与(配当のお米)を与え、保護。


秀吉朱印状『観世座支配之事』(観世文庫所蔵)

能役者の給与(配当米)は金春座以外、各大名が分担して出費。

これは観世座の分で、家康が500石分負担するなど決められています。

秀吉ご贔屓の金春座は秀吉に直接保護され、領地も与えられています。

その領地は江戸時代も存続。


金春札(法政大学能楽研究所所蔵)

領内で有効なお札「金春札」が発行されていました。




このように能役者の生活は公的に保護されるようになった点が、秀吉前との大きな違い。

その反面、金春・観世・金剛・宝生の大和猿楽四座は、それまでの自由な身分から武家に従属する形に。


【江戸時代の保護政策】

猿楽四座への保護政策は家康の江戸幕府にも受け継がれます。

このおかげで能は今日まで続くことができたともいえます。


家康もはじめは金春大夫安照をご贔屓。
見るのは好きでしたが、秀吉ほど猿楽にのめりこむことはなく。

家康は金春座ではなく、観世座を用います。

秀忠は金剛座から喜多流を独立させる程の喜多贔屓。
続く家光も、喜多好き。

これに倣って各大名は喜多流を重んじるようになり、発祥は新しくとも全国に一気に広まります。


舞台正面

また、能が幕府の公式行事で演じられる「式楽」として定着したのは、三代・家光、四代・家綱の時代。

(※各座の大夫は、家康の時代に江戸へ移されています。)



猿楽座大夫の身分は、武士。

幕府や大名より俸禄を与えられて生活は安定。

しかし、老中や若年寄といった官僚制度の下で、能役者は上演演目が管理され、政治的な影響を強く受けるようになってしまいました。



秀吉前には大和猿楽以外にも丹波猿楽や山城猿楽も活動していました。

が、秀吉と江戸幕府の大和猿楽への保護政策により、大和猿楽以外の猿楽は解体・吸収され。


《大和猿楽四座以外のその後》


例えば、丹波猿楽「梅若」座。


菩提寺である曹源寺。


(高野山奥の院。明智光秀墓所)

梅若家の家久(もしくは広長)は、丹波攻略によりこの地域を手中に治めていた明智光秀方に付いて山崎の合戦を戦い、戦傷がもとで他界。

光秀に付いた梅若家は、一時没落。

梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)が細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕え、世木庄の上稗生(現在の日吉町生畑上稗生)に百石を賜り、梅若中興の祖となりました。


「丹波猿楽梅若家屋敷跡」の旧墓所。

日吉の領主となった梅若家は、日吉を本拠に丹波猿楽の梅若座を構えます。

後に観世流に合流して「観世流梅若家」となり、名手を輩出しています。


◎まとめ◎



幕府の中に武家として組み込まれたことで、自由な創造は制限されますが反面、既存の曲目は成熟化。

また。

大和四座の中に組み込まれなかった地域密着で地域色の強いものは、各地に残る「神事能」として残り伝えられることとなりました。

演能はお上のものとなってしまったものの、謡本は歴史の教科書、手習いのお手本、謡は旦那衆の教養科目や趣味として、庶民の間にも浸透していきました。


(高野山奥の院。豊臣家墓所)

長くなりましたが、このように猿楽の歴史は、秀吉前と秀吉後とで大きく変換したのです。

おしまい。


参考文献

『能楽談叢』(横井春野著/サイレン社/昭和11)
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257024

『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)

『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』(天野文雄著/講談社)


いつも応援いただきありがとうございます。
真田丸の舞台シーンから始まった猿楽のお話、長々とおつきあいいただきありがとうございました。装束、舞台、また演能時間など様々な変化があった秀吉前後の時代。そのなかで一番大きな影響を受けたのがこの扶持米の支給による猿楽座の武家化と四座以外の淘汰。秀吉はただ猿楽に耽溺したのではなく、政策面においても多大な遺産を猿楽に残したのでした。

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真田丸第27回「不信」(3)秀次達の能装束と舞台の桃山革命

こんにちは。

妙なエンジンがかかってしまいました。

だって、ほんとにほんとに良かったのですもの。
大河の能の場面。


小鼓の先生も、お芝居してます。うふ。

さて。

秀吉が能に没頭したのは晩年の10年程ですが、猿楽の歴史においてこの時期は、まさに、革命期。

れぼりゅーしょんは、大きくみっつ。

①外国との貿易による「新しい織物」の登場→装束の変化
②常設の能舞台の設置
③猿楽4座への扶持米支給


①外国との貿易による「新しい織物」の登場→装束の変化


シテの装束は、若い女性の常の姿「紅入唐織着流出立」。

能装束は今でこそきらびやかなイメージですが、秀吉前はさほどでもなく。

足利時代は、良質の生糸は輸入に頼り、国内の織物の技術が未熟でこれも輸入。
よって、豪華な唐織物は大変高価。

余程有力なパトロンがいない限り、無理っ。

そこへ現れたのが、贅沢な絹織物を好んだ信長・秀吉。

南蛮貿易による生糸・絹織物の輸入と並行し、養蚕と国産織物の生産を奨励。



応仁の乱で堺へ避難していた織物工達が西陣へ戻り、輸入品に劣らない良質の絹織物を生産。

秀吉好みの桃山文化。

建築、庭園等と共に、能装束にも桃山風の華やかさが表れます。


刺繍と摺箔(すりはく)で着物全体に模様を表した縫箔(ぬいはく)。

「唐織」は、縫箔でこさえた装束の総称。

絹織物の技術は、江戸時代にさらに発展。
各大名の庇護下で能装束は、絢爛豪華なものに。

各地の博物館や美術館の展示で目にする、能装束の出来上がり。


ちなみに。

これは現在のものですが


装束・面・持ち物は、各曲で定められています。


勢揃い。


同じワキ方でも、ワキとお供のワキツレでは中の着物が違います。


これ、お坊さんの定番です。

大口とは、見ての通りの幅が非常に広くて固い装束。袴の仲間。

楽屋口を通る時は正面向いては入れないので、先生に「カニさんっ(横歩きっ)」と言われます。

新しい能楽堂では、大口を付けた人がぶつからずにすれ違うことができる幅に通路が設計されている所があります。(名古屋能楽堂など)


前シテ。赤と白の地が互い違い。刺繍と摺箔で着物全体に模様。

わかりやすいように「唐織・紅白段○○○○(模様の形。短冊桔梗源氏車、など)」と呼びます。

「源氏供養」の前シテは若い女なので、紅白。
安逹原など、おばちゃんの場合は、赤ではなく青とか緑とか。地味。

片方を肩から外すと、物狂いの姿。蝉丸の姉など。
両方外すと、裸。羽衣の前シテで、衣を取られた時はこの姿。

では、舞台を見てみましょ。


お坊さんと若い女のにらめっこ、に見えましたねー?うふふ。


後シテの紫式部。


長絹(ちょうけん)もまた、能装束独特の呼称。


亀甲と桔梗の模様が金で描かれています。


大口を白に、頭上を天冠にすると、天女に変身。

隅っこに座るワキ方は勅使一行なので装束が豪華。


夏になると能楽師の先生の各家で虫干しが行われ、舞台や客席に一斉に装束が広げられる光景は壮観です。


②常設の能舞台の設置


吉野の花見では、吉水神社に設けられた舞台での演能。


秀吉以前は、能舞台は屋外で、中庭等に土を盛り、その上に板を敷いた仮設の簡素なものでした。

奈良の春日若宮御祭の後宴の能では今も、この造りの舞台です。

それが室町後期より公家宅に常設の能舞台が現れはじめ、


シテやワキが登場する「橋掛り」が定着。

秀吉の能好きにより盛んに演じられるようになった桃山時代からは、


このように常設の能舞台の形に。ただし、屋外。

江戸時代になると各大名が城内や神社等に設置。


切戸は地謡や後見が出入りする場所。

能舞台に壁が出来たことで必要となった扉です。

この他、舞台寸法や地謡座などの細かい点が整ったのは江戸時代。


現在のような、屋根の下に屋根、の形は明治以降。

能を武家の式楽として庇護した徳川幕府の崩壊により、能楽師達も武士と同じように自力で生活しなくてはならず。

演能で収益をあげるには、お天気に左右されるのは困ります。

能舞台をホールの中に移すことで、お天気を気にせずいつでも公演することが出来るようになりました。


③猿楽4座への扶持米支給

今夜のお酒がなくなったので、つづく。


参考文献

『能楽談叢』(横井春野著/サイレン社/昭和11)
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257024

『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)

『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』(天野文雄著/講談社)


いつも応援いただきありがとうございます。
各能楽師のおうちに伝わる面(おもて)や装束は、数百年前のものもザラ。文化財の宝庫ですが、指定を敢えて受けないのは、受けたら舞台に使えない(使いにくい)から。舞台で使用してこそ、生きるもの。それが能装束であり、面なのですね。秀吉のご贔屓の金春流ではこの桃山時代の素晴らしい装束が数多く伝わります。それはもう、とっても素敵。

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真田丸第27回「不信」(2)秀吉の金春贔屓と手猿楽

こんにちは。


このお稽古風景、鼻血が出るほど懐かしくて。

たいへんツボった真田丸第27回「不信」。


特にこの面の持ち方にも、感動。

金春流シテ方の山井綱雄先生のご指導の賜物かと。


シテは曲を終えて舞台より幕に入ったら、一度我が姿を幕と楽屋の間の鏡の間の鏡に映す。

下を向いたら汗が落ちるから、上向き加減にして、面を外す。

このとき、

手の脂が付くので、決して決してべちょんっと持ってはいけないのです。


【能楽の歴史】


(福知山市一宮神社の能舞台)

猿楽を元にする能楽は、足利義満、豊臣秀吉、徳川家康など、時の権力者の庇護の下で発展し、江戸幕府において「武家の式楽」となり最盛期を迎えます。


(福知山市一宮神社の能舞台)

その前に。

まず勢力を伸ばしたのが、興福寺等に属し、祭礼に奉仕した大和猿楽四座。

外山座 →宝生座
坂戸座 →金剛座
円満井座→金春座
結崎座 →観世座

これに元和年間に金剛座から分かれた喜多流を加えた「四座一流」が現在の能楽シテ方五流です。


応仁の乱から戦国時代にもなると、能の最大の庇護者であった足利幕府の威光が失われ、各座は一座を維持するために新たなパトロンを求め右往左往。

・小田原の北條氏 ← 宝生座の宝生家
・浜松の徳川家康 ← 観世座の観世元忠 など
・大坂本願寺 ←各座(最大のパトロン化)


そんな中に現れたのが、「手猿楽」。

手猿楽の「手」は、手料理の「手」。

いわゆる座付きの猿楽師ではない、「素人役者」です。

これが戦国期に流行し、権力者に限らず一般の人々による猿楽の流行をもたらします。

さ、そこで、秀吉です。


【秀吉の能好き、金春贔屓】

秀吉は、肥前名護屋に金春安照はじめ四座の役者や手猿楽(素人役者)を呼び寄せて演能させたり、

文禄2年(1594)に「禁中能」を催しています。



(高野山奥の院。豊臣家墓所)

秀吉の能好きの発端は、手猿楽との出会い。


手猿楽の有名人としては、この二人。共に金春座系。


①下間少進仲孝

金春大夫喜勝に師事。

大坂本願寺坊官の下間少進家の一人で、対信長戦では本願寺側の軍事責任者。

天正16年(1588 )頃から活発な演能を展開。

山科に存在した頃より芸能と繋がりの深かった本願寺では、財政的な豊かさも手伝って猿楽が盛ん。

本願寺内での演能記録、大坂寺内町での勧進猿楽が細かく『天文日記』に記されています。

挨拶に来た猿楽大夫が本願寺証如に請われて演能するなど、面白いです。

また、少進は演能記録「能之留帳」を、天正16年(1588)2月24日(摂津天満の舞台)より、以後元和元年(1615)11月2日まで、実に293回もの演能の場所・曲目・シテや三役・観客が誰か、を克明に記しています。

そして、この下間少進仲孝の舞台が、秀吉の能好きのきっかけに。


②暮松新九郎

金春座系。師匠不詳。秀吉の師匠となった人物です。


こんなお稽古じゃなくて


こうにちがいない。お上手お上手。

暮松新九郎(金春系)に能の手ほどきを受けた秀吉。

彼は、金春大夫喜勝の後継者である
「金春大夫安照(金春流六十二世宗家)」に師事します。


(金春流の5つの丸紋が描かれた「五星」の扇)

金春流は、豊臣政権公認の流儀として各地の武将たちが追随。

秀吉、猿楽に没頭。


さるはおだてりゃ調子にのる。

既存の作品を演じるだけでは飽き足らなくなり。

10番におよぶ新作能を創作。

それが新作能「豊公能」「太閤能」と呼ばれる作品群。

自分の功績を題材とした曲で、秀吉58歳のころに作られたと言われています。

有名な曲では、「吉野詣」「高野参詣」「明智討」「柴田」「北條」。

謡作詞は、法橋・大村 由己(秀吉御伽衆)。
節割り・型付けは、金春大夫安照(金春流六十二世宗家)。



「吉野詣」

吉野に参詣した秀吉に蔵王権現が現れ、秀吉の治世を寿ぐ祝言もの。



「高野参詣」

母大政所の三回忌に高野に詣でた秀吉に、大政所の亡霊が現れて秀吉の孝行を称える曲。


「明智討(討伐)」「柴田(退治)」「北條(征伐)」は、
題名のまんま。秀吉の戦功を称えたものです。


秀吉のえらいところは、謡って舞って、しゃららら~♪だけではなかった点。


猿楽の歴史において秀吉晩年のこの時期は、まさに、革命期。

つづく。


参考文献

『能楽談叢』(横井春野著/サイレン社/昭和11)
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257024

『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)

『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』(天野文雄著/講談社)


いつも応援いただきありがとうございます。
秀吉の能好きは、没頭して他がなにも見えなくなる、というより、無邪気に楽しんでいる感じがします。せっかく天下人になったのですから、自分を主役にした武勇伝を創作してみたかったんだろうなー。おのぼりさんだなーっと暖かい目で見てあげましょう。

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真田丸第27回「不信」(1)秀次の能「源氏供養」と吉野の花見

こんにちは。

役者さんへ能の指導と監修、能場面でのシテの中の人は、金春流シテ方山井綱雄先生でした。


主将は、宇喜多秀家。


先輩の言うことはさっぱりわからなくて、


動けないのは、お稽古あるある。

この足の運びを「運足(うんそく)」と言います。


ずーっと踏み込む足、「踏足(ふんそく)」だと思ってました。へへ。

嬉しかったのは、鏡の間での「お調べ」場面。

「お調べ」とは、能が始まる直前に行うチューニングのようなもの。


左から、大鼓(おおかわ)、小鼓(こつづみ)、能管。

かーんかーんって音を鳴らすために、皮の張りが大切なのでぎゅっぎゅっと締める大鼓。

反対に皮の湿り具合が大切なので、皮に息をあてている小鼓。


使用された面は、300年前の「天下一河内作の小面」。

http://ameblo.jp/yamaitsunao/entry-12178834390.html


お庭に作られた能舞台で演じられたのは、

「源氏供養」でした。

耳の穴かっぽじって聞き取りました。


「源氏供養」

作者は不明
素材 『源氏供養草子』
場所 近江 石山寺
季節 春
分類 三番目物

石山寺を参詣に訪れた安居院の法印に声をかけた女は実は、自分が書いた『源氏物語』の主人公光源氏を供養しなかったために成仏できずにいる紫式部。

式部は光源氏の供養と、自分を弔うことを法印に頼み、巻物を渡した、というお話。

根底にあるのは、この曲ができた時代の思想。

物語は狂言綺語(きょうげんきぎょ:道理に合わず、大げさに飾り立てられた言葉)を描いており、これは仏法の教えに反する。
よって、その作者は地獄に堕ちる、というもの。

こわーっ。

この曲は、詞章のあちこちに〈桐壷〉〈夕顔〉など、『源氏物語』の巻名が出てくる点が特徴。


ドラマの場面は、こんな感じ。



シテ「恥ずかしや。色に出づるか紫の」

地謡「色に出づるか紫の。

(ここから)
   雲も其方(そなた)か夕日影さしてそれとも名のり得ず
   かき消すやうに。失せにけり。かき消すやうに失せにけり」



謡の言葉に合わせたかのような、夕日。

女は夕日の中、名乗らずに姿を消しました。(前半終わり)

法印は、女の依頼に応じて光源氏の供養をして紫式部の菩提を弔おうと思うものの、女の言葉が本当とも思えず、いぶかしく思い、供養を躊躇。

これが、


信繁君が頑張った箇所。

ワキ「とは思えども徒し(あだし)世の。とは思えども徒し世の。
   夢に移ろふ紫の。色ある花も一時の。あだにも消えし古の。
   光源氏の物語。聞くにつけてもその誠(まこと)頼み少なき。
   心かな頼み少なき心かな」

シテ「松風も。散れば形見となるものを。思ひし山の下紅葉」
地謡「名も紫の色に出でて」
シテ「見えん姿は。恥かしや」



次はいきなり最後の場面(キリ、といいます)。



地謡「よくよく物を案ずるに。よくよく物を案ずるに。
   紫式部と申すは。
   かの石山の観世音。仮にこの世に現れて。かゝる源氏の物語。
   これも思へば夢の世と。人に知らせん御方便(ほうべん)

(ここから)
   げにありがたき誓ひかな。
   思へば夢の浮橋も。夢の間の言葉なり夢の間の言葉なり」



さて。演能があったのは、

文禄3年(1594年)2月27日(新暦4月17日)。

秀吉の生母、天瑞院の三回忌法要を執り行う高野山への参詣途上で催された、

吉野の花見。


「豊公吉野花見図屏風」(重文、細見美術館蔵)

徳川家康や伊達政宗、前田利家等の重臣、公家や茶人など約5千人が参加。

ちなみに秀吉最晩年の「醍醐の花見」は、約1千3百人。


修験道場の吉野山は、源義経が追っ手から逃れ、後醍醐天皇が落ちのびて南朝を開いた土地。

そんな吉野で。

秀吉は、5日間にわたって、中千本の吉水神社を拠点に歌会や茶会。

吉野の花見で秀吉が詠んだ歌。



「とし月を 心にかけし 吉野山 花の盛りを 今日見つるかな」


この吉野の花見で、秀吉は自ら、「吉野詣」「源氏供養」「関寺小町」を舞います(『駒井日記』)。

最初に演じたのは、「吉野詣」。



吉野を詣でた秀吉を蔵王権現が迎え、吉野の天女の舞(宮中大嘗祭の五節舞の起源)と共に秀吉の治める天下を言祝ぐ内容。

秀吉が、吉野の花見のために創作したおニューの曲(新作能)です。

謡作詞は、法橋と大村由己(秀吉御伽衆)。
節割り・型付けは、金春大夫安照(金春流六十二世宗家)。


秀吉が能に没頭したのは晩年の10年程ですが、

既存の作品を演じるだけでは飽き足りず、10番に及ぶ新作能を創作。

それが「豊公能」「太閤能」と呼ばれる作品群。


秀吉の贔屓は、金春座。


(金春流の5つの丸紋が描かれた「五星」の扇)

今回の能楽場面で、金春流シテ方山井綱雄先生が中の人となり、役者さんに芸能指導をしたのは、なるほどなるほどです。


ピンチ極まりない豊臣秀次も、
文禄4年(1595 )に金春流の102番を対象曲とし、五山の僧らに『謡之抄』の編纂を命じています。


参考文献

観世流大成版『源氏供養』(訂正著作/24世観世左近、檜書店発行)

『能楽談叢』(横井春野著/サイレン社/昭和11)
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257024

『能楽全史』(横井春野著/檜書店/昭和5)

『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』(天野文雄著/講談社)


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先週の予告で能装束の秀次を見て、ずーっと楽しみにしてました。お稽古場面に爆笑し、演能場面ではがっつりポイントをおさえた映像の連続で、うはうはです。私は観世流をお稽古しているので金春流の謡が聞き取りにくく、信繁君の大きなお声でやっとわかりました。えへへ。

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