「菅浦文書」で知る「惣」。自治の菅浦


背後は急峻な山、琵琶湖との間の僅かな平地が菅浦の集落。

ここは、鎌倉時代から明治までの記録「菅浦文書」1255通が現存。
中世の「惣(惣村)」の姿が記されている貴重な資料です。


【惣とは】
地縁的な結合による自治組織体。

平安末期頃より荘園領主の力が弱まったため、各産業従事者は、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛のために地縁的な結合を強め、「村落」を形成。

村落の範囲内に住む惣て(すべて)の者を構成員としたことから、「惣」または「惣村」という。畿内・近畿地方から発生し全国に拡がっていった。




菅浦の惣の範囲、つまり、集落の範囲を明確にするための「四足門」が、東西南北の集落入口に設置されていました。


現存は東西二ヵ所。これは西の門。


足を片方に片寄らせて、集落の内と外を明確に示しています。
文書からも、中世後期にはこの門が既に存在していたことが確認済み。




建物の上棟は、この札を上げること。


【菅浦のはじめ】

大浦荘(貴族・有力社寺の私有地)から鎌倉時代に独立。


【菅浦文書】
鎌倉時代から明治初年までの記録文書1255通。

第一群
「年貢、公事の催促状や贈物に対する礼状」
第二群
「寄進文書や売券等の文書で菅浦住民全体の利害に関わるもの」
第三群
「住民全体を拘束する規範としたもの」
第四群
「村内行事諸経費等の村民への割当額等の記録文書」
第五群
「借銭返済後に借用状の書面を墨線で棒引きして返還されたもの」
第六群
「宛行状、打渡状、検注帳等の正文又は案分」
第七群
「日指、諸河をめぐる大浦との相論文書や漁場をめぐる堅田浦との相論文書」


★注目記事★

■「菅浦諸沙汰之事」(第三群)(1461年7月13日)

人を罰するにあたり、証拠を重視すること・乙名全員が出席して裁判を行うこと等、合理的な村掟について書かれています。

→守護大名の制定した分国法が武断主義的色彩を濃くしていた鎌倉末期に既に菅浦には「合理的掟をもつ『惣』」という農民の自治組織が形成されていた事がわかる点で貴重な資料。


□万一不始末で死罪にされたり所在を追われた者があっても、跡目を子供に相続させるなら結構なことである。

□住持が正気でないことで財産没収・他処へ追われたとしても、寺の領地や仏具はそのままにしておかねばならない

□近頃はあまりに思いやりのない重罰が課せられており不憫である


■「菅浦惣中壁書案」(1568年12月14日)
□「菅浦は、守護の警察権が及ばず、自ら刑事事件の犯人を検挙し裁判する権限をもっている」と明記しています。

戦国時代に浅井氏が領した時に警察権・裁判権を奪われたものの、秀吉から徳川の時代(膳所藩)になろうとも、自分のムラは自分で守るという自立の精神を持ち続け明治を迎えました。


■「日指、諸河をめぐる大浦との相論文書や漁場をめぐる堅田浦との相論文書」(第七群)

□大浦との境界争い
菅浦が「日指、諸河」の領有を主張し、この地の稲を刈り取ったことが発端。1295年から1446年の長きに渡り、比叡山や日吉大社を巻き込んで大浦との境界争い。室町幕府の裁定で決着。菅浦の勝ち。

郷土資料館に「菅浦与大浦下庄堺絵図」(写し)があります。



日曜以外は要予約。集落の方々の持ち回り当番制。
須賀神社の横にあります。必見です。

惣の共有財産には焼印を押していました。その焼印が複製ながら展示されています。

★これは素敵よ★
□須賀神社所蔵の室町時代末期の能面。
鼻瘤悪尉、女、蛇、の三つ。洗練される前のエネルギッシュな面です。
蛇、は、般若の古い形。

□つづらお崎湖底遺跡の発掘品
つづらお崎沖で底曳き網をしていた漁師さんが発見。
土器が完全な形で出土するため、祭祀のため沈めたとか、地滑りで遺跡が沈下したとか、船の積み荷が沈んだ、とか。

□菅浦文書(写し)




面白いところでした。満足じゃー。
次に来るときは集落をてくてくするぞー。


いつも応援いただきありがとうございます。菅浦については、様々な考察がされています。ぜひ冬にお越しください…雪景色の須賀神社と四足門や集落の風情は格別です。…写真で見たら、ね。えへ。
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淡路廃帝淳仁天皇をお祀りし弔い続ける菅浦の地。

本日は須賀神社。続き。前記事はこちら→→須賀神社


驚きの本殿背後の石積にうっとりして。


目の前でぷらーんっとするこの子にパニックになり。

しばし、石積を眺めながら休憩。境内ぶらぶら。


拝殿の扉の紋。


新調されたらしきお賽銭箱。ぴっかー。


狛犬様の姿に惚れ惚れ。


強面です。どきどきします。



摂社も拝見。けむけむくん軍団に恐れおののき、社殿撮影は忘却の彼方。

たれもーもー。


どうかこのまま静かなお社でありますように。






少し、ほっとする。境内はなんだか緊張。

ここから集落の中を数分歩きます。


淳仁天皇の菩提を弔ったお寺の跡地。
亡くなった方をお祀りし、弔う。それを守り続けてきた菅浦の方々です。


今では気の毒な二宮金次郎さん。
本来の意味を教えることも大事ではないかと、おばはんはちょっと悲しい。



さて。数奇な運命を生きた淳仁天皇。




あっけらかーん…。(淡路島の御陵記事はこちら→→淡路廃帝淳仁天皇の淡路陵


淡路島の御陵と琵琶湖北端の須賀神社と。
ふたつを巡ってみましたが、いかがでしたでしょうか?


いつも応援いただきありがとうございます。今日はさわやか。「まあ、すっかり秋めいて…」とご挨拶しそうな寒暖差でした。皆様、体調崩されないようにご自愛くださいませ。
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淡路廃帝は須賀神社の舟型御陵に眠るのか。湖北の菅浦。


滋賀県高島市新旭町の「道の駅しんあさひ風車村」の風車くん。
ガンダ〇のソーラーレイ並みに強烈な日差しを浴びております。

高島。藤原仲麻呂が捕まり斬首された土地でした。


さて。淡路廃帝とされた淳仁天皇のお話。

前回記事で淡路島の淳仁天皇淡路陵をご紹介しましたが、淳仁天皇に纏わる場所がもうひとつあります、と予告。それが…


湖北に位置する「菅浦」です。


【菅浦の伝承】
「淡路高島に遷じられ崩御した(要約)」と続日本紀に記載された「淡路」は、「淡海」の誤りで、淡路国高島は、湖西の高島のことである。
天皇は、湖西の高島市に流されそこで崩御した。

淳仁天皇が行幸していた保良宮のある菅浦の人々は、亡骸を「葛籠(つづら)」に入れて航路で保良宮に運んだ。着岸した場所をこの故事に因み「葛籠尾崎(つづらおさき)」と称するようになった。



淳仁天皇は行在中、自ら框の木で、自分と后妃の肖像を彫り「何所に寿を終るも神霊必ずこの肖像に留め置く」と語っていた。

よって、菅浦の人々は石を舟型に積み、一社を創立して廃帝を祀った。それが「保良神社」である。


【菅浦とは】
日本中世史を学ぶ際には必ず出てくる「菅浦文書」で有名ですね…。

鎌倉時代以降の菅浦は、警察・軍事機能を備え、証拠主義の裁判をするなど、住民自治が高度に発達した「惣村(そうそん)」でした。

鎌倉から明治までの惣に関わる記録書面、1255通。それが「菅浦文書」です。


すみません…。


明治42(1909)年、保良神社(菅浦大明神)は、小林神社(小林大明神)と赤崎神社(赤崎大明神)を合祀して「須賀神社」と改称されました。




保良神社は、764年11月鎮座と伝えられています。以来50年毎に祝祭が行われ、昨年(2013年)、淳仁天皇1250式年祭が挙行されました。




ここで半分。


ようやくたどり着きました。




土足には、不浄なものが付着しているのです。


ありがたいことです。では汗くさいお手手などを洗いましょう。


おーむ、ですか?


中世菅浦の「惣」の乙名衆・沙汰人の職制を引き継ぐ長老衆には代々「法螺貝」が伝えられています(菅浦資料館にて展示)。


無意識に帽子も取ってます。


礼。


ぞくっ


ぞくぞく

と、とにかく。お参りしなくちゃ。


「舟型御陵」は、周りを歩いたところ、本殿を中心に真上から見たら舟の形に石積が囲っています。


では、菅浦の人々が大切に守っている淳仁天皇の御陵をご覧下さい。本殿に向かって右から視線を移動します。













菅浦の皆様は毎朝お参りされるとのこと。
御陵を土足で踏みにじるような傍若無人な観光の人には来てほしくないだろうなあと思いました。
竹田城のようにならないよう祈るばかりです。



いつも応援いただきありがとうございます。淡路島と合わせてご紹介したくて、灼熱の琵琶湖を走り回りました。ほっ。菅浦は写真などで見る雪景色の時が素敵…ですが、足がつべたくて失神するかもしれません。
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義経の山本山城址を遠望。そして、影、再び。

全身が日焼けで火照ってます。あちー。


舞台頑張ったごほうび。余呉湖が見えるお宿にお泊まりしてました。
湖面に山々が映ってきれー。


早起きして部屋から余呉湖を眺めて、二度寝して、チェツクアウトぎりぎりまで、ごろごろ。既に30度超えてます。


駐車場でぼけーっとしたまま、動けません。

でもあまりに天気が良いので、奥琵琶湖ハイウェイをドライブ。
長浜の北の辺りが対岸に見えます。


山本山には、山本山城址。義経のいたとこ。

かの源九郎義経では、ございません。山本義経です。

以仁王の令旨を受けて山本源氏の山本義定・義経親子が旗揚げし陣地としたのが山本山城。

治承4(1180)年12月16日。平知盛・資盛が攻撃。山本義経敗走。

後に山本山城へ入ったのが、浅井氏重臣の阿閉貞征(あつじさだゆき)。もとは北近江伊香郡の国人で京極氏に従っていましたが、浅井氏が台頭するとそちらへ。

信長VS浅井、の時、信長に内応し山本山城へ織田軍を入れたため、小谷城は孤立。落城。


その後、信長に従い地味に活躍。

しかし、本能寺後は明智方につき、秀吉の長浜城を占拠。そして。

山崎の戦いで明智方敗北の後、秀吉により捕縛。一族全て処刑されました。そして、山本山城は廃城となります。

登山道が整備され、解説板も充実のお城です。寒くなったらまた行きたいな。源平巡りで行ったので、土塁等は「なんのこと?」でした。


賤ヶ岳から山本山へ連なる山々(丘々?)には、古保利古墳群等わんさかと古墳があります。数えきれないくらい集中。

「せんせ!土塁です!」「古墳です」遊びが出来ます。いかがで?

湖東・湖北はとかく戦国の遺構が注目されがちですが、もっと古い大切なものもいっぱいあります。楽しいところです。うふ。


おまけ


木の下には、この子達がいっぱいぶらんぶらん。


上下左右に揺れるのでご注意を。


いつも応援いただきありがとうございます。何だかんだ言いながらも、資料館2件と他の史跡を走り回ってました。明日の私は役立たずです
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ぽちぽちぼっち、ありがとうございます。


おまけのおまけ

道の駅「塩津街道あぢかまの里」様の「鴨そば」500円。
琵琶湖産川えびのかき揚げと鴨肉。

「そうだ、鴨そば食べよう」

そして私はドライブに出る…。

プロフィール

つねまる

Author:つねまる
史跡をちょろ見しながら、景色を楽しむゆっくり旅。地味。

古典芸能の能楽の、謡と仕舞のお稽古ぐだぐだ日記も。

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