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淡路島でゆったり戯れ

こんにちは。


海を渡って、淡路島へやって来ました。

国道を通ってもつまらないので、島の西海岸の海際をとろとろとドライブ。


枯木神社。ご神体は、香木。

推古3(595)年4月。淡路島へ漂着した流木をキャンプファイヤーしたら、ええかほりがしたので推古天皇へ献上(『日本書紀』)。


伊弉諾神宮 は、イザナギの幽宮(かくりのみや・隠居所)

今日は神社じゃない気分ですが、やはり


文政5年生まれの狛っち には会いたかったの♪


異常巻きアンモナイト が発見される海岸です。


鳴門海峡大橋と四国が見えますの。


いざ、磯遊び。


ターゲットロックオン。ふっふっふ。


ひっくり返すと


中から何か出てきますの。うふ。


水中です。


がんばれー。


これで安心。


次はお二人。早くひっくり返らないと、食べられちゃう危険が。


右の子は、波の揺らぎで上手に戻って、そそくさとどこかへ脱走。


お、出てきた♪


体をよじって苦心惨憺。



普通は、こんな風に吸着して筋肉を総動員して


戻るのですが・・・



えええー!?出れるのか!?いや、出ていいのか!?


とうとうかんしゃくを起こしたような・・・。


あら、お利口。


だよな。


心なしか、ぐったり。


可哀想なので元に戻して差し上げました。


おほほほほ。


いつも応援いただきありがとうございます。
淡路島の西海岸は海を眺めながらのドライブなので、とても気持ちがいいです。貝をひっくり返して戻るまで眺める遊びは父譲り。ほほ。朝は淡路島オニオンビーフバーガー、ランチは生しらす丼、夜は鯛しゃぶを食べてきました。けふん。あ、そうそう。淡路島にも製鉄遺跡があるんですよー。

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生野銀山(13)まとめー!!

こんにちは。

酷暑の盛りに避暑がてら気楽に訪れた生野銀山。

思い出の数々。


この距離でもひやぁーっと冷たく、ぎょぎょぎょ。


中の気温は13度。外気温との差、20度。さぶい幸せ。


ノミ1本で掘ったなんてすごいねー。


この人、いっぱい出ましたね。ふふ。


江戸時代の手掘り跡が生々しいです。


大勢の人がお待ちかね。


お酒、熟成中。


近代化ゾーンはそのでかさにびっくり。


外へ出たら、一気に灼熱地獄。ベンチで慣らし運転。


幕末まで生野銀山を統治した生野奉行所(後の生野代官所)イメージ。


初代生野奉行の間宮くんは、大阪冬の陣で外堀の水抜きしました。


明治新政府により召し上げられ、皇室管理下から御下賜へ。


もっと言えもっと言え。


産出した鉱石の運搬に、銀の馬車道や播但鉄道、トロッコ。

そして、生野銀山の信仰では。


鉱山入口に、山神宮の分祀。


産土神の姫宮神社。


寂しげなちび狛ちゃんと、


たんそくちゃんがお待ちかね。


口山神と奥山神を合祀した山神宮には、


山師の名前が残る石灯籠など。

圧巻はやはり、


生野銀山の露出した鉱脈を


手で掘った、慶長ひなどの遺構です。

ランチは生野銀山名物の、


お母さんが作るような優しいお味でした。うまうま♪


閉山後の生野銀山は、観光が主な産業。

機会がありましたら、ぜひ。


狛ちゃん、お待ちしてます。


生野銀山シリーズ、おしまい♪



いつも応援いただきありがとうございます。
生野銀山周辺には、神仏分離で移された神宮寺本尊や羅漢様などまだまだ見たいものが出てきました。高速嫌いの私は丹波方面から何とか行けないかと探りましたが、おっきな山越えには国道429号線を使うそうで。この番号の通りの、やべぇーやべぇー道幅らしく。おとなしく中国道から播但線を使うのが良さそうです。

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生野銀山(12)口山神と奥山神と神宮寺。生野の神仏分離

こんにちは。


銀山へ向かう途中の町から、川を渡って


山神宮(山神社)。

奥山神宮+口山神宮=現・山神宮(山神社)in 明治24年(1891)


御見石とは、その年に産出された中で一番極上の鉱石。

「御見石」を豪勢な飾幕で飾った山車に乗せ引き回す、年に一度の山神祭は山神宮の祭礼。


《口山神の由緒》


・・・おくち。

大永元年(1521)創建と伝わり、

生野代官所設置と共に鉱業者の採掘した鉱石の50分の1を徴して経費に充てることに。之を山神鍵(クサリ)という。

天正4年(1576)別当寺龍藏院神宮寺實相房を建立。

天正13年(1585)代官伊藤石見守、賽ノ木に社殿を移転新築。
天正15年(1587)愛宕山の麓に御旅所を設け、神幸式。 

慶長12年(1607)初代銀山奉行・間宮直元、供米20俵を献じる。

明暦4年(1658)代官中野弘吉、白鷺の掛軸を奉納。 

元禄9年(1696)奉行秋山七郎左衛門、社殿を口銀谷字猪野々の地に新築遷座。 
明治6年(1873)10月村社。口銀谷字1丁目元県内の地に移転。
明治21年(1888)郷社姫宮神社へ合祀。

明治24年(1891)口銀谷字4丁目の元天満神社跡へ社殿を造営独立。

奥山神を合祀し、且つ宮内省より特旨を以て金500円を下賜。
移転後、在来の天満神社を境内神社。


(兵庫県神社庁「山神社」より)
http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6325004.html


やっほー。


夏は過ぎぬ。


かわいいよー。


境内社の天満神社かな?

山ビルがいると聞き、どきどきです。


《奥山神の由緒》

江戸時代「奥銀屋」と表記された奥銀谷は、生野代官所の奥御米蔵があり、寺町という街区を形成。


天文22(1553)山名祐豊、大山祇神社の分霊を移し社殿を新築。

本尊は、毘沙門天

明和年代に奥山神・奥神宮寺は漆谷より二本松下へ。

享和3年(1803)稲荷大明神を勧請、奥山神鎮守稲荷として合祀。

明治の神仏分離。

山神の本尊毘沙門天は神宮寺に移し、山神社(宮)の御神体は金山毘古命の一柱へ。

明治24年(1891)口山神と合祀、現在に至る。


分離された神宮寺はどうなったのか。


《神宮寺の行方》

仏式関係は、隣接する仙遊寺へ堂宇移設。

昭和39年(1964)仙遊寺、廃寺。同じ新町の本来寺境内に遷されます。


◆毘沙門天像(奥山神本尊)

◆秋葉権現(秋葉神社の祭神)奥山神か奥神宮寺か不明。

◆神輿尊体(蟹谷尊像)仏像と蟹の彫刻品。

下記墨書あり。

「蟹谷山師 上山重良兵エ 天和2壬戌年(1682)8月
 再興施主 猪野々町 若林山師 太田作兵衛義廣
      嘉永6丑年(1853)8月/別當職 快良」

太田作兵衛は、丹後屋という屋号で若林山を経営。
文久3年の生野義挙の時、志士たちがこの屋敷から代官所へ向かいました。


◆古鏡(柄鏡)3面
◆釣り燈籠  1対
◆おみくじ筒(銅製)

◆鰐口(堂宇の鐘)
 銘記「奉掛 山神宮御宝前 安永6丁酉年(1777)4月」

◆戸張(とばり=垂れ幕)  3垂
 「奉納 奥山神御宝前 千珠山師 大野友右衛門
            太盛山師 足立太右衛門
            若林山師 太田治郎左衛門
 文久3癸亥年(1863)3月良辰(吉日)現住/快良」

文久3癸亥年(1863)は、生野義挙の年。
奉納者の大野友右衛門・足立太右衛門・太田治郎左衛門は当時の三大山師。


山神宮にも名前が残ります。奥山神のものかな?

◆奥神宮寺の十六羅漢の石像は、大用寺へ移動。現存。



生野銀山の町にも、神仏分離。

鉱山全体が新政府に取り上げられるという産業面だけでなく、信仰の形も大きな変化を強いられたのですねぇ。


本殿を見てもどこかむなしいわたくし。


奥に愛宕社があるそうですが、むりっ。


もっさもさ。


鉱山華やかなりし頃は、播但鉄道に臨時列車が出るほど賑わった山神祭。

今も祭礼の折は、賑わうそうですよ。


ご近所さんがお散歩されてましたが、静かなお社です。


狛犬ビームで、たくさん来るといいね。


参考文献
『生野史(復刻版)/仏閣編』(原著:太田虎一/1996年)

「銀山第一鎮守山神宮考『奥山神』について」(旧生野町広報)

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代官達が崇敬した口山神と、山師達の崇敬を集めた奥山神。二つのお社は共に神宮寺があり、それぞれ繁栄していたようです。今は横の工場が停止されており、余計に静かな静かなお社。社殿も大切ですが、境内に残る石灯籠や手水鉢には奉納した人と共に山の名前も刻まれているので、こちらも併せて大切なものだと思います。

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生野銀山(11)銀山と山師と山神宮


金香瀬坑(観光坑道)入口は明治にフランス式で積まれた石積。上に山の神様。


こんな高さのあるところに


きっちりと管理されお祀りしてあるのが強烈な印象でした。


観光坑道出口は、江戸時代の滝間歩坑坑口を再現。

木組みが鳥居になっています。


江戸時代後期の手掘り洞窟に、金山彦命を祀る山神宮の分祠。


ろうそくの灯りだけを頼りに狭い狭い坑道を掘り進み、落盤の危険と隣り合わせ。

山の神様を祀り、みんなの安全と山の繁栄を願う。

それが、


山神宮(山神社)。

銀山へ向かう途中の町から、川を渡ります。


ブロッコリーに埋もれそうです。

山神宮は、生野銀山に鎮座していた二社を合祀。

奥山神+口山神=現・山神宮(山神社)in 明治24年(1891)

産土神の姫宮神社に対し、こちらは山の神様。


おしゃれ石灯籠。

背後の瑞垣に「大蔵山」の文字。


文政5年(1822)「太盛山(たせいやま)」

太盛山は、


手掘り洞窟の金山彦命を祀る山神宮の分祠に、御見石を奉納。

御見石とは、その年に産出された中で一番極上の鉱石。

質のいい石を産出した証し。

太盛山は、特に、明治の初めに金銀山として開発。


記念の石碑。

生野鉱山が宮内省から民間(三菱)へ払い下げられる時、生野町に6万9千円が下賜されました。

今のお金で、27億6千万円。


はて?


ひまそうですねぇ。


あははははは。


気を取り直して、山神宮(山神社)。


狛ちゃーん♪の手前に、「工作係職工中」奉納の文字。


狛ちゃーん♪の奥に、


「大亀山/漆垣太郎兵衛康信」

大亀山は、これ↓


大亀坑道入口と大亀ひ。

山師の漆垣太郎兵衛が登尾大亀山で、大亀が背中に銀石を乗せて這い出した夢を見た。

そこを掘り進むと、良質の鉱石が見つかりましたとさ。

文政10年(1827)に「御所務山」の認可。

※ごしょむやま:品質の高い鉱石がたくさん出る鉱山の中の最高位の山。役人が常時詰め監視監督にあたる。

天保元年(1830)に御見石を産出。


年に一度の山神祭に「御見石」を豪勢な飾幕で飾った山車に乗せ引き回しました。

この山神祭は、奥山神の祭礼。


こちらも、文政5年(1822)奉納。


太田治郎左衛門と足立太右衛門。

奥山神御宝前に飾る戸張(とばり=垂れ幕)の奉納者名にも名前が残るこのふたりは、「三大山師」に数えられる人。

当時の生野銀山三大山師は、

千珠山師 大野友右衛門
太盛山師 足立太右衛門
若林山師 太田治郎左衛門


千珠山は、近代まで優良な鉱石を産出した観光「金香瀬坑道」を有する山。


それが、この露天掘り跡(ひ:かねへんに通。樋のイメージで)。

「永禄10年(1567)堀切の山出来す。銀出ること夥し」(『銀山旧記』)

と記される生野銀山最大の鉱脈である千珠ひの一部で、非常に高品位の銀(自然銀)を産出。

江戸末期までの300年間で深さ200mまで掘られました。


このように、生野銀山に関わる人々の崇敬をいかに集めていたか、よくわかる境内。

とても興味深い山神宮(山神社)です。


ちび狛ちゃん、落ち着いて。



参考文献
『生野史(復刻版)/仏閣編』(原著:太田虎一/1996年)


いつも応援いただきありがとうございます。
先週のブラタモリは佐渡金山、今週の歴史ヒストリアは秀吉と 金儲け 多田銀山。エヌなHKは、鉱山押し押しなのかしら?銀の製錬法とか山師とか、面白かったです。しかしいずれも生野銀山を華麗にスルー。佐渡のブラタモリは、まぁ、いい。しかし、ヒストリアの、ばかー。

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生野銀山(10)産土神の姫宮神社、遷座の歴史。狛犬集合

こんにちは。


口銀谷の町から川の対岸に見える姫宮神社。

生野代官所跡から徒歩圏内で、市川が大きく蛇行する内側の山の上に鎮座しています。


橋を渡っておまいりします。


さっさと行けるから、階段。


きれいにお掃除された芝生。


整然とした境内です。


きゃー♪♪

阿ちゃんには、生野銀山の歴史を追いかけた今までの記事で、たくさんお手伝いしてもらいました。


叫んだり


おあいそしたり


叫んだり2。


ごめんよー。


こらこら。


コーギー狛犬。


それを言うなら、スイカかと。




【主祭神】豊玉姫命

【配祀神】素盞鳴命 大己貴命 軻遇突智神                   
【境内社】今宮社・春日社・川濯社・天神社・八万社

【由緒】

歴代の奉行や代官が産土神として崇敬したという姫宮神社。

応永34年(1427)但馬守護・山名時熈(ときひろ)が御立山に築城(生野城)の際に、城中鎮護の神として豊玉姫命を祀る。

天文3年(1534)大己貴命、慶長12年(1607)素盞嗚命を勧請。

永禄年間(1558-1569)社殿を生野峠山の西に遷座

天正12年(1584)銀山奉行・伊藤石見守の時、本町4丁目に遷座。

天正15年(1587)神道管領吉田家より、姫宮神社祀官・吉田左衛門尉盛継は神道裁許状を得て、吉田姓を与えられるも、吉田姓をはばかり三代目より山田姓に。(代々の裁許状あり)



狛ちゃんを探せっ。


慶長12年(1607)初代生野奉行・間宮直元は、生野の3神社に領地を寄進。

姫宮神社に10石、愛宕神社に7石、内山権現宮(熊野神社)に3石(寄進状現存)。

大火や洪水などの影響で口銀谷中心部の本町と宮町、絶峰(現在地)の地で遷座を繰り返します。

元和2年(1616)口銀谷2丁目玉翁院内に遷座。
寛永7年(1630)4月18日の町家の火災時に宝物、古記類を失う。
慶安2年(1649)類焼・煙害を避け、口銀谷字絶峯の麓へ遷座。
元禄11年(1698)口銀谷3丁目に遷座
宝永4年(1707)拝殿を建立。続いて幾度かの造営修理。

生野代官代々の崇敬を受けますが、明治へ。

明治6年(1873)10月、村社。
明治20年(1887)口山神を合祀
昭和2年(1927)1月、郷社
昭和11年(1936)現在地に遷座して社殿を新築。愛宕神社を合祀。


狛ちゃんを探せっ。


社殿の感じから、新しいだろなーっと油断した。


覆屋は後から増築されたのか、追い出されてしまったちびちゃん。


この子もいっぱいお手伝いしてもらいました。


お顔、初公開。


ずいぶん古く感じますが、昭和4年生まれ。


覆屋により通気と日当たりが遮られてしまったのかなぁ。


この子はだんだんお口が悪くなってしまって。


こら。


こらこら。


何でもございません。


参考文献

兵庫県神社庁「姫宮神社」
http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6325001.html

参考文献
『生野史(復刻版)/仏閣編』(原著:太田虎一/1996年)


いつも応援いただきありがとうございます。
生野の町は人口の減少が大きく、お散歩中のおじさまは「立派なものを残すと、後の人達の負担になる」とか「ここもあと何年守られるかなぁ」と悲しい事をおっしゃるので、ほろりほろほろ。鉱山を閉鎖するということは、ひとつの町が消える事に繋がるのだなぁと実感しました。

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生野銀山(9)銀の馬車道とトロッコ軌道と、お金

こんにちは。

明治2年(1869)5月
政府は生野銀山を官営鉱山とするため、没収を決定(『生野鉱山景況書』)

「坑夫の立ち入る事を禁止。生野銀山町民は異議を唱え人心激昴する」(『工部省報告』)


徳川が耕し、明治が収穫。


今日は、輸送とお金。


明治5年~9年(1872-1876)
明治政府は生野に日本の「模範工場」として「世界一の製鉱所(精錬所)」を構築。

建設従事者 20万9千113人。
投資金額 20万1千640円58銭6厘5毛(当時の日当23銭)。

このうち、4万500人と8万8千384円を投じて作られたのが、馬車道。

生野銀山と飾磨津(現姫路港)、約49Kmを南北に結ぶ馬車専用道路です。

「生野銀山道」「生野鉱山寮馬車道」いわゆる、「銀の馬車道」


徳川時代、代官所がヘルプを頼んだ姫路藩は、ご近所さん。

ルートは、こちら↓


「銀の馬車道」より引用(http://www.gin-basha.jp/ginbasha/)


担当は政府が招聘したフランス人鉱山師フランソワ・コワニエと、技師長レオン・シスレー。


こら。

方法は「マカダム式」
道路を水田より60cm高くし、あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめるヨーロッパの土木技術。排水性がよいそうな。

既存の街道を改修するので、市川を利用する船運や鉄道敷設より工事費は安価。

馬車による輸送は従来の8分の1となる計算。


口銀谷の鍜治屋町付近。鉱山で使うノミ等を作る職人さんの町。

「銀の馬車道」は、改修等を繰り返しながら現役の国道・県道。


行きなさい。

8万8千384円の内訳

工期は3年間。

建設費=5万2千500円(1円50銭/1m)
立ち退き費用=2万5千884円
シスレーのお給料及び経費=1万円

総額8万8千384円は、今の価値で35億円。(銀の馬車道ネットワーク協議会)

ちなみにシスレーの月給300円は、今のお金で、せんにひゃくまんえん


やってらんねぇ。


明治28年(1895)
姫路~生野間に「私鉄の播但鉄道」(現JR播但線)が開通。

大正9年(1920)
馬車道廃止。

生野鉱山本部(金香瀬坑道)から播但鉄道生野駅区間に、トロッコ開通。


市川沿いに軌道が残ります。


アメリカ製の6トン電気機関車、500ミリ軌道。


今は送水管が通っていますが、よく見ると樋の形。



昭和30年(1955)に飾磨港までのトラック輸送が始まり、トロッコ軌道のレールは撤去。

「連続するアーチによって壁面にリズム感が生まれ、石積み擁壁が持つ圧迫感を和らげています。近年、日本の近代化における土木建造物として評価が高まっています。」(現地説明板)


あの上には、姫宮神社。


この子達がいるとこ。


この辺りは


レールを復元。

ここまで遊歩道として整備されています。


この上は、口銀谷の町並みがいい感じでした。


参考文献
『生野史(復刻版)/鉱業編』『生野史(復刻版)/政治編』
(原著:太田虎一/1996年)


いつも応援いただきありがとうございます。
「銀の馬車道」の通る地域が、観光に繋げようと頑張っておいでのようです。馬車道で生野鉱山から姫路港へ運ばれた銀は、大阪の造幣局へ。この絶妙な位置が近代化を促進することにも繋がります。地図を眺めて、ふむふむ、です。

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生野銀山(8)明治維新。官営、皇室、そして民間へ

こんにちは。


生野義挙はわずか3日で破陣しましたが、

ここから怒濤の幕末明治。


元治元年(1864)第一次長州征伐。

生野代官所支配地の播州は、諸軍進発の道筋に近いので兵站基地の役割を担い、兵糧米、人員の参加等を命じられます。

生野代官所支配高は、13万2石8斗3升5合(『森垣御用留』)

播州支配地は、1万3千2石
内訳:神西郡(5村)870石・多可郡(8村)1343石・加西郡(15村)4522石・宍粟郡(20村)6266石

人夫としての参加は、村高千石につき1人。よって13人参加。


竹田近辺の百姓が打壊し&強訴→追放処分。


慶応2年(1866) 第二次長州征伐

生野代官所支配高8万2千7百46石8斗4合7勺(『森垣御用留』)

軍資金1万5千両を負担、支配地の但馬より3百人が参加。


幕府、長州に敗北。



生野鉱山に休山命令。


慶応4年(1868)生野鉱山を薩摩一番隊と長州整武隊が占拠。

3万7千5百両を、接収。


もっと言ってもっと言って。


徳川幕府の奉行所に始まる生野代官所は、270年間の歴史に幕引き。

 
慶応4年(1868)
生野に、但馬取締役所と裁判所を設置(by西園寺山陰鎮撫軍総督)

(慶応4年9月8日より明治)

明治元年(1868)12月
「鉱山司出張所を生野におき朝倉清吾を鉱山司判事に任じ、コワニーを鉱山師とす。異議奮起、人心汲汲たり。」(『但馬考』)



明治2年(1869)1月
1月。鉱山司仮役所と生野鉱山学校、鉱山機械所を設置。

5月。政府は生野銀山を官営鉱山とするため、没収を決定(『生野鉱山景況書』)

貨幣制度の改革に伴う材料確保の必要から、政府の直轄鉱山に。

「坑夫の立ち入る事を禁止。生野銀山町民は異議を唱え人心激昴する」(『工部省報告』)


狛ちゃんだって豹変。


明治2年(1869)10月。

辻川村の一揆に呼応して屋形村より、生野鉱山を目指した暴動発生。

銀山町民も加わり、新築したばかりの鉱山局生野鉱山機械所(精錬所)を焼き払い。



《経過》
鉱山司判事の朝倉清吾は、竜野・姫路・明石・出石・兵庫県より援兵の力を借り、「一揆に加わり官営鉱山建設に反対する者」約2000名を逮捕。

《結果》
明治6年「元生野県管民暴動附和随行の者罪を論ぜず」の達しで不問。

一揆は収束。


うまいことやられた感じがしますが。



ちなみにこちらが、招聘されたジャン・フランソア・コワニエの設計。


明治22年(1879)
生野鉱山と佐渡鉱山は皇室財産に移され、官内省御料局の所管へ。


じぃー。



御料局技師・大島道太郎が「生野鉱山改良意見書」を出し旧設備を廃棄して新設備に一新。


ふぅーん。


明治25年(1892)日本で初めて健康保険組合を設立


明治29年(1896)
生野鉱山は佐渡鉱山とともに「三菱合資会社」へ払い下げ。

これに伴い、生野町は官内省より多額の御下請金を受けました。




人それぞれ、いろんな感じ方があります。


参考文献
『生野史(復刻版)/鉱業編』『生野史(復刻版)/政治編』
(原著:太田虎一/1996年)


いつも応援いただきありがとうございます。
駆け足で生野銀山の近代を見ましたが、頭がどうあれ、数百年間もの間鉱山で働いてきた人々がいてこそ。石見銀山と同様に現場の人々、特に鉱夫達は短命で40歳になればお祝いするほど。日本初の健保組合の創設はとても大きなことかと思います。

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生野銀山(7)元文生野一揆と生野義挙。お代官様の受難

こんにちは。

慶長5年(1600)徳川家康、「但馬金銀山奉行」を配置。

初代奉行は、大阪冬の陣で地味に活躍した間宮新左衛門直元



「但馬金銀山奉行」は十一代清野奉行まで96年間2千石、又は3千石の旗本が就任。

寛永7年(1630)口銀谷の町が焼失

万治元年(1658)奥銀谷出火。辺り一帯(山神~竹原野)焼失。
万治3年(1660)同上。加奉の苗字・帯刀許可状焼失(写しあり)。

衰退しては新たな山の発見で盛り返すことを繰り返すも、産出量の低下により、

享保元年(1716)「但馬金銀山奉行」は「生野代官」へ。


支配高7万石から13万石の生野代官所、誕生。


奉行所=自前の武力あり
代官所=姫路藩・出石藩・篠山藩・神崎の福本藩にお委せの武力

本日は、ここ、ポイント。


【元文3年(1736)「元文生野一揆」】

12月6日「銀山紛議」発生。

数千人の坑夫達が大騒ぎ。



生野銀山の下財(鉱山で働く人の総称)達が、「銅の買上げ値段の引上げと扶持米の増額」を要求して加奉の赤井治左衛門宅を打毀し、代官所に訴え。


《背景》

直接の原因は、銅仲買いでもある赤井の安値買上げ。

同年4月に幕府は長崎への廻銅(かいどう)を確保するために大坂に銅座を設置。全国の銅の廻送を命じたので銅値段が急激に下落。


《経過》

代官より、銀100貫匁と160石の救恤(きゅうじゅつ)米を下げ渡すことを約束させ、22日には鎮まる。


ところがどっこい


《うちもうちもっ by 農民》

今度は農民が、すたんだっぷ。

12月29日
銀山紛議が寛大な処分となったのを見た山東・竹田・建屋(同じ生野代官所の支配下の朝来郡の村々)の農民3千人。

これはいけるかも?と思ったか、

税の引き下げ、米の放出を願って生野代官所に強訴。


一揆に発展。


《背景》

生野代官の主な役目は、銀山統括。

代官は、生野銀山で働く坑夫の食糧を確保するために厳しく年貢を取り立て、農民たちを一層苦境に追いやる結果に。


《経過》

翌元文4年(1737)1月2日
姫路・福本・出石の各藩兵が到着。(←代官所だから武力ないの)


がんばれっ。(出石神社の狛犬くん)


《結末》

農民側は、年貢減免と飢夫食(うえふじき:凶作の際の食糧貸付)を勝ち取る。

が。

農民22人は捕らえられ、京で死罪、獄門。

同年10月 銀山紛議の首謀者は生野峠で4人断罪、6人追放。

当時の代官・小林孫四郎政房にはお咎めなし。

(『但馬国生野銀山元文一揆に就いて』前嶋 雅光著/兵庫史学会/1955)


時は流れ。



そろそろ幕末。

文久3年(1863)10月12日未明。

代官所、占拠される。



「文久3年の変」「生野義挙」「生野の変」と呼ばれる事件の勃発です。

《前フリ》

文久3年(1863)8月17日。
吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組が、幕府天領の大和国五条代官所を襲撃して挙兵。

朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が下り、9月19日解散。
幕府軍により壊滅。


《経過》

10月12日未明。

澤主水正宣嘉を総帥とする討幕派が、代官所を占拠し本陣を構えます。

特徴は、組織が農兵。その数、2千。


代官・川上猪太郎は不在。

しかし、元締め(家老)武井庄三郎は、志士一行に対して穏便な対応で争いを避け、銀山を戦禍に巻き込まず。


一方、救援の密使を出石藩・豊岡藩・姫路藩の各藩に派遣。


(出石神社の狛犬くん)

13日早朝、出石藩より、一番手950人、二番手、三番手各133人の藩兵が生野へ出発。


しろひめまるちゃん達姫路藩1千人も、出発。


これを知り、志士側内部は主戦派と穏健派が分裂。

13日夜、総帥・澤主水正宣嘉は、離脱。

13日夜から14日早朝、再起を誓い解散。


・・・わずか3日で頓挫。

主将である長州藩の南八郎(河上弥市)以下32名は自刃または討死。



南八郎(河上弥市)が陣を敷いた妙見山の麓に鎮座する山口護国神社。

南八郎の奉納額が残ります。

議論より実を行なへなまけ武士 国の大事をよそに見る馬鹿


境内に残る山伏岩。


この岩の後ろで南八郎以下13名が自決。

南八郎(河上弥市)の腹巻に書かれていた辞世。


後れては梅も桜に劣るらん 魁(さきがけ)てこそ色も香もあれ



生野代官所跡にたつ、生野義挙の石碑。

天領を討幕派が占拠した事は、自身で武力を持たない代官所の防衛力の脆弱性を露呈し、反対に倒幕派は、やみくもに動いても幕府軍が動くため困難と知り、以後戦略を変更。

天誅組の変と共にこの生野義挙は、「明治維新の魁」と称されます。


参考文献

「明治維新の魁、生野義挙」(朝来市公式サイト内)
https://www.city.asago.hyogo.jp/0000002707.html

『生野史(復刻版)/代官編』(原著:太田虎一/1996年)
『生野義擧日記』(原著:太田虎一/1993年)


いつも応援いただきありがとうございます。
生野義挙はあっさり3日で終わりますが、これに参加し生き残った者の中に、京都府知事として琵琶湖疎水建設に尽力した北垣晋太郎(後の国道)がいます。ふふふ。山口護国神社の画像があるってことは、そぉー。追っかけてきましたのよー。魁・・・カタマリじゃなくて、さきがけ、ね。えへへへ。

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生野銀山(6)大阪の陣と生野銀山技術者軍団

こんにちは。

関ヶ原後、豊臣直轄の生野銀山は家康の手中に。

家康の命によりまず赴任したのは、服部権太夫(『銀山旧記』)。

慶長5年(1600)徳川家康、「但馬金銀山奉行」を配置。

初代奉行は、間宮新左衛門直元


ですな。


間宮氏は宇多源氏佐々木氏(佐々木神社神主家)といい、近江から伊豆(伊豆国田方郡間宮村)、相模・武蔵へ移り、北条氏に仕え。

秀吉の小田原城攻めの際に討死した間宮康俊に娘(おひさ)あり。

おひさは家康の側室となり、その縁か、康俊の孫の直元・高則らは徳川旗本、康俊の弟綱信の子正重・重信らも徳川家臣に。

間宮一族の後裔には、樺太探検で有名な間宮林蔵、『解体新書』の杉田玄白(杉田間宮氏)等がいます。(『武家家伝/間宮氏』より)


そんな間宮さんちの、新左衛門直元。

慶長5年(1600)から慶長19年(1615)まで初代・但馬金銀山奉行。



この時期、生野銀山は特に繁栄。

鉱山が数十ヶ所に及び、人が集まり、白口に並ぶ人家は2階3階建に見え、絹布、唐織など無いものは無く、奥銀谷・新町の新しい町並は全て瓦葺(『銀山旧記』)。


ですが。

この間宮新左衛門直元、慶長19年(1614)。


大阪城に出没します。

そう、大阪冬の陣です。

大坂冬の陣で徳川軍は佐渡・石見・但馬・甲斐・伊豆から金堀職人を集めて天王寺口の三ヶ所から掘って城に入ろうとした。しかし土が悪くてうまくいかなかった。(『難波戦記』要旨)


トンネルは失敗だったようですが。


間宮は、大阪城を攻めるのに「外堀の水抜き」を提案。



生野銀山より町役人・下財(坑夫)100人余を引連れ大坂冬の陣に参加。


生野銀山では、手作りポンプで排水。


鉱山において水抜き、排水処理は大切なお仕事ですから、得意分野。

生野銀山に加え多田銀山や近くの鉱山から集めた坑夫達によって
大阪城の堀の水を抜き、川を堰き止め、塹壕を堀り、


冬の陣後の例の「外堀埋めちゃえ作戦」に貢献。


んまっ。よく聞きなさいっ。


石見銀山からは、竹村丹後守(竹村九郎右衛門嘉理(嘉政)/石見銀山の奉行)が堀子達3百人を連れて出陣し、外堀の水抜き作戦の功で感状を与えられています。(『島根県歴史人物事典』)


生野銀山では?


そう、かぶをもらいま

・・・「加奉」です。


生野の坑夫の親方(地親)達(特に奥地域)は馬に乗り、奉行に従い、時には奉行の代わりに指揮をとりました。

大阪城の外堀の水抜き工事は、落城に大きく貢献。

地親は元々、奉行の下で町方支配や銀掘りの指図をしていましたが、

この大阪城での功により彼等を「奉行に加わる」を意味する「加奉行(かぶぎょう)」と呼ぶようにと沙汰が下ります。

ご本人達は、加奉行とは畏れ多いと謙遜し、「加奉」と唱えるように。(『銀山旧記』)


※間宮は生野だけでなく統治範囲の他の但馬の鉱山からも集めており、地親から「加奉」となった記録は中瀬(養父市関宮町)、明延(養父市大屋町)にもあります。




また、翌年5月の大阪城落城後。

生野の「加奉」達は戦場での働きを賞され、次の事を許されます。(『難波戦記』『藤垣家文書』)

①孫の代まで名字帯刀

②各自・先祖の名を町名として付ける事



特に、大坂城の外堀の「西横堀」「道頓堀」「長堀」の三か所の町名に水抜き御用に手柄のあった奥地区代表の名前を付けることを許されます。

大坂の町名に残った奥地区代表の名

小 野  藤右衛門、平右衛門、権右衛門、助右衛門
新 町  次(治)郎兵衛、九郎右衛門、久左衛門、茂左衛門
奥銀屋  吉左衛門、七郎右衛門、宗右衛門
相 沢  孫左衛門


(「生野史談会・一里塚12号『大阪のど真中に町名を残した銀山の加奉たち』」/ 佐藤文夫著/平成19年)


「長堀次郎兵衛町」「長堀平右衛門町」は長堀川界隈に明治5年まで存在。
「助右衛門」は西横堀川にかつて助右衛門橋が架かっていた。
「宗右衛門町」「久左衛門町」「吉左衛門町」「久郎右衛門町」は道頓堀に。

宗右衛門町なんかは、そえもんちょーとして、今もにぎやか。


知らなかったねぇ。


初代奉行・間宮新左衛門直元は、何をもらったのかな?

慶長19年(1614)12月15日。

間宮新左衛門直元、大阪冬の陣で、没。享年39。


なんてこった。

間宮の推挙で家老の山川庄兵衛が二代奉行に就任。

生野銀山は、佐渡金山・石見銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えるも、産出量が減少。

享保元年(1716)、「但馬金銀山奉行」は「生野代官」へ。


当時の代官所イメージ。

代官所が置かれるようになってからも、生野銀山での地役人は独自の役職名として庄屋・名主ではなく、年寄、加奉、年行事等と称し、殆どが世襲。

これは明治維新まで継続します。


※間宮は慶長18年より翌年の死亡まで知行1千石で佐渡奉行(『越佐人物誌』牧田利平編/昭和47年等)、『銀山旧記』では間宮を奉行と記しています。
慶長18年4月に前任者の佐渡奉行・大久保石見守長安が病死しており、家臣の田辺十郎左衛門宗政が同年6月より奉行。間宮と重複。

※※宗右衛門町の由来は17世紀中頃に「町年寄」を務めた“山ノ口屋宗右衛門”の名に因んだものとの説もあるなど諸説あります。


いつも応援いただきありがとうございます。
初代奉行の間宮さんを調べていたら面白いお話に出会ったので、ご紹介しました。技術者集団がやることは地味に強烈なパンチになるものですねー。いつの時代も技術があるってのは強いですな。ぽわーんっとした文系あたまなので、とても羨ましいです。

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生野銀山(5)鉱山で働く人々と生野代官所

こんにちは。


生野銀山。

室町末期から江戸時代まで継続して銀等を産出した鉱脈、慶寿ひ。

数ある鉱山の下に続く坑道は、三菱への払い下げ後もずんずん採掘されて、全長350km。


今日のテーマは、江戸時代の、はたらくおじさん。


手で掘られた狭い「狸掘」。


坑内の換気、人力です。


手作りポンプで排水。


二つとも命を守る大切なお仕事です。


現場で掘る人を総称して、下財と呼んだそうな。


その中で特に


鉱脈をノミ1本で探り掘る人を、掘大工、と呼びました。


山師とか、技術を持った人が重宝されるのもわかるわぁ。


鉱山では、女性だって働く。


1本のろうそくの灯りだけを頼りに運び出すのも、大変なこと。


生野銀山の銀の製錬は、「灰吹法」。
石見銀山より伝えられ、江戸時代後期までこれを用います。

《「灰吹法」とは》

銀鉱石を砕いて溶かして、水中でゆすってより分けて。
熱して不純物を除いて、貴鉛(銀と鉛の合金)を作る。

貴鉛を「灰吹床」で熱して溶かして、灰の上に分離させた銀だけを残す。




細かく砕いて選別。


ごりっとした石臼でさらに砕いて、


右側二人がより分け中。

坑道の支柱用の木材や梯子を作ったり、お仕事は多岐にわたります。


ごはんが楽しみなのも、よくわかります。うんうん。


【生野銀山の奉行と代官】

天正6年(1578)織田信長が生野に代官を派遣。奉行所の前身。
天正10年(1582)羽柴秀吉も代官を派遣。

生野銀山は白口に樫木、若林、蟹谷などの山(鉱脈)が出て「白口勃興期」を迎えており、また既存の金香瀬鉱脈も依然隆盛。



慶長5年(1600)徳川家康、「但馬金銀山奉行」を配置。

初代奉行は、間宮新左衛門

生野銀山は、佐渡金山・石見銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えるも、産出量が減少。

享保元年(1716)、「但馬金銀山奉行」は「生野代官」へ。


《「奉行」と「代官」》

①奉行

奉行は、将軍、老中、若年寄等の下の組織。
勘定奉行、寺社奉行、佐渡奉行(金山担当)のように、特定の仕事を実行するための機関で、旗本が就任(寺社奉行のみ大名から選任)。

「但馬金銀山奉行」は生野銀山を治めるのが、お仕事。


②代官

代官は勘定奉行の下で、将軍家の経費と幕府の運営費となる天領内の年貢を集める等の行政がお仕事。

将軍の代理として庄屋(名主)以下を支配していたとはいえ、郡や地域の担当官で勘定奉行の下位。

お目見え以下の旗本から選ばれます。


つまり、支店から営業所になった感じでしょうか。


また、大きな違いとして、武力の有無があります。

奉行所は、防衛の武力を独自に保持しますが、代官所は独自の武力を持たず、防衛は、姫路藩・出石藩・篠山藩・神崎の福本藩に委ねます。

徳川幕府の政権が磐石となり、世の中が安定したからでしょうか。
とにもかくにも、生野銀山は、武官から文官が治める土地となりました。



生野代官所跡。


史跡生野銀山の入口は代官所の再現。

この代官所から生野銀山を管理。


代官所から来ている偉い人。

代官所から掛役人2名が派遣され昼夜詰め切りで取締。


掘り出した鉱石をあらため、税金を徴収しました。


心の声。


いつも応援いただきありがとうございます。
鉱山のお仕事に疎いので、マネキンを使った説明はとてもわかりやすかったです。あ、いや、ほんとにわかったのかと言われたら困りますけど。ほほほ。今は電灯があるので明るいですが、ろうそくの灯りだけでこれを行っていたのかと思うと、ほんとに過酷なお仕事だったのだろうと思います。

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