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生野銀山(7)元文生野一揆と生野義挙。お代官様の受難

こんにちは。

慶長5年(1600)徳川家康、「但馬金銀山奉行」を配置。

初代奉行は、大阪冬の陣で地味に活躍した間宮新左衛門直元



「但馬金銀山奉行」は十一代清野奉行まで96年間2千石、又は3千石の旗本が就任。

寛永7年(1630)口銀谷の町が焼失

万治元年(1658)奥銀谷出火。辺り一帯(山神~竹原野)焼失。
万治3年(1660)同上。加奉の苗字・帯刀許可状焼失(写しあり)。

衰退しては新たな山の発見で盛り返すことを繰り返すも、産出量の低下により、

享保元年(1716)「但馬金銀山奉行」は「生野代官」へ。


支配高7万石から13万石の生野代官所、誕生。


奉行所=自前の武力あり
代官所=姫路藩・出石藩・篠山藩・神崎の福本藩にお委せの武力

本日は、ここ、ポイント。


【元文3年(1736)「元文生野一揆」】

12月6日「銀山紛議」発生。

数千人の坑夫達が大騒ぎ。



生野銀山の下財(鉱山で働く人の総称)達が、「銅の買上げ値段の引上げと扶持米の増額」を要求して加奉の赤井治左衛門宅を打毀し、代官所に訴え。


《背景》

直接の原因は、銅仲買いでもある赤井の安値買上げ。

同年4月に幕府は長崎への廻銅(かいどう)を確保するために大坂に銅座を設置。全国の銅の廻送を命じたので銅値段が急激に下落。


《経過》

代官より、銀100貫匁と160石の救恤(きゅうじゅつ)米を下げ渡すことを約束させ、22日には鎮まる。


ところがどっこい


《うちもうちもっ by 農民》

今度は農民が、すたんだっぷ。

12月29日
銀山紛議が寛大な処分となったのを見た山東・竹田・建屋(同じ生野代官所の支配下の朝来郡の村々)の農民3千人。

これはいけるかも?と思ったか、

税の引き下げ、米の放出を願って生野代官所に強訴。


一揆に発展。


《背景》

生野代官の主な役目は、銀山統括。

代官は、生野銀山で働く坑夫の食糧を確保するために厳しく年貢を取り立て、農民たちを一層苦境に追いやる結果に。


《経過》

翌元文4年(1737)1月2日
姫路・福本・出石の各藩兵が到着。(←代官所だから武力ないの)


がんばれっ。(出石神社の狛犬くん)


《結末》

農民側は、年貢減免と飢夫食(うえふじき:凶作の際の食糧貸付)を勝ち取る。

が。

農民22人は捕らえられ、京で死罪、獄門。

同年10月 銀山紛議の首謀者は生野峠で4人断罪、6人追放。

当時の代官・小林孫四郎政房にはお咎めなし。

(『但馬国生野銀山元文一揆に就いて』前嶋 雅光著/兵庫史学会/1955)


時は流れ。



そろそろ幕末。

文久3年(1863)10月12日未明。

代官所、占拠される。



「文久3年の変」「生野義挙」「生野の変」と呼ばれる事件の勃発です。

《前フリ》

文久3年(1863)8月17日。
吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組が、幕府天領の大和国五条代官所を襲撃して挙兵。

朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が下り、9月19日解散。
幕府軍により壊滅。


《経過》

10月12日未明。

澤主水正宣嘉を総帥とする討幕派が、代官所を占拠し本陣を構えます。

特徴は、組織が農兵。その数、2千。


代官・川上猪太郎は不在。

しかし、元締め(家老)武井庄三郎は、志士一行に対して穏便な対応で争いを避け、銀山を戦禍に巻き込まず。


一方、救援の密使を出石藩・豊岡藩・姫路藩の各藩に派遣。


(出石神社の狛犬くん)

13日早朝、出石藩より、一番手950人、二番手、三番手各133人の藩兵が生野へ出発。


しろひめまるちゃん達姫路藩1千人も、出発。


これを知り、志士側内部は主戦派と穏健派が分裂。

13日夜、総帥・澤主水正宣嘉は、離脱。

13日夜から14日早朝、再起を誓い解散。


・・・わずか3日で頓挫。

主将である長州藩の南八郎(河上弥市)以下32名は自刃または討死。



南八郎(河上弥市)が陣を敷いた妙見山の麓に鎮座する山口護国神社。

南八郎の奉納額が残ります。

議論より実を行なへなまけ武士 国の大事をよそに見る馬鹿


境内に残る山伏岩。


この岩の後ろで南八郎以下13名が自決。

南八郎(河上弥市)の腹巻に書かれていた辞世。


後れては梅も桜に劣るらん 魁(さきがけ)てこそ色も香もあれ



生野代官所跡にたつ、生野義挙の石碑。

天領を討幕派が占拠した事は、自身で武力を持たない代官所の防衛力の脆弱性を露呈し、反対に倒幕派は、やみくもに動いても幕府軍が動くため困難と知り、以後戦略を変更。

天誅組の変と共にこの生野義挙は、「明治維新の魁」と称されます。


参考文献

「明治維新の魁、生野義挙」(朝来市公式サイト内)
https://www.city.asago.hyogo.jp/0000002707.html

『生野史(復刻版)/代官編』(原著:太田虎一/1996年)
『生野義擧日記』(原著:太田虎一/1993年)


いつも応援いただきありがとうございます。
生野義挙はあっさり3日で終わりますが、これに参加し生き残った者の中に、京都府知事として琵琶湖疎水建設に尽力した北垣晋太郎(後の国道)がいます。ふふふ。山口護国神社の画像があるってことは、そぉー。追っかけてきましたのよー。魁・・・カタマリじゃなくて、さきがけ、ね。えへへへ。

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生野銀山(6)大阪の陣と生野銀山技術者軍団

こんにちは。

関ヶ原後、豊臣直轄の生野銀山は家康の手中に。

家康の命によりまず赴任したのは、服部権太夫(『銀山旧記』)。

慶長5年(1600)徳川家康、「但馬金銀山奉行」を配置。

初代奉行は、間宮新左衛門直元


ですな。


間宮氏は宇多源氏佐々木氏(佐々木神社神主家)といい、近江から伊豆(伊豆国田方郡間宮村)、相模・武蔵へ移り、北条氏に仕え。

秀吉の小田原城攻めの際に討死した間宮康俊に娘(おひさ)あり。

おひさは家康の側室となり、その縁か、康俊の孫の直元・高則らは徳川旗本、康俊の弟綱信の子正重・重信らも徳川家臣に。

間宮一族の後裔には、樺太探検で有名な間宮林蔵、『解体新書』の杉田玄白(杉田間宮氏)等がいます。(『武家家伝/間宮氏』より)


そんな間宮さんちの、新左衛門直元。

慶長5年(1600)から慶長19年(1615)まで初代・但馬金銀山奉行。



この時期、生野銀山は特に繁栄。

鉱山が数十ヶ所に及び、人が集まり、白口に並ぶ人家は2階3階建に見え、絹布、唐織など無いものは無く、奥銀谷・新町の新しい町並は全て瓦葺(『銀山旧記』)。


ですが。

この間宮新左衛門直元、慶長19年(1614)。


大阪城に出没します。

そう、大阪冬の陣です。

大坂冬の陣で徳川軍は佐渡・石見・但馬・甲斐・伊豆から金堀職人を集めて天王寺口の三ヶ所から掘って城に入ろうとした。しかし土が悪くてうまくいかなかった。(『難波戦記』要旨)


トンネルは失敗だったようですが。


間宮は、大阪城を攻めるのに「外堀の水抜き」を提案。



生野銀山より町役人・下財(坑夫)100人余を引連れ大坂冬の陣に参加。


生野銀山では、手作りポンプで排水。


鉱山において水抜き、排水処理は大切なお仕事ですから、得意分野。

生野銀山に加え多田銀山や近くの鉱山から集めた坑夫達によって
大阪城の堀の水を抜き、川を堰き止め、塹壕を堀り、


冬の陣後の例の「外堀埋めちゃえ作戦」に貢献。


んまっ。よく聞きなさいっ。


石見銀山からは、竹村丹後守(竹村九郎右衛門嘉理(嘉政)/石見銀山の奉行)が堀子達3百人を連れて出陣し、外堀の水抜き作戦の功で感状を与えられています。(『島根県歴史人物事典』)


生野銀山では?


そう、かぶをもらいま

・・・「加奉」です。


生野の坑夫の親方(地親)達(特に奥地域)は馬に乗り、奉行に従い、時には奉行の代わりに指揮をとりました。

大阪城の外堀の水抜き工事は、落城に大きく貢献。

地親は元々、奉行の下で町方支配や銀掘りの指図をしていましたが、

この大阪城での功により彼等を「奉行に加わる」を意味する「加奉行(かぶぎょう)」と呼ぶようにと沙汰が下ります。

ご本人達は、加奉行とは畏れ多いと謙遜し、「加奉」と唱えるように。(『銀山旧記』)


※間宮は生野だけでなく統治範囲の他の但馬の鉱山からも集めており、地親から「加奉」となった記録は中瀬(養父市関宮町)、明延(養父市大屋町)にもあります。




また、翌年5月の大阪城落城後。

生野の「加奉」達は戦場での働きを賞され、次の事を許されます。(『難波戦記』『藤垣家文書』)

①孫の代まで名字帯刀

②各自・先祖の名を町名として付ける事



特に、大坂城の外堀の「西横堀」「道頓堀」「長堀」の三か所の町名に水抜き御用に手柄のあった奥地区代表の名前を付けることを許されます。

大坂の町名に残った奥地区代表の名

小 野  藤右衛門、平右衛門、権右衛門、助右衛門
新 町  次(治)郎兵衛、九郎右衛門、久左衛門、茂左衛門
奥銀屋  吉左衛門、七郎右衛門、宗右衛門
相 沢  孫左衛門


(「生野史談会・一里塚12号『大阪のど真中に町名を残した銀山の加奉たち』」/ 佐藤文夫著/平成19年)


「長堀次郎兵衛町」「長堀平右衛門町」は長堀川界隈に明治5年まで存在。
「助右衛門」は西横堀川にかつて助右衛門橋が架かっていた。
「宗右衛門町」「久左衛門町」「吉左衛門町」「久郎右衛門町」は道頓堀に。

宗右衛門町なんかは、そえもんちょーとして、今もにぎやか。


知らなかったねぇ。


初代奉行・間宮新左衛門直元は、何をもらったのかな?

慶長19年(1614)12月15日。

間宮新左衛門直元、大阪冬の陣で、没。享年39。


なんてこった。

間宮の推挙で家老の山川庄兵衛が二代奉行に就任。

生野銀山は、佐渡金山・石見銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えるも、産出量が減少。

享保元年(1716)、「但馬金銀山奉行」は「生野代官」へ。


当時の代官所イメージ。

代官所が置かれるようになってからも、生野銀山での地役人は独自の役職名として庄屋・名主ではなく、年寄、加奉、年行事等と称し、殆どが世襲。

これは明治維新まで継続します。


※間宮は慶長18年より翌年の死亡まで知行1千石で佐渡奉行(『越佐人物誌』牧田利平編/昭和47年等)、『銀山旧記』では間宮を奉行と記しています。
慶長18年4月に前任者の佐渡奉行・大久保石見守長安が病死しており、家臣の田辺十郎左衛門宗政が同年6月より奉行。間宮と重複。

※※宗右衛門町の由来は17世紀中頃に「町年寄」を務めた“山ノ口屋宗右衛門”の名に因んだものとの説もあるなど諸説あります。


いつも応援いただきありがとうございます。
初代奉行の間宮さんを調べていたら面白いお話に出会ったので、ご紹介しました。技術者集団がやることは地味に強烈なパンチになるものですねー。いつの時代も技術があるってのは強いですな。ぽわーんっとした文系あたまなので、とても羨ましいです。

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生野銀山(5)鉱山で働く人々と生野代官所

こんにちは。


生野銀山。

室町末期から江戸時代まで継続して銀等を産出した鉱脈、慶寿ひ。

数ある鉱山の下に続く坑道は、三菱への払い下げ後もずんずん採掘されて、全長350km。


今日のテーマは、江戸時代の、はたらくおじさん。


手で掘られた狭い「狸掘」。


坑内の換気、人力です。


手作りポンプで排水。


二つとも命を守る大切なお仕事です。


現場で掘る人を総称して、下財と呼んだそうな。


その中で特に


鉱脈をノミ1本で探り掘る人を、掘大工、と呼びました。


山師とか、技術を持った人が重宝されるのもわかるわぁ。


鉱山では、女性だって働く。


1本のろうそくの灯りだけを頼りに運び出すのも、大変なこと。


生野銀山の銀の製錬は、「灰吹法」。
石見銀山より伝えられ、江戸時代後期までこれを用います。

《「灰吹法」とは》

銀鉱石を砕いて溶かして、水中でゆすってより分けて。
熱して不純物を除いて、貴鉛(銀と鉛の合金)を作る。

貴鉛を「灰吹床」で熱して溶かして、灰の上に分離させた銀だけを残す。




細かく砕いて選別。


ごりっとした石臼でさらに砕いて、


右側二人がより分け中。

坑道の支柱用の木材や梯子を作ったり、お仕事は多岐にわたります。


ごはんが楽しみなのも、よくわかります。うんうん。


【生野銀山の奉行と代官】

天正6年(1578)織田信長が生野に代官を派遣。奉行所の前身。
天正10年(1582)羽柴秀吉も代官を派遣。

生野銀山は白口に樫木、若林、蟹谷などの山(鉱脈)が出て「白口勃興期」を迎えており、また既存の金香瀬鉱脈も依然隆盛。



慶長5年(1600)徳川家康、「但馬金銀山奉行」を配置。

初代奉行は、間宮新左衛門

生野銀山は、佐渡金山・石見銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えるも、産出量が減少。

享保元年(1716)、「但馬金銀山奉行」は「生野代官」へ。


《「奉行」と「代官」》

①奉行

奉行は、将軍、老中、若年寄等の下の組織。
勘定奉行、寺社奉行、佐渡奉行(金山担当)のように、特定の仕事を実行するための機関で、旗本が就任(寺社奉行のみ大名から選任)。

「但馬金銀山奉行」は生野銀山を治めるのが、お仕事。


②代官

代官は勘定奉行の下で、将軍家の経費と幕府の運営費となる天領内の年貢を集める等の行政がお仕事。

将軍の代理として庄屋(名主)以下を支配していたとはいえ、郡や地域の担当官で勘定奉行の下位。

お目見え以下の旗本から選ばれます。


つまり、支店から営業所になった感じでしょうか。


また、大きな違いとして、武力の有無があります。

奉行所は、防衛の武力を独自に保持しますが、代官所は独自の武力を持たず、防衛は、姫路藩・出石藩・篠山藩・神崎の福本藩に委ねます。

徳川幕府の政権が磐石となり、世の中が安定したからでしょうか。
とにもかくにも、生野銀山は、武官から文官が治める土地となりました。



生野代官所跡。


史跡生野銀山の入口は代官所の再現。

この代官所から生野銀山を管理。


代官所から来ている偉い人。

代官所から掛役人2名が派遣され昼夜詰め切りで取締。


掘り出した鉱石をあらため、税金を徴収しました。


心の声。


いつも応援いただきありがとうございます。
鉱山のお仕事に疎いので、マネキンを使った説明はとてもわかりやすかったです。あ、いや、ほんとにわかったのかと言われたら困りますけど。ほほほ。今は電灯があるので明るいですが、ろうそくの灯りだけでこれを行っていたのかと思うと、ほんとに過酷なお仕事だったのだろうと思います。

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生野銀山(4)涼しい坑道内。江戸時代から近代を体験

こんにちは。


地上に露出した鉱脈。

この下には、江戸時代に掘り進められた坑道があります。


金香瀬坑(観光坑道)入口。

これだけ離れていても、冷気が届きます。わくわく。


坑道入口に、神様。


明治初期に招聘されたフランス人ジャン・フランソア・コワニエ設計。

石積の形には、大きくフランス積とドイツ積があります。

各地に残るレンガ積のものを見ると、その歴史背景がわかるので面白いです。


ちなみにこちらは板東収容所のドイツ人達が残したので、ドイツ積。


立派な石積よりも頼りになるのは神様。


いざ、気温13度の坑道へ。

江戸時代の坑道を近代に拡張・整備したものが観光坑道として公開されています。


こんな感じ。(生野銀山公式サイトより)


上のボコってる部分が、江戸時代の坑道「狸堀」。

這って進まないと無理です。いや、這ってもはまらな・・・こほん。


入口付近は江戸時代ゾーン。


鉱脈をノミ1本で探る、掘大工という人。


こんなに狭いとこなのよ。ぎゅー。


ろうそくの灯りしかなかったんだろうに。


よく見つけられたもんです。


鉱脈を掘るには、まず発見。

山師とか、技術を持った人が石見銀山等と取り合いになったのもわかるわぁ。


「狸掘」が鉱脈を追ってあちこちに。


すーはー。


ここからしばし近代ゾーン。


使うものが機械になり、坑道が広く高くなります。


ただ、何してるのかわからないです。すみません。


これはわかったの。滑り台。


鉱車ってので運び出しました。

なので観光坑道は、幅広く平坦になってます。


お、落ちてきませんようにっ。


・・・なんだっけ。


昭和34年になると、鉱脈狙い撃ちの発破ができるように。深さ30m。


坑道を支える鋼枠がきれい。どきどきするけどっ。


滝行?

祠が祀られていますが、ここはどちらかというと排水口。

おっそろしい程の水量だだだー。


くるくる巻く機械。


このエレベーターを吊り下げる大事なもの。


地上からここへ下りて、エレベーターで坑道へ行くのね。


汽車ポッポもありました。


次回、はたらくおじさん。

つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。
灼熱の露出部分探検から、本日のメイン「生野銀山で避暑」。涼しいことこの上なく、いや、13度は冬じゃない?と突っ込みつつ。あああ、気持ちよかったですー。近代ゾーンにはいろいろな機械があるので面白いと思いますが、私には工事現場にしか見えなくて。えへへー。

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生野銀山(3)徳川時代の金香瀬旧坑露頭群

こんにちは。

弘治2年(1556)山名の臣竹田の城主太田垣能登守謀叛して在城す。

永禄10年(1567)堀切の山出来す。銀出ること夥し。(中略)
元亀元年(1570)大木どものもとにて鉉内(鉱石部分)を見付け間歩をなす。即ち此の木どもを字(あざな=脈の名)にして今に至るも右の如く呼ぶ。

間歩どもに銀ある事恰も土砂の如し。
(『銀山旧記』)


秀吉の但馬攻めの後、信長は生野銀山全山を占領して採掘。

秀吉の時に銀石を求めて全国から大勢の山師などが集まり、狭い谷筋に密集するように鉱山町を形成。


なにかとお金が必要です。

銀山の開発は最盛期。

そして、徳川時代へ。(信長・秀吉・徳川時代共に直轄地)

慶長5年(1600)徳川家康は、但馬金銀山奉行を配置。

生野銀山は、佐渡金山、石見銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えます。

本日は地上に露出した鉱脈をたんけん。


左の階段を上がって行きます。


ほっくりほっくりする人。


落書きしたくなるのもわかりますな。


事故が起きませんように。


味のある復元です。


坑道へ避暑に訪れたはずが


炎天下をてくてく。あちぃ。


「慶寿の堀切」とは、鉱脈を掘ったあと。


それが、この露天掘り跡(ひ:かねへんに通。樋のイメージで)。

「永禄10年(1567)堀切の山出来す。銀出ること夥し」(『銀山旧記』)

と記される生野銀山最大の鉱脈である千珠ひの一部で、非常に高品位の銀(自然銀)を産出。

江戸末期までの300年間で深さ200mまで掘られました。


その横の岩盤に、坑道の入口っぽい穴。


鉱脈を掘ったんだなーっと思う形跡。


右下に坑道の入口。


遊歩道を挟んで続く慶寿ひ。

鉱脈は岩盤の割れ目に染み込んで形成されるので、高傾斜に一定の方向に板状に続いています。
その鉱脈に沿って掘るとこうなる、っと。


ほっくりの落書き。


辰巳坑の入口。


今なら重機で一発ほいほいですが。


お散歩中のおじさまに教えていただいたんですが、草むらに入ると山ヒルにやられるらしく。

いや、マムシはそうじゃなかろっと思いつつ、虫除けスパッツ装着中。


入口がこんなん、やだわ。怖いわ。


小日向坑道は、銀の品質が非常に高かった鉱脈。


大丸坑道は、断層により分断された鉱脈らしく。


そのまま下の観光坑道へと繋がっているそうです。


その横。ここは、亜鉛鉱石(閃亜鉛鉱)があるそうな。


大亀坑道入口と大亀ひ。

山師漆垣太郎兵衛が登尾大亀山で、大亀が背中に銀石を乗せて這い出した夢を見た。

そこを掘り進むと、良質の鉱石が見つかったと言う伝承のある大亀坑。

文政10年(1827)に「御所務山」の認可。

※ごしょむやま:品質の高い鉱石がたくさん出る鉱山の中の最高位の山。役人が常時詰め監視監督にあたる。

天保元年(1830)に御見石を産出。


御見石とは、その年に産出された中で一番極上の鉱石。

年に一度の山神祭りに「御見石」を豪勢な飾幕で飾った山車に乗せ引き回しました。


岩盤には所々にこんな穴。足場を組んだ跡なのかなー。


あ、やってるやってる。


暑いからやだ。


いつも応援いただきありがとうございます。
暑い最中に岩山を眺めて何やってるの?なんて言わないでー。素人にはただの岩盤ですが、山に入って鉱脈を見つける山師ってすごいなーっと
びっくりです。この露頭群の下に、全長350kmにも及ぶ坑道がありますのよ。どきどきです。

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生野銀山(2)山名氏と太田垣氏時代。鉱脈発見

こんにちは。


生野銀山。


【発見から支配の変遷】

始まりは、大同2年(802)(坂上田村麻呂の頃)と言われていますが確かな記録はなし。

その後、700年間どうなっていたかは不明。本格的な採掘開始は、室町後期。

生野を領していたのは、竹田城主太田垣宗寿(むねとし)。
銀山の再興に着手します。

が。

天文11年(1542)
出石城主・山名祐豊(すけとよ)が生野銀山を所領と宣言、太田垣を押さえ支配。

弘治2年(1556)
竹田城主・太田垣朝廷(あさのぶ)が謀叛。生野を所領。

天正5年(1577)
信長の命による秀吉の但馬進攻。翌年、信長が代官を置く。


以降、信長、秀吉、徳川のものへ。


【生野銀山のはじまり】

天文11年(1542)に竹田城主の太田垣氏を押さえた、出石城主・山名祐豊(すけとよ)。

さぁ、銀山が賑わうぞぉー!


天文11年(1542)より祐豊領知すと雖も所務にかかわり給わず。煙の悪臭を嫌い、所にて吹く事(鉱石吹き=精錬のこと)停止なり、其の上乱世の折りなれば金銀儲け有りても宝となさぬ故に、渡世の栄えばかりにて山稼(採鉱)も、しひてせず。」(『銀山旧記』)

・・・あれ?

祐豊は製錬の「煙の悪臭を嫌って」製錬を他所で行わせたため、地元は採掘だけでは利益が少なく、あまり積極的ではないようですね。


よって此節の山々に深き鋪(しき=間歩)なし。上走り(露頭または浅き個所の脈)までを掘るなり。それより遥か後こそ奥山は出来して大盛する。故に口の山々穿鑿(穴を開ける、坑道を掘る)の事なし。(『銀山旧記』)


山名氏統治時代は地上に見えるところだけを地味に掘り、大規模な鉱脈に至るのは「これより遥か後」。

また、鉱山というと、観光地としての生野銀山や石見銀山から連想するのは、蟻の巣のように広がった間歩、坑道ですが、まずは地上に露出しているところから掘っていたことがわかります。



地表に近いところほど、鉱石がよく金銀の含有率が高い。

地下道を掘り進めるには周囲の岩石部分を掘らねばなりませんが、目に見える鉱脈の鉱石部分のみ掘り採れるので鉱物の含有が多く、効率がよかったわけです。


弘治2年(1556)山名の臣竹田の城主太田垣能登守謀叛して在城す。
生野には京正阿弥を差置き弘治3年1カ年間支配す。
永禄元年(1557)より天正5年(1577)年まで20カ年杉原七朗左衛門支配す。

永禄10年(1567)堀切の山出来す。銀出ること夥し。されども所にて吹くこと停止なれば、丹波の門野、播磨の市原、荒田、的場、猪笹、大山、但馬の岩屋谷、津村子、これ等の所へ持出して吹くなり。
(『銀山旧記』)


生野の支配が竹田城主・太田垣氏へ戻り、現地に家臣を置いて採掘を進めます。

永禄10年(1567)の「銀出ること夥し」の場所が金香瀬鉱床。
これが生野銀山の主脈で、現在の観光坑道名ともなっている鉱脈です。


地上の露出部分から、地下の鉱脈へ掘り進むこと300年です。


元亀元年(1570)年に金木、藤木、鞘子の山出来す。此の辺は深山にて木茂り表へ鉉通り(脈筋)見えず。大木どものもとにて鉉内(鉱石部分)を見付け間歩をなす。即ち此の木どもを字(あざな=脈の名)にして今に至るも右の如く呼ぶ。間歩どもに銀ある事恰も土砂の如し。(『銀山旧記』)


採掘に入った山々の場所を、そこに生えていた木から、金木、松木、藤木、鞘子などと山の名前にした、と。

大木の下に鉱脈を見つけ、坑道を掘ってみると「間歩どもに銀ある事恰も土砂の如し」

すげー!!


うっはうはー!


巨大な堀切のように見える、慶寿ひ(ひ:かねへんに通)。


どうやったら大きさが伝わるのかしら。


徳川時代の金香瀬旧坑露頭群として残る生野銀山の見所です。


いつも応援いただきありがとうございます。
但馬から見れば「山名氏が手中におさめ」、生野から見れば「出張ってきて領有を宣言」。立場によって言い方が異なるのも面白いです。臭いを嫌って、等の文言にもちらっとそれが。ふふふ。信長が代官を置いて以降は、秀吉、徳川へと時の権力者の支配するところとなる生野銀山。坑道も楽しく見学出来ますが、地上の山の大きさには目に見えて圧倒されます。

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生野銀山(1)まずは全体をダイジェスト

こんにちは。


こっ、こまちゃんっ。


昭和48年3月22日の閉山まで1200年もの間、採掘が行われた場所です。


往時の繁栄は町並からも伝わります。

(間違えました。口銀谷:くちがなや、です)


橋の造りも頑丈です。

この先のお社には、


ちび狛ちゃん。


交差点マニアではありません。生野代官所跡です。


近年の発掘調査で明らかになった内堀跡。

跡形もないのは


トロッコの軌道の石積に石垣が転用されたので。


大正年間に敷設されたトロッコの軌道が残ります。


鉱山には、


鉱山守護の金山彦命を祀るお社があります。

生野銀山の坑道入口には、


ぎゃー。


山神宮から分祀したこちら。


です。

銀山といえば坑道が連想されますが、地上に露出しているものも大きいので、「銀山」の名の通り、山、があります。


地上に露出した鉱脈を採掘した場所への入口。


金、銀、亜鉛等の鉱物は岩盤の間の鉱脈にあるので


岩山全部をほっくり返すのではなく、鉱脈だけを目掛けて掘ります。


こうやって。

すると、


徳川時代の金香瀬旧坑露頭群。

堀切のような形になるわけですね。

これの下が、


ここから入る生野銀山坑道巡りのルートです。


温度は13度ほど。夏に行く価値、特大です。


うふふふ。


いつも応援いただきありがとうございます。
酷暑の最中、避暑に訪れた生野銀山。観光坑道は、同じ事を考えた人達で駐車場がいっぱいになるほど賑わっていました。写真に人影がありませんが、賑わってるんです。手堀り跡すげーっ、坑道せまーっ、うおーこわーいっとのたのたしてたので、みんなが私を追い越して姿を消しました。

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養父神社(8)狼くんを大切に。大口の真神と妙見信仰

こんにちは。

さて。中断しておりましたが、但馬の養父神社周辺の狼くんのお話。

百井塘雨(生年不明 - 寛政6年(1794))『笈埃随筆』

『この山(妙見山)の後の麓に養父明神在す。

狼を使令として宮前に大石をもて狼の雌雄を彫造し、鉄鎖をもって繋いで左右に有り。諸社の高麗犬の如し。
鄙国の村々にて猪鹿の為に田畑を荒さるることあれば、此明神へ参り立願して、狼を借り用いんといえば、此人かの繋ぎたる鎖を解いて其願にまかる。然して帰れば猪鹿の荒るること無し。
かくして後又御供神酒を奉りて礼参す。誠に珍しき事也。』



※現在の養父神社の狛狼は明治の奉納なので、本著記載のものとは異なります。

『兵庫県神社誌』に見られる同内容はこの『笈埃随筆』の一文です。


養父神社拝殿には、養父大明神と山野口大明神(山野口神社は『狼の宮』)が並んでいます。

これについて柳田国男は

「…この養父神社(※式内社・夜夫坐神社五座に比定)が延喜式以来の故跡のままとしても、狼の信仰までが、爰に居付きのものとは考え難い。

もしも他から移って来たとするならば、私は或は妙見山の方からかと想像して居る。」(柳田国男『狼と鍛冶屋の姥』より引用)

と指摘しています。


ここに、狼の恩返しの伝承『掃部狼婦物語』の舞台、宿南を加えて、


位置関係。

妙見山の山頂付近に、妙見山日光院。


出番ですよ。


日光院では江戸時代に牛王札という護符を発行しています。


牛王札といえば、熊野三山の熊野牛王符が有名ですね。


例えば、熊野速玉大社の牛王符は、


「熊野寶(宝)璽(印)」熊野に縁のヤタカラスによる文字。48羽。

「牛王」の名称は、牛の肝から得られる「牛黄(牛玉)」という密教の加持祈祷に用いる霊薬を印色として神符に用いた事から、「牛王宝印」と称するようになりました。(牛王符添付の説明書より)


では、日光院の牛王札とはどのようなものか。


日光院門前にある妙見山資料宝物館。

ここに、日光院の牛王札の版木が所蔵・展示されています。

そして、

牛王札には、二匹の狼(山犬)像。


こんな感じの狼でしたよ。

日光院の護符は、厄除けに御利益があるとして信仰を集めていました。

ではなぜ狼なのか。

但馬妙見日光院は妙見信仰の寺院。

妙見菩薩は北極星を神格化したと言われる仏様で、眷属は狼。


え。


神の使い、です。


妙見信仰が日本へ渡った時に、既に烏、あるいは鷲と共に狼は眷属となっていた等諸説ありますが、


日光院の護符には、狼。

神の使いとして狼が描かれた護符、その版木が残っていることは日光院が発行元である事を示す貴重な資料。

柳田国男が養父神社周辺の狼信仰について、「もしも他から移って来たとするならば、私は或は妙見山の方からかと想像して居る。」(柳田国男『狼と鍛冶屋の姥』)と指摘したのは、日光院は狼の護符を発行・配付する寺院だった点が根拠になっていたわけです。


日光院には大事な収入源。


また、狼を畏れることは、日本において古くからあり。

『日本書紀』『続日本紀』では、

秦大津父(はたのおおつち)が2匹の狼が噛み合っているところに遭遇。

「あなた方は恐れ多い神(貴神)なのに、荒々しい行いを好まれる。もし猟師に出会えば、たちまち捕まってしまうよ」と助けた。(「欽明即位前紀」)


『万葉集』では、「真神」の名で狼が詠まれています。


大口能 真神之原尓 零雪者 甚莫零 家母不有國(第八巻/舎人娘子)
(大口の真神の原に降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに)

「大口の」は狼は口が大きいことから「まかみ」(狼の異称)の枕詞。

「真神の原」は 奈良県の明日香村、飛鳥寺の南の辺りですが、当時は狼がうろちょろするような所だったのですね。


こんなおっきなお口のね。ふふ。


日本では、古くから狼を神として畏れることが背景にあり、山岳信仰や妙見信仰と混ざりあい、やがて狼は、田畑を荒らす野獣を駆除するため、「山の神や神の使い」として、特に江戸時代に信仰が広がりました。

しかし、周知の如くニホンオオカミは絶滅。

日本各地に山の神や、眷属(神の使い)としてその姿を留めるだけの存在になってしまいました。


狛おおかみ君がいたら、よーしよしよし、ってしてあげてね。


参考文献
『狼と鍛冶屋の姥』(柳田国男/『桃太郎の誕生』三省堂/昭和17)

「国立国会図書館デジタルコレクション」にて閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1062590/205?tocOpened=1

参考サイト
『狼神話とは』「妙見信仰」
http://www.raifuku.net/special/wolf/details/myoken1.htm


いつも応援いただきありがとうございます。
古くから畏れられていた日本の狼。西洋のおとぎ話と正反対の見方をされていたはずが、何がどうして絶滅したのか。これについては、ちょっと検索していただけたらと存じます。何はともあれ、これにて養父神社と狼くんのお話はおしまい。お付き合いいただきありがとうございました。

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養父神社(7)柳田国男と狼信仰

こんにちは。


養父神社の狼くん。


柳田国男が『狼と鍛冶屋の姥』において養父神社の狼からこの地の狼信仰について、『掃部狼婦物語』の概略と下記を引用し論考しています。


菱屋半七『筑紫紀行』(巻九、享和元年(1801)六月十日項)

「またしばし行きて五社明神の御社あり。これは神名帳に但馬国養父郡夜夫坐神社五座とある神社なるべし。今は籔崎(やぶさき)大明神と申すなり。

また一丁ばかり奥の方に、山の口の社というあり。これは狼を神に祭る御社なりといえり。ゆえにこの神は狼を遣いたまうという。

社僧の居所は水谷山普賢寺、本尊は薬師如来なり。」



養父神社。


ちょっと奥に、山野口神社。


今は社務所の、別当寺の普賢寺。


百井塘雨(生年不明 - 寛政6年(1794))『笈埃随筆』

『この山(妙見山)の後の麓に養父明神在す。

狼を使令として宮前に大石をもて狼の雌雄を彫造し、鉄鎖をもって繋いで左右に有り。諸社の高麗犬の如し。

鄙国の村々にて猪鹿の為に田畑を荒さるることあれば、此明神へ参り立願して、狼を借り用いんといえば、此人かの繋ぎたる鎖を解いて其願にまかる。然して帰れば猪鹿の荒るること無し。

かくして後又御供神酒を奉りて礼参す。誠に珍しき事也。』




※現在の養父神社の狛狼は明治の奉納なので、本著記載のものとは異なります。


違うというに。


縛りますよ。


これについて、

「養父の五社大明神と妙見山との関係は、此記事の中にも少しも説いて居ない。現在は勿論二処の信仰は分立して居るから、各その社伝縁起の文字によって、連絡を見出すことは不可能であろう。

こういう問題こそはもう一度、土地人の感覚に就いて今のうちに尋ねて置く必要があるのである。水谷神社や夜夫坐神社五座は、仮に延喜式以来の故跡のままとしても、狼に信仰までが、爰に居付きのものとは考え難い。

もしも他から移って来たとするならば、私は或は妙見山の方からかと想像して居る。」(柳田国男『狼と鍛冶屋の姥』より引用)


柳田国男は、飾磨県神東郡田原村辻川(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)に生まれています。

えーっと。京都から鳥取へ繋ぐ街道と姫路から生野銀山経由で但馬へ繋がる街道とがクロスする辺り。

柳田国男の故郷でも、妙見山の信者は多かった(『狼と鍛冶屋の姥』)そうで、狼の信仰といえば妙見信仰ではなかろうか、と思い至ったのでしょう。


『掃部狼婦物語』の舞台である宿南、養父神社、妙見山の位置関係は


ざくっとこんな感じです。

妙見山の山頂付近に、妙見山日光院。


出番ですよ。

つづく。


参考文献
『狼と鍛冶屋の姥』(柳田国男/『桃太郎の誕生』三省堂/昭和17)

「国立国会図書館デジタルコレクション」にて閲覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1062590/205?tocOpened=1


いつも応援いただきありがとうございます。
柳田国男は日本各地の狼信仰についての論考を他にも述べていますが、今回は養父神社周辺の狼伝説についてのみピックアップしています。何はともあれ、現地で古老に尋ねることの大切さ、切羽詰まった課題でしょうね。

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養父神社(6)八鹿町宿南の狼伝説『掃部狼婦物語』

こんにちは。


養父神社境内社の山野口神社。別名・狼の宮。


養父神社周辺の狼伝説について、ちょろちょろと。

第1回。


【『掃部狼婦物語』(養父市八鹿町宿南の伝承)】

養父市八鹿町(やぶし/ようかちょう)に宿南(しゅくなん)という地区があります。

ここに狼の伝承が残ります。

その名は『掃部狼婦物語』(かもんろうふものがたり)。

宿南村に伝えられた物語を集め、文化・文政期(1804‐1830)に編まれ、内容は


ざっくり言うと、狼の恩返し。


《宿南ってどんなとこー?》


宿南氏が治めたとこ。

宿南氏の嫡流は、朝倉氏。

①開化天皇の皇子彦坐命の子孫とする系図

②孝徳天皇の皇子表米親王の子孫とする系図(『朝倉始末記』『赤淵大明神縁起』、但馬の日下部系図など)


表米親王といえば、養父神社境内社の


迦遅屋神社。別名「猫の宮」の

祭神は、奧津彦命、奧津姫命、猿田彦命、表米親王。


表米親王の兄は、かの有馬皇子。

但馬国に流された表米親王の子孫が日下部姓を賜り、但馬の豪族として栄え、平安時代末期の宗高が養父郡朝倉に住して朝倉氏を称します。

つまり養父は、戦国時代に越前の覇者となる朝倉氏の発祥の地。


朝倉高清(養父神社との関わりは後日)を祖とする朝倉氏は、八木氏、七美氏、宿南氏、寺本氏、田公氏等を称し但馬一帯に根を張ることに。

「八木氏系図」には宿南氏系図が併記されるほど八木氏と宿南氏は密接な関係。

養父市には、朝倉城址、八木城址が良好な状態で残ります。


八木城址そばの今滝寺仁王門。

⇒⇒八木氏菩提寺・今滝寺の仁王門と金剛力士像


『掃部狼婦物語』の伝承がある宿南には、この宿南氏が南北朝期に山城を築城。(「城郭放浪記」様より宿南城

そんなとこ。


《『掃部狼婦物語』》

編纂は文化・文政期(1804‐1830)。

分類としては、報恩物語と異類婚姻談。主役は狼くん。


わん、言うなー(T_T)


室町時代。妙見山参拝を終えた伯州の修験者、威妙院。



宿南で狼に襲われ、宝剣「天国(あまくに)の短刀」で防御。

おデコを斬られた狼は宝剣を奪い、「かもん、かもん」と言いつつ退散。(×come-on)



修験者が「かもん」をヒントに探し当てたのが、田垣掃部(たがきかもん)。

後妻・牧女が寝込んでおり、あやしい。

聞けば、田垣掃部の先妻・綾女に罠にかかっていたところを助けられた狼がおり。



綾女の死後、田垣掃部が迎えた後妻が、悪女。
沢右衛門の送り込んだ後妻が狙うのは田垣掃部の命とお家乗っ取り。

狼くんは、諏訪明神のご神徳で、人間(♀)にへんしーん。

悪女の後妻と沢右衛門を殺し、さらに悪女に奪われた宝剣を探していたら、修験者が持っていたので取り返したの、ごめんなさい、と。



正体を知られたからには、ここにはいられないです、と別れを告げる牧女@狼。

田垣掃部も息子も必死に引き止めますが、神代の頃からのルールなの、と、姿を消します。

田垣掃部親子が家の床下を調べると、そこには、額に傷のある狼の骸が横たわっていました。



狼くんの恩返し、おしまい。


さてこの『掃部狼婦物語』には後日談があり。

田垣家に戻った宝剣「天国の短刀」は、日光院に奉納されます。

そう、明治の神仏分離で名草神社に乗っ取られた形で妙見山を追われた、あの日光院です。

宝剣を持っていた修験者威妙院は、妙見山参拝を終えたところでしたね。


もしもし。


こらこら。もうすぐ出番ですよ。


つづく。


特別出演:津田八幡神社(香川県)の狛狼くん

参考文献

『掃部狼婦物語:但馬宿南の狼伝承』(兵庫県八鹿町ふるさとシリーズ第3集/八鹿町教育委員会/1990.3)
※八鹿町は2004年4月1日に八鹿町、養父町、大屋町、関宮町 が合併して養父市

「武家家伝」様より「宿南氏」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/syuknami.html

「武家家伝」様より「朝倉氏」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asakra_k.html


いつも応援いただきありがとうございます。
宿南には、掃部屋敷という所に掃部之塚があり、『掃部狼婦物語』が史実と物語が混在する伝承として残っています。赤ずきんちゃんや三匹の子豚では悪役バリバリの狼ですが、こちらでは全く違いますね。助けてもらった恩返しをするなんて、いい子じゃないかー、狼くん。

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