こんにちは。

銀山へ向かう途中の町から、川を渡って

山神宮(山神社)。
奥山神宮+口山神宮=現・山神宮(山神社)in 明治24年(1891)

御見石とは、その年に産出された中で一番極上の鉱石。
「御見石」を豪勢な飾幕で飾った山車に乗せ引き回す、年に一度の山神祭は山神宮の祭礼。
《口山神の由緒》
・・・おくち。
大永元年(1521)創建と伝わり、
生野代官所設置と共に鉱業者の採掘した鉱石の50分の1を徴して経費に充てることに。之を山神鍵(クサリ)という。
天正4年(1576)別当寺龍藏院神宮寺實相房を建立。
天正13年(1585)
代官伊藤石見守、賽ノ木に社殿を移転新築。
天正15年(1587)愛宕山の麓に御旅所を設け、神幸式。
慶長12年(1607)
初代銀山奉行・間宮直元、供米20俵を献じる。
明暦4年(1658)
代官中野弘吉、白鷺の掛軸を奉納。
元禄9年(1696)
奉行秋山七郎左衛門、社殿を口銀谷字猪野々の地に新築遷座。
明治6年(1873)10月村社。口銀谷字1丁目元県内の地に移転。
明治21年(1888)郷社姫宮神社へ合祀。
明治24年(1891)口銀谷字4丁目の元天満神社跡へ社殿を造営独立。
奥山神を合祀し、且つ宮内省より特旨を以て金500円を下賜。
移転後、在来の天満神社を境内神社。(兵庫県神社庁「山神社」より)
http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6325004.html

やっほー。

夏は過ぎぬ。

かわいいよー。

境内社の天満神社かな?
山ビルがいると聞き、どきどきです。
《奥山神の由緒》江戸時代「奥銀屋」と表記された奥銀谷は、生野代官所の奥御米蔵があり、寺町という街区を形成。
天文22(1553)山名祐豊、大山祇神社の分霊を移し社殿を新築。
本尊は、毘沙門天。
明和年代に奥山神・奥神宮寺は漆谷より二本松下へ。
享和3年(1803)稲荷大明神を勧請、奥山神鎮守稲荷として合祀。
明治の神仏分離。
山神の本尊毘沙門天は神宮寺に移し、山神社(宮)の御神体は金山毘古命の一柱へ。
明治24年(1891)口山神と合祀、現在に至る。分離された神宮寺はどうなったのか。
《神宮寺の行方》仏式関係は、隣接する仙遊寺へ堂宇移設。
昭和39年(1964)仙遊寺、廃寺。同じ新町の本来寺境内に遷されます。
◆毘沙門天像(奥山神本尊)
◆秋葉権現(秋葉神社の祭神)奥山神か奥神宮寺か不明。
◆神輿尊体(蟹谷尊像)仏像と蟹の彫刻品。
下記墨書あり。
「蟹谷山師 上山重良兵エ 天和2壬戌年(1682)8月
再興施主 猪野々町 若林山師
太田作兵衛義廣 嘉永6丑年(1853)8月/別當職 快良」
太田作兵衛は、丹後屋という屋号で若林山を経営。
文久3年の生野義挙の時、志士たちがこの屋敷から代官所へ向かいました。
◆古鏡(柄鏡)3面
◆釣り燈籠 1対
◆おみくじ筒(銅製)
◆鰐口(堂宇の鐘)
銘記「奉掛 山神宮御宝前 安永6丁酉年(1777)4月」
◆戸張(とばり=垂れ幕) 3垂
「奉納 奥山神御宝前 千珠山師 大野友右衛門
太盛山師 足立太右衛門
若林山師 太田治郎左衛門
文久3癸亥年(1863)3月良辰(吉日)現住/快良」
文久3癸亥年(1863)は、生野義挙の年。
奉納者の大野友右衛門・足立太右衛門・太田治郎左衛門は当時の三大山師。

山神宮にも名前が残ります。奥山神のものかな?
◆奥神宮寺の十六羅漢の石像は、大用寺へ移動。現存。

生野銀山の町にも、神仏分離。
鉱山全体が新政府に取り上げられるという産業面だけでなく、信仰の形も大きな変化を強いられたのですねぇ。

本殿を見てもどこかむなしいわたくし。

奥に愛宕社があるそうですが、むりっ。

もっさもさ。

鉱山華やかなりし頃は、播但鉄道に臨時列車が出るほど賑わった山神祭。
今も祭礼の折は、賑わうそうですよ。

ご近所さんがお散歩されてましたが、静かなお社です。

狛犬ビームで、たくさん来るといいね。
参考文献
『生野史(復刻版)/仏閣編』(原著:太田虎一/1996年)
「銀山第一鎮守山神宮考『奥山神』について」(旧生野町広報)
いつも応援いただきありがとうございます。
代官達が崇敬した口山神と、山師達の崇敬を集めた奥山神。二つのお社は共に神宮寺があり、それぞれ繁栄していたようです。今は横の工場が停止されており、余計に静かな静かなお社。社殿も大切ですが、境内に残る石灯籠や手水鉢には奉納した人と共に山の名前も刻まれているので、こちらも併せて大切なものだと思います。


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