枯木神社。香木漂流地はお香の産地

こんにちは。




淡路島は国生み神話の土地。
そして、日本で最初に香木が漂流した土地でもあります。
(以前も記事にしましたが、面白いので再掲。)



淡路島西海岸に鎮座する枯木神社。

「推古三年夏四月。沈水漂着於淡路嶋。其大一圍。嶋人不知沈水。以交薪約於竃。其烟気遠薫。」(『日本書紀』巻二十二)


推古3(595)年4月。
淡路島に漂着したひと抱えもある流木。
それは、沈水(じみ)、という香木だったのですが誰も知らず、薪として燃やしました。

あーら不思議。

遠くまでよい薫りが漂いました。早速、推古天皇へ献上。
献上された香木は聖徳太子が観音像にしたとも言われてます。

日本書紀に書かれたエピソード。これが「香木」の最古の記述です。


いきなり漂着した流木を前に戸惑ったことでしょう。ふふ。


枯木神社のご神体は漂着した沈水という香木。

実は…


薪にしようと鋸でひこうとしたら、障りが起きて…


何度海へ捨てても戻ってくる。

そこで、地元の人々はお社を建てて、香木をご神体として祀りました。(現地説明板より)



淡路島は線香やお香の生産量日本一。
全国シェアの70%を占めます。

その工場が集中するのが枯木神社のある一宮地区。
江戸時代に堺の熟練職人を引き連れて戻ってきた田中辰造により、線香の生産が発達。

・徳島藩の重要拠点の江井港が近く、材料と商品の流通に適していた

・淡路島の気候が線香作りに適していた

・漁師の家族や農閑期の農家など、人手が豊富なため安価な労働力が得られた

などから、淡路島の西側中央部であるこの辺りで線香作りが盛んになりました。

近くを通ると、ぷいーんっといい薫りがします。

ふと横を見たらこんな案内が。




ここに座ってよもやま話してても、なぜか石がほこほこと温かかったそうです。なんともおおらかで日本らしいお祭り。


日本最古の香木伝来伝承地の枯木神社ですが、ずっと古い祠だけが建っていたものを一宮町と香水の町グラース市との友好都市提携の際に、祠再建のため何百年ぶりにご神体を開きました。

白い布に包まれていたのは、伝承通り、香木。
よかった。人魚の骨とかじゃなくて。


枯木神社でした。



いつも応援いただき、ありがとうございます。淡路島の神社巡りの中でも、少し変わった由緒のお社。今でもお香の香りが漂うこの地域をドライブするときは、少し窓を開けてくんくんします。
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おのころ島神社。せきれい先生の内緒教室

こんにちは。


再びの淡路島。


淡路島の内陸部に鎮座するおのころ島神社。

ここは古代の御原入江の中と言われ、伊弉諾命・伊弉冉命の国生みの聖地と伝えられる丘。

古くから「おのころ島」と伝わるお社。


干支の土鈴、めぇめぇ君とはこちらで出会いましたの。


さわやかな感じ。



【祭神】伊弉諾命(イザナギ)と伊弉冉命(イザナミ)

イザナギ・イザナミの二神は天の浮橋に立ち、天の沼矛を持って海原をかき回します。

その矛より滴る潮が凝り固まって島となりました。
これが「自凝島(おのころ島)」。

二神はこの島に降り立ち、八尋殿(やひろでん)を建て、先ず淡路島を造り次々と大八洲(おおやしま)を拓かれたと古事記・日本書紀に記述されます。

おのころ島が国生みの場所。

さて。国生みの次は。


せきれい石。

イザナギ・イザナミの二神は、この石の上につがいの鶺鴒(せきれい)が止まり夫婦の契りを交わしている姿を見て、夫婦の道を開かれ御子様をお生みになられました(現地説明書)。


・・・(///∇///)


そして二人は神生みを始めます。



摂社・八百萬神社の祭神は、イザナギとイザナミの産んだ神々。

・・・ここにお参りすれば最強?



きれいだわ。


この鳥居、かなり遠くからも見ることができます。


まいど。


忘れてた。せきれい石のお参り作法。

新しい出会いを授かりたい時、今の絆を深めたくて一人で来た時と二人で来た時、それぞれ白と赤の縄を握る順番などが定められていました。



いつも応援いただきありがとうございます。さわやかな少年二人が仲良くせきれい石の「二人で一緒に今の絆を深めたいのよ」作法をしてました。日本の未来はレインボーです。
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賀集護国寺。高野山とリンクするご本尊。

こんにちは。


860(貞観2)年。清和天皇の時代。
御神託を受けた奈良大安寺の僧・行教が、石清水八幡宮の御分霊を奉じて淡路島に来島し、建立。

そもそもこの行教は、石清水八幡宮を創建した人。


宇佐八幡宮に90日間参篭た時に御神託を受け、860(貞観2)年、宇佐八幡宮から山城国男山の護国寺に八幡大菩薩を勧請して石清水八幡宮を創建。


賀集八幡神社の北東一帯は平成8年の発掘調査で、弥生時代後期(約1,900年前)の3棟の竪穴住居跡が発見されています。

小規模なムラが営まれていた様子。


賀集八幡神社拝殿。

明治の神仏分離令が施行されるまでは、神社の祭神の本地仏を祀る本地堂(薬師堂・阿弥陀堂等)があり、神社には別当(神宮寺・宮寺等)が付設し、神社の管理にあたるという形式が一般的でした。

ここ、賀集八幡神社(分離前は八幡宮)の神宮寺は、賀集護国寺。


賀集山護国寺。

開基は賀集八幡宮を建立した、奈良大安寺の僧・行教上人。

護国寺所蔵の「賀集山往古大伽藍之圖」では。

宇佐八幡宮、石清水八幡宮等と同様に「八幡宮本社」を中心とした寺院であった様子が見られます。


現在の護国寺の宗派は高野山真言宗。なので、こうやくん。


高野山奥の院

平安後期の賀集荘は、高野山宝幢院領でした(1223年の淡路国大田文)。


【高野山と丹生都比売神社(にふつひめ/にうつひめ)】

空海が高野山を開くにあたり、地主神である丹生都比売神社が神領を譲ったと伝わります。(『金剛峯寺建立修行縁起』)

丹生都比売神社の主祭神は丹生都比売大神。
第二殿に地主神・高野明神(狩場明神)。

高野山の開創以後、丹生都比売大神と高野明神は高野山の鎮守となり、壇上伽藍にも勧請されています。
(明治に入り、神仏分離で高野山から独立)

空海の後も高野山と密接に繋がった丹生都比売神社は、高野山の荘園にも勧請されたため、各地に丹生神社が建てられました。


賀集八幡神社をもう一度見てみると、

本殿と並ぶ摂社の丹生神社(向かって左)

「賀集山往古大伽藍之圖」でも、瑞垣に囲まれた本殿は、八幡社と丹生明神が並列。

そして、丹生明神の本地仏は、大日如来。


現在の護国寺本尊は、その大日如来です。

平安末期の胎蔵界大日如来坐像は檜の寄木造。国の重文。


護国寺の本地堂。
平成8年の再建。阪神淡路大震災の影響があったのかもしれません。


淡路島の瓦がふんだんに使われております。


本地堂内部。

(中央)
阿弥陀如来坐像(平安後期~鎌倉期)
八幡神の本地仏。中世には講堂に安置。

(向かって右)
毘沙門天立像(鎌倉後期)
中世には経蔵(御手洗川南)に安置。

(向かって左)
不動明王立像(鎌倉期)
中世には護摩堂(拝殿北側)に安置。


賀集八幡と護国寺は、中世には淡路守護細川氏の庇護を受けていましたが、1386(至徳3)年の火災で焼失。

以降、何度も火災に遭遇し荒廃。


1631(寛永8)年。阿波徳島藩主蜂須賀忠英により八幡神社も護国寺も再興。


阿波徳島藩主蜂須賀家の菩提寺となりました。


池泉回遊式の庭園。
淡路島最古の庭園。南あわじ市指定文化財(名勝)。


五代藩主蜂須賀綱矩の妹、久米姫が里帰りした阿波から京都へ戻る道中に立ち寄った時の歌。

「清(すみ)濁るうき世のほかの山寺に 心を雪(すす)ぐ滝の白糸」


徳島市興源寺。五代藩主蜂須賀綱矩の墓所。



現在の護国寺は、本尊のほかに布袋尊を安置しており、淡路七福神巡りの布袋尊霊場として賑わっています。


摂社八坂神社のちびっこ。


おお、すごーい。


皆様一目散に護国寺へ。

観光バスのご一行様は、淡路七福神巡りのツアーの方々。
なんたって布袋様は金運のご利益の方ですもの。あきらめて。



いつも応援いただきありがとうございます。高野山と丹生都比売神社。高野山宝幢院領だった賀集の地に鎮座する八幡宮と丹生神社。それぞれの本地仏を祀る神宮寺(護国寺)。そして、全てを再建した蜂須賀忠英。見所満載の賀集へぜひ。
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八坂神社の犬と馬と狐。賀集八幡神社の摂社。

こんにちは。


おっと。


笑顔の狛犬くんがいるお社は。


賀集八幡神社。


どいてください。


摂社・八坂神社。かつては淳仁天皇淡路陵に鎮座していたお社。


明治にここへ移ってきました。

簡素ながら雰囲気が素敵なお社。


八坂神社本殿。


なんだー?


だ、大丈夫か?


相方さんが大変ですよー。


はい?


ねー、なにか言ってやってー。


ビーバーじゃないんだからー。


そうそう。

ありがとうございます、おしりにかたつむりくん。


うふ。


八坂神社の横には、稲荷神社と神馬舎が並び、その後ろには小川が流れています。


どうしたのでしょう。


ストレスはよろしくありませんねぇ。


楽しそうで何よりです。


稲荷神社の狐様。


私を見てください。あっぷっぷー。

楽しいお社ですね。ふむふむ。

あ。


がまんしてるよぉー(ノ_<。)



小川にかかるのは、八幡橋。

総御影石造りの橋で、淡路で唯一の明治の文化遺産。
当初は官道に架かっていたものを移築。側面に鶴と亀の模様があるようで。


なぜ、こうやくんが。

次回は、高野山じゃないこうやくん。


いつも応援いただきありがとうございます。すみません。八坂神社動物園がかわいくて、ついつい長くなっております。うふふ。キリが良いので本日はこれにて。これから次の記事に四苦八苦します。
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賀集八幡神社と摂社八坂神社。天王の森からやって来た

こんにちは。


んがぁ。


賀集八幡神社の続きです。


細川師氏以降、代々の淡路国守護細川氏の祈願所となった賀集八幡神社。


満面笑顔の狛ちゃんがお迎え。


ちゅるんっと。


食べません。


うん、食べた。


これ。


こちょこちょこちょ。


現在のお社は、1631年に再建した蜂須賀忠英時代のもの。


徳島市の興源寺で皆に会ってきましたわよ。


本殿の背後には昔日の栄華が感じられるお社の跡地が広がります。


小川を渡るとこちら。


漢字が出なかったの(ノ_<。)


はぁとの石が微妙である。


賀集八幡神社の向かって左手前には、こちら。


まぁ、ちびちゃん。


どこから来たの?


ふんふん。


えー。


叱られた。


賀集にある淳仁天皇陵はかつて「天王の森」と呼ばれていました。

八坂神社は、以前は淳仁天皇陵にあり。



祭神は須佐之男命、相殿に淳仁天皇を祀っておりました。

淡路国守護の細川氏、阿波徳島藩主の蜂須賀氏、洲本城代の稲田氏の寄進を受け賀集中村の産土神として崇敬されてきたのですが。

明治3年の神仏分離につき御陵取締局がら許可されて八幡社境内に摂社(本店に次ぐ神社)として鎮座することになったのです。(現地説明石碑より)


こらー。


吽ちゃん・・・。


うわあああ。そんなにがまんしないでー(T△T)


簡素ですが、落ち着いたお社。


なんかおるー。

つづく。



いつも応援いただきありがとうございます。賀集八幡神社の境内は広く、建物の遺構が感じられる平坦な場所が点在しています。淳仁天皇淡路陵とご縁のある摂社・八坂神社。祭神おとぼけ君とにこいちでは、相方くんの胃が心配です。
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賀集八幡神社。細川くんと蜂須賀くん

こんにちは。


「淡路島玉ねぎ発祥の地」、淡路島の賀集。
明治21年に賀集村で試作が行われたのがはじまりはじまり。


賀集には淳仁天皇陵。


国道28号線の交差点「八幡」。

ここから程近く。


賀集八幡神社の鳥居。

長い長い参道を進むと


賀集八幡神社の拝殿が見えてきます。


手前に見える白い塀は賀集護国寺。

この並びがポイントで。

明治維新後に神仏分離令が施行されるまで、殆どの神社にはその祭神の本地仏を祀る本地堂(薬師堂・阿弥陀堂等)があり、神社には別当寺(神宮寺・宮寺等)が付設し、神社の管理にあたる形が多かったのです。


左側には八坂神社。

淡路賀集八幡宮・賀集護国寺として、広い所領に多くの堂宇が立ち並んでいたであろうこのお社。


860(貞観2)年。御神託を受けた奈良大安寺の僧・行教が、石清水八幡宮の御分霊を奉じて淡路島に来島し、建立。


石清水八幡宮の社殿を模した社殿は、荘厳華麗だったとか。
この当時の伽藍古図は護国寺にて保存されています。


龍くんに、若々しさが不足気味。


賀集八幡神社・拝殿。こんにちは。


1336(南朝:延元元、北朝:建武3)年。
足利尊氏が京で敗れ、九州に敗走する時に細川一族を四国に派遣。

この中に、細川和氏・頼春・師氏の兄弟がいます。

細川和氏は戦功によって阿波国、淡路国の守護となりました。



1340(南朝:興国元、北朝:暦応3)年。
足利尊氏は、和氏・阿讃(阿波と讃岐)の領主・細川頼春等の弟・細川師氏に淡路国の平定を命じます。

同年。細川師氏は、淡路島に入ります。


きゃー。キター。

師氏は淡路入国の際に、賀集八幡神社に参拝。
「御幣を切り、鏑矢を神前に奉じ」、また、厄年であったため特に念入りに祈願。



細川師氏はこの賀集付近の合戦で南朝連合軍を破ります。

特に、淡路国主・宇原兵衛永真との田中川の合戦では、賀集八幡神社の神前に奉じた鏑矢が永真に命中。

養宜館に入城し守護の座についた細川師氏は、この賀集八幡神社を深く信仰。

細川家代々の祈願所として社殿を造営し、神馬、太刀のほか神宝奉納が長く続けられました。


大檀那が見つかったねー。

淡路守護は、以降、細川師氏の子孫が務めます(淡路守護家)。



はい、なんでしょう?


はっちーくん?

1615年。淡路島は阿波徳島藩の領地に編入されます。

徳島市の興源寺。蜂須賀家代々の墓所。

阿波徳島藩主・蜂須賀忠英。

1631(寛永8)年。忠英は、筆頭家老の稲田示植を脇(徳島県美馬市脇町)から、淡路支配の為に淡路島へ城代として送ります。

初めは淡路由良城、続いて洲本城へ移し淡路支配の体制を築きます。
(要所である脇は直轄地としました。)


二代藩主・蜂須賀忠英(ただてる)墓所。

忠英は、賀集八幡神社を崇め、1631(寛永8)年より本殿、拝殿、摂末社に至るまで悉く再建。


うん、好きね。

現在の諸建物はこの忠英時代のもの。


拝殿は寄棟造。1631(寛永8)年の棟札あり。


落ち着く雰囲気。


八幡さんらしく、はとぽっぽがいました。

宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ八幡神を勧請した際に、鳩が道案内したことから、八幡宮では、はとぽっぽが神使。


決して寒いからでは。


根性!みたいな。


蜂須賀くんがお参りしたかも。


ぐるんっと回る。好き。


いいなー。

さて。本殿。

 
向かって右側が本殿。左は摂社。

【主祭神】応神天皇
【配祀神】天照大神 仁徳天皇


本殿は三間社流造。寛永8年(1631)の棟札あり。

側面の縁が一段高くなる点が珍しいとか。


摂社の祭神は丹生明神。

神殿狛犬くんがちらっと見えましたの。


うふん。

つづく。


いつも応援いただきありがとうございます。淳仁天皇陵のすぐそばの賀集八幡神社。蜂須賀忠英が再建した社殿がそのまま残っています。 派手さはありませんが、落ち着いた雰囲気の素敵なお社です。
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賀集山万福寺。淳仁天皇淡路陵を護る人々

こんにちは。


今日も淡路島。

淡路島の賀集には、天皇陵があります。


■代数 第47代
■御父 舎人親王
■御母 大夫人山背
■御陵名 淡路陵(あわじのみささぎ)
■所在地 兵庫県南あわじ市賀集
(宮内庁ホームページより)



◇淳仁天皇(733年- 765年11月10日)
在位:758年9月7日 ‐764年11月6日
古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)。
諱は大炊、践祚前は大炊王。

天武天皇の皇子・舎人親王の七男(3歳で父と死別)。

藤原仲麻呂の推挙により立太子。
大炊王は仲麻呂の子(真従)の未亡人粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の私邸に居住。

758年に孝謙天皇から譲位を受け践祚(桓武天皇以前は即位と同義)。同時に孝謙天皇は、太上天皇(孝謙上皇)となります。


これは5月のたまねぎ畑。


◇藤原仲麻呂(恵美押勝に改姓改名)
祖父は藤原不比等。父は不比等の長男武智麻呂(藤原四兄弟は、武智麻呂、房前、宇合、麻呂)。

天皇の保良宮滞在中に孝謙上皇が弓削道鏡を重用し始め、危機感を抱いた仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇と道鏡との関係について諫言。

これを契機にして両者の関係は対立。


孝謙上皇・道鏡 VS 淳仁天皇・仲麻呂


762年6月28日、孝謙上皇は「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告。

764年9月11日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。
上皇側の責任者は吉備真備。

藤原仲麻呂は上皇側と戦いますが、琵琶湖の三尾(近江国高島郡)まで追い詰められ、湖畔で斬首されました。

淳仁天皇は、仲麻呂の乱には同行していないものの、「仲良し」を理由に上皇に廃位を宣告され、淡路国へ流されます。



皇位は孝謙上皇が重祚、称徳天皇となります。

一方、淳仁天皇は、廃位のため太上天皇号(上皇)にはなれないどころか、天皇の数にも入れられず。


「天平神護元年十月庚辰、淡路公、幽慎ニタエズ垣ヲコエテ逃グ。守佐伯宿禰助、接高屋連 並木等、兵ヲ率イテコレヲサエギル。公、還リテ明日院中に於テ甍ズ」(続日本紀)

765年10月、「幽憤に勝(た)えず、垣根を越えて逃げたが、明日、院中に薨(みまか)りぬ」。死因不明。薨年33歳。


逃亡をはかった翌日、お亡くなりに。怪しい。


淳仁天皇陵から数百メートル。


母上の「大夫人・当麻山背」も共に淡路島へ流されてきました。


お邪魔申し上げます。


のどかです。


二人の陵墓からはお互いの姿が見えるところが、きゅん、です。


暗殺の疑いが濃い淳仁天皇は、怨霊として皇室を悩ます故に、772年、光仁天皇が僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めました。


その僧侶達の宿所、賀集山万福寺。

淳仁天皇の冥福を祈る本尊・金剛界大日如来と、母の当麻夫人の菩提を回向する本尊・台蔵界大日如来。

ふたつの大日如来が合祀されています。



天皇の数に入れられず「廃帝」のままであった淳仁天皇(大炊王)。

明治3年7月24日(1870年8月20日)に、ようやく、弘文天皇(大友皇子)・仲恭天皇と共に明治天皇から「淳仁天皇」と諡号を賜られます。

明治6年(1873年)には、同様に配流先で歿した崇徳天皇を祀る白峯神宮に合祀されました。


恵美酒太神は、御陵に鎮守として迎えられた福の神だとか。

明治初年に御陵が宮内省の管轄となり、鎮守の恵美酒太神を万福寺の住職が当寺に迎えました。

「天皇の森のえべっさん」と崇められた御神像には、『淡州三原郡賀集荘舟森廃帝陵鎮座恵美酒太神』と、朱印があるそうで。


山門横のちびちゃん。

万福寺は、鎌倉時代には高野山の庇護を受けますが、やがて衰退。


室町末期に賀集氏が備後より阿波を経て当地に領主として移り、城を構えた時に復興され、今日に至っています。


山門の屋根瓦。

1613(慶長18)年、脇坂安治の後に淡路島へ入った池田忠雄。


洲本市由良の成ヶ島に由良成山城を普請した際、播磨国から播州瓦の名工清水理兵衛を招いて瓦を作らせます。


それが淡路瓦のはじめ。


万福寺の現在は、淡路島七福神巡りの第一番霊場。


えべっさんのお寺です。


賀集山万福寺
《住所》兵庫県南あわじ市賀集鍛冶屋87-1


いつも応援いただきありがとうございます。淳仁天皇淡路陵と万福寺のある「賀集」地域。天皇陵があることからわかるように、この付近の歴史は古いです。また、賀集は、「淡路島玉ねぎ発祥の地」。明治21年に賀集村で試作が行われたのがはじまりとされているのだとか。たまねーぎ、うまー。
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ぽちぽちぽっち、ありがとうございます。

洲本八幡神社。境内社・天満神社の微妙狛犬ず。

こんにちは。


ずっとお城の探検していても殺風景なので。


たまねぎが美味しい淡路島。


淡路島はこんな感じの形。


徳島県鳴門市の宇志比古神社の狛犬くんを見たとき、こう見えまして。
おほほほ。


阿波徳島藩蜂須賀家の時代になると、上のお城は棄却され、下の城で政務を行っていました。

その下の城から程近く。洲本八幡神社に立ち寄りました。


探検してきたのよ。


模擬天守がよく見えます。


いやぁん。

室町末期の1526年。安宅治興が三熊山に洲本城を築いた際に、安宅秀一が当社に参籠。その後も代々洲本城主に崇敬されました。

江戸時代には、淡路国における徳島藩の代参所となると共に藩主蜂須賀氏及び家老洲本城代稲田氏の祈願所として崇敬をうけました。

また、淡路国で初めて檀尻(だんじり)が出された神社でもあります。


微妙に男の子。


無理です。


境内社の天満神社。

ここの子達に会いに来ました。


こんにちは。


きゃー。


か、かわいいっ、のかな!?


頭に小さな何か。


こっちはソフトクリーム。

獅子くんかな。


ありがとー。考えとく。

洲本八幡神社には、国端彦(くにみずひこ)護国神社というお社があります。



祭神は、国端彦大神(蜂須賀家政)・ 蜂須賀茂韶・城代(家老職)稲田家一族・蜂須賀家三代有功臣・護国神と、洲本出身の英霊。

徳島の端彦神社より1879(明治12)年に文霊を迎え創建。


拝殿と本殿の間に見えた後ろ姿。

箱入り狛ちゃんに、会いたい。


いえいえ、とんでもない。


いつも応援いただきありがとうございます。洲本八幡神社の境内社の狛犬くん。初めて会ったときはびっくりしました。よーく見ると、いい顔してます。国端彦護国神社の箱入り狛犬くん、私の好きなちびっこ笑顔な子達のような気がします。
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洲本城。東の丸を探検。年代異なる石積と曲輪。

こんにちは。


(クリックで拡大)淡路島の洲本城。上が北側。


今も残る巨大な石積の城を作ったのは


脇坂安治君。

目印は、知恵の輪のマーク(違うよ、輪違い紋だよ)。
発掘調査で洲本城から出土した瓦は、脇坂さんちの輪違い紋のみだとか。


安宅氏時代から武勇名高い淡路水軍を引き継いだ脇坂安治。
水軍をまとめたり、洲本城を作ったり、多忙。

だって戦国時代の真っ最中ですもの。


洲本城の中で、最初に作られたという東の丸。
こんな感じでてくてくしました。

まずは、赤い矢印コース。


東ーの門(画像では途切れてる右端)を入ると


武者溜。


武者溜の周囲を支える石積。


東二の門です。(紫の矢印の示す狭いところ)

ここを通る前に右側の石積に添っててくてく。


一部崩落。

(赤い星印の辺り)

洲本城の東側で第一線となり、本丸を守ります。
高く長く連なる石積は文禄・慶長初期の構築といわれています。


石積を直角に曲げず鈍角になっているものを「シノギ角」といいます。


東の丸の北側の急斜面に築かれた石積。

この奥には、登り石垣がありますが危険なので行きません。

登り石垣。

これは自然石が連なっていたのですが、登り石垣はこのように斜面の上下方向に走っている石積。



斜面をよじ登ってくる敵の横方向の動きを食い止める働きがあります。
異国での戦いで学んだ石垣で、洲本城の他は松山城、彦根城に見られます。


彦根城の登り石垣。

洲本城では、山の高さ140mの本丸から麓まで連なるため、階段状。
登山道を通ると見ることができるとか。宿題。

この辺り、私には面白かったんです。


ぼたもち君がいますの。


三熊山一体が岩山なので、石積の材料には困らなかった事でしょう。


石積くん、満腹だそうです。


上には何があるのか探検たんけん。

(紫の矢印のコース)


東二の門を通りまして。


なんとなーく、石段があったので。


入口。

ここは東の丸の南側と東側を囲む曲輪部分。
周囲は低い土塁?・・・ただの盛り土かしら。

東の丸全体は、小高い地山に作られています。


一段高くなっているのは東の丸。
この曲輪で敵の攻撃を食い止めるのかな。

曲輪を北側へ進むと石積。


角の積み方から、天正年間のものと推定される、洲本城で一番古い石積だとか。

秀吉の淡路・四国攻めの際に安宅氏洲本城は開城。
城主は仙石秀久となり、次に脇坂安治。この頃の構築の石積。


うふふ。おもしろーい。


東の丸内部へ入る階段。

(紫の丸印の辺り)


ここは小高い地山の上。

そして、北側には

見張ったのかな。



★ここの下は崩れているので端っこに近付いてはいけません★


現況はこの高石垣の上。崩れかけていますから。


まず、信長の命令で秀吉が淡路・四国攻めを行った天正年間に東の丸を構築。

信長死後、秀吉晩年の文禄・慶長初期に、地山の補強と防御の為に高石垣を構築。

そんな感じ。


すんません。

(青い矢印のコース)


安宅氏が1526年に洲本城を構築する際に勧進した八王子社。磐座。


八王子社へ下りる八王子木戸という出入口。

正面に見える柵の向こう側は

斜面に添って石積がうねっております。

これが、東の丸の北側になります。入ってみましょ。


東の丸の出入口。


目の前にこの石積。


恐らく二段目。

東の丸の北側を見下ろすと

北側から山を登ってきた敵さんも、いきなり東の丸に着いたらびっくりするでしょうねー。

まずここで食い止めるのかな。


南側に残る石積。
南側にも、曲輪があります。


図面青丸部分。


こんなとこで煮炊きしたのだろうか。

第一、釜にしてはでかいので、これは何かなー。


次に現れたのがこれ。


危なそうなので上がりませんでしたが、ここの向こう側は、さっき見たこれ。


東の丸内部へ入る階段。


洲本城、楽しいです。



ないしょ。


いつも応援いただきありがとうございます。洲本城の東の丸付近は崩落している部分が多いので、散策は自己責任です。今回は真冬の訪問なのでハチやヘビはいなかったのですが、暖かくなったらうじゃうじゃいるので、やめておきましょう。
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洲本城東の丸。水軍を率いる頭領の城

こんにちは。


脇坂安治時代の石積がてんこ盛りの洲本城。



三熊山に最初に築城したのは室町末期の1526年。三好氏の重臣・安宅治興。

熊野水軍の頭領である安宅氏は、由良を拠点として島内八箇所に築城。
そのうちの一つが洲本城。

ポイントは、安宅氏が水軍の頭領であること。

治興→養子・安宅冬康→長男・信康→二男・清康。


安宅氏時代は、石山本願寺と対立する信長側につき、彼等の率いる淡路水軍は毛利水軍とも戦いました。

しかし、織田信長により淡路島攻略の命令が出されると、三好・安宅氏は永らく信長と対立。

松永久秀が信長に討たれると、安宅信康は本拠であった由良城を羽柴秀吉・池田元助らに明け渡し、 洲本城もこれに倣って開城(1581年)。

安宅氏時代は石垣の城ではなく、洲本城が現在の形となるのは、1582年に一瞬だけ入城した仙石秀久と、その後に入った脇坂安治の時代。


脇坂安治は淡路水軍を吸収し、洲本城を水軍の本拠地とします。


この淡路水軍は豊臣水軍の中核となり、北条氏の小田原城攻めで海上封鎖作戦を行い戦果を挙げました。


(クリックで拡大)洲本城概略図

洲本城は三熊山に作られた城。尾根の東西に拡がります。
北側には異国での戦いから学んだ登り石垣が東西に二本あります。

東側の構築物が一番最初に作られたとか。
まず、東端の東ーの門から入ってみます。


洲本から120m程の比高。

おんぶ~っと言いつつ、大手口まで車で来てます。へへ。


武者溜の広場。

ここに洲本城に勤務する武者さんがたむろしていたのかしら。


安宅氏は水軍の頭領。



石垣を増改築した脇坂氏の前に、ここ、三熊山に目をつけた安宅氏。
当然、城からも水軍の動向が見えるようにしたことでしょう。


当時のように樹木を伐採すれば、海が見渡せる位置。


馬屋、という場所からは南側の由良方面も見渡せます。


敵方の攻撃に備える為の城ならば他に適した場所があるでしょうが、淡路水軍を率いるには、ここが最適だったのですね。



いつも応援いただきありがとうございます。洲本城のある三熊山。先端はそのまま海。水軍さん達がこの海を動き回っていたかと思うとわくわくします。
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